2008年12月 2日 (火)

水谷豊「カリフォルニア・コネクション」

水谷豊「カリフォルニア・コネクション」
作詞.阿木燿子/作曲.平尾昌晃/編曲.鈴木茂
1979年/¥600
フォーライフレコード/FLS-1044


2008120201今年が芸能生活40周年で、それを記念したセルフカバーアルバムを5月に出して、それで歌手活動を久々に行ったことから、話が膨らんで『紅白歌合戦初出場』となってしまった水谷豊ですが、20歳前後の若い人はやはり「相棒」の右京さんってイメージなんすかね?
てぇことは、水谷豊というお題で「おぉぉいみんな、僕の名前は北野広大というんですねえ」と『熱中時代』のマネをしてもキョトーン、やおら「ぃぐざぁぐ〜ぃどぉったぁ〜♪ぉかいのぉ〜ぁちだびぃ〜♪」と水谷なまりで歌い始めてもキョトーンなんだろうなぁ。

2008120204水谷豊主演の『熱中時代』は1978年10月〜1979年3月まで放送されていた学園ドラマで、当時教育の現場で小学生が先生のいう事を聞かなくなったりする、学級崩壊の予兆があった時代の物語。
もう30年も前のドラマなので20歳前後の人が知らなくても当然、あの時10歳だった子役の小学生がすでに40歳なのだ。
でも主題歌は誰でも知っていて、この最初の『熱中時代』の主題歌は水谷豊ではなく原田潤の歌う「ぼくの先生はフィーバー」。現在は同じ日テレ系「世界一受けたい授業」の主題歌としてボーカルはそのままで、バックの演奏だけを差し替えた物が使われている。
で、この「ぼくの先生はフィーバー」を歌っていた原田潤はもともと子役で、さらに平尾昌晃音楽学校に通っていたということで、この曲は平尾昌晃が作曲している。(作詞は橋本淳)

2008120205ドラマ『熱中時代』が終了したのが1979年3月30日。そしていきなり1978年4月7日から『熱中時代・刑事編』ということで、主人公は水谷豊で、とりあえず草笛光子谷隼人小松方正なんかは引き続き出演しているが、学園物ではなく刑事物でまったく違うドラマが放送されている。
そこまで違うドラマだったら続編でもなんでもないと思うのだ。なんせ放送していたのが『熱中時代』は金曜日の21時からなのに対し、『熱中時代・刑事編』は土曜日の21時からで、曜日もまったく違うのだ。
そして刑事編の主題歌は「ぼくの先生はフィーバー」を作曲した平尾昌晃が書いた「カリフォルニア・コネクション」を水谷豊が歌っている。

2008120202実は第1作目のドラマは、もの凄いヒットとなり「リアルな現代的な学校問題を扱うドラマ」が注目され、似たようなコンセプトで別の局が学園物を作ることとなった。
それがTBSで1979年10月から始まった武田鉄矢主演の「3年B組金八先生」。
「3年B組金八先生」が放送された金曜の8時というのは日テレには「太陽にほえろ!」という超人気番組があったため、ある意味の賭けとして始まったらしく、番組が始まる直前ラジオに出演した武田鉄矢は「今度、学校物のドラマを始めるんですけど、ま、今その手の番組が受けてるって事でそれに便乗するような作品なんですけど。なんせ金曜日の8時なので金八ですからねぇ」と、やや投げやりな発言をしている。

そんなこんなで、それまでも一部には人気があった俳優・水谷豊が大ブレイクした作品が、この『熱中時代』だったわけですよ。
でも自分的には水谷豊という俳優の原体験は、幼稚園の頃におそるおそる見ていた番組『バンパイヤ』の主人公・トッペイなのだ。幼稚園の時に使っていた弁当箱がバンパイヤの絵が描いてあるもので、それを今でも持っている(物置にあるのを数年前に確認はしているのですが、今回発見できず)。
と言っても、実際にそれが水谷豊という俳優だというのを知ったのは熱中時代の頃だと思う。
と言うことで、このバンパイヤが放送されたのは1968年10月からなので『水谷豊芸能生活40周年』という事らしい。
しかし実際には1966年に放送されたこれも手塚治虫原作『マグマ大使』の第9話に出演している。(劇団に入った翌年)
他にも、中村玉緒渥美清が夫婦役を演じた『おもろい夫婦(1966年)フジ』にも出演しているので、芸能生活ってのはやはり主役を演じるようになってからという事なのかも知れないっす。

『あんちゃん』主題歌
2008120203ちなみに『熱中時代・刑事編』は水谷豊にとって大きな作品だと思うのは、この「カリフォルニア・コネクション」がヒットしただけでなく、この作品で共演したミッキー・マッケンジーと最初の結婚をしていると言うことなのだ。
ちなみに現在の奥さん、伊藤蘭との初めての共演はそれより前。1977年にNHKで放送された『俺たちの旅路・第3部』で、歌手のボディガード役の水谷豊がテレビ局で本人役で出演したキャンディーズと共演している。結婚に至る共演は1982年のNTV『あんちゃん』で。

「カリフォルニア・コネクション」はTBS『ザ・ベストテン』では1979年7月12日に9位初登場で、翌週5位、3週目の7月26日から8月16日まで4週1位、さらに8月23日から9月13日まで4週2位をキープし(この時の1位はゴダイゴの「銀河鉄道999」)、3位、7位となって圏外になる。そして他の曲ではランクインしていない。


  TBS「ザ・ベストテン」1979年07月12日〜08月16日
  1979/07/12 1979/07/19 1979/07/26 1979/08/02 1979/08/09 1979/08/16
1位 サザンオールスターズ[いとしのエリー] サザンオールスターズ[いとしのエリー] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション]
2位 西城秀樹[ホップステップジャンプ] 沢田研二
[OH!ギャル]
サザンオールスターズ[いとしのエリー] サザンオールスターズ[いとしのエリー] 岸田智史
[きみの朝]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
3位 沢田研二
[OH!ギャル]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 岸田智史
[きみの朝]
山口百恵[愛の嵐] サザンオールスターズ[いとしのエリー] さだまさし
[関白宣言]
4位 岸田智史
[きみの朝]
岸田智史
[きみの朝]
沢田研二
[OH!ギャル]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐]
5位 山口百恵[愛の嵐] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 西城秀樹[ホップステップジャンプ] 岸田智史
[きみの朝]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
小林幸子
[おもいで酒]
6位 ピンクレディ[ピンクタイフーン] 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐] 沢田研二
[OH!ギャル]
小林幸子
[おもいで酒]
サザンオールスターズ[いとしのエリー]
7位 世良公則&ツイスト[燃えろいい女] 小林幸子
[おもいで酒]
小林幸子
[おもいで酒]
小林幸子
[おもいで酒]
沢田研二
[OH!ギャル]
岸田智史
[きみの朝]
8位 ジュディ・オング[魅せられて] 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
さだまさし
[関白宣言]
ピンクレディ[波乗りパイレーツ]
9位 水谷豊[カリフォルニアコネクション] ジュディ・オング[魅せられて] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
西城秀樹[ホップステップジャンプ] 沢田研二
[OH!ギャル]
10位 郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
世良公則&ツイスト[燃えろいい女] ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
さだまさし
[関白宣言]
郷ひろみ
[いつも心に太陽を]
西城秀樹[ホップステップジャンプ]


  TBS「ザ・ベストテン」1979年08月23日〜09月27日
  1979/08/23 1979/08/30 1979/09/06 1979/09/13 1979/09/20 1979/09/27
1位 ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
ゴダイゴ
[銀河鉄道999]
2位 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] 水谷豊[カリフォルニアコネクション] さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
3位 さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
さだまさし
[関白宣言]
水谷豊[カリフォルニアコネクション] 桑名正博[セクシャルバイオレットNo.1]
4位 山口百恵[愛の嵐] 山口百恵[愛の嵐] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] チューリップ
[虹とスニーカーの頃]
5位 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 八神純子
[ポーラスター]
西城秀樹[勇気があれば]
6位 サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング] 小林幸子
[おもいで酒]
西城秀樹[勇気があれば] 八神純子
[ポーラスター]
7位 ピンクレディ[波乗りパイレーツ] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 八神純子
[ポーラスター]
八神純子
[ポーラスター]
チューリップ
[虹とスニーカーの頃]
水谷豊[カリフォルニアコネクション]
8位 沢田研二
[OH!ギャル]
サザンオールスターズ[思い過ごしも恋のうち] 山口百恵[愛の嵐] ピンクレディ[波乗りパイレーツ] サーカス[アメリカン・フィーリング] 松山千春
[夜明け]
9位 野口五郎
[女になって出直せよ]
森進一
[新宿・みなと町]
ピンクレディ[波乗りパイレーツ] 森進一
[新宿・みなと町]
小林幸子
[おもいで酒]
サーカス[アメリカン・フィーリング]
10位 岸田智史
[きみの朝]
八神純子
[ポーラスター]
森進一
[新宿・みなと町]
山口百恵[愛の嵐] 桑名正博[セクシャルバイオレットNo.1] 山口百恵[しなやかに歌って]
ひさびさに表組みしたのでアタマが痛いっす(ソフトとか使えばいいんだろうけど全部手打ちでやんす)

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2008年9月27日 (土)

牧村三枝子「いち抜けた」

牧村三枝子「いち抜けた」
作詞.阿久悠/作曲.穂口雄右/編曲.高田弘
0000年/¥600
ポリドール/DR6103


2008092701演歌の牧村三枝子の曲ですが作曲はキャンディーズの「春一番」など一連のヒット曲、郷ひろみ「林檎殺人事件」林寛子→小泉今日子「素敵なラブリーボーイ」などを作曲している穂口雄右(ほぐち・ゆうすけ:現在は日本作詞作曲家協会理事という偉い人)。それだけで、ただの演歌じゃないって解るのですが、軽快なポップス。昔の演歌系はこういうジャンルも関係ないポップな曲もあったんだよなぁ。
という事で『小泉純一郎 政界引退宣言記念』でこの1曲。

いやぁ突然の引退宣言ですが、政策の善し悪しは別として小泉純一郎という人は実に「解りやすい」という言葉がついて回ります。考えている事は多々解らない部分もありますが、発言や行動にキレがあったので「こう動いた」「こう考えてる」というシャッキリ感があった。
政治的なレトリックで人を煙に巻く事もありましたが、その時も明確に「騙したな!」的なニュアンスが解るような騙し方だったので、小気味よい感じはあった。
特に、その後の安倍政権・福田政権という、なんだかねちゃーっとしたメリハリの無い政権が続いているので特にそう感じてしまう。
バブル崩壊から長く続いている平成大不況の中での総理大臣という事で、何をやっても叩かれてしまうような状況の中、それでも後が後だけあって「あの頃は良かったなぁ」とか思ってしまうのだ。そんな良くも無かったけれど。

