2009年5月16日 (土)

多摩蘭坂を登り切る手前

この2年、ずっと蔵書の整理をしているような感じ。基本的に図書館的に使えるように色々な作業をしている。
そんな中でジャストなタイミングRCサクセションの単行本が出てきた。
『遊びじゃないんだっ』というタイトルで1990年9月にマガジンハウスから発行された物で、サブタイトルが『RCサクセションの40年(上)1969〜1990』


2009051601つまり、この時点でデビュー20周年なのですがギャグとして「40周年記念出版(上巻)」、下巻は20年後に出ますよ。って事なのだ。
なんか「奇しくも」というか「不吉な」というか、その20年後というのが丁度来年。
この本が出た時はまさか20年後なんて誰も想像していなかっただろうし、下巻の2010年がRCサクセションのメンバーにとってどんな未来になっているのかなんて想像もしていなかったと思う。
自分もこの単行本を買った時に、20年後なんて想像も出来なかったし「20年後って」と笑っていたと思う。
まさかアッサリと20年が経過して、まさか忌野清志郎が20年目には地球上にいなくなっているなんて思ってもみなかった。

2009051602この単行本が発売された1990年9月にRCサクセションとしてのラストアルバム『Baby A Go Go』がリリースされている。このアルバムのレコーディング前にキーボードのGee2woが脱退していて、さらにアルバム制作中にドラムの新井田耕造が色々あって脱退して、結果としてリリースした時には忌野清志郎(Vo.G)、仲井戸麗市(G)、小林和生(B)の3人となっている(単行本の表紙もこの3人)
そしてこの年の12月に武道館で解散コンサートを開催している事から、すでにこの単行本の時はそんな話になっていたのだと思う。でも、最終的にフォークだったRCと同じような3人組になっていたのだなぁと今さらながらに思ったりする。小林和生は最初から最後までRCのベースで有り続けたワケです。リンコワッショー!(ちなみに結果として忌野清志郎ラストライブとなってしまった去年の武道館では、ギター仲井戸麗市、ドラム新井田耕造だったので、プチRC復活祭でもあったワケです/小林和生は現在音楽活動から引退し左官をしているそうです)
しかし『RCサクセションの40年(上)1969〜1990』というサブタイトルは「この先は無いんだよ」というギャグだったのか、それとも「いつか復活する」という意味合いだったのかと、勝手に深く考えを巡らせてしまうのだ。

2009051603忌野清志郎と言えば売れなかった時代に、井上陽水のアルバムに曲を書いた事がある。
それが名曲『帰れない二人』『待ちぼうけ』の2曲。忌野清志郎のロマンティストな部分が凄く出ている曲で、それが陽水のクリアな歌声でキンと張りつめた世界観を構築している。もしかしたら自分が「忌野清志郎」という名前を一番最初に知ったのはこのアルバムかもしれない。そしておそらくその時はちゃんと名前を読めなかったんじゃないかと。
その曲が収録されたアルバム『氷の世界』が日本初の100万枚突破アルバムとなった事で、しばらくその印税で細々と生活が出来た、という雑学は結構有名だと思う。
それに関係した雑学
井上陽水『氷の世界』のジャケット写真は楽屋らしき場所でギターを弾いている井上陽水。ここで陽水が弾いているギターはギブソン(ちょっと小さめの珍しいモデル)なのだが、実はこれ忌野清志郎の所有物。

2009051604と言うことで、ずっと忌野清志郎ショックが続いているワケですが、この週末、国立市で行われた友人キヨハラアラタ氏の個展へ行ってきた。
自分のように、絵を描いたり、音楽やったり、文章書いたり、ラジオで喋ってみたり、そしてテレビに出たりと首尾一貫していないでフラフラしている人から見ると、ずっとイラスト、アートの世界を追及し続けているというのは凄いなぁと、ちょっと感動すら覚える。
自分はすぐ煮詰まってしまうタイプなので、その時の緊急避難場所として音楽だったり、文章だったりを用意してしまうのが卑怯なんだよなぁ。一時期、仕事が忙しすぎて何をやってもダメだった時は、毎日自宅にいる短い時間、毎晩毎晩ずっとプラモデルを作っていた事もある。本当に常に逃げ腰体質なのだ。
キヨハラさんだって煮詰まる事もあると思うけど、ずっと絵で表現するという事にこだわり続けている。その潔さにも拍手なのだ。

2009051605そして国立市ということで、RCサクセションの曲で歌われている「多摩蘭坂」へ。
凄くミーハーだなぁと思う部分もあるけれど、とりあえず今だからと行ってきた。
歌では「多摩蘭坂を登り切る手前の、坂の途中の家を借りて住んでる♪」と歌われているが、その坂自体はそんな観光名所になるような場所ではなく極々普通の東京郊外にある普通の坂道なのだ。
「たまらん坂」と書かれた碑のある場所には、多くの花束とメッセージが残されていた。
この近所に住んでいてキヨシローの事をあんまり知らないというオジサンが「最初ここに花束がこんなにあったので、近くで交通事故でもあったのか?って思っていたんだよねえ、こんな坂を歌った曲があるなんて知らなかった」と語っていた。
そりゃそうだよなぁ、あの名曲を知らない人にとっては「なんじゃそりゃ」なのかも知れない。
だけども、忌野清志郎という人は「愛しあってるかい!」と叫び続け、その結果、こんな形で多くの人に愛を捧げられているんだなぁと改めて感じた。

2009051606この日は最終的に美術学校時代の仲間が(いつものメンバーですが)ハシモトさんちに集まって、「シリスギ仙人」の大活躍を笑った後、忌野清志郎が去年行った復活祭のDVDをみんなで観賞。
実はキヨハラさんはこのライブに行くためにチケットを取っていたのですが、当日になってお母さんが倒れてしまい行けなかったという事で、悔やんでも悔やみきれないという話だった。
やはりライブ冒頭の闘病生活の連続写真がかなり衝撃的だった。病室にいる、異常に老けてしまったキヨシロー。抗ガン剤治療の副作用で頭髪が抜け落ちてしまった事から、残りの毛も全て剃ってしまった顔が会場のスクリーン一杯に映し出される。そこから毎日毎日撮影したキヨシローの顔のアップがコマ撮りのようにカシャカシャと表示されていく。

2009051607最初の写真ではすっかり病人の顔で、覇気もなく「これがあの精力的なキヨシロー?」という感じで正視に耐えない感もあるのだが、そのカシャカシャが続くと徐々に髪の毛も生えてきて、次第に目に力が出てくる。
髪の毛がある程度まで伸びた処で、いきなりその髪の毛がツン!と上を向き(会場からうぉーっと歓声)、目力が強くなった処でメイクもしはじめ、徐々に自分たちの知っているKING OF ROCK忌野清志郎が完成していく。
そしてベッドから立ち上がり、病院の自動ドアを抜け街中を歩き始めるキヨシロー。ここまでの映像はすべてモノクロなのですが、その歩き始めた足許にはアニメ映画「イエローサブマリン」のようなサイケな色彩の花が咲き、映像に合わせて音もズシンズシンしはじめる。そして画面が一気に総天然色に変わり、忌野清志郎がステージに登場する。
すでに忌野清志郎はこの地球上にはいないけど、その1年前の映像だけど、やはり全盛期と比べると体力的にキツそうだけど「復活してくれたキヨシロー」にはちょっと涙がチョチョ切れそうな気持ちになる。

でもキヨシローには湿った気分は似合わないなぁ。
どんなキツイ現実にだって、月光仮面が来ないリアルな現実にだって、「さあ笑ってごらんよ、AHAHAHA♪」と言ってくれるハズさ。

| | コメント (1)

2009年5月13日 (水)

木之内みどり『あした悪魔になあれ』

木之内みどり『あした悪魔になあれ』
作詞.阿久悠/作曲.三木たかし/編曲.三木たかし
1974年09月10日/¥600
NAVレコード/NA-9


2009051301作曲家・三木たかしさん追悼という事で、編曲まで担当しているこの曲を取り上げます。
他に編曲までしている曲で思いつくのは岩崎宏美「思秋期」あべ静江「みずいろの手紙」伊藤咲子「木枯らしの二人」「乙女のワルツ」石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など。
アレンジャーとしてはストリングスを多用したドラマティックな物が印象的でした。

木之内みどりに関してはデビュー曲の「めざめ」に続いて2曲目で、この曲はブラスやギターのカッティングも耳に残るのですが、それ以上に耳に残るのは女性コーラス。出だしにサビを持ってくるというパターンなのですが「今日はっ可愛いッキミでッ」と始まる箇所にバックコーラスが木之内みどりの声をかき消すように入ってくる。
というか完全にかき消しています。やはり1曲の「めざめ」の反省からこうなったんじゃないかと思うわけです。声が細く声量がないことから、とりあえずサビだけでも盛り上がっているように聞かせるためのアイディアかと。
最初聞いた時は完全に女性コーラスだけで始まる曲かと思っていたんだけど、その女性コーラスの中に沈んだようにか細い声で木之内みどりが歌っているのを発見して、そりゃないだろと思った事もある。
1曲目「めざめ」のサビ「虐めちゃイヤイヤァ♪急いじゃイヤイヤァ♪怒っちゃイヤ、イヤイヤァン♪」も嫌いじゃないっすけどね。

2009051303三木たかし追悼番組ではやはり石川さゆり・テレサテンあたりに書いた曲が大きく取り上げられていましたが、個人的には三木たかしベスト3は、木之内みどり「あした悪魔になあれ」、キャンディーズ「哀愁のシンフォニー」、吉田真梨「もどり橋」って感じで、番外編でザ・バーズ「ふり向くな君は美しい」です。
「ふり向くな君は美しい」は高校サッカーの大会歌として1976年から使われている曲なんですが、シズオカに育った私は好むと好まざるを得ず「サッカー大国シズオカ」という事で毎日テレビでこの曲がヘビーローテーションされていた事から、このメロディを聴くと高校時代に記憶が戻ってしまうのだ。
個人的にはあざとい作曲をする筒美京平が大好きだったので、あまりにもスルッと聞けてしまう曲を作る三木たかしは昔はあまり注目していませんでした。
が、曲を作ったり、分析するようになって「!」と思ってしまった。こいつは凄いや、と。

三木たかしという作曲家の凄さは、技巧を感じさせない技巧。楽譜で見ると特殊な事をやっているのに普通に聞いた時にその特殊さを感じさせずに、スルッと耳に馴染ませてしまうという技巧。
例えば『津軽海峡・冬景色』を聞くと普通にメロディの綺麗な演歌として聞けてしまうのですが、実際の事を言えば出だしの「上野発の夜行列車降りた時から♪」は楽譜上ではすべて三連符で書かれている。つまり1小節の中に12音が均等に並んでいるのだ。それに続く「青森駅は雪の中♪」になると三連だけど4分音符と8部音符の繰り返し。
演歌として考えないとロカビリーとスィング的な曲なのだ。
それを普通にカラオケ好きなおばちゃん達にすんなりと歌わせてしまう。もっともこの三連があるために「なんか歌いこなすのが大変なんだよねぇ」となるんだけれど、それでも三連の曲なんて事を意識させない曲作りになっているのだ。
この曲がロカビリーなのはサビ「凍えそうなカモメ見つめ泣いていました♪」の部分。ここのメロディはアレンジを変えれば思いっきりロカビリーですよ。
でも三木たかしの技巧と石川さゆりの演歌魂によって細かい事は考えさせない曲に仕上がっている。
三連ではなく日本ではあまりヒット曲がない三拍子の曲も、伊藤咲子「乙女のワルツ」、わらべ「めだかの兄妹」とヒットさせているっても技巧派ならでは。

凄いことをいかにも「凄いことやっていますよ」と見せてしまうのは誰にでも出来るけど、こうサラッとやってしまう職業作家としてのスキルの高さはちょっとマネが出来ないっす。
素敵な曲をありがとうございます、感謝します。

| | コメント (1)

2009年5月 3日 (日)

RCサクセション『ステップ!』:忌野清志郎追悼

RCサクセション『ステップ!』
作詞.忌野清志郎/作曲.椎名和夫/編曲.椎名和夫
1979年07月21日/¥600
KITTY・POLYDOR/DKQ-1063


200905031恐れていた日がついに来てしまいました。
2006年に喉頭癌になったと発表し、それ以降は入退院を繰り返していた忌野清志郎が2009年5月2日、午前0時51分に癌性リンパ管症により58年の生涯を閉じた。
去年11月頃に、間寛平が地球一周マラソンに出かける直前、応援曲を書いたという事でテレビでその映像が流れていたけれど、その時になんかむくんだようで年齢より老けたような感じがしていた。おそらくそれが生前最後の映像で、最後の曲になるんじゃないかと思う。

以前、喉頭癌で入院した時にも書いたけれど、中学生の頃、土曜日の笑福亭鶴光師匠のオールナイトニッポンの3時過ぎ、フトンの中でぼーっとした頭で聞いている時に流れてきた悲しげなピアノのイントロの曲「スローバラード」で衝撃を受けた。
と言っても、曲紹介の処はハッキリ聞いていなかったのでアーティスト名も曲名も解らないまま、市営グランドの駐車場で夜明けを迎える二人の切ない恋心を切なげに歌った声だけが心の中に残っていった。田舎の中学生には許容範囲外だった世界だったけれど、なんか切ない切ない気持ちになった。
ただ、その時はそのままで曲名を調べる術もなく、ただ胸に刻まれただけだった。
それから3年後、その時の絞り出すような声に再会する事となった。

2009050361979年の夏だったと思うけれど、月曜夜8時台、NTV「紅白歌のベストテン」に突然、まだ日本ではまったく認知されていなかったビリビリに破れたシャツやズボンで、髪の毛をツンツン立てた派手なメイクをしたバンドが登場したのだ。しかも他の歌手が司会者の堺正章とのトークをした後で歌い始めるのが常だった番組で、何の前触れもなく紹介されて演奏が始まった。
バンド名は「RCサクセション」曲名は「ステップ」
ブラスが中心のアレンジでパンキッシュな感じは薄かったが「♪これが流行りのステップ!」と歌う忌野清志郎はそれまで日本のテレビには存在しなかった異形の生物だった。ステージを右に左に歩きながら歌い、挑発的なポーズを取り絞り出すように「♪真夜中のDance, Dance, Dance, Dance♪」と歌うボーカルスタイルは新しい何かを予感させるモノだった。
ちなみにシングル「ステップ!」の演奏はスタジオミュージシャンによる物。作曲は元はちみつぱいのギター椎名和夫となっているが、後にライブ盤では作曲忌野清志郎となっている(誤記なのかは不明)

200905035RCサクセションは1970年に「宝くじは買わない」でデビューし、1972年の「ぼくの好きな先生」がヒットしている。
実はこの曲は中学時代に知っていたのだけど、その後に聞いた「スローバラード」とは全然結びついていなかったので、同じバンドの曲とは思っていなかった。
どちらかというと「さなえちゃん」を歌っていた「古井戸」とかあの辺のグループの曲だと思っていた(ってそれも微妙な話なんだけど)。
バンド化したRCサクセションはLiveアルバム『RHAPSODY』そしてその前に発売していたシングル「雨あがりの夜空に」がジワジワと売れ初め、10月にリリースしたシングル「トランジスタ・ラジオ」のヒット、12月にアルバム『PLEASE』と、名実共にライブバンドとして一気に上り詰めていくのだ。

200905034
1979年〜1980年頃はとにかく大学祭とかに出演したが、それまでの数年、所属していたホリプロとの色々があって仕事を干されていた過去を吹っ切るためにどんな環境でもライブをしていた。
この時にバックアップをしたのが旧友・泉谷しげるでステージ衣装などにもアイディアを出したらしい。
泉谷は仕事を干されて忌野清志郎がグダグダしている時にハッパを掛ける意味でキツイ言葉も言ったらしく、それに奮起した忌野清志郎が書いたのが「あきれて物もいえない」という曲。
当初は泉谷の言葉に本気で怒った忌野清志郎は「♪ビッコの山師が俺が死んだって言ったってさ♪」という歌っていたが、後に誤解が解け「♪どっかの山師が♪」と歌詞を直し『PLEASE』に収録した。

その1〜2年でRCは時代の寵児となる。
1983年の正月、NHKが若者向け番組「YOU」の中でRCのライブを放送したのだが、「気持ちE」を歌っている時、突然客の歓声が盛り上がり歌詞が聞き取れないほどになった事がある。実はその聞き取れなくなった歌詞は「女と寝ている時にも」という物で、やっぱりNHK的にはそこは放送出来ない、でもピーッ音でかき消しては興醒めという事でそんな措置に出たのだと思うけど、そんな事をしてもRCのライブを放送したいって感じに人気が高まっていたのだ。

200905032忌野清志郎を生放送に出演させるのは危険で、1981年に「夜のヒットスタジオ」に出演した時も事件を起こした。歌ったのは「トランジスタラジオ」。バックではセーラー服を着たダンサーが踊っていたのだが、いきなり両サイドで踊っているダンサーの頭を両脇にハサミ暴れる忌野清志郎。その後、カメラに向かってガムを吐き出すという暴挙に出た。その事で抗議電話500本超えで回線パンク。

1989年、同じくフジテレビが放送した「夜ヒットR&N」に覆面バンド『TIMERS』として出演した時には予定に無かった「FM東京」という曲を歌い始めた。その少し前にRCとしてリリースしようとした「カバーズ」が原発がらみで放送禁止にした事から「タイマーズのテーマ」に続いて(この曲も♪TIMERが大好きTIMERを持っている♪という危険な物、よく放送出来たなぁ)いきなり「♪FM東京腐ったラジオ、FM東京最低のラジオ、なんでもかんでも放送禁止さ♪」という歌詞を歌い始めた。

これに関して、実はフジテレビのスタッフもグルで最初からこれを歌う予定だったという噂もある。かなりシッカリと「FM東京」を歌いきって、さらに続けて「デイドリームビリーバー」「イモ」まで全10分歌っている。普通だったら放送事故扱いでCM突入とか処置があったハズなのに、しっかりカメラ割りまで行われている。
そして本来なら永年出入り禁止になりそうなのに、この番組の数日後に忌野清志郎はフジテレビの番組に出演している。とりあえず出入り禁止になったのは覆面バンド「TIMERS」のボーカル・ジェリー氏で、忌野清志郎とは別の人物という扱いだったらしい。

200905033生放送パターンでは、やはりTIMERSが1992年のBS-NHK年末カウントダウンイベントLIVEで、何故かいきなり「明星即席ラーメン」のCM曲を歌い始めた「パパと一緒に食べたいな♪」と。それを歌い終わった処で後でギターを弾いていたMOJO CLUB・三宅伸治(TIMERSでの芸名は忘れた)が「それNHKじゃマズイっすよ」と言いだし、ジェリーが「え、そうなの?どこがマズイんだろう」と首をかしげながらもう一度「♪明星即席ラ〜メン」と歌いだした処でバチッと放送が中断し、別会場で行われていたライブ映像に切り替わった。この時は政治的ではなかったのでお笑いネタとして終わっている。

で、かつてコテンパンに批判されたFM東京(TOKYO FMに改称していたけど)が2003年に放送したアースディコンサートに、和解したのか、それともやはりあれはTIMERSのジェリーという扱いだったのか不明ですが、ソロ歌手として忌野清志郎が出演していた。
生中継の番組だったのですが、そこでもいきなり予定にない曲を歌い始めた。
TIMERSの時に歌っていた「憧れの北朝鮮」という曲で、TIMERS時代の歌詞はちょっと笑える物だったのですが、その時の歌詞はとにかく凄い物だった。
「♪キム・ジョンイル、キム・イルソン♪キムと呼べばみんな仲良くなれるよ♪海辺にいたらタダで拉致して連れていってくれるよ♪」
流石に放送は途中でとぎれて番組パーソナリティが慌ててその場を取り繕って時間を繋いだらしいが、会場では忌野清志郎はこの曲を歌い終わった時に「え〜イラク戦争で最近は影が薄くなってしまった憧れの北朝鮮を歌ってみました」と語り、続けてロックアレンジの「君が代」を歌って締めたらしい。

200905037とまあ、過激な言動や行動を列挙すればキリがないけど、実際のところ忌野清志郎という人物が書く詩の世界はとてつもなく繊細で美しい。
昨日、死去したというニュースを知ってから手持ちの音源を延々と聞き続けているんですが、過激な部分よりも泣けてしまいそうなそれでも無理して大地を踏みしめている切なさが染みる。
1990年前後のバンドブームの時、イカ天とか見ていても忌野清志郎のエピゴーネンが大量生産されているのを感じた(あるいは甲本ヒロト)。が、そのスタイルやシャウトをいくらマネしても宴会芸にしかなっていないように見えてしまったのは、その裏にある切なさが無かったからかも知れない。
1983年に出版された忌野清志郎詩集『エリーゼのために』、1987年『十年ゴム消し』を改めて読み返すと、その言葉のチョイスが美しすぎて、しかも余韻を残すような終わり方の物が多い。実に文学的なのだ。
なんか、読んでいて泣きそうになってしまった。

200905038忌野清志郎に関しては余りにも書きたいことが多くて混乱しているけれど、本当に感謝しています。サンキューフォーユーなのだ。
いつか、ちゃんとした文章を書きたいと思っています。

※2006年7月14日「忌野清志郎が喉頭癌

| | コメント (10)

2009年5月 2日 (土)

平山三紀『ノアの箱舟』

平山三紀『ノアの箱舟』
作詞.橋本淳/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1971年10月25日/¥400
コロムビア/P-142


2009050201一般的には「ノアの方舟」と表記しますが、ここでは「ノアの箱舟」って事で。
この曲は1970年に「ビューティフル・ヨコハマ」でデビューした平山三紀が二枚目の「真夏の出来事」が大ヒットした後に出た、三枚目のシングル。
一般的には「真夏の出来事」「ビューティフル・ヨコハマ」辺りまでは有名なんですが、この曲も10万枚ほどの中ヒットしている。
いわゆるソフトロック路線で「真夏の出来事」よりはアタックは弱いけれど、ブラスも軽快な曲で、マイナー調で始まりサビでメジャーに移調して気持ちよくメロディーのテンションが上がっていく感じが「これぞ筒美京平」という感じなのだ。
平山三紀が歌っているのでその歌唱法に惑わされてしまうけれど、これはそのまま尾崎紀世彦に歌わせてもいいんじゃないかという感じのメロディ。ただ、平山三紀の少しザラついてクールな歌唱法のタメに暑苦しく聞こえないのだ。
しかし歌詞を読んでいくと不思議なことに「ノアの箱舟」をイメージさせる内容ではない。なぜこの歌詞がそんなタイトルになってしまったのか。

B面も橋本×筒美コンビの「心のとびらをノックして」なんですが、こっちもムチャカッコイイ曲。
曲中、サビに至る「♪好きよ I Love you, I Love you, I Love you, I Love you,♪」の部分が南沙織の『傷つく世代』の「♪だめね、だめね、私だめね、かわいそうに♪」の雛形という感じ(悪く言えば流用なんですが)で、グググッとメロディーのスピード感が増して来ます。
一曲の中でリズムをさほどいじらずにドラマチックに展開させるのは上手いよなぁ。
もちろん平山三紀というボーカリストのクセのある歌声は冴えていて、軽く少しハスっぱに歌う感じもマネが出来ないかっこよさで「あなた次第で変わるわ」という歌詞を「あなンた次第で変わァるわン」というニュアンスで歌う感じも、最強っす。
どっちかというとA面よりB面の方が好き。(「ドーナツ盤メモリー~平山三紀」というCDにはB面も収録されている)

別段、これと言って理由はないけどレコード棚にあったこの曲が目に付いたので本日取り上げてみました。

| | コメント (0)

2009年5月 1日 (金)

岡林信康『チューリップのアップリケ』

岡林信康『チューリップのアップリケ』
作詞.岡林信康・大谷あや子/作曲.岡林信康/編曲.岡林信康
1970年/¥500
ビクター/SF-13


2009050101気持ちいい天気が続き、野山には花が咲き乱れ「あぁ春だぁ、生きてきてよかった」と思うワケです。そう言うことで春らしくチューリップをテーマにした曲を。
という事で聞き始めると「みんな貧乏が悪いんや、そやでお母ちゃん家を出て行かはった♪」と気分がどんよりとしてしまうワケです。この世界的不況の波をどう乗り越えようかと頭を抱えてしまうのだ。
フォークの神様と呼ばれた岡林信康の名曲ではあるのですが、あまりにも痛い曲です。
デビュー曲が日雇い労働者の苦痛を歌った「山谷ブルース」だった事や、高度経済成長の中、田舎から集団就職で出てきて歯車のように働かされる労働者などの問題などなど、社会の暗部を鋭く描いた曲を歌い、岡林はワーキングクラスヒーローとして祭り上げられていく。

その世間が求める「岡林信康」というイメージに最初は乗り、より過激なプロテストソングを歌うようになったが、次第にその要求に限界を感じ岡林信康は姿を隠してしまうのだ。
その後、1970年にはっぴいえんど(細野晴臣・大滝詠一・鈴木茂・松本隆)をバックに従えてロック路線を歩み出すこととなる。
って感じなんだけど、なんかボブ・ディランっすよね。フォークの神様→ロックへ転向の経緯とか。
で、ディランのバックバンド「THE BAND」に相当するのが「はっぴいえんど」なんだけど、メンバーは最初の内はあくまでも仕事の一貫として与えられたノルマを果たしたって感じだったみたいです。

2009050102でも1970年に神田共立講堂で開催されたライブでの「私たちの望むものは」なんかを聞くと、先日逮捕されちゃった鈴木茂なんて「この時もキメてんじゃないの?」って疑ってしまうほどギター炸裂しとります。
岡林の2ndアルバム『見る前に跳べ』のバックもはっぴいえんどなのですが、岡林は基本的に作家&歌手で演奏面に関してはさほど思い入れがない事から、はっぴいえんど主導でレコーディングが行われ、後にそのレコーディングの思い出として岡林は「何か言ったら殴られるかと思った」とビビっていたそうです。

この『チューリップのアップリケ』は現在はどういう扱いなのは不明ですが、一時期は放送できない曲として指定されていたそうです。
歌詞を読むと、小学生の女の子の視線から貧乏な家庭が描かれており、実直な靴職人の父と家を出て行ってしまった母。仲違いをしていたおじいちゃんはもう死んだので戻ってきて、チューリップのアップリケのついたスカートを買って来て欲しいと願う曲。
別段、放送できない理由はどこにも見あたらないけれど、一時期は何にでもフタをしようとする風潮があったので、その一貫なのでしょう。

でも現在は、Youtubeなどにもアップされているので(法的には凄く問題あるけれど)それらも聞こうと思えば聞くことが出来る。ある意味便利でいい時代なのだ。その内容に関する判断は各自に出来るという事。
B面の「私たちの望むものは」も名曲。
自分はプロテストソングのブームがすっかり終わった1975年前後、中学生で、この曲を粋がってギターをジャカジャカ弾きながら歌っていたアナクロ少年だったのだ。同級生のフォーク野郎がN.S.Pとかをカバーして、同級生女子をうっとりさせている中を。
そりゃ女子に人気出ないってのも解るよ。早く気づけ中学生時代の俺。

| | コメント (11)

2009年4月30日 (木)

ザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』

ザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』
作詞.山上路夫/作曲.佐藤勝/編曲.佐藤勝
1969年09月/¥400
日本グラモフォン/SDP-2043


2009043001昨日29日は「昭和の日」というワケの解らない祝日になっていまして、とりあえずどっかで昭和を祝ったんでしょうか?もう祝日ではなくとりあえず休み増やしちゃえって感じの日ですよね。
その前の「みどりの日」ってのもよく解らない名称だったけど、とりあえず「昭和天皇の誕生日」っす。
という事で、その昭和がタイトルに付けられた曲ってことで選んだのがこのザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』
いやぁ天気の良い祝日に相応しくないどんよりした曲です。
この曲は天地茂が「非常のライセンス」の主題歌として1974年にカバーしたバージョンの方が有名ですが、こっちがオリジナルバージョン。

2009043002いきなり「♪生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか♪」ですから。もうね、歌詞を読み込めば読み込むほどどんよりとしちゃいます。基本的には「何かをしなくちゃ生まれてきた意味がないんだ」と言っている歌詞なんですが、なんか結末は悲惨なモノが待っているかのような曲調で。
でも、昭和がタイトルに入った曲という事で思いついた『昭和枯れすすき』よりは前向きって事で。
このジャケットに写っているのは歌っているザ・ブルーベル・シンガーズではなく、この曲を主題歌として使った俳優座制作の映画『若者はゆく』の出演者。
左から佐藤オリエ、田中邦衛、山本圭、橋本功、松山省二の五人。
映画『若者たち』の続編として自主上映作品として1969年に作られた映画(ストーリーはここで)高度経済成長期の中でもみくちゃにされる名も無き労働者たちの苦悩を描いた作品。
なんか昨日の「昭和の日」ではなく、明日の「メーデー」に相応しい曲なのか?

2009043003しかし、この曲を今の若い人々が聞くと「演歌じゃん」と思ってしまうのかもしれないけれど、この時代は演歌的な物がジャンルとしてカッチリとしていなかったので、どの世代も普通にこういう曲を聞いていたのだ。
って、自分にとっては全然リアルタイムではないんだけど。
このザ・ブルーベル・シンガーズって、基本的にカレッジフォークのグループで元々は明治学院大学の軽音サークルが出発点で、岩崎稔・福家暢夫・関本裕司・笹島良一・林健一・井野信義という六人がオリジナルメンバーらしい。
B面の「杉の木の下で」は可もなく不可もなしの爽やかなカレッジフォーク。海が恋しちゃったり、青い海原群れ飛ぶカモメな感じの曲。それの作詞作曲が岩崎稔となっている事から、本来はこっちがやりたかった曲で、「昭和ブルース」のようなどんよりした感じの曲はお仕事として押しつけられたんだろうなぁ。

2009043004他にはヒットと呼べる曲はなく、末期に3人組になって、なぜか「月光仮面の歌」をカバーしている。
実はモップスが歌ったカバー曲「月光仮面の歌」が話題になった影響で、その後シャープファイブや寺内タケシとブルージーンズもカバーしている。その流れでのリリースなのかもしれないけれど。
そんなこんなで、この曲を聞きながら、先日まで放送されていたドラマ『銭ゲバ』のエンディング曲「さよなら」を思い出してしまった。あれが後々現在の大不況時代を思い起こさせる『平成ブルース』になるのかなぁ。

| | コメント (0)

2009年4月 2日 (木)

君のひとみは10000ボルト/堀内孝雄

2009040201君のひとみは10000ボルト/堀内孝雄
作詞.谷村新司/作曲.堀内孝雄/編曲.石川鷹彦
東芝EMI/ETP-10455
1978年8月5日/¥600


なんや最近ワケの解らん曲がテレビから流れておる、あの「君のひとみは10000ボルト」って曲なんや?人間の目ン玉から電気が出とるんかい、責任者出てこい!
と人生幸朗師匠が怒りまくっておりました。堀内孝雄のソロデビュー、1978年のヒット曲です。
このジャケットを見ても解るようにアーティスト名は『堀内孝雄[アリス]』で、まだアリスというグループがバリバリに活動中の作品。

すでにソロアルバムを2枚出していた段階の初ソロシングルなんですが、全編に流れるジャンジャカジャンカジャというギターといい、やけにエッジを感じない丸いドラム音といい、そのまんまアリスの曲って感じ。アレンジャーがアリスも担当している石川鷹彦なのでしょうがないかぁ、と思うんだけど、ソロで出す必要もあったのかなぁとも思う。作詞も谷村新司が書いているし。サビのコーラスが女性なのでそこはアリスと違うんだけどねぇ。

2009040204この2年後にサントリービールのCM曲としてリリースした「南回帰線」という曲も、滝ともはるとのデュエットで、これも「アリスでやったらいいんじゃないの?」という印象を持った記憶がある。
ちなみにB面の「故郷には帰りたくない」という曲は、その後の演歌歌手になる伏線みたいな曲。

もともとこの曲は資生堂のCM曲として企画され、その打合せの段階ですでにタイトル・サビ部分の『君のひとみは10000ボルト』という物が決まっていて、それに沿って作詞がされたという経緯がある。
その『君のひとみは10000ボルト』という言葉を考案したのはコピーライター土屋耕一氏だったのですが、その土屋氏が3月27日に死去したという事もあり、ふとこの曲を思い出してしまったワケです。

2009040202他にも土屋氏が考案し、それがCM曲になった物では竹内まりや「戻っておいで、私の時間(伊勢丹)」「不思議なピーチパイ(資生堂)」、ナイヤガラ・トライアングル「A面で恋をして(資生堂)」、ダウンタウンブギバンド「サクセス(資生堂)」などがある。
ペドロ&カプリシャスが歌った資生堂のCM曲「青いはばたき」では作詞までしている。ちなみにこのレコードは販促のみの非売品でB面の「コロン・オア・ティ」という曲も土屋耕一氏の作詞。
そしてB面には2本の溝が刻まれていて、1本は立木リサが歌っているVer.、もう1本には愛川欽也が歌っているVer.が収録されている。どちらが掛かるかは時の運でそれによって吉凶を占うというお遊びレコードになっているのですが、愛川欽也Ver.が掛かると「凶」だそうで、ってキンキンが可哀想でやんす。

2009040203CM以外では明治製菓の「おれ、ゴリラ。おれ、社長の代理。おれ、景品」というのがあった。もちろん自分は子供すぎてそのコピーの秀逸さには気付かず、景品のゴリラが欲しくてしょうがなかったワケですが。
土屋耕一氏は1930年生まれという事なので『君のひとみは10000ボルト』を書いた1978年には48歳。前述の曲タイトルになった物もほぼ同時期の作品なので、凄く勢いがあったんだなぁと感じるのと同時に、その曲が流行っていた頃自分は学生で、曲を書く作業を必死になってやっていたので、知らぬ間に影響を受けていたんだなぁと思うワケであります。英語に逃げずに、当たり前の単語でインパクトを出すってのは本当に難しい。
土屋耕一氏のご冥福をお祈りすると同時に、数々の素晴らしい言葉に感謝致します。

ちなみに、10000ボルトって大袈裟な!と思いがちなんですが、静電気が3千〜1万ボルトで、真冬にありがちなバチッと音がして「うわっぁ!」と叫んで手が痺れるレベルの静電気なので、「死にはしない」って感じの衝撃っすかね。落雷で10億ボルト。
2005年、オーストラリアでウールのシャツに合成ナイロンのジャケットを着た男性が大量の静電気を帯電させ、ビルに入った途端に爆発音と共にカーペットを焦がし、それでも放電しきらずに、逃げ込んだ車のプラスティック製品を溶かしたという事件が発生している。その後も放電し続けるジャケットを計測した所、4万ボルトの静電気を帯電していたらしい。
とりあえず10000ボルトでも心臓が弱くないかぎり大丈夫ではないかと、危険なのは電圧ではなく電流っすよね。

| | コメント (1)

2009年2月28日 (土)

ドモアリガト、ミスターロボット

200902282アカデミー賞に「おくりびと」が選ばれてそっちの話題が盛り上がっているけど、もう一つ短編アニメーション部門で加藤久仁生監督の「つみきのいえ」が選ばれている。
その授賞式のスピーチが心を打つモノだった。
しどろもどろの英語で色々なスタッフに感謝をし、その中で「サンキューマイペンシル…」と呟いた。
なんつーかいい言葉だなぁ と思った次の瞬間、笑ってしまった。
「サンキューマイカンパニーロボット」に続いて一番最後に呟いた言葉が「ドーモアリガト、ミスター・ロボット」
これもなんかシドロモドロ的緊張感の中でつぶやいたワケですが、会場からは笑い声が起こっていた。
STYXかい、ドクターキルロイかい!とこっちも小声で突っ込んでしまったワケですが。


受賞した時に真っ白になって何も言えなくなるのが怖いので、事前にスピーチを考えていたらしいんですが、バカ受けするんじゃないかと思い〆の言葉にSTYXの曲に登場する言葉「ドモアリガト、ミスター・ロボット」を選んだそうです。
加藤久仁生監督は高校時代にハードロック系バンドをやっていた事から、洋楽の知識があったので役に立ったのですな。

2009022811983年にリリースされた『ミスターロボット(Kilroy Was Here)』はMTVのブームの中、大々的に映画並の近未来SF的数曲連作のビデオクリップを制作してしょっちゅうその手の番組で曲が流れていた。
全体のストーリーはうろ覚えだけど、ドクターキルロイの野望を打ち砕くためにトミーが闘う物語で、その中でロボットが窮地を救ってくれる場面があり、そこで流れる曲になぜか日本語が使用されていて「ドモアリガト、ミスターロボット、ドモドモ、ドモアリガット♪」という歌詞が印象的だったのだ。

このアルバムは全米3位にもなり、さらに日本でも知名度を上げたと思うんだけど、メンバーのソロ活動が活発化し(人間関係も色々あったらしいけど)そのままバンドは曲をリリースしなくなり、次に出したのはメンバーチェンジをした1990年となる。
加藤久仁生監督は1977年生まれという事で、1983年にSTYXが『ミスターロボット』をリリースした時はまだ6歳だったんだけど、音楽は年齢も国境も越えるのだ。

ちなみに日本でロボットをテーマにした代表曲といえば、辻加護のW「ロボキッス(2004)」ではなく、榊原郁恵の「ROBOT(1980)」なのだ。

このアカデミー短編アニメーション部門で受賞した事からDVD「つみきのいえ」は注文が殺到して入荷待ち状態だそうですが、自分の場合は「あ〜久々にSTXYの「ミスターロボット」聞きたい!」とレコード棚をひっくり返しているのでありますが、まだレコードジャングルの中から発掘できていないのです。
現在、音楽関連の番組に関わり始めているので所有レコードの整理整頓データベース化が急務なのだが、どうにもこうにも状態なのだ。

| | コメント (5)

2009年1月12日 (月)

レイジー「赤頭巾ちゃん御用心」

レイジー「赤頭巾ちゃん御用心」
作詞.杉山政美/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1978年/¥600
RCA/RVS-1112


2009011201アイドルロックバンド・レイジーの3rdシングル。
この1978年というのは、ちょうどベイシティローラーズを始めとしたロックアイドルブーム時代となっていて、それに便乗したかのようなデビューだった。
イントロ部分でボーカルの左右にギター&ベースが並び、簡単な足を使ったフリがあり、よく友達とそれをマネをした記憶がある。
もっとも自分はこれに憧れてマネをしたワケじゃなく、ある意味「歌謡曲ロック」をバカにしたような感じでマネをしていた。歌謡曲は大好きだったが、なんかバンド形式の歌謡曲に関しては釈然としない部分があって、ちょいと批判的だった。もっとも楽曲自体はちょうどピンクレディを当てていた時代の都倉俊一なので、文句なしにポップでいい曲なんですが。
おそらく「ケッ歌謡曲ロックかよ」というのは、レイジー自身も感じていたと思う。

2009011204と言うのも、元々「レジー」というバンド名はディープパープルの曲名から取られているのですが、本来はバリバリのハードロック路線で結成されたバンドで、デビューのキッカケになったのもABCテレビの「ハローヤング」でパープルの「BURN」を演奏した事だった。
で、それを見てスカウトしたのがかまやつひろし(本日2009年1月12日で70歳!)で、デビューに当たってプロデュースしたのが元アウトキャストの藤田浩一。
このアウトキャストというのは以前キャンディーズの話(2006年4月23日)で書いたけれど、渡辺プロダクション初のGSバンドで、メンバーに後に作曲家になる水谷公生と穂口雄右が在籍していた(この二人がキャンディーズの楽曲の多くを作った)音楽性の高いバンドだったのだ。と同時に後の歌謡界に多大な影響を与えている。

2009011206この曲のヒットでレイジーの名前も有名になったが、ハードロック志向だったメンバーはかなりきつかったと思う。
ついでにニックネームも勝手に決められた。
左にある「燃えろロックンロールファイアーのジャケット右から、ベースの田中宏幸はファニー、キーボードの井上俊次はポッキー、ボーカルの景山浩宣はミッシェル、ギターの高崎晃はスージー、ドラムの樋口宗孝はデイビー、と名付けられたのもかなりキツかったらしい。
ちなみに、1stアルバムでは都倉俊一以外にかまやつひろし、そして何故かユーミンも書き下ろし曲で参加している。

1978年11月号「月刊明星」
2009011202ジャケ写を見ても分かるように明らかにベイシティローラーズをマネした衣装を着せられて、当時は「月刊明星」「月刊平凡」でニコニコ笑いながら登場していたけれど、今見直すとなんか違和感ある。
もっともアイドル的バンドとしての人気は長く続かなかった。
というのも、このヒットと前後して「サザンオールスターズ」や「ツイスト」といったバンドがデビューして、作られたイメージのバンドは一気に過去のモノとなってしまったのだ。
もっともサザンもツイストもデビュー当初はアイドル仕事をさせられて、同様に「月刊明星」「月刊平凡」の表紙を飾っているが。
サザンもデビュー当時はコミックバンドの扱いで、演出としてオリに入れられたり、宙づりにされて歌わされ、それらの辛さを「働けロックバンド(アルバム『TINY BUBBLES.』収録)」で歌っているが、レイジーもかなりきつかったと思う。

1979年4月号サザン、同年6月号ツイスト
2009011203でも逆にメンバーはアイドル人気が無くなった事をチャンスとばかりに、どんどんハードロック路線を突き進み、気が付いた時は「赤頭巾ちゃん御用心」を歌っていたバンドとは思えないバンドに変容していき、ギターのスージー(高崎)はロック雑誌などの人気順位に登場するようになる。
が、事務所的には普通の歌謡番組をブッキングする事が多く、「NTV紅白歌のベストテン」なんかにも出演していたが、末期は普通に夜8時にお茶の間で聞くような種類の曲ではなくなっていて、バリバリに違和感を感じた。
結局、レイジーは1981年に解散し、ギター&ドラム&ベースはハードロックバンド「ラウドネス」を結成(ベースは正式デビュー前に脱退)し世界的に活躍するバンドになる。ベースのファニー(田中)はキーボードとポップスバンド「ネバーランド」を結成。ちなみにレイジーのラストシングル「星のハーティー・ロード」は実質的にはポッキーとファニーの二人だけしか参加していない。
そしてボーカルのミッシェルは景山ヒロノブとしてソロ歌手になり、ドラゴンボール主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA(130万枚)」などでアニメ系歌手として大成功を収めている。
ちなみに1998年に復活をしているが、その時に景山ヒロノブは「赤頭巾ちゃん御用心」を歌うのなら再結成はしない」と言っていたほど、この曲のアイドル的イメージが嫌いだったらしい。

3年でこうなりました。
2009011205本日、このレコードを取り上げたのは発掘したかまやつひろしさんの誕生日って事もあるんだけど、昨年末、2008年11月30日にドラムのデイビーこと樋口宗孝さんが肝細胞癌で亡くなっていた事を先日知ったからです。
実はベースのファニーこと田中宏幸さんも2006年9月1日に急性心不全によって亡くなっています。
自分がリアルタイムで聞いていたバンドメンバーの訃報をこうやって聞くようになってきたというのは、なんか辛いっすが、残した音楽は永遠に聞き継がれていく事だと思います。
冥福をお祈りしつつ、楽しい音楽による時間に感謝いたします。

2009011207ちなみに「赤頭巾ちゃん御用心」というタイトルは、1969年芥川賞を受賞した庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の関連で付けられたモノと思われる。
で、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」を始めとするシリーズの中で主人公が何度も美人ピアニスト中村紘子の事を語っている。たとえば「中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について(いまの先生はいいけれどおじいさんなんだ)優雅にショパンなど弾きながら暮らそうかなと思ったりもするわけだ。」などと書いている。それによって中村紘子と雑誌などで対談のきっかけを作り、公演旅行で自宅を留守にする機会が多いという事で自宅勤務の庄司薫がネコを預かるなどしているうち、最終的には結婚してしまったのだ。そうか、その手があったのか!

| | コメント (0)

2009年1月 4日 (日)

今も歴史の一部なんだなぁ

この2年間、ずっとやっている事がある。
それは資料の整理。


文章とは関係なく正月の富士山
2009010403基本的に自分は典型的な整理整頓大好きなA型で、昔からなにかとインデックスを作ったり、データベースを構築するのが趣味だった。
その結果の1つが「知誕:古今東西著名人誕生日データベース」だったり「出来事データベース」だったりするのです。
それ以外にも蔵書のデータベースや、いまや本職になってしまった雑学のデータベースなどを作ってきた。

しかし、気が付けばこのこの10年以上、もしかしたら20年近く、なんだかんだで時間に追われる日々を過ごしてきたため「ヒマになったらやろう」と棚上げしっぱなしだったモノが多くある。
今も時間に追われる事は多々あるんだけれど、この10年以上はそれとは比較にならない時間を過ごしてきた。
一時期は自宅に居る時間=寝る時間に果てしなく近い状態で「何やってんだ俺?」とか「このまとまった仕事がケリついたら辞めてやる」みたいな事を思いながら、日々を過ごしていた。
ということで、この2年間はそれらを棚から下ろしてデータベース化する作業を、地味に続けている。
これらもどこかで仕事と繋がるかもしれないので、ちゃんとやっておかなくてはいけないのだ。

整理してある音楽番組を録画したDVDの一部
2009010405その中でとにかく分量的に大変なのが、ビデオ&DVDの整理。
思い起こせば早27年前、1982年10月3日(日曜日)にビデオデッキを購入して、それから手当たり次第に音楽番組を録画しつづけ、手元には膨大な数のビデオテープ&DVDが溜まっている。
なぜビデオデッキを購入したのが1982年10月3日、そしてなぜ日曜なのかを記憶しているのか? と言うと、自分は音楽マニアと同時にタモリマニアなので「笑っていいとも」が始まるという事を聞いた時に「平日昼の12時の番組を見るのにはビデオを購入するしかない!」と思い立ち、大枚をはたいてソニー製モノラルβデッキを購入したのだ。「笑っていいとも」が始まる前日の日曜に。
そこから音楽番組を録画する日々もスタートしたため、ビデオNo.1は1982年10月3日、日曜日の夕方放送されていた「レッツゴーヤング」から始まっていて、松田聖子やサザンオールスターズが録画されている。たぶんその時間に購入後帰宅してセッティングがちょうど終わったのが夕方6時、レッツゴーヤングの始まる時間だったのだ。

本棚の一部、最近収拾付かなくなりつつある
2009010404音楽番組を延々と録画するビデオというのは整理がなかなか大変で、映画とかドラマと違って1本の中に何が録画されているかを明記しにくい。後から「あれってどこに入っていたっけ?」と思ってもインデックスが無いと面倒くさい事になるのだ。
それ故に音楽ビデオ録画と同時にインデックス作りも始まった。もともと、そーゆー作業が好きだったので苦にもならずに淡々とデータベースとして構築していったのだ。
ところがバブル期になって異常に仕事が忙しくなっていった頃から「とりあえず留守録」という状態が多くなり、ただテープに日付と番組名だけをメモして「後でインデックス作ればいいや」となり、それが気が付いたら20年間近く時間が経過していたという事なのだ。

どの位の量があるかというと、年間新たに録画する音楽番組は約100本。それ×約20年分という感じで、もしかしたらもっと多いかも知れないけれど、大量のビデオテープ、2002年以降はDVDがただ録画されたまま保管されている。
とりあえず某宮崎のニュース報道されたビデオ部屋のようにならないように、大量のビデオは収納の中に隠してあるので、そんな大量のビデオがあるようには見えないが。
ビデオテープの方はDVDに落としながらインデックスを作り続けているのですが、いったいいつになったらこの作業が終わるのか見当も付かない状態。なんせリアルタイムで録画DVDは増え続けているので。
とりあえず去年年末からの音楽番組(なんとか大賞とかイベント番組や、カウントダウン番組)などのインデックスは終了したので、また過去モノの整理が再スタートするのだ。

その手のビデオを見ていると時代の変遷を痛いほど感じる。
たとえば手元にあるビデオには22年前、1987年のミュージックステーションが収録されているんですが、司会はタモリ&生島治郎&中原理恵だったり、タモリも今では考えられないような肩パットが入ったジャケット着ていて凄くバブルっぽい。芳本美代子がクレーンに乗りさらに雨の中ロックを熱唱していたり、忌野清志郎が来日ロックミュージシャンという設定で別スタジオでコントのような記者会見を開きその後ライブになったり、ミュージックステーションも今とは全然違う番組に見える。
あの時代、あれが格好良かったと思っていたんだよなぁとしみじみと思いながら見直してしまうのだ。

状態の良い頃のmisonoがいた「day after tomorrow」
2009010406過去の音楽番組は自分にとってはすべてお宝映像なんですが、中には本当にお宝になってしまうモノもある。
たとえば、6年前の2003年にBSフジで放送された「GIRL POP FACTORY」という夏イベントのライブ番組。
当時はモーニング娘。全盛時だったので大々的にフューチャーされているんですが、ほとんどの歌手が1曲しか放送されていないのに3曲も放送されているのが大トリとして出演している女子ボーカルバンド「day after tomorrow」。
ってもしかしたら「誰?」状態かもしれませんが、当時はそこそこ売れ始めていたバンドで、このバンドのボーカルが現在「クイズヘキサゴン」でお馬鹿を担当しているmisono。今でも丸いっすが、この時はさらに丸くて「体育部女子」的な健康的な感じ。でも大トリを飾るほど売れていたかなぁと思ったりする。
でも、とりあえず売れていたので同時期にデビューしていたけど売れていなかった倖田來未はこの頃は「misonoの姉」という紹介をされていた。

1stシングル「スィートドーナッツ」
2009010401が、このビデオのお宝はそこじゃなく、かの「Perfume」がデビューしたばかりの新人アイドルグループとして1曲歌っている事なのだ。
頑張ってデビュー曲「スィートドーナッツ」を歌い踊っているんですが、客席は一部が声援をかけているけど、全体的にはシラ〜ッとした感じで痛々しい。なんかこれを見ると「君たち頑張って売れて良かったねぇ」と親戚のオッチャンのような気分になってしまうのだ。
実は、この時歌っていた「スィートドーナッツ」という曲のCDを売れる前に中古屋で「3枚100円叩き売り状態」の1枚として購入していたりするんですが、このままでは売れなかっただろうなぁと思うわけです。自分はカップリング曲「ジェニーはご機嫌ななめ」に惹かれて購入したのですが。
ついでにデビューしたばかりの「mihimaru GT」なんかも客が全然乗っていない状態で頑張っている。

裏ジャケ。売れてよかったねぇとホントに思います
2009010402そんなこんなで、今はただリアルタイムなものもいつしか歴史の一部になる、そして現在の1つ1つもすべて積み重ねだという事を痛感し、今を大切に前向きに進もうと、とりあえず年頭に思ったりする。
ということでこの先も何の役に立つのか不明ですが、淡々と記録を続け、淡々とブログも更新し、淡々と日々を前に進んでいこうと思うのであります。

| | コメント (1)

2008年12月21日 (日)

サンタが世界の国からこんにちは

この時期、街を歩いているとアッチコッチから鈴の音がしゃんしゃんしゃんしゃん、そしてクリスマス関連曲が無限ループしていて「あ〜ウルサイ!」と思ってしまう。
と言いつつ、気が付くとその曲を頭のなかで一緒に口ずさんでいたりするのだ。


2008122101先日も近所のスーパーに買い物に行った時、店内放送で流れていた曲を無意識の中でぼーっとメロディを追いかけていた。
が、その時、ポピュラーなハズのクリスマスソングなのに、まったく似つかわしくない誰かがこの曲を歌っているイメージが頭の中に湧き出てしまったのだ。はて、この変なイメージは?
そこで流れていた曲は「サンタが街にやってきた」
日本語歌詞だったら「あなたからメリクリスマス♪、わたしからメリクリスマス♪」というヤツなんですが、なんだろこの変なザワザワした感じは。
と思いながらメロディを追いかけていって「これだったのか!」とハタと膝を強打してしまった。それも連打。

このメロディラインって三波春夫センセイの「世界の国からこんにちは」と同じではないか!
「あなたからメリクリスマス♪、わたしからメリクリスマス♪」が「こんにちは、こんにちは♪世界の、国から♪」に相当するのだ。
いやはや、これは盲点の共通項なのだ。
さらにサンタが街にでのサビ部分「待ちきれないで〜おやすみした子に♪」が、「センキュウヒャクナナジュウネンの〜♪」にほとんど重なってくる。コード進行は同じなんじゃないかという感じなのだ。
そんなこんなで、店内にこの曲がループしている間、延々と頭の中で「こんにちは〜こんにちは〜」と、周囲のクリスマスムードに逆らうように、1970年の大阪にタイムスリップしていたのだ。

ちなみに「世界の国からこんにちは」は当時、複数のレコード会社の共作で1970年の紅白歌合戦で歌ったのは坂本九。(当時のジャケットコレクションはここで

この曲をパクリだなんて言う気は毛頭ないっす。音楽はインスパイヤや偶然似てしまう物も多々あると自分で曲を作った経験からそう思っている(自分が作った曲と激しく似ている曲が数年後に発売された事もある、当然自分の作った曲は極一部の身内しかしらない物なので)。
だからこの共通項の発見、というのはパクリの指摘ではなく、音楽趣味の醍醐味だと思っているのだ。

| | コメント (4)

2008年12月20日 (土)

猫「雪」

猫「雪」
作詞.作曲/吉田拓郎
1972年/¥400
CBSソニー/SOLA 39-0D


2008122001タイトルを見て、これがグループ名と曲名だと思った人は少ないんじゃないかと。
「猫」というグループが歌う「雪」という曲です。
この「猫」というグループは1970年代初頭に吉田拓郎のバックバンドをしていて、メンバーは「海も失恋すんのかなあ/涙をいっぱいためるのかなあ/だけどあふれだしたら困っちゃうな/だってオレ 泳げないんだもん」というセリフで売れた「海は恋してる」を歌っていた「ザ・リガニーズ」の内山修&常富喜雄、そして「ジ・アマリーズ」の田中清の3人。って共にグループ名は「ザ」をつかったお遊びで付けられているのか。(ザリガニ&字余り)
どうやらグループ名を付ける時に、ビートルズを始めとして動物や虫など生き物系が多いということで、最終的に「猫」という物に決まったらしい。

1971〜1972年の1年半ほど吉田拓郎のバックバンドを勤めているが、その次の吉田拓郎のバックバンドが浜田省吾がドラムを叩いていた「愛奴」。そういう意味で、拓郎がバックバンドを引き連れ、徐々にロック寄りになっていく手前のグループなのだ。
そういう関係でこの「雪」という曲は吉田拓郎の作詞作曲で、ややフォークロックぽい仕上がりになっている。

凄くいい曲なんですが、曲はバリバリ拓郎節で「拓郎のカバー」という感じで、同じ拓郎作詞作曲のモップス「たどり着いたらいつも雨降り」みたいな、オリジナリティはあまり感じないのが残念。いや、ボーカルの田口さんの声は好きで、解散後に出したソロも好きなんですが、なんか拓郎色が濃すぎで。
で、演奏の方はというと、やはりバックバンドなので良い感じ。ギターの音色とかハモンドオルガンとか気持ちいい。と思っていたのが、調べてみるとイントロのニュオ〜ンという感じの印象的なギターフレーズはゴールデンカップスのエディ潘が弾いていて、オルガンは松任谷正隆が弾いている。
う〜ん。

この曲の歌詞についてはかつて『もとまろ「サルビアの花」』でストーカーソングだと書いています。

猫は今年の3月に久々の再結成をして「猫5」というアルバムを出している。
というのも、実は1991年にメインボーカルを勤めていた田口清さんが自転車で坂道を降りている時に、つまずいた際、一緒に乗せていた子供をかばうために無理な体勢で倒れた時、頭を強打して亡くなっているのです(享年42)。
そして2004年に十三回忌法要があり、メンバーが集まった事がきっかけとなって再結成に至ったという。
自分はその再結成アルバム発売の時にはじめて田口さんが亡くなっている事を知りショックを受けたわけです。なんせこの「猫」はリアルタイムでは聴いてなく、田口さんがやっていたオールナイトニッポン(曜日は忘れたけれど二部です)の放送でだったので、自分の中では「猫=田口清」となっていたので。

そんなこんなで、寒い冬、風にエリを立てて居る時に、ふと思い出して口ずさんでしまう曲でやんす。

| | コメント (0)

2008年12月14日 (日)

レコードコレクター

昭和歌謡曲の若き伝道師なんて大仰なキャッチフレーズを付けられてしまった半田健人さんがいます。
現在、静岡のSBSラジオでも作曲家・林哲司さんと音楽についてあーだこーだ言う番組を持っているのですが、確かに70年代歌謡曲に関しての知識は凄い。そして愛も深い。


この番組のディレクターと以前色々話した時に「でも半田さんは自分はリアルタイムじゃ無いという事を嘆いている」と言いつつ「でも逆に後乗りで、資料として整えられた物を時系列に俯瞰で見るので、データ的な方向から冷静に系統だって見ることが出来る」という事を話した。
という事で、その半田さんが朝の番組に生出演する事になって、番組的に「それに対抗しうる歌謡曲マニアの素人を」という事になったんだけど、頑張って色々なツテで探し回ったが半田さんと話が出来る人を見つけ出す事が出来なかったらしい。
という事で、いきなり火曜日に連絡があって「金曜日に出演してくれますか?」という展開になった。
別にその辺は全然問題ないので了承し、相変わらずの感じで出演し、それなりに半田さんと意見の合う箇所も多く番組はつつがなく終了した。

取りあえず整理されているシングル(約5000枚)&CD(約3000枚)
002008121401
番組終了後に、半田さんみたいに芸能人として「70年代歌謡曲に興味あります!」と宣言した人は自然と凄い事になちゃうんだよねという話も出た。
ファンの人や、同じく歌謡曲好きの人から珍しいレコードが寄せられたり、「都倉俊一さんが好きです」と宣言すると仕事の一環として都倉さんとの対談がブッキングされ、現場での裏話などを聞くことも出来、それまで素人で「歌謡曲好き」なんて言っていた人とは一段上のステージにあがっちゃうのだ。
それに負けない部分でこっちも対抗しなくちゃいけないのは大変だなぁって、別に勝ち負けでやっているワケではないからいいんだけど。
という事で、翌日、話は展開していく。

土曜日に近所で買い物をしている時にディレクターから「昨日の放送を聞いたリスナーの方が連絡を取りたいと言っているのですが」という電話を貰った。
うぬ?と思い、教えて貰った番号に電話をすると「レコードを沢山集めているという事だったので、我が家のレコードを処分しようと思っていたのですが、よろしければ杉村さんに寄贈したいのですが」という事だった。
普通に音楽を聴いている人のレコードにはそんなレア物もないだろうなぁと思いつつ、家も遠くなかったので引き取る約束をした。
そして日曜日、静岡県東部清水町(三島市と沼津市の間)にある杉山バラ園が近いという事でここで引き渡しとなった。

未整理シングルの一部(約2000枚)
002008121402やってきたTさん夫婦は年の頃なら60歳前後で、約100枚ほどのシングル盤と30枚ほどのアルバムを持ってきてくれた。これと言って掘り出し物は……、と思っていたのですが、そこには「いしだあゆみ」や「黛ジュン」「伊東ゆかり」「奥村チヨ」などなど、自分が幼稚園から小学校時代に聞くとは無しに耳に入ってきた音楽が大量にあった。うひー、自分の守備範囲外だったのが逆に嬉しい!ついつい、自分が音楽を真剣に聞き始めた以降の曲を中心に集めてしまうので、これは嬉しいっす。
特に森山加代子の「白い蝶のサンバ」なんてのは涙ものっす。
この曲、幼稚園か小学校低学年ときにメロディの気持ちよさと「蝶々」が出てくる事から何故か気に入っていてしょっちゅう歌っていた記憶があり、その都度「子供がそんな歌を唄っちゃダメ」と親に怒られていた。
なんせ「あなたに抱かれて私はチョウになる♪」ですからね。
これがヨナ抜きメロディで上から下に移動する音も気持ちよかったらか、とにかく歌っていた記憶がある。

CDシングル(約3000枚)
002008121403本当に「ラジオに出ていてよかったぁぁぁぁぁ」と感じております。
今回、いただいたレコードすべて磨き直して袋が弱っていた物は新しい物にして、データベースに入力して、1枚1枚じっくり聞き直しています。ありがとうございます。
以前、会社の同僚にレコードをどうしている?と聞いた時に「中古屋でも二束三文らしいのでゴミの日に出しちゃった」と言う意見があってショックを受けた事がある。
今は興味無くなってしまった物かも知れないけど、その一時は心を和ませたり奮起させてくれたレコードを捨てるなんて……可哀想すぎるじゃないか!捨てるくらいなら俺にくれれば、未来永劫大切に保管してやるのにぃぃぃ!と心の中でジタバタしたのだ。

そんなこんなで、ラジオの中でも言ったけれど「コレクター」という言われ方にはちょっと抵抗がある。音楽が好きで好きで、気が付いたらいっぱい持っている人になってしまったというだけの人なのだ。
俺の事をコレクターと呼ぶんじゃねぇ!と言いつつ、説明が面倒くさいのでついつい「レコードコレクターでいいや」と折れてしまう私もいる。
という事で、レコードを捨てるくらいの勢いで処分したい方は(お近くの方になってしまいますが)杉山バラ園にまでお届けくださいませ。私がレコードの余生を見守りますので。

| | コメント (3)

2008年12月 5日 (金)

岸本加世子「北風よ」

岸本加世子「北風よ」
作詞.作曲.荒木一郎/編曲.青木望
1977年07月10日/¥600
NAVレコード/N-17


2008120501以前「白鳥哲/ひとりだち」でも書いたTBS『水曜劇場』のマスコット的ポジションとして、1977年放送『ムー』の中で、東京にある足袋店「うさぎ屋」に静岡から上京して1人暮らしをしている従業員の女の子として芸能界デビューをした。
この『ムー』は水曜劇場が一番テンション高い時代の作品で、色々な仕掛けがある番組だった。
店主は伊藤四郎で子供は清水健太郎と郷ひろみと五十嵐めぐみ、従業員として樹木希林(改名直後なのでクレジットは「悠木千帆改メ樹木希林」だった)、職人は伴淳三郎と左とん平(役名がなぜか野口五郎)
続編の『ムー一族』も含め、テレビ創世記に逆行するかのように生放送の回も何度かあった。

その生放送も二元中継で行われ、郷ひろみが劇中でバイクに乗りもうひとつのスタジオへ向い夜の都心を爆走して駆けつけるという演出があった。
さらにクリエイションの曲が流れ横尾忠則が作ったオープニングが始まった次の瞬間、音や画像が乱れフィルムが燃え始め「しばらくお待ち下さい」のテロップが出た…が、そのテロップを郷ひろみが持っていて「大変お見苦しい点がございました、では生演奏でお楽しみ下さい」と言って番組が始まったりと、毎回毎回これでもか!とアイディアをぶちこんだ作品だった。
さらにドリフの「8時だよ!全員集合」みたいな地方の公会堂からの生中継の回もあった。

再放送とか、番組の完成度なんかは二の次で「面白い物」と作っていたんだろうなぁ。やはり久世光彦という人は天才だ。
もっとも、この『ムー一族』の打ち上げの時に、樹木希林が久世光彦と出演者の野口朋子の不倫・妊娠を暴露してしまい、その事がもとで久世はTBSを退社し『水曜劇場』の異常なテンションはこの作品が最後となっている。(樹木希林も旧芸名をオークションで売ったりした直後で、異常なテンションだったのかも知れない)
久世光彦はTBS退職後にテレビ制作会社カノックスを設立している。そして1994年、久世光彦が演出するドラマで樹木希林が再び仕事をしている。

で、この劇中曲を歌う岸本加世子ですが、期待を裏切らないタドタドしっぷりで、か細い歌声で1音1音を探り探り歌っている感じが「これだよ、これ、水曜劇場の劇中歌はこれじゃなくちゃ」という感じなのだ。
この『ムー一族』以降、一時期は週刊プレイボーイで毎回のようにセクシーグラビア展開をして、見るたびに化粧が濃くなっていったので心配していたのですが、今でも大御所女優として残っているのはこの時には想像も付かなかったなぁ

2008120502ちなみに「北風よ」という曲は地味に名曲なんですが、何故か武田久美子が1983年にリリースした「噂になってもいい」という歌手デビューシングルのB面でカバーされている。武田久美子も岸本加世子に負けないくらいにたどたどボーカルを展開しております。
岸本Ver.では歌詞に『私は今16と伝えてほしいの♪』とあるんですが、これをリリースした時の武田久美子はまだ14歳だったので『私は今幸せと伝えてほしいの♪』と変えられている。
その武田久美子も清純派デビューから週刊プレイボーイに出るたびに化粧が濃くなり衣装が小さくなっていたワケですが、こっちは遂にそれに歯止めが掛からずに貝殻ビキニを経由して、魔性の女になってしまいました。

| | コメント (2)

2008年12月 4日 (木)

野口五郎「針葉樹」

野口五郎「針葉樹」
作詞.麻生香太郎/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1976年9月10日/¥600
ポリドールレコード/DR-6040


2008120401新御三家と呼ばれていた野口五郎は郷ひろみ・西城秀樹に比べ実に地味な存在でした。
郷ひろみがカワイらしい人気を独り占めにしてステージングもショービズな展開をして、西城秀樹が男っぽい人気を独り占めにしてステージングをハードなロックテイスト展開をしている中、野口五郎はなんか頼りなげでいつも困った表情をしていたような印象だった。

デビュー曲はバリバリの演歌『博多みれん』で3人より歌は上手いというふれこみだったんだけど、なんかいつもオドオドしているような弱さを感じていた。良い言葉で言えば「ナイーブ」っぽかったんだけど。
それがいつの間にか「音楽志向」ということで自宅にスタジオを作りギターコレクションが凄くて、リー・リトナーとセッションをして、ロスで自らプロデュースしたアルバムを作って…、とどんどんマニアックな方向に野口五郎は進んでいった。
とりあえずギタリストとしては『真夏の夜の夢』でヒット曲を出すんだけど、今はその時の仕草をマネしたコロッケの芸でしか思い出せなくなっている。

嫌いではないけど常に「中途半端感」が漂っている。そう言う意味では三井ゆりとの結婚もそうだし、その後の子供の話を嬉々として語る野口五郎も、常にブレていないという事かも知れない。常に3人組の3番手というポジション。

