2008年7月 2日 (水)

鏡文字

今、テレビ的には「カントリー娘」出身の里田まいが「おバカ」の冠で仕事をしているが、その流れでその所属するハロープロダクションのメンバーもクイズ番組では「おバカポジション」を与えられている感じなのだ。
出す曲、出す曲、大ヒットだったモーニング娘。関連もここまで落ちたか…という感じでもありますが。


美優伝(びゆうでん)、向かって右が岡田さん
200807011その中で、先日ロンブーが司会で年に2回程放送する「一攫千金ヤマワケ」という番組に、ハロプロ(美勇伝)の岡田唯という人が出ていた。
この辺りになるとほとんど曲も聞いた事無いし、顔もなんかTVガイド辺りでチラっと見た事あるかもしれないレベルなのだ。
で、やはり「バカで何も知らないチャラチャラした女子」的な意味合いで出ていたのだが、そこで誰も想像できないほどのファンタジスタ的な解答をしてのけた。

問題は忘れたが、彼女はそこで誤答をして「え〜地球だと思ったのに」と語った。が、その時モニターには彼女がひらがなで書いた『さきゅう』という文字が表示されていた。
みんな驚くというより引く....。誤答という以前に「ち」と「さ」を書き間違えたのだ。
司会だったロンブー敦もその部分に触れることは触れたが、深くまでつっこめずに次の問題へ移っていった。

美優伝(びゆうでん)、向かって右が岡田さん
200807013おそらく、この場面を見た家庭では「里田のバカ解答までは笑って楽しめるが、ここまで行ってしまうと笑うに笑えないぞ」と言うことになっていたかも知れない。
しかし、実はその前の問題の時点でこの岡田唯さんはその「ち→さ」誤答の伏線を出していた。
「本当は左利きだったのに子供の頃右利きで習字をさせられて...」みたいな事を言っているのだ。

実は「ち」を「さ」と書いてしまうのは、いわゆる鏡文字という物で、特にこの2文字のように裏返しても別の字になってしまう文字は子供は間違え易いのですが…。
そして左利きの人も間違えて覚えやすく、さらに子供の頃に左利きを無理に右利きに矯正すると鏡文字を書いてしまうという症例がある。これは脳の中で図形認識が混乱を起こすからだとされているのだ。
だから単純に「おバカすぎて平仮名すらちゃんと書けない」という問題ではない。

鏡文字で有名な人にレオナルド・ダ・ヴィンチがいますが、よく「研究を盗まれないようにワザと鏡文字で文章を書いた」とされていますが、どうやらダ・ヴィンチは左利きで、意識せずに鏡文字を書けたのではないかとされている。
現代の有名人ではトム・クルーズが左利きで、矯正によって右利きで文字を書くようにしているが、そのせいなのか文字が鏡文字に見えてしまうことから、台本を読む専用のスタッフを雇っているそうです。

そんな意味で、そんな鏡文字を書いてしまう彼女に幸あれ。
(鏡文字に見えてしまうので学習困難になりやすいとも聞いたことがある)

| | コメント (1)

2008年6月23日 (月)

食べるなアジサイ

つくば市の飲食店で料理の彩りとして添えられていたアジサイの葉を食べた客8人が食中毒になったという事件が起こった。


20080623なぜ食中毒になったかというと、アジサイの葉やツボミ、根には青酸配糖体という有毒成分が含まれており、これが胃の消化酵素と反応すると、吐き気やめまい、痙攣などを起こして、酷い時は命に関わる事もあるとされている。
実は先週、らぶらじ「2時のうんちく劇場」の中で「雨の季節の雑学」として、こんな話をしている。

☆雨の季節に綺麗な花を咲かせるアジサイ。この時期のイラストとして「アジサイの葉の上にカタツムリがいる」という物を書いてしまいますが、実はアジサイの葉には青酸配糖体という毒素が含まれていて、カタツムリはこの毒素を分解できないのでアジサイの葉を食べる事が出来ず、あまり近寄らないそうです。

ここで出てくる「青酸配糖体」というのを聞いて、アジサイにはそんな怖ろしい毒素が入っているのか!と思う人もいるかと思いますが、実際の事を言えば青酸配糖体は自然界にはそれなりに多い毒素で、有名な「青梅は生のまま食べちゃダメ」「ジャガイモの芽には毒があるよ」と言われるのも同じ毒素が含まれているから。

この手の植物が毒素を蓄える理由は「食べられないように」という事で、カタツムリのように自然界の生き物はそれらを把握しているらしい。
ところが人間ってのは変な動物で、植物がせっかく食べにくくする為に生成している「苦い」という味を喜んだり、毒素まで「滋味がある」とか言って食べちゃうんだから始末に負えない。

しかし、このニュースで茨城県の保健福祉部は「季節料理の彩りのために出したようだが、決して出さないでほしいし、客も食べないでほしい」と呼びかけているんだけど、普通に食事処で出されたら何の疑いもなく食べちゃうよなぁ
というか、自分の場合、サシミにしても本体よりその下のツマをメインに食べちゃうような人なので、確実に人より多く食べて病院に担ぎ込まれてしまう自信があるのだ。
アジサイの葉に毒があるという知識があったとしても、皿の上に乗せられているモノは大丈夫と思っちゃうよなぁ

ちなみに「アジサイ」という名前は「あづる(集まる)」+「真藍(さあい)」と言う意味で、藍色の小さな花が集まっているから「あづさあい」→「あじさい」です。

| | コメント (1)

2008年5月30日 (金)

田口浩正と、芋洗坂係長と、エロマンガ

毎週、金曜日の午前中までに来週分のラジオ原稿を仕上げる。
と言っても、最終的な決定権はディレクターにあるので、単純に放送回数分の原稿って事ではなく、だいたい倍の量をまとめる。
とりあず本日もそれをクリアし、午後からちょいと出かける。


田口浩正(似てなくて御免)
2008053001その出かける間際、テレビで「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに俳優の田口浩正が出ているのを見る。
なんだか体調不良で「熱があるンすよ」という感じの話をしていた。その中で冗談として「もうフラフラで、45度ぐらいある」みたいな事を言っていたのだが、そりゃ無いだろと思いつつ、出かける準備をしていた。
さらに会場の100人の中で1人に該当するアンケートで「では、さすがに45度は無いと思いますが、44度になった事がある人!」と言うことで、なんと該当者が1名居て、田口浩正がストラップを貰っていた。
という所でテレビを消して家を出たのだが、なんか異常にモヤモヤした気分になってしまった。

芋洗坂係長(なんとか似ているか?)
2008053002基本的に体温計で計れる最高温が42度ってのが一般的で、雑学的には体温が41度になると肝臓がやられ、42度以上になると人体を構成している細胞のタンパク質がゆで卵のように変質して固まってしまうと言われている。
だから、会場にいたという44度を経験した人は!と小一時間問いつめたいのだ(田口浩正は熱があるって事で、適当に45度と言っていただけなのだが)
ちなみにこの俳優・田口浩正は元々「テンション」というお笑いコンビ出身で、その元相方は小浦一優と言う人物なんですが、最近「芋洗坂係長」という別名で注目されているあの人でやんす。

しかし、テレビってのは視聴率1%でも何万人もが見ているってワケで、あの瞬間かなりの人数が「ンな温度になるワケないだろ!」とツッコミ、極一部の人が「その程度なんだよ、俺なんかもっと上になった事あるぞ」と根拠もなく負けず嫌いを発揮していたんじゃないかと思うのだ。
テレビのバラエティだとしても信じちゃう人は多いワケで、時々「おいおい」と思う物を見る(自分のこと棚に上げます)

先日、オリコンヒットがどうしたこうしたという番組があり、そこでジュディ・オングの「魅せられて」がレコード大賞を受賞した際のエピソードを上田晋也が喋っていた。
「1979年、西城秀樹さんの『ヤングマン(YMCA)』が大ヒットしていて秀樹さんも自分がレコード大賞を受賞出来るんじゃないかと確信していたんですよ。だから授賞式の際に思わず立ち上がってしまったんですが、次の瞬間にジュディオングさんの名前が呼ばれ、照れ隠しもあってジュディさんをステージまでエスコートしたんです」
と語っていたワケですが、確かにこの年、西城秀樹の『ヤングマン(YMCA)』は大ヒットしていたんですが、レコード大賞の規約で「外国曲はノミネート出来ない」という物があり(実際には明記されていないという説もあるが)、西城秀樹は1979年最大のヒット曲ではなく「勇気があれば」という曲でのノミネートだった。

だから「自分が呼ばれると思って立ち上がった」という話はちょいと無いんじゃないかという感じなのだ。
その時、上田晋也は「これ秀樹さんから実際に聞いた話」と語っていたのですが、そうなると西城秀樹が話を面白くしようとして適当な事を言った、て事かなぁ。
でも、この瞬間テレビを見ていた何万人の記憶にこの話がインプットされちゃったのだ。

と言うことで、その翌日、たまたま回したチャンネルで上田晋也がクイズに答えるというのをやっていたので、ぼーっと見てしまったのだが・・・
雑学の古典的定番というか、エロ好き男子児童の定番ネタがクイズになっていた。
さて、実際にあるのはエロマンガ島、エロビデオ島どっち?(ちょいと正しい設問は忘れたけど)」
で、当然のように上田晋也は「エロマンガ島」と答えたのだが、そこで自信満々に「え〜このエロマンガってのは『熱い風の吹く平原』という意味です」と説明も入れて、会場は「なんでそんな事まで知ってんだよ」と驚いて終わっていた。
う〜む、エロマンガ島はバヌアツ領にある島で(正しくはイロマンゴと発音するらしいですが)、『熱い風の吹く平原』という意味を持っているのはオーストラリアにある「エロマンガ」という町で別の場所なのだ。