2008092702しかし「総理大臣を辞めた時から、もう国会議員としても引退しようと考えていた」との事で、次期選挙には出ませんか。その宣言を聞いた時「あれ?総理大臣を辞めてから随分経っているんじゃ?」と思ったのですが、まだ2年しか経っていないので間に選挙は1度も無かったんですな。間に安倍・福田時代があったので、随分昔の印象になってしまったんですが。
そんなワケであっさりと「いち抜けた」と言って舞台を降りていく66歳。それと対照的に何度も総裁選に出馬しやっとその座を獲得した麻生太郎68歳。
まさか牧村三枝子のヒット曲のように「決めた〜決めた〜オマエとみちづれに〜♪」なんて国が全壊するまでしがみついたりはしないよね。と言っても、福田康夫のように「もうこれ以上やってもムダだから辞〜めた」といきなり放り出されても困るけど。

未だに前方に明かりは見えていないけど、インパクトとわかりやすさは必要っす。小泉純一郎の最大の功績は「政治をエンターテイメント化し、国民が興味を引く物にした」って事じゃないかな?
政治的な決着は良いとも悪いとも言えないけれど、あの時期は政治がポップだった気がする。

その前に「森喜朗」という別の意味で興味を引く笑えるネタの宝庫もいましたが、政策がほとんど無く、無能を晒しているのに威張りくさっていた森喜朗が、史上最低の支持率の中で総理大臣を辞任した時、大人気で迎えられた小泉純一郎に送ったヒトコトも振るっていた
「国民の支持率が凄いというが、そんな小泉君にこの一言を送ろう『稔るほどに頭を垂れる稲穂かな』」
思わずテレビに向かってツッコミを入れてしまいましたよ。
オマエが言うな!と。

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2008年9月22日 (月)

松田聖子「風立ちぬ」

松田聖子「風立ちぬ」
作詞.松本隆/作曲.大瀧詠一/編曲.多羅尾伴内
1981年10月7日/¥700
CBSソニー/07SH 1067


2008092201意外と秋をそのまんま歌った曲というのは少ない。
これは歌として前向きな物にしやすい夏に対して、秋というのはやはりクールダウンというか精神的な高揚感がないせいなのかもしれない。特に最近は失恋の曲というのは流行らない。なぜなら、今の曲はカラオケで歌ってナンボの物が多いので、場を重くしてどーするという事なのかもしれない。
そして夏の曲は勢いでいけるけれど、秋の曲は内証的な物が多いので歌手の力量が凄く必要なのかも知れない。
松田聖子の7枚目のシングル「風立ちぬ」なんですが、松田聖子はこの前年の秋に3枚目として「風は秋色」をリリースしてヒットさせている。しかもその曲が初のオリコン1位を獲得している(デビューからの2曲「裸足の季節」「青い珊瑚礁」が1位でなかったのが意外ですが)。
それ故に「秋」というテーマもそんなに問題無かったのかも知れない。

2008092203という事で「風立ちぬ」ですが、グリコポッキーのCM曲としてとにかく流れていたのですが、そのストリングスを多用した音がかなり印象的。
作曲はかの大瀧詠一で、編曲の多羅尾伴内というのも編曲家としての別名。大瀧詠一は70年代からバンドはっぴいえんどの活動からCM音楽など、とにかく多岐に渡る活動をしていたのですが、この曲がリリースされた1981年の春に名作アルバム『A LONG VACATION』をリリース、100万枚突破をしており、とにかく注目を浴びている最中に書いた作品。
松田聖子の作詞というと松本隆の印象が強いけれど、実はデビュー時には関わっておらず「風立ちぬ」の前、6曲目の「白いパラソル」から作詞を担当している。その松本隆と大瀧詠一ははっぴいえんどからの付き合いで、『A LONG VACATION』もほとんどを松本隆が作詞を担当している。その関係もあっての起用で、同時期にリリースされたアルバム『風立ちぬ』のA面の作曲編曲も大瀧詠一が担当。ついでにB面の殆どの編曲&ギターを同じくはっぴいえんどにいた鈴木茂が担当している(超名盤)。

2008092202ちなみに大瀧の変名「多羅尾伴内」はもともとCM音楽を担当していた時に、覆面編曲家という事で「七つの顔の男」として片岡千恵蔵の映画シリーズでの主人公の名前をそのまんま拝借している。
このシングルが大ヒットしたわけですが、それにより『編曲.多羅尾伴内』という名前も有名になってしまい、映画の関係者から「勝手に名前使うな!」とクレームが入り、多羅尾伴内での活動を自粛する事になってしまったワケです。それまで長年この名前を使っていて『多羅尾伴内楽団』なんてタイトルのアルバムを2枚も出していたのに、その時は世間の目に全然触れていなかったって事なんすかね。

2008092204この時期の大瀧が参加しているって段階でヒット間違い無しなんですが、松田聖子というボーカリストの凄さがあってのヒットだったのかも知れないと、聞き直して痛感してしまった。
サビ入り直前の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ〜♪」という部分、3回出てくるサヨナラの表情が全部違っていて、2回目のサヨナラだけ少し声が枯れ気味になる所なんて鳥肌物ですぜ。
この時、大瀧詠一が松田聖子を徹底的に自分の理想とするボーカルスタイルへとしごき倒したそうで、松田聖子も後に「怖かった」と語っている。
それ故に、ボーカリストとしての松田聖子の頂点はこのシングルかも知れない。これ以降は「上手く歌う事、上手く演技をして歌う事」をこなしているように聞こえてしまう。

松田聖子を聞いていると、ボーカルというのは声量ではなく表現力が一番重要なんだなぁと再認識させられます。

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2008年9月16日 (火)

三原順子「セクシーナイト」

三原順子「セクシーナイト」
作詞.亜蘭知子/作曲.長戸大幸/編曲.長戸大幸
1980年9月21日/¥700
キング/KO7S-35


2008091601ジャケ違い(第10弾)
三原順子のデビュー曲ですが、世間的には「3年B組金八先生」で『顔はよしなよ。 ボディーボディー』というセリフと共に認知され、いわゆる不良系アイドルとして暴走族関連から絶大な人気を得た。(まだヤンキーという単語は一般的ではなかった)
そのタイミングで歌手デビュー、という感じかもしれませんが、小学生時代から子役として活動していて、金八先生以前より歌手デビューの計画があってレッスンを受けていたという。
タイミング的には1980年11月に山口百恵が結婚引退するという事で「ポスト百恵は誰だ?」みたいな事が雑誌などで特集を組まれていた頃。
すでに4月に松田聖子がデビューしてヒットを連発していたが、そのブリッ子な部分は山口百恵の後継者ではない。ということで、山口百恵のハードな部分だけを抽出したかのように三原順子がデビューしたのだ。
で、ただヤンキー歌謡って事ではなくプロデューサー長戸大幸が「絶対ヒットする」という要素をぶちこんだ曲。

2008091602長戸大幸はかの「ビーイング」の創始者であり、織田哲郎・B'z・TUBE・ZARDなどを排出した人物。この段階ではまだ小さな音楽事務所だったのですが、すでに後に繋がるメンバーがこのシングルに参加している。(音楽制作事務所ビーイングは2年前の1978年に創設)
まず作詞の亜蘭知子。自らも歌手デビューするが、TUBEのデビュー曲「シーズン・イン・ザ・サン」などの作詞家としてヒット曲多数。後に長戸大幸と結婚し、離婚してビーイングから離れている。
このシングルにはバックバンド「システム」のメンバーも列記されているのですが、ギターが後にFENCE OF DEFENSEを結成する北島健二。あとドラムがかつてチャーのバックバンドにいてアイドル的人気もあったリューベン(もっと前にはジャニーズ事務所に所属していた)などもいる。

音的には、当時すでに横浜銀蝿がヒットしていたけれど、銀蝿のストレート単純なロックと同じような印象はあるが、この「セクシーナイト」の演奏は単純なヤンキーロックではなく純粋に音としてよく練られている。
ギターの何気ないフレーズの絶妙さや、ビートを刻むドラムのツッコミ気味の計算された細かいタム、それに上手く絡むベース。一曲入魂という感じなのだ。
もっともベストテンでは松田聖子の「風は秋色」に阻まれて2位止まりだった。その事から当時は「ブリッ子・松田聖子vsツッパリ・三原順子」と敵対するように比較もされていた。が、結局三原順子はザ・ベストテンに入ったのはこの「セクシーナイト」1曲だけで、いつの間にか松田聖子と比較されるのは後からデビューした中森明菜へと移っていく。
ちなみに、なぜ「セクシーナイト」なのかと言うと、長戸大幸いわく「当時ダンシング・オールナイトが流行っていたので、〜ナイトと付けた」という事らしい。
何はともあれ、この曲のヒットは三原順子にではなく、後に続くビーイングの出発点になったのだ。

ちなみに何故ジャケ違い盤があるのか? という理由は不明だけれど、一般的な物は1枚目に掲載した物で、緑色がバックの物がレア(だと思う)。
この緑色のはメイクが異常に濃いよなぁ。ちなみにこの時、三原順子は16歳。

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2008年9月15日 (月)

もんた&ブラザーズ「デザイアー」

もんた&ブラザーズ「デザイアー」
作詞.園部和範/作曲.もんたよしのり/編曲.もんた&ブラザーズ
1981年/¥700
フィリップス/7PL-45


2008091501ジャケ違い(第9弾)
もんた&ブラザーズは1981年に「ダンシング・オールナイト」でバンドデビューして大ヒットしているが、ある種1発屋的な扱いになっている。
2曲目の「赤いアンブレラ」も前曲の余波でザ・ベストテンに入るぐらいのヒットになっているが、その後は二度とベストテンに出ることは無かった。
それでも翌年に出たこの曲はよくテレビの歌番組で歌っているのを見かけたので、そこそこのヒットはしたんじゃないかという感じなのだ。
曲は最初から最後までチョッパーベースのシンコペーションが続き、それにもんたよしのりのかすれかすれの叫ぶようなボーカルが乗る「ダンシング・オールナイト」路線の佳作。
イントロがこの当時多かった、「セーラー服と機関銃」パターンのあれをそのまんま採用しているという感じ。もっともこのイントロの元ネタはアート・ガーファンクルの曲だったけど。
ただ一つ難点があるとしたら、本当に最初から最後までチョッパーが淡々と続くのでうるさい。って事かな?

2008091502で、ジャケットの違いは一目瞭然なのですが、1枚目は珍しい表面カラーで表面に「デザイアー」の歌詞、裏面にはB面の「だきしめたい」の歌詞が写真と共に掲載されている(著作権の関係で文字部分はぼかしています)
2枚目は普通のジャケット、というかもっと地味にモノクロ写真で、裏面にはAB面の歌詞が掲載されている。
おそらく初回限定で表面カラーのジャケットだったんじゃないかと思う。
それ以上この曲について書くことはないんだけど、1つだけ疑問があるとすれば、2枚目のジャケットでもんたが何故「キリンメッツ」を手にしているのだろうか? CM曲だったけ?