で、この「針葉樹」という曲ですが、当時はポップスとして聞いていたハズなんですが、改めて聞くと演歌ですなぁ。演歌と言っても筒美京平が編曲までやっているのでストリングスのキラキラ具合はよく考えられていて、サビのブレス直後に細かいビブラートを聞かせたバイオリンがサッと入ってくる所なんか「筒美京平ここにあり」という感じなのだ。最近の演歌は本当に70年代でアイディアが出尽くした感があって売れないのもしょうがない。
最近の演歌は結局、歌手の企画でしか売れないような状態なんだけど、別に伝統芸能として保護対象にするつもりではないのなら、もっと音楽的にアイディアを盛り込んだ方がいいんじゃないかなぁとこの曲を聞いて思ったりするのだ。

| | コメント (0)

2008年12月 3日 (水)

紙ふうせん「冬が来る前に」

紙ふうせん「冬が来る前に」
作詞.後藤悦治郎/作曲.浦野直/編曲.梅垣達志
1977年/¥600
CBS SONY/06SH 231


2008120301もうすっかり冬がやって来ていますが、紙ふうせんの名曲「冬が来る前に」です。
元々「赤い鳥」というバンド形式のフォークグループが1974年に音楽性の違いから解散し、ギターの山本俊彦とベースの大川茂&ボーカルの山本潤子が都会的なポップスを歌うコーラスグループ「ハイファイセット」になり、ギターの後藤悦治郎とピアノの平山泰代がこの「紙ふうせん」を結成した。
「赤い鳥」が1974年1月に解散した後、2月に二人は結婚し、後藤悦治郎と後藤泰代による夫婦デュオ「紙ふうせん」としてデビューしている。
その音楽性は「ハイファイセット」の都会的な感じとは違って、純粋に「フォーク」という物を模索するスタイルだった。
ちなみに「紙ふうせん」というグループ名は「赤い鳥」時代の曲『紙風船』から取られている。

この「冬が来る前に」という曲、1977年リリースの曲なのでその手の本などでは「1977年のヒット曲」として掲載されることもあるけれど、実際にヒットしたのは1年経過した1978年3月頃。
1978年3月9日のザ・ベストテンに8位に初登場しているが、それ以上順位は上がらず1週のみのランクインとなっている。が、記憶では結構長く20位までに留まっていたと思う。

この1978年の「冬が来る前に」のヒットでメジャーな存在になった二人ですが、9月のある時ひょんな事から後藤悦治郎の名前がクローズアップされた事があった。というのも1978年9月にアイドル木之内みどりが妻子あるミュージシャンの元へ逃避行したという事件が起こりまして、その相手が後藤次利だったんですが(当時の奥さんは元シモンズ玉井タエ)、何を間違ったのか数社が後藤悦治郎と勘違いしたというお粗末な事件。すぐ、勘違いだと判明したので大騒ぎにはならなかったのですが。
ちなみに、1974年に結婚しているんですが、このシングルに書かれているプロフィールでは奥さんは結婚前の平山姓で書かれている。そして事務所は宝塚市にある。

2008120302音楽的な事を言うとアレンジがちょっと変わっていて、イントロは静かに始まるのですが、曲直前でいきなりディストーションが効いたギターの揺れるリズムに切り替わるのがかなり特徴的。メロディ自体はすごく穏やかなんですが、アレンジはかなりビートが利いている。さらに完奏部のアレンジもかなり凝っている。
編曲をした梅垣達志はヤマハ系出身で、実はこの曲がリリースされた1977年はCharの名曲「気絶するほど悩ましい」の作曲もしている。80年代には岩崎良美の佳作「恋ほど素敵なショーはない」という曲も作っている。


| | コメント (2)

2008年12月 2日 (火)

水谷豊「カリフォルニア・コネクション」

水谷豊「カリフォルニア・コネクション」
作詞.阿木燿子/作曲.平尾昌晃/編曲.鈴木茂
1979年/¥600
フォーライフレコード/FLS-1044


2008120201今年が芸能生活40周年で、それを記念したセルフカバーアルバムを5月に出して、それで歌手活動を久々に行ったことから、話が膨らんで『紅白歌合戦初出場』となってしまった水谷豊ですが、20歳前後の若い人はやはり「相棒」の右京さんってイメージなんすかね?
てぇことは、水谷豊というお題で「おぉぉいみんな、僕の名前は北野広大というんですねえ」と『熱中時代』のマネをしてもキョトーン、やおら「ぃぐざぁぐ〜ぃどぉったぁ〜♪ぉかいのぉ〜ぁちだびぃ〜♪」と水谷なまりで歌い始めてもキョトーンなんだろうなぁ。

2008120204水谷豊主演の『熱中時代』は1978年10月〜1979年3月まで放送されていた学園ドラマで、当時教育の現場で小学生が先生のいう事を聞かなくなったりする、学級崩壊の予兆があった時代の物語。
もう30年も前のドラマなので20歳前後の人が知らなくても当然、あの時10歳だった子役の小学生がすでに40歳なのだ。
でも主題歌は誰でも知っていて、この最初の『熱中時代』の主題歌は水谷豊ではなく原田潤の歌う「ぼくの先生はフィーバー」。現在は同じ日テレ系「世界一受けたい授業」の主題歌としてボーカルはそのままで、バックの演奏だけを差し替えた物が使われている。
で、この「ぼくの先生はフィーバー」を歌っていた原田潤はもともと子役で、さらに平尾昌晃音楽学校に通っていたということで、この曲は平尾昌晃が作曲している。(作詞は橋本淳)

2008120205ドラマ『熱中時代』が終了したのが1979年3月30日。そしていきなり1978年4月7日から『熱中時代・刑事編』ということで、主人公は水谷豊で、とりあえず草笛光子谷隼人小松方正なんかは引き続き出演しているが、学園物ではなく刑事物でまったく違うドラマが放送されている。
そこまで違うドラマだったら続編でもなんでもないと思うのだ。なんせ放送していたのが『熱中時代』は金曜日の21時からなのに対し、『熱中時代・刑事編』は土曜日の21時からで、曜日もまったく違うのだ。
そして刑事編の主題歌は「ぼくの先生はフィーバー」を作曲した平尾昌晃が書いた「カリフォルニア・コネクション」を水谷豊が歌っている。

2008120202実は第1作目のドラマは、もの凄いヒットとなり「リアルな現代的な学校問題を扱うドラマ」が注目され、似たようなコンセプトで別の局が学園物を作ることとなった。
それがTBSで1979年10月から始まった武田鉄矢主演の「3年B組金八先生」。
「3年B組金八先生」が放送された金曜の8時というのは日テレには「太陽にほえろ!」という超人気番組があったため、ある意味の賭けとして始まったらしく、番組が始まる直前ラジオに出演した武田鉄矢は「今度、学校物のドラマを始めるんですけど、ま、今その手の番組が受けてるって事でそれに便乗するような作品なんですけど。なんせ金曜日の8時なので金八ですからねぇ」と、やや投げやりな発言をしている。

そんなこんなで、それまでも一部には人気があった俳優・水谷豊が大ブレイクした作品が、この『熱中時代』だったわけですよ。
でも自分的には水谷豊という俳優の原体験は、幼稚園の頃におそるおそる見ていた番組『バンパイヤ』の主人公・トッペイなのだ。幼稚園の時に使っていた弁当箱がバンパイヤの絵が描いてあるもので、それを今でも持っている(物置にあるのを数年前に確認はしているのですが、今回発見できず)。
と言っても、実際にそれが水谷豊という俳優だというのを知ったのは熱中時代の頃だと思う。
と言うことで、このバンパイヤが放送されたのは1968年10月からなので『水谷豊芸能生活40周年』という事らしい。
しかし実際には1966年に放送されたこれも手塚治虫原作『マグマ大使』の第9話に出演している。(劇団に入った翌年)
他にも、中村玉緒渥美清が夫婦役を演じた『おもろい夫婦(1966年)フジ』にも出演しているので、芸能生活ってのはやはり主役を演じるようになってからという事なのかも知れないっす。

『あんちゃん』主題歌
2008120203ちなみに『熱中時代・刑事編』は水谷豊にとって大きな作品だと思うのは、この「カリフォルニア・コネクション」がヒットしただけでなく、この作品で共演したミッキー・マッケンジーと最初の結婚をしていると言うことなのだ。
ちなみに現在の奥さん、伊藤蘭との初めての共演はそれより前。1977年にNHKで放送された『俺たちの旅路・第3部』で、歌手のボディガード役の水谷豊がテレビ局で本人役で出演したキャンディーズと共演している。結婚に至る共演は1982年のNTV『あんちゃん』で。

「カリフォルニア・コネクション」はTBS『ザ・ベストテン』では1979年7月12日に9位初登場で、翌週5位、3週目の7月26日から8月16日まで4週1位、さらに8月23日から9月13日まで4週2位をキープし(この時の1位はゴダイゴの「銀河鉄道999」)、3位、7位となって圏外になる。そして他の曲ではランクインしていない。


  TBS「ザ・ベストテン」1979年07月12日〜08月16日
  1979/07/12 1979/07/19 1979/07/26 1979/08/02 1979/08/09 1979/08/16
1位 サザンオールスターズ[いとしのエリー] サザンオールスターズ[いとしのエリー] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション]
2位 西城秀樹[ホップステップジャンプ] 沢田研二
[OH!ギャル]
サザンオールスターズ[いとしのエリー] サザンオールスターズ[いとしのエリー] 岸田智史
[きみの朝]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
3位 沢田研二
[OH!ギャル]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 岸田智史
[きみの朝]
山口百恵[愛の嵐] サザンオールスターズ[いとしのエリー] さだまさし
[関白宣言]
4位 岸田智史
[きみの朝]
岸田智史
[きみの朝]
沢田研二
[OH!ギャル]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐]
5位 山口百恵[愛の嵐] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 西城秀樹[ホップステップジャンプ] 岸田智史
[きみの朝]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
小林幸子
[おもいで酒]
6位 ピンクレディ[ピンクタイフーン] 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐] 沢田研二
[OH!ギャル]
小林幸子
[おもいで酒]
サザンオールスターズ[いとしのエリー]
7位 世良公則&ツイスト[燃えろいい女] 小林幸子
[おもいで酒]
小林幸子
[おもいで酒]
小林幸子
[おもいで酒]
沢田研二
[OH!ギャル]
岸田智史
[きみの朝]
8位 ジュディ・オング[魅せられて] 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
さだまさし
[関白宣言]
ピンクレディ[波乗りパイレーツ]
9位 水谷豊[カリフォルニアコネクション] ジュディ・オング[魅せられて] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 沢田研二
[OH!ギャル]
10位 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
世良公則&ツイスト[燃えろいい女] ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
さだまさし
[関白宣言]
郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
西城秀樹[ホップステップジャンプ]


  TBS「ザ・ベストテン」1979年08月23日〜09月27日
  1979/08/23 1979/08/30 1979/09/06 1979/09/13 1979/09/20 1979/09/27
1位 ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
2位 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
3位 さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
水谷豊[カリフォルニアコネクション] 桑名正博[セクシャルバイオレットNo.1]
4位 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] チューリップ
[虹とスニーカーの頃]
5位 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 八神純子
[ポーラスター]
西城秀樹[勇気があれば]
6位 サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
西城秀樹[勇気があれば] 八神純子
[ポーラスター]
7位 ピンクレディ[波乗りパイレーツ] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 八神純子
[ポーラスター]
八神純子
[ポーラスター]
チューリップ
[虹とスニーカーの頃]
水谷豊[カリフォルニアコネクション]
8位 沢田研二
[OH!ギャル]
サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] 山口百恵[愛の嵐] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] サーカス[アメリカン・フィーリング] 松山千春
[夜明け]
9位 野口五郎
[女になって出直せよ]
森進一
[新宿・みなと町]
ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 森進一
[新宿・みなと町]
小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング]
10位 岸田智史
[きみの朝]
八神純子
[ポーラスター]
森進一
[新宿・みなと町]
山口百恵[愛の嵐] 桑名正博[セクシャルバイオレットNo.1] 山口百恵[しなやかに歌って]
ひさびさに表組みしたのでアタマが痛いっす(ソフトとか使えばいいんだろうけど全部手打ちでやんす)

| | コメント (1)

2008年12月 1日 (月)

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」
作詞.作曲.小泉まさみ/編曲.竜崎孝路
1975年12月/¥500
ワーナーパイオニア/L-1280W


20081201現在のアイドルが良くも悪くも「隣のお姉ちゃん」的な親しみやすさを武器、というか作られた部分が皆無の状態で親しまれているのに対して、70年代の「アイドル」は現実社会に存在しない架空の生物的な意味合いがあったのかも知れない。
とりあえず「隣の真理ちゃん」や「隣の美代ちゃん」はいたが、いわゆる「アイドルとはトイレにも行かない存在」と冗談めかして言われていた時代もある。

それ故に「香港からやってきた」アグネス・チャン、「沖縄からやってきた」南沙織、というのはある種ストレンジャー的な存在として有効なセールスポイントだったのかも知れない。
特にアグネスはその特徴のあるしゃべり方があったが、ウワサでは普段の打合せではごく普通に流ちょうな日本語をしゃべっていたとも言われているけど。
このストレンジャーな存在が国際化の進んだ70年代後半は段々通用しなくなり、ベトナム出身の「ルーフィンチャウ」や、フィリピン出身の兄弟グループ「クリッパー」などもデビュー時に少し話題になる程度で、それが80年代にパロディ的に究極のストレンジャーとして「宇宙からやって来た3人組アイドル・スターボー」みたいな所までエスカレートしてしまうのだ。

で、アグネスですが彼女は来日した時は本当に日本語を全然理解できておらず、歌詞を全部ローマ字にしてもらい、言葉の意味が理解できないまま、純粋に「音」として歌っていた。
それ故に単語として歌詞を流して歌うことも無かったので、あの特徴的な「オカノウエヒナゲシノハナデ♪」という発音というか、ニュアンスの歌い方になっている。
つまり、日本古来の演歌的な情緒を込めたり感情を込めたりする事もなく、余計な物を挟み込む余地のない純粋音楽が誕生したのだ。
とりあえず歌われている内容については教えられてはいたと思うが。

彼女はその後、上智大学国際学部からカナダのトロント大学へ留学するほどだったので、おそらく早い段階で日本語はマスターしたと思うが、その特殊な発声法の歌は捨てることなく、歌い続けている。
この「冬の日の帰り道」はデビューから4年目、12曲目なので「ニホンゴ、ヨクワカリマセン」の時期ではないが、ファンの期待通りに「ユウヤケ〜カエリミチ♪」とカタコト日本語的発音で歌っている。
実に芸能人としてイメージを大切にしている感じなのだ。

作詞作曲の小泉まさみはポプコン出身(の前から活動していたけど)で「小泉まさみ&こんがりトースト」として人気があった人。
で、この曲のB面には小泉まさみ作曲の「ハロー・グッドバイ」が収録されている。
そう、あの柏原芳恵が歌ってヒットした名曲です。
このアグネスVer.がオリジナルで、その後「ギンザNOW!」に出ていた讃岐裕子がカバーして、それをさらに80年代に柏原芳恵がカバーしたのだ。
ちなみに小泉まさみはアグネスでカタカナで歌う曲という前提の作曲を学んだからなのか、その後、オースマン・サンコンの演歌『アフリカの女』の作曲もしている。

| | コメント (2)

2008年11月10日 (月)

フランク永井「WOMAN」

フランク永井「WOMAN」
作詞.山下達郎/作曲.山下達郎/編曲.山下達郎・乾 裕樹
1982年/¥700
ビクター/SV-7222


200811100110月27日にフランク永井が亡くなったというニュースを聞いて、不謹慎ながらまだご健在だったのか!と思ってしまった。
1985年に愛人問題のもつれから自殺を図った事により言語関係に障害を抱えるようになり一線を退いて23年。昭和の終わりからずっと療養生活だったそうで。
自殺未遂からの20数余年は色々あったみたいですが、その後はどうなっているかは不明だった。
牧伸二を数年前、久々に見た時に「♪フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低脳の魅力♪」と歌っているのを聞いて「未だにそれかい!」と思ったんですが、確かに「フランク永井=低音の魅力」は代名詞だったよなぁ。

この山下達郎が1982年にプロデュースした「WOMAN」は、凄く軽快で気持ちいい曲。
この曲がリリースされたのと同じ年、山下達郎は近藤真彦に「ハイティーンブギ」なども提供しており(ついでに竹内まりあと結婚)、自分で歌う以外に他人をプロデュースするという方向を考えていたのかも知れない。
でも山下達郎とフランク永井は全然違うフィールドの人という印象だった。

2008111002どちらかというとフランク永井=ムード歌謡のイメージばかりで「有楽町で逢いましょう」を始めとしてしっとりと歌い上げる曲がすぐ思い出されるんですが、実はフランク永井の音楽はジャズから始まったという事で、ポップスも得意としている。
代表曲「君恋し」もちゃんと聞くとロカビリーぽい味付けがされているのだ。この曲のオリジナルは昭和4年に二村定一が歌ったモノで、フランク永井Ver.ではバックのピアノがちゃんとロカビリー系三連を刻んでいるし、ベースがスタッカート気味で凄く気持ちいい。ちゃんと聞くとムード歌謡なんて小さなジャンルで収まってはいないのだ。
しかしフランク永井の歌は低音の魅力もありながら凄く軽い。この重さで軽いってのは才能なんだろうなぁ。
そういう意味でちょっとミスマッチのようでもあるけど、山下達郎とフランク永井の繋がりは無理がないのかも知れない。

2008111003でも、贅沢な事を言えば「WOMANという曲は、なんかイマイチお互いの魅力を出し切っていない」という感じ。
山下達郎の高揚感のあるポップス趣味と、フランク永井の低いけれど軽快な歌声が完全に融合していない。互いに探り探りやっているような気がしてしまうのだ。
まだ1982年当時、山下達郎は大御所にまで上り詰めていない新進気鋭のアーティストだったので、超大御所歌手フランク永井を徹底的に作り直す事は出来なかったって事なんじゃないかなぁ。(ジャケットデザインは遊び倒していますが)

ちなみに「ムード歌謡」というジャンル、未だに当時から引き続いて活動中のグループはいますが、世間的には終わったジャンルのような扱いなんでしょう。しかし実際には形を変えて生き残っている。
それがビジュアル系と呼ばれているバンドの曲。
とりあえず連中にとってはスローバラードのつもりなんだろうけど、明らかにロックテイストが希薄で、演奏でドラムを倍速で加えたり、ディストーションでギュゥィンと入っても、そこにコーラスでも入れば一瞬にして夜のネオン街のムードになってしまう曲が異常に多いのだ。
とりあえずメイクをしているので「ビジュアル系」とか言われているけれど、80年代末から90年代初頭は『耽美派』と呼ばれていた。が、それらを支持する人々が「耽美」という言葉を読めないし意味も理解出来ないので「ビジュアル系」という名前に変わっていったもの。
あと、70年代末、高校時代に友達が「演歌とかムード歌謡ってダサイよな」とか言いつつ、当時流行っていたヤマトの主題歌「真っ赤なスカーフ」を歌っていたのを「それがまさにムード歌謡なんだが」と指摘した事もある。なんだかんだ言ってみんなムード歌謡好きなんだよ。
自分は嫌いだけど。

2008111004ちなみにフランク永井の代表曲「有楽町で逢いましょう」は、関西系だったそごうデパートが東京進出の際にメディア戦略として、大映で映画『有楽町で逢いましょう』を制作した時に、その主題歌として創られた曲。
しかも最初は、当時・西鉄ライオンズにいた豊田泰光が歌う企画だったモノが、色々あってフランク永井になった。
推測でしかないけど、そごうデパートが讀賣会館のテナントだったので西鉄の選手はダメって事だったのかな?
筒井康隆が『笑犬樓』シリーズ(〜よりの眺望だったか、〜の逆襲だったか)で歌詞の「濡れてこぬかと気にかかる」が「濡れて小糠と気にかかる」に聞こえると書いていたけれど、どうやらあそこの歌詞はもともと「小糠雨」との掛詞になっているらしいです。

| | コメント (0)

2008年11月 4日 (火)

小室哲哉が5億円詐欺で逮捕

2008110401いやぁビックリしました、小室哲哉が5億円の詐欺で逮捕っすか。
著作権をめぐる譲渡がどうしたこうしたって話の詐欺かぁ。
確かに「著作権」というと当然、作詞や作曲をした人が全権を持っていて、譲渡だろうとか売上げだとかを単純に自由に出来るんじゃないか?とか思ってしまうんだろうけど、実際にはかなり複雑な仕組みになっている。ダマされた人がそれを理解出来ていなくても当然だと思う。


でも、実際の話では事務所を移籍したアーティストがそれまで自分で創ってきた楽曲を一切歌えない状態になるとか、歌うためには前事務所に使用料を支払うとか、はては勝手に歌ったために訴えられたとか、色々な問題が時々起こる。
自分レベルのアマチュアでさえ、かつてポプコンに出場した際に「今回の大会が終了するまであなたの作詞作曲した楽曲はすべてヤマハ音楽振興会が管理しますので、大会と関係ないイベントでは歌わないように」という契約書にサインさせられた事がある。

2008110402しかし小室哲哉というブランドは2000年頃にはすでにかなりダメな印象があって、象徴的な2000年沖縄サミットでの安室奈美恵の『NEVER END』の時には「今さら小室?」という声も多かった。確かに60万枚売れたが、小室&安室、そして沖縄サミットというイベントでこの枚数は少ないと思う。
とりあえず各国首脳が「サミットに来ているのになぜワケ解らない極東の歌手のコンサート見なくちゃいかんのだ?と呆れた顔で聞いていたのを記憶している。

とかなんとか言っていますが、小室哲哉は90年代を無茶なスピードで駆け抜けた感があるわけですが、何が凄いってやはり売上げ枚数。
歴代の作詞家・作曲家の総売上げ枚数で小室哲哉は「作詞家部門3位」「作曲家部門2位」なんすよ。
作詞作曲、両方でこの数字ってマジ凄い。他の専業作家が30年とかコンスタントにヒット曲を出し続けた結果ではないってのを考えると。
個人的には小室哲哉というと、80年代初期にTM-NETWORKでデビューした「金曜日のライオン」のプロモーションビデオで初めて知ったワケですが「あぁ日本版ハワード・ジョーンズだ」と思ったのが最初の印象。
ビデオも安い感じの作りで、ワニのお面をつけた女の子が異常に踊りが下手だった事にばかり目がいってしまった。

200811040380年代は渡辺美里「My Revolution」とか、小泉今日子「Good Morning Call」とか、アルバム曲だけど原田知世「家族の肖像」とかいい曲もあったんだけど、いわゆる小室ファミリーとか言われ始めたバルブの頃には「この人、持ちメロディが少なくコード進行がほとんど同じだけど何故こんなに売れているんだ?」と理解出来ない売れ方をしていた。
それについて行けなくなった時に「あぁ俺も現時点で流行っている歌の良さが理解出来ないオッサンになったか」と感慨深く思ったものなのだ。

詐欺がどうこうって話の流れはよく解らないし、色々な事業がダメ続きだったってのも桁が大きすぎて論じるレベルじゃないんだけど、ホリエモンなどに象徴される「ベースが何もないのに金を転がすだけのマネーゲームの人」ではなく「ゼロからモノを作り上げる人」なので、基本的に金の使い方を知らなかったんだろうし、その金を大きく資産運用していこうなんて才能も皆無だったんじゃないかな。
でも、基本的に「クリエイター」であると思うので、すべての禊ぎをすませ出所してきた後はちゃんと本来の自分に戻って、巨大なマスを相手にする必要もない楽曲を造って欲しいと思うのだ。

ついでに昔書いた小室哲哉に少し関係あるページ
キララとウララ「センチ・メタル・ボーイ」

| | コメント (1)

2008年11月 2日 (日)

ちゃんちゃこ「空飛ぶ鯨」

ちゃんちゃこ「空飛ぶ鯨」
作詞.作曲.みなみらんぼう/編曲.萩田光雄
1974年/¥500
フィリップス/FS-1808


2008110201この1970年代初期は何故か鯨という生き物がよく空を飛んでいたみたいで、1972年に大滝詠一がソロシングルとして「空飛ぶくじら」という曲を出し(BEATLESのYour Mother Should Knowにかなり似ている)、1974年イルカがシュリークスというグループで「くじらのスーさん空を行く」という曲を歌い(アルバム曲で旦那の神部和夫&吉田拓郎の曲)、そしてこのちゃんちゃこが「空飛ぶ鯨」という曲を歌っている。
なぜ? と言うことで、この時期にイマジネーションを刺激するような物があったのか? と調べてみたんだけど、イマイチ確信が持てる物がなく断念。
ということで、あんまり世間的に知られていない「ちゃんちゃこ」というグループのお話。

60年代から始まった中津川フォークジャンボリーに代表されるプロテスタントソング、メッセージ性のあるフォークが70年代初頭の学生運動終焉と共に、真逆にある「四畳半フォーク」に変質していったワケですが、その「軟弱」を煮詰めたような「やさしさ」がキーワードの2人組。
この時代、自分はアコースティックギターを弾き始めた事で、しかも小学校高学年から中学に掛けてという、目も当てられないぐらいにちょっぴり知った世の中の仕組みだけで「俺はもう何ンでも知ってるんだもんね」とばかりに増長してしまう、リアル中二病が発症中だった。
基本的には「やっぱ拓郎だよな(岡林信康や加川良とか友部正人なんかにはまだ手が出せない)」とか思っていて、いつでも心の中では「人間なんてララララ〜ララ〜♪」という感じだったワケですが、残念な事に「ギター弾いてるのは女子にもてたいため」という大前提があったので、女子の前では「かぐや姫が好き」とか、もっとポリシーを曲げて「NSPっていいよねぇ」とか言っていたのだ。この軟弱者が。

2008110202おそらくほとんどの人が「ちゃんちゃこ」というグループを知らず、残りの人も「空飛ぶ鯨」「黄色いカラス」あたりをうっすらを記憶している程度かも知れない。
同時期の同傾向グループでは「とんぼちゃん」とか「ふきのとう」はそこそこ売れて知名度もあった。
そんな中で「ちゃんちゃこ」というグループを知ったのは、当時自分にとって生活の中心だった夕方の情報番組『ぎんざNOW!(TBS)』に何度か出演していたからだった。
とりあえず、この「空飛ぶ鯨」は環境問題を歌っていて「昔々くじらは森の中で暮らしていたが次第に追いやられて海に沈んだ」という設定で、「そのくじらたちが今では海でも暮らせなくなってついに空に逃げ出した」という事を歌っている。しかも二番の歌詞では「50年時が過ぎ宇宙を夢みているくじらたちは次々に墜落され、魂だけが飛んでいった」という救われない終わり方をしている。
そのメロディとアレンジがすごく軽いのでよけいに悲しみを誘うって感じなのだ。
作詞作曲のみなみらんぼうはこの時点ではよく解らない痩せたオッチャンだったが、1976年に「山口さんちのツトムくん(歌.齋藤こずえ)」で大ヒットを飛ばすことになる。

で、「空飛ぶ鯨」や「黄色いカラス」はギターで弾くのも簡単な曲でチャラチャラ弾いていた記憶もあるけれど、当時自分が必死に練習していたのが、先ほども出てきた『ぎんざNOW!』に時々出演していた甲斐バンド。2枚目のシングル『裏切りの街角』はイントロや完奏部のコード進行が無茶苦茶カッコイイのでとにかく指がボロボロになるまで練習していた。今思うと「アコースティックギターで演奏するのには無理があるんじゃないか」という事だったんですが。
そんなこんなで中学時代の自分は『ぎんざNOW!』が作り上げたと言っても過言ではない。
この番組は関東ローカルの番組だったので、知らない人も多いかもしれませんが、インターネットが無く情報がとにかく少ないあの時代。毎日毎日、夕方5時までに家に帰る事がなによりも大事だった。月曜から金曜まで、濃厚な音楽・ファッション・文化・お笑いの最新情報が詰め込まれていて、それを片っ端から吸収していた。(でも、暴走族的な連中が「男とはこうあるべきっす!」みたいな硬派きどりのコーナーは苦手だった)
そこでデビュー当時の甲斐バンドが「かりそめのスィング」「裏切りの街角」なんかを演奏していた。
他にも「ダウンタウンブギウギバンド」とか「Char」とか「ハリケーン」「コンディショングリーン」「紫」などのかなりマニアックなバンドも出てました。素人時代の「シャネルズ」とかも。
他には「純アリス」とか「讃岐裕子」「三木聖子」「小山セリノ」「久我直子」とか、他の番組で見たことあったけ? という感じのアイドルも色々と。

2008110203なんか「ちゃんちゃこ」を聞いていると、自分の原点ともなる中学生時代の嫌な嫌な「俺って同級生の中で一番トンがってんじゃねえ?」と思いこんでいた時代が蘇って来る。気分が高揚するんだか萎えるんだか解りませんが。
で、ちょっと説明しなくちゃいけないのが、実は自分が生まれ育ったのが伊豆の付け根で、ここがテレビ放送に関しては特殊な場所なのです。一般的に静岡の放送局はこの当時はNHK2局と民放3局だけで、実はTBS夕方の「ぎんざNOW!」はネットされていなかった。
しかし自分の住んでいる地域は東京のチャンネルがケーブルで視聴できるエリアだったのですよ。
それ故に同じ学校の中でも「静岡チャンネル」を見ている人と「東京チャンネル」を見ている人と別れていて、情報量が違っていたワケ。
だから同級生が「今度始まった仮面ライダーってカッコイイよな」と言っているのを横目に「もう2号ライダーだもんね」と優越感に浸っていたのだ。他にもタモリがデビューしたテレビ東京「空飛ぶモンティパイソン」もリアルタイムで目撃している。
そこで自分は「ぎんざNOW!」で最新の情報を仕入れ、同級生に「これ知らないだろ」と自慢げに話していたのだ、嫌な嫌なリアル中二病患者。

てなわけで、そのうち『ぎんざNOW!』についても書かなくちゃいけないなぁと思ったりもする。自分の原点を見つめ直す意味で。マジにこの番組で自分のコア部分が形成されている。
だから、いくら世間がバカにしていようとも『ぎんざNOW!』の司会をやっていた、せんだみつおを今でも悪く思えないのだ。

| | コメント (0)

2008年9月28日 (日)

ピンクレディー「サウスポー」

ピンクレディー「サウスポー」
作詞.阿久悠/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1978年3月25日/¥600
ビクター/SV-6372


2008092801『王貞治 引退宣言記念』ということで歌詞の中に出てくる強打者が王さんをイメージしているピンクレディー「サウスポー」を。
背番号1の凄いヤツが相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で

この曲がリリースされたのは1978年のシーズンが始まる直前。前年1977年9月3日に王貞治は通算756号ホームランを打ち、ハンク・アーロンの記録を抜いて世界一になっている。そして国民栄誉賞1号を授与している。
自分は基本的にスポーツに関してはあんまり興味がない人で、贔屓にしているチームとかは無いんだけど、この時は興奮したし、王貞治という選手をリアルタイムで知っているのは自慢できるのだ。
とにかくこの曲がリリースされた時が王貞治という選手の最高潮の時期で、1980年に選手引退している。

ただ残念なのがこの曲の2番の歌詞が
背番号1の凄いヤツが笑う
お嬢ちゃん投げてみろとヤツが笑う

となっているという事。実際の王選手は闘志は人一倍あったんだろうけれど、それを表情には出さずに、ホームランを打った時でさえ「負けた人もいるんだから」と大喜びするような事が無く、常に対戦する人にも敬意を表しているので、歌詞のようなふてぶてしい態度は取らないのだ。
とりあえず「背番号1」で「フラミンゴ打法・一本足打法」というキーワードは出ているが王貞治という事は書かれていない。しかし、この詩を書くに当たって阿久悠は王貞治の自宅に直接電話をして敵役として登場させる了解を取っている。そして王貞治が阿久悠に直接逢った時「僕のことを詩に書いてくれてありがとう」と感謝したそうです。

実はこの曲、最初「サウスポー」というテーマで曲を作りレコーディングまでした時、ディレクター飯田久彦が「何かインパクトがない、勢いがない」とダメ出しをしたという。(事務所社長の相馬一比古がダメ出ししたという話もある)
実はタイトル自体はすでに1月の段階で芸能週刊誌の記事として「ピンクレディ、次のシングルタイトルは『サウスポー』だ!」と騒がれていたために別の曲を持ってくる事も出来なかった。(そんなのが大々的に記事になるほどピンクレディは爆発的に売れていたワケですが)
そして都倉俊一にもっとテンポのいい曲を書くように命じ、出来た曲にレコーディングの前日、阿久悠が新たに詩をつけ、今知られてる「サウスポー」が誕生している。
その判断が「オリコン初登場1位」「オリコン9週連続1位」という記録を達成した。

1月の週刊誌で「サウスポー」のタイトルがリークされているという事は前年末には「サウスポーのピッチャーが活躍する曲」というイメージが出来上がっていたんだと思うのですが、その前年テイタム・オニール主演で映画「がんばれベアーズ」が大ヒットしていたり、アメリカでポール・R・ロスワイラーが書いた小説「赤毛のサウスポー」が話題になっている。
これらが多大なるヒントだったのではと思うのだ。
ついでに女性サウスポーと言えば水原勇気が活躍する漫画『野球狂の詩(水島新司)』がある。
雑誌連載は1972年からですが、やはり前年1977年に木之内みどり主演で映画化され、さらに同年アニメ化もされている。

現在でも「サウスポー」は高校野球でブラスバンドがブカブカ演奏する曲としてお馴染みで、夏の大会で演奏された曲順位では2007年は23校で3位、2008年は28校で4位となっている(同時に2007年4位、2008年3位が同じ阿久悠・都倉俊一コンビの「狙いうち」ってのも凄いですが)。
ちなみに「サウスポー」を一番最初に応援歌として使ったのは群馬県の桐生高校。この時のピッチャーがサウスポーだったので使ったのですが、初めて使われた大会が1978年春の選抜大会との事。
つまり3月25日にリリースした曲を早速使うという早業なのだ。
でも野球の応援って、攻撃をしているチームが演奏するんじゃなかったけ? だとすると魔球でキリキリ舞されちゃう曲はどうか?って事です。
しかし、リリースから30年間、今でも演奏され続けているって凄い。

その理由のひとつに、今でも人々の記憶に鮮明に残っている王貞治という人物が歌われているというのも大きいんじゃないかと思ってしまうのだ。

| | コメント (1)

2008年9月27日 (土)

牧村三枝子「いち抜けた」

牧村三枝子「いち抜けた」
作詞.阿久悠/作曲.穂口雄右/編曲.高田弘
0000年/¥600
ポリドール/DR6103


2008092701演歌の牧村三枝子の曲ですが作曲はキャンディーズの「春一番」など一連のヒット曲、郷ひろみ「林檎殺人事件」林寛子→小泉今日子「素敵なラブリーボーイ」などを作曲している穂口雄右(ほぐち・ゆうすけ:現在は日本作詞作曲家協会理事という偉い人)。それだけで、ただの演歌じゃないって解るのですが、軽快なポップス。昔の演歌系はこういうジャンルも関係ないポップな曲もあったんだよなぁ。
という事で『小泉純一郎 政界引退宣言記念』でこの1曲。

いやぁ突然の引退宣言ですが、政策の善し悪しは別として小泉純一郎という人は実に「解りやすい」という言葉がついて回ります。考えている事は多々解らない部分もありますが、発言や行動にキレがあったので「こう動いた」「こう考えてる」というシャッキリ感があった。
政治的なレトリックで人を煙に巻く事もありましたが、その時も明確に「騙したな!」的なニュアンスが解るような騙し方だったので、小気味よい感じはあった。
特に、その後の安倍政権・福田政権という、なんだかねちゃーっとしたメリハリの無い政権が続いているので特にそう感じてしまう。
バブル崩壊から長く続いている平成大不況の中での総理大臣という事で、何をやっても叩かれてしまうような状況の中、それでも後が後だけあって「あの頃は良かったなぁ」とか思ってしまうのだ。そんな良くも無かったけれど。

2008092702しかし「総理大臣を辞めた時から、もう国会議員としても引退しようと考えていた」との事で、次期選挙には出ませんか。その宣言を聞いた時「あれ?総理大臣を辞めてから随分経っているんじゃ?」と思ったのですが、まだ2年しか経っていないので間に選挙は1度も無かったんですな。間に安倍・福田時代があったので、随分昔の印象になってしまったんですが。
そんなワケであっさりと「いち抜けた」と言って舞台を降りていく66歳。それと対照的に何度も総裁選に出馬しやっとその座を獲得した麻生太郎68歳。
まさか牧村三枝子のヒット曲のように「決めた〜決めた〜オマエとみちづれに〜♪」なんて国が全壊するまでしがみついたりはしないよね。と言っても、福田康夫のように「もうこれ以上やってもムダだから辞〜めた」といきなり放り出されても困るけど。

未だに前方に明かりは見えていないけど、インパクトとわかりやすさは必要っす。小泉純一郎の最大の功績は「政治をエンターテイメント化し、国民が興味を引く物にした」って事じゃないかな?
政治的な決着は良いとも悪いとも言えないけれど、あの時期は政治がポップだった気がする。

その前に「森喜朗」という別の意味で興味を引く笑えるネタの宝庫もいましたが、政策がほとんど無く、無能を晒しているのに威張りくさっていた森喜朗が、史上最低の支持率の中で総理大臣を辞任した時、大人気で迎えられた小泉純一郎に送ったヒトコトも振るっていた
「国民の支持率が凄いというが、そんな小泉君にこの一言を送ろう『稔るほどに頭を垂れる稲穂かな』」
思わずテレビに向かってツッコミを入れてしまいましたよ。
オマエが言うな!と。

| | コメント (1)

2008年9月26日 (金)

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」
作詞.SEPIA/作曲.編曲.芳野蘭丸
1988年/¥700
MOON/MOON-758


2008092601ここの所、秋の曲ではなく別のテーマで書いてきました。
松田聖子の「風立ちぬ」から始まっているのですが、小説のタイトルを引用した曲というシリーズ。
まず「風立ちぬ」は堀辰雄の小説。近年、韓国ドラマの影響なのか多くなった「難病物」を代表する作品で久我美子、山口百恵で映画化もされている。
それ以降は「最後の一葉」「赤と黒」「悲しみよこんにちは」と続いている。
この手のタイトルを引用してくるというスタイルは歌謡曲のタイトルには多く見受けられるのですが、これは元のタイトルにインパクトがあったという事と、耳慣れているという部分があると思うワケですよ。
でも、その内容は「そのタイトルになるべくしてなった」という状態であって欲しい。
でも時々、それは無いだろと感じてしまう物もある。

2008092603かの大ヒットした『世界の中心で愛を叫ぶ』なんかも、ドラマ化される前のヒットし始めた頃のアマゾン書評でも「タイトルの斬新さに思わず手に取りました」とか「こんな素敵なタイトルを思いつくなんて凄い」とか書かれていた。
実際にはハーラン・エリスンのSF『世界の中心で愛をさけんだけもの』がまずあって、それをアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が最終話タイトルで『世界の中心でアイを叫んだけもの』として引用した物。アニメや漫画などの章タイトルはこの手のパロディやオマージュが多いのですが、それを堂々と小説のタイトルにしてしまったのだ(作者ではなく担当編集者のアイディアとの事)。さすがにこれはイカンよなとは思った。

他にもタイトルを巡って揉めた物では、野島伸司が脚本を書いたドラマ「人間失格」は太宰治の遺族からクレームがついて初回放送ギリギリに「人間・失格」に変え、第2話からはサブタイトル「たとえばぼくが死んだら」も付けられた。(このタイトルに関する報道が初回放送直前に新聞に書かれたため、逆に宣伝になったので「やらせ?」と疑問視されているけど)

2008092602あと池田聡が1994年にリリースしたシングル『恋人と別れる50の方法』は、まったく同じタイトルの曲がポール・サイモンにあるために一悶着あった。小説から曲名とかはギリギリありだと思うけど、曲名から曲名はダメだろうなぁ。それが単純な単語「卒業」とか、単語と単語の組み合わせレベルだったらありだと思うけど。(太田裕美には「恋人たちの100の偽り」という曲もありますが)

そういう意味でこの一世風靡セピアの「汚れちまった悲しみに…」はどうなんですかね?
アニメ『魁!男塾』のオープニング曲として使われていたそうなんですが、中原中也が中学時代の愛読書だった自分としては「許せん!」という感じではあります。
なんせ歌詞を読んでみてもタイトルが「汚れちまった悲しみに…」である必然性が感じられない。
「汚れちまった悲しみに」というフレーズの後にもう一行、というのが何度も続くのですが「汚れちまった悲しみに、俺の青春もナンボのもんじゃい」「〜、時代がこうで悪かったのう」「〜、いつか本気で笑おうや」と、別に汚れてしまった悲しみをどうこうする詩に続かないのだ。
単純に「汚れちまった悲しみに」というフレーズが意味ではなく言葉の流れとして乗っているだけにしか思えない。もしかしたら意味が聞き取れない英語のフレーズでも差し替え可能かもしれないのだ。

このシングルのライナーノーツに一世風靡セピアの「何故俺達はパフォーマンスという言葉を使うのか?」という文章が掲載されていて、その中でこんな事を書いている。
俺達は或る時人から
かっぱらってきても俺達の武器として
時代に切り込んで生きたいのだ……。

この一世風靡セピアという集団は、やたらと男気とか集団とか結束力を前面に出していて苦手な部類ですが(非体育会系のヘナチョコ野郎です)、「俺達は闘うために手段を選ばないぜ、前人が築いてきた物も全部俺達の中で消化して武器にしていくぜ」と言いたいワケですか。
でも、中原中也をこんな無惨な形で利用するのは辞めて……、と思ってしまうのだ。
ちなみにB面は「幾時代ありまして」という曲で「幾時代ありまして/殴りあいや激論の末に」とか言う内容。これも中也の『サーカス』という詩にある「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」が元ネタ。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん、という田村信も真っ青なリズム感のあるオノマトペで有名な詩。

あくまでも、この辺の意識は個人で差があるし「麻丘めぐみとか斉藤由貴はOKで、一世風靡セピアがダメって、どう違うの?」と問われると「いや…、なんとなく」としか答えられない。難しいなぁ。

追記(さらに修正:指摘ありがとうございます)
この曲のタイトルは正しくは『汚れつちまった悲しみに』なんですね? 歌を聴くと「汚れちまった悲しみに」と歌っているんですが。
そしてオリジナルの中也の詩は『汚れつちまつた悲しみに』です。

中原中也「汚れつちまつた悲しみに」

汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに/今日も風さえ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは/たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは/小雪のかかってちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは/なにのぞむなくねがうなく
汚れつちまつた悲しみは/懈怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに/いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに/なすところもなく日は暮れる……


中原中也「サーカス」

幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして/今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて/汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が/安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯/咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

| | コメント (4)

2008年9月25日 (木)

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」
作詞.千家和也/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1972年10月/¥500
ビクター/GAM-5


2008092501『悲しみよこんにちは』と言うタイトルはよく出来たタイトルで、この短い字数の中に色々なドラマを喚起させます。淡々と悲しみを受け入れる様子が、泣き叫ぶような悲しみよりその痛みの深さを感じさせるのかも知れません。
それ故に、何度もこのタイトルは歌謡曲に流用されている。
1972年に麻丘めぐみが、1986年に斉藤由貴が、1989年には高岡早紀が同名タイトルの曲を歌っている。
ついでに1982年に川田あつ子が「秘密のオルゴール」というシングルのB面で「哀しみよ今日は」というタイトルの曲を歌っている。川田あつ子と斉藤由貴の両方の詩を書いているのは松本隆。
って事ですが、元々「悲しみよこんにちは」と言ったらフランソワーズ・サガンの小説のタイトルなのだ。
自分はサガンの小説は読んでいないけれど、映画「悲しみよこんにちは」を見ている。
で、その映画の中でシャンソン歌手ジュリエット・グレコが主題歌「悲しみよこんにちは:Bonjour Tristesse」を歌っている。つまり「悲しみよこんにちは」というタイトル曲の元祖はこれなのだ。

斉藤由貴Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092502映画「悲しみよこんにちは(1958)」の主人公セシルを演じたジーン・セバーグはショートカットのカワイ子チャンで当時20歳。1979年に40歳でちょっと謎のある亡くなり方をしている。
自分が初めてこの映画を見た時すでにこの世に居なかったのですが、セシルの自由奔放で可憐で強くて弱い姿にドキドキしました。
そのセバーグが演じたセシルから、ベリーショートの髪型を「セシルカット」と呼ぶようになりました。
その後日本では九重祐美子がセシルカットで「コメットさん」を演じ人気者になっていました。(時代的には9年ほど経過していますが、コメットさんはセシルカットですよね?)でもって、そのコメットさんの髪型を真似していたのかは不明ですが自分の通っていた幼稚園の保母さんがまさにそんな髪型で、自分の中で「コメットさん=保母さん」が繋がっていて、その後のショートカット好きに自分の中で昇華していくのだ(って、そんな自分語りは聞きたくないって?)

高岡早紀Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092504_2で、麻丘めぐみの「悲しみよこんにちは」ですが、デビュー曲「芽ばえ」がヒットしたのを受け、この2ndシングルは路線として同じ曲調を踏襲している。
イントロは「芽ばえ」と同じく軽やかなストリングスで始まっているが、この編曲をした高田弘はストリングスを使ったアレンジを上手く使う人で、桜田淳子の「天使も夢みる」「わたしの青い鳥」ちあきなおみ「喝采」などが代表曲。
麻丘めぐみはデビュー曲の「芽ばえ」が大ヒットして、この曲が発売された年末もまだそのヒットの余韻が続き、そのままレコード大賞最優秀新人賞を「芽ばえ」で受賞している。そのためなのか、この「悲しみよこんにちは」は余計に印象が薄くなっている。
そして、年明け早々の1973年1月に「女の子なんだもん」という、前2曲とはタイプの違う曲をリリースしている。しいて言えば「南沙織タイプの曲で、しかも声量が無くても歌える曲」という感じなのだ。
麻丘めぐみと南沙織、共に作曲を担当しているのは筒美京平ですが、その辺の計算はあったと思うのは、「女の子なんだもん」の編曲は高田弘に代わり筒美京平が担当している。
しかも「女の子なんだもん♪」という女子力を前面に出した振り付きの曲で、「芽ばえ」「悲しみよこんにちは」で歌われていた受け身の女の子をさらにパワーアップした「積極的に受け身を相手に押しつける女の子」としてイメージを増幅させている。それが「わたしの彼は左きき」などのヒットへと続いていくことになる。

川田あつ子:B面が「哀しみよ今日は」
2008092503そう言う意味でこの「悲しみよこんにちは」は地味で、あまり記憶に残っていない曲かもしれない。
そして疑問なのが、歌詞を読んでいても「悲しみよこんにちは」というタイトルにあまり繋がらない内容だという事。逆に歌詞の最初が「ちいさな幸せつかんだら、悲しい想い出捨てましょう」と幸せに対して前向きなのだ。
いわゆるタイトル先行の企画として考えられたのかなぁ。
ちなみに、この時代の女性アイドルはストレートロングが多い。前述の南沙織、アグネス・チャン、小林麻美、奈良富士子、そして麻丘めぐみ。それと逆らうように、同時期始まったスター誕生出身歌手はショートが多いのも特徴的。森昌子、桜田淳子、山口百恵など。
特に麻丘めぐみはストレートロングにアクセントとして、サイド部分を頬辺りでカットして少し前に流している。これを当時「お姫様カット」と呼んでいたのですが、小学校の時、同級生で髪型を真似た子がいたが男子の間では評判が悪かった。お姫様カットが評判悪かったのではなく「麻丘めぐみとは全然違う」という事で。

自分は南沙織派で「芯があってちょっと気が強そう」というタイプに惹かれていたワケですが(だから自分の趣味の話はいいって)、「か弱そうで守ってあげたい」というタイプに惹かれる男子には麻丘めぐみはかなり人気があったワケです。

| | コメント (3)

2008年9月24日 (水)

岩崎良美「赤と黒」

岩崎良美「赤と黒」
作詞.なかにし礼/作曲.芳野藤丸/編曲.大谷和夫
1980年2月/¥600
キャニオン/C-168


2008092401岩崎良美のデビュー曲。
当然デビュー時から「岩崎宏美の妹」という扱いで「歌が上手いのは当たり前でしょ」みたいな感じだった。
岩崎良美のデビューから2ヶ月後の4月に松田聖子がデビューし、6月に河合奈保子、9月に三原順子がデビューしている。いわゆるアイドル的に扱われるのを嫌って、アイドル仕事を積極的にこなさなかったと言われている。
1980年という軽佻浮薄を絵に描いたような時代の始まりにはちょっと重かったせいなのか、そういう意味で他の同期デビュー組と距離が出来てしまったような気がする。

岩崎良美の曲というと世間的には1985年から始まるアニメ「タッチ」関連が有名ですが、それ以前の作品もレベルが高い名曲揃いなのだ。当時も別段ファンというワケでもなかったけれど「なぜ売れないんだ?」と思っていた。
もしかしたら、この時代を象徴する物「カラオケ」が多大に影響しているんじゃないか?とも思ったりする。それまで音楽というのは、突出した才能を持った歌手が歌うという大前提があったハズなのに、この頃からいわゆる「Next Door's Girl」となりのお姉ちゃん的な子がポンと出てきて、日常の延長として歌うという状態が多くなったような気がする。
それ故に「カラオケで歌いにくい曲は流行らない」という流れがこの当時出来てきたのかもしれない。とくに若い世代が聞く曲では。
そういう意味では岩崎良美の歌っていた曲はとにかく難しい。デビュー曲からこんな出来上がった曲かよ、てな感じでやんす。

しかし「赤と黒」という詩の内容も世間に大きくアピールしなかったのではないかと思っている。
なんせサビが「赤と黒みたいな、恋をしています、赤と黒みたいな、しのび逢いです♪」って意味解らないっす。ハッキリ言って岩崎良美辺りを聞く人の何%がスタンダールの『赤と黒』を読んでいるってんだ?
もの凄くテーマの取り方が考えすぎって気もする。
作詞のなかにし礼の趣味だと思うんだけど、2曲目「涼風」を挟んで3曲目は「あなた色のマノン」で、歌詞の中で「私はマノン、マノン・レスコー♪」とか出てくるんですが、プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』を理解している人が岩崎良美を聞いてる人の何%いると思っているんだ!
自分も恥ずかしながら『赤と黒』も『マノン・レスコー』も、基礎知識としてのあらすじぐらいしか把握してないっす。読んだこと無いッス。オペラ見たこと無いッス。

だから偉そうな事、言えないッス。

| | コメント (3)

2008年9月23日 (火)

太田裕美「最後の一葉」

太田裕美「最後の一葉」
作詞.松本隆/作曲.筒美京平/編曲.萩田光雄
1976年/¥600
CBSソニー/06SH56


2008092301太田裕美はデビュー時はピアノ弾き語りでどちらかというとニューミュージック系なイメージだったが、いまいちセールスに結びつかず、松本隆・筒美京平も煮詰まった事から、マイクを持って歌うポップスとして「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」をリリースし大ヒットとなっている。
そしてこの「最後の一葉」で、デビュー時のリベンジとして弾き語り路線の曲をリリースしてオリコン5位を獲得している。
前作「赤いハイヒール」では都会で振り回され踊らされ続けている女性が「一度履いたらもう止まらない、誰か助けて赤いハイヒール♪」と歌っている。これはアンデルセンの書いた童話「赤い靴」がモチーフとなっている。(実際の童話はとにかく悲惨な話ですが)
その文学をモチーフにした続編として登場したのが「最後の一葉(ひとは)」。

2008092302もちろん、O・ヘンリーの同名短編小説「最後の一葉」がモチーフになっているわけで、シングル盤にもちゃんと『O・ヘンリー「最後の一葉」より』と出典が書かれている。
出典はちゃんと書きましょうという事ですね、って松本隆は「木綿のハンカチーフ」の時は出典を書かなかったのですが(参照「木綿のハンカチーフ」)
聞くと解るんだけど、歌詞は本当に物語をそのまま歌っているので、最後に「あなたが描いた絵だったんです」と小説のオチまで歌っている。
と言っても、歌の歌詞は男女の恋愛に書き換えられているし、壁に絵を描いたあなたがどうなったかという小説の方のラストは描かれていない。
しかし、あの時代こんな暗い内容の歌詞がシングル盤としてありだったんだなぁというのが驚き。
曲中で主人公が自分の事を「命の糸が切れそうなんです♪」などといいつつ、延々と「別れたほうがあなたにとって倖せでしょうか♪」と綴っている。なんか救いがないのだ。

名曲だとは思うんですが、なんかこの後ろ向き感が当時は絶えきれなかった。
もし歌詞の方が原作どおりのラストを歌っていたら、もうこれは悲惨すぎます。

| | コメント (2)

2008年9月22日 (月)

松田聖子「風立ちぬ」

松田聖子「風立ちぬ」
作詞.松本隆/作曲.大瀧詠一/編曲.多羅尾伴内
1981年10月7日/¥700
CBSソニー/07SH 1067


2008092201意外と秋をそのまんま歌った曲というのは少ない。
これは歌として前向きな物にしやすい夏に対して、秋というのはやはりクールダウンというか精神的な高揚感がないせいなのかもしれない。特に最近は失恋の曲というのは流行らない。なぜなら、今の曲はカラオケで歌ってナンボの物が多いので、場を重くしてどーするという事なのかもしれない。
そして夏の曲は勢いでいけるけれど、秋の曲は内証的な物が多いので歌手の力量が凄く必要なのかも知れない。
松田聖子の7枚目のシングル「風立ちぬ」なんですが、松田聖子はこの前年の秋に3枚目として「風は秋色」をリリースしてヒットさせている。しかもその曲が初のオリコン1位を獲得している(デビューからの2曲「裸足の季節」「青い珊瑚礁」が1位でなかったのが意外ですが)。
それ故に「秋」というテーマもそんなに問題無かったのかも知れない。

2008092203という事で「風立ちぬ」ですが、グリコポッキーのCM曲としてとにかく流れていたのですが、そのストリングスを多用した音がかなり印象的。
作曲はかの大瀧詠一で、編曲の多羅尾伴内というのも編曲家としての別名。大瀧詠一は70年代からバンドはっぴいえんどの活動からCM音楽など、とにかく多岐に渡る活動をしていたのですが、この曲がリリースされた1981年の春に名作アルバム『A LONG VACATION』をリリース、100万枚突破をしており、とにかく注目を浴びている最中に書いた作品。
松田聖子の作詞というと松本隆の印象が強いけれど、実はデビュー時には関わっておらず「風立ちぬ」の前、6曲目の「白いパラソル」から作詞を担当している。その松本隆と大瀧詠一ははっぴいえんどからの付き合いで、『A LONG VACATION』もほとんどを松本隆が作詞を担当している。その関係もあっての起用で、同時期にリリースされたアルバム『風立ちぬ』のA面の作曲編曲も大瀧詠一が担当。ついでにB面の殆どの編曲&ギターを同じくはっぴいえんどにいた鈴木茂が担当している(超名盤)。

2008092202ちなみに大瀧の変名「多羅尾伴内」はもともとCM音楽を担当していた時に、覆面編曲家という事で「七つの顔の男」として片岡千恵蔵の映画シリーズでの主人公の名前をそのまんま拝借している。
このシングルが大ヒットしたわけですが、それにより『編曲.多羅尾伴内』という名前も有名になってしまい、映画の関係者から「勝手に名前使うな!」とクレームが入り、多羅尾伴内での活動を自粛する事になってしまったワケです。それまで長年この名前を使っていて『多羅尾伴内楽団』なんてタイトルのアルバムを2枚も出していたのに、その時は世間の目に全然触れていなかったって事なんすかね。

2008092204この時期の大瀧が参加しているって段階でヒット間違い無しなんですが、松田聖子というボーカリストの凄さがあってのヒットだったのかも知れないと、聞き直して痛感してしまった。
サビ入り直前の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ〜♪」という部分、3回出てくるサヨナラの表情が全部違っていて、2回目のサヨナラだけ少し声が枯れ気味になる所なんて鳥肌物ですぜ。
この時、大瀧詠一が松田聖子を徹底的に自分の理想とするボーカルスタイルへとしごき倒したそうで、松田聖子も後に「怖かった」と語っている。
それ故に、ボーカリストとしての松田聖子の頂点はこのシングルかも知れない。これ以降は「上手く歌う事、上手く演技をして歌う事」をこなしているように聞こえてしまう。

松田聖子を聞いていると、ボーカルというのは声量ではなく表現力が一番重要なんだなぁと再認識させられます。

| | コメント (2)

2008年9月21日 (日)

白鳥哲「ひとりだち」

白鳥哲「ひとりだち」
作詞.松本隆/作曲.吉田拓郎/編曲.あかのたちお
1975年8月/¥500
ディノスレコード/H-2


2008092101とりあえず秋の曲
TBS水曜劇場「寺内貫太郎一家2」の中で田舎から出てきた見習い少年石工テツとしてドラマデビュー、そして挿入歌「ひとりだち」を歌って歌手デビューもした白鳥哲です。
歌詞の中でもドラマの設定を臭わせるように、一人でアパート暮らしをしている部屋へ田舎に残してきた彼女から「秋の匂い」がする手紙が届いたと歌っている。さらに3番では「去年の秋は」あの子がリンゴを剥いてくれたけど今は皮も剥かずに噛みしめると、秋をイメージさせる曲となっている。
水曜劇場シリーズには中卒で田舎から出てきて住み込みをして働いている少年少女が毎回登場して、それを演じる新人が番組のマスコット的役割を果たしているのがパターンとなっていた。
有名処では浅田美代子や岸本加世子などがいるが、この白鳥哲や「時間ですよ・昭和元年」の谷口世津とかそれ以外ではほとんど見かける事無く消えている人もいる。相本久美子は使用人ではなく末娘だったし、それ以前の芸歴もあるけど近いパターンで登場した。

2008092102白鳥哲は「寺内貫太郎一家2」の後番組「花吹雪はしご一家」にも出演し、そこでも挿入歌として2枚目のシングル「赤い鼻緒とブルージーン」を歌っているが、色々調べてもその2本のドラマと2枚のシングル以外に足跡を残していないようなのだ。
そして記憶の中でも、歌手として白鳥哲が劇中で歌っている場面以外を見たことがないので、売ろうという意識があったのか? 本人も売れる気があったのか不明。本当にドラマの中にしか存在しなかった完全架空の人物のような気がしてしまう。
一応レコードに書かれてるプロフィールでは昭和36年3月1日生まれ、出身は東京都(地方出身じゃ無いのか!)、学歴は新宿区立淀橋中学3年在校中(バリバリ都心だ!)となっている。
しかし「寺内貫太郎一家2」が放送された1975年辺りになると「田舎から出てきて住み込み」という設定に無理があるような気もしていた。
と言いつつ、自分の中学校時代の同級生が高校進学せずに調理人として神奈川だかの店に住み込み修業で入ったという話もあったので、ギリギリありえる話だったのかなぁ。

ちなみに「ひとりだち」では田舎から出てきた純朴な少年がイマイチ都会の暮らしに馴染めずに「カセットテープに声吹き込んで、一人二役さびしいね♪」とかなり危ない一人遊びをしているのですが、B面では「この町に来てもう半年」、同じような寂しがり屋の女性に「ぼくの部屋においでよ」「ミルクティーでも一緒に飲むかい」と誘うような人間に成長している。
こうやって人はその環境に順応して変わっていくのだなぁ。

| | コメント (3)

2008年9月20日 (土)

中山千夏「あなたの心に」

中山千夏「あなたの心に」
作詞.中山千夏/作曲.都倉俊一/編曲.大柿隆
1969年9月/¥370
ビクターレコード/SV-1056


2008092001別段、秋は関係ない曲です。
でも、空気がサラサラして風が気持ちよくなってくると、ついつい風通しがよい曲を聞きたくなってくる。という事で、ふと口ずさんでしまったのが「あなたの心に」。
自分的にはあまりリアルタイムではないのですが、中学時代に手にした歌本に掲載されていたこの曲は好きでよく歌っていた。
中山千夏の声は物心付いた時にはすでにテレビから流れていて、「ひょっこりひょうたん島」のハカセの声としてもっとも深い記憶に刷り込まれているせいなのか、この曲を聞くとメロディの優しさと同時に声だけで幸せな気分になってしまう。
この曲は何人もカバーしていますが、どの曲もなんか違う。中山千夏の「♪私ひィッとりで〜吹かれッてみたいなぁ♪」のフレーズで聞くことが出来る微妙に笑っているような声質を超える事は出来ないと思うのだ。

「ひょっこりひょうたん島」は1964年から1969年まで1224回も放送されたけれど、現存しているテープはたったの8本。同じように名作と言われているのにDVD化も出来ない中山千夏主演ドラマに「お荷物小荷物」という作品がある。
1970年の作品で、志村喬が演じる軍国主義に凝り固まったじいさんが中心となった男尊女卑あたりまえの家庭に沖縄からやってきたお手伝いさん中山千夏が巻き起こすドタバタ喜劇で、当時のヌーベルバーグ映画ジャン・リュック・ゴダール「彼女について知っている2、3の事柄」などに影響を受けて『脱ドラマ』を目指していたそうです。
自分はまだ小学生だったので、なんか記憶の片隅で「なんじゃこりゃ」ぐらいの印象しか無かったんだけど、ドラマの最中に突然出演者がカメラに向かって独り言を言ったり、ストーリーもその場限りのような部分もあった(ような気がする)。
「お荷物小荷物」は主人公が沖縄に帰った所で話は終わる。しかし翌週も主人公が居なくなったままドラマは続いていて、そこに中山千夏が今度は北海道から来たアイヌの娘として登場し、続編「アイヌ編」として続く。(この辺は記憶に無いのでその後読んだ資料から)

脚本は佐々木守なので左翼的な部分も多分にあり、実際の事件「よど号乗っ取り」などもドラマの中で話題として出てくる。
このドラマの中で中山千夏が演じた主人公が沖縄出身だったり、アイヌ出身だったりするのは、アイヌ民族解放や琉球独立運動にも佐々木守が多大なる関心を寄せていたからで、アイヌ編では中山千夏の部屋には『北方領土返還』などの張り紙があったらしい。
その事もあったのか(当時のドラマは残っていない物が多いですが)現存しているテープはアイヌ編の最終回だけ。
中山千夏はこのドラマの打ち上げで「もうドラマには出ない」宣言をして、その後はタレント的活動をしながらエッセイ執筆や言論活動を始め、ウーマンリブ・反差別・反戦などの市民運動に傾倒していく。もしかしたら、このドラマが影響しているのかも知れない(このドラマの音楽担当・佐藤允彦と結婚→離婚もしている)。

政治的な事はよく解らないし、女優としての活動もよく知らないけど、自分にとって中山千夏は「あなたの心に」とアニメ「ドロロンえん魔くん」の主題歌を歌っていた人なのだ。あとアニメ「じゃりン子チエ」のチエちゃんもあるか。
しかし歌詞を読み返すと、恥ずかしくなるほど素直でまっすぐな内容。自分のひねくれた部分が恥ずかしくなってしまうのだ。
色々面倒臭い事は世の中に多いけれど、もっと素直でいいじゃないか、前向きに希望を語ってもいいじゃないか、と思ってしまう。

ちなみに編曲の大柿隆は初期かぐや姫で編曲なんかもやっているけど、一番有名な編曲は「ゲゲゲの鬼太郎」の一番最初のVer.、熊倉一雄が歌っている主題歌の編曲をやっている。

| | コメント (5)

2008年9月19日 (金)

竹内まりや「SEPTEMBER」

竹内まりや「SEPTEMBER」
作詞.松本隆/作曲.編曲.林哲司/コーラスアレンジ.EPO
1979年/¥600
RVC/RVS-553(JPBO-0568)


2008091901ひと雨ごとに季節は秋が深くなっていく今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか?
ということで9月をテーマにした曲などを…、と竹内まりや「SEPTEMBER」です。
竹内まりやは1978年にシングル「戻っておいで・私の時間」アルバム「BEGINNING」でデビューした時に慶應大学に在籍していた事から「キャンパスのアイドル」的なポジションとして扱われていた。
本人はこのアイドル的な扱いが嫌だったとか、アイドルソングを歌わされて嫌だった、みたいな事を後に公言しているんだけど、扱いは別に曲は別段アイドル的ではないと思うんだけどなぁ。
なんせ、デビュー曲は加藤和彦&安井かずみ、アルバムでは大貫妙子・山下達郎・細野晴臣・高橋幸宏・杉真理・告井延隆などがライターとして参加しているし、音も上質なポップスだと思う。
ちなみに、竹内まりやはデビューした事で忙しくなり大学を中退したとされているんだけど、デビュー時点で23歳、すでに5年生なのだ。

1st Album『BEGINNING』
2008091902Wikipediaではこの時期の事をデビュー当初は、松本隆などが提供するアイドルソング的な歌を歌わされていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。と書かれているんだけど、1stアルバムの段階で竹内まりや作詞作曲の曲も収録されているし、松本隆は参加していない。

松本隆は元々、はっぴいえんど出身でロック系などにも多くの詩を提供している事もあって、別段松本隆=歌謡曲ってイメージは全然ないけどなぁ。
ただ、事務所的な部分での扱いがアイドルっぽいモノがあったので、そこが嫌だったんじゃないかと思う。その点がWikipediaではちょっと違う印象で書かれている。
アイドル的な曲という意味では、自らが作曲して河合奈保子が歌った「けんかをやめて」、広末涼子「MajiでKoiする5秒前」なんかを聞く限りでは、そっちも好きなんじゃないの?と思ってしまうのだ。

2nd Album『UNIVERSITY STREET』
2008091903という事で、松本隆が作詞をしている3rdシングル「SEPTEMBER」ですが、作曲の林哲司のAOR趣味も相まって良質なポップスで、1979年当時のまだチャラチャラ度合いが少なかったキャンパスライフでの恋愛を歌っている。
松本隆でキャンパス物というと、元祖学祭の女王・太田裕美がいますが(学園祭シーズンはとにかく凄いスケジュールだったらしい)実はこの二人は共に1955年早生まれ。事務所的には同じ路線で行きたかったのか?と思ってしまうワケですが、竹内まりやはもともと慶應大学の軽音部出身で1年先輩に杉真理がいて、もっと音楽志向だったんでしょうな。

このシングルのB面は自分が作詞作曲して、後に結婚する山下達郎が編曲した「涙のワンサイデッド・ラヴ」ですが(2ndアルバム「UNIVERSITY STREET」にも収録)、竹内ー山下ではお馴染みの三連のロッカバラード。もうこの段階で今とほとんど変わりないじゃんと思ってしまう。

Wikipediaの記述を見ていると、先述のこれに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになっていくのだけれど、その過程でこの頃アレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である(もっとも、デビュー以前からまりやはシュガーベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという)。と、デビュー当時の楽曲が気に入らなかった竹内まりやは後に山下達郎と出逢って音楽的に変化していった、みたいな印象を受けてしまうんだけど、実際の事をいうとデビューシングルと同時発売だった1stアルバム「BEGINNING」ですでに山下達郎が参加しているから、ちょっとニュアンス的にミスリードされている感じで嫌。

