2012年1月 7日 (土)

「食べログ」操作

クチコミ投票による飲食店の評価サービス『食べログ』に、情報操作をする業者が出現し、集中的に契約した店の評価を上げていたという事が発覚して騒ぎになっている。


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いつの間にか「クチコミ情報はあてになる」と言うことから万全の信頼を得ているかのように広がっていった『食べログ』なんだけど、どうしてここまでみんなマルッと信じちゃうのかな。
確かにクチコミってのは「実際に行ってみた人の感想」って事で、業者の宣伝とは違う部分なので「なるほどね」という部分で引かれるのかも知れない。
でも昔からアマゾンのレビューなんかで明らかに「そのベタ褒め文章はどうなのよ」的な物があったり、不特定多数が自由に編集出来るWikipediaでも関係者が有利なような文章を改竄していたという件などが発覚していたから、それも想定内だったんじゃないかと。
よく店の開店時にサクラを並ばせて行列が出来た事でさらに行列が出来るという効果を狙うパターンがあるけど、あれと同じ原理だよね。
で、その行列に関しては並んでいる方もイベントの一環として並ぶパターンもある。中には「この行列ってサクラで盛り上げている」という噂を聞いていても、あえて並んでみるというパターンもある。


確かに『食べログ』なんてジャンルのものは「信用第一」だとは思うんだけど、いくらでもデータ操作はできると思う。
たとえば大学のサークルなど複数人の暇な連中が集まる場所で
「あそこのメシ屋、最悪にマズイよな」
「サービスも最低、俺あそこの親父に睨まれてンだよ」
「道理でいつ行っても客がいねえんだな」
という事で、批判するのではなく「逆に盛り上げてアソコの親父をてんてこ舞いさせようぜ」という事で、複数人で「最高の店」という評価を入れる遊びも簡単に出来る。さらに横の繋がりで仲間に声を掛けてどんどん評価を上げてしまうという事がいとも簡単に出来る。実際の仲間じゃなくても、例えば2ちゃんねる辺りで悪ふざけのイベントとして盛り上げる事も出来る。

それのもっとも有名な例では2001年にアメリカの雑誌『TIME』での今年の顔として田代まさしをみんなで一斉に投票するという遊び。いわゆる「田代砲」と呼ばれるヤツで、この時異常なほど投票があった事から「TIME」は一時的にシステムダウンを余儀なくされ、ちょっとした社会現象になった。(結局、田代まさしへの投票は無かった事にされた)
同じようなパターンでは2003年のプロ野球オールスターゲームへのネット投票で、当時年俸は2億円のわりにまったく活躍しなかった中日の川崎憲次郎を「晒し者にする」という意図でセリーグ先発投手部門で1位にした「川崎祭り」というのも行われている。
そんな事で、ネットでの投票なんて組織票でいくらでも操作出来るという事を、利用者も頭の片隅に置かないといけないんじゃないかと思う。最終的に『食べログ』の結果を見て店に行ったのは本人の意思なので「騙された!」とは思ってしまうかも知れないけど、単純に信じちゃダメっすよという教訓になるんじゃないかな。
そもそも、食べ物の美味しいマズイなんて人それぞれなんだし。

どのジャンルでも何か新しいモノが始まると、話題になると、それに便乗して何とか金儲けしようと考える人がいるワケで、それが『食べログ』にも登場したという話なんだと思う。
もっともテレビのニュースでコレを扱っているのを見ていて「ネットはやっぱ信用できねえよな」と優位に立とうとしている視線も感じないワケではないけど。

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2011年11月 8日 (火)

コンニャクを今夜喰う

時々「人間って凄ぇな」と思う事に「どうしてこの食材をこんな風に加工するまでに至ったのか」という事がある。
たとえば「コンニャク」という物。多くの人がコンニャクって元々どんな物? という状態かもしれませんが、コンニャクの元になる「コンニャク玉」と呼ばれる球根部はこんな塊↓。
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コレをすって、ドロドロにして、あーしてこーして延々と面倒臭い処理をして、あのプニュプニュのコンニャクに変身するのだ。
冷静に考えると「あれをアレにしようとはマズ思わないだろ」という事なのだ。
おそらく最初は球根を他の根菜類と同じようにガリガリ囓ったり、煮込んだりしていたと思う。
それをどこかのタイミングで擦って食べる事を誰かが考案する。この辺はトロロなんかも同様なんだけれど、それをせっかくドロドロにした物をもう一回固めるという事を誰かが思いついちゃったのだな。

たぶん最初は何かの偶然でドロドロにして食べていた物が固まってしまい、それを捨てるのも勿体ないので食べてみた所「何? この食感」という事になって、次は意図的に作るようになったんだと思う。
似たような流れでは、海草を煮詰めて冷やすと出来る物をトコロテンとして食べていたのを、寒い日に外に出しておいたら水分が飛んでしまい乾燥しちゃったので「しょうがねえな」ともう一回煮込んで食べてみた所、トコロテンより弾力がある「寒天」が出来上がったという流れもある。
偶然に料理法が進化していくのだ。

