2008年3月 2日 (日)

ご当地ソング「沼津ひものの歌」

地元、沼津の沼津魚仲買商共同組合が全面協賛で作られたご当地ソング「沼津ひものの歌」。
なんかフツーにポップな感じで(ちょいと80年代っぽい古さもいい味)、1回聞いただけで口ずさんでしまいます。
あ、なたの為にアジのひものを〜♪


実際に面倒くさい事を言えば、「御当地ソング」の「御当地」というのは、よそ者がその土地の事を指して言う尊敬語なので、地元歌手が歌うのは間違いなんですけどね。
本当に面倒くさいヤツだな、俺。
この曲に関しては、大いに配布してくださいとの事なので、ここに載っけても大丈夫。

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2008年2月24日 (日)

小野満・ダン池田、二人のビッグバンドマスター死去

ダン池田氏(72)が昨年末、2007年12月25日に亡くなっていた事が報道された。
そういえば今年は新年早々、2008年1月2日に小野満氏(78)の訃報もあった。


ダン池田:今だ反省なし
2008022402この二人は自分の世代だと、物心付いた時からテレビの中で演奏をしていたビッグバンドの指揮者で、70年代の紅白歌合戦の演奏でも紅組「ダン池田とニューブリード」、白組「小野満とスィングビーバーズ」として記憶にある。
この二人が10日と開けずに亡くなったというのは、リアルタイムに音を聞いていた世代としては、あの時代もすでに歴史の話になっていくんだなぁという感じがしちゃうのだ。

ダン池田の方は他にも「夜のヒットスタジオ」、小野満の方はNHK系の音楽番組でスィングビーバーズ&NHK管弦楽団などで見かけていた。
ダン池田の方はビッグバンドのみだったので、音は派手だったので昔ながらの歌謡曲の演奏は良かったのだがちょっと繊細さに欠けていた。しかし小野満の方はスィングビーバーズに加えてNHK管弦楽団が一緒にやる事が多かったので、ちょいと繊細な感じで好きだった。

小野満:資料が少なくて似てるか不明
2008022401小野満は先日もブログで書いた三木鶏郎のバンド出身で、1953年にジョージ川口、中村八大、松本英彦でビッグフォーを結成している。ビッグフォーは音源をちょっと聞いた事がある程度で、リアルタイムじゃないけれど戦後日本のジャズブームを築いた1人という事で認識している。スィングビーバーズは1960年に結成したビッグバンド。

あと「美空ひばりの初恋の人」って事でも騒がれた事もあるんだけど、1989年に美空ひばりが亡くなった際に思い出話を語り「世間が許してくれなかったんですよ」と告白している。
そして美空ひばりの死後、理由は明かさないが音楽活動をほとんど辞め、それまで付き合いがあったビッグバンドやジャズ仲間とは一切交友まで断っていたとされている。
美空ひばりのCDで「Jazz And Standard Complete Collection 1955-1966」というコンピレーション物があるんですが、このアルバムを聴くと美空ひばりの才能の深さに改めて感服しちゃうワケです。
個人的には演歌っぽい曲を歌う美空ひばりが好きじゃないので、この時点で小野満と上手くいって「ジャズシンガー美空ひばり」という路線を邁進してくれていれば、どんな素晴らしい曲を作っていったか……と勝手に思ってしまうのだ。

ダン池田に関しては、自分が音楽にどっぷりハマり始めた1970年代にフジテレビの音楽がらみの番組には必ずといっていい程登場して、「夜のヒットスタジオ」「オールスター家族対抗歌合戦」さらに大磯ロングビーチでの「オールスター水泳大会」などでやたらと見かけるようになったけれど音楽的な印象はさほど残っていない。
楽器演奏の印象もないので「いったいこの人は音楽的な部分はどうだったんだろう?」という感じでもあるんだけど、ダン池田が表舞台から消えるキッカケになった暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』の印象しか残っていないや。

1990年代に「あの人は今!」という事で埼玉あたりでカラオケスナックを経営して、近所のおじちゃんおばちゃんを集めてカラオケ教室をやっているのが放送されていた。
本当にこの人に関しては「音楽家として何が出来た人なんだろ?」というのが当時も今も疑問としてついて回っている。

1980年代、YMOの成功以降、シンセサイザーの発達で歌謡曲の音がかなり変化していった。
夜のヒットスタジオを見ていても自前のバックバンドをもっている歌手などは音的に問題なかったけれど(アイドルもバンドを従えるのがブームだった)、ダン池田とニューブリードが演奏する場合、ちょっとアレンジも古めに感じる事が多くなっていった。
たとえば榊原郁恵のテクノ歌謡「ROBBOT」をビッグバンドが演奏した時に「それはテクノ歌謡じゃない!」と憤慨した事もある。この曲は筒美京平がテクノを意識したメロディを作り、それに合わせて船山基紀がアナログテクノな編曲をした、YMOが絡んでいない職業作家によるテクノ歌謡の名作なのだ。

1985年に夜のヒットスタジオが月曜の1時間番組から、水曜日の2時間番組に変わった時に、ニューブリードのマスターからダン池田が降りて、三原綱木(元ブルーコメッツ→つなき&みどりを経て)に変わった。その時に、大々的にバンド変成が変わり、シンセ系キーボードも大々的にフューチャーされたと記憶している。
そう言う意味では、アナログ時代の古いタイプの音楽家で、時代の変化について行けなかったのかなぁと思ってしまう(Wikipediaなどでは体調不良&金銭面を理由に降板したような事が書かれているが)

暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』をつい先日、死去したとは知らずに「何かの参考資料になるかな?」として古本で購入したけれど、パラパラ読むと暴露というより時代について行けなくなったオジサンが「最近の若い奴は」と愚痴っている部分が変に目立っているだけの本だった。
ある意味、無責任な戯れ言をまき散らすブログを書籍化しただけのような内容で、読後感は「この人、良くも悪くも自分が基準だと思っているんだろうなぁ」という感じだった。

ネット検索すると、ダン池田の死去が公表される2月21日直前まで暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』は500円ぐらいが相場だったのが、22日ネットで最高値30万円を付けたらしい。
現在もヤフオクには4000円台で大量に出て、しかも入札も入ってます。最も高いのは2万2000円で入札22人。
自分は今年1月に1と2をBookoffで各105円で購入したんですが...。そんなに高い値段だして読む価値ないぞ。
ちなみに、この暴露本を出した「はまの出版」は凄いジャストなタイミングで今年1月25日に自己破産申告をして倒産している(ここにも出版不況が!)。

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2007年7月14日 (土)

香坂みゆき「気分をかえて」

Kosaka001香坂みゆき「気分をかえて」
作詞.作曲:山崎ハコ/編曲.大村雅朗
1981年/¥700
polydor/7DX1103


香坂みゆき:1963年2月7日生まれ
今でも時々テレビで姿を見る事があるし、とりあえず清水圭の奥さんという肩書きもある。でもハッキリ言って香坂みゆきに関しては、その存在意義がデビュー当時から今にいたるまでよく解らない。


1977年「愛の芽ばえ」
197701ainomebaeとりあえず同世代の話題の中では「そー言えば、欽ちゃんのドンといってみようのアシスタントで欽ちゃんの横に座っていたよね」という印象は出てくる。でも「番組で何をした?」という疑問符で終わってしまう。
また「ニュアンスしましょっていう資生堂のキャンペーンソング歌っていたよね」という話題も出る時がある。でも「それ以外の曲って覚えている?」という疑問符で終わってしまう。
でもなぜか30年以上に渡って頻繁ではないにしろ香坂みゆきをテレビで見続けているのだ。(実際には3歳の時にモデルデビューしているらしい)