当時、竹内まりやの曲を「上質なポップス」だと思って聞いていたので「アイドル的な曲が嫌で」みたいな事を書かれているのを見て、ふんがー!と思ってしまうのだ。(本人がそう言っているとしても)

| | コメント (3)

2008年9月18日 (木)

八神純子「パープルタウン」

八神純子「パープルタウン」
作詞.三浦徳子/作曲.八神純子/編曲.大村雅朗
1980年7月21日/¥700
ディスコメイトレコード/DSF-204


2008091801ジャケ違い、の微妙な物。(番外編)
という事で前回で「ジャケ違い」シリーズは一旦休止なんですが、このシリーズを楽しみにしてくれている方も多かったみたいで、ありがとうございます。まだまだネタは山積みですのでジャケ違いシリーズは時々やって行きたいと思います(長期展望)。
で、この八神純子のヒット曲「パープルタウン」も一種のジャケ違いなので番外編として書いてみます。
ジャケ違いと言っても、2枚を並べてもまったく同じ物なので1枚しか掲載しませんが、実はこのシングル、表紙ではなく裏面にある意味を持った違いがある。

2008091802上が初期ジャケット裏、下がその後のジャケット裏。
上は
パープルタウン
作詞.三浦徳子/作曲.八神純子/編曲.大村雅朗
なのに対し、下は
パープルタウン 〜You Oughta Know By Now
作詞.三浦徳子/作曲.八神純子/編曲.大村雅朗 R.Kennedy, J.Conrad and D.Foster
となってる。

この曲にまつわる騒動を知っている人は「あ、あれか」と思い当たると思うんですが、「パープルタウン」は発表と同時にヒットしてザ・ベストテンでも1位を獲得、13週連続チャートインしているんですが、その際に「盗作だ!」と訴えられたのです。
レイ・ケネディの「ロンリー・ガイ」という曲とソックリだという事で裁判沙汰になっている。
その結果、裁判までやったのかは不明ですが、クレジットにレイ・ケネディ側の名前、そして曲の副題に「ロンリー・ガイ」の元のタイトル「You Oughta Know By Now」を入れる事で決着している。

双方の曲を聞くと「確かに…」と思うんだけど、実際の事を言えばアレンジは確かに激似なんだけど「Aメロのコード進行がほぼ同じ」と「ブリッジのI Love you more and more〜♪」の箇所が同じ」という感じで、実際にはメロディは別物で八神純子の他の曲にも見られる節回しのメロディなのだ。
あくまもでアレンジによって印象がまったく同じ曲になっている。おそらくピアノやギターの弾き語りで双方の曲を聞いた時はブリッジ部以外はまったく違う曲に聞こえるんじゃないかと思う。

曲が完成するまで色々な行程を経るワケですが、クレジットに「作曲:八神純子」と書いてあっても、実際には途中で色々な人の助言などがあって複雑に変化しているんだと思う。
例えば某アーティストの場合、レコード会社を移籍した途端に曲調が変わった事があるんだけど、これは移籍による心境の変化ではなく、スタッフが変わった事で制作過程の色々が変化したことで、音だけじゃなくメロディも変わってしまったという事なのだ。
海外の場合は、ちょっと助言しただけでもクレジットに名前を入れる事を主張するので、クレジットに複数人の名が列記される事が多いのですが、日本の場合はその辺は曖昧になっている。

そう言う意味で、この曲の場合も「もしかしたらブリッジの部分は、曲を作り上げる過程で付け加えられて、レイ・ケネディの曲により近づいてしまったのでは?」と思ってしまうのだ。
アレンジは確かにソックリなのは疑いようがない。最初のチロチロチロチロ....と言う細かい音に始まり、弦楽器のジャッジャッジャッと刻む音、一転してディストーションギターがガガッガッとリズムを刻み始める(八神純子の場合はディストーション部分からが歌になっています)。

当時の音楽雑誌には「レイ・ケネディの曲が発表された時期と、八神純子の曲が発表された時期があまりに近すぎて実際にはパクる事は難しいはず」と書かれていたのも記憶しているんですが、その辺は永遠に闇の中なのかも知れない。
最終的に八神純子側がクレジットに名前を列記する形で折れたのです。普通ならばミソが付いた曲はなるべく封印すると思うんですが、実はこの年の紅白歌合戦に初出場して「パープルタウン」を歌っている。同年のヒット曲なら他にも「Mr.ブルー」などもあったのに、あえてこの曲というのはある意味、八神純子の意地みたいな物もあったんでしょうかね? 今となっては解らない事ですが。

でも、言える事は1つ「この曲は今でも名曲です」

| | コメント (4)

2008年9月17日 (水)

フィンガー5「恋のダイヤル6700」

フィンガー5「恋のダイヤル6700」
作詞.阿久悠/作曲.井上忠夫/編曲.井上忠夫
1973年12月5日/¥500
フォノグラム/FS-1776


2008091701ジャケ違い(第11弾)
別に深い思惑もなく「ジャケットの図柄が違うレコード」というテーマで書き始めたのですが、困った事になってしまいました。
実は、ここに来て「ちゃんと音楽の話を書くために所有レコードを整理しないといけない」と思い立ち、箱にしまい込んでいた物などを一気に広げて、歌手を50音別に整理し始めています。
その中で「ジャケ違い」を意識して見ていると、思った以上に多くが発見されてしまいます。
自分でもいくつか元ネタとして知っていたのですが「あぁこれも」「これもだったか」と、ジャケ違いを切り無く続けていると、数ヶ月に渡る大事業になってしまう事が判明。という事で、ひとまず今回でジャケ違いシリーズは休止。
そしてまたしてもフィンガー5なんですが、このジャケ違いは「難易度Dクラス」です。とりあえず2箇所の違いがありますが見つける事は出来ますか?(色の濃さは印刷ロットの差なので関係無いッス)

2008091702答えの前にこの曲について。
「恋のダイヤル6700」は「個人授業」に続くフィリップスでの2曲目で、共にミリオンセラーになっている。
今や懐かしいジリリリリリンという電話の音から始まり、ハロ〜ダーリンという妙子(当時、小5)のセリフで始まるこの曲は、都倉俊一の「個人授業」がジャクソン5などのモータウンサウンドを多分に意識したのに比べ、井上忠夫が古いスタイルのロックンロールを現代風解釈でポップスに仕上げてる。
当時の月刊明星に『フィンガー5物語』が掲載されたのを読んだことがあるけれど(他の学年誌などにもそれぞれ別物が掲載されていたらしい)、この当時の芸能界は基本的に子供向けのポップスというのはほとんどなく、アイドルポップスも内容は大人向けで、このフィンガー5のように学園生活を歌う物は皆無だった事から阿久悠が仕組んだとされている。

しかし、子供をターゲットに子供が歌うグループは基本的に賞味期限が短くなってしまうのは致し方がない事。ハイトーンボイスが特徴だったアキラもいつしか声変わりという儀式を迎える年齢になり、次第に無理が出てくるようになる。
以前、見た番組では女性ホルモンを注射することで声変わりを抑えるかを悩んだ、という物をやっていた。
しかしアキラが声変わりをするのよりも早く、浮気な子供達は自分の成長と共にフィンガー5を過去のものとしつつあった。「個人授業」のヒットから2年後、1975年11月に「音楽の勉強」という名目で全員が休養&渡米しているが、すでにその頃は周囲ではほとんど話題になっていなかったと思う。
個人的にはその渡米直前に出した「帰ってくるよ」というシングルは、フィラデルフィアソウルっぽい感じで好きなんですが、知っている人は少ないだろうなぁ。

で、ジャケ違いなんですが、まず違うのは左側の黄色い部分にある「フィンガー5」という赤い文字の下、1枚目は(唄)ですが、2枚目は(片面)になっている。
もう一箇所はタイトル『恋のダイヤル6700』という文字が全体的に2枚目の方が下がっている(黄色い「恋のダイヤル」が約6mm、赤い「6700」が約3mm下がっている)。左にあるレコード番号は同じ位置なので比べると解りやすい。

2008091703この違いに関しても推測の粋を出ないのですが、おそらく1枚目が初期盤でタイトル位置が上すぎてデザイン的に格好悪い、というのが理由じゃないかなぁ。ちょっと断ち位置に近すぎる。
普通の人は気にしない部分かもしれないけれど、編集などをやっていた身としては非常に気になる。

で、実はこのジャケットにはもう1箇所違いがあって、裏面でB面を歌っているのが1枚目では「フィンガー5」というクレジットなのに対し、2枚目では何故か「フィンガー5の三男 玉元正男」となっている。確かに正男のソロ曲なのですが、なぜわざわざソロ扱いにしたんでしょうかね?
レコード盤の方までには気が回っていないのか、名義はフィンガー5になっていますが。
てなワケで、ジャケ違い第11弾でした。(ネタは山のようにあるので、時々やるかも知れません)

| | コメント (4)

2008年9月16日 (火)

三原順子「セクシーナイト」

三原順子「セクシーナイト」
作詞.亜蘭知子/作曲.長戸大幸/編曲.長戸大幸
1980年9月21日/¥700
キング/KO7S-35


2008091601ジャケ違い(第10弾)
三原順子のデビュー曲ですが、世間的には「3年B組金八先生」で『顔はよしなよ。 ボディーボディー』というセリフと共に認知され、いわゆる不良系アイドルとして暴走族関連から絶大な人気を得た。(まだヤンキーという単語は一般的ではなかった)
そのタイミングで歌手デビュー、という感じかもしれませんが、小学生時代から子役として活動していて、金八先生以前より歌手デビューの計画があってレッスンを受けていたという。
タイミング的には1980年11月に山口百恵が結婚引退するという事で「ポスト百恵は誰だ?」みたいな事が雑誌などで特集を組まれていた頃。
すでに4月に松田聖子がデビューしてヒットを連発していたが、そのブリッ子な部分は山口百恵の後継者ではない。ということで、山口百恵のハードな部分だけを抽出したかのように三原順子がデビューしたのだ。
で、ただヤンキー歌謡って事ではなくプロデューサー長戸大幸が「絶対ヒットする」という要素をぶちこんだ曲。

2008091602長戸大幸はかの「ビーイング」の創始者であり、織田哲郎・B'z・TUBE・ZARDなどを排出した人物。この段階ではまだ小さな音楽事務所だったのですが、すでに後に繋がるメンバーがこのシングルに参加している。(音楽制作事務所ビーイングは2年前の1978年に創設)
まず作詞の亜蘭知子。自らも歌手デビューするが、TUBEのデビュー曲「シーズン・イン・ザ・サン」などの作詞家としてヒット曲多数。後に長戸大幸と結婚し、離婚してビーイングから離れている。
このシングルにはバックバンド「システム」のメンバーも列記されているのですが、ギターが後にFENCE OF DEFENSEを結成する北島健二。あとドラムがかつてチャーのバックバンドにいてアイドル的人気もあったリューベン(もっと前にはジャニーズ事務所に所属していた)などもいる。

音的には、当時すでに横浜銀蝿がヒットしていたけれど、銀蝿のストレート単純なロックと同じような印象はあるが、この「セクシーナイト」の演奏は単純なヤンキーロックではなく純粋に音としてよく練られている。
ギターの何気ないフレーズの絶妙さや、ビートを刻むドラムのツッコミ気味の計算された細かいタム、それに上手く絡むベース。一曲入魂という感じなのだ。
もっともベストテンでは松田聖子の「風は秋色」に阻まれて2位止まりだった。その事から当時は「ブリッ子・松田聖子vsツッパリ・三原順子」と敵対するように比較もされていた。が、結局三原順子はザ・ベストテンに入ったのはこの「セクシーナイト」1曲だけで、いつの間にか松田聖子と比較されるのは後からデビューした中森明菜へと移っていく。
ちなみに、なぜ「セクシーナイト」なのかと言うと、長戸大幸いわく「当時ダンシング・オールナイトが流行っていたので、〜ナイトと付けた」という事らしい。
何はともあれ、この曲のヒットは三原順子にではなく、後に続くビーイングの出発点になったのだ。

ちなみに何故ジャケ違い盤があるのか? という理由は不明だけれど、一般的な物は1枚目に掲載した物で、緑色がバックの物がレア(だと思う)。
この緑色のはメイクが異常に濃いよなぁ。ちなみにこの時、三原順子は16歳。

| | コメント (1)

2008年9月15日 (月)

もんた&ブラザーズ「デザイアー」

もんた&ブラザーズ「デザイアー」
作詞.園部和範/作曲.もんたよしのり/編曲.もんた&ブラザーズ
1981年/¥700
フィリップス/7PL-45


2008091501ジャケ違い(第9弾)
もんた&ブラザーズは1981年に「ダンシング・オールナイト」でバンドデビューして大ヒットしているが、ある種1発屋的な扱いになっている。
2曲目の「赤いアンブレラ」も前曲の余波でザ・ベストテンに入るぐらいのヒットになっているが、その後は二度とベストテンに出ることは無かった。
それでも翌年に出たこの曲はよくテレビの歌番組で歌っているのを見かけたので、そこそこのヒットはしたんじゃないかという感じなのだ。
曲は最初から最後までチョッパーベースのシンコペーションが続き、それにもんたよしのりのかすれかすれの叫ぶようなボーカルが乗る「ダンシング・オールナイト」路線の佳作。
イントロがこの当時多かった、「セーラー服と機関銃」パターンのあれをそのまんま採用しているという感じ。もっともこのイントロの元ネタはアート・ガーファンクルの曲だったけど。
ただ一つ難点があるとしたら、本当に最初から最後までチョッパーが淡々と続くのでうるさい。って事かな?

2008091502で、ジャケットの違いは一目瞭然なのですが、1枚目は珍しい表面カラーで表面に「デザイアー」の歌詞、裏面にはB面の「だきしめたい」の歌詞が写真と共に掲載されている(著作権の関係で文字部分はぼかしています)
2枚目は普通のジャケット、というかもっと地味にモノクロ写真で、裏面にはAB面の歌詞が掲載されている。
おそらく初回限定で表面カラーのジャケットだったんじゃないかと思う。
それ以上この曲について書くことはないんだけど、1つだけ疑問があるとすれば、2枚目のジャケットでもんたが何故「キリンメッツ」を手にしているのだろうか? CM曲だったけ?

| | コメント (1)

知泉的音楽夜話

というわけで「知泉的音楽夜話」なんてタイトルで文章を書いているワケですが、本来は月に数回書くつもりだったのが、諸事情あって8月末から連続で書いています。
という事でかなりの本数になったので、あ・か・さ・た・なで分類してみました。
(このリストは随時追加していきます)



知泉的音楽夜話:あ行
※相本久美子「初夏景色」
※麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」
※麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」
※浅野ゆう子「とびだせ初恋」
※あのねのね「もうゲームはしないよ」
※アラジン「完全無欠のロックンローラー」
※石川セリ「八月の濡れた砂」
※石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」
※泉谷しげる「春のからっ風」
※一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」
※岩崎良美「赤と黒」
※上田正樹と有山淳司「俺の借金全部でなんぼや」
※宇沙美ゆかり「風のプリマドンナ」Vマドンナ大作戦
※太田裕美「木綿のハンカチーフ」
※太田裕美「九月の雨」
※太田裕美「最後の一葉」
※おかわりシスターズ「恋をアンコール」
※オフコース「眠れぬ夜」


知泉的音楽夜話:か行
※甲斐智枝美「スタア」
※甲斐バンド「ビューティフル・エネルギー」
※キャッツ★アイ「導火線」
※キャンディーズ「春一番」
※キャンディーズネタ
※キララとウララ「センチ・メタル・ボーイ」
※久保田早紀「異邦人」
※Kとブルンネン「あの場所から」
※見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」
※研ナオコ「夏をあきらめて」
※小泉今日子「素敵なラブリーボーイ」
※郷ひろみ「モナリザの秘密」
※香坂みゆき「気分をかえて」
※近藤真彦「ハイティーン・ブギ」


知泉的音楽夜話:さ行
※西城秀樹「ジャガー」
※斉藤哲夫「いまのキミはピカピカに光って」
※斉藤由貴「青空のかけら」
※酒井ゆきえ「ママとあそぼう!!ピンポンパン」
※榊原郁恵「夏のお嬢さん」
※佐良直美「二十一世紀音頭」
※佐野元春「アンジェリーナ」
※佐野元春「警告どおり計画どおり」
※サディスティック・ミカ・バンド
※サディスティック・ミカ・バンド「NARKISSOS:ナルキッソス」
※沢田研二「TOKIO」
※沢田研二「時の過ぎゆくままに」
※島倉千代子「東京だよおっ母さん」
※清水健太郎「失恋レストラン」
※シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」
※少年隊「仮面舞踏会」
※白鳥哲「ひとりだち」
※ずうとるび「透明人間」
※鈴木ヒロミツ(モップス)追悼


知泉的音楽夜話:た行
※ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」
※ダウンタウンブギウギバンド「サクセス/愛しのティナ」
※高田純次・祐子「おふろのうた/パパのうた」
※高田みづえ「潮騒のメロディー」
※竹内まりや「SEPTEMBER」
※田代まさし「新島の伝説」
※田原俊彦「シャワーな気分」
※ちあきなおみ「四つのお願い」
※チェキッ娘「海へ行こう-Love Beach Love-」
※チェリッシュ「なのにあなたは京都へ行くの」
※戸川純「遅咲きガール」
※所ジョージ「すんごいですね」


知泉的音楽夜話:な行
※中井あきら「旅人の詩/星降る街角」
※中森明菜「1/2の神話」
※中山千夏「あなたの心に」
※なぎらけんいち「悲惨な戦い」


知泉的音楽夜話:は行
※原田真二「てぃーんず ぶるーす」
※原田知世「悲しいくらいほんとの話」
※バンバン「「いちご白書」をもう一度」
※ピンクレディー「波乗りパイレーツ」
※フィンガー5「個人授業」
※フィンガー5「恋のダイヤル6700」
※FAIRCHILD「おまかせピタゴラス」
※風吹ジュン「愛がはじまる時」
※堀ちえみ「真夏の少女」


知泉的音楽夜話:ま行
※マギー・ミネンコ「涙の河」
※松尾ジーナ「月影のメロディー」
※松田聖子「赤いスイートピー」
※松田聖子「風立ちぬ」
※松原みき「ニートな午後3時」
※真鍋ちえみ「ねらわれた少女」
※丸山明宏(現.美輪明宏)「ヨイトマケの唄」
※水谷麻里「バカンスの嵐」
※三田寛子「駈けてきた処女-おとめ-」
※南沙織「夏の感情」
※南野陽子「話しかけたかった」
※三原順子「セクシーナイト」
※モーニング娘。「真夏の光線」
※もとまろ「サルビアの花」
※もんた&ブラザーズ「デザイアー」


知泉的音楽夜話:や行
※八神純子「パープルタウン」
※安田成美「トロピカルミステリー」
※泰葉「フライディ・チャイナタウン」
※山下達郎「さよなら夏の日」
※芳本美代子「白いバスケットシューズ」
※よめきん-いいとも婦人隊-「それ行け!サマービーチ」


知泉的音楽夜話:ら行


知泉的音楽夜話:わ行
※渡辺満里奈「大好きなシャツ-1990旅行作戦」


知泉的音楽夜話:洋楽
※マイケル・ジャクソン「スリラー」
※ビング・クロスビー「ホワイト・クリスマス」の謎
※バグルス「ラジオスターの悲劇」の悲劇
※THE BEATLES「When I'm Sixty-Four」

| | コメント (0)

2008年9月14日 (日)

田原俊彦「シャワーな気分」

田原俊彦「シャワーな気分」
作詞.三浦徳子/作曲.筒美京平/編曲.大村雅朗
1983年5月/¥700
キャニオンレコード/7A0283


2008091401ジャケ違い(第8弾)
以前から「音楽のパクリは難しい」とか「ある意味、ありである」とか書いてきました。
あるいは尊敬する筒美京平はとにかく洋楽を翻訳するような形で、日本人向けに書き直しているのだ!と力説してきました。
が、中には筒美作品でも「そりゃ無いだろ」と思ってしまうあからさまな曲もある。
その代表曲がこの田原俊彦「シャワーな気分」です。
出だしの「♪だけッだけッ君だけが好きッ」という部分が思いっきりQueenの「Back Chat」そのものです。双方のカラオケでそのまんま歌えてしまいます。他の部分は違う曲ですが、ここだけ聞くと日本語歌詞をそのまま乗せたカバー曲のように聞こえてしまいます。
筒美さ〜ん、あからさますぎますよ。

2008091402実は筒美京平はこの「Back Chat」のメロディをその前に実験的に曲中に取り入れている。
松本伊代が前年の1982年にリリースしたアルバム『オンリー・セブンティーン』の中で歌っている「魔女っ子セブンティーン」という曲の完奏部分で思いっきり「シャワーな気分」のメロディがそのまんま(正しくはQueenの「Back Chat」ですが)使われている。おそらくここで実験的にこのメロディを使って、充分に歌謡曲的に行けると踏んで、田原俊彦に流用したんじゃないかという事なのだ。
ちなみに松本伊代は1981年に「たのきん全力投球(TBS)」で田原俊彦の妹役としてデビューしているので、この二人はもともと関係があるのだ。

このジャケ違いはどっちが先なのか?という事なのですが、一般的に見かけるのはタイトルが青い方だと思います。
写真以外の違いでは裏面、ライナーノーツに書かれているファンクラブの住所と電話番号が違っている。
このシングルより後に発売された「チャールストンにはまだ早い」などをチェックすると、ピンクタイトルで書かれている住所になっている、という事から青タイトルのジャケットが先で、ピンクタイトルはファンクラブが移転した後に差し替えられた物という事になるのだ。

2008091403ついでに、そのライナーノーツで気が付いた部分がある。
このシングルには《田原俊彦「シャワーな気分」ダブル・プレゼント》と称して、応募者全員にフィーリング・カード(どんな物か想像付かないけど)、抽選でオリジナルシャワーキャップが当たるという、応募はガキがジャケットに繋がった見開き部分に付けられている。
それを見ると、2種類のジャケットでハガキの付けられ方が違っているのだ。
この写真で見てもらえば解ると思うけれど、初期・青ジャケットはハガキが内側、ピンクジャケットは外側に付けられている。これ、ハガキを切り離そうとするときに初期Ver.は面倒臭いって事が解ると思うけれど、明らかにデザインミスで内側にハガキを付けてしまっているのだ。

おそらくその事はリリース後に内部でも気が付いた人がいたんじゃないかと言うことで、ジャケットを変えたついでなのか、ハガキを変えたついでにジャケットも、なのかは不明ですが、そーゆー事になっている。
ついでに、オリジナル・シャワーキャップの〆切は1ヶ月ごとに3回あって、その都度当たる物が「A・B・Cタイプ」と違ったものらしい。つまり熱狂的なファンはその都度、シングルを買って応募していたんじゃないかという感じなのだ。

| | コメント (2)

2008年9月13日 (土)

高田みづえ「潮騒のメロディー」

高田みづえ「潮騒のメロディー」
作詞.斉藤仁子/作曲.フランク・ミルズ/編曲.田辺信一
1979年8月25日/¥600
ユニオンレコード/UC-91


2008091301ジャケ違い(第5弾)ですが、今回のケースはよくあるパターン。
このジャケットは後発のジャケットで、最初にリリースした時は下にあるジャケットが使われていました。
何処が違うか...という事なんですが、実は最初このレコードは「子守唄を聞かせて」という曲がA面としてリリースされています。
作詞作曲が谷山浩子、編曲が馬飼野俊一という、それなりにヒットさせようという意図も見えるスタッフ起用が見て取れます。
曲の方も谷山浩子さんらしい、爽やかでサラッとしたメロディが心地良い曲で、高田みづえの丁寧な歌唱法が活かされた佳作で、シングルとしては十二分に及第点を取れると思います。
が、この曲をリリースした直後に事情が変わってしまったのです。

2008091302B面に収録した「潮騒のメロディー」はもともとフランク・ミルズが作った曲で、本来はピアノを中心としたインスト曲で、それがビルボードのインストチャートで3位となっていたのですが、それに歌詞を付けて歌った物をカップリング曲として入れていたのです。
シングル曲としてはちょいアカデミズムな印象もある地味な曲で、歌謡曲というより、学校で歌う唱歌っぽいので、確かにシングルA面としてはどうかな?と思ってしまう。
が、このシングルをリリースした直後に、フランク・ミルズが日本でもブームとなり、それと同時にそれに歌詞を付けた「潮騒のメロディー」に注目が集まった、ということでAB面を入れ替えてリリースという事になったのです。
とりあえずレコード番号などはそのままですが、ジャケットと同様に盤のほうもAB面の表記が変わっている。

2008091303

| | コメント (2)

ダウンタウンブギウギバンド「サクセス/愛しのティナ」

ダウンタウンブギウギバンド「サクセス/愛しのティナ」
作詞.阿木燿子/作曲.宇崎竜童/編曲.千野秀一
1977年3月/¥600
東芝EMI/ETP-10183


2008091304ジャケ違い(第6弾)
とある理由でB面に注目が集まり入れ替えるというパターンは色々ある。
たとえば、このダウンタウンブギウギバンドの『サクセス』のシングルは最初、資生堂のCM曲として使用され、春から夏にかけてヒットしたのですが、その後B面の「愛しのティナ」が夏から秋にかけてのCM曲として使われ始めたことから、いきなりジャケットの「愛しのティナ」の文字が上に来て「サクセス」はその下に、と変化した。
最初からAB面連続でCMに使う予定だったのかは不明ですが、その「愛しのティナ」が使われたCMに出演していたのがモデルのティナ・ラッツだったので、もしかしたら最初からCMになる、出演するのはこの人になる、という企画で作られた曲だったんですかね?

2008091305しかしこの「愛しのティナ」という曲はなんか宇崎竜童っぽくない。ボーカルも宇崎竜童ではないメンバーが複数人で歌っているような感じで、ダウンタウンブギウギバンドの暑苦しさが無い。メロディラインは甲斐バンドっぽい印象を受ける。
ちなみに、このティナ・ラッツさんは姉のバニー・ラッツさんと共にハーフモデルとして活躍し、1970年頃に不二家のチョコレート・ショコラオレCMなどに出てました。この「愛しのティナ」のCMに出ていた時は既に結婚しており1974年に長女、1977年に長男を出産していたそうです。しかし1992年頃にHIVで亡くなっています。1993年に公開された映画「運命の瞬間-そしてエイズは蔓延した」のラストにエイズで亡くなった方々の顔写真が次々と出てくるシーンがあり、写真が使われているそうです。
ついでに姉バニー・ラッツはトーキングヘッズのデヴィッド・バーンと結婚して離婚している。

| | コメント (1)

中井あきら「旅人の詩/星降る街角」

中井あきら「旅人の詩/星降る街角」
作詞.ちあき哲也/採補曲彩木雅夫/編曲.早川博二
発表年不明/¥400〜500
ポリドールレコード/DR 1659


2008091306ジャケ違い(第7弾)マイナーすぎるネタでごめん。
このレコードはおそらく「旅人の詩」としてリリースした後、本来B面だった「星降る街角」が受けたのでひっくりがえして新装開店リリースした物。だと思われる。
と思われるというのは、ちゃんとその様に書かれているワケではないが、ライナーノーツがあきらかに「旅人の詩」がA面という扱いで書かれているのと、「星降る街角」の盤は値段の所に「¥500」とシールが貼ってあり値上げをしてる。
中井あきらという人物はよく知らないのですが、1998年に日外アソシエーツが出した『芸能人物事典 明治大正昭和』にはこの様に書いてある。
中井あきら 歌手 プロダクション経営【没】昭和59(1984)年2月19日【出】山口県下関市 本名=中井昭【学】下関西高卒【歴】工場勤務中事故で片手を失い、長崎に移って歌手を目指した。昭和43年「高橋勝とコロラティーノ」のメンバーとして全国ヒットした「思案橋ブルース」をはじめ「思案橋の人」「南国の夜」「星降る街角」など主として長崎もの演歌がヒットした。

2008091307「星降る街角」は敏いとうとハッピー&ブルーが1977年に歌って100万枚ヒットした曲で、今でも「うぉんちゅっ!」の掛け声と共にカラオケでは歌い継がれている。
この時、ハッピー&ブルーでボーカルを取っていたのは森本英世で、かつては新田洋という名前でアニメ「タイガーマスク」の主題歌を歌っていた人。
どうやら調べていくと「星降る街角」のオリジナルは中井あきらが参加していた当時の「高橋勝とコロラティーノ」だったそうですが、その時はヒットしなかったみたいです。
シングルの値段が400〜500円という過渡期だったという事から1971〜73年頃にリリースしたみたいですが、やはりこの時もヒットしなかった。でも当初のA面だった「旅人の詩」はなんかやたらと暗いのに途中からいきなり盛り上がったりする変な曲で、こっちをA面にするのにはちょい無理があります。

| | コメント (2)

2008年9月12日 (金)

清水健太郎「失恋レストラン」

清水健太郎「失恋レストラン」
作詞.作曲.編曲.つのだひろ
1976年/¥600
CBS SONY/06SH 89


2008091201自分が中学時代に欲しかったギターは「エピフォン・カジノ」か「ギブソン・ハワードロバーツ」って、どちらもセミアコでした。
もっとも、貧乏な我が家にはそんなギターを買ってくれる魔法の財布は存在せず、なんとか小遣いとかを貯めて「モーリスの名も無き一番安そうモデル」を購入した。とりあえずスーパースターになれるかも知れないと夢を抱きながら。
自分が好きだった音楽は当時から「何でもあり」だったので、ガッチガチのロックでもフォークでもない音が出したかったので「セミアコースティックギター」いわゆるセミアコに憧れたわけです。
で「エピフォン・カジノ」ってのはジョン・レノンが愛用していたギター、今でも欲しいとは思うけれど、ちゃんとした音が出せる自信が無いので手を出さずにいる。
そしてもう一つの「ギブソン・ハワードロバーツ」というのは、1976年に「失恋レストラン」でデビューした清水健太郎がジャカジャカとかき鳴らしていたギターなのだ。

2008091202自分が中学の頃に好きで見ていた平日夕方の情報番組「ぎんざNOW!」の中で、清水健太郎は素人ものまね合戦に出場した清水アキラの先輩(共に足利大学)として出演して、モノマネをする時にバックでギターを弾いていたのが最初の記憶(もっと前から出ていたのかも知れないけど)。その頃、二人とも清水だったので「W清水」とか呼ばれていたような気がする。
あくまでも清水アキラの後でギターを弾いていたダケだったと思うけど、シングルのライナーノーツには「特技:ものまね」と書いているので、何かモノマネをやっていたかも知れない。
その内、清水アキラは番組内で集まった6人のメンバーと「はんだーす」を結成し、それとは別に清水健太郎は番組でアニキ的存在になりコーナーを持つようになって、そこから歌手として「失恋レストラン」をリリースした。
そのむやみやたらと肩に力を入れてジャカジャンッとセミアコをかき鳴らす姿に田舎の中学生は憧れたワケですよ。もう、今から思うとあんな感じでちゃんと弾けるわけないとか思ってしまうのですが。

で、欲しかったギターとして「ギブソン・ハワードロバーツ」と書いていますが、実はこのデビュー時に清水健太郎が弾いていたのは日本のメーカー『グレコ』が出していたハワードロバーツモデル。
それでも充分にカッコイイと思っていたのですが、その年の紅白歌合戦に出場した時、いきなり「グレコ」ではなく本物の「ギブソン・ハワードロバーツ」を持って出てきたのだ。
ヒットして本物を手に入れたか!あぁ俺たちのアニキは遠い存在になってしまった!(別にアニキとは思ってなかったけど)と思った次第。
ちなみに、数年前テレ東の「なんでも鑑定団」に出た時に、そのギブソン・ハワードロバーツを出していた。いくらの値が付いたのかは忘れましたが。

と言うことで、「失恋レストラン」のジャケ違いですが、一般的なのは1枚目の正面を向いている写真の物で、とりあえずレアなのはソファーに腰掛けハッパをキメている写真(正しくはタバコを吸っている写真)。レアと言っても普通に中古では見かける盤です。
これに関しては、何故ジャケ違いが存在するのかは解りません。ライナーノーツもまったく同じ内容でヒント無し。
しかし、改めて聞くといい曲ですなぁ。作詞作曲はつのだひろ(この時点では☆はない)なんですが、世間的には「メリージェーン」だけの人、あとはつのだじろうの弟ってぐらいの評価かもしれませんが、この曲と南沙織の「街角のラブソング」の作曲をしたって事で自分の中では評価高いっす。

しかし、80年代に入って人気低迷→クスリに手を出し→俳優として復帰→またしても、みたいな状態を繰り返し、現時点で4回逮捕されている。ダメじゃん、と思うんだが、現在はまたしても俳優としての活動を再開する準備中だそうで、なんかダメ人間として邁進していますなぁ
そういう観点からこの曲を聴き直すと「涙忘れるカクテル」「痛みを癒すラプソディ」と歌われている部分が「それってクスリの事かい?」と聞こえてしまうのだ。
いかんいかん、こんな名曲にそんなイメージを植え付けては。

| | コメント (1)

2008年9月11日 (木)

中森明菜「1/2の神話」

中森明菜「1/2の神話」
作詞.売野雅勇/作曲.大沢誉志幸/編曲.萩田光雄
1983年/¥700
ワーナーパイオニア/L-1660


200809111ジャケ違い(第3弾)
この正面を向いている写真がレア物ジャケットで、一般的に見かける物が下にある斜め方向を向いている物。
この2種類が出来た経過はよく解らないけれど、おそらくレア物は初版のみって事じゃないかと思う。
時々ある、最初に出した物がなんかイメージに合わないので2版目から写真を変えてみましたという物。
だから、一般的に出回っているのが下の斜め方向を向いている物。

だと、さっきまで思っていました。
が、このジャケットをスキャンするために袋から取り出して、そこで重大な事に気付いてしまったのです。
このジャケットの左側は7cmほどの折り返し部分が付いていて、そこにファンクラブのお知らせなどがあるので、そこに違いはないか…とチェックしたのですが、別段違いはない。
と、歌詞カードの方を見た時に「あれ?」と思ってしまったのです。
いわゆる一般的に出回っているナナメ向きジャケットの裏面には、アルバムの広告があり《サードアルバム3月下旬発売予定》となっているのですが、レア物の正面向きジャケットの裏面は「サードアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉3月23日発売』と日付まで切ってあるのです。
てぇ事は、レア物の方が後に出た版という事なのではないか?日付が確定した後に出したって事は。

200809112そこから考えていくと「そりゃそうかな」と思う部分が出てくる。
この「1/2の神話」は大ヒットした「少女A」、さらにヒットした「セカンド・ラブ」の後に出たシングルなので初回からどーんと売れていたハズ。というか、初回分が一番売れたと思うので、もし初回版がレアジャケットだったらもっと出回っているハズなのだ。
そして、一気に売れた分が終わった後で、こっそりとジャケットを差し替え(しかも同じ時に撮影した別カットなので気付かないといえば気付かない)という事なので、そっちはさほど売れずに出回らなかったという事なのかも知れない。(前日の「石川秀美:Hey!ミスター・ポリスマン」と同様に)
しかし、わざわざ写真を差し替えた理由は?

上が通常版の裏面広告、下がレア版の裏面広告
200809113この「1/2の神話」は「スローモーション」でデビューしたがなんとなくキャラが明確じゃなかった中森明菜が、2枚のシングル「少女A」がヒットして『ツッぱっているけど実は純な女の子』という路線を明確にした後、「スローモーション」を挟んでリリースした曲。
歌詞は「少女A」の続編的な世界観を歌っていて、やはり「突っぱねてオトナのフリをしている自分と、純粋なままの自分」を「1/2」と歌っている。ティーンエイジ歌謡では昔からありがちな世界感ではありますが、「少女A」「1/2の神話」共に詩を書いているのは売野雅勇。
作曲は大沢誉志幸で、この年ソロ歌手デビューを果たしていて、沢田研二「おまえにチェックイン」「晴れのちBLUE BOY」などの楽曲提供も含めかなり注目されていた中での「1/2の神話」提供だった。翌年は自身のシングル「その気×××」「そして僕は途方に暮れる」もヒットしている。

ティーンエイジ歌謡での「純粋ゆえにオトナは解ってくれない」という世界観は古くから歌われ続けているが、1980年に「横浜銀蝿」が市民権を得て校内暴力が社会問題として表面化してきたタイミング。さらに中森明菜が仕事の場で自分の意見をズバズバ言ってスタッフと対立したというウワサも重なり、その詩の世界観がリアルな形で支持されていくようになっていく。
もっとも冷静に考えれば、なぜスタッフとの対立が当たり前のようにマスコミに流されたのか?という部分。しかもその内容が、ただのワガママという形ではなく、デビュー時に「森明日菜」という芸名を付けられそうになった時に反対したとか、曲の振り付けについて意見した、写真撮影で衣装などに意見した、という好意的に見れば「より良い仕事をしたいために意見した」という類の話ばかりだったので「イメージ戦略の一環?」とも勘ぐってしまうのだ。
実際に、もっとワガママだったと後々判明したようなアイドルに関しては売れている最中、それらのウワサは表面化しなかったり、もっと酷い素行不良アイドルに関してはウワサが表面化する前にいきなり解雇され、解雇後に理由がリークされたりしている。
中森明菜のワガママは中高生ぐらいのファンには「しっかり自分を持ってツッぱっている」という感じに映っていたハズ。

何はともあれ、キャラ設定が明確になった中森明菜はこの先ヒットを飛ばし続ける事になるのだ。

| | コメント (1)

2008年9月10日 (水)

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」
作詞.松宮恭子/作曲.大谷和夫/編曲.大谷和夫
1983年/¥700
RVC/RHS-93


2008091001ジャケ違い(第二弾)
それ以前の「Kとブルンネン:あの場所から」「少年隊:仮面舞踏会」に関しては、ジャケ違いではなくレコード番号が違うので「別物」という扱いです。
で、このレコードの取扱が難しい。
本物ポリスマンが出ているジャケットと、黄色いジャケットの2種類あるワケですが、何故なのかはよく解らない。
中古市場では黄色いジャケットを多く見かけるし、Google画像検索では黄色いジャケットが多いんですが、ポリスマンのも別段特別という感じではない(ヤフオクではこれに1500円という値段設定をしている人もいるんですが)。
※この件についてみきサンより貴重な情報を頂きました。その件については文末に追加しております。
しかし、ポリスマンが出ている写真。石川秀美が遠慮無しにポリスバッヂを指さして…、というか思いっきり指で触っていますが、いかがなもの何でしょうか。

2008091002個人的に、石川秀美の楽曲って良くも悪くも印象に残らないというか、余りにも普通のポップスという感じで、地味でもないけどはじけてもいない、歌も上手くもないけどヘタでもない、容姿は個人的見解なのですが普通すぎて、ある意味「優等生」的な印象しか残っていない。
この曲も、なんか全体的に「どっかで聞いた感」が最初から最後まで漂っていて、凄い普遍的な感じがしてしまうので、今聞いても音もメロディも詩も古くはないけど新しくもない。
なんかどう評価したらいんだと頭を抱えてしまう部分なのだ。
でも、どの時代にも「邪魔にならない音楽」というのは存在しているので、そういう感じなのかも知れない。
歌手活動8年の間にシングル30枚、その内13枚がベスト10入りしているので、それなりに売れていたんだけど、その中で一番売れたシングルが後々に大問題を引き起こす『もっと接近しましょ』という曲。この曲はいつかちゃんとした形で取り上げたいシングルなんですが、石川秀美の楽曲の中でも異質な曲。

ちなみにB面の「さざ波」はアイドル曲に時々ある、エロい歌詞でいたいけな青少年が妄想突入するための曲。
いきなり歌詞の出だしが「♪私初めてなんです、優しくほどいて胸のリボン」という、いわゆるダブルミーニングという比喩で意味を持たせるなんて物ではなく、そのものズバリの意味しかないだろという歌詞。
そこからはズバリ書けないので現状を「舟」に例えるという古典的な方法で「♪波が寄せるたびにとまどう」とか行為そのものを連想させるような歌詞となっている。
2番はいきなり目覚めた朝の風景を歌っていて「休憩ではなくお泊まりだったんだ」と思わせ「♪女として迎えて…」などと、昨日までとは違うのよ的な歌詞になっている。
もーいたいけな青少年はたまらんでしょうな。
でも、優等生的なイメージと、メロディが実に普通のポップスなので、なんかエロさは感じない。(って熱く語ってしまいましたが)

石川秀美本人は90年に元シブがき隊の薬丸裕英と結婚して、(CMに夫婦で出たりはあったが)芸能界を引退している。この二人は、かなり前からウワサはあったので、その辺も優等生的な恋愛が続いていたのかも知れない。
出来ちゃった結婚だったけれど、それは事務所サイドが交際に反対していた為の作戦だったとも言われている。その長男「SHO」くんも映画「炬燵猫」の主演として芸能界デビューとなった。って2年ぐらい前にそのニュースを聞いて、それ以降その映画の話題聞いた事ないんですが、もう公開されたんですよね?
なにはともあれ、現在は堀ちえみに対抗するような5人の母親として頑張っているそうで、旦那もシブがき隊の頃とはなんか全然違う方向に行っているような気もするけど、3人の中で一番売れているみたいなので、家内安全って事でめでたしめでたしなのだ。

と、文章をアップした直後、コメント欄でみきサンより情報をいただきました。
「ミスター・ポリスマン」のジャケットについては、石川秀美が「歌のトップテン」に出た時に、この歌が予想外に売れたのでレコード会社からご褒美として新しくジャケット写真を撮り直してもらった(ポリスマンが写ってるほうが取り直したほうです)、と本人が司会のマチャアキに言ってました。
当時リアルタイムで見てたのですが石川秀美のファンでもないのになぜかいまだにその時のことを憶えてました。

なるほど、つまりそこそこヒットした後で、ポリスマンが写っているジャケットが新たに作られたワケですか。
それ故に、それを購入した人は、ヒットに後乗りした人か、コアな「ジャケ違いも買う」ファンという感じだったワケで、多くは出回っていないという感じなんでしょうね。
お陰で、この翌日分の「中森明菜:1/2の神話」のジャケ違いにも関係性が出てきました。
貴重な情報ありがとうございました。

| | コメント (4)

2008年9月 9日 (火)

フィンガー5「個人授業」

フィンガー5「個人授業」
作詞.阿久悠/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1973年/¥500
フィリップスレコード/FS-1757


2008090901ジャケ違い盤です。
1枚目は見開きジャケットで裏面にフィンガー5の写真があります。おそらくこちらが初期盤で、2枚目はジャケットが1枚の紙になった為、裏面の写真を表にもってきたという感じです。
しかし、なぜ水島新司なんですかね?
このシングルが出たのは1973年で、前年より「ドカベン」が始まっていて(まだ柔道マンガの頃?)、1973年から「あぶさん」が始まった頃なので、とりあえず人気があったんだろうけれど、なぜフィンガー5に水島新司なんだろうか。
見開きジャケットの内側には、水島新司がこの兄弟の誕生からデビューに至るまでのストーリーを10コマ漫画にしている。
もっとも、最初は「ベイビーブラザース」という名前でデビューしたとかの話は無く、フィリップスからデビューする前に「フィンガー5」名義で(キングレコードかな?)「キディキディラブ」というシングルを出しているという話は一切なしで、長いレッスンを経てついにこのシングル「個人授業」でデビュー!という話になっている。
ちなみにこのシングルの時点でメインボーカルのアキラはトレードマークの眼鏡をかけていない。

2008090902で、このシングルなんですが、出だしがシュワシュワシュワという感じにベースに思いっきりフェイザー(フェイズシフター)を掛けていて、その音色だけで気分が高揚してくる。
子供の頃、このレコードを聴いた時に何か異質な感じを受け、それがずっと引っかかっていたんですが、後にそれが判明した。
このシングル、録音技術が異常に高いんですよ。今聞いても凄いんですが、この時代の歌謡曲としては異例のドラムが完全にステレオ録音になっている。
1973年と言ったら、歌謡曲は「わたしの彼は左きき:麻丘めぐみ」「色づく街:南沙織」辺りがポップな曲なんですが、ドラムはおそらくモノラル録音。特に「わたしの彼は左きき」なんて出だしがドラムソロでドッドスドドドッと始まっているのに、完璧にモノラル。でも当時はこれが当たり前だったんですよ。
ところが「個人授業」ではドラムのタムがスタッタムタッと右から左に流れる。ちょっとリズムがモタっている感もあるけど、なんでこんな録音がこの時代に出来ているのだ?と思ってしまう。

さらに重厚なブラス(当然、生ホーン)もステレオで左右に広がりフィンガー5の後側からうわぁぁんと被さってくる。もちろんフィンガー5のコーラスも「何故に?」と思うぐらいにステレオ感を感じる。
数年前に出た「Finger5 Golden★Best」というCDでは、オリジナルカラオケも収録されていて音だけに集中して聞くことが出来る。
その演奏と録音技術、そしてミキシング技術はいったい何?という感じで、ほとんどオーパーツを発見した冒険家のような心持ちで何度もカラオケだけを聞き直してしまうのであります。

が、「Finger5 Golden★Best」には他にも「恋のダイヤル6700」と「学園天国」のカラオケも収録されているんですが、こっちはドラムはモノラル録音。「恋のダイヤル6700」は他の楽器はそれなりのステレオ感なんですが、「学園天国」に至ってはステレオで聞く必然性まったく無い録音になっている。完奏部分ではドラムソロもあるのに、普通にリバーブが掛かっているだけで「個人授業」の様な高揚感のあるフェイザーなんてどこにも無い。(逆に「恋のアメリカンフットボール」のドラムには掛けすぎていて、腰がないフシャッフシャッという音になっている)
うーむ、この「個人授業」だけが何もかも異常にレベル高いってのは何なんだろう。
そして、それに応えるようにアキラのボーカルもテンション高く、完奏部分でのシャウトが当時12歳だったとは思えないほど完成されている。

2008090903この曲は阿久悠・都倉俊一コンビなんですが、この二人は山本リンダ→フィンガー5→ピンクレディという流れで日本中にディスコ歌謡を浸透させていくのですが、実は「個人授業」には元ネタがあって、山本リンダの「狂わせたいの」のB面「もっといいことないの」という曲が、あきらかに同じメロディ、同じコード進行で作られている。ベースなんかも少し大人しめだけどそのまんま。
B面と言えば「個人授業」のB面「恋の研究」は長男・玉元一夫の作曲で、こっちもムチャクチャ良い曲。
ジャクソン5の影響受けすぎって感じではあるんですが、単純にアキラのボーカルを活かすにはどうしたら良いかという事を前提に作られた曲で、出だしのフッフゥンヒッゥ〜♪というフリーキーなボーカルにやられちゃいます。録音はA面と同じように高水準で、今聞いても全然古くない。

このブログでは、普通に音楽を聴いている人に楽しんでもらいたいので音楽技術的な話はあんまし書かないつもりなんですが、この曲に関しては興奮してしまいます。いかんいかん。
今回これを書くために聞き直した時も、10回以上リピートしてしまった。
自分はこの曲を小学校の時に聞き、その後の70年代ソウルブームも経験しているんだけど、この曲以上に音も歌もカッコイイ曲は無いんじゃないか、と今でも思っているのだ。

| | コメント (6)

2008年9月 8日 (月)

少年隊「仮面舞踏会」

少年隊「仮面舞踏会」
作詞.ちあき哲也/作曲.筒美京平/編曲.船山基紀
1985年/¥700
ワーナーパイオニア/L-1801


2008090801前日の『Kとブルンネン「あの場所から」』で少しふれた事ですが、中古レコードを収集している人を悩ませる問題に「ジャケット違い」という物がある。
悩ませると言いつつ、いわゆるレアものを探し当てるという事に喜びを見出していくのだから、全然悩みではないワケですが。
しかし、一般的にジャケ違いというのは諸事情があって最初に発表した物を辞めて新たにジャケットを作り直していたりするワケですが、そーじゃない物も存在する。
この少年隊のデビュー曲である「仮面舞踏会」がその代表的なジャケットなのだ。
「仮面舞踏会」は3種類のジャケ違いが存在しているが、正しくはジャケ違いではない。この後に続く他のジャケットを見ると解ると思うけど、B面に収録されている曲が違うのだ。それ故にレコード番号も「L-1801」「L-1802」「L-1803」と違っている。
これはあくまでも「違うレコード」という扱いになる。

2008090802この曲がリリースされた1985年当時、ヒット曲はTBSの「ザ・ベストテン」ついでにNTVの「トップ10」から生まれていた。ヒットしているのならあそこに出なくちゃ、ではなく、あそこに出ているからヒットしているのだ、という感じだった。
その為に、アイドルだけでなく演歌の人のシングルにも「ザ・ベストテンへリクエストハガキを出そう」と番組住所が書かれていた。さらにファンはレコードが発売されると2枚3枚と一人で買うようになっていた。聞く用、保存用ではなく、売上げをアップさせるために。
そこに鳴り物入りでデビューしてきたのが『少年隊』
ジャニーズのレコードデビュー前から顔を浸透させる作戦は、70年代にフォーリーブスのバックで踊っていた郷ひろみの時代から始まっていたが、少年隊も近藤真彦のバックで踊ることでレコードデビュー前から話題になっていた。
それをさらに大きな話題としてデビュー時に仕掛けたのが「B面が違うシングルを3枚同時にリリース」という事なのだ。
残念なことにザ・ベストテン初登場は1位ではなく、1985年12月26日に6位初登場となった。

2008090803しかし年が明けて1986年の初回放送1月9日には「仮面舞踏会」は1位を獲得しており、そのまま6週連続1位(計11週チャートイン)、そして次の曲「デカメロン伝説」は初登場1位を記録している。
当時から「それはちょっとズルいんじゃないの?」という声は多かったんだけど、その方法論はその後も色々な形で残され、現在もシングル発売では「ジャケ違い」「カップリング違い」「DVD付き」や「写真集付き」などのオマケ違い、さらには「全部で10種類のトレーディングカードが1枚入っている」という、もう何枚買ったらコンプリート出来るのか解らないって感じの商売が展開されている。
自分の場合、オリコン順位がどうこうってのは基本的に音楽を聴く時に関係して来ない人なので、この手の方法は音楽にとって幸せなのかなぁといつも思ってしまう。
少ないお小遣いを工面してレコードを必死に購入していた中学高校時代の自分は現状を見てどう思ってしまうんだろう。
で、さらにガッチガチのディープコレクターになってしまうと、少年隊の3枚のシングルの初回発売分と2回発売以降では「ピンナップが付いている・付いていない」という違うがある事まで気にしてしまうのだ。
とりあえず自分は「L-1802:B面が『春風にイイネ!』盤の初回分」だけ持っていないのだ(全然自慢にならないお話)

ちなみに各B面は
L-801:日本よいとこ摩訶不思議/作詞.作曲.野村義男/編曲.船山基紀
L-802:春風にイイネ!/作詞.宮下智/作曲.佐藤健/編曲.中村哲
L-803:ONE STEP BEYOND/作詞.S.A.WILLAMS/作曲.ALAN O'DAY/編曲.船山基紀
「日本よいとこ摩訶不思議」はヨッちゃんの作品で、後々までジャニーズJr.がコンサートなどで歌い続ける定番曲になっている。
「春風にイイネ!」の作詞をしている宮下智はその後少年隊のシングル曲を作曲を含めていくつも担当する人

200809084
以前の「知泉的音楽夜話」で触れたジャケ違いレコードは、『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』と『佐野元春:アンジェリーナ』
どちらも正式なアナウンスはないので、なぜジャケット違いが存在するのかは不明なのですが、まことしやかに語られている事情はある。
まず『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』に関しては、デビューした直後の小泉今日子は同期の松本伊代・中森明菜・早見優・石川秀美・堀ちえみなどにチョイと引き離された地味な存在だった。
というかレコード会社もそんなに力を入れていなかったのか、デビュー曲自体が70年代に売れなかった歌手の売れなかったシングルのカバーだった。
そして「素敵なラブリーボーイ」も林寛子が歌っていた曲のカバー。最初は地味な水着ジャケで発売したがインパクトがないので、ビキニでバストアップまでが映っている物に差し替えた、と言うウワサが当時ささやかれていた。
実際にはよく解らないけど。

200809085
続いて『佐野元春:アンジェリーナ』
これは最初に青いジャケットで発売されたが、曲や佐野元春の売り出したいイメージに合っていないという事で、即座に回収され、アルバム「Back to the Street」と同じ時に撮影した、横浜『赤い靴』の前の別カットに差し替えた、と言われている。別の話では、発売前のサンプル盤だったとも言われているけど、値段も全部入っているのでどうなんだろ。(盤にもサンプルという文字無いし)
というワケで、色々な事情でジャケ違いというのが存在するみたいなので、その辺の事もいくつか書いて行けたらと思っている。
基本的に自分が認める「ジャケ違い」というのは、レコード番号が同じなのに違うジャケットという物なので、少年隊の「仮面舞踏会」みたいな物や、かつてリリースした物がCMやドラマなんかに使われ話題になったので再リリースした、みたいな物は含めていない。
あくまでも「こっそりとお色直し」って事なのだ。
地味にズブズブとコレクター道に踏み込んでいきますぜ。

| | コメント (2)

2008年9月 7日 (日)

Kとブルンネン「あの場所から」

Kとブルンネン「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1970年/¥400
CBS SONY/SONA 86156


2008090711969年にデビューした『Kとブルンネン』アメリカ人女性と日本人男性のデュオで、1968年にデビューして売れていた「ヒデとロザンナ」の二番煎じと言われていたみたいですが、確かに音を聞くとそれを否定出来ない感じです。
デビューシングル「何故二人はここに」によるとプロフィールは
ブルンネン:1951年6月20日・アメリカコネチカット州生まれで三鷹市在住のアメリカンハイスクール3年在住の19歳。
K:本名は鈴木豊明、昭和22年11月3日・千葉県川口市生まれで明治大学商学部在学中の23歳。
となっている、誕生日がアメリカ人を西暦で、日本人を元号で書いてある細かい部分もあるんですが、なぜ鈴木豊明が「K」なのかを知りたい所でもあります。
「あの場所から」という曲、筒美京平が作曲だけでなく編曲もしているのですが、まだ70年代中期から始まるアイドル的なキラキラしたポップス感ではなく、しっとりと和風を感じるアレンジになる。ベンチャーズ歌謡をもっとシャープにしたような感じで、初期小柳ルミ子っぽいとでも言うのか。
ブルンネンが少し英語なまりの日本語で歌い出し、Kが交互に歌い、サビでハモっていく。しっとりとしたメロディだけれど、思わず途中で「アモーレー、アモーレーミォー!」と叫んでしまいそうなイメージもある。
やはり「ヒデとロザンナ」を多分に意識した楽曲なんだろうなぁ
と、その曲がそれから3年後、デュエット曲ではなく女性ソロ曲となって生まれ変わるのです。

朝倉理恵「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1973年2月/¥500
CBS SONY/SOLB 2

200809072朝倉理恵という方がソロで、誠実に「THE 70年代初期の清純派」という感じで歌い切っています。この朝倉理恵さんは資料が少ないのですが、元々本名の桜井妙子という名前で女優活動などをしていて、かのアニメ「アパッチ野球軍」では村長の娘でヒロイン花子を担当していたこともある。そして桜井妙子名義ではアニメ「ふしぎなメルモ」の挿入歌『幸せをはこぶメルモ』を歌っている。
歌手デビューに際して朝倉理恵という芸名にしたらしいのですが、その後の活動はイマイチ不明。
朝倉理恵Ver.「あの場所から」の編曲は高田弘となっているのですが、基本的には筒美京平Ver.を手直しした感じで、音色はソフトになりストリングスの高音が目立っている。男女デュオだったVer.と比べて、薄味になっている。少しテンポも抑えめでメロディの良さが前面に出ているようで、こっちでは「アモーレー」と叫ぶ感じではない。
でもこの曲はスマッシュヒットしたらしく、その後も時々ラジオなどで流れていた。
それから9年後にこの曲は再び、生まれ変わっています。
(追記)その後の調べで、朝倉理恵さんは後にCBSソニーのスタッフになって裏方の仕事をしつつ、アニメ歌手として「りすのバナー」などを歌っていたそうです。

柏原よしえ「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.大村雅朗
1982年8月/¥700
フィリップス/7PL-88

200809073柏原よしえがカバーしているのですが、実際の事をいうと1980年、同期デビューの松田聖子・河合奈保子・岩崎良美あたりと比べて大きく引き離され、さらに1982年組と言われる小泉今日子・中森明菜・松本伊代・早見優などの新人が出ている時代「この古い楽曲でのカバーはないだろ」という印象だったのですが、逆に地味だったために目立ったのか19万枚のヒットとなり、「あの場所から」史上もっとも売れたVer.になりました。
編曲は大村雅朗で、ストリングスが豪華になり音色もシャープな感じになっている。そして何より70年代と80年代が違っているのは、ベースとドラムというリズム楽器のミキシングが大きくなっているという点。
柏原よしえの何か舌が短いんじゃないか?という歌唱法は初代「KとブルンネンVer.」を思い起こさせ、さらに清純派を装った感じが「朝倉理恵Ver.」をも踏襲していている。
実は同期から大きく出遅れてしまった柏原よしえは1981年「ハローグッバイ」というカバー曲でスマッシュヒットを放っていた事から、この曲のカバーの企画もあったんじゃないかと思っている。
ということで、それまで「隠れた名曲」だったこの曲がやっと日の目を見たという事で、めでたしめでたしなのだ。

200809074という所で、中古レコードマニア的には「Kとブルンネン」Ver.を見つけた時に注意する点がある。
「おぉこんな盤が!」と思わず手にとってしまうワケですが、このジャケットと最初に掲載したジャケットには根本的な違いがある。
いわゆるジャケ違いって事になるのかもしれないんですが、CBS SONYのマークの所にあるレコード番号。それとこのジャケットには左下に値段がない。よく見ると、レコード番号の所と左下部分、写真を修正した後が解る。
実はこのジャケットは柏原よしえVer.がヒットした後で再発された物なので、要注意なのだ(ってあんまり買いたいと思う人は少ないと思うけど)
ちなみにKとブルンネンはB面「雲の上の城」などもじんわりと良い曲です。ただ難点を言うとしたら、どう聞いてもヒデとロザンナにしか聞こえないって事ですが。

| | コメント (3)

2008年9月 6日 (土)

所ジョージ「すんごいですね」

所ジョージ「すんごいですね」
作詞.作曲.所ジョージ/編曲.幾見雅博
1984年/¥700
EPICソニー/07・5H-202


200809061ある意味、高田純次と双璧を成す「いい加減」な人。
所ジョージに関しては、70年代に歌手として出てきた頃は好きだったんだけど、80年代に入ってから徐々にその「いい加減」が自分の好むいい加減さとはズレていってしまったと感じている。あくまでも個人的な感覚でしかないけれど。
70年代から「植木等を敬愛していて、それを目標としている」みたいな事を言っていたが、その事からある時、所ジョージのラジオ番組で自分が作ったコミックソングを植木等に聴いて批評してもらうという大それた企画があった。
その曲を聞いた植木等は、あまり気に入らなかったようで、最終的には「ペーソスがないな」と酷評をしていた。
ペーソスってのは、ある種計算尽くではない部分で発生する物なのかも知れないけれど、常に御陽気にを標榜してきた所ジョージには難しい問題だったのかも知れない。
植木等関連では1987年に「おヨビでない奴!」というドラマで、植木等の息子として家族揃って無責任という物をやっていた。

70年代はタモリとよく絡んで仕事をしていた関係もあって、自称タモリチルドレンの自分は所ジョージも憎からず思っていた。(所ジョージの仲人はタモリ「仲人と言えば」「親も同然」)
でもいつの頃からか何か肌に合わなくなってきて、所ジョージの番組はほとんど見なくなってしまった。自分の事を「所さん」とか呼び始めた頃かなぁ。とりあえず現在は日曜の「目がテン」だけは見ているけど。
音楽的には、気楽に聞く分には毒にも薬にもならないコミックソングという感じだったんですが、前述の植木等がらみの企画の時に「将来の夢として、植木等さんに歌って貰える曲を作りたい」と熱く語っていたのを記憶している。
その事もあってか、1986年にクレイジーキャッツが結成30周年記念ということで久々のシングル『実年行進曲』をリリースした際に、所ジョージは作曲&編曲をした大滝詠一に対し「こんなモン作った奴はロクな死に方はしない」と酷評をした。
それを聞いた時になんか所ジョージに関しては嫌気が差してしまったワケです。自分の場合、基本的に好き嫌いの基準点が音楽だったりしますので「逆に所ジョージが作ったら、怖ろしくダメな曲作ってしまうんじゃないの?」と。
ちなみに大滝詠一は異常なほどのクレイジーファンで、東芝のスタジオが新築されると言う時に、そこで使われていた機材をゴッソリと払い下げてもらい、それで有名な「福生スタジオ」を作っている。つまり、クレイジーキャッツなどがレコーディングした当時の機材はそのまま大滝詠一が現在でも保存しつづけ、あの時の音を再現できるように調整している。その為に「実年行進曲」を作った際、作詞の青島幸男に「お前は萩原哲晶の二代目だ!」とお墨付きを貰っている。(萩原哲晶とはクレイジーの一連の音楽を作編曲してきた天才)

てな事を書いて。所ジョージを酷評しているワケですが、この『すんごいですね』というシングルは、所ジョージの中でも最高峰だと思っている。
ひたすらポップで内容が全くない。「楽しい気分にさせるだけさせて、はいサヨナラ」という感じの名曲。
実は「笑っていいとも」で高田純次と組んで「J&Jのすごいですね」というコーナーをやっていた時のテーマ曲。タモリ・所ジョージ・高田純次、という「いい加減」を絵に描いたようなオトナが一同に介していた番組なのだ、って今考えると凄い生放送だなぁ。
所ジョージの最近は、バイクだったり、ライフスタイルだったり、アメリカンなナントカだったり、なんかそっち方面がメインになってしまった感がありますが、この曲のテンションと「大滝の野郎メ!」というスピリッツを音楽方面に向けてくれていたら、今でも好きだったかもしれないなぁと思うワケです。

| | コメント (0)

2008年9月 5日 (金)

高田純次・祐子「おふろのうた/パパのうた」

高田純次・祐子「おふろのうた/パパのうた」
作詞.秋元康/作曲.市川都/編曲.小林信吾
1985年08月/¥600
フォーライフ/6K-1


200809051総ての言葉に心が入っていない男、高田純次の真面目なパパぶりが伺えるシングル盤。
A面はNHK「みんなのうた」で使用されたものらしく、高田純次の長女・祐子ちゃんが歌っている。まだ小学校低学年という感じなのだが、男の子という設定で「ぼく」が色々な理由をつけてお風呂に入らないと歌っている。
3拍子による16小節の単純なメロディが5番まで続くもので、いかにも「みんなのうた」という感じの曲なのだ。
そしてB面は、高田純次が同じメロディにのせて、色々な理由をつけて「パパ」は会社に行きたくないと歌っている。
いわゆる、現時点のイメージの高田純次として構えて聞き始めると、思いっきり肩すかしを食らってしまうほど、ありふれた良き家庭のパパという印象しか残らないのだ。
最近は、すっかり家庭的な部分が想像出来ないキャラになっているけれど、この曲の前には二人の娘と共に花王のCMに出演していた。

テレビなんかで見る姿はあくまでも営業的な側面であって、実際には普通の人間なんだろうけど、この曲を聞いている限りでは、普通以上に真面目な人なんじゃないかなぁと思ってしまう空気感を醸し出している。
1985年というと、すでに「元気が出るテレビ」もスタートしているし、「笑っていいとも」では番組開始初期の大ヒットコーナー「純ちゃんのブラボーダンシング」で、すでに心がまったく入っていない笑いを展開していたので、このような曲を出していたのは意外と言えば意外。

高田純次は24歳の時に「自由劇場」で俳優としてのキャリアをスタートしている。
その後イッセー尾形と劇団を作り、すぐ解散し、30歳の時に柄本明・ベンガルたちと「東京乾電池」を結成している。
この劇団は、1980年に始まった「笑っている場合ですよ」の中の『日刊乾電池ニュース』で一躍有名になった事から、俳優というよりコメディアン的な印象になっているけど、高田純次は俳優としては堅実で上手い芝居が出来る人だと思っている。
しかし、最近の若手芸人のような「キャラ造りをして出てきたはいいけどイジられてすぐ素を晒してしまう」という薄っぺらなキャラではない「筋金入りのいい加減さ」を還暦を迎えても維持し続ける姿は尊敬に値する。

赤塚不二夫も語っていたように、初期は馬鹿なことをやっていたハズなのに、年を重ねていくうちに立場をシフトさせて、なんか偉そうな物言いで「最近の若者は」とか「俺たちの若い頃は」とか言い出す人は、何か信用がおけないと思っている。
自分の世代なんかにも徐々にそんな傾向を見せ始めている人がいる。「俺たちの若い頃は」って、あんたの若い頃はちょうどバブルに突入する時代で、どんな馬鹿でも受け入れられた時代だったんだよ。今の時代の若者に説教するほど偉くなかっただろ、とか思ってしまうのだ。
世の中が全部、高田純次になってしまったら社会生活が成り行かなくなってしまうけれど、自分は心の中にちっぽけな高田純次を維持し続けていきたいと、切に願うのだ。

ビバ、高田純次。

| | コメント (0)

2008年9月 4日 (木)

オフコース「眠れぬ夜」

オフコース「眠れぬ夜」
作詞.作曲.小田和正/編曲.オフコース
1975年12月20日/¥600
東芝EMI/ETP-10301


2008090412人組だった初期オフコースの曲の中ではミディアムテンポで軽快な曲。
もともと、それまでの曲のようにスローなバラード調で謳っていた物をディレクター判断で現在聞かれる物へとアレンジし直したという。これに付いては小田和正は不満タラタラだったらしいが、結果としてオフコース初のヒット曲となった。
自分はこの曲を中学の頃にラジオで聞いて「よい曲だなぁ」と思ってカセットに録音した物をずっと聞いていた。
その当時はジャケット写真にあるような二人組だったので、ずっとそう思っていたのですが、気が付いた時にはバンド形式になっていたのでビックリした。
確かに、この曲ですら「フォークデュオ」の曲ではないので、バンド形式になるのは必然だったのかもしれないけど。

今、改めてこのレコードを聴くと「キーボードの音色、それでいいの?」と不安になってしまうほどフニャフニャな音だし(キーボードにプリセットで入っていそうな音色)、ギターの音やリバーブも今の感覚で言ったら「ミキシングしっかりしろ!」って印象なんだけど、当時は格好良かった(と思っていたような気がする)。