だからコンニャクも長い年月を掛け、途中に偶然を挟みながら今に至っているんだろう。その偶然が西洋では起こらなかったのでアジア圏内だけの食べ物として進化していった。
そして固まったプニュプニュをさらに食べやすいように、美味しくなるような改良を加えて今日に至っている。
この材料からこの食材を作るなんて思いつかないだろ、という物に豆腐もある。
なんせ大豆ですぜ、元々と言えば。あれを煮詰めて柔らかくした物を潰してドロドロにして、それを固めて作るなんて、ちょっとあり得ない展開。途中にニガリなんて入れたりして。

さらにそれで満足せずに、それを油で揚げて「油揚げ」なんて物まで作り上げてしまう人類って変すぎっすよ。大豆から油揚げに至るまでにどんだけ行程を経ているんだよ。
そんな事を食事の時もボーッと考えているのであります。
食いしん坊の先祖に乾杯!

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2010年10月 6日 (水)

コーヒークレイジー

朝目覚めて最初にするのは、コーヒーをいれるという事。


実際にはすでに挽いてあるコーヒー豆を紙フィルターを使ってセットして、水を入れてボタンを押すだけなので「煎れる」でも「炒れる」でもない「いれる」という状況なんだけど、とにかくそれが毎朝の儀式としてある。
今年の夏、無茶苦茶な暑さの中でも目覚めの一発は熱々のコーヒーから始まった。基本的にコーヒーはホットで飲みたい人なのだ。
ただ、7月ぐらいのロケにいく朝、静岡駅のマクドナルドで朝7時台ですでに暑い時になんか怪訝そうな顔をされながらも「ホット」と注文して飲んだところ、汗がとめどなく流れはじめ、ロケ車が来た時に汗ぐっしょりになっていたという失敗もある。
だけどコーヒーの基本はホットなのだ。

それを自宅仕事をしているときは延々と飲み続ける。サーバーで1回に作れるコーヒーはカップ3〜4杯だと思うけれど、気が付いた時は1日に3回ぐらいコーヒーをいれているかもしれない。
へたすると、まっとうな食事を食べ忘れて、ただただコーヒーだけを飲んでいる事もある。これじゃ体にいいわけ無いよ、解っちゃいるけど辞められない♪、なのだ。
そんなこんなで、以前ここで書いた「コーヒーの出がらしって何か再利用できないの?」という事をいつか実行したいと思い続けて、2年ぐらい貯め続けている出がらし豆のカスが凄い量になっている。

来年の春こそは、なにか植物を植えるとか、再利用できないかの実験をしたいと思う。
ただ、日々の生活に追われて気が付くとタイミングを逃す。
そしてコーヒー豆のカスがどんどん溜まっていく、そして部屋がコーヒーのニオイで充満していくのだ。

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2010年10月 2日 (土)

鯛や鮃の舞い踊り

1年半続いた「ラブいぜ!しずおか」が終わって、しゅるると空気が抜けたタイミングでとあるサークルに呼び出されて、食事の会に出てきた。
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なんだか凄い事になっています。とても総勢6名の宴会とは思えない量の魚が出てきたワケですが、ハッキリ言って舟盛り2つは必要ないだろ
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私はもともと酒が飲めないし、車を運転しているし「じゃ喰え!」とガンガンと勧められたりする。
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舟盛り以外にも、生牡蠣が出て、海胆が出て、蟹が出て、海老もガンガン出て、鯛の尾頭付きが出て、ここは竜宮城か!
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ワサビだって生をすり放題
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だけど「実はボク、生魚苦手なんだもん」とは言えない大人の配慮で、必死に食べるという責め苦。
こっそりと、イカとか、タコを食べていると「杉村ぁ遠慮するな、こっちもどんどん喰え!」と声が飛び、空気を読む私は生魚をこれまで1年間に食べた量より多くひと晩で食べることとなってしまった。
飽食をすると人間がダメになっていく気がする。案の定、翌日から体調不良となってしまったワケです。

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2010年6月11日 (金)

桃を死ぬほど食べたい

本日放送分の「ラブいぜ!しずおか」は静岡県の長田の桃というテーマでした。


これはロケ先の長田の桃(ムチャ甘い)
Dscn3191日本一の早出し桃として、ハウス栽培されているムチャクチャ甘い桃の取材でした。
こーゆー番組とか見ていると「美味しい所にロケ行けてうらやましいなぁ、取材って事で死ぬほど喰って来たんだろうなぁ」とか思いがちなんですが、意外とそんな事はないのであります。
確かに、その現場で食べるシーンとかを撮影する事もあるのですが、そんなにバクバク食べて「もうしばらくは見たくも無いッス」みたいな感じではない。というか、スケジュールの都合で「このシーンを撮影したら、次はここで」とガシガシと移動したり、メニューをこなしていくために、観光地なのに何も観光的な部分が記憶に残らないぐらいに忙しい。
現場に到着しても、その場その場で台本を微調節したり頭をフル回転させているのだ。