1977年「初恋宣言」
197702hatukoisenngenラジオで「視聴者がネタを書いてくる」というスタイルの番組を本格的に始めたのは、実は萩本欽一で、1972年4月にニッポン放送で「欽ちゃんのドンといってみよう」という番組がスタートしている。
60年代末からコント55号で大ヒットしていた萩本欽一がその活動に限界を感じていて、次の活路として見出したのがラジオだった。あの時代ラジオというのはテレビに人気を奪われていて、すでに「ラジオの時代は終わった」と囁かれていたのだ。


1977年「青春舗道」
197703seisyunihodそんなラジオに対し「テレビより身近に感じるメディア」という方向性を見つけ、お題を与えリスナーから葉書を募集するという方法論を編み出した。
それに中学生から大学生までが飛びつき、毎週のようにネタ葉書を書いてくるようになり、「ハガキ職人」という人種を生み出した。(ハガキ職人という言葉自体はビートたけしのオールナイトニッポン発祥とされる)


1978年「まわれ恋の風車」
197801mawarekoiTV版「欽ドン」で「よい子悪い子普通の子」をやった時に「あれって谷村新司がラジオでやっていた「天才秀才バカ」のマネだぜ」という声もあったが、実際にはラジオ版欽ドンの影響を受け始まった番組が谷村新司の番組だった。
笑福亭鶴光の番組でもヒット曲の一部をオチに流すコーナーがあったが、あれも欽ドンの「レコード大作戦」というコーナーの真似だった(ディレクターが同じだったとも言われる)


1979年「愛なき子」
197901ainakiラジオ版は1979年3月まで続いたが、そのラジオ版を発展させた形で1975年4月からテレビ版「欽ちゃんのドンとやってみよう」が始まっている。
この時、ラジオでも女性アシスタントがいたという事から、テレビ版アシスタントとして香坂みゆきが起用された。まだ13歳だったわけですが、ハッキリ言ってこの番組で香坂みゆきが何か喋ったとか印象が全然無い。
最初の頃は「かわいいなぁ」と思っていたワケですが、途中から子供ながらに彼女の存在意義はいったい何なのだ?と疑問視するようになった。
そして気が付いた時には画面から姿を消していた。というか気が付かないうちに姿を消していた。


1981年「気分をかえて」別ジャケVer.
198101kibunで、まいどの事ですが表題曲にやっと触れますが、この曲を聞くと「なにもここまであからさまなアレンジをしなくても...」という感じで、イントロ当てクイズにこの曲が出てきたら即座にボタンを押して「ブロンディのCall Me!」と叫んでもおかしくない状態になっております。
でも実際の事を言うと、オリジナルの山崎ハコVer.を聞くと全然違う曲なのでどーしてこーなっちゃったんだろうか? と思ってしまう


1982年「レイラ」
198202reilaつまり、これは編曲の大村雅朗のテクなんだろうなぁ って、あまりにもひねりがないアレンジなんですが、なにか会議上で「ロックっぽいアレンジでいこうよ」「じゃ女性のロックって事でブロンディなんかいいんじゃない」「じゃそれでヨロ」みたいなノリだったのかも知れない。


1983年「東京が好き」
198302tokyoあの時代は結構あからさまに「イントロを洋楽のヒット曲から引っ張って来ました」というのが多かった。今はどうか分からないけれど、アレンジに関しては著作権がなく盗作にならない」みたいな見解を聞いた事がある。
香坂みゆきのボーカルも、アレンジに合わせるために頑張ってロックっぽく歌っているんですが、どうにもこうにもミスマッチで痛々しい。


1984年「サヨナラの鐘」
198401sayonaraついでにジャケットが水着写真なんですが、なんというか「この構図でこの表情でこの逆光線の写真でOKなのか?」と心配してしまう写真が使用されている。とりあえず「協力:コンチネンタル航空」となっているので、海外で撮影しているワケですが。
ついでにこの「気分をかえて」には別ジャケットが存在しているんですが、そっちもどうなんですかね?状態。


1984年「ニュアンスしましょ」資生堂CM曲
198402nyuaしかし芸能界って、売れた人が生き残るってワケじゃないのが難しいなあと香坂みゆきがテレビに今でも出ているのを見て考え込んだりするワケです。

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2007年6月23日 (土)

南野陽子/話しかけたかった

Minamino01南野陽子/話しかけたかった
作詞.戸沢暢美/作曲.岸正之/編曲.萩田光雄
1987年04月01日/定価700円
CBSソニー/07SH1900


南野陽子
1967年6月23日・兵庫県生まれ・本日40歳になりました。
1980年代初期、アイドル産業がかなり活発になり、数多くのオーディションで鳴り物入りでデビューする人が多かったワケですが、その中、南野陽子は私立松蔭女子学院高校在学中にスカウトされ芸能界入りをしたので、出だしはそんなに派手な冠がなかった。(一部資料ではCMオーディションにどんな人が来るのか興味本位で参加したところスカウトされたという物もある)

1984年にNTVのドラマ「名門私立女子高校」でデビューし、翌年の誕生日、1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビューを果たしている。
しかし冠が無いという事で、イマイチ注目されない地味なスタートだったためなのか、デビューしばらくしてから講談社の「少年マガジン」の美少女コンテストでマガジンメイトに選出されグラビア露出展開を始める。

1987年5月「ORE」198705nanno
1986年、その効果があり、前年斉藤由貴主演で人気が出た「スケバン刑事」の続編「少女鉄仮面伝説」で主役を演じる事となって、大ブレイクを果たすことになるのだ。
斉藤由貴がミスマガジン出身だったので、スケバン刑事が先に決まっていたという可能性もあります。

ミスマガジンは「少年マガジン」主宰のコンテストで初代は伊藤麻衣子。その時コンテストとは別にもう一人選出されたのが森尾由美で、彼女はマガジンメイトの称号が与えられた。
ミスマガジンは1年間のクィーンなのに対し、マガジンメイトは雑誌の顔として複数年活動することとなる。
第4回(1985年)のミスマガジンは八木沙織で、この時に南野陽子が2代目マガジンメイトに選ばれている。

南野陽子の楽曲は当時のアイドル歌謡がユーロビートの影響で非人間的なビートを強調した楽曲になっていく時代に反発してか、あくまでもソフト路線を貫いていたワケですが、これはサウンドプロデューサー萩田光雄の作り出したコンセプト。
イメージとしては「私立のお嬢様学校に通う引っ込み思案な女子高生」。80年代中期どんどん強くなっていく女性に疲れた野郎どものハートをわしづかみにしたのだ。

1988年08月02日「週刊プレイボーイ」198808nanno1
もっともこのコンセプトも80年代末のバブルに浮かれた時代には徐々に厳しくなっていったのか(南野陽子というキャラも年齢を重ねて「今さら引っ込み思案な女子高生もないだろ」という感じなのか)1989年6月に「トラブルメーカー」という曲で突然「はじけた女の子」というイメージ展開を図ることとなる。
が、客観的に観て「無理してはしゃいでいる」という印象がぬぐえなかった。
いきなりイメージチェンジとして夜のヒットスタジオに出演した彼女は、ショートカットにして、それまでのオーソドックスなファッションから一変した。
蛍光色の服に小道具を付けて歌っていた彼女を観て「いたたた」と思ってしまったのも事実。


1988年08月「BOMB」198808nanno2
この1989年は日本の音楽界が、アイドル歌謡からバンドブームへ移行していた時代で(レコードの売り上げがCDに抜かれた年でもある)、さらにザ・ベストテンの終了もあって、南野陽子のアイドル仕事は1991年にリリースした「夏のおバカさん」という曲で終了する。
80年代末から、90年末にモーニング娘。がブレイクするまでの10年間は「アイドル冬の時代」と呼ばれる時代だったのだ。

ちなみにヒット曲「話しかけたかった」はモンキーズの「デイドリームビリーバー」によく似ていると言われていましたが、そのモンキーズの曲自体ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」に似ているでやんす。
と言いつつ、好きな曲なんですけどね。