ちなみにエロマンガ島の語源は、雑学的には
1774年にクック船長がこの島を見つけた時に現地住民に「この島は何という名前だ?」を島を指指して聞いた際に、住民はその指の先に別の住民がいたので「あれは人間だ」という意味で「エロマンガ(イロマンゴ)」と答えた。
というエピソードが語られる事があるが、それは違うんじゃないか?と言う説もあって、ハッキリ断言できないっす。ネットでは圧倒的に「人間です」が多いんですが。
自分が持っている世界の地理のデータ集に「エロマンガ島」について3ページも解説があるが地名の語源は載っていないし、Wikipediaの該当ページにも語源は記載されていない。(文庫サイズの雑学本2冊では「人間です」の記述は見られるが…)

なにはともあれ、テレビで語られる雑学は一気に何万人もが見ることになるので、気が付いたらそれが定番になってしまう怖さがある。
私は、ラジオで毎日のように雑学を喋っているので、その辺を肝に銘じていかなくてはいけないのだ。

| | コメント (0)

2008年5月25日 (日)

定年と寿命

ここ数年、いわゆる大量退職者を生み出している団塊の世代が「退職後に何か…」という事で、習い事産業がかなり好調らしい。
確かに(流行っているかどうかは別として)あちこちで「○○教室」という看板を見かけるようになり、「最近ソバ打ちをはじめて、それが楽しくて」とか「昔やっていたベンチャーズのコピーバンドを再結成しようと思って」などという60オーバーの方々の声を聞く。


そもそも『団塊の世代』って言葉は堺屋太一が1976年に発表した小説の中から生まれた言葉で、その段階で戦後、大量に生まれた世代(1947〜1949年生まれ)が29〜27歳になっており、社会を動かし始めたタイミングに出てきた言葉と言うことになる。
その時点で言葉の考案者・堺屋太一は41歳。
その段階では「これから社会をぐわぁん!と動かしていく世代」で、ちゃんと高度経済成長期の日本を盛り立てていたワケですが、現時点では「一気に定年退職を迎える世代」になっている。技術畑などマニュアルだけじゃ伝承し切れない細かい技術はどうなっちゃうの? みたいな部分も抱えつつ、それでも退職というシステムの中で色々な事が巻き起こっている。
逆に大学生などはこれまでの就職難が一気に解消されたという利点もあるんだけど。

退職後に習い事に精を出す人もいるけれど、「悠々自適なんて言ってられないよ、まだまだ仕事しなくちゃいかんのだ」という人も多い。
確かに、今の60歳なんて「隠居」というイメージではないので、昔ながらの定年の年齢制限はかなりズレているのでは? とか思ってしまうのだ。

定年という事が近代日本で言われ始めたのは1902年、明治35年の「日本郵船」が一番最初って事で、その時の定年の年齢は55歳だった。
それが現在は、だいたい60歳って事になっているワケですが、この年齢設定はどこから来た物なのだろうか?
実は、この明治30年代ってのは男性の平均寿命は42.8歳、女性の平均寿命が44.3歳って頃なのだ。
今と比べたら乳幼児の死亡率は段違いだったので、単純に平均寿命って事で語れない部分もあるけれど、「定年で辞めてもらうよ」と決められたワケですが、実際には最晩年まで仕事を続ける事が出来るシステムだったのです。

とりあえず自分が地味に構築し続けている著名人の誕生日データで、この1900年頃の著名人の没年齢を拾い出してみる。
黒田清隆 (1900/08/23没:59歳)第2代総理大臣
伊藤圭介 (1901/01/20没:97歳)植物学者
福沢諭吉 (1901/02/03没:66歳)啓蒙思想家
早矢仕有的(1901/02/18没:63歳)丸善創業者
星亨   (1901/06/21没:51歳)政治家
中江兆民 (1901/12/13没:54歳)啓蒙思想家
西郷従道 (1902/07/18没:59歳)軍人・西郷隆盛の弟
長与専斎 (1902/09/08没:64歳)医学者
正岡子規 (1902/09/19没:34歳)俳人
高山樗牛 (1902/12/24没:31歳)評論家
高橋泥舟 (1903/02/13没:67歳)剣術家
古河市兵衛(1903/04/05没:71歳)古河財閥/創始者 
滝廉太郎 (1903/06/29没:23歳)作曲家
市川団十郎(1903/09/13没:64歳)俳優:9代目
尾崎紅葉 (1903/10/30没:34歳)作家
近衛篤麿 (1904/01/02没:40歳)政治家
斎藤緑雨 (1904/04/13没:36歳)作家
小泉八雲 (1904/09/26没:54歳)作家:日本人じゃ無いけど

正岡子規や高山樗牛、滝廉太郎みたいな本当に若くして亡くなった方もいますが、平均すると54歳。これらの著名人はそれなりも医療を受ける事が出来た人が多かったと思うので、当時の一般人よりはちゃんとした状態で亡くなっていると思うんですが、それでも54歳。
つまり、当時、日本郵船が設定した「定年55歳」というのは、かなり一般的な寿命に近かったのでは無いかという事なのだ。

現在の定年60歳では、男性の平均寿命79歳、女性の平均寿命85.8歳までの20年、いったいどーやって生活していけばいいって事なのだ?
実際、自分なんかが爺さんになる時代にはちゃんと年金貰えているかすら怪しい。それだけじゃなく、医療費もその頃はどんな状態になっているか全然予測できないのだ。そう考えると「定年60歳ってどーよ?」と思ってしまうのだ。
掛け捨てのような年金を納めるより、タンス貯金した方がマシなんじゃないか?と思えちゃうような現状では、どーすんの?俺たち、って感じ。

と言いつつ、フリーになってしまった私はそんな時の話よりまず「明日のおまんまの心配」をしなさいって事なのだが。

| | コメント (0)

2008年5月20日 (火)

サインはV

戦争に関する話は難しい問題を幾つも抱えているので、安易に触れるべきではないと思うんだけど、雑学的話題としてよく出てくるネタがどうも違うんじゃないか?という感じなので、書いてみる。


指を二本たてる「Vサイン」を「ピースサイン」と呼ぶのは、チャーチルが戦争が終わった時に「どういう意味ですか?」と記者に聞かれ「これは広島と長崎に落とした2発の原爆によって戦争が終結し世界に平和がもたらされたという意味だ」と答えたという事がキッカケ。
こんな雑学がネットを検索すると、これでもか!というぐらい大量に出てくる。そしてそれについて当然のように怒りのコメントが続いて書かれている。

実はずっと雑学が好きで色々な本を読んできたんだけど、この「Vサインは2発の原爆」という話は数年前まで知らなかった。初めて知ったのがネットに書かれていた物なのだ。
その段階で疑って掛かっていた。どこかにそんな話を書いた本があるのかも知れないけれど、少なくとも自分はそれまで知らなかったという事は、一般的な説ではないのかもしれない。もしそれが事実だとしたら、もっと前から色々な雑学本などでも取り上げているハズなのに……。
そもそもあのサインを「ピースサイン」とか「ピースマーク」とか呼ぶのは日本だけ(現在はそれが海外にまで波及しているらしい:韓国では定着しているとの事)らしく、あれはあくまでも勝利「ビクトリー」の意味でしかない。

そんでもって、チャーチルが群衆に向かって人差し指と中指を立てたサインをした時に「2発の原爆」と言ったとされているんだけど、少なくとも写真に残されているチャーチル初のVサインは1945年4月30日ヒトラーが自決をした事により勝利が確認できた5月8日のこと。つまり、まだこの時点では広島、長崎には原爆は落とされていないのだ。
インタビューの受け答えに関する記事の日付がネットには一切出てこない。そのあたりも怪しい。そして、それ以前から「Vサイン」はそれなりに意味が知られているサインだったらしいので、それの意味をワザワザ問いかける記者の意図もよく分からない。

確かにチャーチルは戦争が終結した時に英下院で「原子爆弾を使用すべきでなかったという意見があるが自分はそうは思わない。日本との戦いにおいてさらに百万の米国人の生命と二十三万の英国人の生命を犠牲に供するよりはむしろ原子爆弾を使用してよかったと思う」という趣旨の事を宣言しているらしいが、それはVサインの事を述べた言葉ではない。インタビューでもないし。
そのチャーチルが語った言葉の内容が正しいか正しくないかは、戦争直後の勝利国の意見としては「そういう物」という感じで、戦争が終わって数年後には「日本に原爆を落としたことは間違いだ、あれが正しいとは思わない」とも述べている。
ついでに言うと、チャーチルがアメリカから知らされていたのは1発だけで、2発目に関しては「予定されていた事と違う」と激怒したとも伝えられている。

どうも、上記の英下院での言葉が勝手に一人歩きをして、大群衆の前で一番最初にVサインを出したチャーチルという事実が結びつき、解りやすい形、ついでに日本人を刺激する形で「Vサインは2発の原爆」という雑学が誕生したんじゃないかと思うのだ。