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2008年8月26日 (火)

モーニング娘。「真夏の光線」

モーニング娘。「真夏の光線」
作詞.作曲.つんく/編曲.河野伸
1999年05月12日/¥1020(税込)
zetima/EPDE-1033


シールで顔が隠れている人もいますが
200808261_2夏シングル第8弾
とりあえず1990年代の曲。テレ東の番組「ASAYAN」から登場したアイドルグループ、モーニング娘。のメジャー5枚目のシングル。
イントロの「ジャカジャカジャカッ♪」が最初に聞いた時から「あれ?、なんだっけこの曲」という状態でそっちの意味で引っかかった曲。元ネタは松田聖子の「青い珊瑚礁」なんだろうなぁ。
作曲をやっているつんく(この当時は♂マークは入っていない)のパクリ能力は凄い物があるワケで、この曲あたりではちょい抑えめだったのが徐々に「このレベルでもOKなんだ」と開花していくのがモーニング娘。のシングルを順番に聞いていくとよく解る。

音楽に於ける「パクリ」というのは、難しい部分もあるけれど自分は「あり」だと思っている。所詮、どのアーティストも前人の曲を聞いて「あぁこの曲好きだ→こんな曲作ってみたい」という気持ちからスタートしていると思うので、それがどこかしら出てしまうのはしょうがない。それを上手に昇華出来るか出来ないかが才能なんだと思う。

裏面
200808262ネットで音楽のパクリを「この曲とこの曲はここが似ている!」と指摘するサイトも多々あるんですが、それを肯定するか否定するかの違いは難しい。中には「音楽のパクリは犯罪だ」と声高に叫んで数々の類似曲を羅列しているサイトがあったのですが、そこに羅列されていた一覧の多くが80年代に発売された「ドロボー歌謡曲」と言う単行本に羅列されていた物のパクリだったりして、ちょい苦笑いという感じもあった。

つんくのパクリ能力は「恋のダンスサイト」でジンギスカンを見事に現代風にする事で一つの完成系を見るワケで、その後「ハッピーサマーウェディング」でドナサマーの「ホットスタッフ」を持ってきたりする辺りも、凄い凄いと思ってしまうのだ。
これらは1968年生まれのつんくが子供の頃、本当に音楽に目覚めた頃のヒット曲(ジンギスカンもホットスタッフも共に1979年)って感じなので、ある意味つんくの血や肉になっている曲なのかも知れない。
物を作る人はある意味、この前人の影響を受けながら、その引力からいかに脱出するか?という部分でもがいていく物なのかもしれない。

自分なんかも高校時代に漫画を描いていた際には明らかに手塚治虫のコピーだった。そこから逃げだそうと必死になっていたけれど、結局そこから抜け出せなかったし、同時期からずっと音楽活動もしていたけれど、それらの曲を続けて聞くと「ディランが好きだった」とか「あぁこの頃は佐野元春にハマっていたな」とか「エンヤを毎日聞いていたな」とか、恥ずかしいぐらいにモロ影響受けている。(所詮アマチュアですが)

そういう意味で、逆に意図的にパクリを出来るってのはある種の才能かも知れないので、つんくの場合は次にどんな球を投げてくるか?が楽しみになっていた。
もっとも後藤真希のソロシングル「溢れちゃう・・・BE IN LOVE」がジェシカ・シンプソンの「Irresistible」に全体があまりにも似ていた時は「それは無いだろ」と思ってしまった。この辺は血や肉って時代の曲じゃない。昨日今日聞いた物をそのまんまの形で出してくるってのは盗作だと思う。
でも、音楽のパクリの構造に興味ない人にとっては前述の「恋のダンスサイト」と「溢れちゃう・・・BE IN LOVE」のパクリは同列の悪いこととして終わってしまうんだろうなぁ。
この辺は、勝手な思い入れの部分が多いので難しいと思うんだけど。

モーニング娘。関連のCDで「カバー・モーニング娘。」という物があって、これは海外の歌手が英語でモーニング娘。をカバーするという企画物。シーナ・イーストンとかアイリーン・キャラとか懐かしい人も参加していますが、これを聞いていると「先祖返り」という部分があって、それマズくないか?と思ってしまう部分もある。
あ、タイトルの『真夏の光線』についてほとんど書いてないや。

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2008年8月20日 (水)

南沙織「夏の感情」

南沙織「夏の感情」
作詞.有馬三恵子/作曲.編曲.筒美京平
1974年00月/¥500
CBS SONY/SOLB-153


2008082001夏のシングル第3弾として南沙織シンシアです。
作曲&編曲が私が尊敬する筒美京平先生なんですが、このグルーブ感がたまりません。
凄い疾走感を感じる。
この筒美京平という人、そのメロディの柔軟性はさることながら、何より凄いのは歌手の力量を的確に計って、いかにその歌手の気持ちよい声を引き出すかという技術力、いわゆるプロ作曲家として職人技を見せてくれる所なんです。

2008082006筒美京平が70年代に担当していた歌手は沢山いるのですが、
たとえば郷ひろみにはあの甘い鼻に掛かった声をいかに甘く聞かせるか、
たとえば岩崎宏美にはあの出だしからギューンッと張りのある声をいかにストレートに聞かせるか、
たとえば太田裕美にはあの舌足らずの声をいかにシャープに甘く聞かせるか、という事を凄く重要視していた事を感じる。
上記歌手が一見ずっと同じようなポップスを歌っているように聞こえても、筒美作品以外の場合はそのメロディによる表現力が違って感じるのだ。

2008082007そういう意味で、この南沙織「夏の感情」は編曲まで担当しているので、メロディだけでなくアレンジまで南沙織のグルーブ感のある歌声を生かし切っているのだ。出だしのホーンなんてもう70年代フィリーソウル的なカッチョ良さで(筒美先生は日本人向けの翻訳がやはり上手いのだ)
アイドル的な印象で聞いてしまうとびっくりするぐらいに南沙織の歌い方はファンキーで黒い。安易な言い方をしてしまうと「やっぱ沖縄育ちは子供の頃から環境が違うので、バリバリ日本人は敵わないよナァ」って事になってしまうのかも知れない。
サビに入った時の「♪お陽様の真下でぇ」という部分のキュンと音圧が上がるような歌唱法、ブリッジ部分の「ア、ア、ア、ア〜」という部分のファンキーさはなかなか出せないと思うのだ。

2008082008
で、このシングルの凄さはそこだけではなく、クレジット部分に作詞・作曲・編曲だけではなく「演奏/キャラメル・ママ」と演奏しているスタジオミュージシャンのグループ名まで入っているという事なのだ。
なかなか歌謡曲のレコードでそれはない。とくに1974年の段階で。
で、このキャラメル・ママというバンド。リーダーでベースが細野晴臣、ギターが鈴木茂、ドラムが林立夫、キーボードが松任谷正隆というムチャクチャ豪華なスタジオミュージシャンバンドなのだ。(後にティンパンアレイに改名)他にアグネス・チャンなども担当していた。

この時代、リズム隊は今より抑えめにミキシングされているんですが細野のベースがグイグイと疾走し続け、松任谷のキーボードがメロディの裏でウィーンとうなり続ける。
実際の事を言うと、筒美京平のアレンジがホーン中心なのでイマイチ細かい演奏は聞こえないけれど、細野のベースに引っ張られて全体が熱く、その疾走感は充分に感じる事が出来る。

2008082003ということで「夏の曲シリーズ」前2曲で「夏なのに熱くなるような曲やるな!」と言っていたのですが、この曲は熱くなってしまいますなぁ。
ちなみに歌詞の方はなんかヤケに積極的で開放的な内容になっております。
これまで付き合った全ての人を許してあげたいって事で「私のどこかを通り抜けた人たち」とか言ってますが。でもって太陽の下だったら誰でも受け入れてもいいわ、とか言っております。なんか冷静に聞くととんでもない歌詞だな。夏の出来事、みんな許せる〜♪と最後リピートしております。
(いつかアグネスの「恋のシーソーゲーム」も取り上げたいと思います。こっちはキャラメルママの演奏がバッチリでやんす)

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2007年12月12日 (水)

丸山明宏(現.美輪明宏)「ヨイトマケの唄」

2007121201ヨイトマケの唄/丸山明宏(現.美輪明宏)
作詞.作曲.丸山明宏/編曲.川上英一
1965年:King BS-261


ラジオ「らぶらじ」で以前「ヨイトマケの唄」を話題に出したことがある。
もともと1965年、美輪明宏が作詞作曲して作った曲で、自分的には子供の頃にクレイジーキャッツのコント「かぁちゃんのためならエ〜ンヤコ〜ラ、とぉちゃんのためならエ〜ンヤコ〜ラ♪」の部分が記憶にあるワケですが、70年代からつい最近まで一般的に「放送禁止」とされていた。
というのも、曲の内容が「土木従事者をしている人をバカにしている」みたいな事から来ているワケですが、最近になって「親の仕事に引け目を感じていた少年が、振り返ってみて親に感謝している歌」という事で差別の意識はないとテレビなどで歌う事が大丈夫になったワケです。

で、この曲のタイトルに出てくる「ヨイトマケ」ですが、これは、建築現場なんかの地固めのため、数人が人力で重い槌(つち)を滑車で「いっせえのせ!」で持ち上げて、ドンッと落とす作業を繰り返すワケですが、その時の掛け声が「ヨイッと巻け」だったので、その行為を「ヨイトマケ」と呼ぶようになったそうです。
ついでに言うと「土方」という言葉は、昔から職人をその仕事内容から「〜方」と呼んでいた物の一つで「土を扱う」ので「土の方」で「土方」、同じように大工さんは「建てる方」で「建方:たてかた」と呼んでいました。

この差別用語に関して、緩くなったり、きつくなったり、文章で生計を立てようなんて考えている身にとっては激しく難しい問題。
いわゆる差別何て物は、言葉の中には存在していないで、人間の心の中にあるのだ。
自分が子供の頃は、差別的な言葉だけど、生活の中にちゃんとそれも根付いていた状態で、メクラ、ツンボ、オシなどなどの言葉が生きていた。
それがいつしか、障害を持っている人への配慮という理由で「使っちゃ駄目な言葉」となっていった。
その代わりに「身障者」という言葉が登場して、それぞれを「目の不自由な人」とか呼ぶようになっていった。いつ頃だったのか…、おそらく80年代前半ぐらいか。