アルバム『ワインの匂い』
200809042歌詞の方は、80年前後にタモリが軟弱の代名詞として掲げていたような世界が展開されている。
出だしは「別れた女性が懺悔してこれまでの事は忘れて」と言い寄ってきても「♪僕は君のところへ、二度とは帰らない」と否定する所から始まっている。
おぉ軟弱代表のワリには(勝手に代表にしてますが)言う時はキッパリと言うねぇ、と聞いていると
「♪愛のない毎日は自由な毎日」
などと、「俺は彼女と別れた後、自由を謳歌してるぜ」とちょいと強がり入っているか?という歌詞が出てくる。
ところが、その次にいきなり
「♪それでも今君があの扉を開けて、入ってきたら僕にはわからない」
と今までの強がりがいきなり感情をぐらついかせているのだ。
なんだったんだここまでの詩は!と、聞いていると、初志貫徹出来ない詩の内容は、眠れない夜に「♪愛がよみがえる」と締めているのだ。
えっっっと……、つまり「別れた女性がよりを戻しに来たら、僕は許してしまうかもね」という事を悶々と思って「眠れぬ夜」を過ごしているって事なのかぁぁぁ!
つーか、その戻ってくるという部分も現実じゃなくて延々と妄想じゃないのか! なんてこった。

この曲は、1980年に西城秀樹がシングル曲としてカバーしている。西条秀樹とオフコースってイマイチ繋がらないけど、ちょっと低迷感があった西城秀樹はこの曲で盛り返したという記憶がある。
ちなみにジャケット撮影は、シングルと同時発売のアルバム「ワインの匂い」共に新宿外苑。

| | コメント (2)

2008年9月 3日 (水)

ずうとるび「透明人間」

ずうとるび「透明人間」
作詞.作曲/山田隆夫
1974年/¥500
エレックレコード.愛レーベル/AIS-3


デビュー曲「透明人間」作詞作曲.山田隆夫
200809031秋の曲....ではなく、9月はまだ秋という感じではなく、適当な曲を、普通の話題がない時に書いて行こうと思います。
ラジオのほうでもこれといってアイドルの話をしたワケでも無いのに、パーソナリティのテツさんにはすっかり「女性アイドルオタク」だと思われているみたいなので、なるべくそっち方面じゃない曲を。
確かに女性アイドルにも詳しいかもしれませんが、それ以外も知ってますがな。

ついでにもう一人のパーソナリティテッちゃんには「アニメやゲームなんかをガンガンやっている人」とも思われていました。ハッキリ言って自分はアニメは普通の人より疎いです。宮崎アニメもディズニーアニメもちゃんと見ておりません。ゲームに関してはほぼ5年近くやったことありません。最新の機械を触って「最近の映像は凄ぇな」と思った程度。
何かオタク的というキーワードで周囲の人に誤解されまくっております。

B面「春です」作詞作曲.山田隆夫
200809032という事で、9月の適当に選んだシングル1枚目は、かの「ずうとるび」のデビュー曲『透明人間』です。
現在「笑点」で座布団運びをしている山田隆夫がリーダーとして活動していたグループなんですが、想像も付かないほどアイドル的人気があり、ずうとるび司会のコント番組(学校そば屋テレビ局)があったり、四人が主役のTVドラマ(ばあちゃんの星)、主演映画(ずうとるび 前進!前進!大前進!!)もありました。
そして音楽面でも、デビュー曲から山田くんの作詞作曲。ちょっと意外かもしれませんが。

「みかん色の恋」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809033もともと子役として活動していた4人が、「笑点」の企画でチビッコ大喜利という物に参加していたのがキッカケでこのグループを結成する事になったのですが(チビッコ大喜利には他にも女の子などもいたと思った)、とりあえず番組的には「座布団を10枚集めたら、何か望みを叶えてあげる」という事で、山田くんが「じゃレコード出したい!」と言いだした事でデビューに至った、となっている。
が、それはあくまでも番組演出上の話で、チビッコ大喜利が回を重ねるごとに人気が出てきたので「4人でレコードデビュー」というのが決まっていたらしい。
それも山形で公開放送をした時に行きの電車の中で4人がふざけて大合唱をしていたのを見て、司会者・三波伸介が「お前らみたいな下手な歌でデビューしたら逆に売れるかもな」と言いだした事から話が膨らんでいったという。

「恋があぶない」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809034このデビュー曲「透明人間」のクレジット部分を見て「!」と思ったオールドフォークファンの方もいるかと思いますが、フォーク系専門会社「エレックレコード」からずうとるびはデビューしています。
あの時代、まだフォークと歌謡曲は相反する部分がまだあったので「なぜ?」と思ってしまうのですが、実は歌手になる話が盛り上がった山形での公開録画がキッカケになっているのです。
その帰りの電車の中で偶然乗り合わせたフォーク歌手泉谷しげるを発見してしまったのです。そして子役あがりで恐れを知らない山田隆夫が「今度僕たちデビューする事になったので、もしかしたら一緒のステージで歌う事もあるかも知れないのでヨロシク!」と挨拶をしたという。
いきなりの挨拶に流石の泉谷しげるも度肝を抜かれたが「おぉ君の出てるドラマもよく見てるし、笑点も面白れぇな」と話が弾み、実際にはまだレコード会社も決まっていないという事から「じゃ、エレックでどうだ」と話が進んでいったらしい。

「太陽の季節」作詞.岡田冨美子/作曲.穂口雄右
200809035山田隆夫が芸能界入りしたキッカケが「チビッコのど自慢」だったので音楽がらみで、作詞作曲ももともとやっていた為にリーダーとなり、デビュー曲も自作となった。(デビューの時点で楽器を弾けたのは山田だけだった)
ドラマの方は1971年NHKの破天荒な時代劇「天下御免」に子役レギュラー(15歳)として登場し、1974年のNHK少年ドラマシリーズ「夕ばえ作戦(光瀬龍原作)」では堂々の主役を演じている。

ギター担当の江藤博利はフジの特撮「宇宙猿人対スペクトルマン」などに出ていた。
(Wikipediaでは「スペクトルマン」と書いてあるけれど、この番組は途中で2回番組名が変わっており、江藤博利が出たのは「宇宙猿人対スペクトルマン」の時。「宇宙猿人ゴリ」1971年1月2日〜5月15日:20回/「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」5月22日〜9月25日:19回/「スペクトルマン」10月2日〜1972年3月25日:24回)
江藤博利はバブル期は渋谷のカラオケスナックを経営し、現在新小岩のダーツバーを経営しており、この数年はWOWOWのドラマ出演や舞台出演などで俳優業に復帰している。

「初恋の絵日記」作詞.岡田冨美子/作曲.加瀬邦彦/紅白出場
200809036今村良樹は左利きという事で「ビートルズのベース・ポールマッカートニー」に合わせてベース担当となっている。俳優としては1971年に谷岡ヤスジのマンガが原作の「谷岡ヤスジのメッタメタ ガキ道講座」でオラ山ガキ夫の仲間の一人としてデビューしている。
漫画が得意という事で雑誌「デュオ」に読み切りを掲載した事があるが、山田ミネコ「ハルマゲドン」や竹宮恵子+光瀬龍「アンドロメダ・ストーリーズ」などが連載されてる雑誌に一緒に掲載されるのにはかなり厳しいレベルの絵だった事を記憶している。
引退後は放送作家となったが漫画好きを活かして「お笑いマンガ道場」の構成作家なども務め、文化放送でアニメ・声優系の番組を手がけ、日本アニメ・オタク文化を裏側で支える人物になっている。

ドラムの新井康弘は基本的に根っからの俳優で、現在も俳優を続け、昼ドラマ『大好き!五つ子』の父親役など、木訥なよい人役を得意としている。
弟の新井つねひろも俳優で「3年B組金八先生」の第1シリーズに出演していた(10年ほど前まではドラマに出ていたんですが最近は不明)

「恋の夜行列車」作詞.山田隆夫&岡田冨美子/作曲.山田隆夫
200809037そんな感じで山田隆夫の作詞作曲でデビューしたんですが、思ったほど売れなかった。
実際、一聴して「こりゃ売れないな」と思ったのですが。
その後も何曲か山田くんの曲がシングルになっているんですが売れず、結局ヒットしたのはプロの作曲家が作った曲。その辺はタレントとミュージシャンの区別を付けているのか、自作曲は楽器演奏、作ってもらった曲はダンスをするとなっていた。
でもアルバムでは山田くん作曲の曲が多く、さらにシングルB面も山田くんの曲が多い。しかしアルバムなどを聴くと、山田くんの曲とプロ作家が作った曲の温度差が激しくて、思わず曲を飛ばして聞きたくなってしまう程。
でも徐々に聴ける曲を作れるようになったみたいで、個人的には山田くん作曲の「恋の夜行列車」は好きな曲。

「ペチャパイブギ」作詞作曲.山田隆夫
200809038←このシングルは「ダウンタウンブギウギバンド」が流行っていた最中に、明らかに便乗で出した曲。で、話題にはなったが売れなかった。(編曲はつのだ☆ひろ)
ちなみに「ずうとるび」というグループ名はよく「ビートルズ」をひっくり返した名前」と言われるがひっくり返すと「ずーるとび」。ずうとるびは最初と最後の音をひっくり返した名前。
そして、カタカナで書くと「フォーククルセダーズ」が「水虫の唄」をリリースした時に使った変名。
ちなみに「THE BEATLES」の関連グッズを管理していた会社はアルファベットで逆から読んだ「SELTAEB(セルテーブ)」

| | コメント (1)

2008年8月31日 (日)

山下達郎「さよなら夏の日」

山下達郎「さよなら夏の日」
作詞.作曲.編曲/山下達郎
1991年5月10日/¥900
ワーナーパイオニア(MOON)/AMDM-6034


200808311夏シングル第13弾
8月31日という事で、夏シングルはこれで最後です。
かつて山下達郎が「実体験に基づいて書いた詩」と語っていたのですが、なんか凄く爽やかで色男な内容なので、本当か?と思ってしまうワケです。
永遠とも思えた暑い夏が過ぎ去っていく中、自分の少年期が終わる淋しさ、切なさを感じながら、でもいつまでも変わらない気持ちもあると信じて大人へと歩いていく。

ジャケット写真は、どこまでも続く線路とそこに立ちつくす犬の姿。
なんかよく解らないけれど、少年期の記憶と線路はよく似合う。
映画「スタンドバイミー」でも線路づたいに冒険をする少年達が描かれていたし、もう題名もストーリーも忘れてしまったけれど子供の頃に見た映画でも線路づたいに旅をする少年が印象的に描かれている物もあった。
自分も小学校時代、線路づたいに友達と歩いた記憶がある(違法なので、よい子のみんなは真似しないでね)。
なぜか自分の中では「線路」と「少年期」はキーワードとして結びついている。

歌詞の中では「♪明日になればもうここには僕等はいない♪」と歌われている。
この歌詞ではリアルタイムで過ぎ去る夏に立っている少年が描かれているけれど、実際にその場にいる少年はそんな形で終わろうとする季節を感じ取る事はないだろう。
あくまでも、大人になった目線で「あの時の夏はもう二度と帰ってこないのだな」と感傷的に思い出す物なのだ。
ジリリと焼ける日差しを浴びながらも終わりに近づいていく少年期の夏。なんか感覚として終わっていく淋しさを感じつつも、永遠に続く物だとあの頃の自分は思っていた。人生の中で一番贅沢な時間を過ごせるのがその頃の夏なのかもしれない。

「♪どうぞ変わらないで、どんな未来、訪れたとしても♪」
この切なる願いは、やはり変わってしまった現在の自分から過去の自分への切なる願い。変わっていくことは悪い事ではないが、それでも純粋に単純に楽しい事を楽しいと笑っていたあの時代の自分は今思い返してみても輝いている。
しかし現実の自分はノスタルジーばかりに浸っているワケにはいかない。

「♪さよなら夏の日、僕等は大人になって行くよ♪」
大人になれば楽しくない事も必死になってやらなければいけない。そんなに楽しい事は多くはないのだが、あの時代の自分に言い訳をしたくない。あの時代に負けないような大人にならなくてはいけないと思うことがある。
「つまらない大人になりたくない」というのはある意味青臭い言葉の代名詞で、佐野元春の「ガラスのジェネレーション」でも歌われている。この歌詞を「大人はつまらないので、いつまでも少年でいたい」と解釈していた人がいたのだけれど、自分は「つまらない大人ではなく、前向きで楽しい大人になりたい」という意思表示だと思っていた。
あの頃の自分に恥じないように。

少年期に印象的に記憶している線路というのは、この先に続く、見果てぬ未来への希望なのかも知れないと思う今日この頃。

| | コメント (5)

2008年8月30日 (土)

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」
作詞.Whitlaker/作曲.Webster/訳詞.見城美枝子/編曲.田辺信一
1975年/¥600
ユニオンレコード/UC-7


200808301夏シングル第12弾
現在は朝のワイドショーのコメンテーターで顔を見かける見城美枝子(愛称ケンケン)のセクシーなジャケットが印象的な曲でやんす。
見城さんって、こんな写真でシングルを出すようなセクシー担当の人だったけ?と思いつつ、でもアイドル的な人気もあったような気がするのでそれなりに需要があったのかも知れないなぁと、この時の年齢を計算してみると1946年生まれなので……30歳?
う〜む、なぜこの写真をジャケットに使用したのか謎が深まるばかりなのだ。

このシングルは当時TBS系で放送されていた朝の情報番組「おはよう720-キャラバンII-」のテーマ曲として使われた物。タイトルが示すように朝7時20分からの番組で(後に7時からになり番組名もおはよう700に変更)、このコーナーのテーマ曲としては大ヒットした田中星児の「ビューティフル・サンデー」が有名。
見城美枝子は本職の歌手ではないって事で、実に真面目な聖歌隊的な歌い方で「上手いけどおもしろみがない」という感じ。

200808302B面はトワ・エ・モアが1970年にヒットさせた「誰もいない海」で、何故かポルトガル語で1番と3番を、一緒に司会をしていた五木田武信と共に歌っている。
という事で、この「誰もいない海」の話です。
一般的にはトワ・エ・モアの代表曲となっているのですが、リリースした1970年は「空よ」のヒットもあったので紅白では歌われていない。翌年はサッポロオリンピックのイメージソング「虹と雪のバラード」が歌われたので、この名曲が紅白では歌われたことはない。
そして意外かも知れませんが、同時期に競作として越路吹雪も「誰もいない海」を歌っている。

実はこの曲が発表されたのはそれより3年ほど前、テレビ朝日のワイドショー『木島則夫モーニングショー』の挿入歌として発表され、ミュージカル歌手・ジェリー伊藤が歌ったものが元祖です。
もっとも、この時代はまだ「発表=レコード発売」ではなかったので、しばらくしてからシャンソン歌手の大木康子が歌った物が初のレコードとして1968年09月05日にリリースされています。
実はこの「誰もいない海」は、それまで海外の曲ばかりを発表していたCBSソニーが、国内制作新譜として最初に出したオリジナル曲の第1弾という歴史的なモノです。しかし、この「誰もいない海」は「野火子」と言う曲のB面としてのリリースでした。
それから2年後に、トワ・エ・モアと越路吹雪の競作で一気にメジャーな曲になったのです。

ちなみになぜ「誰もいない海」を、ちょっとイメージが合わない越路吹雪が歌っていたのかというと、作曲した内藤法美が越路吹雪の夫、という関係でした。
という事で、1967年頃にテレ朝系のワイドショー用に作られた曲が、1975年にTBS系ワイドショーで使われていたのです。

| | コメント (3)

2008年8月29日 (金)

研ナオコ「夏をあきらめて」

研ナオコ「夏をあきらめて」
作詞.作曲.桑田佳祐/編曲.若草恵
1982年09月/¥700
キャニオン/7A0211


200808291夏シングル第11弾
夏ももう最後だ、思いっきり遊び倒そう!と思っていたみなさんごめんなさい。という感じにこの1週間、異常なほどに涼しくなってしまい「夏の終わり」というより「初秋」という感じなのだ。
ということで研ナオコの1982年のヒット曲「夏をあきらめて」です。
何も仕掛けもしていないけれど、ジャケット写真でこれだけインパクトを出せる人もそうはいない。
歌詞の中では雨雲が近づく風景が歌われていて、海に出ることが出来ない恋人のとまどいが歌われている。

研ナオコの腰の辺りまで切れ込んだ水着は見たくはないけれど、この曲がリリースされた1982年の夏は歌詞の通りに例年にないほどの冷夏で(それ以外にも大型台風がいくつもあった)、まさにあきらめなくてはいけないような夏だった。
この夏、自分は音楽を一人淡々と作り続けていた。当時購入したばかりのWデッキを駆使してギターの音を重ね、多重録音をする事に日々熱中していた。
本来は「ポプコンなどのコンテストに送るため」という目的があって始めたハズの多重録音による曲作りが、いつの間にか送ってウケる曲という枠組みから大きく逸脱した「自分の趣味」だけの音作りにハマっていったのだ。

これは自分の悪い病気らしく、音楽自体も最初は「好きだった女の子にカッチョいい所を見せたい」という浅ましい下心から始まったハズなのだが、気が付いた時は「とにかくギター弾いて曲作って」という事だけが総てになっていた。本気で好きだった女の子とは上手くいかなかったけれど、あの時代「ギター弾いているだけでなんかもてた」という事で、自分みたいな奴でも「先輩手紙読んで下さい」なんつー女子も言い寄ってきた事があったのだ。が、もうその時の自分は「女子と付き合うの面倒なのでいいっす、もーギター弾いてる方がいいっす」と勿体ないオバケを出現させてしまうような事をしてしまった。
と、話はプチ自慢話になっているワケですが、そんなワケで自分の1982年夏はとにかく多重録音をしていた、という記憶しかない。

しかし録音の際、防音設備もない我が家の周辺には鬱蒼と茂った森があって、そこから大音量のセミの声がジージーワッシャワッシャミンミンと聞こえてくる。当然その声もマイクが拾ってしまうのだ。
とりあえず、デモテープとして作っていたのでノイズが入るのも構わないと思っていたのですが、3重、4重と音を重ねていくにつれ、大音量のセミの声×2倍、3倍と増幅され、ヘッドフォンで聴いているとクラクラするような音になっていった。
ウワンウワンと大音量で泣き続けるセミの声の中、私のギターがジャカジャカ鳴るという、かなりアバンギャルドなテープが出来上がってしまった。

今でもその時のテープは手元にあるが、1982年、今から26年も前の、何世代か解らない前のセミの大合唱があの涼しかった夏を思い起こさせるのだ。
この時に作った多くの曲の中から1曲チョイスして多重録音しなおした物が、その後、YAMAHAが主催していたポピュラーコンテスト、通称「ポプコン」の東海大会にノミネートされ、大舞台に立つこととなるのだが、それはまだまだ先の話なのだ。

200808292てなワケで、自分の思い出なんかを語っていますが、「夏をあきらめて」は桑田佳祐の作詞作曲で、元々はサザンオールスターズが1982年7月に発売した「NUDE MAN」に収録されている曲。研ナオコのVer.はそこからのカバーで9月に発売されている。
もちろんサザンファンにとってはこの曲はサザンの物なんだろうけれど、研ナオコは独特のとぎれとぎれ唱法で歌い、雨に祟られた夏が終わっていく様子をじんわりと心に染み込ませていく。どっちかというと、桑田佳祐が歌うものより研ナオコの方が好きかもしれない。
70年代から80年代にかけて研ナオコは中島みゆきの曲を歌ってヒットを飛ばしていたけれど、この桑田佳祐の曲もよく似合う。

夏の終わりに聞くと、じんわりと夏の疲労が体の表面に出てくるような曲です。

| | コメント (7)

2008年8月28日 (木)

ピンクレディー「波乗りパイレーツ」

ピンクレディー「波乗りパイレーツ」
作詞.阿久悠/作曲.編曲.都倉俊一
1979年07月05日/¥600
ビクター音楽産業/SV-6590


200808281夏シングル第10弾。
ピンクレディーというとオリコン1位、どの曲も100万枚突破、という実績が伝説として語り継がれている。
デビュー曲「ペッパー警部」は最初は色物的な扱いで初回プレス8000枚。当時「ウワサのチャンネル」は今月の歌としてエンディングにちょっとオカシイ曲を毎回チョイスしていた。「うわさの小唄」とか「愛の狩人」とか。その中の1曲として1976年9月頃に番組に1ヶ月通して出演した事がある。
エンディングでこの曲を歌い、例の踊りを始めるのだが、曲の途中から二人の周囲に和田アキ子を始めあのねのね・せんだみつお・湯原昌幸・デストロイヤー・マギーミネンコなどが集合して、その振りを真似して踊っていた。本当に色物という扱いだったような気がする。

実は当時、自分は「スター誕生」を見ていなかったので、ピンクレディがその番組出身という事も知らずに、ミニスカートであの特徴的な足をがに股に開いて踊る姿を見て、子供心に「大変だなぁこの二人も」と思っていた。
それが、暫くしてこの曲が爆発的に売れ(新世代の「若いおまわりさん(1956年:曾根史郎)」と称した司会者もいたけど)、最終的には105万枚売れた。
そこから怒濤の快進撃が始まり、出す曲出す曲オリコン1位、100万枚突破となった。
自分の記憶の中では2曲目の「S.O.S」がリリースされた当時、すでにクラスの女子が放課後、一生懸命振り付けを練習していたので、かなり早く中学生などには浸透していた。

B面は「ハローミスターモンキー」のカバー
200808284が、栄枯盛衰。いつしかその人気にも翳りが訪れる。1979年発売のジパングでそれまでデビュー曲以来続いていたオリコン1位記録がとぎれる。といっても実際にはそこそこ売れていたハズだが、それまでの凄さがあった為に「もう人気も低迷」というニュアンスで語られるようになる。(売上げも初めて100万枚を切った)
その次が初の阿久悠×都倉俊一ではないヴィレッジピープルの「In The Navy」のカバー「ピンク・タイフーン」。おそらく、このカバー曲でさらに失速感を増した所でこの『波乗りパイレーツ』の発売となった。
当時、自分はピンクレディー派ではなく、どちらかというとキャンディーズ派だったので、この曲に関しては「サーフィン物はすでに「渚のシンドバッド」でやってるジャン」と冷ややかな目で見ていた。

A面B面共に「波乗りパイレーツ」で、A面は「日本吹込盤」で通常Ver.なのですが、B面が「U.S.A吹込盤」となっている。今では1枚のマキシシングルにアレンジ違いの曲が収録されるのは多く見かけますが、この時代は珍しい。しかもそのメンバーがムチャ凄い。
〈U.S.A.吹込みメンバー〉
☆コーラス
・マイク・ラブ(Mike Love)
・ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)
・カール・ウィルソン(Carl Wilson)
・ブルース・ジョンストン(Bruce Johnston)
・ポール・フィエルソ(Paul Fauraso)
つまり、ビーチボーイズなんですよ。
こんな凄いことなのに、契約の関係なのかジャケットにもライナーノーツにも一言も「ビーチボーイズ」という文字が出てこない。

レコーディングはビーチボーイズの通常レコードと同じように、演奏を普通に録音した後、マイク・ラヴがサンタバーバラの自宅にあるスタジオでメンバーのコーラスを録音。それに合わせてピンクレディがアメリカに渡りボーカルを吹き込んだということで、ピンクレディの二人はビーチボーイズのメンバーには会っていないという。
おそらくビーチボーイズもお仕事の1つとして与えられた曲を演奏&コーラスを入れて、あとはもう忘れていると思う。
それでも「ピンクレディがビーチボーイズを従えて録音した」という事で当時の音楽雑誌などには書かれていたと思う。

「Kiss in the Dark」日本発売盤
200808282何かの記事で読んだものでは、当初はそのU.S.A盤でシングル発売する予定だったのが、出来上がってきた物を聞いた所、なにかテンポがスローで勢いがない。そこで帰国後すぐ都倉俊一が編曲した物で録音し直した。という事だった。(これは後から考えられた話だとも聞いたことがある)
確かに、かなりテンポが違っていてB面はサーフィンというよりスキップみたいな感じなのだ。
秒数だけでもA面3分44秒、B面4分29秒と、B面の方がノンビリしている。
でも、曲後半からビーチボーイズの全力投球のコーラスが展開するんですが、これがとにもかくにも豪華。
しかし日本版のコーラスも捨てがたい部分が多く、ビーチボーイズが「♪う〜う〜ぃぅ〜」ばかりなのに対し、さびの所で「♪パ、パ、パ、パイレーツだよパイレーツ」などという「なんじゃそりゃ」という部分がある意味、味になっています。

「Kiss in the Dark」U.S.A.発売盤
200808283実はこの曲でビーチボーイズと仕事をした(接触は無かったが)、アメリカで録音したというのは、その後の展開に関係していたのかも知れない。
この2ヶ月前に出したシングルが洋楽カバーで「ピンク・タイフーン」。
そして、「波乗りパイレーツ」の2ヶ月後に、全米デビューをシングル「KISS IN THE DARK」で果たしている。
このアメリカ寄りの仕事はその布石だったのかもしれない。
しかし、その全米進出の思惑とは反比例して日本での人気急落は加速度的に早まってしまったのですが。

でも、この時ピンクレディは「KISS IN THE DARK」でビルボードの37位にランクインしている。当時、自分は友人と「日本では1位を取っていたけどさ、アメリカじゃ全然ダメだね。頑張ってせいぜい37位だってさ」とちょいとバカにしていた。
しかし、ビルボードの日本人記録は1位を獲得した坂本九「スキヤキ:上を向いて歩こう」は例外として、実は現時点ではピンクレディがもっとも上位にランキングされた歌手なのだ。
1980年:YMO「コンピューターゲーム」60位
1981年:横倉ユタカ「ラブ・ライト」81位
1990年:松田聖子&ダニーウォールバーグ「ザ・ライト・コンビネーション」54位
がそれ以外の日本人アーティスト記録。

実際にこの曲はアメリカ進出準備もあったので、あまりテレビで歌われる事も無く、その影響でヒットした印象もあまり無いが、改めて聞いてみるとかなり良い曲ですな。

| | コメント (4)

2008年8月27日 (水)

チェキッ娘「海へ行こう-Love Beach Love-」

チェキッ娘「海へ行こう-Love Beach Love-」
作詞.森浩美/作曲.土橋安騎夫/編曲.亀田誠治
1999年07月16日/¥1020
ポニーキャニオン/PCDA-01180


200808271夏シングル第9弾
作曲が元レベッカ・土橋安騎夫だったんすね。これを書くためにクレジットを見て初めて知り驚いた。レベッカのほとんどの曲を書いていた(初期の売れる前以外)80年代のヒットメーカーで、松田聖子の出産後の復帰1弾シングル「Strawberry Time」なんかも書いている。
でもレベッカ解散後、ソロを出したり、ユニットを作ったりしたけれど、NOKKOのボーカル以外では何か華を感じなく、いつしか表舞台から消えた印象だった。そうですが、チェキッ娘の曲を書いていましたか。
調べてみるとチェキッ娘のデビュー曲「抱きしめて」では作曲をせずに編曲だけで参加している。ということは編曲関連で仕事を続けているんでしょうか。

で、チェキッ娘ですが、前日の「モーニング娘。」がいわゆるパクリという音楽的芸能を昇華させたグループだったのに対し「コンセプトのパクリ」というか、世間的に便乗グループに分類されるアイドルなのだ(ファンや当人達はそうではない!と主張するとは思いますが)。

この手のグループは過去にも大量にいて、たとえば以前も書いたけれどピンクレディが流行った時に出てきた「キャッツアイ」だとか「キューピット」だとか、キャンディーズ解散を狙い「トライアングル」だとか「フィーバー」だとか「アパッチ」だとか。
ギャグとして「たのきんトリオ」に対する「イモきんトリオ」だとか。
さらにマニアックな所では「少女隊」に対する「聖女隊」だとか。
元ネタすらマニアックな「おかわりシスターズ」に対する「オレンジシスターズ」だとか。

200808272世間的評価は明らかに「コンセプト真似して出てきた」なのに、営業的には周囲も「それってパクリじゃん」とは言えずに、何事もなく時間は過ぎていく。それがオトナの対応って事なのですね。
ところが現代は怖い事に、その部分にもツッコミを入れることでギャグとして成立させてしまう、自嘲の時代なのだ。

このグループはフジテレビの平日夕方に放送していた「DAIBAッテキ!!」の中でオーディションを行いメンバーを決めた物で(この番組自体は1度も見たこと無いっす)、仕掛け人が秋元康、ディレクターがかつて「夕焼けニャンニャン」でADをやっていた人物で「平成のおニャン子クラブ」がコンセプトだったらしい。が、その時、モーニング娘。がジワジワ売れ始めて来ていたというタイミングで、グループ名が「チェキッ娘」だったために「モーニング娘。の類似品」みたいな印象になってしまった。
その後フジの「Hey Hey Hey」に初出場した際、グループ名が紹介されると会場がいきなりザワザワとざわめく、その様子を見たダウンタウン松本がいきなりモーニング娘。の名前を出してネタにしていた(記憶曖昧)。
そこで本人達が「いえいえ違います」「関係ないです」などと必死に関係性を否定する。という部分までがギャグ的にパッケージされ存在が認められていく。そんな時代になっていたのだ。
もっともこのグループは「Hey Hey Hey」の中で、新しい番組が始まるのでそれに出演するオーディションを行います、という告知から始まっている。

グループ自体は至極真っ当な物で、比較するべきグループではないとは思う(自分は音源でしかグループを見ていないので、それ以外は知らないっすけど)。ただ、音楽的に言うと何か特徴が無い(こういう大人数グループではしょうがないかも知れないけど)ので、やはり「テレビなどで見たり、思い入れがないとイマイチ」という感じなのかも知れない。
ついでにこの曲のカップリング曲「あしたのあたし」はフォークソングっぽい曲で、2〜3人がユニゾンでずっと歌っているんだけど、ラストのラスト(3分9秒頃)で一人が歌詞を間違えている。それをそのままCDにするって、ありなのかな?

しかし、こういう事を書いていると「こいつアイドルオタク」と認定する人も出てくるんだろうなぁ。基本的に音楽に関してはボーダーレスで何でも好きで、どのジャンルの音楽も普通に聞いているんだけど、誤解されやすいよなぁ。
って、今回のジャケット写真とかを見ていると、間違えてもしょーがないとは思うけど。

| | コメント (0)

2008年8月26日 (火)

モーニング娘。「真夏の光線」

モーニング娘。「真夏の光線」
作詞.作曲.つんく/編曲.河野伸
1999年05月12日/¥1020(税込)
zetima/EPDE-1033


シールで顔が隠れている人もいますが
200808261_2夏シングル第8弾
とりあえず1990年代の曲。テレ東の番組「ASAYAN」から登場したアイドルグループ、モーニング娘。のメジャー5枚目のシングル。
イントロの「ジャカジャカジャカッ♪」が最初に聞いた時から「あれ?、なんだっけこの曲」という状態でそっちの意味で引っかかった曲。元ネタは松田聖子の「青い珊瑚礁」なんだろうなぁ。
作曲をやっているつんく(この当時は♂マークは入っていない)のパクリ能力は凄い物があるワケで、この曲あたりではちょい抑えめだったのが徐々に「このレベルでもOKなんだ」と開花していくのがモーニング娘。のシングルを順番に聞いていくとよく解る。

音楽に於ける「パクリ」というのは、難しい部分もあるけれど自分は「あり」だと思っている。所詮、どのアーティストも前人の曲を聞いて「あぁこの曲好きだ→こんな曲作ってみたい」という気持ちからスタートしていると思うので、それがどこかしら出てしまうのはしょうがない。それを上手に昇華出来るか出来ないかが才能なんだと思う。

裏面
200808262ネットで音楽のパクリを「この曲とこの曲はここが似ている!」と指摘するサイトも多々あるんですが、それを肯定するか否定するかの違いは難しい。中には「音楽のパクリは犯罪だ」と声高に叫んで数々の類似曲を羅列しているサイトがあったのですが、そこに羅列されていた一覧の多くが80年代に発売された「ドロボー歌謡曲」と言う単行本に羅列されていた物のパクリだったりして、ちょい苦笑いという感じもあった。

つんくのパクリ能力は「恋のダンスサイト」でジンギスカンを見事に現代風にする事で一つの完成系を見るワケで、その後「ハッピーサマーウェディング」でドナサマーの「ホットスタッフ」を持ってきたりする辺りも、凄い凄いと思ってしまうのだ。
これらは1968年生まれのつんくが子供の頃、本当に音楽に目覚めた頃のヒット曲(ジンギスカンもホットスタッフも共に1979年)って感じなので、ある意味つんくの血や肉になっている曲なのかも知れない。
物を作る人はある意味、この前人の影響を受けながら、その引力からいかに脱出するか?という部分でもがいていく物なのかもしれない。

自分なんかも高校時代に漫画を描いていた際には明らかに手塚治虫のコピーだった。そこから逃げだそうと必死になっていたけれど、結局そこから抜け出せなかったし、同時期からずっと音楽活動もしていたけれど、それらの曲を続けて聞くと「ディランが好きだった」とか「あぁこの頃は佐野元春にハマっていたな」とか「エンヤを毎日聞いていたな」とか、恥ずかしいぐらいにモロ影響受けている。(所詮アマチュアですが)

そういう意味で、逆に意図的にパクリを出来るってのはある種の才能かも知れないので、つんくの場合は次にどんな球を投げてくるか?が楽しみになっていた。
もっとも後藤真希のソロシングル「溢れちゃう・・・BE IN LOVE」がジェシカ・シンプソンの「Irresistible」に全体があまりにも似ていた時は「それは無いだろ」と思ってしまった。この辺は血や肉って時代の曲じゃない。昨日今日聞いた物をそのまんまの形で出してくるってのは盗作だと思う。
でも、音楽のパクリの構造に興味ない人にとっては前述の「恋のダンスサイト」と「溢れちゃう・・・BE IN LOVE」のパクリは同列の悪いこととして終わってしまうんだろうなぁ。
この辺は、勝手な思い入れの部分が多いので難しいと思うんだけど。

モーニング娘。関連のCDで「カバー・モーニング娘。」という物があって、これは海外の歌手が英語でモーニング娘。をカバーするという企画物。シーナ・イーストンとかアイリーン・キャラとか懐かしい人も参加していますが、これを聞いていると「先祖返り」という部分があって、それマズくないか?と思ってしまう部分もある。
あ、タイトルの『真夏の光線』についてほとんど書いてないや。

| | コメント (3)

2008年8月25日 (月)

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」
作詞.森雪之丞/作曲.鮎川誠/編曲.大村憲司
1982年00月/¥700
ビクター音楽産業/SV-7217


200808251夏シングル第8弾
ということで1982年に資生堂の「シャワーコロン」のCM用に結成された、良くも悪くも全然音楽的ではないグループ『シャワー』。
って「知らんがな」という感じかも知れませんが、ジャケットの前列左側にいるのが村上里佳子(リカコ)です。あと、たしか前列一番右側が秋山絵梨子で現在は陣内孝則の奥さん。他にもモデルをやったりしばらく活動していた人もいるみたいですが、現在はリカコだけっすかね?

1980年11月に田辺エージェンシーが企画したオーディションで集められた7人組で、まだおニャン子もモーニング娘。も無かった時代、7人組って段階でもう「企画物」って感じだったわけですが、それでもシングル2枚、アルバムも1枚出して、自然消滅したという事なのだ。
とりあえず「夜のヒットスタジオ」にはデビュー曲「Do up・愛(Love)・ing」で出演した事があるらしい。

200808252で、このシングル「あっ!という間にビーチ・ラブ」なんですが、作曲がかのシーナ&ロケット鮎川誠っす。で、どんな曲かというと、良くも悪くもガールズポップスで、しいて言えば「Go-Go's」とかの、毒にも薬にもならない脳天気な曲。チアガールズ的って感じですかね。
でも音なんかを冷静に聞いていると、なんかラモーンズやパブロックに近いニュアンスを感じないワケでもないですが、やはりとりあえず作ってみました的。
でも、その心が入っていない感じが凄く楽しい。ポップな曲って最終的には「いいじゃん、楽しければ」という部分に至ると思っているので、この曲は好きです。聞いていると頭悪くなりそうな感じが。イントロは「フットルース」が元ネタかな?
ちょっと引っかかるのが1分38秒辺り&2分30秒辺りに突然出てくる「ウゥッフン」というお色気フレーズ。これってモロにキャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」の中に出てくるフレーズと同じだよなぁ、というか最初サンプリングかと思ってしまった。

Lip'sデビュー曲「愛の魔力」
200808253しかし「資生堂シャワーコロン」のCM用に集められたグループって事で、出演できる番組が絞られていただろうなぁって感じがする。
この手のCM企画でデビューしたグループは色々あって、すぐ思い出せるのが、1990年にUCC缶コーヒーのオーディションでデビューした「Lip's」。現在は女優として「温泉へ行こう!」シリーズの主役を張っている加藤貴子がいたけど、このグループもCM以外ではほとんど見かける事が無く、深夜系の出演が多かったかな。

お菓子に入っていたCD(No.07-08抜け)
200808254もっと悲劇なのは今から7年ぐらい前にデビューした「チュエル's」というグループ。
ブルボン&ソニーが行った 「21世紀ガールズユニット結成キャンペーン」からのグループなんですが、まず「シングルCD入り」というお菓子が発売された。
それは、1箱に2名の女の子がそれぞれ歌っているCDが1枚入っていて、5枚分を購入すると、計10人の女の子の歌を聴くことが出来る。
それの中から好きな子に応募して……、選出された3人を正式にアイドルデビューさせる、という企画だったのです。
(←のCDは総て中古店の10円コーナーで購入、この中からビッグになった人がいれば高値になったのにね)
そして応募上位3人は「チュエル's」と名付けられデビューし、ブルボン新製品のCM曲を歌った。
実はそのブルボンの新商品の名前が「チュエル」、つまりグループ名がそのまま商品名だったワケです。
応募ハガキには「ユニット名」に関しての応募欄も書かれているんですが、最初からグループ名は決まっていたんでしょうね。

CDに入っていた応募ハガキ
200808255これがどういう意味を持っているかというと、ブルボン以外のお菓子メーカーがスポンサーに入っている番組には出演できない。曲を流すことが出来ない。という事。
そりゃ、グループ名自体がCMになっているんだから。
結局、自分はそのグループを見ることなく、曲を聞くこともない今に至っている。
まだ、そのデビュー時のサイトが残っていますが『チュエル's』、1曲だけで終わってしまったのかなぁ。(メンバーの一人は後にZONEの補充メンバーになっているけど、そっちもすぐ解散している)

そんなこんなで、ある意味企画物アイドルというのはいたいけな少女達が企業の思惑に振り回されるだけの存在なのだ。
そういう場所から生き残ったシャワーの村上里佳子やLip'sの加藤貴子って凄いんだな。

| | コメント (1)

2008年8月24日 (日)

安田成美「トロピカルミステリー」

安田成美「トロピカルミステリー」
作詞.松本隆/作曲.大村雅朗/編曲.萩田光雄
1984年00月/¥700
JAPAN RECORD/7JAS-5


200808241夏シングル第7弾
いやはや安田成美は美人さんやねぇ。
かつて、NHKのテレビ小説「春よ、来い」主演だった際に、色々一悶着ありドラマを降板することになった時、橋田壽賀子に「飼い犬に手をかまれたみたいだ」とか犬扱いされちゃったワケですが。
最近は車のCMに若いママとして登場して、その保存状態の良さに感心しちゃってます。もう41歳になるとは思えないっす。

で、そのCMでは横浜銀蝿が歌い、小泉今日子もカバーした「アライグマ!ママママ、マントヒヒ♪」という曲を歌っております。
(最近読んだ雑学本では「安田成美がCMで歌っていた曲のオリジナルはあのツッパリバンド横浜銀蝿!」と仰々しく書いてあってビックリしたけど)
そのCMでの歌声を聞くと別段問題ないと思うのですが、このレコードを出した当時は「とにかく聞いていてハラハラする」と言われた歌唱力の持ち主でした。

200808242一般的に有名なのはアニメ「風の谷のナウシカ」のイメージソングだと思うのですが、テレビに出て歌うのを何度見てもサビの部分「♪風の谷の〜ナウシカ」の「ナウ」の箇所で音をハズし声がひっくり返り「ナゥッシカァ」となっていた。
いや、本気で手に汗を握りましたよ。普通にしていれば美人女優さんで通用するんだからワザワザ歌わなくても…。と思っておりました。
なんか個人的には「歌手仕事=アイドル」なのに、安田成美の場合は「歌手仕事=汚れ」みたいな気がしていた。

と言いつつ「風の谷のナウシカ」「トロピカルミステリー」だけでなくシングルは6枚、アルバムも2枚出しております。
この「トロピカルミステリー」を聞くと、出だしがリズム楽器無しで歌い始めるので「あれ?レコードの回転ピッチ狂ってる?もしかしてモーターが壊れてスピードが安定していない?」と不安になってしまう。
その後、リズム楽器が入ってくるんですが、なんか最後までメロディがやけに平坦に感じ、その不安感のまま最後まで突っ走ってしまうのだ。

暑い夏を過ごすためのレコードは色々あって「さらに暑くする」「涼しい気分にさせる」の二極に分かれると思うんですが、この曲は「ハラハラ手に汗を握って、その発汗作用から気化熱を生み出し涼しくなる」という科学的に優れた夏シングルなのかもしれない。

| | コメント (4)

2008年8月23日 (土)

田代まさし「新島の伝説」

田代まさし「新島の伝説」
作詞.秋元康/作曲.鈴木雅之/編曲.丸山恵市
1986年8月27日/¥700
キャニオン/07・5H-309


200808231夏シングル第6弾。
デビュー時はシャネルズの人、その後ラッツ&スターの人、その後マーシー、その後田代メンバー、その後神、そして現在は出所して普通の人になっている田代まさしがラッツ&スターのメンバーからお笑いタレントに移行した1986年にリリースした曲。
この曲がソロデビュー曲になるんだけど、ソロはこれが唯一。その後は、ピーター(池端慎之介名義)とか、志村けんとか、なぜか麻木久仁子とのデュエット物ばかり。

作曲が鈴木雅之(マーチン)なんですが、こんなに甘いメロディを作れる人なんだなぁと思いつつ、このロッカバラードは「ポールとポーラ」とか辺りのメロディそのままに聞こえるなぁと思ってしまうワケです。
とりあえず曲のイメージに合わせているのか、田代まさしもなんか甘い甘い口調で歌っていてなんだかなぁって感じ。

とりあえず歌詞の内容は「新島に行けば、DEKIRU、そう信じてた」という主題で、「OTONAになりたかった」僕はヌマタジュンコさんとそういう関係になったけど、今頃は君も結婚してママになっているだろうけど「僕に似ているKODOMO」がいなけりゃいいけどさ、という内容。
途中にセリフとか出てくるけれど、コミックソングというには笑える箇所もなく、普通のラブソングかというとそうでもない、なんか異様に中途半端な内容なのだ。普通に流れていても普通にオールディズっぽい曲で聞き流されてしまう感じ。
どのような経緯、企画でこの曲が作られたのかは不思議なのだ。

70年代から80年代初期、確かに「新島にいけばひと夏のアバンチュールがウハウハ」という事はよく囁かれておりました。
なんか「ヤリタイ盛りの男女がソレ目的で夏に集う場所」みたいなニュアンスで語られ、島に向かう船の中からすでに自由恋愛タイムが始まっていて、男もそうだけど女も当然のようにソレが目的なので話は早い、もう入れ食い状態、相手もひと夏と思っているので後腐れ無し、とかなんとか、もうチェリーボーイ達の憧れの楽園だったわけですよ。
80年代中期以降は、日本各地にプチ新島みたいなヤンキー御用達の「あそこに車で行けばナンパされる目的で集まっている女がいるぜ」みたいば場所が出来(あくまでも聞いた事があるってだけで確認はしていませんが)、90年代に入ってQ2、伝言ダイヤルがそれに変わり、現在はネットやらなんやらで男女の出会いは積極的になろうと思えばいくらでもあるという時代に変化して、新島のアバンチュールは本当に伝説になってしまった。

80年代初頭、自分の知り合いもこの伝説を信じて、夏前に必死にバイトをして船に乗り込んだ奴がいた。
夏が終わってそいつの話を聞きに行ったのだが「あれはあくまでも伝説」と異様に日焼けをしながら呟くヤツの姿がそこにはあった。

| | コメント (2)

2008年8月22日 (金)

堀ちえみ「真夏の少女」

堀ちえみ「真夏の少女」
作詞.中里綴/作詞.編曲.鈴木茂
2008年06月/¥700
キャニオン/7A0185


200808221夏シングル5弾。
「夏を歌っている歌手」とイメージすると、一般的にはサザンやTUBE、アイドル歌手ではハワイ出身の早見優とか色々いると思いますが、実は堀ちえみという人も夏を代表する歌手です。
というのもアイドル時代に22枚のシングルを出しているのですが、その内、タイトルに「夏」という文字が入っているのが5枚。「真夏の少女」「夏色のダイアリー」「青い夏のエピローグ」「ジャックナイフの夏」「夏咲き娘」。それ以外にもデビュー曲が「潮風の少女」だったり、「稲妻パラダイス」とか、夏祭りをイメージした異色な「Wa・ショイ!」とか、なんかやたらと夏よりの曲が多い。

200808222実は自分は堀ちえみという歌手にあんまり興味がない。タイトルを見て「お、堀ちえみを扱っているじゃん」とやってきたファンの方には申し訳ないんですが。
なんかキャラも華がなく、常に垢抜けない感じがしちゃって、フォフティーズ風のドレスとかで歌っている時もなんか貸衣装で着飾っている田舎の子的な痛々しさを感じていた。
歌もなんか平均点で突出した部分もなく、声質もコレと言った部分が無く、ついでにダンスも上手とは言えず、とりあえず振り付けの順番通りに体を動かしていますという感じで、そして歌もコレと言った感じがなく…。
いかん、書けば書くほどダメ出しばかりの文章になってしまう。

200808223個人的なイメージでは「平凡で地味な女の子」という印象だったので、あんまり夏がどうした、海がどうした、というリゾートポップスではなく、学園生活とか日常に密着した曲を歌ったほうがいいんじゃないかと思っていた。当時はアイドル全盛時代でキラキラと突出したあり得ないイメージへと飛躍する人が多かったので、その逆路線の方がよかったのでは?と。
もっとも、彼女の代表作は歌ではなく、ドジでノロマな亀と言われていた「スチュワーデス物語」というドラマだった。このドラマは表面上は熱血お仕事系ドラマだったが、70年代の熱血を80年代に入ってナナメ裏から見て、熱く展開する物語や登場人物の言動を「そんなのありえねえ」と笑う図式になったドラマだった。

200808224困難の状況が常に「ありえねえ」で、それを熱血で乗り越える姿も「ありえねえ」という、すべてをギャグ的に見る時代だったのだ。
その中で、垢抜けない堀ちえみは、これ以上無いほどに垢抜けずすることなすこと鈍くさい主人公を演じ、大ヒットとなった。
なんか個人的にあまり興味が無かった部分もあるんだけど、常に「どういう方向に行きたいんだろう」というのが見えないまま、途中後藤次利とのスキャンダルを挟み、20歳の時に結婚引退をした。
なんか「鈍くさいイメージ」「垢抜けないイメージ」が最後までしていたので「あんた芸能界で揉まれるより平凡な主婦になった方が良いよ」と思っていた。

200808225と思ったら、出産直後に「堀ちえみのあこがれママ日記 妊娠・出産・子育て」という本を出して、結構したたかだなぁと思っている内に3人目の子供を出産し、気が付けば「堀ちえみの子供大好き!愛いっぱい 3人の子育てママ日記」とか「堀ちえみと3人の小さな山男」という3人の子供を育てる話を書いた本を出し、さらに子供の親権をめぐって揉めたかと思っていたら、再婚して2人も子供をつくり、現在5人の親としてテレビにも出続けている。

1982年に垢抜けない純朴さをそのままにデビューした時は、こんなにたくましく芸能界で生き続けるとは誰も想像してなかっただろうなぁ

| | コメント (1)

2008年8月21日 (木)

よめきん-いいとも婦人隊-「それ行け!サマービーチ」

よめきん-いいとも婦人隊-「それ行け!サマービーチ」
作詞.Heart Baby/作曲.小杉保夫作曲/編曲.鷺巣詩郎
1983年07月/¥700
SMSレコード/SM07-233


200808211夏の歌、第4弾。60年代、70年代と来たので「さて80年代を代表する夏の歌は...」という事で、誰でも知っているこの曲を(嘘)
今から四半世紀以上前の1982年に始まり「友達の友達はみな友達だ、世界に広げよう友達のWA!」というフレーズも大ヒットしていた『笑っていいとも』。
1983年に、その中にあった『美少年コンテスト』の審査員として登場した3人、渡辺めぐみ(若い女性代表:当時19歳)、松金よねこ(おばちゃん代表:34歳)、KINYA(オカマ代表:35歳)が人気になって結成したグループ「よめきんトリオ」。
もちろん、たのきんトリオ、イモ欽トリオのパロディになっているワケですが、正式名称は「いいとも婦人隊」。こっちはいいとも青年隊に対するパロディ。
というワケでどう転んでも色物でしかないグループなんですが、その3人が勢い任せで発表したのが『それ行け!サマービーチ』という曲。
それがそこそこ受けたのでその半年後に出したのが『突然おじゃまの恋だけど』。
世間一般では企画物ってことで誰も評価していないみたいだけど、個人的にはポップで勢いがあって好きな曲。単純に楽しめるという意味でいい曲だと思うんだけどな。

なぜか松金よねこ以外のサイン入りの2枚目
200808212この曲に関して検索している中で「今でも芸能界に残っているのは渡辺めぐみぐらいで」とか書かれているのをみて、ちょいと驚いてしまった。
松金よねこは、このユニットに参加した段階で中堅舞台女優としてすでに有名な方で、一部の演劇好きな人にとっては「なぜいいともレギュラー?」という感じだった。
そして今でも大御所舞台女優として活動を続けている。テレビ基準で物事を考える人が多いので、舞台などに活動の場を移すと「消えた」とか「落ちぶれた」なんて言い出す場合が多いのだ。恐い恐い。

でもって、KINYAも消えたとされていて、数年前の「あの人はいま」で取り上げられた事があるらしいんだけど…
WikipediaではKINYAについて「現在は芸能界を引退し、日本各地の旅館でリサイタルを行っている」と書かれている。でも、地方周りも立派な芸能だと思うんだけどなぁ。あまりにもそれってテレビ基準すぎないか?
というワケで検索した結果、去年のクリスマスは伊豆稲取にある老舗旅館「銀水荘」でイベントやっていたんですな。結構近かったので見に行きたかったなぁ(再び嘘)
銀水荘クリスマスイベント

しかし、そのイベント告知のページを見ると『絶叫爆笑おかまショー』と『楽しいおサルのショー』となっていて、お猿ショーと同格なんですな。
しかし、何が悲しゅうてクリスマスにKINYA&お猿ショーを見なくちゃいけないのか。
ちなみに、その告知ページでは「CDデビュー」したこともあると書かれている。まさか世間的にはすでに「レコードデビュー」なんて書くと「レコードって何ンすか?」となっちゃうための配慮?

ちなみにこのユニットに「アイドル代表」として参加していた渡辺めぐみも現時点で44歳。ちなみに2006年11月に12歳年下のモデル星野芳徳(雑誌「NEN'S CLUB」「Gainer」などで活躍中)と結婚している。この「よめきん」をやっている当時、旦那はまだ7歳だったのだ。
渡辺めぐみブログ「結婚の報告

この手のノベルティソングは作家が変名の場合があるんですが、作詞は「Heart Baby」となっている。この名前は他に伊藤さやかのアルバムで、その名も「恋していいとも!」という曲の作詞をしているのを発見できるんだけど、それ以外の活動歴は不明。
作曲の小杉保夫さんは郷ひろみの「お嫁サンバ」、早見優「急いで!初恋」など歌謡曲から、最近はアニメ系の作曲が多く、クレヨンしんちゃん「オラはにんきもの」などなどで有名。あとCMソングで「♪ニュークレラップ」というサウンドロゴ等も。
で、編曲の鷺巣詩郎さんは現在も「笑っていいとも」で使用されている「お昼休みはウキウキウォッチン♪」の編曲や、他には大量の歌謡曲のアレンジ、作曲などをしている。個人的には松本伊代の初期作品のアレンジは鳥肌物です。で、アニメ関連の仕事も多いのですが、実は鷺巣詩郎の父親がアニメ制作会社「ピープロダクション」の社長で、元漫画家のうしおそうじ。
ピープロというと実写では「マグマ大使」「怪獣王子」「スペクトルマン」等々で有名です。

てな事で、圧倒的に日本音楽史に残らない曲で、おそらく誰も重要視していない楽曲ですが、個人的にはかなり好きな曲で、B面「真夏の出来事」、2曲目「突然おじゃまの恋だけど/それ行け!ゲレンデ」共にデジタルデータに変換してi Podに入れております。

| | コメント (1)

2008年8月20日 (水)

南沙織「夏の感情」

南沙織「夏の感情」
作詞.有馬三恵子/作曲.編曲.筒美京平
1974年00月/¥500
CBS SONY/SOLB-153


2008082001夏のシングル第3弾として南沙織シンシアです。
作曲&編曲が私が尊敬する筒美京平先生なんですが、このグルーブ感がたまりません。
凄い疾走感を感じる。
この筒美京平という人、そのメロディの柔軟性はさることながら、何より凄いのは歌手の力量を的確に計って、いかにその歌手の気持ちよい声を引き出すかという技術力、いわゆるプロ作曲家として職人技を見せてくれる所なんです。

2008082006筒美京平が70年代に担当していた歌手は沢山いるのですが、
たとえば郷ひろみにはあの甘い鼻に掛かった声をいかに甘く聞かせるか、
たとえば岩崎宏美にはあの出だしからギューンッと張りのある声をいかにストレートに聞かせるか、
たとえば太田裕美にはあの舌足らずの声をいかにシャープに甘く聞かせるか、という事を凄く重要視していた事を感じる。
上記歌手が一見ずっと同じようなポップスを歌っているように聞こえても、筒美作品以外の場合はそのメロディによる表現力が違って感じるのだ。

2008082007そういう意味で、この南沙織「夏の感情」は編曲まで担当しているので、メロディだけでなくアレンジまで南沙織のグルーブ感のある歌声を生かし切っているのだ。出だしのホーンなんてもう70年代フィリーソウル的なカッチョ良さで(筒美先生は日本人向けの翻訳がやはり上手いのだ)
アイドル的な印象で聞いてしまうとびっくりするぐらいに南沙織の歌い方はファンキーで黒い。安易な言い方をしてしまうと「やっぱ沖縄育ちは子供の頃から環境が違うので、バリバリ日本人は敵わないよナァ」って事になってしまうのかも知れない。
サビに入った時の「♪お陽様の真下でぇ」という部分のキュンと音圧が上がるような歌唱法、ブリッジ部分の「ア、ア、ア、ア〜」という部分のファンキーさはなかなか出せないと思うのだ。

2008082008
で、このシングルの凄さはそこだけではなく、クレジット部分に作詞・作曲・編曲だけではなく「演奏/キャラメル・ママ」と演奏しているスタジオミュージシャンのグループ名まで入っているという事なのだ。
なかなか歌謡曲のレコードでそれはない。とくに1974年の段階で。
で、このキャラメル・ママというバンド。リーダーでベースが細野晴臣、ギターが鈴木茂、ドラムが林立夫、キーボードが松任谷正隆というムチャクチャ豪華なスタジオミュージシャンバンドなのだ。(後にティンパンアレイに改名)他にアグネス・チャンなども担当していた。

この時代、リズム隊は今より抑えめにミキシングされているんですが細野のベースがグイグイと疾走し続け、松任谷のキーボードがメロディの裏でウィーンとうなり続ける。
実際の事を言うと、筒美京平のアレンジがホーン中心なのでイマイチ細かい演奏は聞こえないけれど、細野のベースに引っ張られて全体が熱く、その疾走感は充分に感じる事が出来る。

2008082003ということで「夏の曲シリーズ」前2曲で「夏なのに熱くなるような曲やるな!」と言っていたのですが、この曲は熱くなってしまいますなぁ。
ちなみに歌詞の方はなんかヤケに積極的で開放的な内容になっております。
これまで付き合った全ての人を許してあげたいって事で「私のどこかを通り抜けた人たち」とか言ってますが。でもって太陽の下だったら誰でも受け入れてもいいわ、とか言っております。なんか冷静に聞くととんでもない歌詞だな。夏の出来事、みんな許せる〜♪と最後リピートしております。
(いつかアグネスの「恋のシーソーゲーム」も取り上げたいと思います。こっちはキャラメルママの演奏がバッチリでやんす)

| | コメント (5)

2008年8月19日 (火)

ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」

ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」
作詞.橋本淳/作曲.編曲.すぎやまこういち
1967年05月/¥370
ポリドールレコード/SDP-2004


200808191夏の曲と言えば、やっぱりこの曲でしょう。
この時代のGSなのに、ベンチャーズの影響をまったく感じさせず、ラテンテイストのリズム楽器が入り、軽やかなニュアンスで暑苦しさを感じさせない曲なのだ。
ベンチャーズの影響がないのは、作曲&編曲をしているすぎやまこういちがバンド出身でないからかも知れない。
すぎやまこういちは専門の音楽教育を受けたことがなく、すべて独学で音楽を作り始めたんだけど、初期からクラシック音楽的ニュアンスをポップスに入れることを積極的にやっていた。(ガロの『学生街の喫茶店』なんかもクラシック趣味出ているし、後に『ドラクエ』の交響曲シリーズなども)

そんなこんなでこの曲、ちょいとリバーブが掛かりすぎなんじゃないの?と思うけれど、アップテンポで軽快なメロディと、ジュリーのクセのある歌い方が実に気持ちいい。

岸部修三&シローの兄弟アルバム「サリー&シロー」
2008081903でも、一番カッチョいいのはポールマッカートニーをマネしたのかヘフナーのバイオリンベースを弾く岸部修三の音なのだ。レコードのプロフィール欄に「ストーンズのナンバーを得意とし」と書いてある事から、こういう重い音が好きなんだろうなぁ。
岸部修三は現在「岸部一徳」と名乗って、俳優活動をしているけれど70年代中期まで、俳優活動と並行してバンド活動もやっていて、「井上堯之バンド」に参加してジュリーのバックバンドも務めていた。さらにかの後藤次利にベースの手ほどきをしたのも岸部修三。

タイガースの後、ジュリー&ショーケンのWボーカルの「PYG」というバンドに参加しているけれど、ここではもっと円熟味を増している。
レッド・ツェッペリンが1971年に初来日した際、ジョン・ポール・ジョーンズが「TVで演奏していたPYGというバンドが俺たちの曲『I Gonna Leave You』をコピーしていた。ボーカルはどうしようも無かったが、ベースは俺より上手かった。」と語っているほど凄いのだ。それがザ・タイガースの2ndシングル「シーサイド・バウンド」でも遺憾なく発揮されている。

200808192実はこのシングル盤の中にはダンスステップを指導するメモが入っていて、そこで3種類のステップを指南している。それらを曲に合わせて自由に踊るとなっているのだ。
とりあえず一人でこのステップを一通り練習してみたんだけど、イマイチ理解していないので訳の分からないステップになってしまったのだが(ステップ楽譜の読み方がよく解らない)

ちなみにこの曲のタイトルにもなっている「バウンド」というのは、弾むとかの意味ですが、当時ゴーゴーを始めとするダンスミュージックが盛んで「ニューリズム」というのを考案するブームが巻き起こっていた。
たとえば、橋幸夫なんかがやっていた「スィム」とか、ラテン系の「ブーガルー」などもあったし、日本考案の物では「ドドンパ」とか、そしてこの「バウンド」も阿波踊りをベースに考案されたと言われている。実際にはどんなリズムなのかよく解らないけど。

レコード裏の解説には「全員、京都出身で年齢は18才です。現在は同じ家に住み、合宿生活を送っています」と書いてある。が、実際にはリリースした1967年5月には
1946年09月22日:瞳みのる(ドラム)20才
1947年01月09日:岸部修三(ベース)20才
1947年11月18日:森本太郎(ギター)19才
1948年02月04日:加橋かつみ(ギター)19才
1948年06月25日:沢田研二(ボーカル)18才
なのだ。

| | コメント (3)

2008年8月18日 (月)

石川セリ「八月の濡れた砂」

石川セリ「八月の濡れた砂」
作詞.吉岡オサム/作曲.むつひろし/編曲.秋葉洋
1972年03月/¥500
キャニオンレコード/A-93


200808181近年は「夏!」というとサザンだったりチューブだったり、それ以外でもなんだか暑苦しい曲が多くなってしまったけれど、なんで暑い夏をさらに蒸し暑くするような曲ばっかりなのだ!!!
と、憤慨して自分個人だけがフガフガと熱くなっている。
という事で、8月と言えばこの曲。

この曲は日活映画「八月の濡れた砂」の主題歌として1972年にリリースされた石川セリのデビュー曲(映画は1971年8月公開)。日活と言っても、この作品は会社が傾いてロマンポルノに移行する直前の作品。
当時の日本映画はヌーベルバーグとかアメリカンニューシネマだとかの影響を受けた、退廃的な若者達を主題にした物が多く、たとえば夏が舞台になっていても、大騒ぎした後のなんかけだるくやるせない感情が漂う、どちらかと言えば暗い作品が多かった。
この作品は藤田敏八が監督をした作品で、70年まで続いた学園紛争後の虚無感の中で「しらけ世代」と言われた若者達の暴走を描いた作品。

200808182自分はリアルタイムではなく、70年代初頭の虚無感とは180℃転換していた脳天気な80年代中期にレンタルビデオで初めて見た世代なので、ある意味「あの時代の空気」を感じ取るための歴史物という感じで接した。
「しらけ世代」という言葉は1970年代初期に生まれた言葉だったが、実際の事を言うと明るいが価値基準になり「根暗」が排除されて総躁状態だった1980年代初期「暗く考えていても何も始まらないじゃん、だったら踊ればええじゃないか」と闇雲に明るさを演出していた時代の方が本質的にしらけていたんだろうなぁと思う。

2008081803この映画の時代は「学園紛争で努力したけど、結局何も変わらなかったぜ」的なムードだったのかも知れないけれど、その状況に放り出された若者たちは何かを求めて暗中模索していたのだと思う。その課程で表面的にしらけていたんじゃないかと。
80年代にはニヒルを気取って「そんな熱くなっても無意味」という感じがよくあった。
そう言う意味で、70年代の夏の歌「八月の濡れた砂」はやりきれない感情をクールダウンさせる曲なのかも知れない。
そして80年代以降は、悩む姿は格好悪いので「とりあえず夏だから騒ごうぜ!」とばかりにテンションを強制的にあげるような曲が多くなったのではと(と言いつつ、70年代にも熱い夏ソングは多いっすけどね)。

このシングルのインナーに歌手・石川セリのプロフィールがある。
本  名:石川セイディ(Seidy)
生年月日:昭和27年12月27日(19才)
出  身:神奈川県相武台
学  歴:玉川大学英米文学部中退
好きな人・映画:
  バーブラ・ストライサンド、渥美清、「Funny Girl」「男はつらいよ」
わたしの宣伝文句:
  ☆Sexy(Sexy) Seidy(本名)、わかんない子、Funny Girl(おかしな子)
  ☆よく笑い、いつも鼻歌をうたっているのに寂しがり屋……。
うーむ、石川セリは自分が一番苦手な「不思議ちゃん」だったのか。

A面「八月の濡れた砂」は70年代を代表する秀逸でしっとりした曲ですが、B面の「小さな日曜日」はもうちょっとポップな曲で、ベースがいかにもあの時代っぽい音で、こっちはこっちでなんか心地良い。

| | コメント (2)

2008年5月29日 (木)

斉藤由貴「青空のかけら」

00saitoaozora斉藤由貴/青空のかけら
作詞.松本隆/作曲.亀井登志夫/編曲.武部聡志
1986年8月21日/¥700
CANYON:7A0615


なんか梅雨直前の天気に時々、気分がよい青空を見ているとこのメロディが浮かんでくる。
歌手・斉藤由貴といってラジオなどで今流れるというと、初期の「卒業」とか「夢の中へ」とかって感じですが、実はこの「青空のかけら」というシングルは、斉藤由貴にとって唯一のオリコン1位を記録した曲なのだ。
作詞は悔しいけれど、凄く爽やかで気分を高揚させてくれる詩を書く憎いあんちくしょうの松本隆。
そして作曲は亀井登志夫。
亀井登志夫は山下久美子の「バスルームから愛をこめて」や松本伊代の「抱きしめたい」「チャイニーズキッス」などこれは!という大ヒット曲がないけれど、自分的には大ヒット曲が多い作曲家なのだ。

この「青空のかけら」はその中でも特に大好きな曲。
別に言及はしていないが、スタンダードナンバー「MY BLUE HEAVEN:私の青空」のメロディラインを多分に意識して、それをポップな方向に力業で作り替えたんじゃないかと思っている。(榎本健一や高田渡のVer.が好き)

00longvaozoraこの曲は有頂天のケラが結成したバンド「Long Vacation」がアルバム『Long Vacation's Pop』の中でカバーしているんだけど、そっちもかなりポップでいい感じ。
ちなみにこの当時ケラは激しく斉藤由貴にハマっていたらしく、アルバムの中の『Long Vacation's Touch』という曲中にメンバーが自己紹介する部分で「斉藤由貴もほどほどにしたいと思います」と語っている。

実は、この時代自分も斉藤由貴にハマっていたわけですが、自分は凄くアイドル歌手にハマるベクトルが不純で「容姿は全然興味ない。その人が女優やっていてもドラマは一切みない。ライブビデオがあっても画像は全然興味ない。」という、アイドル系歌手の曲を聞くってのに「音だけでいい」という周囲には理解不能と言われる人でやんす。
そのために、斉藤由貴の全シングル全アルバムを持っているのに、ドラマをちゃんと見たことがない、映画も1本も見たことない、という不純な人なのだ。
顔が凄く好みでも声質が嫌いだったり、歌手としての艶を感じないと、興味を失ってしまうという変な指向性もある。

斉藤由貴はアイドル末期は完璧にアルバム志向の人になって、シングルカット無しのコンセプトアルバムを作るようになっていき、個人的は凄くハマったワケですが、世間的には「シングルヒットも亡くなったので歌手としてはもうダメだね」という感じになっていった(と思う)。
最終的には結婚などがあって、そっち方面の活動は終止符を打ってしまったワケです。
(この数年、ボチボチと音楽活動も再開しているみたいですが)