この原爆に関してはもうひとつ
タバコのラッキーストライクの意味は「広島に落とした原爆」の意味で、あのパッケージは原爆を真上から見た物だ
というガセネタも一時期は広まっていたが(これもネット発祥なのかな?)、ラッキーストライクは原爆投下より半世紀前に発売されていて、ゴールドラッシュの頃、金鉱を発見した時の叫び声だとされ、あのデザインも原爆投下前から使われている物なので、却下なのだ。


| | コメント (2)

2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち/悲惨な戦い

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

| | コメント (7)

2008年4月15日 (火)

上田正樹と有山淳司/俺の借金全部でなんぼや

200804151上田正樹・有山順司「俺の借金全部でなんぼや」
作詞:三上寛
作曲:上田正樹・有山淳司


大阪のシンボル的存在「くいだおれ」が今年7月8日をもって閉店する事が発表された。
くいだおれという店に入った事がない人でも、店頭で愛想を振りまく「くいだおれ人形」だけは知っていると思う。(店の前にある人形と一緒に写真を撮った人は沢山いるけれど、店にまで入った人は少ないのでは...ってそれが閉店の理由だ!)
くいだおれ人形の本名は「くいだおれ太郎」で生年月日は1949年6月8日となっている。これは「くいだおれ」開店日に合わせてある。
が、実際にはこの開店当初は店頭に人形はなく、その翌年の1月に人形が登場してる。

しかも、その時登場した人形は現在の物とは違っていて、ハチマキにハッピを着ている店員スタイルだったという。さらに片手にはホンモノのビールが入ったジョッキをお盆に載せていたという。
そして、その恰好でグルグル回って店をアピールしていたのですが、回転するたびにビールをまき散らしていたという事でリストラの憂き目に遭っている。
そこで登場したのが、現在まで活躍している「くいだおれ太郎」。初代との関係は親子という設定。となると、誕生日が創業日というのはオカシイのでは?と思ってしまうけれど、そんな細かいことは気にしない。(父親は現在、頭部だけが残されているらしい)

このくいだおれ太郎は普段は黒縁丸メガネ、紅白縞模様の洋服に、とんがり帽子というコテコテ大阪人の代表としてガンバっておりますが、折々に衣装チェンジもしている。
世界陸上の時は日本代表のTシャツを着たり、1992年に阪神が優勝争いをしていた時は、その前の時カーネルサンダースが道頓堀にダイブさせられた事もあって「わて、泳げまへんねん」と書かれたプラカードを提示しながら浮き輪と水中眼鏡を装着した。
あと、昭和天皇の大喪の礼の時、白黒のストライプの服を着て店先に立っている。

やはり阪神タイガースのファンという設定で2003年の日本シリーズには福岡ドームへダイエー(現ソフトバンク)の偵察にも出かけている。(服装はタイガースのハッピ)
さらに、野茂英雄の試合観戦にドジャーススタジアムに出かけたり、関西空港開港イベントではアンセット・オーストラリア空港&ルックJTBの招待でオーストラリア旅行もしている。
時々、出張に出かけ「くいだおれ太郎」が不在になった時、次男「くいだおれ次郎」が登場する事になっている。

長男・太郎が太鼓を叩いているのに対し、次男は基本的におめでたい時に登場するのでバンザイをする仕様となっている。(別名:バンザイ人形)
この太郎と次郎の顔つきは同じで、初登場時代に人気だった喜劇俳優「杉狂児」がモデルになっていると言われてる(創業者・山田六郎氏の顔がモデルとも言われている)

さらにこの兄弟にはイトコもいて、くいだおれの裏にあるレストラン「ウラ・くいだおれ」にいる「くいだおれ楽太郎」。世界陸上を見るために帰ってきたという洋行帰りのオシャレさんというキャラクター。
この「くいだおれ」という店は創業者の山田六郎さんが先進的な人で、街頭テレビが話題になった頃、すでに店にはテレビを設置して客寄せに大成功しているし、支店を出さずに家族で経営せよと頑ななポリシーの元に運営されていた。
その一環での店頭人形だったんだろうけれど、今回の閉店に関しては「時代に取り残されてしまった」という事なのかも知れない。

くいだおれ人形というと自分がすぐ思い出してしまうのが上田正樹と有山淳司の「俺の借金全部でなんぼや」という曲。このシングルのジャケットにくいだおれ人形が使われている。
パッと見ると、くいだおれ人形の前で記念撮影をしただけの安易な写真のように見えますが、実際はもっと安易な合成写真。この辺りも「なんかよう分からんが関西ぽいなぁ」という感じなのだ。
「俺の借金全部でなんぼや」を初めて聞いたのは中学の頃だったか? 自分の中で当時、関西人というと「ツルコでおま」の笑福亭鶴光師匠と、あのねのねが基準で、関西系の曲というとミス花子「河内のおっさんの唄」間寛平「開けチューリップ」などもあって、大阪系のブルースもコミックソングの一環で聞いていた訳ですが、改めて聞いてみると渋くていいっすね。(桑名正博のファニカンなどもありましたが)
で、ビックリしちゃうのが、この曲、歌詞の中に上田正樹のバンド「サウストゥサウス」のメンバーの名前が折り込まれていて、延々と金借りた、金貸した、少し返した、という事が歌われていて最終的には「俺の借金全部でなんぼや♪」と繰り返すだけのコテコテな物なんですが、作詞は三上寛なんですな。三上寛と言うバリバリの津軽人が作詞した関西の歌。

ちなみに歌詞の中に登場する人物は以下の通り
お好み焼き屋のゆうちゃん(藤井裕:B)
乾物屋の中西(中西康晴:Key)
アルサロのくんちょう(堤和美:G)
おかまの五郎ちゃん(正木五郎:D)
有山(有山淳司:歌&G)
10年ほど前だったか、ビールのCMで突然クレジットに「クンチョー:青い夏まで待てない」と出ていた時に「あ!アルサロのくんちょう!」とビックリしたことがありますが、それぞれが今でも地道に活動を続けているんですなぁ。
乾物屋の中西こと中西康晴さんはともさかりえのアルバムで弾いていたり、そこここで名前を拝見します。

そんなこんなで、くいだおれ人形の再就職先が検討されている昨今ですが、橋元徹大阪府知事による聖域無き構造改革が実行されようとしている大阪、いったいどこへ行こうとしているのだ? まさに大坂の借金全部でなんぼや? なのだ。

上田正樹の豆知泉

歌手になることを反対されていた上田正樹は「ちょいと風呂行って来るわ」と家族に告げてそのまま家出した。歌手になり、そこそこ名が売れた7年後、恐る恐る家に帰ると、「えらい長い風呂やったなー」と出迎えられた。

上田正樹のニックネームは「キー坊」なのは、先に兄が「マー坊」と呼ばれていたため。

「ネシアアトラスオオカブト」の学名は『Chalcosoma atlas keyboh』、ここに出てくる「keyboh:キーボー」は上田正樹のこと。学名をつけた永井信二が友人の上田正樹のニックネームを付けた。


| | コメント (1)

2008年4月 6日 (日)

富士山99の謎と小林亜星の息子

昔から本屋で「雑学」と名が付いた本はとにかく買っていた。あるいは「雑学的」な物も、若干興味がないジャンルでも「いつか読む」「いつか役に立つかもしれない」という事で買っていた。
ただのサラリーマンで、それが何の役に立つのかわからない時から延々と。
そんでもって、パラパラと立ち読みして「ダメだ、この本はあまりにもダメだ」と思ってしまう内容でも、とりあえず買ってきた。


99そんなこんなで今日本屋で『富士山99の謎(彩図社)』を見つけ、何も考えずに購入。
作者の名前は「小林朝夫」あれ?どっかで見たことがあるような気が…。
と思って、奥付にある作者の略歴を読む。
著者略歴
小林朝夫(こばやし・あさお)
1961年2月16日、小林亜星の次男として東京都杉並区に生まれる。
トップレベルの進学教室にて、御三家志望生徒の国語指導に長年携わり、奇跡の合格率を誇ってきた。「国語の神様」の異名を持つ。
現在、国語に関する教材・著作物の制作と講演を中心に精力的に活動している。
八ヶ岳国語研究所を主宰。
著書に『本当は怖ろしい漢字』(小社刊)がある。


そうか!小林朝夫って小林亜星の息子だ! と言う所で「?」という疑問が出てくる。
自分の記憶の中では「小林朝夫は小林亜星の長男で俳優」という認識だったのだ。
東映のゴレンジャーにはじまる戦隊物5弾『太陽戦隊サンバルカン』で豹朝夫(変身後:バルパンサー)という役を演じ、さらにその父親役としてリアル父親小林亜星が出演している。
この番組が小林朝夫の俳優デビュー作なので、おそらく小林亜星の大いなるバックアップがあったんだろうなぁと思っていた。

この番組が放送された当時、もう見るような年齢じゃなかったので、小林亜星の息子が戦隊物の主役に起用され、その父親役で小林亜星も出ているという話題だけを小耳に挟んでいた。
で、Wikipdiaをチェックすると、1982年12月、役者として尊敬していた岸田森の急逝に強いショックを受けしばらく休業。その後復帰するが1986年を最後に役者として引退してしまったとの事。
その後、奥付に書かれていたように学習塾講師に転身し、実績を積み重ねているとの事。

うむ、人に歴史ありなのだ。

| | コメント (0)

2008年4月 2日 (水)

図書館記念日(の雑学)

日本最初の官立公共図書館で、現在の上野図書館と国立国会図書館の前身の『書籍館』が、東京の湯島、昌平賓講堂に1872(明治5)年04月02日に開設された。
その後『書籍館』は『帝国図書館』と名前を変え、戦後は『上野図書館』と『国立国会図書館』に分けられている。