我が家の庭にある木についた桃の実
Dscn3270だから、ラブいぜ!のロケでも最初の頃は特に余裕が無かったので、第1回目のテーマだった「サクラエビ」なんてのは(水揚げは静岡県100%)自分はサクラエビを1匹も食べることなく終わった。
とりあえず画面上で「いただきま〜す」と食べていた小沼さんもカメラが廻っている所で口にしただけで「これ持ち帰ります」とパックにしてその場を後にしたという感じで、自分はロケ中、目の前にサクラエビがチラチラしていて「あぁ食べたい食べたい」と欲求が異常なテンションで高まってしまい、その結果、帰りの静岡駅構内でサクラエビを購入して帰った。
さっきまでサクラエビを水揚げした現地で、しかも販売していた所にいたのに。

これでも間引きをかなりした状態
Dscn3271そんなワケで、先週、桃のロケがあったわけですがやはり「欲望中枢が満足出来ない」状態になっていて「桃桃桃桃」と頭の中に桃がチラチラしているワケです。
実は我が家の庭には桃の木が植わっている。
そんな桃に今年は大量の実が付いたのです。もうそりゃ大変なぐらいに。
という事で、間引きをしつつ、有望な桃を残しそこにホームセンターで購入してきた紙袋を被せていくのだ。
これで1ヶ月ほど後には桃三昧の日々がやってくるのだ。うししししし。
と言いつつ、実は2007年6月9日にも『桃!』というタイトルで紙袋を被せた話題をしている。しかしその後どこを捜しても「桃を収穫したのだ、桃三昧なのだ」という文章は見あたらない。
実を言うとこの年の桃は、こんな大量に実として成ったのに一つも食べられる大きさにまで生長しなかったのだ。その理由はよく分からないのだけれど、今年はこそと祈りを捧げるのであった。

紙袋を被せて、あとは祈るだけ
Dscn3272そしてカラスも「アマクナレーッ、アマクナレーッ」とブキミに鳴いているのだ。

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2008年12月18日 (木)

食はすべての原点なり

2008121801自分が関わっているラジオ番組「らぶらじ」では、毎日『本日のテーマ』を募集している。そのテーマは多岐に渡っていて「懺悔したい事」とか「人に言えない趣味」とか、あと年末になると「今年はじめてやった事」とか「今年の自分を四文字熟語で言うと」など。
そして時々、自分のコーナーの冒頭でいきなり「で、杉村さんは」と話を振られることがあるんですが、それが毎回ではなく、思いついた時にいきなり!なので、パニクってしまうのだ。
アドリブはそこそこ利くとは思っているのですが、コーナー冒頭はその日に喋る雑学に関して頭がパッツンパッツンになっているので、わけの解らない事を言ってしまう事もある。
とりあえずその日に喋る内容は原稿としてあるのですが、いきなりそれに関した問いかけがされる事もあるので、関連雑学も頭に入れ臨戦態勢モードに突入しているので、もう他の思考の入る余地がないのだ。
といいつつ、それなりに『本日のテーマ』には答えて来ているのですが、困ってしまうテーマもある。


2008121802本日は「アナタのお気に入りグルメ」みたいな物でした。
食はすべての原点で、誰でも飛びつくテーマなので「私は絶対○○亭のあんかけチャーハン!」とか「駅前の立ち食いソバにある裏メニューの!」とか、番組には大量のメールなどが届けられ、読み切れない状態だったわけです。
ところが自分は「これと言って無い」のだ。
そりゃ美味しい物を食べたいとは思うんだけど、日々ほとんど外食はせず、食に対して一家言持っているワケでもない。お気に入りの店があるワケでもない。
どのぐらい外食していないかと言うと、この前外食したのはいつなのか思い出せないぐらいなのだ。もしかしたら、6月13日に東京に行った時が最後?ってぐらいの勢いなのだ。
先日もラジオに出演した時、朝早い時間帯に家を出た時も軽く家でご飯を食べただけで、放送が終わって局を出たのが昼時だったのに、駅の飲食店街で「あぁどの店も混んでいるなあ」と並ぶのも面倒なので本屋で本を選んで、それを持って東海道線に乗り込みそのまま帰ってきてしまった。
他にも普通に外出はしているんだけど、なんかあんまり食に興味ないのかも知れない。
普通に店でラーメンを食べたのは…、もう1年以上前だし、吉野家の牛丼を食べたのは、一時期販売中止になった時より前なのだ。って全然自慢にはならないけど。エンゲル係数が異常に低い(本&レコードにそれが行っているワケですが)。