Tokiasaaozo去年は土岐麻子さんがこの曲をカバーしています。伸びやかな声が気持ちいいんですが、斉藤由貴の声量の無さを補って余りある声による演技を超えることが出来ていない感じがしちゃって残念でやんす。
でも発売から20年以上が経過して、こうやってカバーされるってのは名曲だった事なんだよなぁ。
ちなみに昨年放送されていたドラマ『歌姫』に出演している斉藤由貴を久々に見たんですが、富士眞奈美ポジションになっていてビックリしました。

| | コメント (0)

2008年5月19日 (月)

沢田研二「TOKIO」

2008051901沢田研二/TOKIO
作詞.糸井重里/作曲.加瀬邦彦/編曲.後藤次利
1980年01月01日/¥600
Polydor/DR6385


ここの所、漫画「関町物語」を書くために、1980年前後の資料を色々読んでいるのだが、ふと思ったのが「1980年はSF的未来図で始まった」という事なのだ。
時代というのはすべて連続した時間として繋がっており、革命的な歴史的な事件が起こらない限り、常に緩やかに変化をしていく物なのだ。
よく時代論を語る時に1960年代、1970年代などという言葉で乱暴に時代を断ち切ったような言葉が使われるが、実際その時代を生きてきた人間にとっては大晦日から正月に日付が変わろうと変わるまいと、連続した営みが続き、そ〜んなに世の中は変わる物ではないのだ。
そういう意味では1980年代とはなんぞやと語る際に、明確に時代を象徴できるのは、1985年を中心にした数年という事になるかもしれない。

ロンリーウルフ:作詞.喜多條忠:作曲.大野克夫:編曲.後藤次利
2008051902しかし1980年になった瞬間、なんだかよく解らないけれど新たな時代が始まるという予兆があった。
それは明確に、影響力のある人物が「新時代の幕開け」という宣言をしたからなのだ。
その人物とは稀代の歌舞伎者、沢田研二。
沢田研二、通称ジュリーは新時代の幕開けの初日、1980年1月1日に誰も予想をしていなかった新曲『TOKIO』を発表している。(正しくは前年暮れに発売したLPからのシングルカットだが)

当時、大晦日のテレビは、紅白歌合戦が終わった直後に民放へチャンネルを廻すとどの局も同じ番組「ゆく年くる年」が放送されていた。
今ではとうてい考えられない状態だが、毎年東京キー局が持ち回りで制作した番組を、すべての民放局が同じ内容の番組を流していた。最終的には地方局を含め全国106局同時ネットというすごい番組になっていたのだ。

恋のバッドチューニング:作詞.糸井重里:作曲.加瀬邦彦:編曲.後藤次利
2008051904大晦日、年に一度の夜更かしが許される日という事もあって、子供達はテンション上がって「どのチャンネル廻しても同じだぜ!」と得意げにチャンネルをガチャガチャ廻し「むやみやたらとチャンネル廻したら壊れるだろ!」と各家庭で新年早々怒られる子供が続出したイベントだった。
この「ゆく年くる年」という番組は「日本初のCMで時報を流した」セイコー社の1社提供で放送されており、カウントダウンの時計は当然セイコーだったのだ。

ピッピッピッ、ポーン!と、セイコー社の時計が1970年代に幕を下ろし、新たなる10年間、1980年代が始まった1980年1月1日、その瞬間、テレビの闇の中から派手な電飾が点滅し、ジャッジャッジャ〜ンジャ〜♪と重いディストーションギターの音が流れだしたのだ。
「な、なんだ?」と、当時高校3年生だった自分はその画面を見て度肝を抜かれた。
そこにいたのはミリタリールックにいくつも電飾をつけ、何やらでっかいパラシュートを背中に背負って風を受けている沢田研二だったのだ。

カサブランカダンディ:作詞.阿久悠:作曲.編曲.大野克夫
2008051903さきほど終わったばかりの紅白歌合戦の中では「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かったよ♪」と昔の男は自由に格好良く生きる事が出来たのに時代遅れの男は不自由だと『カサブランカ・ダンディー』を歌っていたジュリーが、1980年の幕開けと同時に電飾の中から出現してきたのだ。

しかもそこで歌われている内容はやたらとシュールで、スーパーシティ「TOKIO」が空を飛んだり、海に浮かんだり、星になったり、という一回聞いただけでは意味が理解できないものだった。
今、改めて聞き直すとアレンジや楽器編成自体は凄くアナログでテクノ的要素は少ないんだけど、途中で使われるキーボードのフレーズやシンセドラムはまだ歌謡曲が歌謡曲だった時代には充分に刺激的だった。

編曲の後藤次利は、前作「ロンリー・ウルフ」という地味だけどムチャカッコイイ曲の編曲から「TOKIO」「恋のバッド・チューニング」「麗人」の4枚のシングルを手がけている。
ちなみに1979年末にすでに発表されていたアルバム『TOKIO』の編曲をすべて手がけており、サディスティックミカバンド以降、サディスティックなどでスタジオミュージシャンとして鍛え上げた後藤次利の力量を見せつけるような内容になっている。そしてこの年の年末、日本レコード大賞・編曲賞を「TOKIO」で受賞している。
「TOKIO」はテクノ風味の曲だが、実はベーシスト後藤次利のあまりにも格好良すぎるベーステク満載なのだ。低音を利かし気味にしてヘッドフォンで聴くことをお勧めします。

麗人:作詞.阿久悠:作曲.沢田研二:編曲.後藤次利
2008051905この1980年1月の段階では、すでに「イエローマジックオーケストラ」はデビューしており、ワールドツアーも成功させ、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』もオリコン最高位9位にもなっているが、まだ一般的な浸透度も少なく、歌謡界はテクノの扱いに苦慮していた時代だった。
この時代、沢田研二は常に斬新なアイディアを曲に折り込み、おそらく時代を牽引していくという自負もあったんだろうと思う。そんな中で当然テクノ的なアプローチも必然だったと思うが、1980年代の初っぱなにこれを持ってきたというのは大いなる意図を感じるのだ。

そして「シュールな歌詞」を書いていたのは新進気鋭のコピーライター糸井重里。その段階で、すでにコピーライターとしてはいくつかの受賞歴があり、矢沢永吉の「成りあがり」のライターなど大きな仕事をこなしていたが、一般的知名度を集めたのがこの作詞からだった。(もっとも糸井重里というキャラとして有名になったのは1982年から始まったNHK『YOU』の司会)

アルバム『TOKIO』
2008051906そんな形で新時代を意図的にこじ開けた曲「TOKIO」は、ザ・ベストテンでは発売から3週間経過した1月24日に8位に初登場し、その後10週に渡りランクインしつづけた。当時、久保田早紀「異邦人」→クリスタルキングの「大都会」→海援隊「贈る言葉」が爆発ヒット中で1位は獲得できなかったが、2位は5回、3位は3回、4位は2回と上位をキープしつづけた。
そんな中、歌舞伎者ジュリーはその巨大な衣装で色々な場所に出現した。ビルの屋上などで歌った事もあったが、アメリカへ渡りアリゾナのデスバレーという荒野で風に煽られながらも必死に踏ん張りながら歌った姿が今でも記憶に残っている。

その後、「おれたちひょうきん族」でたけちゃんマンの衣装としてパロディ的に使用されたり(元々、ジュリーの物まねをするために作った衣装らしい)、ばかでかいセットのような衣装は小林幸子に継承されていくのだが。
なにはともあれ、1980年の幕開けと同時に民放チャンネルを見ていた全ての家庭に、沢田研二の1980年代宣言「TOKIO」が流し込まれたのだ。
その1980年代が人々にとって幸せな未来だったのかはよく解らない。

ちなみに、民放同時放送の「ゆく年くる年」は昭和最後の年末となった(その時点では昭和最後とは思っていなかったが)1988年から89年にかけての回が最後となり、平成の最初の年末、1989年と1990年の橋渡しの年末は各局独自の番組となっている。

| | コメント (3)

2008年5月17日 (土)

泰葉「フライディ・チャイナタウン」

Yasuha01泰葉/フライディ・チャイナタウン
作詞.荒木とよひさ:作曲.海老名泰葉:編曲.井上鑑
1981年9月/¥700
POLYDOR/7DX1120


いやぁどうしてあそこまで壊れた人間、空気が読めない人間になっちゃったかねぇと思ってしまうワケですよ。
昨年末、突如として巻き起こった春風亭小朝師匠との離婚会見から、今にいたるまで「放し飼いの壊れたおばさん」「空気が読めないどころの騒ぎじゃない人」としてアチコチの番組に出倒している泰葉
去年、なぜか久々に泰葉が小朝とセットでテレビに出るようになって「?」と思っていたが、いきなり離婚ですか。

Yasuha021981年9月に歌手・泰葉のデビューシングル「フライディ・チャイナタウン」がリリースされているが、その作曲も担当している。曲調としてはサビが印象的で覚えやすい良質のポップスという感じで、井上鑑のアレンジも的確な世界を築きあげている。
ただ1つ当時から引っかかっているのが、この歌詞「♪肩にぶつかるジンガイ、ウィンクを投げる」という物。
ここに出てくる「ジンガイ」は歌詞カードでは『外人』と書いてルビを振ってあるのだ。
いくらなんでもそりゃないだろうという気がして、この曲を聞く度にそこが引っかかってなんか複雑が気持ちになるのだ。「シーメでその後ヒーコー」みたいな感じ。
まだ80年代中期から始まる、とんねるずを中心とした芸能界ごっこの波は来ていないので、この段階は「ジャズマンが始めた逆さ言葉」的な遊びだったのかもしれないけど…。
このシングルのカップリング曲「モーニング・デート」も同じメンバーの曲で、上質なガールポップスを展開している。作詞の荒木とよひさは何を考えてあの詩を書いたのだろうか。

Yasuha03あのキャラクターが世間に浸透している現在では凄く言いにくいけれど、音楽家としての泰葉は好きなのだ。
ただ、泰葉はその数年前にデビューした「越美晴」とか「八神純子」と凄く被ってしまうので、音楽的な話題より世間的な売りが「林家三平の娘」という感じになってしまっていた事。そして、当時から自由奔放キャラがあったためタレント的活動が多くなってしまったという事が、ちょっと残念だった。
ついでに1985年にデビューした「種ともこ」もかなり同系統なので、音楽面では個性は生かせずおしまいって感じなのかもしれない。2枚目のシングルのカップリング曲「突然ハプニング」という曲なんか知らないで聞いたら種ともこの曲かと思ってしまう程。

Yasuha05ちなみに泰葉は「午後は○○おもいッきりテレビ」の初代司会を山本コータロー(番組では山本厚太郎)と共に1987年10月から1988年3月まで務めている。
ただ個人的に泰葉というと「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した時の印象が強い。
1984年4月23日、当時はゲストが直に電話をするシステムだったのですが、歌手しばたはつみに電話するつもりで間違って素人の家に電話してしまい「え〜しばたさんじゃないの?」と言っていたのだが、そこでタモリがギャグで「明日来てくれるかな?」と言い、その素人もノリで「いいとも!」と答え、翌日から本編テレフォンショッキングの前に数分素人テレフォンショッキングが放送された。(3人目が電話した相手が「突然そんな事言われてもダメだよ」と拒否したので、コーナーは3日で終わった)。
自分が自覚していない所でも騒ぎを起こしてしまう人なのだ。

Yasuha04しかし、去年あのタイミングで泰葉と小朝が離婚したってのが、昔から冗談として語られている話を思い出すとちょっと意味深だなぁと思ってしまうのだ。
結婚した当初から「小朝が泰葉と結婚したのは林家正蔵の跡目が欲しいからだ」とウワサされていて、こぶ平も半分冗談だろうがそのように語っていた事がある。
結果としてはその正蔵の名前はこぶ平が継いでしまったのだが、それと同時に囁かれていたのが「いやいや、小朝が狙っているのは林家三平の跡目狙いだ」という話。
その三平の名前はと言うと、去年10月31日に「いっ平が2009年春に継ぐことに決定」したのだ。
そして、その発表から1ヶ月も経たない去年11月に泰葉と小朝の離婚発表。ちょっと出来すぎているよなあ。

泰葉

Yasuha07泰葉が1982年に出したLPサイズのシングルは、片面に二本溝があり、アレンジ違いの曲がどっちが流れるか解らないという特殊レコードを出したことがある。

普通の歌手がこんなアイディア出してもカッティングが特殊すぎて却下されるだろうなあ。

もっと昔には6本の溝が併走してカッティングされている競馬実況レコードというのもあった。途中まで同じ実況で、最期のコーナーを廻った所から順位が違う実況になるので、これで擬似的競馬ゲームをするというレコード。

2本溝レコードが話題になったので、翌年はレコードの針を通常の終わり部分に落とすと徐々に外側に向かっていく(つまり溝のカッティングを逆にしてある)という特殊レコードを出した。

が、当時はオートリターンなどのプレイヤーが多く、このレコードは手動で針を落とさなくてはいけない、針の動きを機械が誤作動と感知して止まってしまうなどのクレームが大量に寄せられた。

Yasuha06大阪でやしきたかじんとラジオをやっていた事があり、その関係でこぶ平がやしきたかじんの付き人修行をした事がある。

そのラジオにエコーズがゲストに来た時、バンドメンバーの横柄な態度が気に入らなかったので、泰葉がやしきたかじんに「締めちゃえば」と言い放ち、たかじんが譜面台を投げつけ辻仁成を殴ったらしい。って、泰葉はやしきたかじんまでを動かす人だったのか?

テレ東「おはすた」の初代アシスタント(1984〜85年)だったが、ゲストとして当時デビューしたばかりの斉藤由貴が出演した時、いきなり「オッパイ大きいねえ」と胸をわしづかみにした事がある。

空気が読めない自由人・・・・歌手としては好きだが・・・・・

| | コメント (0)

2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち「悲惨な戦い」

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

| | コメント (7)

2008年3月 8日 (土)

太田裕美「木綿のハンカチーフ」

2008030801木綿のハンカチーフ/太田裕美
作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄.
CBSソニー:SOLB-352
1975年12月21日/¥500


卒業シーズンということで「卒業」とタイトルに付けられた曲でもよかったんですが、とりあえずこの曲を。
といっても歌詞の中には卒業を臭わす言葉は1つも入っていない。ただ何かの事情で都会に旅立つ男と、田舎に残る女の会話が綴られている。
歌っていた太田裕美はアイドル的容姿は兼ね備えていたが、どことなく都会的ではないイメージもあって(個人的偏見&褒め言葉ですよ)この曲に出てくる女性にオーバーラップする部分もあったのか、大ヒット曲となる。

2005030803と言っても、1975年12月21日にリリースされたこの曲は、4日後の12月25日リリース「およげ!たいやきくん」の驚異的なヒット(初登場から11週オリコン1位)によって、ついに1位を獲得出来ずに終わっている。それでも85万枚を売上げ、その後の地位を獲得している。

この曲は作詞家の松本隆がまず詩を書き上げ、作曲の筒美京平に渡した、いわゆる「詩先」といわれる物だったのですが、この詩を受け取った筒美京平は「こんなダラダラした詩に曲は付けられない、なんとかしてくれ」と松本隆に詩を変えるように連絡を取ったという。
しかし松本隆は「おそらく曲を付けるのは難しいということで電話があるんじゃないか」と確信していたので、その日は連絡できない場所へ雲隠れをしていたらしい。
そして、とりあえずの〆切の時、なんとか曲が出来ていあたとかつて松本隆が語っていた。

2005030804まず12月5日リリースの3rdアルバム『心が風邪をひいた日』に収録され、12月21日にシングルカットされている。
アルバムVerとシングルVerの違いは、アルバムの方にはイントロにある特徴的なジャカジャカジャカ〜と上昇するバイオリンのトレモロが無く、他の部分でもストリングスがうっすら入る程度になっている。
あと演奏途中ではいるフルート系のシンセの音もアルバムVerには入っていない。
シングルを聞き慣れているとアルバムVerはスッキリしすぎていてギターのカッティングがキツク感じるかもしれない。

2005030805その歌詞はまず男性の手紙から始まり、後半は女性がそれに答える形で手紙を書くという構成で、サビの部分に明確なリフもない、詩だけ読むとどこにサビを持っていったらいいのか解らない詩になっている。
しかもそれが4番まで続き、4番の最後の最後にテーマである「ねえ涙拭く木綿のハンカチーフください」という言葉が登場する仕組みになっている。
そのため、当時の歌番組では2番無しで歌う事も多かった。

実はこの歌詞はボブ…ディランの「スペイン革のブーツ/Boots Of Spanish Leather」という曲がモチーフになっている。モチーフといえば聞こえがいいが、松本隆は結構この「洋楽の歌詞を翻訳して日本風味を振りかける」という作業をしている。
同じ太田裕美ではアルバム曲に「ひぐらし」という物があって、内容はふたりでバス旅行に出かけるという物なんだけど、これはサイモン&ガーファンクル「アメリカ」と設定が同じ。「アメリカ」の中で「アイツの顔、指名手配のギャングに似ていないか」という部分は「ひぐらし」では「♪三億円に似てないかって」となっている。あの時代なら「三億円犯人のモンタージュ写真に似てないか」という意味と解るけど、今聞き直すと「三億円に似てる」って何のことやら。

2005030802そんなワケで、元詩となったディランの「スペイン革のブーツ」はディラン最愛の女性スーズ・ロトロがイタリアに旅立つ時に浮かんだ物(実際には別離ではなく旅行だったみたいですが)。スーズは2ndアルバム『Freewheeling'』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性。
ディランの曲は主人公(男)が船に乗って旅立つ所から始まる。
Oh, I'm sailin' away my own true love,(愛しい人よ、僕は船で旅に出るよ)
これが「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向う列車で」に相当するワケです。
ディランの方はその後
Is there something I can send you from across the sea,(海の向こうに着いたあと、送って欲しい物はあるかい?)
と残した女性に対してリクエストをしている。
同じように松本隆は「はなやいだ街で 君への贈りもの、探す 探すつもりだ」と書いている。

2005030806そこで主人公が突然女性側に移り
No, there's nothin' you can send me, my own true love,(いいえ 何もいらないの 私の愛しい人)
そして「いいえ あなた私は、欲しいものはないのよ」となっている。

その後もディランの歌詞を追っていくとどこかで聞いたフレーズが満載で…。
Oh, but if I had the stars from the darkest night(闇夜に輝やく星たちでも)
And the diamonds from the deepest ocean,(深海から見つけたダイヤでも)
I'd forsake them all for your sweet kiss, (あなたの甘いキスには勝てないわ)
そして最後に
And yes, there's something you can send back to me Spanish boots of Spanish leather. 
(そうだ、君が何か送ってくれると言うのなら、スペイン革のスペインブーツを)
と締めて曲は終わる。
木綿のハンカチなら気軽に送ること出来るけど、スペイン革のブーツは結構難易度が高い贈り物だと思う。

ちょうど「木綿のハンカチーフ」が流行った直後ぐらいに、ボブ・ディランの初来日という物があって、名作アルバム『欲望/Desire』が発売されたりで、中学生だった自分はひたすらディランを聞いていた時期があった。
その関係で「スペイン革のブーツ」の存在も知り、なんじゃこりゃ!そっくりやないけ!と怒りまくった瞬間もありました。

と言いつつ、太田裕美も好きだしという、ファンとしては難しい問題を抱えている曲なのだ。松本隆め!
でも、この曲が名曲なのは紛れようのない事実なのだ。

| | コメント (2)

2008年3月 2日 (日)

ご当地ソング「沼津ひものの歌」

地元、沼津の沼津魚仲買商共同組合が全面協賛で作られたご当地ソング「沼津ひものの歌」。
なんかフツーにポップな感じで(ちょいと80年代っぽい古さもいい味)、1回聞いただけで口ずさんでしまいます。
あ、なたの為にアジのひものを〜♪


実際に面倒くさい事を言えば、「御当地ソング」の「御当地」というのは、よそ者がその土地の事を指して言う尊敬語なので、地元歌手が歌うのは間違いなんですけどね。
本当に面倒くさいヤツだな、俺。
この曲に関しては、大いに配布してくださいとの事なので、ここに載っけても大丈夫。

| | コメント (0)

2008年2月24日 (日)

小野満・ダン池田、二人のビッグバンドマスター死去

ダン池田氏(72)が昨年末、2007年12月25日に亡くなっていた事が報道された。
そういえば今年は新年早々、2008年1月2日に小野満氏(78)の訃報もあった。


ダン池田:今だ反省なし
2008022402この二人は自分の世代だと、物心付いた時からテレビの中で演奏をしていたビッグバンドの指揮者で、70年代の紅白歌合戦の演奏でも紅組「ダン池田とニューブリード」、白組「小野満とスィングビーバーズ」として記憶にある。
この二人が10日と開けずに亡くなったというのは、リアルタイムに音を聞いていた世代としては、あの時代もすでに歴史の話になっていくんだなぁという感じがしちゃうのだ。

ダン池田の方は他にも「夜のヒットスタジオ」、小野満の方はNHK系の音楽番組でスィングビーバーズ&NHK管弦楽団などで見かけていた。
ダン池田の方はビッグバンドのみだったので、音は派手だったので昔ながらの歌謡曲の演奏は良かったのだがちょっと繊細さに欠けていた。しかし小野満の方はスィングビーバーズに加えてNHK管弦楽団が一緒にやる事が多かったので、ちょいと繊細な感じで好きだった。

小野満:資料が少なくて似てるか不明
2008022401小野満は先日もブログで書いた三木鶏郎のバンド出身で、1953年にジョージ川口、中村八大、松本英彦でビッグフォーを結成している。ビッグフォーは音源をちょっと聞いた事がある程度で、リアルタイムじゃないけれど戦後日本のジャズブームを築いた1人という事で認識している。スィングビーバーズは1960年に結成したビッグバンド。

あと「美空ひばりの初恋の人」って事でも騒がれた事もあるんだけど、1989年に美空ひばりが亡くなった際に思い出話を語り「世間が許してくれなかったんですよ」と告白している。
そして美空ひばりの死後、理由は明かさないが音楽活動をほとんど辞め、それまで付き合いがあったビッグバンドやジャズ仲間とは一切交友まで断っていたとされている。
美空ひばりのCDで「Jazz And Standard Complete Collection 1955-1966」というコンピレーション物があるんですが、このアルバムを聴くと美空ひばりの才能の深さに改めて感服しちゃうワケです。
個人的には演歌っぽい曲を歌う美空ひばりが好きじゃないので、この時点で小野満と上手くいって「ジャズシンガー美空ひばり」という路線を邁進してくれていれば、どんな素晴らしい曲を作っていったか……と勝手に思ってしまうのだ。

ダン池田に関しては、自分が音楽にどっぷりハマり始めた1970年代にフジテレビの音楽がらみの番組には必ずといっていい程登場して、「夜のヒットスタジオ」「オールスター家族対抗歌合戦」さらに大磯ロングビーチでの「オールスター水泳大会」などでやたらと見かけるようになったけれど音楽的な印象はさほど残っていない。
楽器演奏の印象もないので「いったいこの人は音楽的な部分はどうだったんだろう?」という感じでもあるんだけど、ダン池田が表舞台から消えるキッカケになった暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』の印象しか残っていないや。

1990年代に「あの人は今!」という事で埼玉あたりでカラオケスナックを経営して、近所のおじちゃんおばちゃんを集めてカラオケ教室をやっているのが放送されていた。
本当にこの人に関しては「音楽家として何が出来た人なんだろ?」というのが当時も今も疑問としてついて回っている。

1980年代、YMOの成功以降、シンセサイザーの発達で歌謡曲の音がかなり変化していった。
夜のヒットスタジオを見ていても自前のバックバンドをもっている歌手などは音的に問題なかったけれど(アイドルもバンドを従えるのがブームだった)、ダン池田とニューブリードが演奏する場合、ちょっとアレンジも古めに感じる事が多くなっていった。
たとえば榊原郁恵のテクノ歌謡「ROBBOT」をビッグバンドが演奏した時に「それはテクノ歌謡じゃない!」と憤慨した事もある。この曲は筒美京平がテクノを意識したメロディを作り、それに合わせて船山基紀がアナログテクノな編曲をした、YMOが絡んでいない職業作家によるテクノ歌謡の名作なのだ。

1985年に夜のヒットスタジオが月曜の1時間番組から、水曜日の2時間番組に変わった時に、ニューブリードのマスターからダン池田が降りて、三原綱木(元ブルーコメッツ→つなき&みどりを経て)に変わった。その時に、大々的にバンド変成が変わり、シンセ系キーボードも大々的にフューチャーされたと記憶している。
そう言う意味では、アナログ時代の古いタイプの音楽家で、時代の変化について行けなかったのかなぁと思ってしまう(Wikipediaなどでは体調不良&金銭面を理由に降板したような事が書かれているが)

暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』をつい先日、死去したとは知らずに「何かの参考資料になるかな?」として古本で購入したけれど、パラパラ読むと暴露というより時代について行けなくなったオジサンが「最近の若い奴は」と愚痴っている部分が変に目立っているだけの本だった。
ある意味、無責任な戯れ言をまき散らすブログを書籍化しただけのような内容で、読後感は「この人、良くも悪くも自分が基準だと思っているんだろうなぁ」という感じだった。

ネット検索すると、ダン池田の死去が公表される2月21日直前まで暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』は500円ぐらいが相場だったのが、22日ネットで最高値30万円を付けたらしい。
現在もヤフオクには4000円台で大量に出て、しかも入札も入ってます。最も高いのは2万2000円で入札22人。
自分は今年1月に1と2をBookoffで各105円で購入したんですが...。そんなに高い値段だして読む価値ないぞ。
ちなみに、この暴露本を出した「はまの出版」は凄いジャストなタイミングで今年1月25日に自己破産申告をして倒産している(ここにも出版不況が!)。

| | コメント (4)

2008年2月 3日 (日)

マイケル・ジャクソン「スリラー」

2008020301先日、偶然見た「スマステーション」で80年代の洋楽特集をしていた。
そこでカールスモーキー石井が当時の音楽の解説をしていたんだけど「何も解説になってないじゃん」と思ってしまった。
もっと面白いネタはあるだろう!!!!と、当時バリバリに音楽の人だった私は思ってしまったワケでやんす。


最終的にマイケル・ジャクソンの「スリラー」が80年代を代表する洋楽と言うことで終わった。
確かに売上げと、時代のキーワード「MTV」という事では、この曲が1位ってのは当然なんだろうなぁ。
この「スリラー」とにかくミュージックビデオが大ヒットした。
しかしビデオクリップは、曲が始まる前の映画館のシーン、帰り道のシーンまでが長く、そしてやっと曲が始まるのだ。
全部流すと14分とか結構長かったんだけど、当時の深夜番組では「今日はマイケルのスリラーを全部流しますよ!」とかオープニングから煽っていたように、全部かける!というのが番組の目玉になったりしてました。
レコードショップでもこのビデオを店頭で1日中流していて、多くの人が立ち止まって食い入るように見てました。

で、そのクリップを作ったのが映画監督ジョン・ランディス、特殊メイクがリック・ベイカー。
このミュージックビデオは「マイケル・ジャクソン」という天才的アーティストがいたから出来たワケですが、それ以前に監督のジョン・ランディスは「ブルース・ブラザース」という全編ミュージックビデオみたいな映画を作っているので面白くなるのは当たり前の話なのだ。
と言いつつ、マイケルがジョン・ランディスにビデオクリップ制作を依頼したのは「ブルースブラザース」を見たからではなく「狼男アメリカン(1982)」という映画を見たから。
その関係もあって「スリラー」の特殊メイクは「狼男アメリカン」で特殊メイクを担当しアカデミー賞を受賞したリック・ベイカーが担当している。(他にもムチャ凄い作品を担当してますが)
この作品が80年代のMTVを中心としたミュージックビデオのブームを作り上げたと言っても過言ないのですが、その始まりが頂点で、結局そこを超えるビデオは無かった。

当時「俺たちひょうきん族」の中でウガンダ・トラがマイケルをパロディにしてスリラーを踊っており、最後にオバケの総元締めとして西川のりおのオバQが登場するという物があったが、他には竹中直人が出した「レスラー」という曲もありました。(もちろんビデオクリップも実にほほえましい感じで制作されました)

で、当時ビデオクリップのパロディといえば、アル・ヤンコビック("Weird Al" Yankovic)という人がいて、「スリラー」は作らなかったが、マイケルの「ビートイット」のパロディ「イートイット」というヤツがありました。
元曲の「Beat It」は意味的には「逃げろ!」とか「失せろ!」とかの意味(直訳すると叩けみたいな感じですが、熟語的には「とっとと失せろ」みたいな命令的な言葉になる)ですが、アルの方は「Eat It」喰え!という事で、ビデオをそっくりなパロディ作品として仕上げている。

この時、マイケルはそのソックリ具合に拍手喝采だったワケですが、続編としてマイケルの「Bad」のパロディ作品で「Fat」を作った時、前作「Eat It」で食い続けた結果「Fat(デブ)」になったマイケルを演じたために激怒したと言われている。
で、その「Fat」を見た時に「これってマイケルのパロディというより、ウガンダのマイケルのパロディじゃん」と思ったワケでありますな。

その後もアル・ヤンコビックは大量のパロディソングとビデオクリップを制作しているワケですが、残念な事には日本では「そう言えば80年代初頭にそんな人いたねぇ」状態。
でも本国アメリカでは2006年にアルバムがビルボード10位を記録しているし、シングルも10位以内に入っているほどの大人気を維持し続けている。
しかも真似されるアーティストは大歓迎らしい。

でも今はYouTubeがあるので、それらを見ることが出来るのでしやわせなのでやんす。
(ってマイケルの話じゃなくなってしまったのだ)
ただ、字幕がないので本当の面白さは理解仕切れないけど、画像だけでも楽しいっす。
「UHF」とにかく色々なビデオクリップや映画のパロディ満載。Talking HeadsやZZ Topなんて懐かしい所もやっているけれど、個人的にはチラっと出てくる武闘派のガンジーが壷でした。
「UHF Rampo」ビデオクリップではなく映画ランボーのパロディ、くだらなさすぎ。
ザ・プレジデンツ・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカの「Lump」を「Gump」にしてフォレストガンプにしているのも良いッス。
「Saga Begins」ではスターウォーズのパロディ。
マドンナの「Like A Virgin」→「Like A Surgeon(外科医のように)」
ジェームス・ブラウンの「Living In America」→「Living With A Hernia(ヘルニアで暮らそう)」
とか… きりがない。

この文章を書き始めたついでに、アル・ヤンコビックのクリップを見始めて、延々と時間が経ってしまった。
※「Yankovic」で検索、「UHF」の場合は「Yankovic UHF」などで検索。

| | コメント (1)

2008年1月20日 (日)

宇沙美ゆかり「風のプリマドンナ」Vマドンナ大作戦

20080120a「えっと、あれ何だっけ?」と、そんなに特殊な事でもないのに思い出せない事がある。
昔好きだった曲のタイトルとか、忘れようがないハズなのに思い出せない。
そんな時はなんかずーっと頭の中にそれが引っかかって、嫌な感じで生活する事になる。
好きだった物自体を忘れてしまうほど忘れっぽくなってしまっているのに、その「忘れて思い出せない」という事が忘れられずに、数日間グジグジと思い出せない事を頭の中で反芻する。


で、さっき普通に文章を入力していた時に、昨年末に「あ・・・あのアイドルなんて言ったっけ?」と思い出せずにグジグジしていた名前を思い出した。
何かキッカケというワケでもない。それに関連した物を読んでいたとか書いていたというワケでもない。なぜかいきなりポツンと思い出したのだ。

20080120bその思い出せなかったアイドルは「宇沙美ゆかり」。
ほぉら、誰も反応できないレベルに知られていないアイドルでしょ。世間一般では「忘れた」以前に「知らなかった」という感じかもしれない。
で、困った事に今度は「その宇沙美ゆかりの名前を思い出すキッカケになったのは何の話題だったんだ?」という事を思い出せないのだ。
う〜ぬ。

という事で連想ゲームをして「たぶんこんな事だよな」と記憶を引きずり出した。
たぶん西部劇「荒野の七人」の原作は黒澤明の「七人の侍」という話から、日本でも「七人の侍」をモチーフにした映画があるよ、という事で80年代のアイドル映画「Vマドンナ大戦争」の話題が出て、えっと主役だったのは… という感じだったんじゃないかと。
その宇沙美ゆかりという今ではすっかり忘れ去られたアイドルが主役を張った映画。
内容は不良の吹きだまりとなっている高校で、生徒会長に雇われた7人の女子高生が番長連合と闘うという話。安易と言えば安易。

20080120c実はこの映画、1985年の作品でして、ほぼ同時期に斉藤由貴版「スケバン刑事」(1985年04月11日〜1985年10月31日)が放送されているんですが、スケバン刑事の主役第一候補が宇沙美ゆかりだったという話もある。
その主役選考をしている時、ほぼ同時期に「Vマドンナ大作戦」の企画も上がっていて、事務所的にはどうなるか解らないTVドラマより映画を選んだらしい。
当時は角川映画の全盛期で、薬師丸ひろ子を始めとした原田知世・渡辺典子で角川三姉妹が歌でもヒットを飛ばしていて「映画からアイドルが出る」という流れもあり、TVサイズのアイドルよりスケール感があるという感じだったのかも知れない。
でも明らかに選択ミスだったのだ。

20080120dそして、何よりこの映画が素晴らしいのがラストが夢オチだという事。ふっと目が覚めるとそれまでの話は全部夢だった…。そして気が付くと、その夢の中でリーダーだった女子高生(これが宇沙美ゆかり)が転校してくる。という、古いタイプの同人誌漫画にありそうな話。
そしてこの映画の脚本は第9回城戸賞入選作品で野沢尚が書いているというのも素晴らしい。(夢オチというのは映画化の時に付け加えられた物という噂もある)

宇沙美ゆかりは、映画ではあだち充原作の「みゆき」で三田寛子と共演して妹のほうのみゆきを演じ(監督はなんと井筒和幸)、月曜ドラマランドで柳沢きみお原作の「あ、MYみかん」の主役などもしていたし、歌も普通レベルに上手だった(逆に言うとクセがない)し、デビュー曲「蒼い多感期」はカネボウのCM曲だったりと、事務所も結構プッシュしていたハズなのにあまり売れずに芸能界を引退。

20080120e沖縄に帰って、お姉さんたちと喫茶店を経営していたとか、その後「ぶすっこくらぶ」というキャバクラを経営していたとか、なかなか実業家的に展開していたそうです(バブルでキャバクラは潰れたらしいですが)。いまは普通に主婦でもやっているんですかね。

というワケで、宇沙美ゆかりの事をぼーっと思い出している内に、今日本来書こうと思っていた事が何なのか忘れてしまったのだ。

宇沙美ゆかり Single
1984年03月21日:蒼い多感期
1984年06月21日:SHOCK!
1984年09月05日:ツライ・キライ・クライMAX
1984年11月21日:アルカリ少年-boy-
1985年06月05日:風のプリマドンナ
1985年10月05日:恋はDancing

| | コメント (1)

2007年12月24日 (月)

ビング・クロスビー「ホワイト・クリスマス」の謎

クリスマス時期になると否が応でもシャンシャンシャンという鈴の音と共にクリスマスソングってやつを耳から流し込まれる。
テレビを付けても、ラジオを付けても、街中を歩いていても、俺は仏教徒だぞ!と叫んでみてもクリスマスソングを流し込まれてしまう。
うっせぇ!と思いつつ、気が付いたらそのメロディに合わせて「さんたくろーうずかみんほー♪」などとくちずさんでいる自分がいるワケですが。


2007122401てなワケで、10年前の雑学で「世界で一番売れたシングル盤は、ビング・クロスビーが歌う「ホワイト・クリスマス」です」というのがあった。
1942年に発売されてから、毎年クリスマスシーズンになると売れるので50年かけて売上げを累積して凄い事になったのだ。

てな物があったんですが、その記録は1997年にイギリスでダイアナ妃が亡くなった際、その告別式でエルトン・ジョンが歌った「キャンドル・イン・ザ・ウインド」がヒステリー状態かと思えるような世界を巻き込んだ熱狂的なブームの中で売れ、たった1ヶ月で世界一売れたシングル盤となってしまい、ビングクロスビーが頑張った50年って何ンだったの?て感じだった。
とりあえず2001年版のギネスブックなんかにも「1997年10月20日の時点で22カ国でNo.1になり、3300万枚売れて最高の売上げシングルとなった」みたいな事が書かれている。

2007122407が、ネットを見ると「世界最高の売上げシングルはビング・クロスビー「ホワイトクリスマス」である」という記述をあちこちで見る事が出来る。
あぁこれは古い記録なんだな、と思ってみるのだが、そこには売上げ枚数「5000万枚」などと書かれている。うぬ、この10年でビング・クロスビーは2000万枚以上売上げを上乗せしたか?とも考えたんだけどそれもないよなぁ
おそらく、これはシングルって事じゃなく、色々なクリスマスソングのコンピレーションアルバムなんかに収録された数を含めた数字じゃないかと思うのだ。(あくまでも推測)なんせ、自分にとってビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」って曲はシングル盤ではなくアルバム収録された物しか見たことがないから。

2007122402という事で、この曲に関しての雑学は
☆「ホワイト・クリスマス」の作者アーヴィング・バーリンは真珠湾攻撃で身内が亡くなったため同曲は彼の遺言で日本語に訳す事が禁止されている。
という物がある。
とりあえずそうなっているんだけど、これまで何回か日本語詩が付けられた物が発売されている。なんと美川憲一とか、なぜかサンダー杉山とか…、どうやら山下達郎が詩を書いたバージョンもあるらしく、森岡純・鮫島有美子が歌っている版があるらしい。

2007122403うぬぬ、と思ってしまうんだけど、とりあえず遺言の話は本当らしく生前から「日本語で歌うな!」と言っていたそうです。
でも美川憲一版なんかは1992年に発売されているんですが、作者バーリンは1989年に101歳で亡くなっています。
どうも、作者の死後、その意見を無視して日本語版が作られているみたいです。生前はウルサイので禁止→死んだ後は遺言でなんか言ってるけどそこまで法的に縛られるワケでもないので作っちゃおうぜ!って感じなんでしょうかね?

2007122404ちなみに「ホワイト・クリスマス」という曲、そんな風に第二次世界大戦の真珠湾と関連づけられる事に関し「クリスマスソングをそんなきな臭い話と繋げるなよ」と思っちゃう人もいるかもしれませんが、この曲はもともと戦争絡みで作られたクリスマスソング。
歌詞の中に出てくるように「♪I'm dreaming of a white Christmas」てな事で「いつか見たホワイトクリスマスを今、思いだしているんだ」という内容で、その後は延々と雪の中での風景が歌われてる。
これ、実は第二次世界大戦で南洋に出かけた兵士達が、クリスマスシーズンに子供の頃のクリスマスに思いを馳せているという設定で書かれた詩らしい。それもあって、真珠湾の話が絡んでくるのだ。

2007122405で、今回この曲に関して「え?」という話を読んでしまった。
Bookoffで100円本として購入した「笑撃の雑学クイズ(永岡書店)ランダムプレス/1992年刊」を風呂に入りながら読んでいた。この手のゆるそうな本は風呂でぼーっと読むのがいいのだ。
で、そこに聞いたこともない話が書いてあった。要約するとこんな感じ
P54「ビングクロスビーの超ミリオンセラー「ホワイトクリスマス」に関して、彼は1セントも印税を受け取っていない、それはなぜか?」という物だった。
その答えは「この曲は宗教曲なのでゴスペルソング扱いとなっていて、レコード会社は無税だったが、歌唱印税もゼロでレコードがいくら売れてもビングクロスビーにはお金が1セントも入らなかった」と書かれているのだ。
うむむ、こりゃ聞いたこと無いぞ!

2007122406長年、アマチュアだといえ雑学を追及してくると、どのネタを聞いても何かしら「あぁどっかで聞いたことある…」となるのだが、これはまったく聞いたこと無かった。
そんでもって「それ全然聞いたことない雑学」ってのは、かつても「ぐっすり」や「B玉」でも書いたけど、調べてみると「やはりガセだった」という状態が多いのだ。
こりゃ怪しいと思い、調べてみる事にした。

といっても、その時が夜だったり、この先1週間以上図書館に行っている余裕もないので、ネットだけの調べ物になってしまうのだが、とりあず「ホワイトクリスマス/無税」とか「ゴスペル」ろか「宗教曲」とか色々なキーワードで検索し続ける。
どうもそんな事を書いている日本語サイトも見あたらないので、英語サイトも調べてみる。英語が堪能ではないので翻訳サイトの手を借りたりするのだが、どうにもこうにも見つからない。

2007122408日本での一番売れたシングルに関して「泳げたいやきくんは子供の情操教育のための童謡扱いなので、レコード会社はいくら売れても無税だった」という雑学はあるけれど、童謡の歌唱印税が無いなんて話も聞いた事はない。
たいやきくんを歌った子門真人、そしてB面を歌ったなぎら健壱に関しては「録音買い取りだったので、バイト代的な5万円を受け取っただけ」みたいな話はあるけど、あれは売れなかった時は歌唱印税が微々たる物なので、とりあえず確実に貰える買い取りという契約をした。となっている。
本当はどうなのだ?

2007122409ちなみにこの「笑撃の雑学クイズ」の中に掲載されている問題にかなり怪しい物があって、ある有名人のエピソードを紹介しておいて、ラストに「この逸話は○○○氏の話だとも言われている」とか、「でも、この話、作り話くさいネ」とか、エピソードクイズなのに答えの後に「このエピソードはどうやらジョークだったらしい」と架空の話だったと書いてあったり、なんか信憑性が薄い物がかなり含まれている。

とりあえず「ビング・クロスビーは名曲『ホワイトクリスマス』の歌唱印税を1セントも貰っていない」という話は危ないので使わないほうがいい、って事なのだ。


| | コメント (0)

2007年12月12日 (水)

丸山明宏(現.美輪明宏)「ヨイトマケの唄」

2007121201ヨイトマケの唄/丸山明宏(現.美輪明宏)
作詞.作曲.丸山明宏/編曲.川上英一
1965年:King BS-261


ラジオ「らぶらじ」で以前「ヨイトマケの唄」を話題に出したことがある。
もともと1965年、美輪明宏が作詞作曲して作った曲で、自分的には子供の頃にクレイジーキャッツのコント「かぁちゃんのためならエ〜ンヤコ〜ラ、とぉちゃんのためならエ〜ンヤコ〜ラ♪」の部分が記憶にあるワケですが、70年代からつい最近まで一般的に「放送禁止」とされていた。
というのも、曲の内容が「土木従事者をしている人をバカにしている」みたいな事から来ているワケですが、最近になって「親の仕事に引け目を感じていた少年が、振り返ってみて親に感謝している歌」という事で差別の意識はないとテレビなどで歌う事が大丈夫になったワケです。

で、この曲のタイトルに出てくる「ヨイトマケ」ですが、これは、建築現場なんかの地固めのため、数人が人力で重い槌(つち)を滑車で「いっせえのせ!」で持ち上げて、ドンッと落とす作業を繰り返すワケですが、その時の掛け声が「ヨイッと巻け」だったので、その行為を「ヨイトマケ」と呼ぶようになったそうです。
ついでに言うと「土方」という言葉は、昔から職人をその仕事内容から「〜方」と呼んでいた物の一つで「土を扱う」ので「土の方」で「土方」、同じように大工さんは「建てる方」で「建方:たてかた」と呼んでいました。

この差別用語に関して、緩くなったり、きつくなったり、文章で生計を立てようなんて考えている身にとっては激しく難しい問題。
いわゆる差別何て物は、言葉の中には存在していないで、人間の心の中にあるのだ。
自分が子供の頃は、差別的な言葉だけど、生活の中にちゃんとそれも根付いていた状態で、メクラ、ツンボ、オシなどなどの言葉が生きていた。
それがいつしか、障害を持っている人への配慮という理由で「使っちゃ駄目な言葉」となっていった。
その代わりに「身障者」という言葉が登場して、それぞれを「目の不自由な人」とか呼ぶようになっていった。いつ頃だったのか…、おそらく80年代前半ぐらいか。

83年頃に自分が書いた文章で、テレビの再放送における自主規制について触れている物がある。
とある早朝、5時頃ぼーっとテレビを付けたら「ウルトラマンエース」の再放送をやっていた。ウルトラマンに関しては小学校4年ぐらいの時に「帰ってきたウルトラマン」を見た時に「こりゃ子供向けだ」と思って、それ以降のシリーズを見ていないので、このシリーズはまったく見た記憶がない。
という話から始まっていて、その話では鳩をテーマにした怪獣が登場しているのだが、まずTACという地球防衛だかのチームが無人飛行船が自動的に本部へ帰ってくる装置のために、少年が飼っていた鳩を実験に使って帰巣本能の実験をしている。
その鳩を異次元から出現した敵が捕らえ「この鳩を利用すれば、ヤツらの基地が直ぐ解る」などと言いだし、それを鳩の怪獣に変身させる。
いやいや、異次元から登場したり、鳩をどでかい怪獣に変身させる能力あれば、基地ぐらい簡単に捜し出せるだろ!
などと当時の自分が突っ込みを入れているのだが、問題は鳩好き少年の母親がいきなり「まったくこの子は鳩キチガイなんだから!」と言い出すシーンがそのまま放送されていた。
と言うことに自分がビックリしている事を書いてあるのだ。

つまり1983年の段階で、世間的には「キチガイって言葉使っちゃダメだよ」というのが自分の中で定着していたという事なのだ。
確かに、バブル前の80年代後半は、その辺の放送禁止用語的なネタを「ピー」というのが流行っていたような気もするし、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのゲストが「もう釣りキチガイなんで」みたいな事を口走り、その瞬間タモリが「大変素晴らしい放送禁止用語ありがとうございます」などと笑いにしていた。
まだ、テレビ出演者も微妙にその辺の言葉の切り替えがなされていなかったのかも知れない。

でも基本的に「テレビなどの媒体で使っちゃいけない言葉」という自主規制だったハズなのにいつの間にか、どの状態でも使ってはいけない言葉扱いになっているのが、どうなんだろうなぁという感じではあるのだ。
ネットで以前見た物は、とある掲示板(若干年齢層が低い掲示板)の書き込みで「メクラで」という言葉があった瞬間、複数のレスで「それ使っちゃいけない言葉」「放送禁止!」とかの書き込みが集中した。
確かにテレビ的にはそうなんだろうけれど、日常的に使っちゃいけない言葉としてこの辺の年齢だと生まれた頃から「放送禁止で使っちゃいけない言葉」としてハッキリあったんだろうなぁ
自分の子供の頃は「使っちゃいけない言葉」なんてのは全然意識していなかったので、放送禁止用語なんて存在しなかったと思う。

で、実際の事を言うとメクラ、ツンボ、オシなどの言葉を使っちゃいけない理由があまり理解出来ない。
きっと世間的には「実際にそう言う人々が言われたら嫌な思いをするでしょ」という部分なんだと思うけれど、それはどうなんだろうと思う。
その80年代初期に、身体的に不自由な人を「身障者」と呼ぶというルール的な言葉が誕生した時に、実は、その反対語で「健常者」という単語も誕生している。こっちの方が差別的じゃないか?
でもって、身障者という言葉が誕生してから20年ほど経った時「身障者という言葉は差別用語です」と言い出す団体が登場して別の言い方が誕生したり…、でも別の言葉が使われるようになった所でその言葉は時代を経ていつしか差別用語になってしまうんだろうね。
差別は無くならないから。オブラートにくるまれたとしても、その言葉が指す対象を「差別的な物」と思っている間は。

その身体的な不自由な人に対しての差別はどう頑張っても無くならないと思う。善意だろうと悪意だろうと区別しようとする気持ちは存在するから。
でもって、80年代初頭の言葉の差し替え期に、言葉狩りのような部分で自分が違和感を憶えたのが「俺、その言葉を悪意ある差別で使っていたかな?」という部分なのだ。
実際、自分の小学校の頃は同じ学校の中に特殊学級という名でいわゆる知恵遅れと呼ばれる子たちのクラスが存在していた。クラス分けをされてはいたけど、普通に一緒に遊んでいたし、一緒に帰ったし、その家に遊びにも行った事もある。
その知恵が遅れているという部分も、その子の個性だと思っていたので。
江戸なんかの文献を読んでいても、メクラ、ツンボ、オシと呼ばれる人も普通に生活にとけ込んでいて一緒に生活している。本当にそれが個性だともで言うように。

差別だ、差別だ、と言葉狩りに終始する人ってのは、実際は自分の中に差別の気持ちが大きくあるんじゃないか?と思ってしまうのだ。
差別用語って何?と、言葉が好きな自分は何度も何度も考えてしまう。
きっとこの件は永遠に考え方の個人差の中で解決がなされないんじゃないかと思うけど。

雑学的話題
体を鍛えるための「ダンベル」を漢字で表現すると『唖鈴:あれい』。アレイと書くと英語っぽいけれど日本語なのだ。でもって、現在は「亜鈴」と漢字で書くことになっている。
実は「唖鈴」の『唖』は口がきけない事を意味する「オシ」の事で、この漢字表記は英語の直訳。
実はダンベルというのは、筋トレ用品ではなく教会で鐘を鳴らす人の訓練用に作られた音の鳴らない鈴。つまり「dumb=おし(音が鳴らない)」+「bell=ベル(鈴)」なのだ。その直訳だから、元々「唖鈴」。
でもって、現時点では「唖」という漢字がアレなので使わない方向で「亜鈴」となっている。
そうか、そこまで考えるのかぁ。

| | コメント (3)

2007年10月16日 (火)

FAIRCHILD「おまかせピタゴラス」

FAIRCHILD/おまかせピタゴラス
作詞:YOU.蓮田ひろか/作曲:戸田誠司


03fairchild現在テレビで、やさぐれた発言を繰り返すタレントのYOUさんは元々アイドル歌手「江原由希子(本名)」として1985年にデビューし、1988年に「FAIRCHILD」として再デビューした。
FAIRCHILDのデビュー曲は「おまかせピタゴラス」ですが、この曲は『さんまのまんま』のエンディング曲にも使われていた。
でもって、正しく言えば番組で使われ始めた当初はグループ名は「FAIRCHILD」ではなく「Shi-Shonen」名義でした。
この「Shi-Shonen」ってグループも元々知っていたんだけど、番組でクレジットとして「Shi-Shonen」と出た時に「え?ボーカル変わった?こんなグループになっちゃったんだ」と思った記憶がある。

「Shi-Shonen」とは戸田誠司がリーダーだったバンドで、福原まり・渡辺等・友田真吾との4人組で、さらにこのメンバーが美尾洋乃・矢口博康と6人組になると「リアルフィッシュ」と名乗っていました。
世間的には「リアルフィッシュ」の方が有名だったかな?(有名と言ってもマニアな人の間だけですが)
で、「Shi-Shonen」の末期、メンバーがガシガシ入れ替わった末、ボーカルにYOUを迎えている。と言ってもYOUボーカル名義では曲はたぶん発表していない。
最末期のメンバーはおそらくYOU、戸田誠司、福原まり、塚田嗣人の4人。

01fairchildで、「おまかせピタゴラス」が『さんまのまんま』で使われ始めた当時、YOUはタレントとして三宅裕司と共にTBSの深夜番組『土曜深夜族』の司会を務めていて、いわゆる「不思議ちゃん」的ポジションにいた。
その番組中に「今度、フェアチャイルドってグループでCD出しま〜す」と宣言していた。
それに前後して『さんまのまんま』でのクレジットが「FAIRCHILD」に変わった。

土曜深夜族という番組は好評だったハズなのに、平成に変わったばかりの1989年2月4日という中途半端な時期にいきなり終了した。そのいきなり具合は、この番組で結成されたアイドルグループ「エンジェルス」がアルバムを発表して初のライブを行ったのが、番組終了してから1ヶ月後。本来は番組でバックアップして盛り上げる企画が立っていたのもすべて有耶無耶になってしまった。
そしていきなり始まった番組が「平成TV・イカすバンド天国」

02fairchildで、「FAIRCHILD」でデビュー曲「おまかせピタゴラス」に話を戻しますが、この曲を聞いていくと「なぜピタゴラス?」と思ってしまうほど、まったくタイトルに歌詞が触れていない。
★goo音楽での「おまかせピタゴラス」の歌詞

実は『さんまのまんま』で使われていた時の歌詞は記憶では違うワケで、そのまんま「おまかせピタゴラス♪」という歌詞もあった。現在の詞では「笑顔でいられない♪」の部分。
そんなこんなで、その当時の事情を知らないで聞くと「なぜピタゴラス?」となってしまうワケです。(セーラー服と機関銃というタイトルの曲よりマシですが)

あの当時は自由奔放なカワイ子チャンだったのになぁ
と今現在のYOUを見ながら思ったりするワケであります。
ちなみにYOUがよく言う「FAIRCHILDが解散したのはギターの人(川口浩和)がキーボードの人(戸田誠司)を殴ったことで」というのはネタで、実際には音楽的な手詰まりだったみたいです。

| | コメント (1)

2007年8月22日 (水)

風吹ジュン「愛がはじまる時」

000hubuki01ちょいと歌謡曲系の調べモノをしていて、全文検索でとある掲示板に迷いこんだ。
そこは歌謡曲について語っている掲示板だったんだけど、そこで語られている歌手の名前を見る限り自分より一回り年齢が上という感じの、ネットでは珍しい感じの場所だった(若いけれど60年代歌謡が異常に好きというジャンルの人々もいますが)。
でも、そこの掲示板を見ていて「う〜ん、なんか認識が違うなぁ」と思ってしまう事も多々。


000hubuki02話の中心として「昔はアイドル歌手と言えども下手な人はデビュー出来なかった」「今は見栄えさえよければ歌唱力なんてどうでもいいみたいだ」的な話題が中心になっていた。(同じ方向の人が集まっているので、議論にならずに「そうだそうだ」で終わっていた)
それは確かに世間の論調としてはよく耳にするモノですが、ハッキリ言ってそれは幻想というか、過ぎてしまえばすべて美化 みたいな感じですよ。
70年代のアイドル歌手と現在のアイドル歌手を比べるというのは簡単には出来ない部分がある。というのも70年代の歌謡曲って譜割りが単純で音程を追いやすいモノが多く、今みたいに細かく複雑なメロディはあんまり無かったという部分なんかもある。

000hubuki03で、歌手としての能力的に言うと、圧倒的に今の方が歌い慣れているという部分があるような気がする。それはあくまでもカラオケ歌唱レベルの話ではありますが。
で、70年代は下手な歌手がいなかったか?といえば、代表格に浅田美代子なんて人もいたし、今やアイドル歌手をやっていたイメージなんか無くなった風吹ジュンとか、他に栗田ひろみとか、ミミ(萩原)とか、松本ちえ子とか、大場久美子とか、能瀬慶子とか、ボロボロ出てきますがな。

000hubuki04この手の、世代間の相違ってのはどーしょーもない部分が大きくて、80年代に青春を過ごした人々が「最近のアイドルってなんかみんな同じに見えるよな」的な事を言っているのに対して、今の中高生が「80年代のアイドルってみんな同じ髪型してて(いわゆる聖子ちゃんカットを基準とした髪型)みんな同じに見える」と言っている。
つまり、自分の世代的認識以外は理解しがたいってのは当たり前の話なのだ。

90年代に小室系にハマっていた人にとっては、どれも同じと言われていた小室系の曲はどれもこれも独立した個性を持っている曲に聞こえるのだ。
自分なんかは物心付いた時から歌謡曲大好きで(というかオールジャンルの曲が好きなんですが)自分のリアルタイム以前の曲も中学高校時代から遡って聞いていて、今でも(流石に必死にリアルタイムにCDを買いあさる事はしてませんが)それなりに歌謡曲を聴いている。つまり、自分の親ぐらいの世代の歌手から自分の子供ぐらいの世代の歌謡曲までを延々と聴いているので、どれもこれも「時代的だよなぁ」と客観的に聞いているのかもしれない。
ヘタな歌手も「それはそれで個性」と思って聞いている(時には耐えきれないタイプのヘタな人もいるけど)。そして歌手的には音程怪しい・声量無しという歌手でも「表現力」のある人もいる。

でも最近は小手先が上手い人が(カラオケ慣れっすかね)多くて、圧倒的に全ての人に「ヘタだなぁ」と言われるアイドル歌手が少なくなったような気がして寂しいのだ。
吉川ひなの級の破壊力を持ったアイドル歌手って最近は聞かないなぁ。

| | コメント (2)

2007年7月15日 (日)

バグルス「ラジオスターの悲劇」の悲劇

2007071500今ラジオで仕事をしているワケですが、自分が10代の頃が深夜放送を始めとしてラジオ全盛期だったような気がします。
ヒット曲の多くがラジオから生まれた時代だったのですが、80年代になって学生が個人でテレビを持つようになり、より多くのヒット曲はテレビ経由で生まれるようになっていきました。


その傾向は西洋でもそうだったようで、1980年前後に「MTV」が音楽のメインストリートを作るようになっていった。
そんな時代を象徴するような曲が「ラジオスターの悲劇」。
原題は「Video killes the radio star」ラジオの有名人をビデオ(TV)が殺したという歌詞。

2007071504これを歌っていたのはバグルスというグループなんですが、このグループは後に名プロデューサーと呼ばれるトレヴァー・ホーンとジェフリー・ダウンズのユニット。
このバグルスはアルバムを1枚出していますが、実質的には「この1曲のみ」という印象で、世間的には「一発屋」扱いですが、翌年2人はYESに加入してアルバム「ドラマ」を作っております。

さらにYES脱退後ジェフリーさんはかの「エイジア(Aisa)」を結成したり、トレヴァーさんは名プロデューサとして活躍しフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなどもプロデュースしておりました(もっとも近年話題になったのは、途中で帰っちゃった事で悪名高きt.A.T.u)。

2007071501で、この楽曲に関しては悲劇というか、なんか恩恵を受けなかった人もいます。
ブルース・ウーリーという曲の共作者。この人、かなりポップな曲を作るセンスがある人だと思うのですが、プロデュース能力が弱かったのか、なんか売れずに消えたという印象しかありません。

実際、自分のバンド「ザ・カメラ・クラブ」でもラジオスターの悲劇を歌っているのですが、なんか「あの名曲をこうも単純なポップソングにしてしまうかなぁ」という感じ。
ストレートなロックアレンジも悪くはないとは思うんですが、バグルスのアレンジが完璧すぎて比べてしまうと「ちょっとね」という感じになってしまいます。。

2007071503で、ブルースさんのバンド「ザ・カメラ・クラブ」はヒット曲も出せずに早々に解散しちゃうんですが、さらに悲劇というかトホホな感じなのが、このバンドでキーボードを担当していたトム・ドルビーさんが解散直後に「トーマス・ドルビー」名義でソロデビューして、大ヒット曲を何曲も生み出していくわけです。
なんか才能があると思うのに報われない人(特に関わった人がヒットメーカーになっているので)って、何が悪いんだろうか?と思ってしまうワケです。

ア〜ワア〜ワ...って加藤あいが出ている発泡酎ハイのCMに使われているのを聞く度に、ちょっと考えてしまいます。

| | コメント (1)

2007年7月14日 (土)

香坂みゆき「気分をかえて」

Kosaka001香坂みゆき「気分をかえて」
作詞.作曲:山崎ハコ/編曲.大村雅朗
1981年/¥700
polydor/7DX1103


香坂みゆき:1963年2月7日生まれ
今でも時々テレビで姿を見る事があるし、とりあえず清水圭の奥さんという肩書きもある。でもハッキリ言って香坂みゆきに関しては、その存在意義がデビュー当時から今にいたるまでよく解らない。


1977年「愛の芽ばえ」
197701ainomebaeとりあえず同世代の話題の中では「そー言えば、欽ちゃんのドンといってみようのアシスタントで欽ちゃんの横に座っていたよね」という印象は出てくる。でも「番組で何をした?」という疑問符で終わってしまう。
また「ニュアンスしましょっていう資生堂のキャンペーンソング歌っていたよね」という話題も出る時がある。でも「それ以外の曲って覚えている?」という疑問符で終わってしまう。
でもなぜか30年以上に渡って頻繁ではないにしろ香坂みゆきをテレビで見続けているのだ。(実際には3歳の時にモデルデビューしているらしい)


1977年「初恋宣言」
197702hatukoisenngenラジオで「視聴者がネタを書いてくる」というスタイルの番組を本格的に始めたのは、実は萩本欽一で、1972年4月にニッポン放送で「欽ちゃんのドンといってみよう」という番組がスタートしている。
60年代末からコント55号で大ヒットしていた萩本欽一がその活動に限界を感じていて、次の活路として見出したのがラジオだった。あの時代ラジオというのはテレビに人気を奪われていて、すでに「ラジオの時代は終わった」と囁かれていたのだ。


1977年「青春舗道」
197703seisyunihodそんなラジオに対し「テレビより身近に感じるメディア」という方向性を見つけ、お題を与えリスナーから葉書を募集するという方法論を編み出した。
それに中学生から大学生までが飛びつき、毎週のようにネタ葉書を書いてくるようになり、「ハガキ職人」という人種を生み出した。(ハガキ職人という言葉自体はビートたけしのオールナイトニッポン発祥とされる)


1978年「まわれ恋の風車」
197801mawarekoiTV版「欽ドン」で「よい子悪い子普通の子」をやった時に「あれって谷村新司がラジオでやっていた「天才秀才バカ」のマネだぜ」という声もあったが、実際にはラジオ版欽ドンの影響を受け始まった番組が谷村新司の番組だった。
笑福亭鶴光の番組でもヒット曲の一部をオチに流すコーナーがあったが、あれも欽ドンの「レコード大作戦」というコーナーの真似だった(ディレクターが同じだったとも言われる)


1979年「愛なき子」
197901ainakiラジオ版は1979年3月まで続いたが、そのラジオ版を発展させた形で1975年4月からテレビ版「欽ちゃんのドンとやってみよう」が始まっている。
この時、ラジオでも女性アシスタントがいたという事から、テレビ版アシスタントとして香坂みゆきが起用された。まだ13歳だったわけですが、ハッキリ言ってこの番組で香坂みゆきが何か喋ったとか印象が全然無い。
最初の頃は「かわいいなぁ」と思っていたワケですが、途中から子供ながらに彼女の存在意義はいったい何なのだ?と疑問視するようになった。
そして気が付いた時には画面から姿を消していた。というか気が付かないうちに姿を消していた。


1981年「気分をかえて」別ジャケVer.
198101kibunで、まいどの事ですが表題曲にやっと触れますが、この曲を聞くと「なにもここまであからさまなアレンジをしなくても...」という感じで、イントロ当てクイズにこの曲が出てきたら即座にボタンを押して「ブロンディのCall Me!」と叫んでもおかしくない状態になっております。
でも実際の事を言うと、オリジナルの山崎ハコVer.を聞くと全然違う曲なのでどーしてこーなっちゃったんだろうか? と思ってしまう


1982年「レイラ」
198202reilaつまり、これは編曲の大村雅朗のテクなんだろうなぁ って、あまりにもひねりがないアレンジなんですが、なにか会議上で「ロックっぽいアレンジでいこうよ」「じゃ女性のロックって事でブロンディなんかいいんじゃない」「じゃそれでヨロ」みたいなノリだったのかも知れない。


1983年「東京が好き」
198302tokyoあの時代は結構あからさまに「イントロを洋楽のヒット曲から引っ張って来ました」というのが多かった。今はどうか分からないけれど、アレンジに関しては著作権がなく盗作にならない」みたいな見解を聞いた事がある。
香坂みゆきのボーカルも、アレンジに合わせるために頑張ってロックっぽく歌っているんですが、どうにもこうにもミスマッチで痛々しい。


1984年「サヨナラの鐘」
198401sayonaraついでにジャケットが水着写真なんですが、なんというか「この構図でこの表情でこの逆光線の写真でOKなのか?」と心配してしまう写真が使用されている。とりあえず「協力:コンチネンタル航空」となっているので、海外で撮影しているワケですが。
ついでにこの「気分をかえて」には別ジャケットが存在しているんですが、そっちもどうなんですかね?状態。


1984年「ニュアンスしましょ」資生堂CM曲
198402nyuaしかし芸能界って、売れた人が生き残るってワケじゃないのが難しいなあと香坂みゆきがテレビに今でも出ているのを見て考え込んだりするワケです。

| | コメント (0)

2007年6月23日 (土)

南野陽子「話しかけたかった」

Minamino01南野陽子/話しかけたかった
作詞.戸沢暢美/作曲.岸正之/編曲.萩田光雄
1987年04月01日/定価700円
CBSソニー/07SH1900


南野陽子
1967年6月23日・兵庫県生まれ・本日40歳になりました。
1980年代初期、アイドル産業がかなり活発になり、数多くのオーディションで鳴り物入りでデビューする人が多かったワケですが、その中、南野陽子は私立松蔭女子学院高校在学中にスカウトされ芸能界入りをしたので、出だしはそんなに派手な冠がなかった。(一部資料ではCMオーディションにどんな人が来るのか興味本位で参加したところスカウトされたという物もある)

1984年にNTVのドラマ「名門私立女子高校」でデビューし、翌年の誕生日、1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビューを果たしている。
しかし冠が無いという事で、イマイチ注目されない地味なスタートだったためなのか、デビューしばらくしてから講談社の「少年マガジン」の美少女コンテストでマガジンメイトに選出されグラビア露出展開を始める。

1987年5月「ORE」198705nanno
1986年、その効果があり、前年斉藤由貴主演で人気が出た「スケバン刑事」の続編「少女鉄仮面伝説」で主役を演じる事となって、大ブレイクを果たすことになるのだ。
斉藤由貴がミスマガジン出身だったので、スケバン刑事が先に決まっていたという可能性もあります。

ミスマガジンは「少年マガジン」主宰のコンテストで初代は伊藤麻衣子。その時コンテストとは別にもう一人選出されたのが森尾由美で、彼女はマガジンメイトの称号が与えられた。
ミスマガジンは1年間のクィーンなのに対し、マガジンメイトは雑誌の顔として複数年活動することとなる。
第4回(1985年)のミスマガジンは八木沙織で、この時に南野陽子が2代目マガジンメイトに選ばれている。

南野陽子の楽曲は当時のアイドル歌謡がユーロビートの影響で非人間的なビートを強調した楽曲になっていく時代に反発してか、あくまでもソフト路線を貫いていたワケですが、これはサウンドプロデューサー萩田光雄の作り出したコンセプト。
イメージとしては「私立のお嬢様学校に通う引っ込み思案な女子高生」。80年代中期どんどん強くなっていく女性に疲れた野郎どものハートをわしづかみにしたのだ。