1989年02月「ORE」198902nanno
南野陽子はマガジン別冊の「ORE」というグラビア系雑誌によく出ていたけれど、そこで後輩の小沢なつきとの対談があった時「なつきちゃんて凄くかわいいよね。私とよく似ている」と、おいおいオマエは思いっきり自分がかわいいと思っているんじゃねえかという発言をしていた。

その後、小沢なつきは1989年、17歳の時「魔法少女ちゅうかなぱいぱい」の主演最中にマネージャーと駆け落ちをして1年予定の番組が半年で終了(後番組は急遽主役に抜擢された島崎和歌子の「魔法少女ちゅうかないぱねま!」)それから10年後に離婚し芸能界にヌードグラビアで復帰、さらに2004年にAVに転身(1972年生まれなので32歳だったが、なぜか1976年生まれの28歳になっていた)

1989年07月「ORE」198907nanno
そんな波瀾万丈の後輩を横目に南野陽子は40歳になっても、まったく波風を立てずにあの時代と同じスタンスで芸能界にいる。

ちなみに南野陽子は2004年に「芸能生活20周年」という事で大々的に記念してDVD付き写真集を出版した。が、計算したらまだ19周年目だったという事があった。
というのも、年末に放送された「ザベストテン2004」で共演した吉川晃司が同じく20周年を祝っているのを見て「あら、この人がデビューしたとき私まだ素人だったわ・・・?」という疑問を持って調べてみたら真相発覚したという物。

南野陽子がアイドル時代に語っていた将来設計。1990年に結婚、1991年に長女まいこ出産、1993年に長男たつや出産。2040年に73歳で死去。

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2007年5月20日 (日)

戸川純/遅咲きガール

000togawa1戸川純/遅咲きガール
作詞.戸川京子/作曲.小松世周
編曲.岡野ハジメ&小松世周
1985年/¥700
アルファレコード/HYS-701


1980年代をある意味象徴するパフォーマー戸川純。
あの時代は、日本人が自分の身の丈を忘れ狂乱したバブルへ突入するためのカタルシスな助走だったのかもしれない。今になった段階でやっと言えることなんだけど。
その時代のひとつのキーワードに「病気」という物がある。
といっても「腰痛」だとか「糖尿病」みたいなマジ病気ではなく、あくまでも「ちょいと世間とズレている」という事を病気と名付けたもの。
当時「トンガリキッズ」や「スキゾ」や「パラノ」で「ニューアカ」な人々が「アタシって自分では解らないんだけど、みんなからズレているって言われるの」と自意識だけを肥大して自らを「病気」と言っていた。
なんか無理すんな。オマエは自分が思っている程特殊な人じゃないぞって感じだったんだけど。

000togawa3確かに70年代以前も、ちょっと変わっていると言われるヘンテコキャラの女の子タレントは多数いた。
しかし、やはり戸川純の登場はエポックメイキングだったのかもしれない。
そして自分は、不思議ちゃんキャラと呼ばれる女子がウザクて当時から嫌いだった。
たぶん系譜は連綿と続いていて、近年の小倉優子・中川翔子など、そしてアキバ系とかに引き継がれているんだと思う。
そーゆー意味で、戸川純というパフォーマーは好きだったけれど、その功績に関しては「なんて事してくれたんだ」という気持ちがある。
(椎名林檎なんかに影響を与えた感もあるので、一概に悪いとは言えないんだけど)

戸川純は子供の頃「醜くていじめられっ子だったので出世して見返してやろうと思った」などと語っているんだけれど、子供の頃のあだ名が「太った山下達郎」と呼ばれていたなどと言う発言を聞いて「もしかして、過去のそーゆー話はキャラ付けのため?」と思った事がある。
なんせ戸川純は1961年3月31日生まれで、山下達郎がソロデビューしたのは1976年、山下達郎がヒット曲「RIDE ON TIME」で世間に認知されたのが1980年で、その時戸川純はすでに19歳、同年ドラマ「しあわせ戦争」で女優デビューしている。
その3年後の1983年にヤプーズで歌手デビューしている。

000togawa5なにはともあれ「情緒不安」や「精神的に病んでいる」という部分を前面に押し出すことで面白がられていたというのは、時代なんだろうなぁ
1978年にYMOがデビューした時、週刊プレイボーイのインタビューで「僕たちは病人なんだ、病人が奏でる音楽を病人が聴いている」と答えている。
それから数年後、1980年代に入ってから「病気」という言葉がキーワードとして使われるようになる。
山本晋也の「ほとんどビョーキ」という流行語は、1980年に始まった深夜の情報番組「トゥナイト」の風俗レポートから出た言葉。

よく「頭がおかしい人」を指して言う「電波」というのは、実際に覚醒剤などで幻覚症状が起こった際に「頭の中に誰かが電波を飛ばしている」などと言い出すこともあるのだが、1981年6月に起こった川俣軍司による事件がキッカケになっている。と言いつつ、この事件の当時は「電波」という言葉はキーワードになっていなかった。
事件から2年後1983年に放送されたドキュメントドラマ「深川通り魔殺人事件」の中で「電波が…、俺の頭の中に電波を飛ばしやがって」と連呼する犯人・川俣軍司を大地康雄が熱演した事で「電波」という言葉が「頭のおかしい人」という意味を持つようになった。

000togawa2話はガラッと変わりますが、戸川純の歌手デビューのバンド「ゲルニカ」は退廃的な感じがして好きだったけれど、その相方・上野耕路の名前を近年意外な所で聞いてびっくりした。
なんと、かの「♪タラコ、タラコ、タラコ〜」の作曲者として。
う〜む、ゲルニカとタラコは繋がらないなあ。


000togawa4この曲の話を全然書いてなかったけれど、この曲が収録されているアルバム「好き好き大好き」は戸川純のロリータな部分と狂気の部分が表裏一体で混在している名盤。
で、「遅咲きガール」戸川純の妹・京子ちゃんの作詞なのでかなりポップで女の子っぽい(戸川京子のアルバム「O'can」は名盤ですよ)。
よく戸川純のプロフィールで「子役として活躍していた」みたいなのがあるんですが、戸川純は確かに子役で舞台出演はあるけど、子役として活躍していたのは妹の戸川京子で「ウルトラマンA」「電人ザボーガー」とか「愛と誠」で早乙女愛の少女時代を演じたり(スキー場で怪我を負う女の子)しておりました。
戸川京子は2002年に37歳の時に自殺してしまったのですが、最初、その報を聞いた時「戸川純の間違いじゃないのか?」と思ってしまった。
現在も戸川純はユニット「東口トルエンズ」として音楽活動を続けている。

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2007年5月16日 (水)

松原みき/ニートな午後3時

Matubaramiki1松原みき/ニートな午後3時
作詞.三浦徳子/作曲.小田裕一郎
1981年2月/¥700
キャニオンレコード/7A0049


今現在「ニート」といったら、「Not in Education, Employment or Training」の頭文字を並べた「NEET」で、意味は「主婦と学生を除く非労働力人口のうち15〜34歳の人」という事になっている。解りやすくいうと「何もする気がない人」みたいな捕らえられ方をしている言葉なのだ。
でもこれが言われ始めた当初、自分は凄く違和感があった。

スペルは「Neat」とちょっと違うんですが、1970年代末から1980年代初頭に一部のプレッピーとかの間で「ステキ」とか「格好いい」という意味で使われていた「ニート」という言葉があったのだ。(デコラティブの対語として使われている)
かのウッディ・アレンの映画「アニーホール(1977)」の中でも、主役のアニーが何度も「ステキ!」という意味でこの単語を口走っている。

そして1981年にリリースされた松原みきのこの曲、資生堂・春のキャンペーンソングとしてかなり頻繁にテレビで流れていたんだけど、「ニート=ステキ」という意味はあんんまり流行しなかったのかもしれない。
資生堂は1981年春の口紅の新色として明度の低い渋めの色を「ニートカラー」と名付けて売り出そうとしていたワケです。