という事で、4月2日は「図書館の日」となっている。
10年ほど前ぐらいから、時々地元の図書館に通っている。というのも、サイトを開設した直後から、文章を書いていて「あれはいったいどういう事なのだ?」と思うと、調べなくてはいけないのだ!と図書館に行くようになった。
基本的に自分は図書館をリファレンス、いわゆる古い文献などを調べるために利用しているんだけど、中には「本を買わなくても借りればいいじゃん」的に利用している人も多いみたいですが。

基本的に自分は「本を買う時には金を惜しまない」というタイプの人なので、よっぽどの高額書籍以外は何も考えずに買ってしまうので、新刊を図書館で読みたいとは思わないのだ。
本を買う趣味なんて、クルマとかゴルフとかグルメとかに比べたら全然安い趣味だと思っている。(あくまでも個人的価値基準)

気が付くと、サイトで文章を構築する事を初めてから10年、その間に「これって何かの資料になるよな」と本屋で目に付く資料になりそうな物をガンガン購入していた。
気が付いたら、自分の部屋がある種の方向に特化した図書館になっていた。そ〜んなに高価な本とか特殊な本、稀少本などはないけれど、とにかく自分が興味がある範疇で調べたい事はなんとか解決できるレベルに本が増えていた。

とりあえず自分が自由になる空間が10畳&16畳&6畳+αと広いので、そこに18個の本棚を置き、どかどかと本を所蔵してある。と言っても、先ほど書いたように高価な本はあんまりなく、基本が文庫本&新書なので、ありがちな「巨匠の本棚拝見」みたいな企画に出てくるような重厚感はなく、ひたすら「ブックオフの文庫コーナー」の趣なのだ。
それ以外にも庭にあるプレハブの物置の中には、段ボール箱に大量の本をしまい込んでいるので、自分でも本の数は把握できない所まで来ている。

でも、1つだけ自分の中で決めているのは「オタクっぽくならないように」という事なのだ。
18個の本棚がある段階で「何言ってんだ?」状態ですが、いわゆる雑然としている状態が好きとか、ゴチャゴチャした状態が安心できるとか、そーゆーのは好きではないので「機能的でシンプル」を目指しているのだ。
ただ、去年フリーの人になって気がゆるんでしまったのか、年間500冊以上本を購入してしまったので、この先その信条をキープし続けるかは不明なのだ。

で、目下の悩みは、その本のデータベース化という事。文章を書いていて「あ!これってあそこに書いてあったよな」と思った時、その本が即座に探し出せないということ。
先日もとある文章を書いている時に「…このエピソードって確かバルザックも同じような状態だったよな」と思い出したのはいいんだけど、曖昧なまま書くわけにもいかないので、かつて読んだ本を本棚から探し始めた。
記憶ってのはやはりビジュアル的な部分が重要で、頭の中でそのバルザックについて書かれた文章が「1段組の書籍の右ページ4〜5行目に書かれていた」「おそらくその本の真ん中ページより少し前」という漠然としたイメージが残っていたので、それを頼りに関係ありそうな本をパラパラとめくってみる。

コレも違う、アレも違う。と何冊も検索していく。当然、その課程で関係ない文章に心引かれてしまったりもするのだが、探し始めて10数分後「あった!」と発見した。そこに書かれていた内容はおおよそ記憶のままで、文章の位置もおおよそ記憶のままだった。
そんなこんなで「データベース化は急務なのだ」とここで書いていますが、もう10年近く前からそんな事を書いて今に至っているのであります。

図書館がらみの雑学では
図書館の返却延滞記録は1823年にシンシナティ医科大学図書館で貸し出された本が、借りた人物の曾孫によって1968年に返された、145年と言うもの。
という物がある。

この時に貸し出された本はJカリー博士著作『熱病』と言う医学書で、実は借りた本人が死去し、さらに図書館の担当が途中で代わった為にウヤムヤになっていたという事で、ずっとかりっ放しになっていたらしい。
図書館なんかの本を万引きする人も多々いるみたいで、それが「手元に置きたい」という目的なのか「転売して金にしたい」という目的なのか「ただスリルを味わいたい」という目的なのか不明ですが、調べ人としてはウヌヌヌという感じなのだ。
でも「転売」という目的だとしても、図書館の本って基本的に背にがっしり分類シールが貼ってあって、さらに本全体をビニールコーティングしてあるケースもあって、売るのは難しいだろうと思ってしまう。

が、自分が古本屋で購入した某書籍なんかは「あきらかに図書館経由」という感じのシールを剥がした後(そこだけ日焼けしていない)など証拠が残っている物もある。諸事情あるので、それが図書館万引きの末に古本屋にたどり着いたワケでないかも知れないのだが。
古本屋で分厚い年鑑ものの上巻だけを見たこともあるけど、下巻だけになった図書館も困ってしまうだろうな。

という事で、そんな困ってしまうネタとして
ベルギーのカトリック系大学の図書館は宗教問題で大学が2つに分離した時不公平にならないように、本を整理番号の偶数と奇数で分配してしまった。その為、全集などの1.3.5.7巻と2.4.6.8巻が分割され、学生は苦労した。
という物がある。こうなってしまうと「いっその事なら無かった方が良い」となってしまうかも知れない。小説なんかで、1巻を読んでも続きの2巻が無いってのは拷問に等しいのだ。

以前、古本屋でとある小説の文庫本上巻が105円だったので購入した時、かなり面白かったので下巻を探したが、数件の古本屋になく、数件の新刊書店も探し、ついにその本のハードカバー(全1巻)を発見し「うぬぬぬ2500円かぁぁぁぁ!」と悩みつつ購入した事があった。
しかもその後半が拍子抜けするぐらいに御都合主義で面白くなかったというオチもついて。
そんな感じに、飛び飛びの全集ってどうよ?

シンガポール独立時にも、マレーシア大学とシンガポール大学が本を分け合い、同様の事をしてとんでもない事になった。
という事例もある。それまでシンガポール大学はマレーシア大学の分校扱いで、資金をマレーシアが出していたからそうなってしまったんだけど、おそらくそれを決めた人は基本的に本を読まないようなお役所の人なんだろうなあ。

ちなみに過去に書いた図書館とか本に関する雑学

日本の作家の本で一番最初に「全集」と言う言葉が付けられたのは樋口一葉の作品(1897年に博文館刊)

昔、書籍の奥付には作者が1冊づつハンコを押した検印紙が貼られていた。これは勝手に印刷されるのを防止するために福沢諭吉が自著『西洋旅案内』に押印したのが始まり。

書店のPOSシステムの分類では、写真集は「実用書」に分類される。つまりヌードがたくさん載っている本は実用書。

井上ひさしは出身地である山形県川西町に、蔵書7万冊を寄贈して「遅筆堂文庫」という私設図書館を設立した。

しかし自分の所蔵している本は価値がない物が多いので、自分が死んだ後、図書館とかに寄付しても嫌がられるだけだろうなあ

| | コメント (2)

2008年4月 1日 (火)

宝塚少女歌劇デビュー(の雑学)

1914年04月01日に宝塚少女歌劇が宝塚温泉パラダイス劇場で第1回公演を行っている。


演目は桃太郎を歌劇にした「ドンブラコ」と言う物。今の宝塚ではありえないような演目なんですが、当時の宝塚は今のように徹底したエンターテナーとしての劇団ではなく、当時の新聞評では「学芸会に毛が生えたようなもの」という物もあった。が、この宝塚少女歌劇は本格的な演劇じゃない部分が逆に庶民に受け、高尚ぶっている舞台とは縁遠かった一般庶民が家族揃って楽しめると評判になっていた。

当時の箕面有馬電気軌道路線図
20080401map_2そもそも宝塚少女歌劇というのは、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の専務・小林一三が考案した物で、もともと鉄道を大阪梅田から有馬温泉まで繋げる予定でしたが、当時は兵庫県宝塚を終点とする路線でした。それと石橋駅から分岐し、箕面(みのお)へ続く路線もありました。
※お茶の水博士さんよりの指摘で文面を修正し、当時の箕面有馬電気軌道の路線図を作成。
その頃の宝塚も箕面も観光地でもなく住宅地でもなく、この路線を使う人はほんとうに少なかったため「じゃ、宝塚に観光地を作ろうじゃないか」と考えたのが大きな転機となったのです。

武庫川周辺の広大な土地を購入し、1911(明治44)年「宝塚新温泉」を開き、翌1912年に「宝塚パラダイス」という娯楽施設を作っています。
そして、この1912年7月30日、明治天皇崩御により大正時代になっている。
この「宝塚パラダイス」は評判になり1日の来場者が1200人ほどになっていて、同じ年1912年12月から朝日新聞で連載が始まった夏目漱石の「行人」の中でも

「じゃ明日は佐野を誘って宝塚へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰をしてくれるのが苦になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。「青空文庫:夏目漱石行人より」

などと宝塚が登場している。
ところが、この「パラダイス」にあった室内プールが人気が無く、客がほとんど来ない状態だった。
というのも「海水浴」という風習は明治時代から日本でも紹介され、夏目漱石が1905(明治38)年に書いた「吾輩は猫である」の中でも

海水浴の功能はしかく魚に取って顕著である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病即席全快と大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。「青空文庫:夏目漱石吾輩は猫であるより」