1988年08月02日「週刊プレイボーイ」198808nanno1
もっともこのコンセプトも80年代末のバブルに浮かれた時代には徐々に厳しくなっていったのか(南野陽子というキャラも年齢を重ねて「今さら引っ込み思案な女子高生もないだろ」という感じなのか)1989年6月に「トラブルメーカー」という曲で突然「はじけた女の子」というイメージ展開を図ることとなる。
が、客観的に観て「無理してはしゃいでいる」という印象がぬぐえなかった。
いきなりイメージチェンジとして夜のヒットスタジオに出演した彼女は、ショートカットにして、それまでのオーソドックスなファッションから一変した。
蛍光色の服に小道具を付けて歌っていた彼女を観て「いたたた」と思ってしまったのも事実。


1988年08月「BOMB」198808nanno2
この1989年は日本の音楽界が、アイドル歌謡からバンドブームへ移行していた時代で(レコードの売り上げがCDに抜かれた年でもある)、さらにザ・ベストテンの終了もあって、南野陽子のアイドル仕事は1991年にリリースした「夏のおバカさん」という曲で終了する。
80年代末から、90年末にモーニング娘。がブレイクするまでの10年間は「アイドル冬の時代」と呼ばれる時代だったのだ。

ちなみにヒット曲「話しかけたかった」はモンキーズの「デイドリームビリーバー」によく似ていると言われていましたが、そのモンキーズの曲自体ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」に似ているでやんす。
と言いつつ、好きな曲なんですけどね。

1989年02月「ORE」198902nanno
南野陽子はマガジン別冊の「ORE」というグラビア系雑誌によく出ていたけれど、そこで後輩の小沢なつきとの対談があった時「なつきちゃんて凄くかわいいよね。私とよく似ている」と、おいおいオマエは思いっきり自分がかわいいと思っているんじゃねえかという発言をしていた。

その後、小沢なつきは1989年、17歳の時「魔法少女ちゅうかなぱいぱい」の主演最中にマネージャーと駆け落ちをして1年予定の番組が半年で終了(後番組は急遽主役に抜擢された島崎和歌子の「魔法少女ちゅうかないぱねま!」)それから10年後に離婚し芸能界にヌードグラビアで復帰、さらに2004年にAVに転身(1972年生まれなので32歳だったが、なぜか1976年生まれの28歳になっていた)

1989年07月「ORE」198907nanno
そんな波瀾万丈の後輩を横目に南野陽子は40歳になっても、まったく波風を立てずにあの時代と同じスタンスで芸能界にいる。

ちなみに南野陽子は2004年に「芸能生活20周年」という事で大々的に記念してDVD付き写真集を出版した。が、計算したらまだ19周年目だったという事があった。
というのも、年末に放送された「ザベストテン2004」で共演した吉川晃司が同じく20周年を祝っているのを見て「あら、この人がデビューしたとき私まだ素人だったわ・・・?」という疑問を持って調べてみたら真相発覚したという物。

南野陽子がアイドル時代に語っていた将来設計。1990年に結婚、1991年に長女まいこ出産、1993年に長男たつや出産。2040年に73歳で死去。

| | コメント (2)

2007年5月20日 (日)

戸川純「遅咲きガール」

000togawa1戸川純/遅咲きガール
作詞.戸川京子/作曲.小松世周
編曲.岡野ハジメ&小松世周
1985年/¥700
アルファレコード/HYS-701


1980年代をある意味象徴するパフォーマー戸川純。
あの時代は、日本人が自分の身の丈を忘れ狂乱したバブルへ突入するためのカタルシスな助走だったのかもしれない。今になった段階でやっと言えることなんだけど。
その時代のひとつのキーワードに「病気」という物がある。
といっても「腰痛」だとか「糖尿病」みたいなマジ病気ではなく、あくまでも「ちょいと世間とズレている」という事を病気と名付けたもの。
当時「トンガリキッズ」や「スキゾ」や「パラノ」で「ニューアカ」な人々が「アタシって自分では解らないんだけど、みんなからズレているって言われるの」と自意識だけを肥大して自らを「病気」と言っていた。
なんか無理すんな。オマエは自分が思っている程特殊な人じゃないぞって感じだったんだけど。

000togawa3確かに70年代以前も、ちょっと変わっていると言われるヘンテコキャラの女の子タレントは多数いた。
しかし、やはり戸川純の登場はエポックメイキングだったのかもしれない。
そして自分は、不思議ちゃんキャラと呼ばれる女子がウザクて当時から嫌いだった。
たぶん系譜は連綿と続いていて、近年の小倉優子・中川翔子など、そしてアキバ系とかに引き継がれているんだと思う。
そーゆー意味で、戸川純というパフォーマーは好きだったけれど、その功績に関しては「なんて事してくれたんだ」という気持ちがある。
(椎名林檎なんかに影響を与えた感もあるので、一概に悪いとは言えないんだけど)

戸川純は子供の頃「醜くていじめられっ子だったので出世して見返してやろうと思った」などと語っているんだけれど、子供の頃のあだ名が「太った山下達郎」と呼ばれていたなどと言う発言を聞いて「もしかして、過去のそーゆー話はキャラ付けのため?」と思った事がある。
なんせ戸川純は1961年3月31日生まれで、山下達郎がソロデビューしたのは1976年、山下達郎がヒット曲「RIDE ON TIME」で世間に認知されたのが1980年で、その時戸川純はすでに19歳、同年ドラマ「しあわせ戦争」で女優デビューしている。
その3年後の1983年にヤプーズで歌手デビューしている。

000togawa5なにはともあれ「情緒不安」や「精神的に病んでいる」という部分を前面に押し出すことで面白がられていたというのは、時代なんだろうなぁ
1978年にYMOがデビューした時、週刊プレイボーイのインタビューで「僕たちは病人なんだ、病人が奏でる音楽を病人が聴いている」と答えている。
それから数年後、1980年代に入ってから「病気」という言葉がキーワードとして使われるようになる。
山本晋也の「ほとんどビョーキ」という流行語は、1980年に始まった深夜の情報番組「トゥナイト」の風俗レポートから出た言葉。

よく「頭がおかしい人」を指して言う「電波」というのは、実際に覚醒剤などで幻覚症状が起こった際に「頭の中に誰かが電波を飛ばしている」などと言い出すこともあるのだが、1981年6月に起こった川俣軍司による事件がキッカケになっている。と言いつつ、この事件の当時は「電波」という言葉はキーワードになっていなかった。
事件から2年後1983年に放送されたドキュメントドラマ「深川通り魔殺人事件」の中で「電波が…、俺の頭の中に電波を飛ばしやがって」と連呼する犯人・川俣軍司を大地康雄が熱演した事で「電波」という言葉が「頭のおかしい人」という意味を持つようになった。

000togawa2話はガラッと変わりますが、戸川純の歌手デビューのバンド「ゲルニカ」は退廃的な感じがして好きだったけれど、その相方・上野耕路の名前を近年意外な所で聞いてびっくりした。
なんと、かの「♪タラコ、タラコ、タラコ〜」の作曲者として。
う〜む、ゲルニカとタラコは繋がらないなあ。


000togawa4この曲の話を全然書いてなかったけれど、この曲が収録されているアルバム「好き好き大好き」は戸川純のロリータな部分と狂気の部分が表裏一体で混在している名盤。
で、「遅咲きガール」戸川純の妹・京子ちゃんの作詞なのでかなりポップで女の子っぽい(戸川京子のアルバム「O'can」は名盤ですよ)。
よく戸川純のプロフィールで「子役として活躍していた」みたいなのがあるんですが、戸川純は確かに子役で舞台出演はあるけど、子役として活躍していたのは妹の戸川京子で「ウルトラマンA」「電人ザボーガー」とか「愛と誠」で早乙女愛の少女時代を演じたり(スキー場で怪我を負う女の子)しておりました。
戸川京子は2002年に37歳の時に自殺してしまったのですが、最初、その報を聞いた時「戸川純の間違いじゃないのか?」と思ってしまった。
現在も戸川純はユニット「東口トルエンズ」として音楽活動を続けている。

| | コメント (3)

2007年5月16日 (水)

松原みき「ニートな午後3時」

Matubaramiki1松原みき/ニートな午後3時
作詞.三浦徳子/作曲.小田裕一郎
1981年2月/¥700
キャニオンレコード/7A0049


今現在「ニート」といったら、「Not in Education, Employment or Training」の頭文字を並べた「NEET」で、意味は「主婦と学生を除く非労働力人口のうち15〜34歳の人」という事になっている。解りやすくいうと「何もする気がない人」みたいな捕らえられ方をしている言葉なのだ。
でもこれが言われ始めた当初、自分は凄く違和感があった。

スペルは「Neat」とちょっと違うんですが、1970年代末から1980年代初頭に一部のプレッピーとかの間で「ステキ」とか「格好いい」という意味で使われていた「ニート」という言葉があったのだ。(デコラティブの対語として使われている)
かのウッディ・アレンの映画「アニーホール(1977)」の中でも、主役のアニーが何度も「ステキ!」という意味でこの単語を口走っている。

そして1981年にリリースされた松原みきのこの曲、資生堂・春のキャンペーンソングとしてかなり頻繁にテレビで流れていたんだけど、「ニート=ステキ」という意味はあんんまり流行しなかったのかもしれない。
資生堂は1981年春の口紅の新色として明度の低い渋めの色を「ニートカラー」と名付けて売り出そうとしていたワケです。

1990年代初頭に、知人がやっていたファンク系バンドの歌詞のなかにこのNeatという単語が出てくるんですが、その歌詞カードを読んだ人から「これってNeedの誤植でしょ?」みたいな指摘をされていた。
この「ニートな午後3時」という曲もそんなヒットした記憶はないんですが、小田裕一郎の曲なのでそれなりにポップで聞きやすい。あと数年後なら杏里辺りが歌ってヒットしたかもしれないって感じ(杏里の「CAT'S EYE」も小田裕一郎が作曲)

しかし、現在の「ニート=やる気無い駄目な人」みたいな感覚で聞き直すと、なんかトホホな曲なのだ。
なんせサビの部分で「Neat, Neat!, Everyday 自由になれるわ」と何度も繰り返すので、毎日ニートですか?状態。
かつて松本隆が「音楽の中で詩の寿命が一番短い」と語っていましたが、こーゆー事なのか(って違うと思う)

ちなみに歌っていた松原みきさんは2004年10月07日に44歳で亡くなっています。

| | コメント (0)

2007年5月11日 (金)

甲斐バンド「ビューティフル・エネルギー」

Kaibandbeautifule甲斐バンド/ビューティフル・エネルギー
作詞:甲斐よしひろ/作曲:松藤英男
1980年3月/¥600
東芝EMI/ETP-10700


甲斐バンドのシングルの中ではちょい珍しく、ジャケット写真のメインが甲斐よしひろではなく、ドラムの松藤英男となっている。
というのも、このシングルのボーカルは松藤英男。だから、甲斐バンド的には珍しい曲なのだ(解散直前はメンバーがそれぞれ1枚ずつ曲を担当した、実質上のソロアルバムみたいなものはあったんですが)
甲斐よしひろのざらついたウエット感はなく、爽やかな感じがある曲です。

この曲がチャートに入ってきたのは、ちょうど今みたいな5月頃で、まさに爽やかな風の中で聞いていたという印象が残っています。
「関町物語」という1980年を舞台にしている漫画を今書いている最中ですが、その年の5月頃、土曜日に毎週ヒットチャートの曲を紹介するラジオ番組でこの曲を聞いていました。

が、聞いていくとそのメロディの軽やかさと、松藤氏のボーカルにダマされてしまいますが、かなりエロい曲でやんす。
作詞は甲斐よしひろなんですが、まず1番の歌詞は「シルクの髪を指でさぐり」始める所から始まる。
そして曲が進むにつれて「うなじ」「ほほ」と進み「ルージュに近づいていく」とゆっくりと核心に触れていく。

000momojiriで、2番の歌詞になると「急がないで」と言いつつ「胸」に到達するワケですが、その後の歌詞が突然肉体を直接表現する言葉ではなく「やわらかい夏のような草原」を確かめ、ついに「やさしい雨が僕らを濡らす」と、完璧に「アレの事を言いたいんだろ?どうだ甲斐?」という状態に進んでいくのだ。
この曲から5年以上後、1980年代中期にチェッカーズが歌っていた「NaNa」という曲では「感じて濡れてくれ」とか「脱ぎ捨ててやろうぜ」という歌詞がエロいって事でNHKで放送禁止になったという事件がありましたが、そういう意味でこの曲は実に巧妙に言葉を隠しているのだ。
さすが年季の入ったエロい人なのだ。甲斐よしひろ。さすが桃尻娘なのだ。

0000agunesrそう観点から「ビューティフル・エネルギー」を聞き直すと、「オーロラを昇っていくよ」という歌詞もあっち方面なんだろうなって感じなのだ。
で、サビ部分は「しなやかな獣たち」「金色の汗を流そうぜ」、2番以降の繰り返しでは「声をあげよう」「爪を立てよう」となっているが、その歌詞の前の「獣」という単語で微妙にエロ風味が隠されているのだ。

この歌詞は、スタッフの結婚式がハワイで行われた時に考えついた物で、ここに出てくる女性はその時に偶然逢うことが出来たアグネス・ラムをイメージしているとの事。

000morisitaap.s.
甲斐よしひろの奥さんは元女優の竹田かほりなんですが、この結婚には吉田拓郎森下愛子が関係している。
実は吉田拓郎が森下愛子を狙っていて「今、近場で飲んでいるんだけど飲みに来ない?」と拓郎が森下愛子に電話をした時に、「一対一では困ります」と断りを入れた。
実は、その前に拓郎はラジオにゲストとして森下愛子を指名して共演して、そこで電話番号をムリヤリ聞き出していた。森下は「かつて浅田美代子がその方法でお持ち帰りされた」という事を聞いていたので危険と感じていたという。
が、拓郎は「一人じゃないよ、今、甲斐よしひろも一緒だから安心だって」と言い出したという。
そして森下愛子は親友の竹田かおりを誘って飲みにいったのだが、結果として拓郎は森下愛子と、甲斐よしひろは竹田かほりと結婚に至ってしまったのだ。

000isinoついでに言うと、吉田拓郎の「ラジオにゲストに指名して知り合いになる」というパターンを、拓郎信者だった長渕剛石野真子で実行に移している。

| | コメント (4)

2007年4月16日 (月)

佐野元春「アンジェリーナ」

00sano001佐野元春/アンジェリーナ
1980年3月21日/Epic Sony
60-5H-31/¥600


ここの所、「関町物語」なんて物を自己満足連載しているワケですが、その舞台になっている1980年ってのは自分にとって激しく変化があった年で、良くも悪くも心にズッシリと残っている年なのだ。
その1980年3月21日に佐野元春がシングル「アンジェリーナ」でデビューしている。
たぶん、その3月21日前後に自分は静岡を離れ、初めての一人暮らしを東京でスタートさせている。

00sano008その当時毎週購入していた雑誌に「FMレコパル」という雑誌があった。今みたいに「あの番組はいつやっている?」とインターネットで調べる事も出来なかった時代、多くのラジオキッズはこの手の雑誌を購入してラジオ番組をチェックしていたのだ。
まだ学生が個人でテレビを持っているような時代でもなかったので、ラジオが学生にとっては友達だったのだ。
そんな東京での一人暮らしを始めた時にFMレコパルの「今週の新人」というコーナーで『佐野元春』というアーティストの紹介記事を読んだ。

なんか「ポップなリズムに乗せ都会的な風景を切り取った新世代のロッカー」みたいな字面を読んでいるだけでは「なんじゃそりゃ」みたいな紹介をされていたような気がするんだけど、自分はそのアーティストに大注目してしまったのだ。
その理由は「誕生日、オレと同じジャン」という激しくアホらしい単純な物だったんだけど、その後ラジオで「アンジェリーナ」を聞いて「!!!」となってしまったワケです。

00sano002デビュー曲「アンジェリーナ」のジャケットは2種類ある。
一般的に有名なのは横浜「赤い靴」の店頭でポーズをとっているアルバム「Back To The Street」と同じ時に撮影したもの。
もう1枚はあまり知られていない青っぽい写真のもの。
こっちのジャケットは「幻のジャケット」と一部マニアに言われている。というのも、最初これで発売したけれど、この写真が曲のイメージに合わないという事で極短期間で回収され有名な方に差し替えられたらしい。
というワケで、マニアなら垂涎の一品でやんす。と言いつつ、これは中古店で1枚100円で購入したもの。

00sano003佐野元春はドーナツ盤と呼ばれるシングルレコードに思い入れがあるアーティストでアルバムからのシングルカットが多い。つまり一般的にはアルバムを先に買ったファンはシングルをワザワザ買わないというパターンが多かったハズ。
そのために、アルバム「VISITORS」からシングルカットされた4枚のシングルもあまり持っている人は多くないと思うのだ。同時期に12inchのLong Verも出ていたので、そっちを購入しちゃうパターンも多かったと思う。
さらにカセットテープで発売したポエトリーリーディング「エレクトリックガーデン」からのシングルカット「リアルな現実 本気の現実」なんてのも珍しいんじゃないかと。
で、去年「知泉的音楽夜話」でも書いた「1989年、ソニーがアナログシングル発売を終了する記念に出した「警告どおり計画どおり」に続いていくのだ。(その後に「約束の橋」がアナログで出ているけど)

00sano0042枚目のシングル「ガラスのジェネレーション」を10月21日に発売、1981年4月からFM-TOKYOで「サウンドストリート」が始まった。
その第1週目2週目はライブで、第1週目のライブを録音した物が今でも手元にある。
(Wikipediaでは1980年から始まったと書いてあるんだけど「先月誕生日があって25歳になったんだけど」と語っている事から1981年4月期から始まったハズ/カセットレーベルに放送日付とか書いてあったハズだけど、レベール紛失してハッキリした日付不明)

「え〜詩を作る時にどういう風に作るのか聞かれるんだけど…自分でもよく解っていません」など言っている。佐野元春はよく「自分で話をふっておいて、ウヤムヤに終わる話」をしていた。
「先日ライブでみんなが誕生日を祝ってくれたんだ。でもそんな事今言ってもしょうがないので、次の曲を」
それから20年近く経って「HEY HEY HEY」に出た時、その一人完結っぷりはサラに激しくなっていて、ダウンタウン松本が「ほんま、佐野さん勘弁してくださいよ」と、ツッコミもボケも成立しない話ッぷりに参っていた。

00sano005今聴くと佐野元春の曲は「当たり前の日本語ロック」と聞こえるんだけど、ハッキリ言って70年代までの日本語ロックとは言葉の選択肢やメロディに対してのハマリ方が違っていた。
自分は高校時代から作詞作曲をしてきたんだけど「オレは間違っていた」と痛感してしまったのだ。
「日本語ロック」なんて言葉、今これを読んでいるほとんどの人が「なにそれ?」と思ってしまうんだろうけど、70年代はまさにそれが議論までされている。

00sano006「新譜ジャーナル」だったか、当時の音楽雑誌で、内田裕也(フラワートラヴェリングバンド)と大滝詠一(はっぴいえんど)が対談して「内田:日本語はロックに乗らない」「大滝:それは偏見だ」「内田:オレは英語で歌う」「大滝:日本語の文学的な面でロックを展開させる」「内田:日本語で歌うお前の音楽はロックじゃない」的な事で激しく議論しているのだ。
80年代に至るまでも多くのアーティストが道を造ったとは思うけど、ある意味、佐野元春という人物によって「違和感の無い日本語によるロック」が完成したんじゃないと思ったりする。
それゆえ、その後大滝詠一が自分のプロジェクトに誘い込んだんじゃないかと。

ちょうど時代的には、RCサクセションがロック化し、シーナ&ロケッツ、ロッカーズ、A.R.B、モッズ、ルースターズなどのめんたいロック、アナーキーやスターリンなどの日本語パンクが一斉に出てきた頃で、80年代に入った瞬間に日本の音楽は激しく変化していたのだ。
もっとも、一般的なレベルでロックが浸透するのは80年代中期のボウイ(自分的には歌謡曲ロックだと思っている)、そして90年代のバンドブーム(ロックもお子様向けになってしまったなぁと感じたけど)まで待たなくてはいけないんだけど。

00sano007この当時、佐野元春はテレビ神奈川の「ファイティング80」に出ていたんだけど、自分が最初にテレビで動く佐野元春を見たのは、たぶん1982年に放送された「ビートルズ特集番組」で(ジョンレノンが1980年末に殺された以降、しばらくの間、特集番組が多くあった)「各界の人々に好きなビートルズの曲を聞く」という物で、他の人々が想い出やらを延々とタラタラと喋っている中、いきなり画面に登場して「I'm the walrtus」と一言だけ言って消えた。たぶんコレが最初。まだ「ナイアガラトライアングル( A面で恋をして)」以前で、知名度もほとんど無かった事の話なのだ。

しかし、久々に聞き返した1981年サウンドストリートのライブテープ。音が非常に悪くなっていてショック。元々音も悪かったんだけど、CDに焼き直して永久保存なのだ。

| | コメント (4)

2007年3月15日 (木)

鈴木ヒロミツ(モップス)追悼

0000hiromitu01俳優の鈴木ヒロミツ氏が亡くなった。
まだ60才ということで早すぎるなあと言う感じです。
鈴木ヒロミツ:1946年6月21日・東京都文京区生まれ


世間的には俳優・鈴木ヒロミツという事で認知されているかも知れませんが、自分的にはモービル石油のCMに出ている人→時間ですよ夜明けの刑事→その主題歌を歌っている、という流れで高校の頃に「モップス」というGSをやっていたという事を知ったことで、リアルタイムでモップスを聞いていたわけじゃないんですが、「鈴木ヒロミツ=モップスのボーカリストで凄い人」という認識になった。

0000hiromitu02モップスはジャンルとしてGSに含まれているけれど、GSではなくその後の時代のロックバンドって感じで(デビューが1968年、解散が1974年)、ファーストアルバムではプロ作家の作品を歌っていたけれど、積極的にサイケデリックサウンドを取り上げたり、後に編曲家として凄い仕事をする星勝がギターとして参加していたので、斬新でやりたい事が明確な音造りが今聞いても通用すると思う。
GSの中では突出した演奏力として評価されているのはミッキー吉野がいたゴールデンカップスがあるけれど、モップスも同等の評価をされてもいいと思うほど、黒くスィングしているバンドなのだ。
ちなみに、鈴木ヒロミツが刑事役として良い味を出していた「夜明けの刑事」で音楽を担当したのは、モップスの星勝。

0000hiromitu03ラストスタジオ録音盤になった「モップスと16人の仲間」というアルバムでは、作家として交流のあったミュージシャンが曲を提供していて、そのメンツが凄い。
吉田拓郎つのだひろ加藤和彦、岩沢幸矢(ブレッド&バター)、忌野清志郎(ペンネーム肝沢幅一で参加)、小室等、及川恒平(六文銭)、杉田二郎、遠藤賢司、泉谷しげる井上陽水、伊藤アキラ(作詞家.この木何の木〜他にもヒット曲多数)、かまやつひろし、等々

0000hiromitu05このアルバムから吉田拓郎の「たどり着いたらいつも雨降り」がシングルカットされヒットとなる。
もちろん鈴木ヒロミツのボーカルは円熟味を増しているし、星勝のアレンジは無駄が無く黒くスィングしている(モップスの曲で鈴木ヒロミツではない高いストレートな声は星勝)
ここ数年は、ちょろっと俳優をやっているのを見かける程度だったんですが(自分的には富豪刑事が最後かな?)、その迫力のある歌声は永遠に自分の中では消えません。


モップスの豆知泉

モップスのデビュー曲「朝まで待てない(1968)」の作詞は阿久悠。実はこの曲は阿久悠が作詞家になって初めてA面になった記念の曲。

モップスというグループ名は鈴木ヒロミツは後に「長髪でモップを逆さまにしたように見えていたから」と言っていたが、それは照れ隠しで、デビュー時は「日本の音楽業界をモップで掃除し革命を起こす」というふれこみだった。

モップスのメンバーではギターに井上陽水のアレンジなどで有名な「星勝」もいる。他には三幸太郎(G)、村上薫(B)、スズキ幹治(D.鈴木ヒロミツの弟)

モップスのセカンドシングル「ベラよ急げ」はイタリア発売のオムニバスに収録された時タイトルが「Haiku:俳句」となっていた。歌詞の「早く早く」が「俳句俳句」と聞こえたため。

0000hiromitu04モップスが知名度を上げた曲に「月光仮面」がある。今渦中にいる川内康範が作詞したテレビ主題歌のカバー曲だが、ライブの最中あまりにも客の乗りが悪かったので、アドリブで月光仮面の曲をおちゃらけて演奏した所大受けになったので、アルバム収録→シングルカットしたもの(しかし歌詞の内容とかムチャクチャに変更しているのでよく川内康範がOKしたものだ、と例の報道を見るたびに思う)

しかし「月光仮面」のため、コミックバンド的な扱いになってしまい、さらに悩んでしまう事となる。

当時のGSは長髪で汚らしいと大人達には思われていたが、今見ると全然汚くないが、モップスはまさにヒッピーを体現した見た目が汚らしいグループだった。そんなモップスにも女性追っかけファンがいたが、その中に中学生時代のユーミンがいた。

鈴木ヒロミツの俳優デビューは「時間ですよ2(TBS)」、当時は本名表記の鈴木博三。ドラマに出たのは同じGS出身の堺正章に誘われたので。(1971年7月21日〜1972年3月15日)

名前表記はその次に出演した、坂口良子主演の「アイちゃんが行く!(フジ)1972年9月1日〜1973年3月30日」では「鈴木ひろみつ」となっていて、3作目の「時間ですよ3(TBS)1973年2月14日〜1973年9月5日」で「鈴木ヒロミツ」となっている。

| | コメント (1)

2007年1月 8日 (月)

浅野ゆう子「とびだせ初恋」

Photo_26浅野ゆう子/とびだせ初恋
作詞.有馬三恵子/作.編曲.川口真
1974年/¥500
RCA/JRT-1355


浅野ゆう子
誕生日:1960(昭和35)年07月09日(46)
出身地:兵庫県神戸市東灘区 
血液型:AB型 
本 名:赤沢裕子  
学 歴:堀越学園高校(1979卒)

浅野ゆう子と言うといまや大御所女優って感じですが、実際には1972年にアイドル歌手デビューして、70年代後期はディスコブームに乗った和製ソウル的な曲を歌う人になり、80年代初期はセクシーグラビア系の人だった。実に時代に合わせて苦労してきた人なのだ。
デビューした12歳の頃からスタイルが良かったワケですが、それもそのハズ、デビュー当時はモデル事務所オスカーに所属しておりました。

Photo_27ハッキリ言って、80年代初頭のセクシー系のグラビア連発、出るたびに着衣が少なくなっていった時代は「あぁ元アイドルがついにここまで落ちちゃったのね」という、芸能界の生き地獄的な印象を勝手に持ってしまうほど、毎回ギリギリなグラビア展開をしておりました。
が、1980年代中期から2時間ドラマなどに出始め、女優として今に続いている。

アイドル歌手としては大成しなかったという印象で、ヒット曲と聞かれても数曲をなんとかうっすら覚えているレベルなので、トレンディドラマ以降で浅野ゆう子を認識した人にとっては「へぇ歌手もやっていたんだ」という感じかも知れない。
ちなみに「彼(1975)」という曲に関しては「彼という男の子と出会っていなかったら、私いけない子になっていたはず」という内容でミディアムスローな曲なんですが、なんか異常に麻丘めぐみの「芽ばえ(1972)」とそっくりな曲で「これはどうなんすかね?」という状態なのだ。

Photo_28女優・浅野ゆう子は歌手デビュー当時にNHKで「てんぷく笑劇場」というコメディに出演したのが最初ですが、ちゃんとしたドラマでは1974年の「太陽にほえろ!(NTV)」が最初。
かなり有名な刑事ドラマですが、全体的に男臭い番組の中にマスコットガールとして刑事部屋にお茶くみ係がいるという「なんじゃそりゃ?」という設定があった。
浅野ゆう子は二代目マスコットガール「永山久子:愛称チャコ」として登場し、普段はお茶くみなどをしてドラマに華を添えていた。
が、この時の年齢が14才。視聴者から「刑事部屋で14歳の女の子が働いているって設定はデタラメすぎないか?」という指摘が多く、結局12話出ただけで番組から姿を消した(1974.10.18〜1975.01.10/第118話〜第130話)

Photo_29アイドル歌手としてもイマイチ、女優としてもパッとしなかった彼女は堀越学園を卒業した辺りから徐々に男性週刊誌なんかでセクシー系のグラビア仕事が増えていく。もともと年齢より大人びた感じで、スタイルがよかったので、そっちに行っちゃうのは仕方ない事なのかもしれないっすけど。

女優としては24歳1985年頃から徐々に2時間ドラマの仕事が増えていって、86年87年は10本以上に出演し、1988年に元祖トレンディドラマと言われる「君の瞳をタイホする!(フジ)」に主演し、さらに「抱きしめたい!(フジ)」で浅野温子と共演してW浅野と呼ばれ大ブレイクして、今に繋がっていくことになるのだ。
ちなみに、その大ブレイクした年は連ドラを含めて20本のドラマに出演している。

浅野ゆう子を見るたびに「人に歴史あり」とか「色々挫折しても、続けていくといつか道は開けるのかもしれない」などと考えてしまうのだ。
成人の日なので「なんとか続けていれば、なんとかなる場合もあるので、適当に頑張れ」というエールを送ってみたりする。


浅野ゆう子の豆知泉
浅野ゆう子の2時間ドラマシリーズに久本雅美と共演する「ツインズな探偵(フジ)」がある。正反対な二人が実は双子で...という設定だが、実はこの二人の生年月日が同じ1960年07月09日だった事から生まれた企画。

| | コメント (2)

2006年11月22日 (水)

原田真二「てぃーんず ぶるーす」

Photo_19原田真二/てぃーんず ぶるーす
作詞.松本隆/作曲.原田真二/編曲.鈴木茂&瀬尾一三
フォーライフレコード/FLS-1010
1977年10月25日/¥600


「てぃーんずぶるーす」は原田真二のデビュー曲で、この曲に続いて3ヶ月連続シングルリリースという売り出し方をした(最近ではよくあるけど当時はすごく特殊だった)。
第2弾「キャンディ(11月25日)」、第3弾「シャドーボクサー(12月20日)」はそれぞれヒットして、オリコン10位以内となった。

Photo_20実は「デビュー3曲同時チャートイン」というのは史上初の快挙だった(ま、3枚を短期間連続リリース自体が無かったので当たり前かもしれませんが)
さらに1st アルバムも初登場1位という史上初の記録を作り上げている。

このレコード会社大プッシュデビューの裏に実は、所属レコード会社のフォーライフレコードの運営危機という切羽詰まった物があったらしい。
フォーライフレコードは1975年に井上陽水泉谷しげる吉田拓郎小室等というフォーク界の癖のある大御所4人が「自分たちが理想とする曲を理想とした環境で作りたい」という理念で結成した、日本初のアーティスト志向のレコード会社。

Photo_21結成当初はかなり話題になったが、売り上げが思うようにいかず、1976年11月10日に満を持して4人共同で製作したクリスマスアルバムなども「それぞれ4人のファンが買ってくれる」との思惑で、当時としては多い初回30万枚プレスで発表した処、まったく売れずに返品の山となって、さらに財政を圧迫してしまったという。

「フォーライフで独自の新人を育てなくてはいけない」とオーディションを行ったのだが、そこに高校2年生だった原田真二がいた。実はテープ選考の際に不合格になっていたが、吉田拓郎が興味を持ち原田が青山学院大学に合格して上京してきた処でコンタクトをとり、その年の10月に吉田拓郎プロデュースでデビューとなった。
曲自体ポップで覚えやすいというものヒットの理由だが、それと同時にアイドル的な容姿が女性ファンをつかむことになった。

Photo_22実はデビュー当初、原田真二は「テレビに出るのは嫌だ」と言っていた。これに関しては吉田拓郎などもテレビに出ないことを基本にしていたので強くテレビに出て顔を売れとは言えない状態だったのだ。
で、そこに登場するのが同年(1977年)吉田拓郎と結婚したばかりの浅田美代子で「やはり今の時代テレビに出ないとダメ」と原田を諭して渋々テレビ出演を承諾させたという。意外としっかりしてるじゃんミヨちゃん。

Photo_23その「テレビ出るのOK」を受け、いきなりデビューと同時(1977年暮れ〜)に東京12チャンネル(現.テレビ東京)で「歌おう!原田真二と(水:16:30〜17:00)」という原田がホストを務める音楽トーク番組まで始めちゃっている。当時の12チャンネルは超低予算でも番組作れたとは言うけど、激しくプッシュしていたのだなぁと思うのだ。
そんな社全体でのバックアップもあって3曲大ヒット、4曲目の「タイムトラベル」もヒットとなって、会社がかなり盛り返したという。

デビュー直後の1978年1月にTBSで「ザ・ベストテン」が始まっており、第3週の2月2日に「キャンディ」が初登場9位になっている。(デビュー曲のてぃーんずぶるーすはチャートインせず)
フォーライフがさらに盛り返すのが1981年の「ザ・ぼんち/恋のぼんちシート」。

Photo_24原田真二の2曲目「キャンディ」は当初から「ビートルズのミッシェルにそっくりじゃん」と言われてまして、それに関して自分も「否定出来ないよな派」であります。
実は原田と同時期に売り出してきた「世良公則&ツイスト」「チャー(Cher)」を雑誌なんかが勝手に「ロック御三家」なんて恥ずかしい名前でひとまとめにしてワケですが、その3組はちょいとビートルズ繋がりではないかと思っている。
原田真二「キャンディ」→「Michelle」
ツイスト「あんたのバラード」→「Don't Let Me Down」
チャー「気絶するほど悩ましい」→「While My Guitar Gently Weeps」
という図式で。

Photo_25もっとも自分は音楽の類似に関しては「音楽なんて基本的に伝承されていくものだし、前人にインスパイヤされなきゃ曲は作れるハズなので、似ている事に関しては全然問題にしないもんね」と考えているので、どっちの曲も好きなんですけどね。(筒美京平が好きって段階で、そんなの突き抜けて考えております)

しかし、原田真二は元々アーティスト志向が強かったために段々と歌謡曲的ポップから遠ざかり、チャートからも遠ざかっていくこととなる。(でも個人的にはアルバム『モダンビジョン』とかシングル「雨のハイウェイ」とは好きだった。
で、世間的にその後話題になったのは松田聖子との不倫疑惑だったわけですが。(松田聖子に関しては、原田真二は初期アルバムでも「パイナップルアイランド」とか「ピンクのスクーター」などの名曲を書いている。)

| | コメント (0)

2006年11月15日 (水)

佐良直美「二十一世紀音頭」

000021seiki佐良直美/二十一世紀音頭
作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく
1970年/¥500
ビクターレコード/MV-578-S


この寒い時期に盆踊り用の曲の話題でしつれいします。(前回、前々回がかなりマイナーだったので、どメジャーな曲をやろうと思ったのですが)

三波春夫「世界の国からこんにちは」一番有名なVer.
000sekai01実は、30年以上に及ぶ「これ何だ?」が解明されたので、この曲を。
って、そんな大袈裟な話じゃないんだけど、ずっとずっと前の雑記にも書いた「子供の頃、地域の盆踊りで毎年毎年使われていた曲が耳に残って...」という話題。

小学校時代に盆踊りの曲として「♪これから〜31年経ったら、この世は21世紀ぃぃ♪この世はどうなっているかしら?」という歌詞の音頭ものがあったのです・
子供心になんか「凄く完成度の高い音頭」と感じていて、その歌詞はほとんど暗記していて、バックの演奏のフレーズも記憶しているほどでした。

坂本九「世界の国からこんにちは」紅白で歌われたVer.
000sekai02歌詞の内容から察する処、多分1970年に作られた曲らしいんですが、そのタイトルも歌手名も判らない状態で、友人に話しても「そんな曲知らない」とのことで自分にとって幻のヒット曲になっておりました。(多分自分が踊っていたのは、1970年にリリースされてから数年後)
たぶん、高校時代にもそんな話題を周囲に対してして「知らない」と言われていたので、もう四半世紀に渡る疑問だったのです。(高校時代にその盆踊りを主催した青年部の建家に入る機会があって、レコードないかと探したが発見できず)

吉永小百合「世界の国からこんにちは」万博タイムカプセルVer.
000sekai03で、それが「インターネットって便利だなぁ」を実感する状態であるのですが、先日ふと「そういえば!」とその記憶している歌詞を入力して検索してみると、瞬時に「佐良直美/二十一世紀音頭」だという事が判明したのであります。

そうか、佐良直美だったのか。作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく、という作った人々も大御所なので、この完成度は納得なのだ。

倍賞美津子「世界の国からこんにちは」
000sekai04時代としては1970年は、大阪で万国博覧会が開催されていて、未来がまだ眩しく明るい物であって、文明の進歩が人類にとって望むべき未来だった。
学生運動なども一段落していたハズだし、高度経済成長もピークを迎えていた事から、この先に控えているのはまったく曇りのない幸せあふれる世界だったハズなのだ。

山本リンダ「世界の国からこんにちは」
000sekai05歌詞の中で「♪火星や金星、遠くの星に旅行に出かけているかしら」とも歌っているのですが、1970年の前年1969年にアポロ11号で初の月面着陸をしたという事もあって、宇宙開発は当然進んでいて、21世紀を迎える頃には宇宙ステーションが出来ていて、その中で多くの人が地球上と変わらない生活をしているというのが「当然来るべき未来」として描かれていたのだと思う。
その辺は残念だったし、地球上もそんなに素晴らしい未来を迎えてはいなかった。

西郷輝彦「世界の国からこんにちは」
000sekai061960年代中期に始まったベトナム戦争は1973年に終結したが、それから30年経っても人類は戦争をし続けている。馬鹿な国が核兵器をさらに生産して軍事的脅威で自国を守ろうと躍起になっている。
子供の頃の自分は、すなおに未来図を描きながらこの曲を聴きながら盆踊りで踊っていましたが、この世はあんまし良くない方に転がっていますよ。

きっと「未来に夢がもてない時代」というのが、色々な部分にさらなる歪みを作っていくんだろうなぁ
しゃんらららしゃんらら〜21世紀の夜明けは近い♪

| | コメント (2)

2006年11月 5日 (日)

キララとウララ「センチ・メタル・ボーイ」

000kiraura01キララとウララ/センチ・メタル・ボーイ
作詞.売野雅勇/作曲.編曲.井上大輔
1984年08月01日/¥700
ビクター/SV-7408


というわけで、70年代のピンクレディフォロワーついでに、1984年にデビューした「80年代のピンクレディ」などと言われていた歌って踊れるデュオ「キララとウララ」です。(またマイナーでごめんなさい)
ピンクレディ時代には出来なかった、インカム(マイク付きヘッドフォン)をつけてより自由に歌い踊る二人組です。

1985年03月05日:2nd Single「多感期のフラミンゴ」
000kiraura02といっても、ほとんど売れなかったので現在、話のネタとして出てくる場合は「キララとウララという二人組のキララ(大谷香奈子:1stシングルのジャケ写右)って小室哲哉の元妻なんだぜ」という程度だと思いますが。
実は「80年代のピンクレディ」って部分には色々深い意味があって、この1984年にピンクレディが再結成しているんですが、元々ビクター専属だったピンクレディが解散後に事務所的なトラブルがあって(確かミーが事務所に役員として残り借金を背負うハメになったとか、そのためにヌード写真集を出したとか、なんか大人の事情)その再結成の際にはビクターではなくVAPからの再デビューとなっている。(言ってもシングル「不思議LOVE」1枚だけ)

1985年09月21日:3rd Single「ラブ・アドベンチャー」
000kiraura03そのタイミングでビクターから「キララとウララ」がピンクレディのようなダンス&歌でデビューってのは「色々あったのかも知れない」と勝手に勘ぐってしまうのだ。
明らかにビジュアル先行で、ダンスを見せるグループのハズなんですが、自分は歌番組で見たのは1回だけ(他に歌う天気予報でPV、2曲目はCM曲で本人達出演)という状態なので、事務所はチカラ入れてなかったのか?とか思ってしまうワケですが。

1985年12月05日:4th Single「パックンたまご!〜空からたまごが降ってきた」
000kiraura04で、そのデビュー曲「センチメタルボーイ」ですが、実は8月に冥王星が惑星からハズされたという話題の時(さよなら冥王星:2006.8.24記)に取り上げようと思ったんですが、色々冥王星に関する文章を書いているうちに長くなってしまいパスしてしまいました。
実はこの曲の冒頭に「♪水金地火木土天海冥」というフレーズが何度も繰り返されるのだ。つまり今となっちゃ「最期の冥って何?」状態であるのですが、さらにこの曲が歌われていた1984年当時は冥王星は海王星の内側を廻っていたので(1979年1月22日から1999年3月15日まで)、その当時でさえ歌詞が間違っていたワケで....。(それとも未来志向のグループだったので1999年以降にも歌えるような配慮。って事はないか)
曲の方は井上大輔が頑張って井上大輔っぽくないテクノ系アレンジをしています。

1986年04月21日:5th Single「ブインブインブイン」
000kiraura052曲目は飲料「Kilala」の本人出演のCM曲でベストテンのスポンサーとして流れていたが、スポットライトにも出演せず、オリコンの100位以内にも入らず。

4曲目はテレ朝の子供番組「パックンたまご!」のテーマソングなんですが本人達の出演なし。この番組はシティーボーイズ(大竹まこときたろう・斉木しげる)&中村ゆうじが出演し、深夜番組「グッドモーニング」の流れをそのまま朝に持ってきたような物(さすがにオナッターズの出演はなし)で、宇宙人のゆう君(中村ゆうじ)とテレ朝アナウンサー川瀬真由美が宇宙船で旅をしてお馬鹿な事件に遭遇する前半と子供をスタジオに呼んで体操などをする後半の二部構成(間にコントがあったような気もする)。しかし子供を率いてお遊戯をするお兄さんが大竹まことってのは今思うと凄い番組で、確か言うことを聞かない子供を激しく怒鳴りつけていたりしました。

解散後:天野歩美「愛しちゃったのよ」1992年
000kiraura065曲目「ブインブインブイン」がラストシングルでこれはアニメビデオ「るーみっくわーるど ザ・超女」のテーマ曲。2年間の間に色々な事があったんでしょうか、最初の可愛いアイドル風の二人組が同じ人とは思えないほどケバいお姉ちゃんになっております。(4曲目は子供番組の曲の為なのかデビュー当時の写真を使っています)
時代的にもバブル上昇中で眉毛が太く、化粧が濃くなり、誰も彼も肩パットが入った服を着ていた悪趣味な時代だったのでしょうがないとは思いますが。

解散はキララが小室哲哉と結婚したからなのか、仕事がなく自然消滅かは不明ですが、キララは小室哲哉と離婚後、ライターなどをして、その後犬の雑貨店「デザインエフ」経営。(HPhttp://www.designf.co.jp/
残ったウララは1990年に天野歩美として再デビューし1992年頃までにシングル3枚アルバム2枚ほど出していますが、結局その後の消息は不明。

ちなみに「90年代のピンクレディ」として事務所公認で1996年に「ピンクレディX」という二人組がデビューしたということもあります。

| | コメント (0)

2006年11月 4日 (土)

キャッツ★アイ「導火線」

0000cat03キャッツ★アイ/導火線
作詞.麻生香太郎/作曲.編曲.馬飼野康二
1978年01月25日/¥600
ユニオンレコード/UC-55


なんか、だんだんマイナーに突入して、誰も付いて来ていないって気もしますが、1977年に「アバンチュール」でデビューしたキャッツ★アイ。
踊って歌えるデュオ...って、誰がどう考えても「ピンクレディの二番煎じ」でやんす。
音造りもピンクレディを後を追いかけるかのようなパンチの効いたナウいダンサブルな感じで、聞いているだけで腰が疼いてしまいます。歌詞も本家「カルメン'77」の『♪〜でっす』『♪〜まっす』という語尾の踏みかたまでマネしております。

1977.05.25:1st「アバンチュール」
0000cat01が、ピンクレディと違うのは、本家はデビュー当時はちょいとエロスの香りを臭わす曲が多かったのが、チビッコにも人気があるという事でエロスを抑えていったのに対し、「じゃ、エロス方面は全部引き受けた」と徐々にエスカレートしちゃっていったみたいです。
で、この「導火線」という曲は1978年の映画「多羅尾伴内」(石森章太郎が少年マガジンで漫画連載していた)に出演しての劇中歌として本人自ら歌っています。

☆1977.09.25:2nd「めっきり冷たくなりました」
0000cat02すでにエロスも放送コードギリギリだったみたいで、完奏の時に小道具としてロープを取り出し、ふにゃっとしたロープを手でスクラッチすると徐々に元気になり...という手品的演出があったと思います。ちょいと正視に耐えずにあんまり記憶はしてなかったんですが。(たぶん「導火線」の時の振り付けだったと思うんですが、そう頻繁にテレビで見かけるグループではなかったので、記憶はあいまい)

1978.05.25:1st Album『キャッツ★アイ』
0000cat05で、さらにB面の「大地震」って曲も凄い。歌詞はイマイチ抽象的なんですが、要約すると「大地震が来てグラグラ揺れているけど、二人の動きも止まらない」という、おまえら逃げ遅れるぞ!という、エロの事しか考えていないかのような内容です。

まったく売れなかったワケではなく、デビュー曲はオリコン100位以内に入ったとか、当時「全国13大学が選ぶ、今年最も良かったアイドルNo.1(1977年)」に選出された事もあったという。
あと「スターどっきり丸秘報告」での新人アイドル定番「寝起きどっきり」では、かなりヤラセ臭いエロスサービスシーンもあったという。

1978.05.25:4th「ジャンヌ・ダルク」
0000cat04デビューちょうど1年目に4枚目のシングル「ジャンヌ・ダルク」が出た時にメンバーのノンさん(左の方:大谷親江)が失踪して自然消滅となったとの事。失踪直後はスケジュールをこなすために残った一人・ナナさん(山中奈奈)が頑張っていたそうですが。
そのいきなりの解散により所属事務所が、後釜として双子デュオ「キューピット」をデビューさせている。
「ピンクレディの二番煎じ」ではなく「キャッツ★アイの二番煎じ」という、よく判らない状態になっている。
(しかしユニオンレコードって、レコードNo.見ると1年間で20枚ぐらいしか出していない処なんですかね?)

ここまで来ると「ピンクレディのコスプレ」
0000cc01で、実はこのキューピットを生で見た事がある。
というのも、キューピットの出身が自分にとっても地元の静岡県三島市で、今は亡き三島ヤオハンデパートで「三島市出身アイドル誕生!」としてデビュー記念イベントみたいなのをやっていたのを偶然見かけたワケでやんす。(ピンクレディも静岡出身なんですけどね)
が、数秒聞いて「今さらピンクレディもないだろ」と興味を失ってその場から立ち去ってしまったので、実際に見たと言えるかどうか状態ではあります。
そして、そのキューピットは1度もテレビで見る事もなく今に至っている。

| | コメント (0)

2006年11月 3日 (金)

ちあきなおみ「四つのお願い」

0000tiaki001ちあきなおみ/四つのお願い
作詞.白鳥朝詠/作曲.鈴木淳/編曲.小谷充
1970年04月/¥370
日本コロムビア/SAS-1399


この曲は1970年のヒット曲で、ちあきなおみはこの2年後に発売した「喝采」でレコード大賞を受賞している。
歌詞の内容はさもない恋人どうしの「勝手にやってろ」という状態のいちゃいちゃソング。
4つのお願いを聞いてくれたら、私はあなたの事好きになっちゃうわと歌っているのだが、その4つのお願い自体が「やさしく愛して」「わがまま言わせて」「さみしくさせないで」「誰にも秘密にしてね」という物。

0000tiaki002決して「ビトンのバッグに、ティファニーの...」などとは言い出さないのだ。
この曲が流行っていた当時自分は小学校低学年だったので、その恋愛ソング的な部分なんて全然理解出来ずに「4つのお願い出来るのなら、まず漫画本をドッサリ」などとほざいていたんじゃないかと思うのだ。

で、こんな問題にすべき部分が全然ない曲を、1980年代中期から始まった「過剰反応の言葉狩り」に目を付けられて、一部では「放送禁止曲」に指定されたと言われている。

0000tiaki003なぜ?というのはこのタイトルの「四つ」が一部ではダメな言葉なので...らしい(その言葉がダメな理由は各自で調べてね)。まったく、そんな差別意図はないのにねえ
と言いつつ、このシングルはそのまんまでは再発する事が出来ないのは事実なのだ。なんせB面のタイトルがそのまんま...。

もっとも、差別用語とか言われている単語は放送局が「なんかクレーム付いたら面倒クサイので前もってNGワードとして規制しちゃおうぜ」という物で、法的に縛られる物じゃないので別に何も問題はないのだ。意図的に特定の人を貶める理由以外の場合は。

放送禁止の豆知泉

0000tiaki004政所を鎌倉時代は「まんどころ」と読んでいたが、どうやら北条政子の名前も当時の発音では「まさこ」ではなく「ま○こ」だったらしい。

藤子不二雄の「ジャングル黒べえ」は、未開地の人々が沢山出てくるために人権的な理由で発売禁止になっていると言われるが、実は出版社側の自主規制なので、藤子プロと出版社の折り合いが付けば発売は可能。
※政治的な歌は時代によって大きく変化する。60年代末期のフォークソング「自衛隊に入ろう」と言う曲は、逆説的に皮肉った曲で60年代末に放送禁止に指定された曲だったが、最近その曲を知った自衛隊の上部の人が「いい曲だね。これを自営官募集のCMソングに使えないか?」と言ったとか。

堀口大学の「黒ン坊」という詩。「黒ン坊の赤ン坊/赤ン坊の黒ン坊/黒ン坊の赤ン坊は赤ン坊でも黒ン坊」今ではとてもじゃないけど発表できない。

先頃、再版可能になった「ちびくろサンボ」は本来チベット民話。サンボとはチベット語で「優れた」という意味の名前。偶然に黒人芸人の蔑称として使われている言葉だったので、イギリス人作家が勝手に主人公を黒人の子供にしてしまった。とりあえずアフリカに虎はいませんから。

NHKの時代劇では片手落ちではなく、片落ちと言う。しかし、それでは一般的には「1世代前の機械」などの事を意味する。

あくまでも局の自主規制のガイドラインで放送出来ない言葉となっている場合があり、厳密な意味の放送禁止用語は存在しない。とりあえず「八百屋」「床屋」「板前」「レントゲン技師」「エディター」「サラ金」「色盲」「しなちく」「片親」「出稼ぎ」「パーマ屋」「町医者」「やぶ医者」「老婆」などが要注意らしい。

慣用句として人々が集うと言う意味で『○○のメッカ』と言う言葉があるが、これをTVなどで使用すると、必ずイスラム教の方から「メッカで無い場所をメッカと呼んではいけない」とクレームが入る。2年ほど前の野球シーズン終わり間際「道頓堀川のえびす橋はVダイブのメッカ」と発言した事に対し直後に訂正があった。

| | コメント (0)

2006年11月 2日 (木)

沢田研二「時の過ぎゆくままに」

Sawa009_3沢田研二/時の過ぎゆくままに
作詞.阿久悠/作曲.編曲.大野克夫
ポリドール/DR 1965
1975年08月21日/¥500



1967年にグループサウンズ(GS)のタイガースでデビューした沢田研二
ジュリーという愛称と共にGSを代表するアイドルになっていたが、そのGS人気も1970年代に入るといきなり下火になって1970年12月07日にタイガース解散(ソロアルバムはその前年の1969年12月01日にリリースしている)。

00sawa001その後、1971年にテンプターズの萩原健一(Vo.ショーケン)・大口広司(D)、スパイダースの井上尭之(G)・大野克夫(KEY)・タイガースの岸部おさみ(B.岸部修三→現在の岸部一徳)というメンツで、新時代のバンド「PYG」を結成。しかし、その後、大きなヒットもなく1972年に自然消滅をしている。

Sawa002PYGの活動と並行してシングル「君をのせて」でソロ歌手として活動も始め、2枚目の「許されない愛(1972/03/11)」が大ヒットし、レコード大賞の歌唱賞などを受賞し、ソロ歌手としての活動がメインになっていく。
そして表題の「時の過ぎゆくままに」は1975年8月に発売された曲だが、この時代はアイドル的な要素も強く、前年1974年に放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」の中で悠木千帆(現.樹木希林)が壁のポスターに向かって「ジュ....ジュリ〜〜〜〜」と叫んでいた事に象徴されるような時代だったのだ。

Sawa003しかし、そのアイドルとして絶頂期の1975年7月に沢田研二はザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚している。その結婚後第1弾シングルがこの「時の過ぎゆくままに」だった。
さらに、それまで沢田研二はドラマのゲストや単発ドラマなどの出演があったが、初の連続ドラマ主役として話題になった「悪魔のようなあいつ」というドラマの主題歌でもあった。
その話題性も十分あったとは思うけれど、この曲は盟友・大野克夫の珠玉の名曲で、出だしのギターフレーズから哀愁路線どっぷりで、さらにジュリーのボーカルがGS時代より格段に色気をましてしっとりと抑え気味に歌うという物。大野克夫が沢田研二という稀代のボーカリストの声質をいかに生かせるかという研究の末に作られた曲という雰囲気なのだ。

Sawa004この曲は90万枚を超える大ヒットとなって、結婚なんて物は人気には全然影響ないじゃんという状態ではあったのだ。
が、好事魔が多いということで、1976年に新幹線の中で暴言を吐かれ、それで暴行事件を起こし、しばらく謹慎となったワケです。
もっとも、復帰後は「アイドル沢田研二」ではなく「エンターテナー沢田研二」として1980年代までどんどんエスカレートして突っ走っていく事になるわけでやんす。

Sawa005とにかくこの曲は名曲中の名曲だと思っております。
ちなみに演奏は「井上堯之バンド」で、PYGの井上堯之・大野克夫・岸部修三(岸部一徳)が参加している。今は俳優だけのイメージの岸部一徳は、この「悪魔のようなあいつ」に俳優としても出演していますが、70年代までは同時にベーシストとしても活動していたのであります。

Sawa006で、ドラマ「悪魔のようなあいつ」という作品は、1968年12月10日に東京府中市で起こった「東芝府中工場のボーナス強奪事件」いわゆる「3億円事件」を題材にした物で、1975年6月6日〜9月26日に放送された。
主題歌はヒットしたんですが、実は視聴率的には思ったほどいかなかったらしく、本当は年末まで放送して、窃盗事件の時効7年の1975年12月10日前後にクライマックスを持ってくる予定だったらしいが、その前に打ち切りになったという。

Sawa007そしてこのドラマの脚本を書いていたのが映画監督としても有名な長谷川和彦。ここでジュリーの演技に惚れ込んで、原爆を安アパートの中で作り上げ政府を脅迫する男を描いた「太陽を盗んだ男(1979)」の主役に起用することになる。
東海村の原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、自宅で原爆を作ったけれど、目的が見あたらない犯人が「とりあえず今見ているナイター中継を最期まで放送しろ」と政府を脅迫したり「ローリングストーンズを来日させろ」と要求したりという、これも名作でやんす。

三億円事件の豆知泉

Sawa0083億円事件。結局は7年かかっても犯人が見つからず時効となったのだが、それに費やした捜査費用はおよそ3億3,000万円。

1968年に起こった「三億円事件」で盗まれた正確な金額は294,371,510円。あの犯人は562万8490円分のぬれぎぬを着せられたことになる。

奪われた金額を語呂合わせで読むと「にくしみのない強盗」

給料を銀行振り込み型にした第1号は1941年の大蔵省。貯蓄額倍増計画の一環としてだったが民間会社はほとんど実施しなかった。振り込み型が一般的になるのは1968年に三億円事件で給料輸送車が狙われたのがキッカケ。

| | コメント (0)

2006年10月24日 (火)

サディスティック・ミカ・バンド「NARKISSOS:ナルキッソス」

サディスティック・ミカ・バンドのニューアルバム「NARKISSOS:ナルキッソス」が発表された。


000micaba今年の春先に「木村カエラがボーカルで復活!」とブログでもネタにして、そこでミカバンドの歴史なども書いたワケですが、さらに歴史に1ページが加わりました。
キリン・ラガーのCMでは春から代表曲「タイムマシーンにお願い」が流れていたんですが、そこでの加藤和彦の声で「時代は変わる、ラガーは変わるな」とキャッチコピーを言うのも「あぁぁぁぁぁ」と自分的には毎回ゾクゾク来ていたワケっす。

加藤和彦がCMでこんなふうのキャッチコピーを言うのは、1970年代初期のモービル石油のCM。藤竜也と鈴木ヒロミツがエンストした車を手で押している物で、マイク真木が歌う「♪の〜んびり行こうよ俺たちは」のメロディーの最後に「車はガソリンで走るものです」とあの独特の口調で語るもので、これが少年期に刷り込まれているので、今でも加藤和彦の声を聞いているだけで幸せな気分になるでやんす。

加藤和彦とCMというと、1970年の富士ゼロックスのCMで加藤和彦が手に「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持ち、ただただ街を歩いている物があった。音楽も加藤和彦がこちらもただ「ビューティフル、ビューティフル」と繰り返すだけの物で、何のCMか全然判らない状態で延々と続き、ラストに「モーレツからビューティフルへ、XEROX」という文字が出る。というだけのものがあった。
ハッキリ言って、まだ小学生の低学年の時に見たCMなので印象には残っているけれど、一体何のCMなのかは不明だった。(というか、この文章を書くためにネット検索して初めて富士ゼロックスだと知った)
当時、加藤和彦は「フォーククルセダーズ」と「ミカバンド」の間の時代で、世間ではヒッピームーブメントやフラワーチルドレンなんて言葉の中心にいたハズです。

で、今回の木村カエラ版ミカバンドのアルバムなんですが、一言でいって「時代を超えちゃってますな」という感じ。初代ミカバンド自体が時代なんかとは関係ない場所にいたんですが、まさにそのミカバンドの「新作」という感じでもあるし、「前作の続き」って感じでもある。
新曲は加藤和彦作曲が3曲、小原礼作曲が3曲、高橋幸宏作曲が2曲、高中正義作曲が2曲で、それぞれの持ち味がバリバリに前面に出ていて、クレジットを見なくても誰が作曲したか判ってしまうんですが、それでも「ミカバンド」という音になっている。
CMでも使われ、先行発売(ネットのみ?)されていた「タイムマシーンにお願い」の音造りを聞くと今の時代っぽいミキシングを感じるけれど、その骨になる部分は70年代と変わっていないような気がする。

高橋幸宏の軽くて重いドラム。ややツッコミ気味だけど、ロールを多用するけれど、なんでこんなに自己主張がなくて存在感があるんだろうか、と、改めてその特殊性に感心する。
高中正義のクールで押しつけがましくないテクニック満載のギターフレーズ。
小原礼のドッシリと屋台骨を支えるベース。その裏でこっそりと縦横無尽に音を走らせて色を加えている。
加藤和彦はソロで弾くと味があるギターを抑えめにしてサイドに徹していますが、作曲とボーカルはどこに行っても加藤和彦。さすがトノバンなのだ。(トノバン=加藤和彦の70年代の愛称で、イギリスの60年代ヒッピームーブメントの代表歌手ドノヴァンが好きだった事からのネーミング)

で、木村カエラのボーカルがソロの時より格段に良い。メインボーカルとして歌っている時ではなく、高橋幸宏がメインで歌っている時に絡むコーラス的な歌い方とか、抑える歌い方も良い。
桐島カレン版のミカバンドは、良くも悪くも「桐島カレンという素材でミカバンドを作ってみました」という感じだったのに比べ、今回のミカバンドは完成度が高いと思うのだ。

売れる売れないを別にして自分的には2006年の名盤となりました。
ちなみにバンド名は「サディスティックミカバンド」ですが、ジャケットには「Sadistic Mikaela Band」となっている。(初代がMIka、二代目はMIca、三代目はMIikaelaですか)
※7曲目「Tumbleweed」の2分25秒の所で一瞬、音が震える状態になるんですが、最初iTunesに取り込んだ物を聞いたのでそのせいかと思ったんですが、CDもそんな感じ。これって意図的なアレンジなんですかね?

| | コメント (3)

2006年10月20日 (金)

芳本美代子「白いバスケットシューズ」

Micchon001芳本美代子/白いバスケットシューズ
作詞.松本隆/作曲.編曲.井上大輔
テイチク/RE-667
1985年03月21日/¥700
-------
現在は昼ドラなどの主演をするような中堅女優になっている芳本美代子。愛称はミッチョンてなワケですが、一般的にはアイドル歌手としての活動はあまり話題にならなかったと思う。


Micchon002彼女は1983年、13歳の時に九州朝日放送が主催した「第5回福岡音楽祭」というアマチュアのコンテストに応募して、そこで落選した事がキッカケになってデビューしている。
そこでテイチクレコードにスカウトされ、1年のレッスン後に上京。さらに1年後の1985年3月にこの「白いバスケットシューズ」でデビューしている。
で、アイドルとしては思いっきり正統派だったんですが、売れなかった理由は色々な物が重なっているような気がする。(八重歯というのも正統派っぽい)

Micchon003前々から書いているように、1982年組と呼ばれる、松本伊代・小泉今日子・中森明菜・早見優・堀ちえみなどなどがデビュー数年経った状態でも売れ続けていて、新人が入り込むのがかなり困難な状況の上、1982年組がアイドルブームを牽引し、各事務所もアイドル育成にチカラを入れ始めていた。
同期に中山美穂・斉藤由貴・南野陽子・本田美奈子というメンバーがいて、彼女は当時ドラマ展開をしなかったというのも知名度を上げる事に失敗していた。

Micchon005さらに所属レコード会社テイチクというのが、基本的に演歌系レコード会社でアイドルを売り出すノウハウがほとんど無かったというのも敗因と思われる。なんせ、テイチク所属のアイドル歌手で1970年代1980年代でオリコン10位以内に入ったのは高田みづえと芳本美代子だけ(高田みづえは演歌系って気もするけど)。

Micchon006そしてデビューした翌月、4月から「夕やけニャンニャン」が始まっていて、そこでアイドルの求められる資質が「幻想的な正統派アイドル」から「隣にいても不思議じゃない等身大アイドル」へと変質していった。そういう意味では、タイミング的にあんまりよくないデビュー時期だったのではと思ったりもするのだ。

Micchon008楽曲的には松田聖子のプロデュースを離れた松本隆が、斉藤由貴と共に芳本美代子に詩を提供しアルバムなどでも全曲の詩を担当している。
松本隆は、松田聖子で非日常な世界へ飛びすぎた詩世界をリアルな現実の学生生活などに引き戻す作業をしていて、このデビュー曲などでも二人で海辺に行っているけれど、そこは松田聖子のようにセイシェルでもマイアミでもなく、極々近場の海という印象。きっと足元には空き缶が転がっていそうなムードではある。

Micchon009で、タイトルに「バスケットシューズ」という単語が出てきて、歌詞にも「スタジアムジャンパー」が出てくるけれど、詩の内容にスポーツは一切関係していないというのも、時代的な気がする。
それまでの歌詞ではテニスコートが出てくれば相手はテニス部の部長だったりしていたワケですが、ここではあくまでも「スポーツウェアはすでにファッションアイテムとしての記号でしかない」という時代に入っているのだ。

Micchon011ちょうど、アディダスとかがスポーツとは関係ないラッパーの制服になっていた様な時代で、街履きとしてナイキが流行し始めたのとリンクしている(スタジアムジャンパーは80年代初期にブームがあったけど)。
と言いつつ、芳本美代子自身は中学時代にバスケットをやっていたというので、その関係もある。

メロディは良くも悪くもアイドルポップスで、今改めて聞き直すと良質なメロディという感じもするんですが、あの時代には古くさかったのかも知れない。(音的には過剰なエコーが聞いているってのは大瀧詠一の影響なんすかね?)

| | コメント (0)

2006年10月19日 (木)

槇原敬之と松本零士のパクリ問題:3

ブログの順番でこっちが上になってしまってますが、槇原敬之と松本零士のパクリ問題:3


歌詞のパクリだったら、もっと凄いのは山ほどいる。
例えば五木ひろし「よこはまたそがれ(作詞.山口洋子)」辺りはフランスの古い詩の翻訳みたいな流用だったり、松本隆もディランとかの詩を翻訳してまんま使ってます。

思いっきり判りやすい物では中原中也「在りし日の歌」に収録された「頑是ない歌」を、どっかで国語教師をしているあの人がマルッとコピペして作詞に自分の名前をクレジットしてます。(この曲の歌詞カードに元ネタとかの明記あるんでしょうか?)
自分はずっとこの曲、中原中也の詩を元に曲として組み立て直した物だと思い続けていたんですが、10年ほど前のインタビューを読んでびっくりしてしまいました。
なんせ「実はこの詩を書いた時、自分はまだ20代だったんですが、今思うとよくこんな深い意味の詩を書けた物だと、自分の事ながら感心しています」と答えていたわけで。
60年代からのフォークムーブメントの中で、古典的な詩に勝手にメロディを付けて歌うという流れもあったけれど、それの一種なのかなぁ。
それとも「元ネタは有名なのであえて引用と説明しなくてもいい」という感じなんすかね?