1990年代初頭に、知人がやっていたファンク系バンドの歌詞のなかにこのNeatという単語が出てくるんですが、その歌詞カードを読んだ人から「これってNeedの誤植でしょ?」みたいな指摘をされていた。
この「ニートな午後3時」という曲もそんなヒットした記憶はないんですが、小田裕一郎の曲なのでそれなりにポップで聞きやすい。あと数年後なら杏里辺りが歌ってヒットしたかもしれないって感じ(杏里の「CAT'S EYE」も小田裕一郎が作曲)

しかし、現在の「ニート=やる気無い駄目な人」みたいな感覚で聞き直すと、なんかトホホな曲なのだ。
なんせサビの部分で「Neat, Neat!, Everyday 自由になれるわ」と何度も繰り返すので、毎日ニートですか?状態。
かつて松本隆が「音楽の中で詩の寿命が一番短い」と語っていましたが、こーゆー事なのか(って違うと思う)

ちなみに歌っていた松原みきさんは2004年10月07日に44歳で亡くなっています。

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2007年5月11日 (金)

甲斐バンド/ビューティフル・エネルギー

Kaibandbeautifule甲斐バンド/ビューティフル・エネルギー
作詞:甲斐よしひろ/作曲:松藤英男
1980年3月/¥600
東芝EMI/ETP-10700


甲斐バンドのシングルの中ではちょい珍しく、ジャケット写真のメインが甲斐よしひろではなく、ギターの松藤英男となっている。
というのも、このシングルのボーカルは松藤英男。だから、甲斐バンド的には珍しい曲なのだ(解散直前はメンバーがそれぞれ1枚ずつ曲を担当した、実質上のソロアルバムみたいなものはあったんですが)
甲斐よしひろのざらついたウエット感はなく、爽やかな感じがある曲です。

この曲がチャートに入ってきたのは、ちょうど今みたいな5月頃で、まさに爽やかな風の中で聞いていたという印象が残っています。
「関町物語」という1980年を舞台にしている漫画を今書いている最中ですが、その年の5月頃、土曜日に毎週ヒットチャートの曲を紹介するラジオ番組でこの曲を聞いていました。

が、聞いていくとそのメロディの軽やかさと、松藤氏のボーカルにダマされてしまいますが、かなりエロい曲でやんす。
作詞は甲斐よしひろなんですが、まず1番の歌詞は「シルクの髪を指でさぐり」始める所から始まる。
そして曲が進むにつれて「うなじ」「ほほ」と進み「ルージュに近づいていく」とゆっくりと核心に触れていく。

000momojiriで、2番の歌詞になると「急がないで」と言いつつ「胸」に到達するワケですが、その後の歌詞が突然肉体を直接表現する言葉ではなく「やわらかい夏のような草原」を確かめ、ついに「やさしい雨が僕らを濡らす」と、完璧に「アレの事を言いたいんだろ?どうだ甲斐?」という状態に進んでいくのだ。
この曲から5年以上後、1980年代中期にチェッカーズが歌っていた「NaNa」という曲では「感じて濡れてくれ」とか「脱ぎ捨ててやろうぜ」という歌詞がエロいって事でNHKで放送禁止になったという事件がありましたが、そういう意味でこの曲は実に巧妙に言葉を隠しているのだ。
さすが年季の入ったエロい人なのだ。甲斐よしひろ。さすが桃尻娘なのだ。

0000agunesrそう観点から「ビューティフル・エネルギー」を聞き直すと、「オーロラを昇っていくよ」という歌詞もあっち方面なんだろうなって感じなのだ。
で、サビ部分は「しなやかな獣たち」「金色の汗を流そうぜ」、2番以降の繰り返しでは「声をあげよう」「爪を立てよう」となっているが、その歌詞の前の「獣」という単語で微妙にエロ風味が隠されているのだ。

この歌詞は、スタッフの結婚式がハワイで行われた時に考えついた物で、ここに出てくる女性はその時に偶然逢うことが出来たアグネス・ラムをイメージしているとの事。

000morisitaap.s.
甲斐よしひろの奥さんは元女優の竹田かほりなんですが、この結婚には吉田拓郎森下愛子が関係しているらしい。
実は吉田拓郎が森下愛子を狙っていて「今、近場で飲んでいるんだけど飲みに来ない?」と拓郎が森下愛子に電話をした時に、「一対一では困ります」と断りを入れたらしい。
実は、その前に拓郎はラジオにゲストとして森下愛子を指名して共演して、そこで電話番号をムリヤリ聞き出していた。森下は「かつて浅田美代子がその方法でお持ち帰りされた」という事を聞いていたので危険と感じていたという。
が、拓郎は「一人じゃないよ、今、甲斐よしひろも一緒だから安心だって」と言い出したという。
そして森下愛子は親友の竹田かおりを誘って飲みにいったのだが、結果として拓郎は森下愛子と、甲斐よしひろは竹田かほりと結婚に至ってしまったのだ。

000isinoついでに言うと、吉田拓郎の「ラジオにゲストに指名して知り合いになる」というパターンを、拓郎信者だった長渕剛石野真子で実行に移している。

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2007年4月16日 (月)

佐野元春/アンジェリーナ

00sano001佐野元春/アンジェリーナ
1980年3月21日/Epic Sony
60-5H-31/¥600


ここの所、「関町物語」なんて物を自己満足連載しているワケですが、その舞台になっている1980年ってのは自分にとって激しく変化があった年で、良くも悪くも心にズッシリと残っている年なのだ。
その1980年3月21日に佐野元春がシングル「アンジェリーナ」でデビューしている。
たぶん、その3月21日前後に自分は静岡を離れ、初めての一人暮らしを東京でスタートさせている。

00sano008その当時毎週購入していた雑誌に「FMレコパル」という雑誌があった。今みたいに「あの番組はいつやっている?」とインターネットで調べる事も出来なかった時代、多くのラジオキッズはこの手の雑誌を購入してラジオ番組をチェックしていたのだ。
まだ学生が個人でテレビを持っているような時代でもなかったので、ラジオが学生にとっては友達だったのだ。
そんな東京での一人暮らしを始めた時にFMレコパルの「今週の新人」というコーナーで『佐野元春』というアーティストの紹介記事を読んだ。

なんか「ポップなリズムに乗せ都会的な風景を切り取った新世代のロッカー」みたいな字面を読んでいるだけでは「なんじゃそりゃ」みたいな紹介をされていたような気がするんだけど、自分はそのアーティストに大注目してしまったのだ。
その理由は「誕生日、オレと同じジャン」という激しくアホらしい単純な物だったんだけど、その後ラジオで「アンジェリーナ」を聞いて「!!!」となってしまったワケです。

00sano002デビュー曲「アンジェリーナ」のジャケットは2種類ある。
一般的に有名なのは横浜「赤い靴」の店頭でポーズをとっているアルバム「Back To The Street」と同じ時に撮影したもの。
もう1枚はあまり知られていない青っぽい写真のもの。
こっちのジャケットは「幻のジャケット」と一部マニアに言われている。というのも、最初これで発売したけれど、この写真が曲のイメージに合わないという事で極短期間で回収され有名な方に差し替えられたらしい。
というワケで、マニアなら垂涎の一品でやんす。と言いつつ、これは中古店で1枚100円で購入したもの。