2008121803とりあえず自炊は子供の頃から普通にやって来ているので、学生時代から今に至るまで当たり前の作業として料理を作っていたんだけど、いわゆる料理自慢タレントのように「我が家秘伝のレシピ」みたいな物もないし、それを熱く語ろうとは思っていないので、それに付いて一言が一番難しいのだ。
とりあえず番組内では「あんまり外食もしないので…」という事と、料理を自分でという話題から「さっきは昼食に麻婆豆腐を作った」という話をして、まいどの雑学話へと進んでいった。
やはりライター的な仕事をするとなると「食に関して確固たる信念を持って、それについて熱く語る」という部分はポイント高いのかなぁ。
自分でもこの食に対しての淡泊さはイカンと思っている。

もともと食に関して蛋白だったんだけど、先日まで10数年サラリーマンをしていた時、昼休みは常に仕事に追われて、朝買ってきたコンビニおにぎりをかじりながらモニターを見ていた、という日々を過ごし、夜も変な時間にムリヤリ詰め込むように食べ(帰宅する途中のコンビニでパンやおにぎりを購入し、運転しながらそれを食べ夕飯終了という事も多かった)、朝は寝ぼけながら御茶漬けを流し込む、みたいな状態が当たり前で「食を語る」以前の状態を当たり前に続けていたせいかも知れない。
会社の食堂に行けていた頃も「これが食べたい!」という明確なビジョンを持っていないのと「行列に並ぶのが嫌い」という理由で一番人数が少ない列にならび、気が付いた時は数ヶ月、淡々と「コロッケ定食」を食べていた。
だってほとんど人が並んでいないんだもん。

2008121804そんな事を言いつつ、作家が食に関して書いているエッセイなどを読むのは好きで、池波正太郎作品や東海林さだお「丸かじりシリーズ」や、ちょっと考え方に偏りあるなぁと思いつつ「美味しんぼ」とか、アルコールが体質的に受け付けないけれど古谷三敏「BARレモンハート」ラズウェル細木「酒のほそ道」などなど、愛読し続けている。
「あぁ美味しそうだなぁ」と思いつつ、行動力の無い私は冷蔵庫の残り物でチャーハンなどを作って日々を過ごすのであった。
だから、実際に食べる食事に興味が無く、それを実際に食べた経験もほとんど無いのに、食物に関する知識だけはたくさん知っている。
いや、この2年本当に自分が「経験値が異常に少ない人」というのを実感しているので、食に関しても実際に食べ歩き「いやぁこのまったりとした味が口いっぱいに広がり」などと言わなくてはいけないと思っている。

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2008年5月13日 (火)

非グルメを脱却しなくては

池波正太郎『食卓の情景』という文庫本。昭和55(1980)年に発行されているが、オリジナルは昭和48(1973)年に朝日新聞社より刊行されている


池波正太郎は1923年生まれなので、オリジナルは50歳の時に刊行されたという事になる。
自分はエッセイ、以前なら随筆と呼ばれる物が好きで学生時代からよく読んでいるのだが、これらはおそらく中学の時に遠藤周作『狐狸庵先生シリーズ』北杜夫『どくとるマンボウシリーズ』を大量に読み込んだのがベースにあるのかもしれない。
もちろん小説も読むんだけど、その作家の日常をのぞき見る事が出来るエッセイは楽しい。
もっとも今はエッセイに始まりエッセイに終わるような作家も多々いて、なんだかなぁという感じでもあるのだけど。

という事で、この『食卓の情景』というエッセイ集を四半世紀振りに読み返して見る。最初に読んだ時は自分は10代の終わり頃だったので、ここに書かれている「初老を越えた自分、そして年老いた母親の姿」などの描写は他人事で「ふ〜ん」という感じでザッと読み飛ばしていた。
まだ、その年齢には達してはいないけれどなんとなく山の向こう側にゴールがあるんじゃないか? と感じ始めた自分にとって感じ入る部分も多くある。
もちろん元々の資質が全然違うので池波正太郎の精神部分にまで達する事は生涯ないのだろうが、ふと「自分がこの年齢、50歳になった時にここまで達観出来ているだろうか、ここまで穏やかに熱くいられるのだろうか」と思ってしまった。

その小説世界の中でも「食」という物をじっくりと描き続けてきた池波正太郎なので、その実生活の中での食事も慈しむように記載してある。
これ見よがしにグルメぶりを披露するワケでもなく、他者に「これはこうでなくてはイカン!」と啓蒙するというワケでもなく、淡々と自分の精神が高揚できる、自分の創作意欲の後押しをしてくれる食事を書いている。
昭和四十三年十二月九日
[昼]ドライカレー、コーヒー。
[夕]赤貝とキュウリの酢の物、鯛の塩焼、冷酒(茶わん2)、カツ丼
[夜食]カツうどん
などと。夜食が重そうなのは、池波正太郎はここから明け方の午前五時頃まで淡々と執筆に入り、昼まで寝るという生活パターンだったので、通常の人より1つづつズレて考える事になっている。もっとも、その一日最初の食事である昼食で「カツレツ」なんて時もあるので、やはり食欲旺盛なのだなぁ。