83年頃に自分が書いた文章で、テレビの再放送における自主規制について触れている物がある。
とある早朝、5時頃ぼーっとテレビを付けたら「ウルトラマンエース」の再放送をやっていた。ウルトラマンに関しては小学校4年ぐらいの時に「帰ってきたウルトラマン」を見た時に「こりゃ子供向けだ」と思って、それ以降のシリーズを見ていないので、このシリーズはまったく見た記憶がない。
という話から始まっていて、その話では鳩をテーマにした怪獣が登場しているのだが、まずTACという地球防衛だかのチームが無人飛行船が自動的に本部へ帰ってくる装置のために、少年が飼っていた鳩を実験に使って帰巣本能の実験をしている。
その鳩を異次元から出現した敵が捕らえ「この鳩を利用すれば、ヤツらの基地が直ぐ解る」などと言いだし、それを鳩の怪獣に変身させる。
いやいや、異次元から登場したり、鳩をどでかい怪獣に変身させる能力あれば、基地ぐらい簡単に捜し出せるだろ!
などと当時の自分が突っ込みを入れているのだが、問題は鳩好き少年の母親がいきなり「まったくこの子は鳩キチガイなんだから!」と言い出すシーンがそのまま放送されていた。
と言うことに自分がビックリしている事を書いてあるのだ。

つまり1983年の段階で、世間的には「キチガイって言葉使っちゃダメだよ」というのが自分の中で定着していたという事なのだ。
確かに、バブル前の80年代後半は、その辺の放送禁止用語的なネタを「ピー」というのが流行っていたような気もするし、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのゲストが「もう釣りキチガイなんで」みたいな事を口走り、その瞬間タモリが「大変素晴らしい放送禁止用語ありがとうございます」などと笑いにしていた。
まだ、テレビ出演者も微妙にその辺の言葉の切り替えがなされていなかったのかも知れない。

でも基本的に「テレビなどの媒体で使っちゃいけない言葉」という自主規制だったハズなのにいつの間にか、どの状態でも使ってはいけない言葉扱いになっているのが、どうなんだろうなぁという感じではあるのだ。
ネットで以前見た物は、とある掲示板(若干年齢層が低い掲示板)の書き込みで「メクラで」という言葉があった瞬間、複数のレスで「それ使っちゃいけない言葉」「放送禁止!」とかの書き込みが集中した。
確かにテレビ的にはそうなんだろうけれど、日常的に使っちゃいけない言葉としてこの辺の年齢だと生まれた頃から「放送禁止で使っちゃいけない言葉」としてハッキリあったんだろうなぁ
自分の子供の頃は「使っちゃいけない言葉」なんてのは全然意識していなかったので、放送禁止用語なんて存在しなかったと思う。

で、実際の事を言うとメクラ、ツンボ、オシなどの言葉を使っちゃいけない理由があまり理解出来ない。
きっと世間的には「実際にそう言う人々が言われたら嫌な思いをするでしょ」という部分なんだと思うけれど、それはどうなんだろうと思う。
その80年代初期に、身体的に不自由な人を「身障者」と呼ぶというルール的な言葉が誕生した時に、実は、その反対語で「健常者」という単語も誕生している。こっちの方が差別的じゃないか?
でもって、身障者という言葉が誕生してから20年ほど経った時「身障者という言葉は差別用語です」と言い出す団体が登場して別の言い方が誕生したり…、でも別の言葉が使われるようになった所でその言葉は時代を経ていつしか差別用語になってしまうんだろうね。
差別は無くならないから。オブラートにくるまれたとしても、その言葉が指す対象を「差別的な物」と思っている間は。

その身体的な不自由な人に対しての差別はどう頑張っても無くならないと思う。善意だろうと悪意だろうと区別しようとする気持ちは存在するから。
でもって、80年代初頭の言葉の差し替え期に、言葉狩りのような部分で自分が違和感を憶えたのが「俺、その言葉を悪意ある差別で使っていたかな?」という部分なのだ。
実際、自分の小学校の頃は同じ学校の中に特殊学級という名でいわゆる知恵遅れと呼ばれる子たちのクラスが存在していた。クラス分けをされてはいたけど、普通に一緒に遊んでいたし、一緒に帰ったし、その家に遊びにも行った事もある。
その知恵が遅れているという部分も、その子の個性だと思っていたので。
江戸なんかの文献を読んでいても、メクラ、ツンボ、オシと呼ばれる人も普通に生活にとけ込んでいて一緒に生活している。本当にそれが個性だともで言うように。

差別だ、差別だ、と言葉狩りに終始する人ってのは、実際は自分の中に差別の気持ちが大きくあるんじゃないか?と思ってしまうのだ。
差別用語って何?と、言葉が好きな自分は何度も何度も考えてしまう。
きっとこの件は永遠に考え方の個人差の中で解決がなされないんじゃないかと思うけど。

雑学的話題
体を鍛えるための「ダンベル」を漢字で表現すると『唖鈴:あれい』。アレイと書くと英語っぽいけれど日本語なのだ。でもって、現在は「亜鈴」と漢字で書くことになっている。
実は「唖鈴」の『唖』は口がきけない事を意味する「オシ」の事で、この漢字表記は英語の直訳。
実はダンベルというのは、筋トレ用品ではなく教会で鐘を鳴らす人の訓練用に作られた音の鳴らない鈴。つまり「dumb=おし(音が鳴らない)」+「bell=ベル(鈴)」なのだ。その直訳だから、元々「唖鈴」。
でもって、現時点では「唖」という漢字がアレなので使わない方向で「亜鈴」となっている。
そうか、そこまで考えるのかぁ。

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2007年6月23日 (土)

南野陽子「話しかけたかった」

Minamino01南野陽子/話しかけたかった
作詞.戸沢暢美/作曲.岸正之/編曲.萩田光雄
1987年04月01日/定価700円
CBSソニー/07SH1900


南野陽子
1967年6月23日・兵庫県生まれ・本日40歳になりました。
1980年代初期、アイドル産業がかなり活発になり、数多くのオーディションで鳴り物入りでデビューする人が多かったワケですが、その中、南野陽子は私立松蔭女子学院高校在学中にスカウトされ芸能界入りをしたので、出だしはそんなに派手な冠がなかった。(一部資料ではCMオーディションにどんな人が来るのか興味本位で参加したところスカウトされたという物もある)

1984年にNTVのドラマ「名門私立女子高校」でデビューし、翌年の誕生日、1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビューを果たしている。
しかし冠が無いという事で、イマイチ注目されない地味なスタートだったためなのか、デビューしばらくしてから講談社の「少年マガジン」の美少女コンテストでマガジンメイトに選出されグラビア露出展開を始める。

1987年5月「ORE」198705nanno
1986年、その効果があり、前年斉藤由貴主演で人気が出た「スケバン刑事」の続編「少女鉄仮面伝説」で主役を演じる事となって、大ブレイクを果たすことになるのだ。
斉藤由貴がミスマガジン出身だったので、スケバン刑事が先に決まっていたという可能性もあります。

ミスマガジンは「少年マガジン」主宰のコンテストで初代は伊藤麻衣子。その時コンテストとは別にもう一人選出されたのが森尾由美で、彼女はマガジンメイトの称号が与えられた。
ミスマガジンは1年間のクィーンなのに対し、マガジンメイトは雑誌の顔として複数年活動することとなる。
第4回(1985年)のミスマガジンは八木沙織で、この時に南野陽子が2代目マガジンメイトに選ばれている。

南野陽子の楽曲は当時のアイドル歌謡がユーロビートの影響で非人間的なビートを強調した楽曲になっていく時代に反発してか、あくまでもソフト路線を貫いていたワケですが、これはサウンドプロデューサー萩田光雄の作り出したコンセプト。
イメージとしては「私立のお嬢様学校に通う引っ込み思案な女子高生」。80年代中期どんどん強くなっていく女性に疲れた野郎どものハートをわしづかみにしたのだ。

1988年08月02日「週刊プレイボーイ」198808nanno1
もっともこのコンセプトも80年代末のバブルに浮かれた時代には徐々に厳しくなっていったのか(南野陽子というキャラも年齢を重ねて「今さら引っ込み思案な女子高生もないだろ」という感じなのか)1989年6月に「トラブルメーカー」という曲で突然「はじけた女の子」というイメージ展開を図ることとなる。
が、客観的に観て「無理してはしゃいでいる」という印象がぬぐえなかった。
いきなりイメージチェンジとして夜のヒットスタジオに出演した彼女は、ショートカットにして、それまでのオーソドックスなファッションから一変した。
蛍光色の服に小道具を付けて歌っていた彼女を観て「いたたた」と思ってしまったのも事実。


1988年08月「BOMB」198808nanno2
この1989年は日本の音楽界が、アイドル歌謡からバンドブームへ移行していた時代で(レコードの売り上げがCDに抜かれた年でもある)、さらにザ・ベストテンの終了もあって、南野陽子のアイドル仕事は1991年にリリースした「夏のおバカさん」という曲で終了する。
80年代末から、90年末にモーニング娘。がブレイクするまでの10年間は「アイドル冬の時代」と呼ばれる時代だったのだ。

ちなみにヒット曲「話しかけたかった」はモンキーズの「デイドリームビリーバー」によく似ていると言われていましたが、そのモンキーズの曲自体ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」に似ているでやんす。
と言いつつ、好きな曲なんですけどね。

1989年02月「ORE」198902nanno
南野陽子はマガジン別冊の「ORE」というグラビア系雑誌によく出ていたけれど、そこで後輩の小沢なつきとの対談があった時「なつきちゃんて凄くかわいいよね。私とよく似ている」と、おいおいオマエは思いっきり自分がかわいいと思っているんじゃねえかという発言をしていた。

その後、小沢なつきは1989年、17歳の時「魔法少女ちゅうかなぱいぱい」の主演最中にマネージャーと駆け落ちをして1年予定の番組が半年で終了(後番組は急遽主役に抜擢された島崎和歌子の「魔法少女ちゅうかないぱねま!」)それから10年後に離婚し芸能界にヌードグラビアで復帰、さらに2004年にAVに転身(1972年生まれなので32歳だったが、なぜか1976年生まれの28歳になっていた)

1989年07月「ORE」198907nanno
そんな波瀾万丈の後輩を横目に南野陽子は40歳になっても、まったく波風を立てずにあの時代と同じスタンスで芸能界にいる。

ちなみに南野陽子は2004年に「芸能生活20周年」という事で大々的に記念してDVD付き写真集を出版した。が、計算したらまだ19周年目だったという事があった。
というのも、年末に放送された「ザベストテン2004」で共演した吉川晃司が同じく20周年を祝っているのを見て「あら、この人がデビューしたとき私まだ素人だったわ・・・?」という疑問を持って調べてみたら真相発覚したという物。

南野陽子がアイドル時代に語っていた将来設計。1990年に結婚、1991年に長女まいこ出産、1993年に長男たつや出産。2040年に73歳で死去。

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2007年5月16日 (水)