00sano003佐野元春はドーナツ盤と呼ばれるシングルレコードに思い入れがあるアーティストでアルバムからのシングルカットが多い。つまり一般的にはアルバムを先に買ったファンはシングルをワザワザ買わないというパターンが多かったハズ。
そのために、アルバム「VISITORS」からシングルカットされた4枚のシングルもあまり持っている人は多くないと思うのだ。同時期に12inchのLong Verも出ていたので、そっちを購入しちゃうパターンも多かったと思う。
さらにカセットテープで発売したポエトリーリーディング「エレクトリックガーデン」からのシングルカット「リアルな現実 本気の現実」なんてのも珍しいんじゃないかと。
で、去年「知泉的音楽夜話」でも書いた「1989年、ソニーがアナログシングル発売を終了する記念に出した「警告どおり計画どおり」に続いていくのだ。(その後に「約束の橋」がアナログで出ているけど)

00sano0042枚目のシングル「ガラスのジェネレーション」を10月21日に発売、1981年4月からFM-TOKYOで「サウンドストリート」が始まった。
その第1週目2週目はライブで、第1週目のライブを録音した物が今でも手元にある。
(Wikipediaでは1980年から始まったと書いてあるんだけど「先月誕生日があって25歳になったんだけど」と語っている事から1981年4月期から始まったハズ/カセットレーベルに放送日付とか書いてあったハズだけど、レベール紛失してハッキリした日付不明)

「え〜詩を作る時にどういう風に作るのか聞かれるんだけど…自分でもよく解っていません」など言っている。佐野元春はよく「自分で話をふっておいて、ウヤムヤに終わる話」をしていた。
「先日ライブでみんなが誕生日を祝ってくれたんだ。でもそんな事今言ってもしょうがないので、次の曲を」
それから20年近く経って「HEY HEY HEY」に出た時、その一人完結っぷりはサラに激しくなっていて、ダウンタウン松本が「ほんま、佐野さん勘弁してくださいよ」と、ツッコミもボケも成立しない話ッぷりに参っていた。

00sano005今聴くと佐野元春の曲は「当たり前の日本語ロック」と聞こえるんだけど、ハッキリ言って70年代までの日本語ロックとは言葉の選択肢やメロディに対してのハマリ方が違っていた。
自分は高校時代から作詞作曲をしてきたんだけど「オレは間違っていた」と痛感してしまったのだ。
「日本語ロック」なんて言葉、今これを読んでいるほとんどの人が「なにそれ?」と思ってしまうんだろうけど、70年代はまさにそれが議論までされている。

00sano006「新譜ジャーナル」だったか、当時の音楽雑誌で、内田裕也(フラワートラヴェリングバンド)と大滝詠一(はっぴいえんど)が対談して「内田:日本語はロックに乗らない」「大滝:それは偏見だ」「内田:オレは英語で歌う」「大滝:日本語の文学的な面でロックを展開させる」「内田:日本語で歌うお前の音楽はロックじゃない」的な事で激しく議論しているのだ。
80年代に至るまでも多くのアーティストが道を造ったとは思うけど、ある意味、佐野元春という人物によって「違和感の無い日本語によるロック」が完成したんじゃないと思ったりする。
それゆえ、その後大滝詠一が自分のプロジェクトに誘い込んだんじゃないかと。

ちょうど時代的には、RCサクセションがロック化し、シーナ&ロケッツ、ロッカーズ、A.R.B、モッズ、ルースターズなどのめんたいロック、アナーキーやスターリンなどの日本語パンクが一斉に出てきた頃で、80年代に入った瞬間に日本の音楽は激しく変化していたのだ。
もっとも、一般的なレベルでロックが浸透するのは80年代中期のボウイ(自分的には歌謡曲ロックだと思っている)、そして90年代のバンドブーム(ロックもお子様向けになってしまったなぁと感じたけど)まで待たなくてはいけないんだけど。

00sano007この当時、佐野元春はテレビ神奈川の「ファイティング80」に出ていたんだけど、自分が最初にテレビで動く佐野元春を見たのは、たぶん1982年に放送された「ビートルズ特集番組」で(ジョンレノンが1980年末に殺された以降、しばらくの間、特集番組が多くあった)「各界の人々に好きなビートルズの曲を聞く」という物で、他の人々が想い出やらを延々とタラタラと喋っている中、いきなり画面に登場して「I'm the walrtus」と一言だけ言って消えた。たぶんコレが最初。まだ「ナイアガラトライアングル( A面で恋をして)」以前で、知名度もほとんど無かった事の話なのだ。

しかし、久々に聞き返した1981年サウンドストリートのライブテープ。音が非常に悪くなっていてショック。元々音も悪かったんだけど、CDに焼き直して永久保存なのだ。

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2007年3月15日 (木)

鈴木ヒロミツ・モップス

0000hiromitu01俳優の鈴木ヒロミツ氏が亡くなった。
まだ60才ということで早すぎるなあと言う感じです。
鈴木ヒロミツ:1946年6月21日・東京都文京区生まれ


世間的には俳優・鈴木ヒロミツという事で認知されているかも知れませんが、自分的にはモービル石油のCMに出ている人→時間ですよ夜明けの刑事→その主題歌を歌っている、という流れで高校の頃に「モップス」というGSをやっていたという事を知ったことで、リアルタイムでモップスを聞いていたわけじゃないんですが、「鈴木ヒロミツ=モップスのボーカリストで凄い人」という認識になった。

0000hiromitu02モップスはジャンルとしてGSに含まれているけれど、GSではなくその後の時代のロックバンドって感じで(デビューが1968年、解散が1974年)、ファーストアルバムではプロ作家の作品を歌っていたけれど、積極的にサイケデリックサウンドを取り上げたり、後に編曲家として凄い仕事をする星勝がギターとして参加していたので、斬新でやりたい事が明確な音造りが今聞いても通用すると思う。
GSの中では突出した演奏力として評価されているのはミッキー吉野がいたゴールデンカップスがあるけれど、モップスも同等の評価をされてもいいと思うほど、黒くスィングしているバンドなのだ。
ちなみに、鈴木ヒロミツが刑事役として良い味を出していた「夜明けの刑事」で音楽を担当したのは、モップスの星勝。

0000hiromitu03ラストスタジオ録音盤になった「モップスと16人の仲間」というアルバムでは、作家として交流のあったミュージシャンが曲を提供していて、そのメンツが凄い。
吉田拓郎つのだひろ加藤和彦、岩沢幸矢(ブレッド&バター)、忌野清志郎(ペンネーム肝沢幅一で参加)、小室等、及川恒平(六文銭)、杉田二郎、遠藤賢司、泉谷しげる井上陽水、伊藤アキラ(作詞家.この木何の木〜他にもヒット曲多数)、かまやつひろし、等々

0000hiromitu05このアルバムから吉田拓郎の「たどり着いたらいつも雨降り」がシングルカットされヒットとなる。
もちろん鈴木ヒロミツのボーカルは円熟味を増しているし、星勝のアレンジは無駄が無く黒くスィングしている(モップスの曲で鈴木ヒロミツではない高いストレートな声は星勝)
ここ数年は、ちょろっと俳優をやっているのを見かける程度だったんですが(自分的には富豪刑事が最後かな?)、その迫力のある歌声は永遠に自分の中では消えません。


モップスの豆知泉

モップスのデビュー曲「朝まで待てない(1968)」の作詞は阿久悠。実はこの曲は阿久悠が作詞家になって初めてA面になった記念の曲。

モップスというグループ名は鈴木ヒロミツは後に「長髪でモップを逆さまにしたように見えていたから」と言っていたが、それは照れ隠しで、デビュー時は「日本の音楽業界をモップで掃除し革命を起こす」というふれこみだった。

モップスのメンバーではギターに井上陽水のアレンジなどで有名な「星勝」もいる。他には三幸太郎(G)、村上薫(B)、スズキ幹治(D.鈴木ヒロミツの弟)

モップスのセカンドシングル「ベラよ急げ」はイタリア発売のオムニバスに収録された時タイトルが「Haiku:俳句」となっていた。歌詞の「早く早く」が「俳句俳句」と聞こえたため。