と書かれているが、まだ大量に押しかけるような状況ではなかった。さらに室内にあるプールという事で水温が異常に冷たかったという事もあったらしい。

そこで考えたのが、脱衣所があった場所をステージに改造して、プールの水槽部を客席にした劇場だった。と言っても最初から「少女歌劇団」を考えていた訳ではなく、その劇場では「婦人博覧会」「婚礼博覧会」というファッションショーのような物を企画した。

そしてそのショーの合間の間繋ぎとして考案したのが少女たちによる唱歌隊だったのだ。
1913(大正2)年7月1日に16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」は後に増員をして20人になり、名称も「宝塚少女歌劇」と変え、1914年4月1日の初公演「ドンブラコ」に至るのだ。
これが、現在まで続く宝塚歌劇団のスタート地点。
最初は、利用者がいないプールの再利用から企画されたショーの間繋ぎで誕生したのです。

このマイナスだった所からの大逆転を、1970年代にも宝塚歌劇団は経験している。
1961年頃、戦後復興から始まった高度経済成長が一段落して、政府までもがレジャーを推進し始めていた。1961年のメーデーにも「本格的レジャーよ、やってこい」というプラカードが登場するほど、勤勉もいいけどもっと余暇を楽しもう!という風潮が広がっていった。さらにTVがどの家庭にも入り込んだこの時代、映画産業の衰退が叫ばれていたのと同時に、演劇関係も客足が遠のき始めていた。

そんな風潮の中、宝塚は逆に「古い娯楽」として徐々に客足を落としていった。そんな中、俳優・長谷川一夫が演出する事となり「なにか洋物芝居の演出をやりたい」と提案から、当時少女漫画で人気があった「ベルサイユのばら」の舞台化はどうだ?という事であの超有名な舞台が始まっている。

もっともすでに熱狂的ファンの多かった漫画なので「べたべたの日本人が演じると原作のイメージを壊す」と脅迫状もあったというが、長谷川一夫は歌舞伎の演出「型」の導入や、洋物芝居として八頭身に見える衣装デザインなど、それまでの宝塚演出を作り替えていく。
戦いのシーンはそれまでは横向きに敵と対峙していた物を、主役が客席に向かって演技させ、照明で表情を変化させ、さらに顔の動かし方まで型として指導し(二階から一階に目線をおろし、いの26番の席を見つめろ)少女漫画にあった瞳の星を意識させたり、すべて観客本位での演出を手がけた。

長谷川一夫は照明について徹底的に研究した人物で、所属映画会社の移籍に伴ったもめ事で顔を切られてしまった過去があり、顔に傷がある。その傷が舞台上で目立たないようにする演出として照明を研究していた。実は、長谷川一夫と宝塚歌劇団の繋がりはこの事件も関係している。
役者として致命的な顔に傷を負った長谷川一夫を支援して、映画復帰作「藤十郎の恋」を準備してくれたのが宝塚の社長という事で、多大な恩義を感じていたのだ。(長谷川一夫という名前はその移籍後からで、それ以前は林長二郎/東宝という映画会社は東京宝塚の略)

その原作の人気と、長谷川一夫の大胆な演出とで大ヒット上演となり記録的動員を集め(初年度15万人)、当時のトップスター鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨の名前も有名になり、現在に続くような安定したブームとなっていく事になった。
舞台という娯楽の衰退期に、長谷川一夫という舞台を知り尽くした演出家と、大人気漫画原作で乗り切った宝塚なのだ。
って、最近のテレビドラマの原作ってのも、衰退期ゆえの事なのかなぁ


宝塚の雑学
宝塚歌劇団の定年は60歳。ただし「結婚したら退団しなければならない」という規則もあるので実際にはそれ以前にやめてしまうケースがほとんど。
手塚治虫の『リボンの騎士』ヒロインのサファイアのモデルは宝塚歌劇団の当時のトップスター淡島千景。
『リボンの騎士』はもともと兵庫県出身の手塚治虫が宝塚を意識して書いた作品で作中にミュージカル的なシーンも多く出てくる。
宝塚歌劇団では「鼻の頭を指で強く押して凹んだら非処女」という噂がささやかれている。
宝塚歌劇団の「寿つかさ」の実家は六本木にある寿司屋。芸名はそこから「寿(ことぶき)司(つかさ)」として付けられた。そのため、劇団内でのニックネームは「すっしぃ」。
ついでに
ミーハーという言葉は昭和初期に作られた言葉で、当時の女性に多かった「みよちゃん・はなちゃん」から来ているから、と言われるが別の説もある。
当時の若い女性が飛びつく物で「蜜豆」と「林長二郎(後の長谷川一夫)」から来ているという説もある。
ついでに他の説も
聞きかじりの英語で「ボクの彼女」というつもりで「Me her」と語るもの知らずの若者を、指す言葉。
芸能雑誌の「明星」「平凡」ばかり読んでいる軽薄なやつ、という意味で、明星のM、平凡のHからミーハーと呼ばれるようになった。

| | コメント (6)

2008年3月 3日 (月)

円谷幸吉の選択肢

ちょうど40年前、円谷幸吉という長距離ランナーが自らの命を絶った。


20080303011964年の東京オリンピックの最終日、国立競技場にてゴール200m前でイギリスのヒートリーに追い抜かれながらも銅メダルをつかみ取った円谷だが、「次は金」という国揚げての期待に押しつぶされた。(銀のヒートリーとは僅か3秒差)
1968年、メキシコ五輪を半年後に控えた1月8日。埼玉県朝霞市の自衛隊体育学校宿舎の自室で、右首の動脈にカミソリをあてた。その時円谷は首から東京オリンピックで獲得した銅メダルを下げていたという。

円谷には長年付き合い婚約までした女性がいたのだが「オリンピックに集中するように」という自衛隊上官の強い反対で結婚どころか交際まで禁止された。その結果、相手女性はそれまでプレゼントされた想い出の品をすべて円谷家玄関に置き、別の男性のもとへと嫁いでいった。
その件で円谷と苦楽を共にしてきたコーチが上官に抗議したが、逆にコーチは理不尽な転勤を言い渡され円谷の元を離れていくこととなったという。
円谷には金を取るという選択肢しか残されていなかった。

その時に書き残した遺書はあまりにも淡々としており、川端康成も「美しくて、まことで、かなしいひびき」のある文章として哀悼の意を表している。
川端は同年ノーベル文学賞を受賞しているが、1970に師弟関係にある三島由紀夫の自決を経、1972年に自らガス自殺をしている。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

円谷幸吉を取り巻く環境は想像も出来ない過酷な物だと思うが、遺書ではその事に一切触れていない。追いつめた人への恨みや、去っていった人への言葉もなく、感謝の気持ちと謝罪と、ささやかな「両親と一緒に暮らしたかった」という願いだけが綴られている。
コクヨの便せんに万年筆で書かれた遺書は2通あり、1つが上記の家族に宛てた物。もう一つは体育学校関係者へ宛てた物ですが、そちらにも謝罪しか書かれていないそうです。

どんなに凄い選手でも、限界という物は避けられず、いつか引退しなくてはいけない物なのだ。周囲がどんな事を言っても本人がそれを一番自覚しているんだろう。
円谷幸吉はわずか27歳で自らの限界を感じ、それに応えられないプレッシャーの中、メキシコ五輪の選考を直前に控えての決断をした。
自ら死を選ぶことには全然共感できないけれど、色々な事を考えてしまう。

2008030302ということを、北京五輪マラソンの選考大会となる9日名古屋大会い挑む高橋尚子の「あきらめなければ夢はかなう。そのメッセージを見ている人に伝えたい」というインタビューを見て思い出してしまった。
チャレンジし続ける事は素晴らしいと思う。
その反面、単純に「凄かった時代だけを記憶に残しておきたい」という相反する、無責任な感想も持ってしまうのだ。
努力しても現実はついてこない事の方が多い。夢が叶うほうが少ない。その現実を見つめる勇気も必要なのだ。

遺書に書かれている「三日とろろ」というのは円谷の出身地、福島県須賀川にある正月3日にとろろを食べる風習。

「円谷」という苗字は須賀川市には多く、特撮の神様・円谷英二も福島県須賀川市出身。

「円谷」という苗字の読みは「つぶらや」と「つむらや」の二種類あり、円谷幸吉・円谷英二ともに正しい読みは「つむらや」

「つぶらや」と読まれる事が多いために、円谷幸吉は陸連への登録は「つぶらや」にしており、オリンピックの電光掲示板でも「TSUBURAYA」になっていた。


(3月10日追記)
高橋尚子のチャレンジは検討空しく、になってしまった。
昨今の「努力すれば夢は叶う」は宗教のような甘い言葉として使われすぎて、人々を追い込む呪文のようになっているのが、ちょっと怖いと思う今日この頃なのだ。

| | コメント (3)

2008年3月 1日 (土)

石の上にも10年。

1998年3月1日
今からちょうど10年前、インターネット上に自分が降り立ちました。


世間ではまだ「インターネット? 何それ?」という疑問符で語られ、一部の人には「無修正の画像見放題なんでしょ?」とエロ系偏見的興味本位だけで語られているような時代。
そして接続方法はまだ「電話回線」で、11時から始まるテレホタイムに繋ぐために帰宅後すぐ寝て、夜中1時2時に起きて出勤までの時間に必死にサイトを構築する日々を送っていた。
そんなサイト「知泉」が遂に10周年を迎えました。
と言いつつ、現在サイト本体の方は「知泉Wiki」や「知誕Wiki」に移行して、誕生日データ以外はほとんど放置状態(管理はしてますが)になっていて、メイン活動はブログになっています。