松原みき「ニートな午後3時」

Matubaramiki1松原みき/ニートな午後3時
作詞.三浦徳子/作曲.小田裕一郎
1981年2月/¥700
キャニオンレコード/7A0049


今現在「ニート」といったら、「Not in Education, Employment or Training」の頭文字を並べた「NEET」で、意味は「主婦と学生を除く非労働力人口のうち15〜34歳の人」という事になっている。解りやすくいうと「何もする気がない人」みたいな捕らえられ方をしている言葉なのだ。
でもこれが言われ始めた当初、自分は凄く違和感があった。

スペルは「Neat」とちょっと違うんですが、1970年代末から1980年代初頭に一部のプレッピーとかの間で「ステキ」とか「格好いい」という意味で使われていた「ニート」という言葉があったのだ。(デコラティブの対語として使われている)
かのウッディ・アレンの映画「アニーホール(1977)」の中でも、主役のアニーが何度も「ステキ!」という意味でこの単語を口走っている。

そして1981年にリリースされた松原みきのこの曲、資生堂・春のキャンペーンソングとしてかなり頻繁にテレビで流れていたんだけど、「ニート=ステキ」という意味はあんんまり流行しなかったのかもしれない。
資生堂は1981年春の口紅の新色として明度の低い渋めの色を「ニートカラー」と名付けて売り出そうとしていたワケです。

1990年代初頭に、知人がやっていたファンク系バンドの歌詞のなかにこのNeatという単語が出てくるんですが、その歌詞カードを読んだ人から「これってNeedの誤植でしょ?」みたいな指摘をされていた。
この「ニートな午後3時」という曲もそんなヒットした記憶はないんですが、小田裕一郎の曲なのでそれなりにポップで聞きやすい。あと数年後なら杏里辺りが歌ってヒットしたかもしれないって感じ(杏里の「CAT'S EYE」も小田裕一郎が作曲)

しかし、現在の「ニート=やる気無い駄目な人」みたいな感覚で聞き直すと、なんかトホホな曲なのだ。
なんせサビの部分で「Neat, Neat!, Everyday 自由になれるわ」と何度も繰り返すので、毎日ニートですか?状態。
かつて松本隆が「音楽の中で詩の寿命が一番短い」と語っていましたが、こーゆー事なのか(って違うと思う)

ちなみに歌っていた松原みきさんは2004年10月07日に44歳で亡くなっています。

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2006年9月14日 (木)

真鍋ちえみ「ねらわれた少女」

0001_2真鍋ちえみ/ねらわれた少女
作詞.阿久悠/作曲編曲.細野晴臣
CBS SONY/07SH-1150
1982年05月01日


真鍋といったら「眞鍋かをり」ではなく「真鍋ちえみ」...でもなく、自分の場合はイラストレーターの「真鍋博」さんでやんす。(星新一の挿絵で有名)
ということで、たぶん殆どの人が知らない80年代アイドル真鍋ちえみの1982年のデビュー曲「ねらわれた少女」。時代的にいったらモロに「ねらわれた学園」+「時をかける少女」って感じで角川かよ!という状態ですが、作詞は阿久悠。さすが腐っても阿久悠(この時期、低迷していた)キッチリとリアリティの無い状況がつかめない詩を書いています(褒め言葉)。
作編曲が細野晴臣なんですが、そのアイドル歌謡とは思えない楽曲をリアリティの無い歌詞で逆に地上につなぎ止めている感じがあります。

唯一のアルバム「不思議・少女」
0002_3真鍋ちえみはオスカープロモーション所属で、80年当初のアイドル時代到来を見てモデル事務所だったのが「うちでもアイドル出そうぜ」と3人の女の子(北原佐和子・真鍋ちえみ・三井比佐子)を「パンジー」というグループ名でデビューさせた。と言っても、3人で曲を出したワケではなく「セット販売」という状態でバラエティなどに出演して1作だけ映画『夏の秘密』にも出た。そして歌手としてそれぞれがソロデビューした。

この曲を作った頃の細野晴臣はYMOをやっていた時代で、その前年1981年に「BGM」と「テクノデリック」という名作アルバムを発表している。「テクノデリック」ではそれまでサンプリング音源を楽器としてそのまま使用する方法論(ビートルズが愛用したメロトロンなどの考え方)を進化させて、日本で開発された「LMD-649」というサンプリングマシンを使い、音源をさらに加工し新しい音源を生み出す事を実践している。そこで活躍したプログラマーが松武秀樹。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0003_2実は「ねらわれた少女」はそこで作り上げたシステムを歌謡曲へ導入した実験台でもあったのです。もっとも、「テクノデリック」ほどの重い音はさすがに使えずに、やや薄目になっている。それでも異様なアイドル歌謡ですが。
この曲の前年1981年に、細野晴臣は作編曲で「イモ欽トリオ・ハイスクールララバイ」をリリースして大ヒットしている。こっちの曲はYMOでも初期の「ライディーン」路線で、YMOのパロディになっている。
ちなみにイモ欽トリオの名前は「たのきんトリオ」のパロディですが、パンジーは「女たのきんトリオ」などと揶揄される事もあった。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0004_1しかし、残念なことにこの曲は売れなかったらしく、2曲目はガラッと方向性を変え作詞.安井かずみ/作曲.加藤和彦のルンバ調の曲「ロマンティックしましょう(1982.08)」。(でも加藤和彦マニアの自分はこの曲も好き)もっとも、この曲も売れたという話は聞かない。
その後、アルバム『不思議・少女(1982.08.25)』を出しテクノ寄りに戻り、3枚目のシングル「ナイトレイン・美少女(1982.10/細野作曲)」で歌手活動に終止符を打ち、モデルになり雑誌「CanCam」の専属になった。

アルバムの歌詞カードにある使用機材の写真
0005アルバムはプロデューサー酒井政利、スーパーバイザー(監修)細野晴臣で、全体的にテクノ寄りの音造りがされている。と言っても、「ねらわれた少女」以外の楽曲のアレンジに細野は関わらず、清水信之が「細野的」要素をちりばめながら行っている。

音的には確かにテクノ寄りの感じもするワケで、アルバムの歌詞カードには自慢げに「E-μ Synthesizer」「Roland MC-4 」「LMD-649」「Prophet-5」「Jupiter-8」の写真が記載されている。テクノ小僧には憧れの楽器だったわけですが。(今聞くと、当たり前の音造りという感じがしちゃうのは、今の音楽は普通に電子楽器が取り入れられているって事なんですが)

真鍋ちえみのボーカルはお世辞にも上手とは言えない物ですが、その表情を作れないボーカルがある意味テクノ的だったのかもしれません。しかし、彼女的には歌詞カードで「アルバムの中で一番好きな曲はGood・by-Good・byです」と、アルバム中もっとも非テクノな普通な曲(大貫妙子作詞作曲)を選んでいるあたり、色々難しい部分があったんだろうなぁと思ったりするわけでやんす。

細野晴臣はもともとカントリー系(南国系とか楽園系とも)の曲が得意な人で、作曲能力も高いので、メロディだけ取り出すとテクノではなく純然たるポップスが多い。
この曲の翌年1983年には中森明菜「禁区」なども書いている。
ついでに言うと、アイドル真鍋ちえみにこの様な「重いテクノ系」の楽曲を与えてしまった細野を含めたYMOは、翌年からアイドルおじさんとして「君に、胸キュン。」などの、軽薄にポップなテクノ曲を自らが歌い始めていくことになる。

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2006年9月 8日 (金)

三田寛子「駈けてきた処女-おとめ-」

00_19三田寛子/駈けてきた処女-おとめ-
作詞.阿木燿子/作曲.井上陽水/編曲.萩田光雄
CBS SONY/07SH 1131
1982年3月/¥700


先日の秋篠宮家、長男誕生のワイドショーで三田寛子がコメンテーターをしていたのを見て「なんで?」と思ったんですが、そこで「うちも色々と跡継ぎという事で男児を望まれていて、最初かなりのプレッシャーを感じていたんですが」と語っていて、なるほどなぁと思ったワケです。
中村橋之助と結婚したことで、いわゆる梨園とよばれる歌舞伎役者の家庭に入ったので、それなりに大変なんだろうなぁ。(現在3男のおかあさん)

00_20三田寛子は雑誌「セブンティーン」のモデルオーディションに合格し芸能界入りし、その後はヒットドラマ「金八先生」の後番組「2年B組仙八先生」高坂ひとみ役で1981年4月に女優デビューした。
仙八先生は主演・さとう宗幸が歌う挿入歌の「青葉城恋唄」がヒットしたけれど(主題歌は「萌ゆる想い」)、あからさまな金八の便乗番組ということで、その後スペシャルが1回1984年にあったが続編はなく終わった。(2年生という事で、最終回が卒業式じゃないので盛り上がらないでしょうがないと思うけど。ついでに1984年に放送されたスペシャルの内容が卒業生に覚醒剤の魔の手が伸びるという20年後(2004〜05年)の金八(7)を予見させる内容)

もっとも、このシリーズは金八にせよ、仙八にせよ、新八にせよ、貫八にせよ、女性アイドルの登竜門ではなかったような気がする。三原順子つちやかおり伊藤つかさ川上麻衣子などなど。

00_21番組終了が1982年3月26日で、その前の週1982年3月21日に「駈けてきた処女-おとめ-」で歌手デビューした。
「処女」という表記も話題になったけれど、井上陽水が作曲というのもかなり衝撃だった。
さらに、アイドルというのは基本的に標準語というのが当たり前の時代だったんですが、彼女の場合はどう頑張っても京都出身という事で「京言葉」が見え隠れてして、さらに普通に歌っていても「それ京都のイントネーションだよね?」というのが出ていて、ほほえましい限りでした。

00_22さらに2曲目「夏の雫」になると作詞作曲はそのままで、編曲に坂本龍一が参加するという、かなりチカラ入れてんだろうなぁという感じの楽曲。
井上陽水は陽水で歌いにくいメロディだし、阿木燿子は言葉遊びなのか「海」に引っかけて歌詞の中に「Kumi and Rumi」とか「Yumi and Fumi」という、誰それ?という人名をいきなり出してきて、読めば読むほど詩の世界が理解しにくいほど難解だし、坂本龍一の編曲もやけに複雑で展開がありすぎで「アイドルの曲としてはどうかと」いう感じに仕上がっている。
ジャケット写真も「もしかして山口百恵路線?」という三白眼だし。
なんか、考えすぎて、懲りすぎて、結果として全てを置き去りにしている感じが濃厚なのだ。