0000hiromitu04モップスが知名度を上げた曲に「月光仮面」がある。今渦中にいる川内康範が作詞したテレビ主題歌のカバー曲だが、ライブの最中あまりにも客の乗りが悪かったので、アドリブで月光仮面の曲をおちゃらけて演奏した所大受けになったので、アルバム収録→シングルカットしたもの(しかし歌詞の内容とかムチャクチャに変更しているのでよく川内康範がOKしたものだ、と例の報道を見るたびに思う)

しかし「月光仮面」のため、コミックバンド的な扱いになってしまい、さらに悩んでしまう事となる。

当時のGSは長髪で汚らしいと大人達には思われていたが、今見ると全然汚くないが、モップスはまさにヒッピーを体現した見た目が汚らしいグループだった。そんなモップスにも女性追っかけファンがいたが、その中に中学生時代のユーミンがいた。

鈴木ヒロミツの俳優デビューは「時間ですよ2(TBS)」、当時は本名表記の鈴木博三。ドラマに出たのは同じGS出身の堺正章に誘われたので。(1971年7月21日〜1972年3月15日)

名前表記はその次に出演した、坂口良子主演の「アイちゃんが行く!(フジ)1972年9月1日〜1973年3月30日」では「鈴木ひろみつ」となっていて、3作目の「時間ですよ3(TBS)1973年2月14日〜1973年9月5日」で「鈴木ヒロミツ」となっている。

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2006年11月22日 (水)

原田真二/てぃーんず ぶるーす

Photo_19原田真二/てぃーんず ぶるーす
作詞.松本隆/作曲.原田真二/編曲.鈴木茂&瀬尾一三
フォーライフレコード/FLS-1010
1977年10月25日/¥600


「てぃーんずぶるーす」は原田真二のデビュー曲で、この曲に続いて3ヶ月連続シングルリリースという売り出し方をした(最近ではよくあるけど当時はすごく特殊だった)。
第2弾「キャンディ(11月25日)」、第3弾「シャドーボクサー(12月20日)」はそれぞれヒットして、オリコン10位以内となった。

Photo_20実は「デビュー3曲同時チャートイン」というのは史上初の快挙だった(ま、3枚を短期間連続リリース自体が無かったので当たり前かもしれませんが)
さらに1st アルバムも初登場1位という史上初の記録を作り上げている。

このレコード会社大プッシュデビューの裏に実は、所属レコード会社のフォーライフレコードの運営危機という切羽詰まった物があったらしい。
フォーライフレコードは1975年に井上陽水泉谷しげる吉田拓郎小室等というフォーク界の癖のある大御所4人が「自分たちが理想とする曲を理想とした環境で作りたい」という理念で結成した、日本初のアーティスト志向のレコード会社。

Photo_21結成当初はかなり話題になったが、売り上げが思うようにいかず、1976年11月10日に満を持して4人共同で製作したクリスマスアルバムなども「それぞれ4人のファンが買ってくれる」との思惑で、当時としては多い初回30万枚プレスで発表した処、まったく売れずに返品の山となって、さらに財政を圧迫してしまったという。

「フォーライフで独自の新人を育てなくてはいけない」とオーディションを行ったのだが、そこに高校2年生だった原田真二がいた。実はテープ選考の際に不合格になっていたが、吉田拓郎が興味を持ち原田が青山学院大学に合格して上京してきた処でコンタクトをとり、その年の10月に吉田拓郎プロデュースでデビューとなった。
曲自体ポップで覚えやすいというものヒットの理由だが、それと同時にアイドル的な容姿が女性ファンをつかむことになった。

Photo_22実はデビュー当初、原田真二は「テレビに出るのは嫌だ」と言っていた。これに関しては吉田拓郎などもテレビに出ないことを基本にしていたので強くテレビに出て顔を売れとは言えない状態だったのだ。
で、そこに登場するのが同年(1977年)吉田拓郎と結婚したばかりの浅田美代子で「やはり今の時代テレビに出ないとダメ」と原田を諭して渋々テレビ出演を承諾させたという。意外としっかりしてるじゃんミヨちゃん。

Photo_23その「テレビ出るのOK」を受け、いきなりデビューと同時(1977年暮れ〜)に東京12チャンネル(現.テレビ東京)で「歌おう!原田真二と(水:16:30〜17:00)」という原田がホストを務める音楽トーク番組まで始めちゃっている。当時の12チャンネルは超低予算でも番組作れたとは言うけど、激しくプッシュしていたのだなぁと思うのだ。
そんな社全体でのバックアップもあって3曲大ヒット、4曲目の「タイムトラベル」もヒットとなって、会社がかなり盛り返したという。

デビュー直後の1978年1月にTBSで「ザ・ベストテン」が始まっており、第3週の2月2日に「キャンディ」が初登場9位になっている。(デビュー曲のてぃーんずぶるーすはチャートインせず)
フォーライフがさらに盛り返すのが1981年の「ザ・ぼんち/恋のぼんちシート」。

Photo_24原田真二の2曲目「キャンディ」は当初から「ビートルズのミッシェルにそっくりじゃん」と言われてまして、それに関して自分も「否定出来ないよな派」であります。
実は原田と同時期に売り出してきた「世良公則&ツイスト」「チャー(Cher)」を雑誌なんかが勝手に「ロック御三家」なんて恥ずかしい名前でひとまとめにしてワケですが、その3組はちょいとビートルズ繋がりではないかと思っている。
原田真二「キャンディ」→「Michelle」
ツイスト「あんたのバラード」→「Don't Let Me Down」
チャー「気絶するほど悩ましい」→「While My Guitar Gently Weeps」
という図式で。

Photo_25もっとも自分は音楽の類似に関しては「音楽なんて基本的に伝承されていくものだし、前人にインスパイヤされなきゃ曲は作れるハズなので、似ている事に関しては全然問題にしないもんね」と考えているので、どっちの曲も好きなんですけどね。(筒美京平が好きって段階で、そんなの突き抜けて考えております)

しかし、原田真二は元々アーティスト志向が強かったために段々と歌謡曲的ポップから遠ざかり、チャートからも遠ざかっていくこととなる。(でも個人的にはアルバム『モダンビジョン』とかシングル「雨のハイウェイ」とは好きだった。
で、世間的にその後話題になったのは松田聖子との不倫疑惑だったわけですが。(松田聖子に関しては、原田真二は初期アルバムでも「パイナップルアイランド」とか「ピンクのスクーター」などの名曲を書いている。)

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2006年11月15日 (水)

佐良直美/二十一世紀音頭

000021seiki佐良直美/二十一世紀音頭
作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく
1970年/¥500
ビクターレコード/MV-578-S


この寒い時期に盆踊り用の曲の話題でしつれいします。(前回、前々回がかなりマイナーだったので、どメジャーな曲をやろうと思ったのですが)

三波春夫「世界の国からこんにちは」一番有名なVer.
000sekai01実は、30年以上に及ぶ「これ何だ?」が解明されたので、この曲を。
って、そんな大袈裟な話じゃないんだけど、ずっとずっと前の雑記にも書いた「子供の頃、地域の盆踊りで毎年毎年使われていた曲が耳に残って...」という話題。

小学校時代に盆踊りの曲として「♪これから〜31年経ったら、この世は21世紀ぃぃ♪この世はどうなっているかしら?」という歌詞の音頭ものがあったのです・
子供心になんか「凄く完成度の高い音頭」と感じていて、その歌詞はほとんど暗記していて、バックの演奏のフレーズも記憶しているほどでした。

坂本九「世界の国からこんにちは」紅白で歌われたVer.
000sekai02歌詞の内容から察する処、多分1970年に作られた曲らしいんですが、そのタイトルも歌手名も判らない状態で、友人に話しても「そんな曲知らない」とのことで自分にとって幻のヒット曲になっておりました。(多分自分が踊っていたのは、1970年にリリースされてから数年後)
たぶん、高校時代にもそんな話題を周囲に対してして「知らない」と言われていたので、もう四半世紀に渡る疑問だったのです。(高校時代にその盆踊りを主催した青年部の建家に入る機会があって、レコードないかと探したが発見できず)