この様に作家の人で日々の食事を日記に書き記している人も多いが、自分はそれらを見て「もっとちゃんとしなくちゃなぁ」と思うしかない。
あまりにも自分が「食事」という物をないがしろにしているからなのだ。
以前のサラリーマン時代、とにかく昼頃は忙しくて昼休み明けまでに仕上げなくてはいけない仕事を毎日抱えていたので、年間を通して昼休みにちゃんと休めた事が数回しかなかった。
ほぼ毎日サンドウィッチかおにぎりを朝の通勤途中に購入しておき、昼休みもパソコンのモニターに向いながらそれをパクつき作業をしていた。そうなると「食」がどーこー言ってられないのだ。とりあえず栄養補給。さすがにカロリーメイトみたいな物は味気ないのでパスしていた。
一時期、月間残業時間が140時間を超え(それを超えると社則違反になってしまうので、残業時間になるとタイムカードを打って、その後残業に突入という事もあった、いわゆるサービス残業っすね)毎日のように夜12時を超えるような時もあった。夜勤というシステムは無かったので、毎晩のように自分が最後の戸締まりをして帰っていて、その戸締まりチェックノートは『杉村』というサインばかりだった事がある。

その時などはとにかく忙しかったので(社則的には休憩時間が盛り込まれていたけれど)夕食の時間も取れず、帰りのコンビニで再びおにぎりやパンを買って運転しながら食べつつ帰路に就くというとんでもない状態を続けていた事もある。
ちなみに、通勤時間は自分で車を走らせて片道一時間。夜2時ぐらいになると家に3時に着き、朝6時半頃に起きてムリヤリ御茶漬けを流し込んで出社なんて事もあったり、気力が無くなり帰ることが出来ずに職場の椅子を並べて寝たり、会社の駐車場・車の中で寝たり・・・・という事もあった。

その頃、作家の日記のように食事をメモしていたら
[朝]御茶漬け(永谷園さけ茶漬け)
[昼]おにぎり(梅干し・昆布:セブンイレブン)
[夜]おにぎり(おかか・シーチキン:ファミリーマート)
みたいな感じのが延々と続いていたと思う。栄養や味がとどーこー言う以前の話なのだ。
そんなサラリーマン時代を長く続けて来たため、次第に、自分の生活の中から「食」という物が欠落していったのかもしれない。おそらく毎日同じメニューを出されても何も言わずに淡々と食べ続ける事が可能なのだ。

そんな状態なのに、仕事では「お取り寄せグルメ現地調達便!」とか「もう一品、出来る奥さまと言われるメニュー」とか「いきいき元気!栄養バランスでスッキリ美人」とか、その手の本の編集などをしていた。(本のタイトルはあくまでもそんな感じって事で、実際の名前は出せませんが)
もう、その本の中で展開されている「時間にも精神的にも余裕がある生活の中で、もっと美味しい生活をエンジョイしましょう」という内容はSFのようにしか見えなかった。
そういう意味でもっと凄かったのが、徹夜も含め、延々と神経を張りつめて限界状態で作業していた『犬の生活』という趣旨の本。その中で延々と「ワンちゃんは犬種によってストレスに弱いので、ストレス解消にこんなグッズはいかがですか?」みたいな事が書かれていて、アロマオイルでご主人がマッサージしてあげるとか、ベッドにこんなクッション、そしてこんなポプリ、食事も・・・と至れり尽くせりの内容。
そんな本を、数日、帰宅しても風呂に入る余裕すらない不精ヒゲの男が意識朦朧としながら編集しているという、シュールな状態にあった。「俺は犬以下かぁ!あぁぁぁ犬になりてぇ」と思いながら編集を続けていた。

そんなこんな世界からドロップアウトしてしまった私ですが、去年一年間は本当にリハビリの1年だった。
当初は完璧に胃の調子が悪く、ちょっと熱い物を食べただけでグッタリなので鍋を食べる事が出来ず、油っぽい物も全然ダメ、刺激物も全然ダメ。という本当に好き嫌いが激しい人のようになっていた。
去年1年間は淡々と仕事もセーブして(セーブしなくてもそんなに多くないけど)、淡々と自分で食事を作り、淡々と栄養管理などをして過ごした。料理は子供のころから普通にやっていたので苦にもならずに、それなりの物を作っている。
別段、日記に「今日は何を食べたのだ」とか書く気は毛頭ないわけですが、この1年で普通に淡々と食事をするという事の重要性を痛感している。
池波正太郎になる事は出来ないけれど、少しは「人間として」食事を考えてみたいと思う今日この頃。