00_23その失敗からなのか、3枚目は南沙織「色づく街角」のカバー、4曲目オリジナル「ひとりぽっちの卒業式」を挟んで5曲目も村下孝蔵「初恋」のカバーとなっている。
シングル14枚、アルバム4枚出したハズだけれど、歌手としての三田寛子の印象はかなり薄く、その京言葉のイントネーションと周囲とリズムのずれっぷりが一般的には有名で、いつしかバラエティに多く出るようになっていった。
たぶん最初にそのキャラが表面化したのは「笑っていいとも」の「寛子のお菓子大好き」というコーナーだったと思うけれど、たぶん本人はそのズレっぷりには今でも気づいていないのではないかという感じなのだ。

00_24しかし、今回ジャケット裏を見て「そうだった」と思い出したのが、三田寛子という何の変哲もない、言ってみれば芸能人じゃなくてもありがちな名前が芸名で、本名「稲垣敦子」なんすね。(今は苗字は中村ですが)

ちなみにデビュー曲がセーラー服ジャケットですが、以前書いた「セーラー服ジャケット」の際にすっかり忘れていました。
実はあの後、レコードを整理していたらいくつもセーラー服ジャケットを発見したので、それはまたいつの日か。(「駈けてきた処女」の夏セーラー、半袖の腕部分が腕章のようになっているのってかなり珍しいんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか)

三田寛子

三田寛子は「恋するメトロ」を歌っていた時「メトロって地下鉄の意味だよ」とタモリに教えられて落ち込んだ。人の名前だと思っていたらしい(って誰も教えなかったのか?)、とりあえず歌詞の出だしは「地下鉄でめぐり逢い♪」

三田寛子は決まっていた連続ドラマに「セックスしました」という台詞があったので「そんな言葉言えない」とダダをこねて降板した事がある。その代役は、同じ桜中学出身の川上麻衣子が演じた(川上さんはあの写真集出すようなオープンな方なので、怖い物なしかと)

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2006年8月27日 (日)

水谷麻里「バカンスの嵐」

00_15水谷麻里/バカンスの嵐
作詞.尾関昌也/作曲.井上ヨシマサ/編曲.戸塚修
ビクター/SV-9261
1987年07月16日/¥700


夏も後半って事で、いまさら夏の曲を。
去年の夏、SMAPがBang Bang バカンスという曲で「バカンスって言葉の半分は♪バカッバカッバカ〜」と歌っていた時に、いきなり思い出したのがこの曲。
実はこの曲の出だしが「バカバカバカンス♪」となっている。別にそれ以外は似ていないのでパクリとかどーこー言うレベルじゃないんですが(世の中には歌詞のフレーズが僅かに似ているだけでもパクリだ!と大騒ぎしてネットに書き込む面倒臭い人がいますけど)

1st「21世紀まで愛して」
0021で、この水谷麻里さんを知っている人はあんまりいないんじゃないかと思います。
とりあえずデビュー曲『21世紀まで愛して』は資生堂ヘアコロンシャンプーのCM曲で、当時はサビ部分が頻繁にTVで流れていたり、2曲目『地上に降りた天使』は映画「子象物語」のテーマ曲として、これも頻繁に流れていたので、メロディを聴くとなんとなく覚えている人もいるんじゃないかと思います。

2nd「地上に降りた天使」
00_16しかし彼女の事を説明する場合に一番分かりやすいのは「漫画家、江口寿史の奥さん」って事かも知れないっす。
70年代末から80年代にかけて「すすめパイレーツ」「ストップひばり君」でヒットを飛ばし、あとは連載が始まるとすぐに穴を開けて打ち切りを繰り返して、それが話題になり続けている、あの漫画家・江口寿史の奥さん。

江口のLPサイズの画集・大きく重く凄くジャマ
0001水谷麻里というデビュー時にかなりバックアップされていた歌手が大成しなかった理由のひとつに江口寿史が関係している。
彼女のデビュー時に「!」と思ってしまった江口寿史は雑誌『投稿写真』に自ら「対談」の企画を持ち込む。当時、すでにオシャレでポップな漫画家として漫画だけじゃなくイラストとして若い世代に人気があった江口だったので、雑誌としても「あの江口が出てくれる」というのは大乗り気な企画になったのだ。(他の雑誌だったという説もあり)

その画集の中にあるレコードの片面
00_17で、その企画で江口は水谷麻里と知り合いになり、まんまと恋愛関係に持ち込んでしまったのだ。(水谷麻里も江口漫画のファンだった)
もともと芸能関係にそんなに思い入れの無かった彼女は恋愛の方が重要になって、いつしか仕事のやる気を失い、引退、そして結婚という事になった。
なんつーか、夫婦揃って仕事やる気無しかよ!状態ではあるんですが、その水谷麻里が引退結婚したのがなんと18歳、やるなぁ江口。

1st Album「なかよし」
0000_19デビューのキッカケは資生堂開催の「ミスヘアコロン」でのグランプリで、デビュー曲「21世紀まで愛して」はそのCM曲。
このコンテストの特別賞「雑誌BOMB賞」を受賞してデビューしたのが酒井法子。つまり水谷麻里の方が上だったハズなのに、どこでどう間違ってしまったのか。(水谷麻里も酒井法子も、ビクター&サンミュージック)

2nd Album「ほがらか」
0000_20実際の事を言うと、デビュー当時は「あんまし上手くない」という印象だったんですが、2年目に入った時から路線変更で「変な曲」を歌い始めて、いきなり歌唱力がアップしたような印象(曲がポップで秀逸なのも理由なんですが)がある。
前回の榊原郁恵はオリコン11位止まりだったんですが、実はこの今ではほとんど知られていない水谷麻里は8枚出したシングルの4枚が10位以内に入っている。もっとも、80年代中期はCD時代に突入していてシングルが売れなくなった時代で、売り上げは1〜6万枚程度なのだ。

3rd Album「あしたの黄色をつかみたい」
0000_21江口寿史の漫画を読んでいると、そのエッセイ的漫画の中にアホな事をして仕事をろくにしない江口の横に奥さんが出てきて呆れていたりする図がときたまある。
それを見て「あぁこれが水谷麻里なのだなぁ」と思ったりするのだ。(かつて写真週刊誌の「あのアイドルは今!」で主婦姿が隠し撮りされた事もある)江口、ちゃんと奥さんと子供を喰わせる程度には仕事しろよ。

1971年07月18日 愛知県津島市に生まれる

14歳
1986年03月21日 1st Single「21世紀まで愛して」
1986年07月01日 2nd Single「地上に降りた天使」

15歳
1986年08月21日 1st Album『なかよし』
1986年09月25日 3rd Single「乙女日和」オリコン9位
1987年01月01日 4th Single「春が来た」オリコン9位
1987年02月05日 2nd Album『ほがらか』
1987年04月08日 5th Single「ポキチ・ペキチ・パキチ」
1987年07月16日 6th Single「バカンスの嵐」

16歳
1987年08月21日 3rd Album『あしたの黄色をつかみたい』
1987年10月21日 7th Single「メビウス天国」
1987年秋 江口寿史(31)と雑誌で対談→お付き合い始まる
1988年03月02日 8th Single「春休み」ラスト
1988年03月25日 引退→地元愛知へ一旦帰る

18歳
1990年 江口寿史と結婚(18歳)

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2006年8月21日 (月)

マギー・ミネンコ「涙の河」

01_5マギー・ミネンコ/涙の河
作詞.橋本淳/作曲.中村泰士/編曲.あかのたちお
1974年/¥500
キングレコード/BS-1850


芸能界には常に「オカマ枠」「デブ枠」「外人枠」と言う物が何席か設けてあるらしい。
昔に比べてタレントの総数が増えているので、その席数も増えているけど、外人枠というのも現在では結構微妙な感じになっている。

マギー・ミネンコ「燃えるブンブン」
01maggy01日本は敗戦国と言うのもあってか、戦後すぐの頃は外人に対して劣等感を持っていたような気がする。あるいは憧れを持って迎えていたんじゃないかと。
そこで活躍したのは、E.H.エリックと岡田真澄兄弟とか、イーデスハンソンとか、ジョン・シェパードとか、西川ヘレンとかで、彼たちは「外人だけど気さくないい人」というのが売りで、さらに関西弁を駆使してフレンドリーな外人として活躍していた。(ハーフも多いですが)

ゴールデンハーフ「太陽の彼方」4人時代
000golden70年代に入って、大阪万博を経験した日本にはドッと外人(西洋人)が入ってきて、徐々に珍しいとか、恐怖心を煽るとかの存在ではなくなっていった。
アイドルとしてゴールデンハーフとか、香港からアグネス・チャンとか、ハワイからアグネス・ラムだとか、ベトナムからルーフィン・チャウだとか(微妙に扱いが違うしデビューは1982年ですが)がやってくるようになり、外人枠は飽和状態を迎えた。
ハーフって事を言えば、辺見マリもスペイン系ハーフだったり、けっこう多い。

ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」ハワイの女子大生
000_80年代に入るとデイブ・スペクター、ケント・デリカット、オスマン・サンコン、ダニエル・カールなどの「格好悪い外人」が主流になっていく。
さらに、ハリウッドスターもCMに出て「カッコいんてぐら」とか駄洒落を言わされるような、カッコいいだけじゃ場が持たないという風潮になっていく。

エミー・ジャクソン「涙の太陽」
000__1そして今や、ボビー・オロゴンや、ハーフですがウエンツ瑛士やベッキーみたいに「芸人以上にウケを気にする外人」が、日常的にTVに出まくっている。
そもそも外人という段階で他との差別化が出来ているんだから、それ以上に頑張られちゃ日本人は困っちゃうワケでやんす。
80年代からデイブ・スペクターが生き残っているというのは、これらのウケを気にする外人の先駆者だからですかね? デイブに関して「寒いギャグを言う寒い外人」という見方をしている人も多いですが、あれはワザと寒いギャグを言うキャラを作っている。日本人で海外に行ってそこの国の言葉でダジャレ言ったり、寒いギャグを平然と言える人はそう居ないと思うのだ。

チャダ「面影の女」インド代表
000_16それらの「芸人並外人」のルーツとも言えるのが、このマギー・ミネンコ。
NTV系の金曜夜10時台に放送していた『うわさのチャンネル』の中で、つんつるてんの着物を着て、走り回って、ボケまくって、あげくの果ての決めぜりふが「乳もめーッ!」という、当時の吉本新喜劇でもここまで過激な芸人はいなかったんじゃないかという状態の人でした。(マギーの代わりに途中で入ったシェリーは「ケツ出せーッ!」と叫んでいたが二番煎じっぽかった)

ベッキー「さらら」英国系ハーフ
00_14この『うわさのチャンネル』は、和田アキ子の「芸能界のご意見番・ゴッド姐ちゃん」という悪しきイメージを作り上げてしまった番組でもあるんですが、他の出演者は、デストロイヤー・あのねのね・せんだみつお・湯原正章・木の葉のこなどで始まり、さらにタモリのメジャーな番組初レギュラー(東京12chのモンティパイソンはメジャーではないので....)、さらに所ジョージなどもここからメジャーになっていった。結構、凄い番組だったのだ。
あと、まだ30代で中堅のスポーツ中継アナだった徳光和夫がデストロイヤーに4の字固めをかけられながら自分の実況をするというのもパターンのひとつとしてありました。(技を掛けられながらカメラに向かって「お父さんはこうやって頑張っているんだ」と中継したり...)