吉永小百合「世界の国からこんにちは」万博タイムカプセルVer.
000sekai03で、それが「インターネットって便利だなぁ」を実感する状態であるのですが、先日ふと「そういえば!」とその記憶している歌詞を入力して検索してみると、瞬時に「佐良直美/二十一世紀音頭」だという事が判明したのであります。

そうか、佐良直美だったのか。作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく、という作った人々も大御所なので、この完成度は納得なのだ。

倍賞美津子「世界の国からこんにちは」
000sekai04時代としては1970年は、大阪で万国博覧会が開催されていて、未来がまだ眩しく明るい物であって、文明の進歩が人類にとって望むべき未来だった。
学生運動なども一段落していたハズだし、高度経済成長もピークを迎えていた事から、この先に控えているのはまったく曇りのない幸せあふれる世界だったハズなのだ。

山本リンダ「世界の国からこんにちは」
000sekai05歌詞の中で「♪火星や金星、遠くの星に旅行に出かけているかしら」とも歌っているのですが、1970年の前年1969年にアポロ11号で初の月面着陸をしたという事もあって、宇宙開発は当然進んでいて、21世紀を迎える頃には宇宙ステーションが出来ていて、その中で多くの人が地球上と変わらない生活をしているというのが「当然来るべき未来」として描かれていたのだと思う。
その辺は残念だったし、地球上もそんなに素晴らしい未来を迎えてはいなかった。

西郷輝彦「世界の国からこんにちは」
000sekai061960年代中期に始まったベトナム戦争は1973年に終結したが、それから30年経っても人類は戦争をし続けている。馬鹿な国が核兵器をさらに生産して軍事的脅威で自国を守ろうと躍起になっている。
子供の頃の自分は、すなおに未来図を描きながらこの曲を聴きながら盆踊りで踊っていましたが、この世はあんまし良くない方に転がっていますよ。

きっと「未来に夢がもてない時代」というのが、色々な部分にさらなる歪みを作っていくんだろうなぁ
しゃんらららしゃんらら〜21世紀の夜明けは近い♪

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2006年11月 2日 (木)

沢田研二/時の過ぎゆくままに

Sawa009_3沢田研二/時の過ぎゆくままに
作詞.阿久悠/作曲.編曲.大野克夫
ポリドール/DR 1965
1975年08月21日/¥500



1967年にグループサウンズ(GS)のタイガースでデビューした沢田研二
ジュリーという愛称と共にGSを代表するアイドルになっていたが、そのGS人気も1970年代に入るといきなり下火になって1970年12月07日にタイガース解散(ソロアルバムはその前年の1969年12月01日にリリースしている)。

00sawa001その後、1971年にテンプターズの萩原健一(Vo.ショーケン)・大口広司(D)、スパイダースの井上尭之(G)・大野克夫(KEY)・タイガースの岸部おさみ(B.岸部修三→現在の岸部一徳)というメンツで、新時代のバンド「PYG」を結成。しかし、その後、大きなヒットもなく1972年に自然消滅をしている。

Sawa002PYGの活動と並行してシングル「君をのせて」でソロ歌手として活動も始め、2枚目の「許されない愛(1972/03/11)」が大ヒットし、レコード大賞の歌唱賞などを受賞し、ソロ歌手としての活動がメインになっていく。
そして表題の「時の過ぎゆくままに」は1975年8月に発売された曲だが、この時代はアイドル的な要素も強く、前年1974年に放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」の中で悠木千帆(現.樹木希林)が壁のポスターに向かって「ジュ....ジュリ〜〜〜〜」と叫んでいた事に象徴されるような時代だったのだ。

Sawa003しかし、そのアイドルとして絶頂期の1975年7月に沢田研二はザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚している。その結婚後第1弾シングルがこの「時の過ぎゆくままに」だった。
さらに、それまで沢田研二はドラマのゲストや単発ドラマなどの出演があったが、初の連続ドラマ主役として話題になった「悪魔のようなあいつ」というドラマの主題歌でもあった。
その話題性も十分あったとは思うけれど、この曲は盟友・大野克夫の珠玉の名曲で、出だしのギターフレーズから哀愁路線どっぷりで、さらにジュリーのボーカルがGS時代より格段に色気をましてしっとりと抑え気味に歌うという物。大野克夫が沢田研二という稀代のボーカリストの声質をいかに生かせるかという研究の末に作られた曲という雰囲気なのだ。

Sawa004この曲は90万枚を超える大ヒットとなって、結婚なんて物は人気には全然影響ないじゃんという状態ではあったのだ。
が、好事魔が多いということで、1976年に新幹線の中で暴言を吐かれ、それで暴行事件を起こし、しばらく謹慎となったワケです。
もっとも、復帰後は「アイドル沢田研二」ではなく「エンターテナー沢田研二」として1980年代までどんどんエスカレートして突っ走っていく事になるわけでやんす。

Sawa005とにかくこの曲は名曲中の名曲だと思っております。
ちなみに演奏は「井上堯之バンド」で、PYGの井上堯之・大野克夫・岸部修三(岸部一徳)が参加している。今は俳優だけのイメージの岸部一徳は、この「悪魔のようなあいつ」に俳優としても出演していますが、70年代までは同時にベーシストとしても活動していたのであります。

Sawa006で、ドラマ「悪魔のようなあいつ」という作品は、1968年12月10日に東京府中市で起こった「東芝府中工場のボーナス強奪事件」いわゆる「3億円事件」を題材にした物で、1975年6月6日〜9月26日に放送された。
主題歌はヒットしたんですが、実は視聴率的には思ったほどいかなかったらしく、本当は年末まで放送して、窃盗事件の時効7年の1975年12月10日前後にクライマックスを持ってくる予定だったらしいが、その前に打ち切りになったという。

Sawa007そしてこのドラマの脚本を書いていたのが映画監督としても有名な長谷川和彦。ここでジュリーの演技に惚れ込んで、原爆を安アパートの中で作り上げ政府を脅迫する男を描いた「太陽を盗んだ男(1979)」の主役に起用することになる。
東海村の原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、自宅で原爆を作ったけれど、目的が見あたらない犯人が「とりあえず今見ているナイター中継を最期まで放送しろ」と政府を脅迫したり「ローリングストーンズを来日させろ」と要求したりという、これも名作でやんす。

三億円事件の豆知泉

Sawa0083億円事件。結局は7年かかっても犯人が見つからず時効となったのだが、それに費やした捜査費用はおよそ3億3,000万円。

1968年に起こった「三億円事件」で盗まれた正確な金額は294,371,510円。あの犯人は562万8490円分のぬれぎぬを着せられたことになる。

奪われた金額を語呂合わせで読むと「にくしみのない強盗」

給料を銀行振り込み型にした第1号は1941年の大蔵省。貯蓄額倍増計画の一環としてだったが民間会社はほとんど実施しなかった。振り込み型が一般的になるのは1968年に三億円事件で給料輸送車が狙われたのがキッカケ。

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2006年10月24日 (火)

サディスティック・ミカ・バンド「NARKISSOS:ナルキッソス」

サディスティック・ミカ・バンドのニューアルバム「NARKISSOS:ナルキッソス」が発表された。


000micaba今年の春先に「木村カエラがボーカルで復活!」とブログでもネタにして、そこでミカバンドの歴史なども書いたワケですが、さらに歴史に1ページが加わりました。
キリン・ラガーのCMでは春から代表曲「タイムマシーンにお願い」が流れていたんですが、そこでの加藤和彦の声で「時代は変わる、ラガーは変わるな」とキャッチコピーを言うのも「あぁぁぁぁぁ」と自分的には毎回ゾクゾク来ていたワケっす。