ついでにこの1年で、それまで長く煩っていた右腕の痺れも消え、時々やってくる顔面神経痛(軽度)、偏頭痛、腰痛、何をしたワケでもないのに左足を捻挫したかのような痛みなどなど「どこが悪いのか解らないぐらいに調子悪い」という状態が消えつつある。
まだ、耳鳴りと異常な肩凝りは消えていないけど、それでも体調はかなり良くなっているので、まっとうな生活が出来るようになってきているのかも知れない。


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2008年2月 1日 (金)

それでも餃子が好き

ダメと言われると逆についついそれに引かれてしまう事がある。


例えば、バレンタインデー直前の1週間ぐらいの時期、テレビを見ると盛んに「今年のバレンタインデーには!」とチョコレート特集が組まれている。
そんな番組を見ているとチョコレートが食べたくなってしまう。別段、日頃はそんなにチョコレートを食べたいとは思わないんだけど、ここまで見せつけられると食べたい欲求が大きくなってしまう。
しかしだ、このタイミングでチョコレートを買うってのは「バレンタインに貰えないから自分で買っておくんだね」などと誰が指摘するワケでもないし、そもそもバレンタインという風習を否定的な自分はどうでもいいハズなのだが…。
という事で、バレンタイン直前には平常心でやりすごしている。

そんな状態で現在テレビを付けると嫌になるほど「餃子」が話題として出てくる。
何度も何度もしつこく餃子の画像が出されると、激しく餃子欲求スイッチが刺激されてしまうのだ。
別に全ての餃子に毒が入っている恐れがあるワケでもないので、何を恐れる事があるか!と思うんだけど、世の中にはそんな風にテレビで餃子を見せつけられてスイッチが入った人がいるんだろうあぁと報道され始めた1月31日に思っていたのだ。
とかなんとか思っていると、案の定、その報道が始まった夜、食卓に餃子が登場していた。
実に解りやすく、メディアに乗っかってしまう平凡な家庭なのであった。

静岡で餃子というば家庭食で、近所に餃子の王将が出来た時は「ワザワザ餃子を喰いに専門店に行くのかぁ」と思った経験あり。
餃子というと宇都宮が「もっとも餃子を食べている街」と数年やっていたワケですが、実際の事を言えば静岡市・浜松市がもっと多く食されているという事で、その辺の話は自著「静岡県の雑学」に書いてあります(って久々に自分が去年本を出したのを思い出した)
しかし、中国の食問題はどこへ行こうとしているんだろうか?

という事で、餃子についての雑学を書き並べようと思っていたんだけど、そっちの基本的雑学は「静岡県の雑学」にどん!と書いてしまったので、めぼしいネタがないや。

しかし今回のニュースで「本場中国の餃子!」ということで、中国で作った冷凍餃子を大量輸入しているって話だったワケですが、本来中国で餃子と言えば「水餃子」か「蒸し餃子」で、焼き餃子は本来「残り物を暖め直す時の調理法」で、日本で進化して発展した調理法。中国の作業員はあの焼き餃子のパッケージ写真を見てどう思っていたんだろうか。

餃子は紀元前6世紀頃の中国春秋時代に原型が考案されていて、8世紀唐時代に埋葬された墓跡から壷に入った餃子のミイラが発掘されている。と言っても、餃子を埋葬したワケではなく、その亡くなった方が大好きだったんじゃないかと、いう感じなのだ。

で、日本で一番最初に餃子を食べたのは誰だ?という話題になると、おそらく九州とか沖縄地方ではないかと思うワケですが、歴史上の人物って事では毎度おなじみの水戸光圀さんが該当者です。
でもって、これも雑学での定番中の定番、中国から亡命してきた儒学者・朱舜水が作り方を伝え…という物。つまりラーメンと餃子の製法を日本に持ち込んで、珍し物好きの御老公水戸光圀に食べさせたって事なんすかね。

でも、朱舜水の本職は儒学者であって料理人ではないので、そこで食べたものが本当に本物なのかは不明の気がする。なんとなくこんな感じって作った料理って感じ。
たとえば自分がいきなり海外に行った時に「おまえ、日本の料理をなんか作ってみろ」と言われ、「どうせ本物は解らないだろ」と、適当に肉じゃがとか、テンプラ辺りを作って出すことは出来る。そんなレベルかも知れない。
とりあえず当時の文献として、朱舜水が水戸光圀に餃子を献上したという文献と、中国のしきたり通りに新春になると御老公は餃子を食べていたと言うことが残されている。

以前、テレビ番組の企画で当時のラーメンと餃子を再現するという物があったんだけど、当時手に入れることが出来たハズの食材を揃え、おそらくこんな味ではなかったか?という事で料理をしていた。
それからすると、当時のレシピなどはハッキリ残っていないのだ。ついでに調理法も残っていないんじゃないかと言うことなのだ。
なんせ、そこで再現して食べていた餃子が、中身は別として、調理法が「焼き餃子」だった。
「焼き餃子」というのは、水餃子や蒸し餃子を翌朝食べる時に暖め直すあまりお勧め出来ない食べ方なのだ。
朱舜水が焼き餃子を水戸光圀公には出さないだろ。