自分がサイトを始めた理由は、色々複雑な事情もあったんですが、1番の理由は「精神的に煮詰まっていた」というのが大きかったのかもしれない。
1998年当時はバブル崩壊後のどうしようもない空気が世の中に満ちあふれていて、下っ端サラリーマンは「いつ辞めてもいいよ」的なヘビーな仕事を与えられ、日々疲弊しながら闘っていたのです(今も世の中の状況は変わらないか)。
そんな中、どんどん自分の中で「いかん、いかん」という思いが膨れあがり、その結果として「もぉ何でもいいから発信するのだ!」という事でサイトが始まってしまったのです。
自分の意志もあったのですが、どうしようもない思いに突き動かされたという感じでしょうか。

そのスタート時から雑学は1つの柱でしたが、メインは「お笑い系サイト」という事で、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞書』を思いっきりネタ的な方向に絞り込んだお笑い辞書『現代用語の基礎的じゃない知識』という物をやっておりました(略称「現基ない:げんきない」)。
実はそのお笑い辞書はそれ以前、パソコン通信時代に友人の主催する場所でダラダラと続けていた物を再編集した物がベースになっています。
それ故に、一番最初にメルマガとして発行していたのは「雑学」ではなくそっち方面でした。毎週水曜日発行で毎号10個の新項目を発表するという形で続けていたんですが、1年ほど無事に発行した後、色々あってソッチの方は尻つぼみに終わってしまいました。
でもって同時期に発行していた雑学メルマガ「知泉」が面白くて、そっち中心になり、今に至っているワケです。

サイトとかメルマガを読んでいる人には「無料のメルマガなのに色々調べたりしていてヒマなんですね」みたいな事を書かれた事もあるんですが、実情は全然違っていました。
とにかくヘビーな会社員で、休日出勤当たり前、日々ボロボロになりつつ、「でも会社の往復だけだとダメになる」とサイト&メルマガのために日曜日は図書館通いをしていました。
日々の生活の中でも本をじっくり読む時間を絞りだせず、わずかに出来る時間ということでトイレ、風呂も必ず本持参。それでも禁断症状が出た時は、通勤の自動車の中、赤信号のわずかな時間でも(信号が変わるのを意識しながら)本を読んだり、とにかくメルマガで書く雑学ネタを構築しようとする日々でした。読んでいる時間もあまりないけど毎週大量の雑誌も買っていた。
それがちょうど10年間。
結局、2年程前から仕事の重さと自分の精神とのバランスがおかしくなって、体調不良や鬱状態になり入退院、休職を経て、切羽詰まったあげく「フリーな人になるのだ!」と後先考えられずに今の状態になってしまったのです。
サイトを始めた時のどうしようもない突き動かされ方と変わっていないのだ。

10年前にサイトを始めた時に、こんな事になるとは思っていなかったけど、それでもその間に自分の念願だった「本を出す」ということを3回も経験しているので、よしよしって事なのかもしれない。
インターネットの世界で10年続いているってのは、歴史あるサイトの部類に入るのかもしれないけれど、まだまだ勉強し続けていかなくてはいけないのだ。
今後もよろしくお願いします。

10年前の雑学

10年前、まだインターネットは一般的ではなかったが(雑誌、新聞では話題としてよく取り上げられていたけど)1996年の段階ですでに桃屋のCMでは、平賀源内に扮したアニメの三木のり平がパソコンをいじりつつ五目寿司を食べながら「これはイイタネっと」とインターネット絡みの駄洒落を言っている。

1998年1月6日:コペンハーゲンの人魚像の首が切断される事件が発生してるが、犯人は第一発見者のカメラマンだった。その人魚像には足がある。あれは人魚から人間へ変わる瞬間を表現した像なので。

1998年2月3日:朝日新聞の家庭欄で「何でもマヨネーズをつけて食べる人が増えている、これを『マヨラー』と呼ぶ」と紹介されているのが、マヨラーという言葉が活字になった元祖。

1998年5月6日:自由に自動車のナンバーが選べる制度が発足しているが、それよりずっと昔、高島忠夫と寿美花代が新婚時代にマーク2のCMをしていた事から、会社からの寄贈された自動車のナンバープレートは「す・3874」という、語呂合わせナンバー「す・みはなよ」になっていた。

さまぁ〜ずはかつて「バカルディ」と名乗っていたのは有名な話だが、実は1998年7月「ヤリリン・クリリン」と言う別名義で金融業プロミスのCM曲「ヤリー BE GOOD!」をリリースしている。

という事ですが、10年サイトを続けてきて判明したことは「人間の基本的な部分は成長できないんだなぁ」という事。これから先の10年も姑息に当たり障りのない処世術を発揮して頑張ります。

| | コメント (3)

2008年2月29日 (金)

占い禁止

公共の電波を使って「あなた、アタシの言うこと聞かないと死ぬわよ」と恐喝・恫喝を繰り返す婆さんの番組がこの3月で2本終わるらしい。


嫌いなので番組を見ていないため、最近はどんな状態になっていたかは全然知らないのですが、よかったよかった。
その婆さんって、たかが占い師なのになぜあそこまで偉そうなのか不明だけど、もしかしたら他人の未来が見えて、それに対して進言することで自由に操れる事から、自分が万物の神だと勘違いしているのかなぁ。
もっとも「占い師」のハズなのに、ある時から「あなたの後には白いヘビが見える」などと霊能力者になっていたので、何をやりたいのかよく解らない人でもあるのだ。

以前、チラっと見た時には何故か複数の若い着物のお姉ちゃん達を集めて、和風の作法とかをレクチャーしていた。その婆さんは嫌いだが若いお姉ちゃんに引きつけられしばらく見てしまったワケですが。
そこであまりにも礼儀作法を知らない女子達に暴言を吐きながら「違うの!こうするの!」とヒステリックにドタドタとやっていた。
それを見た瞬間に「この人は占いという根拠の無い物を振りかざすだけじゃなく、基本的な礼儀作法も知らないのに礼儀作法について語るのか」と呆れてチャンネルを変えてしまった。
なんせ、彼女は並べてある座布団の上を平気でドタドタ踏み散らして歩いていたんですぜ。礼儀作法以前のやっちゃいけない事だよ、それは。

ブームになる直前はレギュラーではなく、単発で何度もスペシャル番組が作られていた。
今から4年ほど前でしょうか、その2時間スペシャル番組があって、当時「うんちく王」として売出し中だったくりーむしちゅーが出演していた。
自分はとある理由でくりーむしちゅー上田晋也に注目していたので、その婆さんではなく上田興味で番組を見た。
そこで婆さんに「あなたたちグループ名を『グリーン&ピンク』変えないとすぐに解散するよ」とか言われてましたが、海砂利水魚からくりーむしちゅーに改名したお陰で売れ始めたのでそれは拒否。

そこで当時くりーむ上田は出る番組出る番組、とにかく蘊蓄を求められていたので「占い」に関した雑学を披露した。
☆ルネッサンス期の教会はオカルトや占いを罪悪視していた。しかし実はローマ法王の戴冠式はこっそりと占星術で日取りを決めました!
と、言った所でいきなり婆さんが「占いを罪悪視した歴史なんて世界中探してもどこにもありません、あなた間違った事を平気で言って恥ずかしくないの?もっと勉強してきなさい!」と怒鳴りはじめたのだ。
そこで上田は「すっすいません」と平身低頭謝ってその場を切り抜けた。

でも実際に、歴史の中で占いなどが罪悪視され禁止されたってのは幾つもある。
ベトナムでは現在、原則として占いをはじめ、超能力、UFO、幽霊等、いわゆる非科学的な物は禁止されている。もっとも、実際には抑止力は働かず、人々は伝統的に占いなどを信じているらしいけど。
中国共産党は占いはギリギリセーフなのかもしれないけど、オカルトを始めとしてオバケなどの非現実的な事を信じる事を禁止している。そのため、中国人でも若い世代はキョンシーなどを知らないと言われている。
あくまでも「らしい」という人づての話ですが。

実は、日本でも「占い禁止」とされた時代があって、1938年生まれのその婆さんもリアルタイムで知っている戦時中に「占い禁止」は出ている。
1941年5月31日、内務省検閲課が出したおふれの中には「迷信暦発売禁止」という物がある。
いわゆる古くから慣習として伝わっている大安・仏滅・友引など六曜が書かれている「日の縁起」や、一白水星・二黒土星などの九星が書かれているカレンダーは発売しちゃいかん。そんな人々を惑わすような事が書かれているカレンダーはいかん!となったワケです。
これ以降は、神宮神部署が発行する「神宮暦」を標準としたカレンダーがすべての基準となって、運勢だとか相性だとかは一切許可せず!となってしまったワケです。
これは終戦の1945年8月まで続いているので、婆さんが7歳の時まで「日本で占いが禁止されていた」のだ。

何はともあれ、アノ手の番組が終わることでめでたいのだ。
(オカルトとか非科学的な物は別に否定しません。あくまでも娯楽、エンターテインメントとして楽しめるから。それに対して占いとかスピリチュアルとかを真剣にやっちゃう事に関しては怖いなぁと思っている)

| | コメント (2)

2008年2月27日 (水)

アイドルと在学中の芸能活動と退学

小泉麻耶というアイドルが高校在学中に芸能活動(2006年07月写真集発売)をしたことで、2006年10月に退学になり、それを訴えていたという事件が報道されていた。