加藤和彦がCMでこんなふうのキャッチコピーを言うのは、1970年代初期のモービル石油のCM。藤竜也と鈴木ヒロミツがエンストした車を手で押している物で、マイク真木が歌う「♪の〜んびり行こうよ俺たちは」のメロディーの最後に「車はガソリンで走るものです」とあの独特の口調で語るもので、これが少年期に刷り込まれているので、今でも加藤和彦の声を聞いているだけで幸せな気分になるでやんす。

加藤和彦とCMというと、1970年の富士ゼロックスのCMで加藤和彦が手に「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持ち、ただただ街を歩いている物があった。音楽も加藤和彦がこちらもただ「ビューティフル、ビューティフル」と繰り返すだけの物で、何のCMか全然判らない状態で延々と続き、ラストに「モーレツからビューティフルへ、XEROX」という文字が出る。というだけのものがあった。
ハッキリ言って、まだ小学生の低学年の時に見たCMなので印象には残っているけれど、一体何のCMなのかは不明だった。(というか、この文章を書くためにネット検索して初めて富士ゼロックスだと知った)
当時、加藤和彦は「フォーククルセダーズ」と「ミカバンド」の間の時代で、世間ではヒッピームーブメントやフラワーチルドレンなんて言葉の中心にいたハズです。

で、今回の木村カエラ版ミカバンドのアルバムなんですが、一言でいって「時代を超えちゃってますな」という感じ。初代ミカバンド自体が時代なんかとは関係ない場所にいたんですが、まさにそのミカバンドの「新作」という感じでもあるし、「前作の続き」って感じでもある。
新曲は加藤和彦作曲が3曲、小原礼作曲が3曲、高橋幸宏作曲が2曲、高中正義作曲が2曲で、それぞれの持ち味がバリバリに前面に出ていて、クレジットを見なくても誰が作曲したか判ってしまうんですが、それでも「ミカバンド」という音になっている。
CMでも使われ、先行発売(ネットのみ?)されていた「タイムマシーンにお願い」の音造りを聞くと今の時代っぽいミキシングを感じるけれど、その骨になる部分は70年代と変わっていないような気がする。

高橋幸宏の軽くて重いドラム。ややツッコミ気味だけど、ロールを多用するけれど、なんでこんなに自己主張がなくて存在感があるんだろうか、と、改めてその特殊性に感心する。
高中正義のクールで押しつけがましくないテクニック満載のギターフレーズ。
小原礼のドッシリと屋台骨を支えるベース。その裏でこっそりと縦横無尽に音を走らせて色を加えている。
加藤和彦はソロで弾くと味があるギターを抑えめにしてサイドに徹していますが、作曲とボーカルはどこに行っても加藤和彦。さすがトノバンなのだ。(トノバン=加藤和彦の70年代の愛称で、イギリスの60年代ヒッピームーブメントの代表歌手ドノヴァンが好きだった事からのネーミング)

で、木村カエラのボーカルがソロの時より格段に良い。メインボーカルとして歌っている時ではなく、高橋幸宏がメインで歌っている時に絡むコーラス的な歌い方とか、抑える歌い方も良い。
桐島カレン版のミカバンドは、良くも悪くも「桐島カレンという素材でミカバンドを作ってみました」という感じだったのに比べ、今回のミカバンドは完成度が高いと思うのだ。

売れる売れないを別にして自分的には2006年の名盤となりました。
ちなみにバンド名は「サディスティックミカバンド」ですが、ジャケットには「Sadistic Mikaela Band」となっている。(初代がMIka、二代目はMIca、三代目はMIikaelaですか)
※7曲目「Tumbleweed」の2分25秒の所で一瞬、音が震える状態になるんですが、最初iTunesに取り込んだ物を聞いたのでそのせいかと思ったんですが、CDもそんな感じ。これって意図的なアレンジなんですかね?

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2006年10月19日 (木)

槇原敬之と松本零士のパクリ問題:3

ブログの順番でこっちが上になってしまってますが、槇原敬之と松本零士のパクリ問題:3


歌詞のパクリだったら、もっと凄いのは山ほどいる。
例えば五木ひろし「よこはまたそがれ(作詞.山口洋子)」辺りはフランスの古い詩の翻訳みたいな流用だったり、松本隆もディランとかの詩を翻訳してまんま使ってます。

思いっきり判りやすい物では中原中也「在りし日の歌」に収録された「頑是ない歌」を、どっかで国語教師をしているあの人がマルッとコピペして作詞に自分の名前をクレジットしてます。(この曲の歌詞カードに元ネタとかの明記あるんでしょうか?)
自分はずっとこの曲、中原中也の詩を元に曲として組み立て直した物だと思い続けていたんですが、10年ほど前のインタビューを読んでびっくりしてしまいました。
なんせ「実はこの詩を書いた時、自分はまだ20代だったんですが、今思うとよくこんな深い意味の詩を書けた物だと、自分の事ながら感心しています」と答えていたわけで。
60年代からのフォークムーブメントの中で、古典的な詩に勝手にメロディを付けて歌うという流れもあったけれど、それの一種なのかなぁ。
それとも「元ネタは有名なのであえて引用と説明しなくてもいい」という感じなんすかね?

曲の方の詩は著作権の問題で掲載できませんが(今回、槇原の関係で検索して歌詞のコピペが山盛りになっていてビックリ)、中原中也の方は著作権保護期間が過ぎていますのでコピペ。

「頑是ない歌」中原中也
思へば遠く来たもんだ/十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた/汽車の湯気は今いづこ

雲の間に月はいて/それな汽笛を耳にすると
しょう然として身をすくめ/月はその時空にいた
それから何年経つたことか/汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつていた/あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち/思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時(いつ)までか/生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど/遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては/なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り/結局我ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら/いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ/結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして/どうにかやつてはゆくのでせう

考えてみれば簡単だ/畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方ない/やりさえすればよいのだと
思うけれどもそれもそれ/十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた/汽車の湯気は今いづこ

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2006年10月18日 (水)

槇原敬之と松本零士のパクリ問題:2

ブログの順番でこっちが上になってしまってますが、槇原敬之と松本零士のパクリ問題:2


槇原側が「もしかしたらどっかで聞きかじったフレーズが出てきたかも知れない」と答えたそうですが、その後、松本零士が「じゃ、引用したって事で表明して貰えますか?」と言いだし、それに関しては槇原敬之は「それは出来ません」と答えたことから、さらに問題はこじれているという。
創作物ってのはゼロから出発する物ではなく、その人が過去に見聞きした物が濾過されて出てくるような部分もある。「絶対に影響を受けていない」という否定は実は難しい。その辺も松本零士は判らないのかなぁ。

実は同じようなことが自分にもあった。
自分のサイトの初期は「雑学」と同時に「現代用語の基礎的ではない知識」という、お笑い系辞書というものを二本柱にしていた。
それだけのメルマガも発行していた。
その中でとあるネタを書いた処、突然、デーモン木暮を気取っているかのような文章で「貴殿は余の書いた文章をパクったな」とメールが届けられた。
その内容は、そこに書いてあるネタがその人物がやっている同傾向のサイトに掲示しているネタと似ているという物だった。その人物のサイトにいってそこを見ると確かに似たネタがあった。
でも、そのメルマガに乗せたネタはずっと昔、パソコン通信時代に書いたネタを再掲載した物だったので、パクリって事じゃないのは明かなのだ。

で、相手の要求は「メルマガに掲載したネタはパクった物だ」と、自分が発行しているメルマガに謝罪文を載せて、その人物のメルマガとサイトの宣伝を掲載せよという物だった。その人物もメルマガを出していたとその時知ったんだけど、その時点で相手のメルマガの発行部数は自分のメルマガの半分以下(もっと少なかったかも知れない)。
そこで「最初に発表したパソコン通信のネットはまだ健在なので、そこでチェック出来る」と言ったワケで