ついでに中国の餃子の中にはニンニクを入れないのが基本。
工場で日本向けに冷凍餃子を調理していた中国人はどう思って作っていたんだろう。
ちなみに日本で混雑した状態を表す「イモを洗う様な」という表現、中国では「餃子をゆでる様な」という。

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2007年10月21日 (日)

「もったいない思想」を実行する赤福

「もったいない」「食べ物を粗末にするとバチが当たるよ」という言葉を継承していただけなのに赤福。


00huku01「赤福」の創業は宝永4(1707)年って事になっているんですが、どうやらそれより古い書物の中に赤福というお菓子の事が出てくるらしいので、もっと古い時代からあったみたいです。
時代的に言えば1700年頃と言えば、松尾芭蕉が1694年まで各地をうろつき、ドラマが事実なら水戸黄門も諸国を漫遊している頃なのだ。

宝永2年頃は、伊勢に参拝するお陰参りがブームになっていると書かれている事から「伊勢ブームに便乗して創業した」って感じなのかもしれない。
でもって、「赤福」が創業した宝永4年の10月にマグニチュード8.4の大地震が発生して、11月に富士山が大爆発しているのだ。(これが現時点での最後の大噴火)

00huku02で、赤福によると「赤福」というネーミングは、千利休の流れを汲むお茶の宗匠が(ハッキリと名前が解らないってのが眉唾物なんですけどね)、伊勢参りの際に店であんころ餅を食べ「この餅は赤心慶福である」と語ったというのだ。
それを解りやすく言うと「この餅は神様にお詣りした時の清々しい気持ちと同じ味がする」という事。

あんころ餅を食べて思う感想じゃねえだろ!と思うワケですが、その偉い人はそー思ってしまったのだからしょーがない。
その有り難いお言葉を聞いた初代店主の治兵衛が「このありがたい言葉を餅に付けよう」ということで「赤心慶福」より『赤福』と名付けたのです。
と言いつつ、それより古い文献にその名前があるワケですが。

00huku03で、あの「赤福」のデザインは、伊勢を流れる五十鈴川の流れを表現しているもので、白い餅が川底の小石、アンコに刻まれた筋は清流を意味しているとの事。
あのデザインは、現在でも手作業で熟練のおばちゃんたちが日々セッセと三本の指(人指し・中・薬指)で餅にアンコをペッタンと被せる事から生まれているのです。
で、そのアンコを剥がして、別のお菓子に流用するのも手作業だったんでしょうかね?

実際の事を言えば、糖分がかなり含まれているアンコの賞味期限なんて、あって無いような物だと思うんですけどね。

00huku11ちなみに自分の地元、三嶋大社には赤福に似ている「福太郎」という銘菓が存在しています。(餅がよもぎ餅ですが)
福太郎というのは三嶋大社の神事に登場する人物の名前で、「福を蒔く神様」として登場する。その名前を取っためでたい銘菓なのだ。

「赤福がないのなら福太郎を食べればいいのに」
         by.マリー・アントワネット


00huku21さらに「赤福」に語感が凄く似ている(見た目も)、山中温泉名物「加賀福」というあんころ餅銘菓もヨロシク。

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2007年9月10日 (月)

二十世紀梨

朝起きて、ナシ半分

って別にあれをまた書くつもりは無いんですが、実際にナシを食べた。もしかしたら自分は果物の中でナシが一番好きかもしれない。茶色系の食感ザラザラも、緑系の食感サラサラも、洋梨の歯ごたえ無い物も、全部好きでやんす。
そんなこんなで「二十世紀梨」について。


二十世紀梨の誕生に関してネット検索すると曖昧な情報が流れています。というか雑学本でもかなり適当な事を書いている物もある。
どうも雑学本の多くが、他の雑学本を参考にお手軽に書いている物が多いみたいで、ある時、物珍しいネタが書かれた本が発売されると、数ヶ月後に複数の本でその珍しいネタを見かける事になる。だから間違った雑学も、あっという間に当たり前のように流布する。オマエラは「裏取り」とか「まずは怪しむ」って事をしないのか!