WaT
000watそんなマギー・ミネンコは歌手としては「燃えるブンブン」というポップでパンチの効いたホットロッドソング(車やバイク曲の意味)をリリースしてスマッシュヒットを飛ばしたんですが、その後に出した「涙の河」はしっとりとした名曲として、一部では人気が高い。

作曲が中村泰士。「心のこり」や「北酒場」で有名な作曲家なんですが、ここでは秀逸なスローロッカバラードを書いている。
意外な印象を持ってしまうんですが、前述の「心のこり」だって演歌という枠組みをハズして聞き直すとこの曲もロッカバラード、「北酒場」なんかはソウルフルな印象すらある。
実は中村泰士は、作曲家になる前は内田裕也のバンドに所属していた時期もあり、その後「美川鯛二」という名前でロカビリー歌手でデビューしている、バリバリのロック寄りの人だったのだ。そう考えると、このロッカバラードで、しかも日本人の琴線に触れるメロディというのも理解出来るのだ。

マギー・ミネンコはロシア系ハーフ(父ロシア.母日本だと思った)。サザンがかつてレギュラー出演していた「あッ!うんこついてる!」という番組で「マギ〜マギ〜マギー・ミネンコ〜〜〜〜ぉ」とアドリブで歌っておりましたが、現在は日系人と結婚しており、子供3人のおかあさんになっているらしいです。

1974年7月26日号「TVガイド」
00019740726外人はTVの中で見かける物という印象の強かった1970年、大阪万博で初めて生の外人を見た!という子供は多かったと言う。
その時、流行っていたギャグにドリフの荒井注が唐突に「デイスイズアペン!」と叫ぶのがあった(当時を知らない人にはワケ分からないギャグですな)。
怖い物知らずのアホな小学生は外人を見ると、いきなり「ディスイズアペン!」と叫ぶという暴挙に出る事が多かったと言われるが、外人にしてみたら、いきなり極東の小汚い子供達が「これはペンです」と口々に言いながらニヤニヤしてこっちを見ているという姿はどう映ったんだろう。しかも手にペンを持っているワケでもない。
海外に行ったときに、その地の子供達がいきなりニヤニヤ笑いながら「コレ ハ マンネンヒツ デス」と言いながら近寄ってきたら、どういう態度を取ればいいのだろうか? 考えるだけでも恐ろしいので、私は海外旅行はしないのだ。

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2006年8月 4日 (金)

松尾ジーナ「月影のメロディー」

2_7松尾ジーナ/月影のメロディー
作詞.阿久悠/作曲.森田公一/編曲.川口真
東芝/TP-2664/¥400


たぶん多くの人が「松尾ジーナって誰?」状態だと思いますが、実は自分も「な〜んか名前聞いたことあるけど...」状態でした。
調べてみると1970年代初頭に活躍したモデル出身アイドルだそうで、ある時、中古レコードで出逢い、その「ザ・70'sアイドル」という感じの歌唱法に惹かれちゃったワケです。

健全なエロスとほんわかしたイケイケ具合が見事に調和している曲で、初めて聞いた瞬間に「あぁ懐かしい」と感じてしまうような曲調。
この曲は2曲目らしく、「気ままなジーナ」というNHKでは「自己宣伝になるので歌っちゃ駄目」と言われそうな曲で歌手デビューしています。曲調は歌謡曲寄りのポップなディスコソング。

ジャケット裏
2_8色々資料を探していると、ドイツとのハーフで、1970年〜1975年頃の「女学生の友(略称:ジョトモ)」とか創刊したばかりの「non.no」なんかのファッション特集で「今冬はこんなニットが!」みたいな感じでモデルをしているので、今でいったらエビちゃんとかそんな感じかも知れません。
その後はドラマ(と言っても特撮物)にもちょい役出演したり、CMに出演という感じの活動をしていたみたいです。

今でもその姿を見られる物ではDVD発売されている「シルバー仮面」の9話まで出演しており、その後は体調を崩したとの事で降板しているみたいです。(と言いつつ、別資料では「シルバー仮面(1971年)」の続編「シルバー仮面ジャイアント(1972年)」にも出演しているとなっているんですが)
ちなみに出演していたCMは武田薬品の「ハイシーA」で、武田薬品はシルバー仮面のスポンサー。色々な力関係が働いていたみたいです。

ドラマは病気降板って事になっていますが、芸能活動自体は1970年半ばにレーサーの高原敬武氏と結婚引退するまで続いていたらしい。(この高原さんって、レース界では凄い人との事)
なにはともあれ、元々知らない松尾さんですが、幸せな着地点を見つけたみたいで、よしよし、なのだ。

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2006年6月21日 (水)

もとまろ「サルビアの花」

000000_1もとまろ/サルビアの花
作詞.相沢靖子/作曲.早川義夫
1972年00月00日/¥400


この曲は元々、早川義夫(元ジャックス)がソロアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」の中で歌っていた曲で、それが有名になったのは1972年に女子大生の3人組「もとまろ」がカバーした事から。
ジャケットを見ると、あの時代の女子大生のファッションセンスって... という感じですが。
当時のヤマハ関係のコンテストでも歌われたみたいで、ポプコン(ヤマハのポピュラーコンテストの略称)関連の番組でもよく流れていた。自分はリアルタイムではなく、70年代中期以降に知った。

早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
0000_10基本的にふられちゃった男がウジウジ言っているような内容で、ある意味60年代から続いていたプロテストソングと、80年代以降の明るい前向きな音楽の間に咲いたあだ花「四畳半フォーク」的な、情けない状況を歌っていて、現状を打破出来ずに佇んでいる人が主人公。

前半では「♪いつもいつも思っていた」と好きな女性の部屋にサルビアの花を投げ入れたい、女性のベッドにサルビアの花を引き詰めたいと妄想している。そこで歌われている「サルビア」というのが何を意味する暗喩なのかはよく解らない。
個人的にサルビアにはそんな悲しげなイメージも抱けないし、子供の頃「サルビアの花をつみ取ってその花の下部分をチューチュー吸うと甘い」と聞いてチューチュー吸った記憶はある。でも、戦後すぐの甘さに飢えていた欠食児童ではないので「ふうん」ぐらいにしか思わなかった。
ちなみに、サルビアは意外な事に「シソ科」の植物で、ハーブとして有名な「セージ」もサルビアの一種らしい。(雑学ワンポイントメモ)

サルビア(写真「植物園へようこそ」さん)
00000その男が後半にはさらに情けなさ度を上昇させていく。というか歌詞を改めて読み直すとホラーなのだ。
「♪(教会の)扉が開いて出てきた君は…」
相手の女性側からしてみれば、結婚式を挙げているときに、そこに呼ばれもしない男がノコノコと出現しちゃってジトーッとこっちを見ているという状況。そして彼女の事を「偽りの花嫁」と言い放つ。
そこには「金色夜叉」並の壮大なドラマが存在しているのかも知れませんが、彼女は「♪頬をこわばらせ僕をチラと見た」これって完璧に嫌われているというか…。そもそも男は「元彼」でもなく、普通に告白されて断った男という感じだし、一方的な濃縮還元的思いこみで、女性側からしてみたらただの嫌がらせなのかもしれない。

大瀧詠一「恋するカレン」
00000_19勝手に思い込んで別のヤツと幸せそうにしている女をジトーっと見つめる曲としては、大滝詠一の「恋するカレン」なんてのもありますが、あっちは「本当の幸せは俺と付き合う事だよ」なんて思いこんでるレベルの痛さで「悲しい女だね君は」と勝手にシベリア妄想超特急を走らせてどっかに行ってしまうので、可愛い物です。

それに対してこっちの曲ではラストは「泣きながら君の後を」と新婚旅行に出かける車の後をうわんうわん泣きながら追いかけて走っているかのような状態(状況の詳しい説明は歌詞には出てきませんが)。
おいおい、ただの恋愛ホラーだよ。
なんか中学の頃に聞いた時は「みっともない男だけど、純愛だよなあ」と思っていた気がするんだけど、改めて聞くと、ただの「ストーカーソング」なのだ。

猫「雪」
0000_11なんとなく文学的な歌詞に騙されていると、ただのストーカーも容認してしまうというパターンでは、同じ時期(1972年)に「猫」というグループが謳っていた「雪」という曲もある。
作詞作曲は吉田拓郎なんですが、歌詞の内容は「雪の降る中、見知らぬ街角ですれ違った見も知らぬあなたの後をずっと追いかけていた」という物。要注意人物なのだ。今の物騒な時代だったら、いきなり通報されてしまっても文句言えないような主人公なのだ。(好きな曲なんですけどね)
文学的というのは危ない面も多々あって、かの梶井基次郎の「檸檬」なんて小説も、本屋に行った時に持っていたレモンを「これが爆弾だったら俺の憂鬱もろとも本屋を破壊できるのになぁ、ふひふひ」と妄想全力疾走で、オチもなく終わってしまう。純粋な文学ってのはそんな物なんだろうなぁ。

岩淵リリ「サルビアの花」
0000_3ということで「サルビアの花」に話を戻しますが、実はこの曲、日本フォークの中で極端に突出したヒット曲ではないと思うんですが、そのワリに異常な数、カバーされている。
オリジナルの「早川義夫」、元祖カバーの「もとまろ」は有名なんですが、同じくシングルを出した「岩淵リリ」、さらにはアルバムでカバーしている「ウィッシュ」「あがた森魚」「チェリッシュ」「ダ・カーポ」「ジャネッツ」「ベル」「川奈真弓」「本田路津子」「NOW」「草間ルミ」「あらきなおみ」「市原真由美」などや、大御所「因幡晃」「加藤登紀子」も、さらには歌謡曲側「天地真理」「山本リンダ」「じゅんとネネ」なども70年代にカバーしている、それ以降1980年代に入っても「あみん」「甲斐よしひろ」「岩崎宏美」「鳳蘭」などジャンル不問の人々がカバーをし、近年でも「大石円」や「井上陽水(アルバム:UNITED COVER)」、今世紀に入っても関西出身歌手「LOU」が2001年のデビューアルバム「SEARCH&LOVE」でカバーしている(他にもいるかも知れません)