曲の方の詩は著作権の問題で掲載できませんが(今回、槇原の関係で検索して歌詞のコピペが山盛りになっていてビックリ)、中原中也の方は著作権保護期間が過ぎていますのでコピペ。

「頑是ない歌」中原中也
思へば遠く来たもんだ/十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた/汽車の湯気は今いづこ

雲の間に月はいて/それな汽笛を耳にすると
しょう然として身をすくめ/月はその時空にいた
それから何年経つたことか/汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつていた/あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち/思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時(いつ)までか/生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど/遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては/なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り/結局我ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら/いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ/結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして/どうにかやつてはゆくのでせう

考えてみれば簡単だ/畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方ない/やりさえすればよいのだと
思うけれどもそれもそれ/十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた/汽車の湯気は今いづこ

| | コメント (0)

2006年10月18日 (水)

槇原敬之と松本零士のパクリ問題:2

ブログの順番でこっちが上になってしまってますが、槇原敬之と松本零士のパクリ問題:2


槇原側が「もしかしたらどっかで聞きかじったフレーズが出てきたかも知れない」と答えたそうですが、その後、松本零士が「じゃ、引用したって事で表明して貰えますか?」と言いだし、それに関しては槇原敬之は「それは出来ません」と答えたことから、さらに問題はこじれているという。
創作物ってのはゼロから出発する物ではなく、その人が過去に見聞きした物が濾過されて出てくるような部分もある。「絶対に影響を受けていない」という否定は実は難しい。その辺も松本零士は判らないのかなぁ。

実は同じようなことが自分にもあった。
自分のサイトの初期は「雑学」と同時に「現代用語の基礎的ではない知識」という、お笑い系辞書というものを二本柱にしていた。
それだけのメルマガも発行していた。
その中でとあるネタを書いた処、突然、デーモン木暮を気取っているかのような文章で「貴殿は余の書いた文章をパクったな」とメールが届けられた。
その内容は、そこに書いてあるネタがその人物がやっている同傾向のサイトに掲示しているネタと似ているという物だった。その人物のサイトにいってそこを見ると確かに似たネタがあった。
でも、そのメルマガに乗せたネタはずっと昔、パソコン通信時代に書いたネタを再掲載した物だったので、パクリって事じゃないのは明かなのだ。

で、相手の要求は「メルマガに掲載したネタはパクった物だ」と、自分が発行しているメルマガに謝罪文を載せて、その人物のメルマガとサイトの宣伝を掲載せよという物だった。その人物もメルマガを出していたとその時知ったんだけど、その時点で相手のメルマガの発行部数は自分のメルマガの半分以下(もっと少なかったかも知れない)。
そこで「最初に発表したパソコン通信のネットはまだ健在なので、そこでチェック出来る」と言ったワケですが、普通の人はパソコン通信に繋ぐことが出来るモデムなどを持っているハズなく、さらに自分さえももうモデムはしまい込んでいて何処に行ったか不明状態だったので、再確認できなかった。(相手はそれ以前に、そんなの確認する必要はないとハナから言い放っていたけど)
その後、色々面倒な事があって(掲示板荒しとか)自分の中でその辞書作成の意欲がダウンして、結局そっちは終わってしまった。(まだ掲載しているので、完全に終わったワケじゃないっす)

世の中には偶然という物は存在する。だって、最初の創作物だって人間が考え出した物なんだから、それを同じような事を別の人間が考え出したって不思議じゃない。
松本零士も物を作る人間としてそこへの柔軟さは無かったのかなぁ
「物を作る人間としてこの様な事はあり得ない」と言っていたんですが、そんなメジャー作品からのパクリだったら恥ずかしくてとか怖くて出来ないと思うんですが、オリジナルだと思っているから発表出来たんだと思うんだけど。

たぶん今頃、某巨大掲示板の方ではそんな話題の好きな方々が無条件で槇原を叩いたりしているんだろうなぁ。以前も某歌手の事で書いているのを読んだけれど、そこでは極々一般的な言葉が数個他の歌手の曲と同じだっただけで大騒ぎしていたので。

ま、最終的には双方が結局付けてもらう事なので、他者がどうこう言う話じゃないっすけどね。
(続く)

| | コメント (0)

2006年10月17日 (火)

槇原敬之と松本零士のパクリ問題:1

槇原敬之がCHEMISTRYに書いた「約束の場所」という曲の歌詞が、松本零士の「銀河鉄道999」に出てくるフレーズにそっくりという事で、松本零士がパクリだ!と語っている。(実際に報道されたのは木曜からですが)


「約束の場所」♪夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない
「銀河鉄道999」時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない

Maki061025aという事なんですが、最初ニュースで「槇原敬之、盗作!」という事でタイトルだけ聞いた時はどんなトンでもないパクリかと思ったワケですが、そうですか、そんな感じですか。
そのワイドショーでも「松本さんがそう言って怒っています」という事は報道しているけれど、論調としては「ま、パクリとかウンヌンってのは難しい問題だからねえ」という感じなのか、ほとんど触れずに他のニュースに移動している(北とかイジメとか大きなニュースがある時期ですからね)。

確かに同じフレーズの羅列で繰り返しなので同一性を感じます。
でも盗作ってのは難しい部分があって、自分の場合、ずっとずっと昔、作詞作曲なんかやって某コンテストなんかに出たり色々やっていた時、自分が作って友人にしか聞かせていない曲とサビ部分がそっくりの曲がラジオから流れてきてビックリした事がある。
それ以外にもメロディだけじゃなく、歌詞に関しても「このワンセンテンス丸々同じじゃん」と、自分が考えた物と同じような作品が後から出て来るというのを経験した。

Maki061025もちろん、松本零士の作品は1977年(来年30周年)に発表して、アニメにもなって大ヒットして、そりゃ大量の人に見聞きされているので、パクろうと思えばいくらでも出来る。槇原側が「あの漫画は読んでいない」と言っても「どうだかね」という感じでもある。
逆に言うと、999ファンには有名なフレーズらしいので、そんな有名だったらバレバレのことはしないと思うけど。
でも、自分は「銀河鉄道999」を思い入れもなく読んだことあるけど、そのフレーズは記憶に残っていなかった。

松本零士はこのフレーズを気に入って何度も使っていたというけど、だとすると30年間の間に「松本零士の作品」ではなく、多くの人が使う「出展を知らないけど漂っている言葉」にまで進化していたんじゃないかと思ったりするのだ。漫画を読んでなくても、誰かが使っていたとか、どっかで読んだとか。(槇原のラジオなんかのリスナーがハガキにポツリと書いてあったフレーズでなんとなく記憶していたとか)
松本零士の漫画もそこそこ読んでいて、槇原敬之の曲もそこそこ聞いている自分なんですが、なんか松本ぉそんな事で騒ぐなよと思う部分もあるし、槇原ぁオマエの周囲にはそれを指摘する人いなかったのかよと思う部分もある。

Maki061025cでも、松本零士がパクリパクリというけど、そもそも「銀河鉄道999」って、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が元ネタなんじゃないの? そこはどうなのさ。
ついでに主人公「星野鉄郎」の名前の元ネタ作詞家の星野哲郎はどうなのさって感じなのだ。
ちなみに蒸気機関車が宇宙空間を飛ぶという作品の映像化作品だと、1904年のフランス映画「とんでもない航海」のほうが先。(宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は1924年頃から書き始められ、完成は死の直前1933年)

Maki061025dちなみに松本零士は2002年に「宇宙戦艦ヤマト」の著作権に関して、プロデューサーの西崎義展と裁判で戦い、「著作権は西崎にある」と敗訴している。(ヤマトの企画自体、西崎がアニメ用に立ち上げた物で、そのキャラクター設定などで松本が関わり同時に漫画化もしたので、あくまでも作者は西崎ということらしい)その後、2003年に和解し共同著作となっている。

パクリか、パクリじゃないかは、双方が決着付ける問題だと思うけど、個人的には「なんか松本零士がちっちゃい男に見えた」って感じ。常日頃語っている男のロマンとかとは全然別次元の人だなぁ
もっと腹を据えて「マッキーの曲のフレーズが999に出ていたフレーズが酷似しているんですが」と聞かれた際に「言葉は語られ、伝えられていく物です。自分が考えたフレーズでも発表した後は、それを読んだ各人の言葉になるのです」ぐらいに言って欲しかったなぁ
(続く)

| | コメント (1)

2006年10月 8日 (日)

バンバン「「いちご白書」をもう一度」

0001_3バンバン/「いちご白書」をもう一度
作詞.作曲:荒井由実/編曲.瀬尾一三
CBSソニー/1975年8月


NTVの「ものまねバトル」をぼけーっと見ていた。
とりあえず対戦形式だけど「ものまねが似ている」より「笑える」が勝ったり、客席審査員が若いって事で「昔の曲で凄く似ている」より「今の曲をさほど似ていないけど歌っている」ほうが勝ったり、まそんなもんすね状態でやんした。
この手の番組の勝ち負けを気にする人はそういないので構わないのだ。

映画「いちご白書」サントラ
0000_23しかし、ちょい引っかかったのは「ばんばん/「いちご白書」をもう一度」が流れた時のナレーション「学生運動が盛んだったあの頃、誰もがこの曲に心を振るわせていました」というのが、あまりにもデタラメで「ナレーション原稿を書いた作家、呼んでこ〜い!」状態でした。
とりあえず、この曲では確かに60年代末にあった学生運動に関係した事が歌われているんだけど、それは学生運動が華やかだった時代に流行った「いちご白書」という映画を見たという事が前提にあって、それを一緒に見た当時の彼女を思い出している歌。
当然、学生運動があった時代の曲ではなく、いわゆる政治の季節が過ぎ去った後の虚無的な空気を歌っている曲なのだ。

0002_4映画「いちご白書」は1970年にアメリカで公開された映画なんだけど、日本での公開は1971年の5月。日本における学生運動のピークは1968年7月からの安田講堂のストが1969年1月に排除された時に終わったような状態。1972年2月の浅間山荘事件の時は「学生運動の超末期」でどうにもならなくなった学生運動の過激派が追いつめられた事件という事になる。
その時に二人で見た映画の事を「キミもこの映画が再びリバイバルで掛かっていたら見るんだろうか?」と歌っている。
しかもこの曲は1975年にリリースされていて、学生運動が盛んだった60年代末は遥か彼方の話になっていた。いわゆる「しらけ世代」とか言われ始めた頃の曲。
「学生運動が盛んだったあの頃、誰もがこの曲に心を振るわせていました」って何?

0003_3この曲はバンバンというグループが歌っていて、バンバンのグループ名はボーカルの「ばんばひろふみ:馬場弘文」の名前から来ている。
1971年に3人組(馬場弘文・高山巌・今井ひろし)としてデビューし、後に4人になり、この曲の時、1976年には2人となっていた。
途中で抜けたメンバーに、1993年に突然「心凍らせて」という曲をヒットさせ紅白歌合戦に出場した演歌歌手・高山巌がいる。バンバンを抜けた1975年7月にシングル「忘れません」でデビューをしている。(表題の曲はその翌月8月リリース)

0004_2この曲は「もう次の曲が売れなかったらレコード会社との契約も切れるので、これが最後の勝負」という所まで追いつめれた状態でリリースされた曲と言われている。
作詞作曲は荒井由実(ユーミン・現在は松任谷由実)で、彼女は1972年デビューなんですが最初は売れなかったが、徐々に注目を集め始めていた頃で、ばんばが「この人は凄い曲を書く」と自ら出向き曲を依頼したと言われている。そして、曲をリリースした途端にヒットしオリコンチャート1位になってしまった。

実は、ユーミンにとっての初めてのオリコン1位曲がこの曲で、その後の1975年10月にリリースした「あの日にかえりたい」で歌手として初めての1位を記録している。
その次の曲もユーミンの曲で「霧雨の朝突然に・・・(1976年2月)」、さらに次はさだまさしの「縁切寺(1976年8月)」、そしてばんばひろぶみのオリジナル作詞作曲「青春のラストページ(1977年6月)」が最後のシングルとして、バンバンは解散をしている。

| | コメント (1)

2006年9月17日 (日)

西城秀樹「ジャガー」

0西城秀樹/ジャガー
作詞.阿久悠/作編曲.三木たかし
1976年/¥600
RCA/RVS-1011


なんつーか青春ってヤツは取り返しが付かないほど周囲が見えないパワーで前のめりでぐいぐい行っちゃうのだ。
人間には二種類あって、それを後で「恥ずかしい」と思ってあまり語りたがらないタイプと、それを「武勇伝」として自慢げに話をするタイプがある。
前者というのは、客観性を持っているので問題はないのだが、後者はとにかく自分の熱さをむさ苦しいとか思わず、年々「これでいいのだ」とその熱さをさらに増幅させていっちゃうのだ。そこまで生きてきた自分のスタイルが間違いとは思っていないので、若い時以上に熱くなっちゃうのだ。

そんなこんなで歌謡界には「青春物」というジャンルがある。歌謡曲自体が若い世代をターゲットにしているので、全部青春物ではないか?と思われがちだが、自分的には「伝えたい思いが歌からこぼれちゃっている曲」を青春物と定義している。
そのこぼれちゃっている部分は「語り」だと思う。ここで青春独特の青臭さが表面化する。
例えば近藤真彦の「さよならなんて言えないよ、バカヤロー!」という絶叫型が典型的だけれど、他には加山雄三の「幸せだなぁ僕は君といる時が一番幸せなんだよ」と言う語りなども青春の蒼さプンプン。
女性でもあべ静江なんかが「お元気ですか、そして今でも愛していると言ってくれますか?」なども青臭い感じがします(古い例えを中心にお送り致しております)。

そんな中で青臭いとか青春とか絶叫とかを通り越して、ワケ判らなくなっちゃっているのが西城秀樹の「ジャガー」という曲。
西城秀樹の「白い教会」という曲の中にあるセリフでも「涙なんか、涙なんかいるもんか!ばかやろぉぉぉ!」という近藤真彦の原型が歌われている。とにかく70年代の西城秀樹は熱かった。

とりあえず「ジャガー」というタイトルの曲なので、ジャケットにもそれらしいシルエットが描かれています。で歌詞の中にコーラスで何度も「ジャガー」という言葉が出てくるんですが、歌詞をいくら読み返してもそれが動物のジャガーに繋がりそうな部分がない。なぜジャガーなのかが一切説明されていないのだ。
延々と「オレは愛に命をかけるぜ!」という事が歌われている。阿久悠という作詞家はただ者ではないという感じがプンプンするのだが、やはりそこには西城秀樹という熱さを誘引する媒体が存在しているのだ。

で、一番と二番の間に長い語りがあるんですが、そこがとにかく熱い。
「君が死んだら 俺は死ぬ、でも 俺が死んでも君は死ぬな!
  君ひとりでも愛は生きる、俺ひとりでは愛は死ぬ!」

もう何を言っているのか自分でも判っていないんじゃないかという感じの迷走具合。
最初の一行はいいんですが、二行目に至っては「俺が死んだとしても君は俺との愛を育み続けろ!」と言っておきながら「でも君が死んだら俺は君との愛を続ける事は出来ない」と、死んじゃったら別の女を好きになっちゃうよ的な感じの事を平然と言っちゃっているのだ。君が死んでも俺も愛を守り続けろよとか思うのだが、なんつーか自分勝手に熱くなっちゃっていないか?状態。

さらに熱いお言葉は続く。
「しゃべるな!何も言うな!!目を見ろ 何が見えたか?
  炎が見えたか!? 君を愛する炎が見えたか!!」

もうね、相手に何も考える余裕を与えないで、質問→すぐ答えを自分から導き出して相手に強要するという、田原総一朗並の矢継ぎ早さ加減。
そこで小泉政権が終わり、安倍政権がどう変化すると思う?え?安倍は小泉と違う?そう思う思わない?そうじゃないの?え?もちろん安倍は違うとは言えないよね?えどうなの?あここで一旦コマーシャル。と。
もうオウム真理教のマインドコントロール時並に、相手に何も考える余裕を与えずにその教義を頭に流し込んでいるのと同様の手口なのだ。

ヒデキは勝手に「炎が見えたか?」と結論を出した直後に、勝手に舞い上がってこんな事を言い出す。
「さあ来い 飛んで来い、抱いてやる! 抱いてやるー!」
もうテンション上がりまくって結論は「ただ抱きたい」だけじゃないかという感じがしちゃう、とにかく熱い男なのだ。

ちなみに70年代後半、いきなりヒデキは爽やか路線を打ち出してきて「聖少女」とか歌い初め「僕の音楽ジャンルはロックでもポップスでもないポップンロールなんですよ」と恥ずかしい事を言い出すような男に成り下がってしまいました。
いつまでも血管が切れるギリギリの男でいて欲しかったのだ。

西城秀樹の豆知泉

西城秀樹はザベストテンで「好きな本は?」と黒柳徹子に聞かれて、迷わず「SMです」と答えた。(後に「あれはSFと言おうとしていたけど、歌直前だったので慌てていて」と釈明)

辺見えみりは4歳の時に親が離婚して母・辺見マリに引き取られているが「父親も芸能人で...」ぐらいしか教えられていなかったので、小学校低学年頃まで「自分の父親は西城秀樹」と思いこんでいた。(正解は西郷輝彦

河合奈保子は「西城秀樹の妹コンテスト」で選ばれてデビューしたという経緯を持つ。というのは有名だが、実は「秀樹の妹・弟コンテスト」で男性の応募も可だった。その時応募した男の一人が後の松尾伴内
第2回は「妹コンテスト」と女性限定になり、こっちの優勝は石川秀美

ヒデキというと「ハウスバーモンドカレー」のCMが有名だが、それ以前のCMタレントは俳優の原田大二郎

実はヒデキは甘いカレーが大の苦手で、CM撮影の時は子供に混じってカレーを食べるシーンで、ヒデキだけは特注の辛口を食べていた。

ヒデキの結婚式の引き出物に入ってた「ハウスバーモントカレー」は超極甘味。

ちなみにリンゴとハチミツの入ったカレー「バーモンドカレー」はなぜ「バーモンド」なのかと言うと、これの発売当時、アメリカ.バーモンド州の研究者が「リンゴとハチミツを摂取すると体によい」という「バーモンド療法」を提案していた事からのネーミング。

| | コメント (0)

2006年9月14日 (木)

真鍋ちえみ「ねらわれた少女」

0001_2真鍋ちえみ/ねらわれた少女
作詞.阿久悠/作曲編曲.細野晴臣
CBS SONY/07SH-1150
1982年05月01日


真鍋といったら「眞鍋かをり」ではなく「真鍋ちえみ」...でもなく、自分の場合はイラストレーターの「真鍋博」さんでやんす。(星新一の挿絵で有名)
ということで、たぶん殆どの人が知らない80年代アイドル真鍋ちえみの1982年のデビュー曲「ねらわれた少女」。時代的にいったらモロに「ねらわれた学園」+「時をかける少女」って感じで角川かよ!という状態ですが、作詞は阿久悠。さすが腐っても阿久悠(この時期、低迷していた)キッチリとリアリティの無い状況がつかめない詩を書いています(褒め言葉)。
作編曲が細野晴臣なんですが、そのアイドル歌謡とは思えない楽曲をリアリティの無い歌詞で逆に地上につなぎ止めている感じがあります。

唯一のアルバム「不思議・少女」
0002_3真鍋ちえみはオスカープロモーション所属で、80年当初のアイドル時代到来を見てモデル事務所だったのが「うちでもアイドル出そうぜ」と3人の女の子(北原佐和子・真鍋ちえみ・三井比佐子)を「パンジー」というグループ名でデビューさせた。と言っても、3人で曲を出したワケではなく「セット販売」という状態でバラエティなどに出演して1作だけ映画『夏の秘密』にも出た。そして歌手としてそれぞれがソロデビューした。

この曲を作った頃の細野晴臣はYMOをやっていた時代で、その前年1981年に「BGM」と「テクノデリック」という名作アルバムを発表している。「テクノデリック」ではそれまでサンプリング音源を楽器としてそのまま使用する方法論(ビートルズが愛用したメロトロンなどの考え方)を進化させて、日本で開発された「LMD-649」というサンプリングマシンを使い、音源をさらに加工し新しい音源を生み出す事を実践している。そこで活躍したプログラマーが松武秀樹。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0003_2実は「ねらわれた少女」はそこで作り上げたシステムを歌謡曲へ導入した実験台でもあったのです。もっとも、「テクノデリック」ほどの重い音はさすがに使えずに、やや薄目になっている。それでも異様なアイドル歌謡ですが。
この曲の前年1981年に、細野晴臣は作編曲で「イモ欽トリオ・ハイスクールララバイ」をリリースして大ヒットしている。こっちの曲はYMOでも初期の「ライディーン」路線で、YMOのパロディになっている。
ちなみにイモ欽トリオの名前は「たのきんトリオ」のパロディですが、パンジーは「女たのきんトリオ」などと揶揄される事もあった。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0004_1しかし、残念なことにこの曲は売れなかったらしく、2曲目はガラッと方向性を変え作詞.安井かずみ/作曲.加藤和彦のルンバ調の曲「ロマンティックしましょう(1982.08)」。(でも加藤和彦マニアの自分はこの曲も好き)もっとも、この曲も売れたという話は聞かない。
その後、アルバム『不思議・少女(1982.08.25)』を出しテクノ寄りに戻り、3枚目のシングル「ナイトレイン・美少女(1982.10/細野作曲)」で歌手活動に終止符を打ち、モデルになり雑誌「CanCam」の専属になった。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0005アルバムはプロデューサー酒井政利、スーパーバイザー(監修)細野晴臣で、全体的にテクノ寄りの音造りがされている。と言っても、「ねらわれた少女」以外の楽曲のアレンジに細野は関わらず、清水信之が「細野的」要素をちりばめながら行っている。

音的には確かにテクノ寄りの感じもするワケで、アルバムの歌詞カードには自慢げに「E-μ Synthesizer」「Roland MC-4 」「LMD-649」「Prophet-5」「Jupiter-8」の写真が記載されている。テクノ小僧には憧れの楽器だったわけですが。(今聞くと、当たり前の音造りという感じがしちゃうのは、今の音楽は普通に電子楽器が取り入れられているって事なんですが)

真鍋ちえみのボーカルはお世辞にも上手とは言えない物ですが、その表情を作れないボーカルがある意味テクノ的だったのかもしれません。しかし、彼女的には歌詞カードで「アルバムの中で一番好きな曲はGood・by-Good・byです」と、アルバム中もっとも非テクノな普通な曲(大貫妙子作詞作曲)を選んでいるあたり、色々難しい部分があったんだろうなぁと思ったりするわけでやんす。

細野晴臣はもともとカントリー系(南国系とか楽園系とも)の曲が得意な人で、作曲能力も高いので、メロディだけ取り出すとテクノではなく純然たるポップスが多い。
この曲の翌年1983年には中森明菜「禁区」なども書いている。
ついでに言うと、アイドル真鍋ちえみにこの様な「重いテクノ系」の楽曲を与えてしまった細野を含めたYMOは、翌年からアイドルおじさんとして「君に、胸キュン。」などの、軽薄にポップなテクノ曲を自らが歌い始めていくことになる。

| | コメント (0)

2006年9月 8日 (金)

三田寛子「駈けてきた処女-おとめ-」

00_19三田寛子/駈けてきた処女-おとめ-
作詞.阿木燿子/作曲.井上陽水/編曲.萩田光雄
CBS SONY/07SH 1131
1982年3月/¥700


先日の秋篠宮家、長男誕生のワイドショーで三田寛子がコメンテーターをしていたのを見て「なんで?」と思ったんですが、そこで「うちも色々と跡継ぎという事で男児を望まれていて、最初かなりのプレッシャーを感じていたんですが」と語っていて、なるほどなぁと思ったワケです。
中村橋之助と結婚したことで、いわゆる梨園とよばれる歌舞伎役者の家庭に入ったので、それなりに大変なんだろうなぁ。(現在3男のおかあさん)

00_20三田寛子は雑誌「セブンティーン」のモデルオーディションに合格し芸能界入りし、その後はヒットドラマ「金八先生」の後番組「2年B組仙八先生」高坂ひとみ役で1981年4月に女優デビューした。
仙八先生は主演・さとう宗幸が歌う挿入歌の「青葉城恋唄」がヒットしたけれど(主題歌は「萌ゆる想い」)、あからさまな金八の便乗番組ということで、その後スペシャルが1回1984年にあったが続編はなく終わった。(2年生という事で、最終回が卒業式じゃないので盛り上がらないでしょうがないと思うけど。ついでに1984年に放送されたスペシャルの内容が卒業生に覚醒剤の魔の手が伸びるという20年後(2004〜05年)の金八(7)を予見させる内容)

もっとも、このシリーズは金八にせよ、仙八にせよ、新八にせよ、貫八にせよ、女性アイドルの登竜門ではなかったような気がする。三原順子つちやかおり伊藤つかさ川上麻衣子などなど。

00_21番組終了が1982年3月26日で、その前の週1982年3月21日に「駈けてきた処女-おとめ-」で歌手デビューした。
「処女」という表記も話題になったけれど、井上陽水が作曲というのもかなり衝撃だった。
さらに、アイドルというのは基本的に標準語というのが当たり前の時代だったんですが、彼女の場合はどう頑張っても京都出身という事で「京言葉」が見え隠れてして、さらに普通に歌っていても「それ京都のイントネーションだよね?」というのが出ていて、ほほえましい限りでした。

00_22さらに2曲目「夏の雫」になると作詞作曲はそのままで、編曲に坂本龍一が参加するという、かなりチカラ入れてんだろうなぁという感じの楽曲。
井上陽水は陽水で歌いにくいメロディだし、阿木燿子は言葉遊びなのか「海」に引っかけて歌詞の中に「Kumi and Rumi」とか「Yumi and Fumi」という、誰それ?という人名をいきなり出してきて、読めば読むほど詩の世界が理解しにくいほど難解だし、坂本龍一の編曲もやけに複雑で展開がありすぎで「アイドルの曲としてはどうかと」いう感じに仕上がっている。
ジャケット写真も「もしかして山口百恵路線?」という三白眼だし。
なんか、考えすぎて、懲りすぎて、結果として全てを置き去りにしている感じが濃厚なのだ。

00_23その失敗からなのか、3枚目は南沙織「色づく街角」のカバー、4曲目オリジナル「ひとりぽっちの卒業式」を挟んで5曲目も村下孝蔵「初恋」のカバーとなっている。
シングル14枚、アルバム4枚出したハズだけれど、歌手としての三田寛子の印象はかなり薄く、その京言葉のイントネーションと周囲とリズムのずれっぷりが一般的には有名で、いつしかバラエティに多く出るようになっていった。
たぶん最初にそのキャラが表面化したのは「笑っていいとも」の「寛子のお菓子大好き」というコーナーだったと思うけれど、たぶん本人はそのズレっぷりには今でも気づいていないのではないかという感じなのだ。

00_24しかし、今回ジャケット裏を見て「そうだった」と思い出したのが、三田寛子という何の変哲もない、言ってみれば芸能人じゃなくてもありがちな名前が芸名で、本名「稲垣敦子」なんすね。(今は苗字は中村ですが)

ちなみにデビュー曲がセーラー服ジャケットですが、以前書いた「セーラー服ジャケット」の際にすっかり忘れていました。
実はあの後、レコードを整理していたらいくつもセーラー服ジャケットを発見したので、それはまたいつの日か。(「駈けてきた処女」の夏セーラー、半袖の腕部分が腕章のようになっているのってかなり珍しいんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか)

三田寛子

三田寛子は「恋するメトロ」を歌っていた時「メトロって地下鉄の意味だよ」とタモリに教えられて落ち込んだ。人の名前だと思っていたらしい(って誰も教えなかったのか?)、とりあえず歌詞の出だしは「地下鉄でめぐり逢い♪」

三田寛子は決まっていた連続ドラマに「セックスしました」という台詞があったので「そんな言葉言えない」とダダをこねて降板した事がある。その代役は、同じ桜中学出身の川上麻衣子が演じた(川上さんはあの写真集出すようなオープンな方なので、怖い物なしかと)

| | コメント (1)

2006年9月 3日 (日)

おかわりシスターズ「恋をアンコール」

0002_2おかわりシスターズ/恋をアンコール
作詞.峰岸未来/作曲.編曲.佐藤準
フォーライフ/7K-137
1984年2月/¥700


大学生の学力低下が叫ばれて久しいわけですが、その象徴的な物が1983年4月にフジテレビの土曜深夜枠で始まった「オールナイトフジ」という、女子大生を多数集めてワイワイやっていた番組。
最初は東京ローカルだったので局地的な人気だったとは思うんですが、いわゆる「NEXT DOORS GIRL」隣の女の子的な親しみやすさで人気が出て、その中から人気の高かった3人が「おかわりシスターズ」として『恋をアンコール』でレコードデビューを果たした。
ジャケット左から
※松尾羽純:1973年06月01日生まれ(杉野女子短大)
※山崎美貴:1974年10月28日生まれ(東海大学)
※深谷智子:1973年07月21日生まれ(日本女子大学)

0001_1同時にフジ的には「美味しい素材を見つけた」と思ったのか、その年のフジテレビ「軽チャーっぽい」のキャンペンガールとして採用した。
この番組での女子大生は、70年代にあった「女子大生=賢い近寄りがたい才女」のイメージから大きく逸脱して、アホな事ばかりやったり、一般常識クイズに全然答えられなかったりして、最終的にキャッチコピーが「私たちはバカじゃない」という、トホホな物になっていった。(同名の本も出ている)

このオールナイターズ=女子大生というテレビ的に美味しい鉱脈(安い出演料&それぞれが新鮮なキャラ)を発見したフジと番組の構成をしていた秋元康は、さらにその中で「オールナイトフジ高校生大会」を企画し、それが夕方の帯番組「夕やけニャンニャン(おニャン子クラブ)」へ連なっていく。
実際の事を言えば、女子大生より新鮮な女子高生中心の夕やけニャンニャンが始まった1985年以降はこの番組の勢いは急速に失われていくワケですが。

0003_1で、この「おかわりシスターズ」が歌っていた楽曲ですが、素人女子大生が歌っていた曲なので安易な物と思われがちなんですが、楽曲としては実に良くできたリゾートポップス。ボーカル力のなさは目をつぶるとしても、あの時代を見事に切り取っている曲だと思うわけで、逆に「素人だからこそのリアル」がそこにあったんだと思うし、それ故に人気があったんじゃないかと。

オールナイトフジが人気を得てから新メンバーとして入ってきた女子大生は、あきらかに芸能志向が強く「なんとか芸能界に」という嫌なハングリーさが前面に出ていて(あるいは事務所臭さ)、おもしろみも失われていったような気がします。

4枚目の「虹色のカノン」は、女子大を卒業する事でオールナイトフジも卒業するという事でラストシングルとなっている。(同時に解散記念アルバム「L.A.S.T」もリリース)
この番組以外の活動としては月曜ドラマランドで漫画「アイドルを探せ!」の実写版に主演していたりします。

00_18松尾羽純・深谷智子は卒業後は普通に就職をしたが、山崎美貴だけがその後芸能界に残り女優を続けた。(現在も活動している山崎美貴のサイト

良くも悪くも、バブル前ののんきな時代の大学生という印象で、陳腐な表現ですが「等身大」という言葉が似合うグループだったんだなぁと今になって思ったりするわけでやんす。

| | コメント (0)

2006年9月 2日 (土)

アラジン「完全無欠のロックンローラー」

0001アラジン/完全無欠のロックンローラー
作詞作曲.高原茂仁
1981年11月/¥700
キャニオン/7A0135


一発屋といったら、まずこの人。派手なパフォーマンスで出現し、それなりに話題になりヒットした「完全無欠のロックンローラー」。そして二曲目の「ロックンローラー大放送」という曲で玉砕して、それ以降はほとんど知られていない。
と言いつつ、島田紳助と交友があったお陰で、鈴鹿の8耐で毎回トークショーなどを行ったり、島谷ひとみのデビュー曲の作曲をしたりと、現在でも時々チラッ程度に名前を聞く。
本職は、富山県の高雄電設という電気工事会社の社長との事。

このデビュー曲は、ヤマハの「ポプコン(ポピュラーコンテスト)」でグランプリを獲得し、その流れで「第12回世界歌謡祭」でグランプリを獲得している。
ポプコンはアマチュアミュージシャンの登竜門として70年代は有名で、「中島みゆき」「チャゲ&飛鳥」「長渕剛」「ツイスト」「八神純子」「あみん」「クリスタルキング」「辛島美登里」などなど、多くのアーティストを輩出している。
もっとも、70年代から裏で悪い噂が流れているコンテストで「最初からグランプリが決まっている」などと言われ続けていた。

現に、上田正樹が出場した際はグランプリを獲得した直後に辞退したり、佐野元春が出場した時も最終選考のステージでプログラムとは違う曲を演奏して、ステージを降りている。
自分もかつて関わった事があるんですが、そこでも出場する前に「○◎○さんが優勝するらしいよ」と知り合いだったスタッフに予選会の際に聞かされ、実際にその通りになった。

さらに、この大会でグランプリを取ったアーティストは、レコードデビューの資格と同時に、世界歌謡祭の出場資格を得る。
「世界歌謡祭」とか言ってるんですが、これにも裏が色々あるらしく、こんなふざけた「完全無欠のロックンローラー」なんて曲が、そこでもグランプリを取っている。

0002_1で、この曲がヒットした後、2曲目の「ロックンローラー大放送」という、前曲の続編とも言えるようなコンセプトのシングルをリリースしている。
が、この曲は見事に売れなかった。というのも、テレビでほとんど歌う事が出来ず、ラジオで掛ける事も難しい曲だったのだ。
ロックンローラー大放送」は判明している限りでは「夜のヒットスタジオ」で1度歌われたきり、TVで歌われていない。

というのも、この曲はロックンローラーがDJをやっている放送局で、リクエストに応えるという設定になっている。その中で「♪たまには演歌もかけてよ」「それは出来ない相談だぜ、ロックンロールの曲だけだぜ!」と歌われている。
夜のヒットスタジオという番組は色々なジャンルの歌手が出演している番組だったんだけど、その時、演歌界の大御所も出演していて「演歌はダメとは何だ!」と怒り、その後、どの局でも掛ける事ができなくなったと言われている。
そりゃ、一発屋に成らざるを得ないワケで。

同じような例ではシブがき隊の「演歌なんて歌えない(1987)」という曲も物議を醸したらしい(放送できなかったかは不明)

P.S.
「榊原郁恵/夏のお嬢さん」の時のコメント欄で「NHKあなたのメロディから出た曲の権利は全部NHKが...」というのは、著作権ではなく出版権の事だと思われます。
たとえば「およげ!たいやき君」は作詞.高田ひろお/作曲.佐瀬寿一ですが、ポンキッキから出た曲なので(c)フジテレビということで、フジテレビが出版権を所有しています。
これは著作権を持っている人と言えども、無許可でどこぞに詩を掲載したり、メロディを使う事が出来ないって契約。コンサートで自分の曲を歌う時も、出版権を持っている所に許可を得ないとダメってモノ。
普通は、レコード会社が持っていたり、所属事務所が持っていたりするモノで、レコード会社を移籍した後、しばらくはライブで過去の曲を歌えなかったり、ベスト盤を出す時に移籍前のモノを入れる事が出来なかったりします。

自分がポプコンの地方大会に出場した際、ヤマハ側から契約書を書かされたんですが、それの内容は「コンテストが終わるまで出版権はヤマハが所有するので、その間はコンサートなどでも勝手に契約した曲を歌うなよ」というモノでした。
(あっちのコメント欄に書こうと思ったんですが、ちょい長い文章になってしまうので、こちらで書きました)

| | コメント (3)

2006年8月31日 (木)

太田裕美「九月の雨」

000_18太田裕美/九月の雨
作詞.松本隆/作曲.編曲.筒美京平
1977年/¥600
CBSソニー/06SH-205


明日から9月ということで(とか書いてますが、更新するのは週末になるんですが)、太田裕美の「九月の雨」。
太田裕美に関しては個人的には「あまりにも歌謡曲界における評価が低すぎるのではないか?」と思っているので、小出しに色々書いていこうと思います。
前に、松田聖子に関して「時代とリンクした」みたいな事を書いたんですが、実際には松田聖子の楽曲が登場する裏には太田裕美の功績があるんじゃないかと。

太田裕美「木綿のハンカチーフ」
000_20彼女はデビュー時から、ピアノ弾き語りだったり、自作詞曲を作っていたり、TVにも出ていたけれど年間100本以上のコンサートを行っていたり、さらに「学園祭の女王」的な事を言われた元祖だったり、歌謡曲とニューミュージック的な物の中間で活動を続けていた。
以前「一発屋」を特集した雑誌の中に「木綿のハンカチーフを歌っていた太田裕美」という文章を見て、マジに生まれて初めての投書をしたろかい、われッ!と思った事もあったほどです。

ポールモーリア「オリーブの首飾り」
000_21と、テンションを勝手に上げてますが、その太田裕美の「九月の雨」をこうして取り上げたワケですが、自分は「太田裕美の曲の中で一番苦手」な曲であります。
というのも、この曲は作曲者の筒美京平が意図的に「ポールモーリア」を引用しているという部分。自分がポールモーリア的なイージーリスニングが苦手というのが一番大きな理由なんですが、メロディは「シバの女王」、アレンジ的には「オリーブの首飾り」をモチーフにしているようで、それまでのウエストコーストを意識した太田裕美=筒美京平サウンドの中では異質な感じがするわけです。

庄野真代「飛んでイスタンブール」
000_19この曲は筒美京平の狙い通りにヒットしたわけですが、その後の太田裕美の楽曲の中にはポールモーリアの影響はあまり無い。この曲が収録されたアルバム「こけてぃっしゅ」は名盤なんですが、この曲だけがどうしても浮いている印象がする。
確かに、ボーカリストとしての太田裕美は歌詞の中にある切ない恋愛をやや無理したファルセットで切々と歌っていて、単独で聴くと名曲だとは思うんですが。

ジュディ・オング「魅せられて」
0000_22筒美京平は「ポールモーリア的」をこの曲でモノにして、その翌年(1978年)岩崎宏美「さよならの挽歌」、庄野真代「飛んでイスタンブール」、そして1979年の大ヒット曲、ジュディ・オング「魅せられて」へと展開させて結実させていくのだ。

| | コメント (0)

2006年8月27日 (日)

水谷麻里「バカンスの嵐」

00_15水谷麻里/バカンスの嵐
作詞.尾関昌也/作曲.井上ヨシマサ/編曲.戸塚修
ビクター/SV-9261
1987年07月16日/¥700


夏も後半って事で、いまさら夏の曲を。
去年の夏、SMAPがBang Bang バカンスという曲で「バカンスって言葉の半分は♪バカッバカッバカ〜」と歌っていた時に、いきなり思い出したのがこの曲。
実はこの曲の出だしが「バカバカバカンス♪」となっている。別にそれ以外は似ていないのでパクリとかどーこー言うレベルじゃないんですが(世の中には歌詞のフレーズが僅かに似ているだけでもパクリだ!と大騒ぎしてネットに書き込む面倒臭い人がいますけど)

1st「21世紀まで愛して」
0021で、この水谷麻里さんを知っている人はあんまりいないんじゃないかと思います。
とりあえずデビュー曲『21世紀まで愛して』は資生堂ヘアコロンシャンプーのCM曲で、当時はサビ部分が頻繁にTVで流れていたり、2曲目『地上に降りた天使』は映画「子象物語」のテーマ曲として、これも頻繁に流れていたので、メロディを聴くとなんとなく覚えている人もいるんじゃないかと思います。

2nd「地上に降りた天使」
00_16しかし彼女の事を説明する場合に一番分かりやすいのは「漫画家、江口寿史の奥さん」って事かも知れないっす。
70年代末から80年代にかけて「すすめパイレーツ」「ストップひばり君」でヒットを飛ばし、あとは連載が始まるとすぐに穴を開けて打ち切りを繰り返して、それが話題になり続けている、あの漫画家・江口寿史の奥さん。

江口のLPサイズの画集・大きく重く凄くジャマ
0001水谷麻里というデビュー時にかなりバックアップされていた歌手が大成しなかった理由のひとつに江口寿史が関係している。
彼女のデビュー時に「!」と思ってしまった江口寿史は雑誌『投稿写真』に自ら「対談」の企画を持ち込む。当時、すでにオシャレでポップな漫画家として漫画だけじゃなくイラストとして若い世代に人気があった江口だったので、雑誌としても「あの江口が出てくれる」というのは大乗り気な企画になったのだ。(他の雑誌だったという説もあり)

その画集の中にあるレコードの片面
00_17で、その企画で江口は水谷麻里と知り合いになり、まんまと恋愛関係に持ち込んでしまったのだ。(水谷麻里も江口漫画のファンだった)
もともと芸能関係にそんなに思い入れの無かった彼女は恋愛の方が重要になって、いつしか仕事のやる気を失い、引退、そして結婚という事になった。
なんつーか、夫婦揃って仕事やる気無しかよ!状態ではあるんですが、その水谷麻里が引退結婚したのがなんと18歳、やるなぁ江口。

1st Album「なかよし」
0000_19デビューのキッカケは資生堂開催の「ミスヘアコロン」でのグランプリで、デビュー曲「21世紀まで愛して」はそのCM曲。
このコンテストの特別賞「雑誌BOMB賞」を受賞してデビューしたのが酒井法子。つまり水谷麻里の方が上だったハズなのに、どこでどう間違ってしまったのか。(水谷麻里も酒井法子も、ビクター&サンミュージック)

2nd Album「ほがらか」
0000_20実際の事を言うと、デビュー当時は「あんまし上手くない」という印象だったんですが、2年目に入った時から路線変更で「変な曲」を歌い始めて、いきなり歌唱力がアップしたような印象(曲がポップで秀逸なのも理由なんですが)がある。
前回の榊原郁恵はオリコン11位止まりだったんですが、実はこの今ではほとんど知られていない水谷麻里は8枚出したシングルの4枚が10位以内に入っている。もっとも、80年代中期はCD時代に突入していてシングルが売れなくなった時代で、売り上げは1〜6万枚程度なのだ。

3rd Album「あしたの黄色をつかみたい」
0000_21江口寿史の漫画を読んでいると、そのエッセイ的漫画の中にアホな事をして仕事をろくにしない江口の横に奥さんが出てきて呆れていたりする図がときたまある。
それを見て「あぁこれが水谷麻里なのだなぁ」と思ったりするのだ。(かつて写真週刊誌の「あのアイドルは今!」で主婦姿が隠し撮りされた事もある)江口、ちゃんと奥さんと子供を喰わせる程度には仕事しろよ。

1971年07月18日 愛知県津島市に生まれる

14歳
1986年03月21日 1st Single「21世紀まで愛して」
1986年07月01日 2nd Single「地上に降りた天使」

15歳
1986年08月21日 1st Album『なかよし』
1986年09月25日 3rd Single「乙女日和」オリコン9位
1987年01月01日 4th Single「春が来た」オリコン9位
1987年02月05日 2nd Album『ほがらか』
1987年04月08日 5th Single「ポキチ・ペキチ・パキチ」
1987年07月16日 6th Single「バカンスの嵐」

16歳
1987年08月21日 3rd Album『あしたの黄色をつかみたい』
1987年10月21日 7th Single「メビウス天国」
1987年秋 江口寿史(31)と雑誌で対談→お付き合い始まる
1988年03月02日 8th Single「春休み」ラスト
1988年03月25日 引退→地元愛知へ一旦帰る

18歳
1990年 江口寿史と結婚(18歳)

| | コメント (2)

2006年8月26日 (土)

榊原郁恵「夏のお嬢さん」

0000_13榊原郁恵/夏のお嬢さん
作詞.笠間ジュン/作曲.佐々木勉
コロムビア/PK-118
1978年07月01日/600


夏も後半って事で、いまさら夏の曲を。
榊原郁恵は「ポッチャリ系」という単語を拡大解釈したアイドルとして、1976年に「第1回ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」で優勝してデビュー。
このホリプロの趣味というのがイマイチ自分には合っていないらしく、歴代優勝者を見るとシャッキリ洗練されたのとは対局にあるような、モッサリとイモっぽい印象がずっとしている。(自分的は渡辺プロ派なのかもしれない)
アイドルにしても女優にしても、デビュー時には垢抜けて無くても、いつしか洗練されて...という道を歩むハズなんですが、どうもホリプロはそれを拒んでいるような感じがしてならないわけです。

1st「私の先生」
000001_3それはまさに初代キャラバン優勝者・榊原郁恵にも当てはまる。
当時はまだ「巨乳」なんて言葉は無く「ボインちゃん」て感じでしたが、夏恒例の大磯ロングビーチで開催される水泳大会(司会はおりも政夫)では、なにもそこまでというビキニを着て出演し、オッパイ星人の方々を喜ばせておりました。色気のないキャラとそれのギャップが良かったのかもしれませんが、自分的にはボインちゃんはあんまり興味なかったので「あれはグラマーじゃなくデ×なんじゃないの?」と思っていたワケです。

2nd「バス通学」
0000_14屈託無く明るいキャラとして人気はあり、曲もそこそこ売れていたと思われがきなんですが、実際のオリコンなどの資料では「夏のお嬢さん」がもっとも売れた曲で最高位11位。つまり、あの時代を生きた人なら「榊原郁恵って売れていたよね」という印象があるんですが、オリコン10位以内に入った曲がない。
もっとも11位どまりだった「夏のお嬢さん」は20.1万枚を売り上げている。今20万枚なんていったら大ヒット曲の部類で、1位を記録した曲でも10万枚を越えない曲は山ほどある。

3rd「わがまま金曜日」
0000_15キャッチコピー「一億円のシンデレラ」というのは、キャラバンとかに掛かった費用が関係しているワケですが、デビュー曲は1977年元日「私の先生」でオリコン最高位55位2.8万枚。1977年04月01日「バス通学」、1977年07月01日「わがまま金曜日」、そして1977年10月01日「アル・バシーノ+アラン・ドロン<あなた」というギミック詩を書かせたら随一の森雪之丞が手がけた曲が話題性もあり22位、11.5万枚のヒット。

4th「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」
0000_16新人賞を経て、1978年01月01日「いとしのロビン・フッドさま」18位・15.3万枚→1978年04月01日「めざめのカーニバル」16位・12.4万枚、そして1978年07月01日「夏のお嬢さん」となった。
この年はバラエティ番組「UFOセブン大冒険」→「マジカル7大冒険」、ドラマ「ナッキーはつむじ風」とホリプロ一押しだったので売れてくれなくちゃ困る状態だったワケですが。

5th「いとしのロビンフッドさま」
0000_17しかし、この「夏のお嬢さん」という曲、当時田舎の何も知らないような自分ですら「これってスージークアトロの『The Wild One』そのまんまな曲じゃん」と思ってしまうほどの何のギミックもないような引用曲でした。
そのうち、ソックリ曲に関して色々書こうと思いますが、子供心にそれに気づいてしまったわけで、自分にとってソックリ探しのルーツの曲です。

6th「めざめのカーニバル」
0000_18ホリプロの稼ぎ頭・山口百恵が引退した後、彼女の「赤いシリーズ」を引き継ぐかのようなドラマ『青い絶唱』の主演もしたんですがシリーズ化はならずに終わってます。(同じキャラバン出身の能瀬慶子の「赤い嵐」も不発で終わってますが)。

徐々に活動の場をドラマ方面へ移していったワケですが、とりあえず1987年に渡辺徹と結婚する直前までシングルを発売していた。

8th「Do It Bang Bang」
0000doitもっとも1980年の「ROBOT」辺りがギリギリ一般的に知られている曲かなぁという感じ。
紅白歌合戦には1978年に「夏のお嬢さん」で初出場して、それ以降1982年まで連続出場していますが、5枚シングル出したけどイマイチだった1982年はなぜか「なごり雪」を歌っております。
(この年、持ち歌じゃない曲を歌ってもいいというルールが出来たためなんですが、榊原郁恵の「なごり雪」以上に「桜田淳子の歌うセーラー服と機関銃」というワケの解らなさが話題になった)

17th「ROBOT」
0000robotアイドルとしてデビューしたけど、イマイチ売れず歌を唄わなくなり、それでもまだTVに出続けているのを見るにつけ「ホリプロって財力あるなぁ」と思うワケでやんす。
ま、ホリプロの大御所・和田アキ子の「曲の売れ無さっぷり」には遥か及びませんが。

ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン
1976年:榊原郁恵
1977年:西村まゆ子
1978年:能瀬慶子
1979年:比企理恵
1980年:林紀恵   地方予選落選で松本伊代
1981年:堀ちえみ
1982年:大沢逸美
1983年:田中久美
1984年:井森美幸
1985年:山瀬まみ
1986年:伊藤美紀
1987年:坂井順子
1988年:山口裕子
1989年:田中陽子
1990年:戸田菜穂  地方予選落選で古谷仁美(hitomi)
1991年:北地大良(男性限定大会)
1992年:菊池あゆみ・馬渕英里何
1993年:木下奈緒子
1994年:上原さくら 地方予選落選で椎名林檎
1995年:佐藤仁美 (特別賞.新山千春)
1996年:深田恭子 (特別賞.酒井彩名)
1997年:古川小百合
1998年:平山あや
1999年:西端さおり
2000年:藤本綾
2001年:浜口順子
2002年:石原さとみ
2003年:大竹佑季
2004年:佐藤千亜妃
2005年:緑友利恵
あと、堀ちえみが優勝の1981年大会には星井七瀬(3代目なっちゃん)の母親が出場していたとの事。
しかし、この中の数人が「素行不良」で事務所をクビになった(公式発表はありませんが)ってのは凄いことだよなぁ

| | コメント (4)

2006年8月23日 (水)

我々は猟犬「HOUND DOG ひとりぼっち」

000_17HOUND DOG/嵐の金曜日
作詞.作曲:八島順一
1980年3月21日/¥600
CBC SONY/06SH 726


去年、HOUND DOGのボーカル大友康平が個人事務所を設立した事をキッカケにベース鮫島、キーボード蓑輪がバンドを脱退して、どうすんの?って話になっていた。

今年の7月になって大友康平が「HOUND DOGは一人で活動する」と宣言し、それによって残っていたメンバー橋本、西山、八島がいきなりバンド解雇という事になってしまった。
いきなり解雇された3人は「HOUND DOG(猟犬)」ではなく「HANBUN DOG(半分犬)」として活動をしていたらしいんですが、名前を「HOUND DOG」にして活動を再開すると宣言した。
つまり「ひとりHOUND DOG」と「解雇組HOUND DOG」が共にHOUND DOGとなっている。
現在公式サイトは「リニューアル中」ということになっているけれど、そこで「重要なお知らせ」として大友康平の声明文とスタッフ側の声明文が掲載されている。なんか意見がちょい食い違っている気もする。

かつて「YES」というバンドが解散後に、メンバーがそれぞれ「YES」と名乗って活動していたために、複数の「YES」が存在していた時を思い出しました。
たしか「ベイシティローラーズ」も一時期、バンドが2つあったハズ。

000ffこの解雇組HOUND DOGは「先に脱退した鮫島、蓑輪も加わってもらい、最終的に大友に「ひとりHOUND DOG」を解散してもらい、こっちに参加してもらいたいと考えているらしい。
もっとも八島は8月1日に自宅前で倒れ外傷性くも膜下出血で入院中との事。

なんつーか、HOUND DOGって男臭いバンドの代表格という印象があるので、この手のゴチャゴチャした話って似合わない気もする。
もっとも、客観的に見るとデビュー時から大友康平のワンマンバンドという印象があるので(ファンは違うと言うでしょうが)、四半世紀に渡って時々聞いている自分もボーカルの大友康平と、元ツイストの鮫島秀樹ぐらいしか名前と顔が一致しない。
いくら結束が硬いバンドでも最終的にはボーカルぐらいしか残らないというのは悲しい事実で、頻繁にテレビに出ていて全員がそれなりに名前が知られていたチェッカーズなんかにしても、結局表舞台に残っているのはボーカルの藤井フミヤぐらいになってしまった。

今回、色々なメンバー間の確執や事務所とかのゴタゴタが表沙汰になってしまったワケですが、HOUND DOGはデビュー時から色々な物を抱えていたバンドでもあるのだ。
「嵐の金曜日」でデビューしたのが1980年、四半世紀前なんですが、もともと大友康平が初代ギター高橋良秀と東北学院大学時代に結成したバンドで、デビュー当時は雑誌なんかでも「東北をロックの聖地にする」みたいな事が書かれていた。その時は仙台にある事務所に所属して、メジャーデビュー後も東北を中心にした活動を目指していた。

しかし大友が「全国展開したい」と言うことで東京にある事務所に移籍する事を提案し、「仙台を拠点に活動したい」という他メンバーの意見を押し切って、無理矢理1983年に東京を活動拠点にする。武道館ライブをするまで売れたが、大学の同好会サークル的だったバンドの演奏能力に常に不満を漏らしていた大友とメンバーがぶつかり、八島・蓑輪以外の3人が脱退。
その時にツイストが解散したばかりだった鮫島を加え、さらにオーディションで橋本・西山を加えて新生HOUND DOGとなった。
そこから20年間、不動のメンバーとなったのですが、デビュー当時にすでに今のゴタゴタを彷彿とさせる事があったワケです。

しかし個人的な見解では、デビュー当時「胡散臭い芸能臭のある商業ロックバンド」という感じがして好きじゃなかった。
というのも大友康平氏がデビュー時にラジオに出て、何度も「ロックが、ロックが」と口にした割に、デビュー曲からいきなりバラードかよ!という部分。
さらに1982年に発売したカネボウのCM曲が、ストレイキャッツの「ROCK THIS TOWN」そのまんまのパクリだったり(これは作詞曲NOBODYですが)、テレビに出た時の態度が「おれたちゃロックバンドだぜ」という偽悪者っぽい感じで(安岡力也のパロディ的な感じ)「なんか違う」という印象だったので。

現在、いきなりの解雇に関しての訴訟や、活動できなくなったために予定されていたツアーが中止になった事への訴訟や、色々面倒くさい状態が山盛りになっていて、さらに音楽やってる場合じゃねえだろとなっている。

しかし、去年の個人事務所設立後、時々バラエティに出るようになった大友康平だけど、なんか昔の印象と違って貧相なジジイになってしまった感がある。
それでもバラエティの他の出演者が、「あの大友さんが!」と一生懸命持ち上げようとしていたりいるんだけど、扱いが難しい出演者って感じになっちゃっていて、見ている分にはかなりツライ。
個人事務所を設立したのは、こんなバラエティに出るためだったのか?

2000年に放送された「FLY 航空学園グラフィティ」というドラマで大友康平は主演していたんですが、そこに鮫島の息子で役者の鮫島巧が出演していたのは、セット販売だったんでしょうか?

関係ない話で思い出したのは、今から10年以上前の地元のアマチュアバンドのイベント、数組が出て3曲ほど演奏するという状態だったんですが、あるバンドのボーカルがステージに出てくるなり「うぃぃぃぃあぁぁぁあぁぁぁ○◎○ぅぅぅぅ!」と大友康平がバンド紹介をする時のような雄叫びを上げた。声も、巻き舌っぽい発音もそのままで。
会場は全然温まっていない状態だし、それ以前に客席ガラガラ(自分は知り合いにチケット貰ったので暇つぶしに見に行った)。
その雄叫びは人が少ないのでやたらと残響音の響く会場にこだましていた。
とりあえず準備してあったキメセリフなのかそのボーカルは
「よぉぉぉく来てくれたなぁぁ俺等のぉぉぉライブにぃぃぃぃ!」と叫ぶ。
いや、複数がでるイベントですから
「今日のためにぃぃ新曲をぉぉぉお持ってきたぁぁぜぅぇぃぇぇえl」と叫ぶ。
いや、新曲もなにも、どの曲も初めての曲ですので
「いいかぁてめえら盛り上がっていこうぜぇぇぇぇぇえ!」
初対面のあなたにてめえ呼ばわりされる道理はありませんが
「よぉぉぉぉし、いくぜえぇぇぇぇぇぇ!」
とそのボーカルが叫び終わった後、本来なら演奏がジャ〜ンッと始まる予定だったんだろうけど、演奏のキッカケをつかめず....、雄叫びの残響音がむなしく響いていた。
その後始まった演奏は....曲は....ボーカルは.....、すでに記憶から消し去ってしまったほど素晴らしかった物でした。
気分はHOUND DOGだったんでしょうけど、聞かされる方は辛かったです。

大友康平は大学時代に音楽サークルと同時にお笑い系サークルにも入っていたらしいんですが、バラエティには合っていないと思う。さらに役者としてもなんかぎこちなさしか見えないので、やっぱり音楽を、ちゃんとした状態で続けて欲しいっすね。

| | コメント (0)

2006年8月21日 (月)

マギー・ミネンコ「涙の河」

01_5マギー・ミネンコ/涙の河
作詞.橋本淳/作曲.中村泰士/編曲.あかのたちお
1974年/¥500
キングレコード/BS-1850


芸能界には常に「オカマ枠」「デブ枠」「外人枠」と言う物が何席か設けてあるらしい。
昔に比べてタレントの総数が増えているので、その席数も増えているけど、外人枠というのも現在では結構微妙な感じになっている。

マギー・ミネンコ「燃えるブンブン」
01maggy01日本は敗戦国と言うのもあってか、戦後すぐの頃は外人に対して劣等感を持っていたような気がする。あるいは憧れを持って迎えていたんじゃないかと。
そこで活躍したのは、E.H.エリックと岡田真澄兄弟とか、イーデスハンソンとか、ジョン・シェパードとか、西川ヘレンとかで、彼たちは「外人だけど気さくないい人」というのが売りで、さらに関西弁を駆使してフレンドリーな外人として活躍していた。(ハーフも多いですが)

ゴールデンハーフ「太陽の彼方」4人時代
000golden70年代に入って、大阪万博を経験した日本にはドッと外人(西洋人)が入ってきて、徐々に珍しいとか、恐怖心を煽るとかの存在ではなくなっていった。
アイドルとしてゴールデンハーフとか、香港からアグネス・チャンとか、ハワイからアグネス・ラムだとか、ベトナムからルーフィン・チャウだとか(微妙に扱いが違うしデビューは1982年ですが)がやってくるようになり、外人枠は飽和状態を迎えた。
ハーフって事を言えば、辺見マリもスペイン系ハーフだったり、けっこう多い。

ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」ハワイの女子大生
000_80年代に入るとデイブ・スペクター、ケント・デリカット、オスマン・サンコン、ダニエル・カールなどの「格好悪い外人」が主流になっていく。
さらに、ハリウッドスターもCMに出て「カッコいんてぐら」とか駄洒落を言わされるような、カッコいいだけじゃ場が持たないという風潮になっていく。

エミー・ジャクソン「涙の太陽」
000__1そして今や、ボビー・オロゴンや、ハーフですがウエンツ瑛士やベッキーみたいに「芸人以上にウケを気にする外人」が、日常的にTVに出まくっている。
そもそも外人という段階で他との差別化が出来ているんだから、それ以上に頑張られちゃ日本人は困っちゃうワケでやんす。
80年代からデイブ・スペクターが生き残っているというのは、これらのウケを気にする外人の先駆者だからですかね? デイブに関して「寒いギャグを言う寒い外人」という見方をしている人も多いですが、あれはワザと寒いギャグを言うキャラを作っている。日本人で海外に行ってそこの国の言葉でダジャレ言ったり、寒いギャグを平然と言える人はそう居ないと思うのだ。

チャダ「面影の女」インド代表
000_16それらの「芸人並外人」のルーツとも言えるのが、このマギー・ミネンコ。
NTV系の金曜夜10時台に放送していた『うわさのチャンネル』の中で、つんつるてんの着物を着て、走り回って、ボケまくって、あげくの果ての決めぜりふが「乳もめーッ!」という、当時の吉本新喜劇でもここまで過激な芸人はいなかったんじゃないかという状態の人でした。(マギーの代わりに途中で入ったシェリーは「ケツ出せーッ!」と叫んでいたが二番煎じっぽかった)

ベッキー「さらら」英国系ハーフ
00_14この『うわさのチャンネル』は、和田アキ子の「芸能界のご意見番・ゴッド姐ちゃん」という悪しきイメージを作り上げてしまった番組でもあるんですが、他の出演者は、デストロイヤー・あのねのね・せんだみつお・湯原正章・木の葉のこなどで始まり、さらにタモリのメジャーな番組初レギュラー(東京12chのモンティパイソンはメジャーではないので....)、さらに所ジョージなどもここからメジャーになっていった。結構、凄い番組だったのだ。
あと、まだ30代で中堅のスポーツ中継アナだった徳光和夫がデストロイヤーに4の字固めをかけられながら自分の実況をするというのもパターンのひとつとしてありました。(技を掛けられながらカメラに向かって「お父さんはこうやって頑張っているんだ」と中継したり...)

WaT
000watそんなマギー・ミネンコは歌手としては「燃えるブンブン」というポップでパンチの効いたホットロッドソング(車やバイク曲の意味)をリリースしてスマッシュヒットを飛ばしたんですが、その後に出した「涙の河」はしっとりとした名曲として、一部では人気が高い。

作曲が中村泰士。「心のこり」や「北酒場」で有名な作曲家なんですが、ここでは秀逸なスローロッカバラードを書いている。
意外な印象を持ってしまうんですが、前述の「心のこり」だって演歌という枠組みをハズして聞き直すとこの曲もロッカバラード、「北酒場」なんかはソウルフルな印象すらある。
実は中村泰士は、作曲家になる前は内田裕也のバンドに所属していた時期もあり、その後「美川鯛二」という名前でロカビリー歌手でデビューしている、バリバリのロック寄りの人だったのだ。そう考えると、このロッカバラードで、しかも日本人の琴線に触れるメロディというのも理解出来るのだ。

マギー・ミネンコはロシア系ハーフ(父ロシア.母日本だと思った)。サザンがかつてレギュラー出演していた「あッ!うんこついてる!」という番組で「マギ〜マギ〜マギー・ミネンコ〜〜〜〜ぉ」とアドリブで歌っておりましたが、現在は日系人と結婚しており、子供3人のおかあさんになっているらしいです。

1974年7月26日号「TVガイド」
00019740726外人はTVの中で見かける物という印象の強かった1970年、大阪万博で初めて生の外人を見た!という子供は多かったと言う。
その時、流行っていたギャグにドリフの荒井注が唐突に「デイスイズアペン!」と叫ぶのがあった(当時を知らない人にはワケ分からないギャグですな)。
怖い物知らずのアホな小学生は外人を見ると、いきなり「ディスイズアペン!」と叫ぶという暴挙に出る事が多かったと言われるが、外人にしてみたら、いきなり極東の小汚い子供達が「これはペンです」と口々に言いながらニヤニヤしてこっちを見ているという姿はどう映ったんだろう。しかも手にペンを持っているワケでもない。
海外に行ったときに、その地の子供達がいきなりニヤニヤ笑いながら「コレ ハ マンネンヒツ デス」と言いながら近寄ってきたら、どういう態度を取ればいいのだろうか? 考えるだけでも恐ろしいので、私は海外旅行はしないのだ。

| | コメント (0)

2006年8月13日 (日)

アナログレコード野郎だぜ

そんなこんなで、東京へは美術学校時代の友人と「VIVA! アホは大人になってもアホのままなのだ大会」を開催する為に行ったわけですが、そこで学生時代ぶりの友人O氏も参加、本当に久々。なんつーか、学生時代の友人ってのは永遠っすね。


社会人になってからのつきあいって、会社が変わるとなんか疎遠になったり、元々微妙な上下関係があるので心からつきあえないと言うか。

現在自分は精神的に微妙な状態をキープしているんですが「昔を振り返って懐かしんじゃう自分が嫌だ」とか「昔の自分とクリエイティブに向き合う姿勢は変わっちゃいねえぜ」とか「あの時代の自分が今の自分見たらどう思う?」とか、もーいろんな事がゴチャゴチャしちゃっています。
もっと物事を単純にしなくちゃいかんなぁ、とは思っているんだけど、現実はチビしいや。

そんなこんなではあったんですが、前日にも書いたようにもう一つの目的は「中古レコード店めぐり」という事なのだ。
もっとも自分の場合は「希少価値でお宝」みたいな物はあんまり興味無い。純粋にあの時代の音楽とそれにまつわる物を色々収集分析して、ここで発表したいって部分が多い。

レコード棚、その一部でやんす
2006081302たぶん、自分のレコード棚をひっくり返すと「オークションに出せばン万円になるぜ」的な物もあるんだろうけど、そこには興味ないし、そもそも売る目的では収集していないのだ。
だから、買う時も「元値以上の値段になっているものは買わない」という最低限の括りがある。というか、金無いし。

しかし、やはり東京だよなあと思ったのは、ワゴンセールの中にも「今まで見たこと無い」という物があるということ。田舎の中古店は、そこそこ流行った物しか置いてないっす。
それ以前に、地元にあった中古レコード店は次々とつぶれ、リサイクル店もレコードを扱わなくなったりして、ほとんど入手する手段が無くなりつつあるので、稀少とかなんとか言っている状況ではないのだ。

シングルレコード(約2000枚)
2006081301とりあえず今回、友人T氏と「もう聞くこともないので杉村の所へレコード送るよ」などと約束をしたのだ。今までもそれ以外の友人から「入らないから」と譲り受けたりしているワケですが、なんとかそれらをブログなどで分析したり評論したりして、役に立てていけたらなぁと思ったりしているワケでやんす。
値段が高い物は買わなかったんですが、それでも今回だけで1万5千円ほど中古レコードを購入してしまった。そんな私はアホですか?