自分なんかも、かつて雑学本を出した時に「これは今まで雑学本で読んだことない雑学だぜ」と自信を持っていくつか書いた。で、数ヶ月後に同じネタが書かれた雑学本を何冊も見る事になった。(とりあえず目に付いた雑学系と思われる本はことごとく購入し続けているワケでやんす)
ま、そんなものかというワケで、今日は二十世紀梨に関しての確認の意味でその誕生をまとめてみる。

1888(明治21)年、二十世紀梨の原樹を発見したのは当時千葉県松戸市に住んでいた13歳だった松戸覚之助(まつどかくのすけ)。
よく雑学本では「近所のゴミ捨て場に生えていた」とだけ書いてあるのですが、正しくは、松戸覚之助の親戚(分家)・石井佐平(いしいさへい)宅の裏庭にあったゴミ捨て場だったそうです。

この梨の木を父親が経営していた梨園「錦果園」に移植したのですが(この2年前に開園したばかり/これが後でポイントになってくる)、その時点ではまだ実が付いていませんでした。そして10年目の1898(明治31)年に実が付いたのです。
この当時「梨」と言えば茶色でザラザラした食感のものが殆どだったワケですが、その梨は薄緑色の皮で果汁が多く食感も優しいものだった事から「新品種」と判明したのです。

で、当初は松戸覚之助(23歳)が「青梨新太白(あおなし・しんたいはく)」と命名したのですが「なんかイマイチだよね」という事で、父親が付き合いのあった種苗商・渡瀬寅次郎(わたせとらじろう)に「なんか良い名前ないっすかね?」相談したワケです。
で、雑学本でも、ネットでも多いのが「渡瀬寅次郎が二十世紀梨と命名した」と書かれているワケですが、実際には渡瀬寅次郎は別の人に名前を相談しています。

その人は当時、東京帝国大学の教授をしていた池田伴親(いけだともちか)で、「この美味しい梨は新世紀に王者となるべき梨である」という事から『二十世紀梨』と命名したのです。この時代はまだ「世紀」という概念が一般的で無かったので、どのような印象だったか不明ですが「とにかく新しい」って事だったんだと思う。

マジに「渡瀬寅次郎が二十世紀梨と命名した」と書かれているのが多いんですが、あと雑学で多いのは「二十世紀梨は十九世紀に命名された」というのですな(こっちは正しい)。
ちなみに、二十世紀梨の原木は第二次大戦中の空襲で立ち枯れてしまい、現在はその原木の一部が松戸市立博物館に保存されているだけになっています。

しかし、最初の石井佐平宅裏になぜこの梨が生えていたのかって部分に触れている本はあんまり無い。いきなり「発見された」って事になっている。普通一番疑問に思う部分はそこじゃないのか?
これまで多くの雑学本に書かれていた二十世紀梨に関する雑学は、「何故そこに突然?」が不明だったので、ずっと最初の「偶然発見した」というのが、本当はどうなんだろうか?と疑問に思っていたワケです。

で、ヒントが「父親が2年前から梨園を始めた」って部分で、園を始めるにあたって種苗商・渡瀬寅次郎の処から色々な種類の梨の苗を購入していた事実がある。
そして梨園はそこで収穫された梨の実だけではなく、生育の悪かった苗など一切合切を、親戚(分家)石井佐平宅裏にあるゴミ捨て場に捨てていた。
つまり石井佐平宅の裏にあるゴミ捨て場は普通のゴミ捨て場ではなく、異種混合梨のるつぼって事だったワケで、そこから何かがどーにかなって何があーなって、素人では考察すら出来ない事が起こって二十世紀梨の苗が誕生したのではないか?という事なのだ。

つまり「二十世紀梨はゴミ捨て場で発見された」というのは、雑学的に面白い話なんだけれど、実際には「二十世紀梨は梨園が捨てた多種多様な梨が何らかのキッカケで新種として生まれ、梨園の息子がそれを育てた処、美味しい梨が出来た」というのが答えなのかも知れないなぁ

雑学的にはあんまり面白い話では無くなってしまう。これまでの雑学本を読んでいると、まったく梨園などとは関係ないゴミ捨て場に突然梨の木が生えていたという感じだったのに・・・。
で、近年遺伝子レベルでの親探しの研究が進んでいるので、近い将来親が特定され、さほど面白くない雑学になっていくのだ。

オマケ雑学

新品種の梨に「二十一世紀梨ってつけよう」と思う人がいるかも知れないけれど、それはダメ。すでに梨の品種に「二十一世紀」があるって話ではなく、盆栽の品種に「21世樹」というものがあって、これは商標登録されているので同じ名前は種苗法でダメって事で。

という事だったんだけど、鳥取県米子市の小林秀徳さん経営の農園会社「秀起カンパニー」が、「二十一世紀梨」の商標登録を特許庁に認められ、新品種「瑞秋(ずいしゅう)」を「二十一世紀梨」として2005年から出荷しているらしい。

二十世紀梨の読みは「ニジュッセイキ」ではなく「ニジッセイキ」

洋梨のラ・フランスは1864年にフランス人クロード・プランシュが、「わがフランスを代表する品種」の意味を込めて命名した品種。

その後日本でも輸入されて栽培されるようになったが、とにかく病気に弱く育成させるのが難しい品種で、実はフランスではもうほとんど栽培されていない。流通するほどまで栽培されているのは現時点では日本だけ。(山形県で多く作られてる)

※文章公開後、色々アドバイスを頂きましたので文章を若干書き換えました。情報を提供してくださいました皆様有難うございます。

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