しかし、結婚式が終わって新婚旅行に出かけようとするとき、車の後ろを昔付き合っていた相手(あるいは振っただけの相手)が泣きながら追いかけてきたら怖いよなぁ。

オオタスセリ「ストーカーと呼ばないで」
0000_12ストーカーソングというとこの6月21日に発売された「聴いてはいけないオオタスセリの世界(全曲試聴できます)」に収録されている「ストーカーと呼ばないで」が凄い。まさにストーカー側からの歌詞。
歌詞の方は本人のブログに全部掲載されていて、かなり怖いです、「オオタスセリ:私の観察日記
でも怖いながらも、なんか全然解らないってワケじゃないのが悲しい。なんか扱いが非常に難しい曲ではあります。
ちなみに、オオタスセリさんとはかつて「ペコちゃん」というコンビ名で80年代から活動していた女性お笑い芸人さんです。

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2006年6月12日 (月)

松田聖子「赤いスイートピー」

08_1赤いスイートピー
作詩:松本 隆/作曲:呉田 軽穂
1982年1月21日発売
CBSソニー 07SH1112:定価700円


松田聖子という存在は個人的にはあんまりビビビッとはこないんですが、日本芸能史を語る上ではかなり重要な位置を占めているんじゃないかと思うのです。
なにはともあれ彼女がデビューしたのが1980年、ちょうど山口百恵という時代を作ったスター結婚引退を発表したのと入れ違いにデビューしている。

1st.裸足の季節(1980.04.01)
01_2山口百恵にしても、キャンディーズにしても、引退が決まった途端に「ポスト○○○」という空いた穴に誰が入るのか?というのが話題になる。
でも実際の事を言うと、ポストと呼ばれたような人はほとんど成功せずに「二番煎じ」とか「劣化コピー」みたいな扱いで終わってしまう事が多い。
ポスト山口百恵という方向なら同期には三原順子が最有力候補でした。
松田聖子は流れとしては、同じCBSソニーで太田裕美の松本隆+ニューミュージック系ポップスという感じですかね。

実際の事を言うと自分は松田聖子のアイドル的な部分のよさがサッパリ解らない派なんですが、彼女がデビューした当時、諸事情あってTVの無い生活をしていた。音楽はレコードラジオという事で、チャートに松田聖子のデビュー曲「裸足の季節」が入っており、その伸びのあるボーカルは単純に心地いいなとは思っていました。

2nd.青い珊瑚礁(1980.07.01)
02_2ラジオでも周囲でも「松田聖子って可愛いな」と評判になっていたので、初めてテレビで歌っているのを見た時にちょっとショックを受けました「はれぼったい目をしたそこらにいそうなお姉ちゃん」って感じで。

松田聖子のデビューした当時はオイルショックの影もなくなった1980年。ちょうど原宿ではタケノコ族が出現し、大学生は学生サークル花盛りでお揃いのスタジャン着て勉強よりコンパで盛り上がりという、その後のバブルへ続く第一段階の浮かれた時代。確かにノンキでいい時代だったのかも知れない。

そこで松田聖子の歌う世界は時代を反映して、どこぞのリゾート地での恋というのが多かった。歌詞を読むと、どの詩にも生活感は出ていなくて、主人公がどんな人なのかがほとんど解らない状態で、いきなりリゾート地にポツンと出現して恋愛をする。

3rd.風は秋色(1980.10.01)
03_3それまでのアイドルのリゾートソングは「失恋の傷を癒すため」とか「初めて二人で旅行に」とか、リゾートに行くにしても言い訳がどっかにあったような気がする。
その松田聖子の曲はその後どんどんリゾートがエスカレートして、マイアミだったり、セイシェルだったり、マラケッシュだったり、どこでもドアのごとく世界中に説明無しに出かけるようになる。
この辺りはOLなんかが海外旅行にいくようになったり、学生でも卒業旅行で海外なんてのを聞くようになったのが影響しているんじゃないかと。

5th.夏の扉(1981.04.21)
05_2松田聖子がデビューした当時、同世代の女の子の中には「聖子ってぶりぶりしててワザとらしくて嫌い」という評が多かった。
有名なレコード大賞新人賞における「無き大泣き」だとか、時代的に田原俊彦との噂がささやかれていたので、やっかみも多かったのかと思うけれど。
たしかに演技過剰な感もあったんだけど、それは初期だけで途中から路線変更となった。
というのは、多分同時期デビューの河合奈保子の「わかんないっぷり」が演技ではなくホンモノだったのでこりゃ敵わないと思ったに違いないのだ。

11th.野ばらのエチュード(1982.10.21)
11で、当時松田聖子の事を嫌っていた女の子たちってのが、実はすごく「聖子的」な「おまえ、男の前と女同士じゃキャラ全然違うジャン」的な子が多かった様な気がする。
いわゆる同族嫌悪なのだな
(同族嫌悪:似た者同士で嫌い憎み合うこと。本人達は自分たちの似ていることに気付かない。もしくは、気付こうとしない。似ているねと言われると反発する。)

しかも「聖子嫌い」と言っていた女の子に限って「聖子ちゃんカット」だったりするという珍現象もありました。
もっとも「聖子ちゃんカット」という髪型、70年代から延々とあった髪型なんですけどね、それのバリエーションでサイドを外巻きにしたり、さらに発展してサーファー系のレイヤードカットなどに。

13th.天国のキッス(1983.04.27)
13なぜここまで長く売れたか?って事に関しては、アイドル的な部分はよく解らない。
数本の映画に出ているけど、山口百恵の時のような話題になっていなかったような気がする。
やはり松田聖子は「声」なんだと思う。声量もなく音程もさほどなんだけど、声質、そして声での演技力が他のアイドルとは群を抜いている。こればっかりは天性の物だと思うので、他のアイドルは太刀打ちできない部分かもしれない。
だから、松田聖子は「アイドル」という括りをされているけれど、実際はオールマイティなアイドルではなく「歌手をやって存在意義の出るアイドル」なんだと思う。

14th.ガラスの林檎(1983.08.01)
14その歌手としてのワザが最大限に発揮されるのが8枚目の「赤いスイートピー」
出だしの「♪春色の汽車に乗って〜」で静かに始まり、「♪何、故、知り合った日から〜」で徐々に盛り上がり「♪I Will follow you〜」でサビ突入、でリフレインして盛り上がるのかなとみせて「気が弱いけど〜♪素敵な人だから」で一気にクールダウンして、最初のメロディに戻り「♪心の岸辺に咲いた、赤いスイートピー」と一回りして終わる。
凄く静かなジェットコースターなのだ、場面がキラキラ変換していくが、最後にはゆっくりと元の位置に戻ってくる。

16th.Rock'n Rouge(1984.02.01)聖子Ver.2
16作曲は呉田軽穂こと松任谷由実なんですが、彼女の曲の中でもこのメロディの緩急の付け方はベストだと思う。
そして、それにちゃんと答えて松田聖子は1曲の中で色々な声質を(ワザとかすらせたり、張って歌ったり)出している。
個人的にはこの曲1曲だけだとしても日本歌謡史に残る歌手なんじゃないかと思っている。

17th.時間の国のアリス(1984.05.10)
17アイドル的な立場としても、松田聖子以前以後で大きく違った物がある。
それは「アイドルは結婚してもアイドルで有り続ける事が出来る」という部分なのだ。
それ以前のアイドルは完全に仮想恋愛の対象物だったので「恋愛発覚」でファン激減「結婚」で引退というのが大筋だった。それが松田聖子は、結婚してもシングル出し続け、ベストテンにも入っていた。出産した後も、復帰記念でシングルを出している。
ちょうど時代的にワーキングウーマンの「結婚しても働く」「出産しても働く」という流れをアイドル仕事として体現しちゃったということなのかも知れない。
その影響力なのか、それ以降はアイドル的仕事の人も「結婚引退」なんて言葉はほとんど聞かれなくなった。
そういう意味でもエポックメイキング的存在なのだ。

18th.ピンクのモーツァルト(1984.08.01)
18で、今回長い文章を書いたワケですが、その理由の一つに年代順にレコードジャケットを並べるためには長い文章じゃなくちゃダメという理由があったワケです。

今回、顔のアップのジャケばかりを選びましたが、順番通りにみていくと、久留米出身の腫れぼったい目をしたおねえちゃんが、芸能界の荒波に飲まれ腫れぼったさが抜け...14枚目の「ガラスの林檎」と16枚目の「ロックンルージュ」の間に何があったのか解りませんが(15枚目「瞳はダイアモンド」は顔アップではない)、洗練されて目がスッキリパッチリとなっております。それ以降は洗練されたままです。
あの段階できっと人には言えない事情が存在して、ぱっちりになったんでしょうね。
やはり人間、見られ続けると美しくなるという事で。

そして今回改めて順番通りにチェックして気が付いたのは、デビュー当時からジャケット写真は「青い珊瑚礁」以外のすべてがやや斜めからこちらを見ているものなのですが、「瞳はダイアモンド」から突然正面からこっちを見据えた物が多くなっています。

松田聖子の豆知泉

19th.ハートのイアリング(1984.11.01)
19松田聖子のデビュー当時の代名詞になった「ブリっ子」という言葉。松田聖子の歌手デビューは1980年4月1日だが、その1ヶ月前の1980年3月2日に「TVジョッキー」に出演した新人お笑い芸人・山田邦子が「ぶりッ子」という単語を使っている。この時点で「元祖かわい子ぶりっ子」と発言しているらしい。
実はそれより少し前から、江口寿史の漫画「すすめパイレーツ」の中でブリッ子という言葉がギャグとして何度も使われており、山田邦子はそれを読んで引用したとされている。

松田聖子の芸名は1979年日テレ系で放送された「おだいじに」というドラマの役名をそのまま使用している物。
出演者一覧では蒲池法子(役名:松田聖子)となっている。

海外進出時に時計ブランドに引っかけて「SEIKO」で売り出したが、そもそもドラマの役名を決める際、そのまま芸名に使用する事が決まっていたので、海外で通用する「マツダ」と「セイコー」の名前を付けたらしい。

その時苗字は「マツダ」にするか「ホンダ」にするか2案あった。

20th.天使のウィン(1985.01.30)
201999年に公開されたアメリカの映画『私が美しくなった100の秘密』に出演しているが、エンドクレジットには誤植で「Seiko Mastudo」と書かれている。しかも、その松戸聖子は高校生役。(当時37歳)

松田聖子の娘SAYAKAの歌手デビューは当初2002年4月1日に予定されていたが(自分の歌手デビューも4月1日)、鈴木宗男から始まった連日のドタバタ政治劇の影に隠れてしまうと言うことで5月に延期された。

松田聖子の現在の本名は「神田法子」二度目の離婚後、苗字を実家の蒲池にせず最初の結婚時の苗字に戻したため。

手塚治虫は1980年代初期頃、ラジオ番組で好きな女性のタイプという質問に「昔は京マチ子、今なら松田聖子」と答えていた。

日本SF作家クラブの会議で星新一は「榊原郁恵を会員に推薦する」と提案した事があった。その理由は「可愛いから」。他会員の反対にあうと「じゃ松田聖子でもいいよ」と提案した。

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