2008022801kobayasi結果としては学校側の規則に「在学中の芸能活動は禁止」みたいなのがあった物を無視して活動を続けたので、退学処分は妥当なものという事で、訴えを棄却したとの事。
そりゃ、学校の方針がそうなっているんだからその学校にいる間はそれに従わなくちゃダメだろと思う。
2006年11月に「見た目で判断するな」という文章でも書いたんだけど、そういう規則の学校なんだからそれは従わなくちゃいけないと思うのだ。その学校を選んだ時点でそれに同意していると言う事なんだから。

で、その学校の名前を聞いてびっくりしてしまった。「桐朋学園」だそうで、自分はてっきりこの学校は芸能科みたいな物があるんだと思いこんでいた。
というのも、ずっと誕生日データベース「知誕-ちたん-」というのを構築していて(現在6万7154人登録)その中で「桐朋学園」という出身校を見かける。高校だけじゃなく大学なんかも出身者が多いのだが、現時点で桐朋学園がらみでは116人が卒業生という事になっているので、堀越学園や日の出女子に継いで「芸能コースに力でも入れているのか」と思っていた。
しかし「在学中の芸能活動は禁止」って事なんですが。ふ〜ん。

2008022802makiseこの手の芸能活動禁止って学校も時々あるみたいで、その関係もあって高校時代にデビューするアイドルなんかは「中退」だったり「編入」というのが多い。
かつて女優の牧瀬里穂がデビューした時「プロフィール欄には『本名も牧瀬里穂』って書いてあるけど、本当は青柳真理子が本名なんだぜ」「え〜なんかダサいな」という会話がごく一部で流れていた。
これも「在学中は芸能活動はダメ」というのが関係している。

牧瀬里穂は九州の名門「福岡女学院高校」に通っていた2年生の時に芸能事務所のオーディションを受けている。ところが高校が「芸能活動一切禁止」という事になっていたので、芸名として「青柳真理子」という名前でオーディションを受け合格している。
その後、活動を本格的にするために東京へ出て文化学院高等部英語科に編入したので本名での芸能活動に支障が亡くなったということで、晴れて牧瀬里穂という本名での活動となったのだ。

という所で「地元にいた時は青柳真理子だったのに、東京に出た途端に牧瀬里穂になったので、プロフィールに本名とか書いてるけど牧瀬里穂ってのは芸名だぜ」という噂が立ってしまったのだ。
たしかに「牧瀬里穂」ってのは出来すぎた名前だと思う。

ついでに数年前に、はなわが「佐賀県」という曲でブレイクした時、初期の歌詞には「牧瀬里穂も佐賀、公表してない」みたいな物があった。これも小中学時代に佐賀県の学校にいたための誤解で、生まれは福岡県、幼稚園は鹿児島県、小中が佐賀県、そして高校時代は福岡県なのではなわの間違いだったのだ(だから途中からこの歌詞は歌わなくなった)

2008022803mizutaという事で、最初の「在学中の芸能活動禁止」という話に戻りますが、その手の話は色々あって芸能活動を優先して中退というパターンか、編入というのが多くのパターン。
古い話では大正時代の新派女優・水谷八重子でも同じようなものがあった。

水谷八重子は父が亡くなった後、母と共に長姉の結婚相手・水谷竹紫の家に住んでいたワケですが、この竹紫というのが島村抱月と松井須磨子の設立した芸術座の理事をしていて、その関係で八重子も小学校の時から子役として舞台に立つようになったのです。
その後、舞台にポツポツと出ていたのですが、進学した女子校が規律のやかましいミッションスクールの雙葉高等女学校が「なるべく舞台などの活動は慎むように」と指導していたワケですが、時代は舞台から映画に移行しており、映画会社がキャリアのある若手女優・水谷八重子に目をつけ出演を決定したのです。

2008022804当然、学校の許可が出ないという事で水谷八重子という名前で出る事は難しいとなったのですが、普通だったそこでまったく別の芸名を考えればいいのに、なぜか「本当の名前は誰もしらない謎の女優」という事で『覆面令嬢』という名前で表記しての出演となった。
ということで逆に「あの映画に出ている若い女優はいったい誰だ?」と話題になってしまい、そのために雙葉高等女学校でも問題視して「退学だ!」と騒ぎ立てる事となってしまった。
その時は、義兄の水谷竹紫が必死に説得しなんとか退学を免れたという事件があった。
という事をぼけーっと思い出した。

2008022805ちなみに水谷竹紫が理事をしていた芸術座というと、創設者の島村抱月がスペイン風邪で1918年11月5日亡くなり、不倫愛を続けていた女優・松井須磨子がちょうど2ヶ月後の1月5日に後追い自殺をした。
という事になっていますが、実際にはもうちょっと複雑な話らしい。
松井須磨子が自殺した直後、島田抱月の正妻は「彼女からは芝居を見に来いと言われておりまして、自殺した前夜は娘二人がカルメンを見に行ってましたが別段変わった様子もなかったので、後追いではないでしょう」と述べている。

実は、抱月が死去した後の芸術座にはスポンサーとして松竹が入っていたのだが、舞台カルメンには抱月の残した演出ではなく松竹の意見が多く取り入れられたという。

2008022806matuiそのために、須磨子は松竹の社長に抱月の演出に戻して欲しいと懇願しているのだが「無理だ」と断られ、そこで「どうせ私の意見なんて通らないのね」と捨てぜりふを残した晩に自殺をしている。
単純に島田抱月が亡くなった事を悲観しての自殺ではなかったんじゃないかという事なのだ、そしてこの発作的自殺に関しては、自殺当日、須磨子は生理だったのでは? とも言われている。自殺に使った踏み台にその痕跡が残っていたらしい。

と、相変わらず最初の話とはまったく関係ない話で終わるのであった。

| | コメント (1)

2008年2月23日 (土)

いせこむ

以前なら、目を血走らせながらうがぁぁぁ!と怒濤のサラリーマン的作業をしていた時間帯、現在は気を抜こうと思えばいくらでも抜けてしまう朝のひととき、朝のニュース番組をチェックしてそのままテレビを付けっぱなしにして、気が付くと10時台のモーニングショーが終わる時間になっている事がある。


もっと規則的に、ビシッとしなくちゃいかん、ダレようと思えばいくらでも出来てしまうのだ。
と思う頃、変なCMがテレビから流れてくる。
野際陽子がやっている「セレア」という女性用カツラ(というかウィッグ)のCMなのだが、その中で「イセコミフィット」という言葉が使われてる。
何気に耳にしていただけで、ただの商品名だと思っていたんだけど、その中で野際陽子が「ほぉら、こんな簡単にいせこむ事が出来るのよ」などと言っていたのだ。
「いせこむ事?」
まったく説明もなく、当たり前の言葉のように「いせこむ事」と言っているのだが、自分の頭の中にこんな言葉は存在していなかった。普通にテレビを見ている(時間帯と番組内容から普通の主婦が見る時間帯かと)人々にはこのCMは効果的に、すべての文言が頭の中に入り込んでいるのだろうか?

とりあえず解らない言葉があったら広辞苑! ……無い。載っていない。(第二版&第四版)
が、どうやら最近の版では載っているらしい(って新しいの買いなさい→俺)
でもって「いせこむ」というのは「いせる」が元になって出来た言葉らしい事が判明。
そっちは第四版にも載っていた。
い-せる〔他下一〕(寄セルの転とも、イは接頭語でセルは「迫る」の意とも)
1.いせの方法で縫う。→いせ(縮縫)。
2.海波が激しく立つ。(和訓栞)

でもって「いせ」とは
いせ【縮縫】(動詞イセルの連用形から)
1.平面の布を立体的に仕立てるために、表面には見えないようにこまかく縫いちぢめる方法。袖山(そでやま)や、たびの爪先などに用いる。いせこみ。
2.網地を浮子網(うきづな)などにつけて漁具を作る際、網目をひろげるため網地より短い網やわくをつけるが、このときの網地の長さと綱の長さとの差をいう。いせが大きいほど網は横に大きくひろがる。よせ。いさり。かきこみ。

となっている。

どうやら「いせこむ」という言葉は、裁縫などの用語としてソッチ方面の人にはお馴染みなのではないか? という感じで、今回の「いせこみフィット」というのは頭の形に合わせた状態で立体的に仕上げた「縮緬仕立て」という感じなんでしょうかね。
なんとなく解ったわけでありますが、ここで使われた「いせこむ」という言葉が、何の説明もなく使われる一般的な言葉なのか、メーカーがターゲットにしている層の方々には解るような言葉なのか、不明なのだが意味は理解出来たのだ。

では、記念に一枚「せ.れ.あ!」


| | コメント (1)

2008年2月18日 (月)

ぶらり東海道の旅

ぶらり東海道の旅(1) スタート
だから自分がやりたいのは「文章を書く仕事だってば」とここで宣言しているワケですが、本日はとんでもない仕事を任されてしまった。
去年末&新年にラジオ「らぶらじ」で他県から通っている二人のパーソナリティに対して「どれだけ静岡を知っているか」という『第一回らぶらじ静岡検定』という物を行いまして、その結果、敗者となった杉原徹(てつさん)が静岡東の玄関口・熱海駅から東海道線各駅停車の旅に出る事になりました。しかもサイコロで出た目のまま進み、そこで指令をクリアするという物。
その実行日が2月18日。