もし「レコードいらない」という奇特な方がいらっしゃいましたら是非くださいませ。三島周辺で直接取りに行けそうな距離でしたら出張いたします。
あるいは、清水町にある杉山バラ園・エルローザ「杉村宛」でお持ち下さいましたら、手厚く保護して未来永劫管理し、レコードの余生を送らせてあげたいと思っております。(それで商売しようなんて事は一切思っていないっす)

杉山バラ園・エルローザの住所とマップ

| | コメント (0)

2006年8月10日 (木)

酒井ゆきえ「ママとあそぼう!!ピンポンパン」

Sakaiyukie01酒井ゆきえ/あたふたバンバン他
作詞.山元譲久/作曲.小林亜星
コロムビア/1976年9月/¥700


最近はアナウンサーのタレント化が激しくて、ほとんどアナウンサーとしての仕事をしていないで、バラエティ番組でしか見かけないという人もいますが、もしかしたら酒井ゆきえさんはそれの元祖って事なんですかね?
とりあえず1975年に山脇学園短大英文科を20歳で卒業していて、その年の4月に新卒入社でフジテレビに入社している。肩書きはアナウンサーって事なんですが、その年から「ママとあそぼう!!ピンポンパン」の3代目おねえさんとしてキャリアをスタートさせている。

Sakaiyukie02このピンポンパンは初代おねえさん渡辺尚子さん(1966〜1971年)もフジテレビアナウンサー(旦那はTBSアナ料治直矢で、フジ退職後はTBSのお天気キャスターになった)、2代目の石毛恭子さんも、4代目大野香菜さんも、5代目井上佳子も全員フジテレビのアナウンサーという事になっている。

酒井さんはピンポンパンを1975年から1979年までつとめていたのですが、入社1年目からおねえさんを担当し、番組降板した1979年にフジテレビも退社しているので、アナウンサーという肩書きだけど「契約タレント」という扱いだったのかもしれません。(なんせ、おねえさんデビューが入社してすぐの4月7日)

トッポジージョとの共演
04_2自分的には酒井さんがピンポンパンをやっていた時代はすでにその手の番組を見る年齢は卒業していたのでほとんど記憶がないのですが、80年代に入って単行本化された大友克洋の漫画の中で描かれていたり、逆に降板後にフリーになって色々な番組に出るようになって認識をした。

ピンポンパンのレコードってのはかなりの数出ているんですが、どうも2代目の石毛恭子さんのものは頻繁に見かけるのですが、酒井さんの物はあまり見かけません。
おねえさん的にはあんまり歌が...って事なんですかね?(酒井さん時代のレコードは小学生グループ「ビッグマンモス」が歌っている曲が多い)

01_4ちなみに「ピンポンパン体操」が大ヒットしたのは1972年の事で歌っていたのは石毛恭子さん。フジテレビの番組から生まれた曲なのですが、童謡として異例の大ヒットとなったのでTBSのレコード大賞童謡賞を受賞している。(作詞.阿久悠/作曲.小林亜星)

2代目おねえさん:石毛恭子さん
2_9もっともこの曲は純粋に番組で子供達が楽しんで大ヒットしたと言うワケではなく、当時なぜかキャバレーなどの風俗店で使用されて夜の街でも大ヒットしたらしい。
ちなみに「ピンポンパン体操」はドリフターズもカバー曲を出している。(「ドリフの真っ赤な封筒」というシングルB面曲)

初代おねえさん:渡辺尚子さん
Photo_18とりあえず2代目おねえさんが石毛さんと書いていますが、実際の事を言えば渡辺直子さんの時の番組タイトルは「みんなであそぼう!ピンポンパン(1966〜1971年)」、渡辺直子さんのレコジャにも「みんなであそぼう!ピンポンパン」となっています。で、石毛さんの時からが「ママとあそぼう」です。

| | コメント (3)

2006年8月 5日 (土)

渡辺満里奈「大好きなシャツ-1990旅行作戦」

2_1渡辺満里奈/大好きなシャツ-1990旅行作戦
作詞.作曲.編曲.DOUBLE K'O' COPRATION
Epic Sony/ESFU 7204/¥1200


ここの所、知泉的音楽夜話では「チェリッシュ」や「松尾ジーナ」という、完璧にアクセスにはほとんど影響をしないようなピンポイント攻撃が続いていたので、誰でも知っているような人ということで渡辺満里奈
と言っても歌手としての活動は一部の人にしか知られていないのでは(ちびまる子ちゃんの主題歌を歌っていましたが)状態ですが。

1986年10月8日 1st「深呼吸して」
2_2現在、彼女の本名はナグラマリナという、ドラグラマグラなのかマグナカルタなのかという状態ですが、実は彼女が本格的に歌手活動をしていた時期、自分は全然興味ありませんでした。
というのも80年代中期からの「おニャン子クラブ」という存在について「俺の好きなポップスを馬鹿にすんのか!やんのかてめえ!」状態で嫌悪していたという背景もあって、その中にいた渡辺さんも「歌謡曲を堕落させる要因」として無視しておりました。

1987年1月1日 2nd「ホワイトラビットからのメッセージ」
2_3で、渡辺さんの曲をちゃんと聴いたのが『大好きなシャツ-1990旅行作戦』という曲でした。
タイトルにあるように1990年にリリースされた曲で、すでに忌まわしきおニャン子は解散していたんですが、実はこの曲を聞いたのが、アナログ版でもなく、CDでもないのです。
実は「CDV」という今は無き特別な規格のディスク(見た目はCDなんですが)で、当時は「レーザーディスクみたいにばかでかくないCDサイズディスクでも映像を見ることが出来る!」という画期的な規格として発表された物だったのです。

1987年4月8日 3rd「マリーナの夏」
2_4今ではDVDで2時間以上の画像を見る事ができますが、この画期的なCDVはなんと最大5分の映像を見る事が出来るのです。ということで、数社がシングル曲のプロモーションビデオを収録した物を発売開始したワケです。と言っても、現在誰も知らないように、この規格は見事に空振りをしまして、最初の思惑とは違ってリリース本数が増えず....。
実際に言うと、5分という短さがネックになっていて、当時はシングル5分を越すような曲、あるいはビデオの前後にドラマ部分があったりして5分では完全版を収録出来ない楽曲が多かったというのも原因みたいです。あと5分の映像で1200円という値段設定もきつかったかも知れません。
自分は新しい物好きって事で、つい手を出してしまったんですが、リリース数が少なかったので、あんまり興味がないアーティストの曲でもCDVが発売されていると購入していまして、その中にこの「渡辺満里奈/大好きなシャツ-1990旅行作戦」も入っていたワケです。

1987年7月15日 4th「夏休みだけのサイドシート」
2_5曲は実にポップで軽く楽しい曲。実はこの作詞.作曲.編曲をしているDOUBLE K'O' COPRATIONは、かのフリッパーズギターの小沢健二と小山田圭吾の変名。
この曲で見事にはまってしまいまして、この曲が収録されているアルバム「a piece of cake!」を購入した所、かなり楽曲のレベルが高かったため、過去の作品を後追いで購入するようになったんですが、やはりデビュー当時は「おニャン子の悪夢」そのまんまの音程の酷さと声質をコントロール出来ていない感じが痛々しくて...。

1987年11月11日 5th「ちいさなBreakin' my heart」
2_6渡辺満里奈という人は基本的にキーが低く、明るめの声ではないので、初期の曲調や歌い方が辛かったワケですが、途中からスタッフもそれを理解したような感じで、いわゆるその後のサブカル系大好き路線に流れていく道筋が曲調にもチラホラしておりました。

当時、音楽通の間で「オシャレじゃん」と言われていた、フェアグランドアトラクションもどきの曲とかを(渡辺満里奈とフェアグランドのファン層は重ならないので発覚しにくいとは思いますが、かなりそのまんま)歌い始め、オシャレ音楽の総本山「渋谷系」のフリッパーズギターにたどり着いたという感じなのであります。
この曲前に、彼女が出演していたドラマ「予備校ブギ」の主題歌にフリッパズギター「恋とマシンガン」が使われていたという繋がりもあったと思うんですが。
もっともこの曲で渡辺満里奈と知り合ったフリッパーズギターの二人が彼女を取り合って仲違いの末、解散してしまったワケでありますが(あくまでも、まことしやかなウワサ)。

アルバム『a piece of cake!』
Apiece2※フリッパーズギターに関しては、最初バンドデビューした直後、小山田がバイク事故で入院することとなり活動停止→解散したんですが、小山田の入院していた病院に宮沢りえの祖父が入院していると聞きつけた小沢が「もしかしたら宮沢りえに逢えるかもしれない」と何度も見舞いにいっている間に「二人で再デビュー」という事になったとされてるグループなので、その解散がそれってのもなんか象徴的でもあります。

大瀧詠一プロデュースアルバム『Ring-a-Bell』
Ring2自分が渡辺満里奈という歌手を聞き始めた時はすでに歌手活動末期だったんですが、その後「はっぴいえんどトリュビュート」に参加したり、ちびまる子ちゃん主題歌(大瀧詠一作曲)を歌ったり、さらに大瀧プロデュースでミニアルバムを出した時に大瀧の関係で佐野元春の作詞曲を歌ったり、自分的には「なんでこの人は自分の琴線に触れるような活動するのかぁぁl!」という状態で、好き嫌いとは別になんか自分が購入する曲の前に登場するような感じで、いわゆる「オシャレと言われる場所には数歩前に渡辺満里奈が立っている」という状態を体験したわけです。(あとウルフルズとか、奥田民生のプロモーションビデオとか)
その存在とかは別として、渡辺満里奈の後期作品は今でもiPodに入っております。

P.S.
現在CDVを見る事が出来ないっす。
ハード的な物も探しているんですが、なかなかお目に掛からない状態っす。
手元に20枚ほど持っているんですが.....

実はこのCDVの映像5分というのはディスクの外側に記録されていたもので、その内側は速度の関係から映像が収録出来ずに音声のみを収録出来るトラックが存在していた。
実はその後発売されたシングルCDというメディアは日本独自開発の物で、このCDVの音声トラックから発生したサイズ。

| | コメント (3)

2006年8月 4日 (金)

松尾ジーナ「月影のメロディー」

2_7松尾ジーナ/月影のメロディー
作詞.阿久悠/作曲.森田公一/編曲.川口真
東芝/TP-2664/¥400


たぶん多くの人が「松尾ジーナって誰?」状態だと思いますが、実は自分も「な〜んか名前聞いたことあるけど...」状態でした。
調べてみると1970年代初頭に活躍したモデル出身アイドルだそうで、ある時、中古レコードで出逢い、その「ザ・70'sアイドル」という感じの歌唱法に惹かれちゃったワケです。

健全なエロスとほんわかしたイケイケ具合が見事に調和している曲で、初めて聞いた瞬間に「あぁ懐かしい」と感じてしまうような曲調。
この曲は2曲目らしく、「気ままなジーナ」というNHKでは「自己宣伝になるので歌っちゃ駄目」と言われそうな曲で歌手デビューしています。曲調は歌謡曲寄りのポップなディスコソング。

ジャケット裏
2_8色々資料を探していると、ドイツとのハーフで、1970年〜1975年頃の「女学生の友(略称:ジョトモ)」とか創刊したばかりの「non.no」なんかのファッション特集で「今冬はこんなニットが!」みたいな感じでモデルをしているので、今でいったらエビちゃんとかそんな感じかも知れません。
その後はドラマ(と言っても特撮物)にもちょい役出演したり、CMに出演という感じの活動をしていたみたいです。

今でもその姿を見られる物ではDVD発売されている「シルバー仮面」の9話まで出演しており、その後は体調を崩したとの事で降板しているみたいです。(と言いつつ、別資料では「シルバー仮面(1971年)」の続編「シルバー仮面ジャイアント(1972年)」にも出演しているとなっているんですが)
ちなみに出演していたCMは武田薬品の「ハイシーA」で、武田薬品はシルバー仮面のスポンサー。色々な力関係が働いていたみたいです。

ドラマは病気降板って事になっていますが、芸能活動自体は1970年半ばにレーサーの高原敬武氏と結婚引退するまで続いていたらしい。(この高原さんって、レース界では凄い人との事)
なにはともあれ、元々知らない松尾さんですが、幸せな着地点を見つけたみたいで、よしよし、なのだ。

| | コメント (1)

2006年8月 3日 (木)

島倉千代子「東京だよおっ母さん」

季節柄というか、昭和天皇の発言録の関係というか、この期にこの曲を。


01_31957(昭和32)年に発売されたこの「東京だよおっ母さん」と言う曲は、島倉千代子の代表曲といってもいい曲ですが、実は紅白歌合戦では1度も歌われていない。
その歌われていない理由が、歌詞の中にあると囁かれている。

一番の歌詞は有名で、田舎から出てきた母親を皇居へ連れて行き「ここが二重橋、記念の写真を撮りましょうね」と歌っている。
二番の歌詞では「やさしかった兄さんが」桜の下で待っているという歌詞。ここで言う桜の下というのは靖国神社を暗喩している。歌詞の中には直接「靖国神社」という固有名詞は出てこないが、母親を連れて「あれが九段坂」と歌っている。
三番の歌詞は、単純に浅草の観音様へいき「長生きしてください」とお祈りする。

02_3実は2番の歌詞が「戦争で死んだ兄に逢いに靖国神社へ参拝しにいく」という内容が、NHK的にはよろしくないとの見解らしい。
島倉千代子は現在までに紅白歌合戦には34回ほど出場しており、他のヒット曲は何度も何度も歌われているのですが、この曲だけは1度も歌った事がない。その理由は「靖国がらみ」らしいんですが、それがNHK側からの通達によってなのか、島倉千代子側からだったのかは不明。

紅白歌合戦という年の瀬の本当に押し詰まった所で「戦争を臭わせるような曲を歌うんじゃねえ」とか言うことなのかもしれないけれど、そんな事を言ったら双葉百合子が戦地から引き揚げてくる船に息子が乗っているんじゃないかとかすかな望みを託し続ける「岸壁の母」なんてのはちゃんと歌われてましたから、やはり「戦争」って事じゃなく「靖国神社」って事が大きく関係しているんじゃないかと思うわけです

03_4P.S.
島倉千代子の代表曲『東京だよおっ母さん』は、美空ひばりの『波止場だよお父つぁん』と言う曲を聴いた島倉が感動して、『波止場…』を作曲した船村徹に「同じような曲を作ってください」と頼み込んで出来た曲。
※美空ひばりの『波止場…』は目の見えなくなった船乗りの父を波止場に連れて行くという内容だが、その中に現在では差別用語と思われる歌詞があるので、放送で聞くことは出来ない。

P.S.2
かつて島倉千代子が借金で困っている時にマネージメントを買って出て借金苦から救い出したと細木数子さんは発言しているんですが、何故か島倉千代子デビュー40周年記念パーティには呼ばれず。
さらに島倉千代子が「お金に困った時に私を助けてくれたのは....歌だけです」と発言。

| | コメント (1)

2006年7月25日 (火)

チェリッシュ「なのにあなたは京都へ行くの」

Cher01_2チェリッシュ/なのにあなたは京都へ行くの
作詞.脇田なおみ/作曲.森田哲朗/編曲.馬飼野俊一
1972年
ビクターレコード SF-8/¥400


自分もほとんどリアルタイムでは記憶がない曲なんですが、とりあえずジャケ写真がすばらしい。
とても曲に歌われているような悲しい恋愛とか、さわやかな曲とかのイメージを微塵も感じさせない、時代的にいったら「どこかの安アパートの4畳半で爆弾とか火炎瓶を製造している学生運動の人たち」という感じにしか見えない。
しかも「なぜこんな場所で撮影?」というワケ解らない草むらで、この撮影現場を目撃した人がいたら絶対、警察に通報しているハズなのだ。
ラジオでこの曲を聴いて「あぁいい曲だなぁ」と買いに出かけたレコード店でこのジャケットを見た時はすごい衝撃だったのではないかと思います。
とりあえず、ここの所80年代アイドルの曲が多かったので、バランスを取るために70年代に戻ります。しかも萌え要素が無い方向で。

Cher02チェリッシュというのはデビュー当時は5人組バンドだったんですが、この曲がスマッシュヒットしたために2枚のシングルは思いっきり「二匹目のドジョウ」狙いなのか『だからわたしは北国へ』という、何もそこまで...という曲になっています。
で次のシングルはそれまでを反省したのかイラストジャケット。
イラストは和田誠氏が書いているんですが、たぶんこのイラストを依頼した時は5人バンドだったんだと思うんですが、実はこの曲からチェリッシュはデュオになっています。

Cher04チェリッシュは1971年6月6日に行われた「バイタリス・フォークビレッジ」というコンテスト(日比谷大音楽堂)に中部地方代表として出場し、4位を獲得し、それがキッカケでデビューしている。
メンバーは松井悦子(Vo)、松崎好孝(G.Vo)、奥山敬造(G)、桑原宏司(D)、藤田哲朗(B)だそうで、その後メンバーチェンジもしたらしいんですが、結局いつしかデュオグループになってしまった。
この学生運動風の中から抜け出したのは、前列二人だったのだが(前列にいたって事は最初からこの二人がメインだったんだろうけど)、その後は男女デュオのおきまりで結婚をしている。
1972年デビューなので、時代的には学生運動の流れは終わっていた時代ですけどね。
奥山敬造、桑原宏司の二人は脱退後に、かの「つぼイノリオ」と『欲求不満フォークソング・ボーイズ』というグループを結成したとのこと。

Cher07昔から多くいる男女デュオってのは、どんな爽やかな曲を歌っていても「その裏でドロドロしたものあるんじゃないの?」なんて下世話な感じで見られる事もあるわけでやんす。
四六時中一緒にいて、ついついって事もあるかも知れないんですが、逆にいうとキツイだろうなぁとは思います。
とりあえずチェリッシュといったら「てんとう虫のサンバ」が有名ですが、あれって未だに結婚式でイマイチ派手じゃない女友達3人組とかが歌っているんでしょうか?
たぶんもう過去形かと思いますが、あの曲ってのはカラオケ以前の結婚式定番曲で、無伴奏あるいはエレクトーンで「♪照れてるあなたに虫たちが 口づけせよと囃し立て」の「口づけせよと」の部分を何度も繰り返し、新郎新婦がキスをするまで延々繰り返すというのが昔懐かしい昭和の定番でした。

Cher03この結婚式の定番という曲は過去に何曲もあるんですが、それを歌っている歌手がその後離婚しちゃっているというパターンが多い。
吉田拓郎「結婚しようよ」最初の奥さんとの結婚時の曲、その後離婚→浅田美代子と結婚→離婚→森下愛子と再婚
長渕剛「乾杯」石野真子との結婚が近い頃の曲、その後離婚→志保美悦子と再婚
安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」ドラマ「バージンロード(フジ)」の主題歌だったんですが、本人はその後結婚→離婚、ドラマの主役だった和久井映見も。
そんなワケで70年代結婚式の定番曲を歌っていたチェリッシュにはがんばり続けて欲しいものでやんす。

Cher05別に深く知っているワケでもないので、ディープな話題は出来ませんが、とりあえずジャケットを紹介したいという目的の文章でやんす。
ちなみに、デビュー曲「なのにあなたは京都へいくの」のシングルの穴は、このタイプの穴でした。


チェリッシュのディスコグラフィ
チェリッシュ・ファンサイト

| | コメント (2)

2006年7月23日 (日)

クレイドルズ(Cradles)ライブ

こんにちわ、Mr.Childrenの桜井さんに似ていると酔っぱらいベーシストに言われた杉村です。本当に似ていたら自分の人生の苦労の半分は無かったと思います。


そんなこんなでエルローザ杉山バラ園内にあるホールでSBS(静岡放送)アナウンサー國本良博氏が率いるバンド「クレイドルズ(Cradles)」のライブがあった。
6時30分始まりで間に二回ほどの休憩を挟み(あくまでも三部構成と言い張っていましたが)三時間38曲のライブとなった。

とりあえず國本氏はネット上のプロフィールなどでは誕生年不詳って事になっているんですが、ライブ中に「やはり●歳になると、長時間のライブはきつい」などと発言していましたが、3時間のライブは若くてもキツイと思うので、そのパワーはとにかく凄いっす。
静岡の人以外には誰?状態ですが、自分なんかは一番ラジオを聞いていた中学・高校生時代に國本氏は20代の新人アナウンサーでポップスのリクエスト番組などを担当していて、さらに当時も「ケッタウェイズ」というバンドをスタッフと結成してコンサート活動をしていたので、自分たち世代にとってはいわゆる兄貴的な立場でありました。
ま、お互いに順調に年を重ね、共にオッサンになっていますが。

ケッタウェイズは当時SBSアナだった荻島正巳氏(後にTBSへ出向、そしてフリーになった)と、ディレクター2名と組んだバンドで、基本的にオリジナル曲が多かったと思うんですが、上手いとかかっこいいという以前に「ほのぼの」風味が多く、田舎の中学生が聞いても決して上手とは言えない歌などが味でした。
その後、自分は東京へ行ったり、戻ってきた時は自分で音楽やったりして、ラジオを聞く機会も減った事でその後の活動は不明なんですが、数年前に「クレイドルズ(Cradles)」として活動を再開したとの事です。

基本的に國本氏がベンチャーズ世代って事でその手のインスト曲がメインでした。自分はどっちかというとその辺の曲はナツメロとしてかすかに聞いていた程度だったんですが、単純に楽しかった。
演奏テクもかなり難しい事をサラッとやったりして、アマチュアバンドの粋を軽く飛び越してる感じで、客もノリノリでした。

第3部のラストは誰もが知っているような歌物「お嫁においで」「君といつまでも」「想い出の渚」みたいな曲で盛り上げて、会場総立ちで大喝采でライブは終了した。実際の事を言えば、インスト物の方が凄くて最後までそれで突っ走って欲しい気もあったんですが、やはりこっちの方が受けるよなぁと言うことで。
ラストの「想い出の渚」はラスト部で演奏をブレイクさせ、客に「あ〜の夏の日〜」を合唱させる趣向だったんですが「あの箇所って客が乗っていなかったら寂しいので、ドキドキしながらやるんだけど、あそこまで大合唱になるとは思わなくてビックリした」と後に國本氏が語ったほど、歌声喫茶レベルの凄い事になって終わった。

その後の打ち上げにも参加したんですが、渋くファンキーなベースを弾いていた堀氏が酔っぱらって大暴走し(これが通常らしいですが)駄洒落連発、意味不明な行動連発で、いやはや楽しかった。
國本氏より10歳以上年下の自分なんですが、あそこまでのパワーはないよなぁと痛感しつつ、自分ももっと頑張っていかなくちゃいかんよなぁと背中をぐいぐい押されたワケでやんす。

:クレイドルズHP

| | コメント (3)

2006年7月16日 (日)

原田知世「悲しいくらいほんとの話」

000_10原田知世/悲しいくらいほんとの話
作詞.来生えつこ/作曲.来生たかお/編曲.星勝
1982年7月
キャニオン 7A0203/定価700円


別に深い意味はありませんが、今回は「セーラー服」シングル。
原田知世のデビュー曲で、薬師丸ひろ子でヒットした赤川次郎原作の「セーラー服と機関銃」のTV版主題歌。

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」
000_11原田知世はこの後、これも薬師丸映画「ねらわれた学園」のTV版を演じていて、薬師丸の妹分な印象がありましたが、その後映画「時をかける少女」で独り立ちをしたわけです。なにはともあれこの作品でデビューした当時の原田知世はぎこちない演技の少女でした。
ちなみに「セーラー服と機関銃」は今年の10月から長澤まさみ主演でリメイクされるみたいです(TBS系)。

西村知美「想い出の冬休み」
000_14赤川次郎の原作は1978年に発表されていて、それまで普通に暮らしていた女子高生がひょんな事からヤクザの4代目を継ぐことになり、ラストシーンで機関銃を乱射する(と言っても人的被害無し)シーンが印象的で薬師丸版のシングルにはそのシーンがそのまま使われている。
ちなみにそこで使用されている機関銃は自動車で有名なGM社が戦時中に開発したM3A1という型式の物で、通称グリースガン(グリス注入器のような形状だったので誰とも無しに言い始めて通称になった)。

伊藤つかさ「少女人形」
000_15実は本来、映画では作曲者・来生たかおが歌う「夢の途中」が使用される予定だった。
しかし角川春樹が出来上がって来た曲を聴き「これ薬師丸ひろ子に歌わせたらどうだ?」と提案をし、主演女優が歌う主題歌として差し替えられ、さらに曲タイトルも映画のタイトルと同じになった。
来生たかおとしては「約束違う」ということで抗議をしたのだが、そこは勢いのある角川映画に押し切られてしまったのだ。もっとも薬師丸ひろ子の曲が売れたのと相乗効果で「夢の途中に」もヒットし、その後、薬師丸ひろ子や原田知世の作曲をはじめ、作曲家としてもかなり売れたので、その約束破棄はチャラって事ですかね?

ソフトクリーム「クラスメイト失踪事件」
0000softclassちなみに薬師丸ひろ子の「セーラー服と...」と原田知世の「悲しいくらい...」は編曲も同じ星勝で、メロディは違うのですがイントロのフレーズはほぼ同じ物になり共通性を持たせています。
しかし映画主題歌って事をまったく知らない状態で薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を聴くと、歌詞の中に「セーラー服」も「機関銃」も出てこないので、激しく「????」な曲ではあります。

浅香唯「STAR」
000starセーラー服の少女が戦うという意味ではこの小説は1976年から「花とゆめ」で連載が始まった和田慎二の漫画「スケバン刑事(デカ)」が元ネタかも知れません。時代的にはジャストなタイミングですし。
という事で、初代麻宮サキ・斉藤由貴、二代目麻宮サキ・南野陽子は主題歌シングルではセーラー服を着ていないのですが、3代目麻宮サキ・浅香唯はちゃんとセーラー服でシングルを飾っています。

この時点で浅香唯は売れない3年目のアイドルだったんですが、この人気シリーズは大抜擢で起死回生の一発だったワケです。
主題歌は全42話の間に5回も変わり、このシングルは2番目の物。そして5番目の主題歌として浅香唯と共に中村由真大西結花が「風間三姉妹」としてリリースした「Remember」が使用されていました。

風間三姉妹「Remember」
000_12実はTVドラマ化に当たって原作の和田慎二は「漫画とドラマは別物なのでストーリーの変更などは自由に」というスタンスでノータッチだったのですが、斉藤由貴・南野陽子版はそれなりに戦うヒロインの孤独などが描かれていたけれど、浅香唯版は三姉妹だし、学生刑事である必然性が無いし、と言うことで激怒したと言う。そのために、それ以降は、今年になって決定した松浦亜弥の映画Ver.まで実写化の許可が無くなったという。

五十嵐いづみ「エスケイプ!」
000_13そこで、それまで「スケバン刑事」を放送していた木曜19時30分の枠で、オリジナルで「戦うセーラー服ヒロイン物」を作りあげたのです。
それが五十嵐いづみ主演の「少女コマンドーIZUMI」
浅香版スケバン刑事のコミカルな部分を反省したのか、ひたすらシリアスにヘビーな内容でした。
機関銃を乱射するヤクザの後継者とか、ヨーヨーで戦う学生刑事なんてのを突き抜けて、バズーカ砲とかロケットランチャーをぶっ放してトラック炎上させる、バイオの力で超人的な能力を身につけた少女という設定。
とりあえず警察の影組織からの依頼で秘密組織への潜入調査を命令されて、逮捕とかではなく壊滅させる話。とにかく、どの回を見ても暗い印象しか残らなかったんですが、お陰で半年ほどで番組終了。
その時間帯の戦うセーラー服ドラマは終了しました。

由美かおる「レッツゴー!高校レモン娘」
0000yumikao_1ぐるっと時代はめぐり「スケバン刑事」「セーラー服と機関銃」がリメイクされるって事なので、どっかがどさくさに紛れて「少女コマンドーIZUMI」をリメイクしてくれないかなぁ

| | コメント (1)

2006年7月14日 (金)

忌野清志郎が喉頭癌

忌野清志郎が喉頭ガンでこの夏の仕事をすべてキャンセルし入院療養体制に入ったと、自サイトで発表したとの事。


00000_20歌手にとって喉にからむ病気は致命的だし、特に清志郎はあの喉から絞り出すようなシャウトが特徴的なので、かなり心配なニュースなのだ。それ以前にがんというのが。
忌野清志郎といえば、解散(休止?)してから10年以上経過するけれど、自分的にはいまだに「RCサクセションの忌野清志郎」ではある。
RCと言っても、80年代以降のロックのRCではなく、70年代のフォークのRCサクセションをギリギリ知っている。

000_9たしか中学だったか土曜から日曜に架けての深夜、鶴光のオールナイトニッポンをよく聴いていた。3時ぐらいからイントロ当てクイズなどがあり、その後は比較的しっとりしたコーナーとなり、いつもその辺で自然と寝込んでしまうというのがパターンだった。
そのウトウトしていた時に「RCサクセション:スローバラード」が流れていた。
なんだか今まで聴いた事の無いタイプの歌声と、そこで歌われる二人の切ない様子がガキながらにジ〜ンと来てしまった。と言っても、曲が掛かる前の曲紹介は記憶になく、それからずっとアーティスト名も曲名も不明のまま、延々とあのピアノの音色と絞り出すような歌声だけが頭の中でループしていく事になったのだ。
それから約3年ほどの時間が経過した。

000rc_11979年、7月か8月の月曜夜8時台にNTVで「紅白歌のベストテン」(後にトップテンとか放送する時間帯)を見ていた時、このファミリー向けの音楽番組に異様なバンドが登場してきた。
この番組は毎回渋谷公会堂あたりからの中継で、客層は中高生とか家族がほとんど。司会は男性は堺正章、女性は当時は大場久美子か榊原郁恵。いわゆる「歌謡曲なんてかったるくて聴いてられねえぜ」という層はまったく無視するような歌手しかでないような番組だったのだが、そのバンドは、ビリビリに破れたシャツやズボンで(当時は穴あきジーンズもファッションとして認知されていなかった)、髪の毛をツンツン立て、しかも派手なメイクをしていた。
他の歌手のような司会者とのトークもなく、いきなり紹介され歌い始めた。
バンド名は「RCサクセション」曲名は「ステップ」

0000たしか客席はかなりざわついていたと思うが、そのバンドが曲を歌い終わるとそのままCMに入り、その後はまったく出てこなかった。
その曲調は全然違っていたけれど、その声が3年ほど前に深夜1度聴いたあの曲と同じだった。そこで紹介された「RCサクセション」というバンド名から、当時愛読していた音楽雑誌『新譜ジャーナル』の過去の号をひっくり返して、あの時流れていたのが「スローバラード」という曲だというのが判明した。

00000kiyosanしかし悲しいかな、田舎のレコード店を何軒も回っても「RCサクセション」というバンドのレコードは1枚も発見する事が出来ずに終わってしまった。
その後、進学で東京に住むようになり、そこで知り合ったキヨハラ氏がバリバリのRCファンで色々な事を教えてもらい、どっぷり浸るようになったわけでやんす。
ちなみにこのイラストはその当時にキヨハラ氏がカセットレーベル用に書いてくれたRCのイラストでやんす。

RCサクセション関係雑学

0000blue俳優・三浦友和はアマチュア時代のRCサクセションにパーカッションで参加していた。忌野清志郎とは同じ国立市出身で日野高校の同級生(中退と卒業ですが)、その関係もあり三浦友和・山口百恵の結婚式にも招待された。

RCに参加していた時の三浦友和は、初めての一人暮らしだったが、ボンボン育ちだったので洋服はすべてクリーニングに出していた。(他のメンバーはクリーニング以前に洗濯もしなかったが)ジーパンもクリーニングに出していたので、ジーパンにもきちんとアイロンがかかっていた。

友和の父親は元警官だが、警察を辞めたのは「国際興業」の社主でロッキード事件で有名になった小佐野賢治にスカウトされた事による。

0000pleaseRCサクセションの名前の由来は『ある日作成しよう』と思って結成したことから。

というのはグループ名の由来を聞かれたときに面倒くさかった忌野清志郎氏が適当に答えたジョーク。
本当は、忌野清志郎が中学時代に組んでいたグループが「クローバーズ(Clovers)」、高校進学と同時にメンバーがバラバラになって解散したのを再結成して作ったのが「リメインド・オブ・クローバーズ」(Remainder:残り者)。
後に高校中退してメンバーを新たに集めて再結成した時に(Succession:サクセスとセッションの合成語)をプラスして「Remainder of Clover Succession」。略して「RC Succession」となった。

000beatかつて角川から「GATTA! 忌野清志郎」という文庫が出た(タイトル名は微妙に違うかも)。
しかし、それはインタビューや取材をまとめた物だったが、何気なく喋った家庭の話や本名なども書かれ、清志郎が「そこまで書くのは話が違う」と廃版にした。
その後改訂版として再発行。
※その初版持っていますが、詳しい内容は秘密。

0000babyRCサクセションのデビューは1970年頃、30数年前だが「デビュー50周年記念」の本が出ている。この本、デビュー25年目に出版されたもので「デビュー50周年記念出版:上巻」、下巻は25年後に出る予定となっている。


※忌野清志郎さんは2009年5月2日永眠なされました。RCサクセション『ステップ!』:忌野清志郎追悼

| | コメント (0)

2006年7月12日 (水)

甲斐智枝美「スタア」

Kaitistar01前回、7月8日(土)に書いた「小泉今日子/素敵なラブリーボーイ」の時に、スター誕生出身の先輩、しかもイマイチ売れなかった先輩として甲斐智枝美の名前を出した。


そんなタイミングで、11日(火)に「10日早朝甲斐智枝美さんが死去した」と訃報が届けられたワケです。
別段、彼女に関して書き連ねるほど多くを知っていないけれど、なんか80年代のアイドル達もしっかりと年齢を重ね、それぞれが生活を築き上げて生きているのだなぁと思ったりもする。
とりあえず、元スクエアのドラム長谷部徹と結婚したってのは知っていたので、いつの間にか名前を聞かなくなった消息不明アイドルとはチト違うので「平凡に母親でもやっているんだろうな」ぐらいに思っていた。
長谷部徹はスクエア以前にはジャニーズ事務所に所属して「アンク」というバンドをやっていたので(1979デビュー1981解散なので16〜18歳)、その関係か今でもジャニーズ絡みのドラマの音楽を時々担当していて名前をチラっと見かける事もあった。

で、最初は心不全によりという事だったのが、どうやら自殺だったのではないか?という話になっている。
実は先日は「水着写真ジャケット」という括りで文章を書いて、「次はどんなネタで書こうか」という話を友人とした時に「自殺した歌手特集」みたいな話もあった。そりゃ悪趣味だよなという事で却下だったんですが、そんな話をした翌日の出来事。

しかしワイドショーの中では芸能レポーターと称する人が適当な事を語っている。
「彼女はスター誕生出身で、1980年にデビューしポスト山口百恵とまでいわれた。同期に松田聖子さんや三原順子さん河合奈保子さんもいますが、まだ人気のあった1990年に結婚と同時に芸能界を引退し...」
そもそも、1980年に山口百恵が引退表明した段階からその年にデビューした女性アイドルは全員「ポスト山口百恵」なんて呼ばれてました。で、1990年に人気があったかは知りませんが、結婚と同時に引退というより、その翌年に出産してそこで引退だったはず。

デビュー曲「スタア」はそこそこ売れたと思うけど、それ以降はあんまり印象に残らず、どちらかというと前回書いたように「徐々に着衣の少なくなる仕事」がメインだった様な気がする。
それもあって、今回調べて初めて知ったんですが、5枚目のシングル「Si! Si! C」という曲のジャケット写真はばっちりビキニ姿らしいです。まさに前回書いたとおりのルート。(アイドルシングルマニアの自分でもそんなジャケットの存在を今まで知らなかったわけですが)
その後仕事は女優業へとシフトしたみたいで、しかも主人公を虐める敵役みたいなのが多かったような気がする。

ついでにTVでは「彼女はチェミィと呼ばれて」と言っていたんですが、そのニックネームで呼ばれていたのはデビュー2年目まで。
実は1982年に同じホリプロから堀ちえみがデビューした際に、同じちえみなので、そっちにそのニックネームがシフトされちゃったという過去があります。ホリプロ的には「スター誕生」経由アイドルより、「ホリプロスカウトキャラバン」経由アイドルの方が王道なので、待遇の違いはしょうがないのかも知れないっす。(正しくは堀ちえみはチェイミィだったかも知れないけれど、ほとんど定着しなかった)

000honda0712しかし、ワイドショー的に中途半端に持ち上げようとしているけど無理があって、逆に痛々しい。
去年の本田美奈子死去の時も「生前そんな事誰も言っていなかっただろ」的に『天使の歌声』とか言っていた。
本田美奈子の場合は少なくとも全盛期もあったし、ヒット曲もあるので、なんとなく納得出来るんだけど、甲斐智枝美の場合、同時代を生きていた人がうっすらと「そう言えばそんな人が」という感じなので、無理して持ち上げればもち上げるほど痛々しい。

000hide0712かつてX-JapanのHideが亡くなった時も、明らかにレポーターもコメンテーターもそのスタジオに居る人が誰一人として「生前知らなかっただろ?」状態なのに、「若きカリスマと呼ばれ」とか「本当にこういう才能がある人が早逝するのは悔しいですね」などと語っていたのよりは、ややマシかな?レベル。
自分はHideに関して生前から知っていましたが「若きカリスマ」なんて呼ばれていた事は知りませんでした。たぶんバリバリにファンだった人ですら「カリスマだったのぉ?」状態だと思います。

そんなこんなで便乗とも思えるような文章を書いているワケですが、ここ数年自分と同年代の芸能人の訃報を年に数回聞くようになり、なんだか切ない気持ちになってしまいます。
平均寿命が80を越えている今、志半ばでこの世を去っていくのは病気だろうと自らだろうと、その無念さがじわりと身に感じます。自分も余命というものを考えた時に「今のままでいい?」とか「何かをまとめる作業に入らなくてはいけないのでは?」と焦燥感に襲われることがあります。まだ何も成していないというのに。
死因は他人がとやかく言えるものではないと思います、ただひたすらご冥福をお祈り致します。

P.S.
実は訃報が報じられた翌日にサイト知泉ではちょいと異常が起こっていました。
彼女のデータもある「知誕Wiki」へのアクセスが通常1日10000ぐらいだったのが一気に20000を超えました。そして甲斐智枝美の項目には1日で3000アクセス(と言うことは他のページにもアクセス多かったという事になりますが)。
さらに異常は、ブログでも起こっていました。このブログへのアクセスは通常多くても500程度なのに、一気に1300超え(ま、それでも少ないと言う人はいるんでしょうが)。しかも午前10時台までは通常どおりで、11時を超えた瞬間から異常にアクセスが急上昇し ....それが真夜中の12時まで続き、なぜか1時にぴたりと止まったまま、翌日からは通常営業状態。
何んだったんですかね?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年7月 8日 (土)

小泉今日子「素敵なラブリーボーイ」

00000lovely小泉今日子/素敵なラブリーボーイ
作詩.千家 和也/作曲.穂口 雅右
1982年7月5日
ビクター SV-7225/定価700円


夏って事で小泉さんの水着写真が使用されているいかにも夏っぽいシングルでやんす。
小泉今日子は1982年デビューなんですが、この年は前にも書いたように異常なほど女性アイドルの当たり年で前年の秋にデビューした松本伊代を初めとして、堀ちえみ早見優石川秀美中森明菜など、それ以降数年間は逆に新人女性アイドルが売れるチャンスが少なくなるほど長く売れ続ける人がデビューした。

小泉今日子デビュー曲「私の16才」
000016sai01そんな中に彼女もいたわけですが、どうも小泉今日子はデビュー当時事務所がそんなに力を入れていなかったんじゃないか?と思われるフシがある。
というのも、デビュー曲「私の16才」、そして2曲目の「素敵なラブリーボーイ」と続けてオリジナル曲ではなくカバー曲なのだ。
普通、デビュー曲は作曲家・作詞家が「いかにそのアイドルにジャストフィットする曲を用意するか?」という部分が大事だと思うんですが、いきなりカバー2連発(田原俊彦もデビューはカバー曲でしたが)

オリジナル「森まどか:ねえ ねえ ねえ」
00000morimadoka「私の16才」のオリジナルは森まどかという殆ど知られていないアイドルが歌っていた「ねえ・ねえ・ねえ」という曲。元曲が売れなかったしタイトル変更もあって、カバーという事が知られていないんですが、このタイトル変更に関しても当時、曲の中に年齢を入れるのが流行っていたため(伊代はまだ16だから〜♪がキッカケ)急遽タイトルだけを変えたと言われている。

小泉今日子は「スター誕生」出身なんですが、80年代のスタ誕ってのはもうテンション下がっていてあんまりステイタスとはなっていなくて(中森明菜も同年デビューのスタ誕出身)、前年(1981年)デビュー組で売れた歌手はなく、その前1980年は柏原よしえ甲斐智枝美(現.元スクェア長谷部徹夫人)、1979年は井上望(現.エド山口夫人)、という地味な感じ。(柏原よしえが売れたのは1983年の「春なのに」辺りから)

おとなしめVer.ジャケット
00000sutekina2でもって小泉今日子の2曲目「素敵なラブリーボーイ」は、かの林寛子が歌っていた曲のカバー。林寛子Ver.もそんなに売れたワケじゃなく、知る人ぞ知る名曲でした。オリジナル曲は1975年発売ということでギターのディストーションがあの時代に流行っていたタイプの音色なので、ほぼリアレンジしていない小泉Ver.は1982年の段階ではかなり古くさい感じになっている。(編曲はどちらも矢野立美)
で、このシングル最初はややおとなしめの水着写真で発売されたんですが、思った以上に売れなかったのか途中から冒頭のビキニ写真に差し替えた物になった。

オリジナル「林寛子:素敵なラブリーボーイ」
0000hayasihiroといいつつ、それでも売れず、ベストテンなんかに小泉さんが初登場するのは3曲目の「ひとり街角」。
この曲からオリジナルになったんですが、アイドルの曲としてはあんまり無い発売1ヶ月後にやっとチャート登場という感じでしたが(9月21日発売、ベストテン10月21日初登場)、10位に1週登場しただけで終わり。
その日の順位は(1位)一風堂[すみれ September Love](2位)あみん[待つわ](3位)近藤真彦[ホレたぜ!乾杯](4位)中森明菜[少女A](5位)沢田研二[6番目のユ・ウ・ウ・ツ](6位)河合奈保子[けんかをやめて](7位)高樹澪[ダンスはうまく踊れない](8位)渡辺徹[約束](9位)中島みゆき[横恋慕](10位)小泉今日子[ひとり街角]

4曲目の「春風の誘惑」はベストテンには入らず、5曲目の「まっ赤な女の子」が6週・最高位7位、6曲目「半分少女」が6週・最高位4位、7曲目「艶姿ナミダ娘」が11週・最高位2位とベストテン常連になっていく。

夏木マリ姐さん「夏のせいかしら」
000000natuki水着写真を使ったジャケットというのは、売れている歌手の場合はほとんど無くて、どっちかというときわもの扱いな場合が多いので、小泉さんもこの時点では「セクシー路線で売ったろうか?」みたいな算段だったんじゃないかと推測しちゃうのだ。
アイドルの水着仕事ってのは古くから行われていましたが、やはり新人時代の売り込みの一環、あるいは売れなくなったためにしょうがなく、と言う状態が多かったんじゃないかと。

浅野ゆう子「サマーチャンピオン」
0000summercha今や大女優となっている浅野ゆう子も70年代後半から80年代初期は「売れないアイドル」の王道として「段々着衣が少なくなる」という仕事をメインとしていて、週刊プレイボーイなんかでも登場するたびに「今まで見せたことがないギリギリ」記録を更新していました。なんとかラストスパートを掛ける直前に女優として売れたので土俵際で踏みとどまったワケですが。
しかし水着ジャケの「サマーチャンピオン」という楽曲は1979年のカネボウ夏のCM曲で、出せば売れるというポジションだったんですが見事に売れませんでした。

何かを吹っ切ったらしい辺見マリ「太陽に走る女」
000000henmiカネボウキャンペーンソングは「Mr.サマータイム/サーカス(1978)」「くちびるよ熱く君を語れ/渡辺真知子(1980)」「春咲小紅/矢野顕子(1981)」「夢・恋・人。/藤村美樹(1982)」「君に胸キュン。/YMO(1983)」などなど。

そういう意味で、小泉さんの「素敵なラブリーボーイ」は2種類の水着を拝見できる貴重なシングルなのであります。


小泉今日子の豆知泉

小泉今日子はデビュー当時、顔が丸かったが、ある時から急激にシャープになったのは、寝る直前のコーラのがぶ飲みを辞めたため。デビュー当時は中毒的に炭酸飲料を飲み続けていたらしいが、プロ意識が出てそれを辞めたら、顔がスッキリしたとの事。その当時のスタッフに言わせると「朝起きてきた時のむくみはシャレにならない」との事。

セクシー路線だったっけ?ケンケンこと見城美枝子「さよならの夏」
00000kenken80年代サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が突然ベストセラーになったが、これは小泉今日子がラジオで「最近サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が愛読書です」と発言したことがキッカケ。80年代中期の小泉今日子はトンがっている人達のカリスマ的存在で発言の影響力も高かった。しかし、それは放送作家が書いた物でラジオ台本にあっただけで、小泉今日子は読んでいなかった。
ベストセラーになった後で、それに関するインタビューが来るようになった為に、あわてて読んだらしい。

元祖グラビア限定アイドル故.堀江しのぶ「ビキニ・バケーション」
00000horieドラえもんの長編映画『魔界大冒険』のエンディングは小泉今日子の「風のマジカル」が使われていたが、現在発売されているDVDなどでは版権の関係で別の曲に差し替えられている。
199年に発売されたドラえもんのTV映画主題歌集CD「ドラ・ザ・ベスト」では、インスト曲で収録されていている。

マイブームという言葉の考案者はみうらじゅん。彼が80年代当時カルチャー系雑誌だった「宝島」などで言っていた物。

そのマイブームと言う言葉を有名にしたのが小泉今日子。笑っていいともに出演した時に発言し、タモリが「マイブームって?」と聞き、それに解説をした事により一般的に浸透した。小泉今日子のテレフォンショッキング出演は1985年10月24日・1988年12月1日・1992年1月27日・2001年1月29日の4回。時代的に見てマイブーム発言は1988年12月だと思われる。

| | コメント (0)

2006年6月29日 (木)

夏イベント中止!

なんかいきなり「夏!」てな感じになって来まして、世間では夏のイベントってヤツがあちらこちらで聞こえて来ます。


0000suzukimそんな中、福島県白河市で7月30日に開催予定だった「ヒステリックサマー2006 in 白河(HYSTERIC SUMMER 2006 in Shirakawa)」という野外コンサートが、チケットが全然売れないって事で中止が決定された。
目標1万5000枚、とりあえず採算ラインは6000枚、って所なんだけど、発売開始からすでに1カ月経過した現在で約1100枚程度しか売れていないらしい。
1100枚って、適度に人気あるアマチュアバンドでも夏イベントなら可能だと思うんですが。

0000hiroで、よっぽどショボイ歌手しか居ないんじゃないか?と思ってチェックしてみると、そのイベントに出演する予定だったアーティストは以下の通り。
鈴木雅之&鈴木聖美スペシャルユニット(Featuring 桑野信義・佐藤善雄)つまり、RAST & STARの現役メンバー全員。
DA PUMP
hiro
■JAYWALK
■D-51
Skoop On Somebody
■アンダーグラフ
って、普通にそれぞれのアーティストが客呼べるメンツじゃないの?初めて聴くような無名のアーティストもいないし。

開催日時:2006年7月30日/開場:12:00 開演:14:00 終演:20:30予定
・スタンディングゾーン:前売り\7,000(税込)当日\8,000(税込)
・ファミリーゾーン:前売り\6,500(税込)当日\7,500(税込)
※小学生以下:無料(但し小学生以下はスタンディングゾーンにはご入場できません)
・無料シャトルバス:白河駅・新白河駅 会場運行

0000sos金額的に7000円ってのが高すぎたのかも知れないけど、それにしても1100枚しか売れないってちょっと考えられないっす。
もしかしたら、ほとんど告知されていなかったとか? ネットで調べるとそれなりにちゃんとした告知サイトも作っていたみたいだけど(すでに中止告知だけになっているけれど、Googleキャッシュを見る限りでは)、TVや雑誌などのメディアでの告知はどうだったんですかね?

白河市のお役所イベントだったらしいんだけど、以前ちょっと話を聞いたお役所関係のイベント企画で「今や何をするにもインターネットが最重要」という話だけ聞きかじって「ホームページ作ればみんなワシワシとアクセスされて大賑わいになる」みたいな盲信的な事を述べている人もいて
「いやいや、HP作っても他メディアで告知しなくちゃよっぽどの事がないとアクセスしてくれないっすよ」
「でも知泉は別にどこで宣伝したワケじゃ無いけど1日アクセス1万人なんだろ」
みたいな感じもあったので、まさかと思いますが…。
とりあえず、首都圏からのバスツアーまで企画されていたらしいけれど、これの出演料の補償などで5000万円前後の損害が出る見通しだそうです。

白河関連掲示板を発見して、その周辺に住んでいる人々の書き込みを読む限りでは「ろくに広報活動してなくて一般市民が知らないんだから、チケット売れるハズない」とか「白河市民の何%がライブやるって知っていた? 今回の中止の件で初めて知った奴とかいるぞ」とか「CMはTVでちゃちなスポット1回見ただけ」「このイベントに関するポスターって見たことない」「姉がツタヤでチラシを貰って来たのでかろうじて知っていたけど、それ以外では一切情報入って来なかった」などなど。
どー考えても「宣伝不足」

バブルの頃は結構多かったけどね、なんか「とりあえずイベントブチあげちゃえ」みたいな役所仕事がアチコチで。でもあの時代は、なんだかんだ言って世間が浮かれていたので、そんなお粗末なイベントでも客はワサワサ入っていたけど、流石に今の時代では。
地元市民が盛り上がっていない地元優先イベントって...。

もっともっと話の規模が小さい物で覚えているのが、某アイドルグループの沖縄ツアー中止というのをふと思い出した。
たしかSPEEDのフォロワー的3人組で、一部では熱狂的ファンもいたと思うけれどいまいちメジャーになれなかったグループ。その後、世間ではモーニング娘。が売れていたので、いきなりメンバーを追加して8人グループになった。
その直後だと思ったけれど、ファンの集いという事で「沖縄ツアー」を企画した。
ちゃんとメモしていないのでうろ覚えなんですが、沖縄へ数日間ツアーを組み出かけ、そこでライブや食事会や色々なイベント満載、ファンの集いを開催するという、熱狂的ファンにとってはこれ以上はないという密着できるチャンス。
3〜4日ぐらいのツアーで、値段も激しく高価(普通の沖縄旅行の倍ぐらい)で、しかも日程が平日。
おいおい、そのアイドルを応援しているファンの年齢設定とか考えたツアーなのか?と言う感じで、最終的には「予定人数に応募が達しなかったため、ツアーは中止いたします」との告知で終わった。
なんでも参加希望者が2桁行かなかったらしい…。さすがにそれじゃ企画は「」として消えちゃうよなぁ。

やはりイベントを企画する時は、そのイベントの客層をよ〜く考えて、ちゃんと広告費もちゃんと計算しましょうね。って感じなのだ。

| | コメント (0)

2006年6月24日 (土)

郷ひろみ「モナリザの秘密」

あんまし音楽的な事は書かないので、「知泉的夜話:番外編」って事で。


郷ひろみ「モナリザの秘密」
000000_2世間では映画「ダヴィンチコード」は盛り上がってますか?
自分的には原作本が評判になっていた時に、チラッと「キリストの子孫がどーこー」とか「実は結婚していたので」という話を聞いた時に「あぁ昔からトンデモ関係のによく出てくるマグダラのマリアがどうこうって話なんすかね?」と思って、読まずにいた。
その後、それを読んだ知人が熱く「ダヴィンチが残した暗号がウンヌン」と語ってくれたんだけど、キリストは紀元数年の人で、ダヴィンチは1452〜1519年の人。そんな重要なキリスト教としては隠蔽しておかなくちゃいけない秘密を、情報伝達もぜんぜん確立されていなかった1400年後のダヴィンチがしっかりと知り得るんだ?とか思った。

ザ・タイガース「モナリザの微笑」
0000001_3いや、実際に原作も映画も見ていないのでかなりトンチンカンな事書いているかもしれませんが。
人によってはダヴィンチって激しく大昔の人のように思っているかもしれませんが、アメリカ大陸の名前になっているアメリオ・ベスブッチとは1歳違いで、日本では応仁の乱が起こった頃に絵を描き始めている。

ピンクレディ「マンデー・モナリザ・クラブ」
0000002_4で、一番面倒臭いのはその手の歴史絵巻的小説を100%信じちゃう純粋な人も多いって事。
あくまでもあれは小説内における仮説。
「神々の指紋」が流行った時も、100%の人がいてアララとは思ったんですが。
もちろん、宗教的な事は全然うとい日本はあくまでもエンターテインメントとして捕らえていたみたいですが、キリスト教を精神の有り処としている欧米では大問題が勃発しているみたいです。
ま、日本は宗教がほとんど無い上に、一番大きな仏教でも開祖のシッダルダはちゃんと結婚して子供ラーフラもいますし、さらに仏典では他に2人女性の影があるらしいので、「教祖に子供いたっていいじゃん」なのかもしれませんが。

高見知佳「セザンヌの絵」
0000002_3とそれとは関係なくダヴィンチの名作「モナリザ」に関した曲って事で
郷ひろみ「モナリザの秘密」
この曲の中でのモナリザの扱いは「♪君はモナリザ、僕を狂わす謎の微笑みよ」と、不可思議な女性の事を比喩としてモナリザという単語を出している。
日本では1974年春に国立近代美術館で「モナリザ展」が開催されて、1日の最高入場者が3万1120人という事で、一大ブームを起こしている。
この郷ひろみの曲はそれの少し前、1973年12月5日に発売されている。つまりこの曲はモナリザ展が開催されている真っ最中にヒットしていたと言う事になるのだ。ジャケットにもしっかりモナリザが映し込まれている。

高岡早紀「セザンヌ美術館」(VSD)
0000003_2ザ・タイガース「モナリザの微笑」
この曲では、雨が降った日曜日に彼女に逢えないって事を歌っていて、どこにモナリザが出てくるか?というと、この主人公、自室の壁にモナリザ(の複製というかポスター)を貼っていて、寂しい日は「モナリザも微笑みを忘れている」と歌っている。
壁にモナリザの絵をドンッと飾ってしまう、その大それた趣味もどうかと思うけど。

ピンクレディ「マンデー・モナリザ・クラブ」
末期ピンクレディの曲でモナリザという単語が出てきますが、なんだかよく判らない秘密クラブに夜な夜ないろんな人がやってくるって感じで、そこのクラブの名前として登場。

ゆうゆ「天使のボディガード/モナリザのいたずら」
0000004_1シングルにした人は思ったより少なく、他にはアルバムなどで色々。
ゆうゆ「モナリザのいたずら」。シングル「天使のボディガード」のB面
安西マリア「モナ・リザ」たぶんアルバム曲だと思うんですが、どのベスト盤にも収録されている曲なのでシングルの可能性あり。
DOGGY BAG「モナリザ」1stアルバムの曲
桂銀椒「モナリザ」たぶんアルバム曲で再録音盤もあり
CHAGE & ASKA「モナリザの背中よりも」アルバム「SEE YA」収録
中村雅俊「君の中のモナリザ」アルバム「Restoration」収録
上田正樹・デュークエイセス・中村八大「モナリザ」
これらは多分ナットキング・コールの「モナリザ」のカバー
などなど

モダンチョキチョキズ「ピピカソ」
0000005_1絵画関係が曲中に出るというのはかなり特殊な物らしく、色々探したんですが絵画のタイトルって事で出てくるのは「モナリザ」ぐらいなんじゃないかなぁという感じ。
画家の名前が曲タイトルに出てくるってのでは
高岡早紀「セザンヌ美術館」
高見知佳「セザンヌの絵」
加藤和彦「あの頃マリーロランサン」
モダンチョキチョキズ「ピピカソ」
RYTHEM「ピカソの休日」
ぱっと思いついた、というか手持ちの曲ではこんな感じ。
他に調べていけばゴロゴロ出てきそうな気もしますが、とりあえずほとんど資料を見ずに知っている曲というとこんな感じっす。
あと「ピカソ」に関してはグループ名がそのものズバリ「ピカソ」というのもありました。

加藤和彦「あの頃、マリーローランサン」
0000006_1
それ関係の豆知泉

キリスト教というと日本では織田信長が布教を許可したという事で、キリスト教を利用しようとしたとか、ありますが、かの安土桃山城にあったのは天守閣ではなく「天主閣」。これは自らが全知全能の神ゼウスになりたかった信長が「ゼウス=天主」として名付けた物。

『薄いヴェールをかぶった娼婦』ダ・ヴィンチが名前を付けなかった名画「モナ・リザ」がフランス王室の財産目録に記載された時の名前。

「モナ・リザ」のモデルはホモ相手の少年だという噂もある。さらにモデルはダヴィンチ自身だという噂もある。

「モナ・リザ」の鼻の横にある盛り上がりは、高コレステロール血症特有の症状といわれている。

ルーブル美術館にあるダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ (Monna Liza)』は、地元では『ラ・ジョコンダ (La Gioconda)』と呼ばれる。 モナ・リザのモデルといわれている女性・ジョコンダ夫人にちなんだもの。

1911年ルーヴル美術館から「モナ・リザ」が盗まれた際、容疑者の一人としてピカソの名前が挙がっていた。

モナ・リザを盗んだ犯人の目的は、モナ・リザを売ることではなく精巧な偽物を「これが盗まれたモナリザです」と売りつける事。少なくとも5点が本物として売買された。
※偽物と判明しても盗品と知って買った人は騒ぎ立てる事も出来なかった。

フランス王フランソワ一世はダ・ヴィンチから譲り受けたモナ・リザをあんまり気に入らなかったためなのかトイレに飾っていた。

しかも「トイレに飾るのにはちょっとでかいな」と絵の両側を切り取った。つまり現在知られているモナ・リザは、実際には左右にもう少し広く、両側に石柱があり遠近感が引き立つ構図だった。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」で食べているのはオレンジ。でも、あの時代にはまだオレンジは入って来ていなかった。

ダヴィンチ作「最後の晩餐」は同時代の画家の作品と比べて画面の劣化が激しいと言われているのは、ダヴィンチが色々な画材を使って絵の具の実験をしていたため。

作業効率の研究では、卵黄・亜麻仁油・膠・顔料などを混合したテンペラ絵の具などを用いている。未来永劫に作品を残す事より、その段階での問題点「いかに早く乾かすか」を考えていたらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月21日 (水)

もとまろ「サルビアの花」

000000_1もとまろ/サルビアの花
作詞.相沢靖子/作曲.早川義夫
1972年00月00日/¥400


この曲は元々、早川義夫(元ジャックス)がソロアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」の中で歌っていた曲で、それが有名になったのは1972年に女子大生の3人組「もとまろ」がカバーした事から。
ジャケットを見ると、あの時代の女子大生のファッションセンスって... という感じですが。
当時のヤマハ関係のコンテストでも歌われたみたいで、ポプコン(ヤマハのポピュラーコンテストの略称)関連の番組でもよく流れていた。自分はリアルタイムではなく、70年代中期以降に知った。

早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
0000_10基本的にふられちゃった男がウジウジ言っているような内容で、ある意味60年代から続いていたプロテストソングと、80年代以降の明るい前向きな音楽の間に咲いたあだ花「四畳半フォーク」的な、情けない状況を歌っていて、現状を打破出来ずに佇んでいる人が主人公。

前半では「♪いつもいつも思っていた」と好きな女性の部屋にサルビアの花を投げ入れたい、女性のベッドにサルビアの花を引き詰めたいと妄想している。そこで歌われている「サルビア」というのが何を意味する暗喩なのかはよく解らない。
個人的にサルビアにはそんな悲しげなイメージも抱けないし、子供の頃「サルビアの花をつみ取ってその花の下部分をチューチュー吸うと甘い」と聞いてチューチュー吸った記憶はある。でも、戦後すぐの甘さに飢えていた欠食児童ではないので「ふうん」ぐらいにしか思わなかった。
ちなみに、サルビアは意外な事に「シソ科」の植物で、ハーブとして有名な「セージ」もサルビアの一種らしい。(雑学ワンポイントメモ)

サルビア(写真「植物園へようこそ」さん)
00000その男が後半にはさらに情けなさ度を上昇させていく。というか歌詞を改めて読み直すとホラーなのだ。
「♪(教会の)扉が開いて出てきた君は…」
相手の女性側からしてみれば、結婚式を挙げているときに、そこに呼ばれもしない男がノコノコと出現しちゃってジトーッとこっちを見ているという状況。そして彼女の事を「偽りの花嫁」と言い放つ。
そこには「金色夜叉」並の壮大なドラマが存在しているのかも知れませんが、彼女は「♪頬をこわばらせ僕をチラと見た」これって完璧に嫌われているというか…。そもそも男は「元彼」でもなく、普通に告白されて断った男という感じだし、一方的な濃縮還元的思いこみで、女性側からしてみたらただの嫌がらせなのかもしれない。

大瀧詠一「恋するカレン」
00000_19勝手に思い込んで別のヤツと幸せそうにしている女をジトーっと見つめる曲としては、大滝詠一の「恋するカレン」なんてのもありますが、あっちは「本当の幸せは俺と付き合う事だよ」なんて思いこんでるレベルの痛さで「悲しい女だね君は」と勝手にシベリア妄想超特急を走らせてどっかに行ってしまうので、可愛い物です。

それに対してこっちの曲ではラストは「泣きながら君の後を」と新婚旅行に出かける車の後をうわんうわん泣きながら追いかけて走っているかのような状態(状況の詳しい説明は歌詞には出てきませんが)。
おいおい、ただの恋愛ホラーだよ。
なんか中学の頃に聞いた時は「みっともない男だけど、純愛だよなあ」と思っていた気がするんだけど、改めて聞くと、ただの「ストーカーソング」なのだ。

猫「雪」
0000_11なんとなく文学的な歌詞に騙されていると、ただのストーカーも容認してしまうというパターンでは、同じ時期(1972年)に「猫」というグループが謳っていた「雪」という曲もある。
作詞作曲は吉田拓郎なんですが、歌詞の内容は「雪の降る中、見知らぬ街角ですれ違った見も知らぬあなたの後をずっと追いかけていた」という物。要注意人物なのだ。今の物騒な時代だったら、いきなり通報されてしまっても文句言えないような主人公なのだ。(好きな曲なんですけどね)
文学的というのは危ない面も多々あって、かの梶井基次郎の「檸檬」なんて小説も、本屋に行った時に持っていたレモンを「これが爆弾だったら俺の憂鬱もろとも本屋を破壊できるのになぁ、ふひふひ」と妄想全力疾走で、オチもなく終わってしまう。純粋な文学ってのはそんな物なんだろうなぁ。

岩淵リリ「サルビアの花」
0000_3ということで「サルビアの花」に話を戻しますが、実はこの曲、日本フォークの中で極端に突出したヒット曲ではないと思うんですが、そのワリに異常な数、カバーされている。
オリジナルの「早川義夫」、元祖カバーの「もとまろ」は有名なんですが、同じくシングルを出した「岩淵リリ」、さらにはアルバムでカバーしている「ウィッシュ」「あがた森魚」「チェリッシュ」「ダ・カーポ」「ジャネッツ」「ベル」「川奈真弓」「本田路津子」「NOW」「草間ルミ」「あらきなおみ」「市原真由美」などや、大御所「因幡晃」「加藤登紀子」も、さらには歌謡曲側「天地真理」「山本リンダ」「じゅんとネネ」なども70年代にカバーしている、それ以降1980年代に入っても「あみん」「甲斐よしひろ」「岩崎宏美」「鳳蘭」などジャンル不問の人々がカバーをし、近年でも「大石円」や「井上陽水(アルバム:UNITED COVER)」、今世紀に入っても関西出身歌手「LOU」が2001年のデビューアルバム「SEARCH&LOVE」でカバーしている(他にもいるかも知れません)

しかし、結婚式が終わって新婚旅行に出かけようとするとき、車の後ろを昔付き合っていた相手(あるいは振っただけの相手)が泣きながら追いかけてきたら怖いよなぁ。

オオタスセリ「ストーカーと呼ばないで」
0000_12ストーカーソングというとこの6月21日に発売された「聴いてはいけないオオタスセリの世界(全曲試聴できます)」に収録されている「ストーカーと呼ばないで」が凄い。まさにストーカー側からの歌詞。
歌詞の方は本人のブログに全部掲載されていて、かなり怖いです、「オオタスセリ:私の観察日記
でも怖いながらも、なんか全然解らないってワケじゃないのが悲しい。なんか扱いが非常に難しい曲ではあります。
ちなみに、オオタスセリさんとはかつて「ペコちゃん」というコンビ名で80年代から活動していた女性お笑い芸人さんです。

| | コメント (2)

2006年6月16日 (金)

THE BEATLES「When I'm Sixty-Four」

000p0000_1Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
1967年6月1日リリース


ビートルズが1967年に発表したコンセプトアルバム「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」。
ペッパー軍曹が率いるバンドが...というコンセプトで作られたアルバムなんですが、なんか評価されているほどコンセプトが明確ではないような気もするし、リアルタイムじゃない世代からすると「一連のビートルズのアルバムの1つ」という感じでもある。

000p0001タイトル曲は大場久美子がカバーした事でも有名な曲ですが、今回話題にするのはB面2曲目にあるポール・マッカートニーが作った「When I'm Sixty-Four」という曲。直訳すると「僕が64歳になった時」。

当時25歳だったポール・マッカートニーが書いた曲で、ひたすらラブリーな内容「僕ら64歳になっても今と変わらず仲良く、夏にはコテージなんか借りちゃってさ」と歌っている。
そのポール・マッカートニーがこの6月18日に、その歌詞で歌われている64歳になる。(1942年6月18日生まれ)

000p0002もっとも、この曲を書いた当時付き合っていて、後に結婚をしたリンダは1998年に乳ガンで亡くなっており、歌詞通りにはいかなかった。
当時カメラマンとして知り合ったリンダ・イーストマンと結婚(写真家で苗字がイーストマンだったために、当時「イーストマン・コダックの関係者」と噂されていたが、それは間違い)。


000p0003ビートルズ解散後はウィングスのメンバーとして、本当に弾いているのか怪しいキーボードと、なんか音が外れているようなボーカルを担当していた。
ウィングスの活動は1980年代に休止となり、その後リンダは自然食関係の活動を推進しポールもそれに協賛しベジタリアンになっていった。


000p0004ポールは1998年にリンダが亡くなった後も、リンダの意思を嗣いで自然食や動物保護活動を続けていたが、翌年チャリティイベントで動物保護活動家・地雷撲滅運動家そしてモデルもしているヘザー・ミルズと知り合って、2002年6月に再婚をした。


000p0005ビートルズ〜ウィングスを聞いて育った世代としては「ポール=リンダ」という絵柄以外はなんか裏切りじゃない?みたいな感じもあったんだけど、その翌年には娘も生まれ、ポールとしても第3だか第4だかの人生を謳歌している感じだったのかも知れない。
そして今年「When I'm Sixty-Four」で歌われた64歳になるって年。曲に歌われていた女性はリンダではなかったけど、ポールが幸せならばいいかぁと思っていた。

000p0006そんな時、5月17日にデイリーミラー紙が離婚問題をすっぱ抜き、騒ぎになってしまった。
ポール自身はそれに対し「関係は良好だが、マスコミなど周囲の雑音の為に、普通の関係が維持できなくなった為」と離婚に関しては否定的ではないコメントを出している。
理由に関してはデイリーミラー紙は「ヘザーは自分の思い通りにならないと子供になってしまうし、ポールは若い頃から有名人としてチヤホヤされてきたので自己主張する相手とどう接していいかわからない」と、相性以前にどちらも未成熟な人間だからと書いている。

000p0007現時点でポール(63)、ヘザー(38)なので、ジェネレーションギャップも当然出てくると思う。
で、離婚に関してはほぼ決定ということで、今まだハッキリしていないのが「離婚に関しての慰謝料をどれぐらい支払うのか?」という問題なのだ。

ポールの全財産が推定8億2500万£(約1750億円)とされているので、約2億£(約425億円)ぐらいではないか?と噂されている。
しかしこの離婚でヘザー側に対し「金目当ての女」という意見が多く(やっぱりビートルズはイギリス人にとっては国の宝っすからね)噂されている額より低め500万£を提示しているという話もある。どの話も噂の域を出ないんですが。

000p0008イギリスではこの慰謝料の金額の話題がヒートアップしているんですが、実は今回の額がイギリスでの離婚慰謝料最高額記録を更新する可能性があるのが一因。
これまでの最高額は2000万£だったので、最初に噂された額の場合は記録更新となる。実は現時点の記録保持者は故ダイアナ妃。

つまり、「ポールが高額の慰謝料を取られる」って事への反発と同時に、今でも人気の高いイギリスの華を「金目当ての女が抜き去る」ってことをイギリス国民は良しとしていないのだ。
しかし、僕が64歳になった時(When I'm Sixty-Four)、まさかそんな事になっているとは、25歳のポールは思ってもいなかっただろうなぁ

| | コメント (5) | トラックバック (0)