2008021801
最初の話では静岡県の端っこの駅からスタートして、らぶらじの放送時間、約3時間の間にスタジオにたどり着くという話だったのですが、いつの間にか「端っこから端っこまで」という事で、浜名湖を越えた新所原駅まで行くことになっていたワケです。
とんでもないなぁ
と思っていたのですが、さらにとんでもない事になってしまった。
いきなりディレクターより指令が下され「てつさん1人では可哀想なので、杉村さんも同行するという事で」と。
えぇぇぇ!これって罰ゲームじゃなかったの? 問題を作った人までなぜ罰ゲーム参加なの?
と思ったワケですが、とりあえず「何でも首突っ込んでみるか」と、その話に乗ったワケです。

で、この罰ゲームなんですが、本来「らぶらじ」という午後1時〜3時50分までの番組内の企画だったのが時間内に収まらないという事から、午前中の「とれたてワイド」「ほのぼのワイド」という番組も巻き込み、さらに「らぶらじ」の後の「夕焼けワイド」まで巻き込んだ、約8時間に渡る壮大な罰ゲームになってしまったのです。
そんなワケでてつさんは朝8時前に熱海駅に到着し、そこから中継。
この中継というのも、スタッフは一切同行せず携帯電話からの中継という事なのだ、さすが機動力のラジオ。しかし、マジにスタッフは一切接触せず、スタートラインでの打合せとかもなく「何が何だか」状態でスタート。

実はこのスタート地点に杉村は登場せず、「杉村さんはらぶらじの始まる1時から合流という形で」と指令を受けていたワケです。
この合流もてつさんには知らされておらず、中継中にいきなり登場して驚かせるという企画だそうで…。ってこの合流場所にもスタッフは来ていなくて、電話で命令されるままに動かされる杉村だったのだ。
しかも、杉村が参加するって事で「サイコロの目で進んだ駅で、毎回ひとこと雑学を」という無茶な指令が下されていたのです。思いっきりこれって罰ゲームじゃないの?
大きな駅だったらそれなりの雑学はあるんですが、極々小さい駅や新設の駅なんてどう転がしても雑学が出てこない駅もあって…。
ハッキリ言って、すべての駅に関して一言づつ雑学を調べ上げるのは通常の雑学より時間が掛かって数日それでのたうち回っておりました。
あくまでも雑学を要求されているので「この駅舎は19XX年に完成して、現在一日の乗降客数は…」などというデータ的な事を言っても意味無いので、難しい。


ぶらり東海道の旅(2) 草薙駅編

という事でその雑学を抱え、12時30分の中継で「次の駅は草薙駅」という行き先が決定したので先回りして草薙駅のホームが見渡せる場所で待機。
1時5分に草薙駅に降り立ったてつさんを確認、改札を出る所をチェックするため、改札脇のキヨスクに潜みガラス越しにその姿を見守る。


改札を出てリスナーと記念撮影するてつさん
2008021802この草薙駅での指令は『考える犬と写真を撮り、らぶらじリスナーを探すべし』だったのですが、てつさんが改札を出た直後、ラジオを聞いて駅に駆けつけたリスナーさんと遭遇し、そこで記念撮影を始める。
その姿を、キヨスクの雑誌ラックの陰からこっそり写真に納め、さらにどう動くかを監視。もし「考える犬」の像を探すためにキヨスクに聞きにきたらアウトなのだ。
と、言う所で監視をしている自分がじっとりと視線を感じてふりむくと、そこにはキヨスクのおばちゃんが2人
「あ、今ですねSBSラジオの企画で「尾行をしよう」という物がありまして、それを…」とその場しのぎで適当な事を言って監視を続行。とりあえずカバンの中からラジオのアンテナが飛び出していたので、それらしく見えたのか納得をしてもらえたハズ(たぶん)。
てつさんは数人のリスナーと「考える犬」方面へ歩いていく。
その正面ではない場所へ大回りして移動。

1時17分、イヤホンで聴いているラジオの中では中継が繋がり、「考える犬」の像の前からてつさんが「はい、草薙駅につきまして、そこでリスナーに囲まれました」などと現状報告を始める。
それに気付かれないように、中継場所が見渡せるバス停脇の案内地図からこっそりと出る機会を窺う。
中継では、集まってくれたリスナーへのインタビューからその像の由来へと話題が移ってくる。その時、自分は右耳ではラジオの中継を聞きつつ、左耳は携帯電話でスタジオからの指令を待っていた。
「杉村さん、てつさんに気付かれないように近づいて」と指令がでるが、てつさんの後側に回り込むことが出来ないので、中継に必死になっているてつさんの前方を携帯電話で会話をしながら(顔をなるべく隠して)通り過ぎ、そこから近寄る。
とりあえず今までてつさんに逢った時と違うタイプの服をと考えて「受験生のようなイメージ」でダッフルコートとマフラー、そしていつもはかけていない黒フチのメガネでプチ変装だったためか気付かれずに近づく事に成功。

実はてつさんの肩を叩いた瞬間、滝口順平氏の声真似で「おやおや、誰かと思ったらてつさんじゃあ〜りませんか」とやったハズだったのだ、その段階では自分の携帯電話のボリュームが絞ってあったために放送にはその声が乗っていなかった。残念(オンエアを録音した物を聞き直すと、うっすらてつさんのマイクが拾っている)。
てつさんが「ああぁぁぁ!誰かと思えば」と驚いてくれたのですが、そこはプロ、一瞬にして持ち直して「え〜たった今、ここに番組のヘビーリスナーの方が来てくれました」と切り返し、それに答えて「はい、函南から来た杉村です」と答える。
でもっとお約束の「じゃ、何か草薙について蘊蓄ありますか?」と振られ、そこにある「考える犬」についての話をする。

これが「考える犬」だ!
2008021805この「考える犬」は渋谷のハチ公をライバル視しているので、ハチ公の半分と、考えるという意味でシコウ(思考)という名前なんですよ。
とりあえず、その時点でてつさんがその手の話を仕入れて語ってしまう可能性があったので、別の物も準備していたのですが。(結構、この臨機応変に応えるために予備まで仕込まなければいけないってのが大変だったワケっすよ。
ということで、そこから合流して東海道の旅を進むこととなった。
スタジオで振ったサイコロで5が出て、次は『焼津』、指令は「焼津駅周辺で足湯に入るべし」
慌てて13時28分の電車に乗り込み焼津に向かう。


ぶらり東海道の旅(3) 焼津駅編

電車の中で、ここに至るまでの経緯などを話し、もし1時17分の中継時間までに到着していなかった場合、スポンサーの関係で中継を入れなくてはいけないので、代理として杉村がそこから「え〜ここ草薙駅前には考える犬という像がありまして、あ、お母さんどこからいらっしゃいました?」などと中継をしなくてはいけなかったという事などを話した。
本当に「文章を書く」という仕事からどんどん遠ざかっているような気がする。


そして電車が焼津駅に到着し、ホームに降り立ったのとジャストのタイミング、どこからか監視しているかのようなタイミングで携帯電話が鳴り、それがいきなり「てつさん、焼津に着きました?」という中継、てつさんも慌てて「はい、今焼津です、あっすでに駅の外で手を振ってくれてる人が何人かいます!」とコメントをする。
高架にある改札を抜け階段を下り、トイレに急ぐてつさんと別れ、リスナーがまっている足湯の場所へまで走る。
が、そこでとんでもない物を見てしまったのだ。
「本日、足湯の源泉を止めて大掃除中」

お湯がない足湯で記念撮影をするてつさん
2008021806通常は軽く毎朝清掃をするらしいのですが、この日に限って源泉を止めて大々的に掃除をしているそうで、集まってくれたリスナーさんの話でも「毎日のようにこの駅使っているけれど足湯が抜かれているなんて初めて見た」との事。
実はてつさんは、草薙の前に「由比駅」に降りて、そこでの指令『とれたてのサクラエビを食べる』を決行しようとしていたのですが(かきあげ・お好み焼きなどに入れるサクラエビは100%駿河湾で捕れる)、なんと「月曜日の朝はサクラエビ漁は休みなんだよねえ」というオイオイ、企画を上げる時にそこも調べておけよ、という事があったのです。
そこに続いて「今日に限って」の本当にめったにない完全に湯を抜いて掃除をする日に当たってしまうとは、てつさんには笑いの神が舞い降りていますな。

ということで、ここで2時まで待ち、通常コーナー「うんちく劇場」in 焼津の始まり、本日のテーマは「東海道」。
しかし足湯は残念でしたが、焼津駅前には大量のリスナーが集合して大盛上がり。罰ゲームって事でしたが、リスナーとのふれあい旅という感じで「えぇ旅やなぁ」です。
サイコロは5が出て、次は『金谷』、指令は「金谷の特長を入れ込んだご当地ソングを歌え」
集まってくれたリスナーに感謝しつつ、14時18分発の電車に乗り込み金谷に向かう。
リスナーしなのあずささんも一緒に乗り込み、金谷についての色々な話題をしながら旅は進む。
島田駅近くの線路近くでしなのあずささんの旦那さんが「てつさん」と大きく書いた紙を持って立っているのを走っている電車の中から確認。なんかドラマみたいで凄いっす。


ぶらり東海道の旅(4) 金谷編

この金谷駅は、今でも蒸気機関車が走っているという事で有名な大井川鉄道に繋がっているという事で、鉄道ファンにはお馴染みの駅ですが、山間部の駅ということで空気が美味しい。
14時36分、金谷駅に降り立つ。


静かな金谷駅