2010年8月16日 (月)

ゆでめん

今から10数年前、某音楽好きの20代と話をしていた時に「そう言えば杉村さんはゆでめんってどう思います」といきなり聞かれた。
さっきまで音楽の話をしていたのにいきなりナンダ? と思ったのだが、とりあえず「あんまり好きとか嫌いとかは……」と曖昧に答えた。
するとその20代は「そうっすか、ゆでめん、あんまり興味無いッスか、俺は最近はじめて聞いたんだけど、あの時代にあんな事やっていたなんてショックだったな」みたいな事を言い始めたのだ。


20100816ん? と思ったところで「ゆでめんとは、はっぴいえんどのファーストアルバムの事か!」と思い立った。
大瀧詠一・細野晴臣・鈴木茂・松本隆が70年代に日本語ロックを本格的に形にしたバンドはっぴいえんどのファーストアルバム『はっぴいえんど』のジャケットが林静一が描いた風景でその中で「ゆでめん」という看板が目立っている。
現在、Wikipediaなんてのを読むと「ジャケットに描かれた看板から、本作は「ゆでめん」という通称で呼ばれている。」と書かれている。
そうだったのか。他にネットなんかを読んでも「ファンの間ではゆでめんと呼ばれる」みたいな事が書かれている。

そんな事言われてもさ、俺、中学時代にはっぴいえんどの存在を知ってファーストをその後捜して聞いていたけど、周囲にファンなんていなかったからアルバムの事を「ゆでめん」なんて呼んでいる人もいなかったもん。
おそらく、はっぴいえんどが再評価されたのは、1980年に大瀧詠一が「A LONG VACTATION」で大ヒットして、細野晴臣がYMOで有名になり、松本隆が作詞家として有名になって、鈴木茂があちこちで編曲とかギターを弾くようになってからだと思うし、音として多くのひとが聞くようになったのは手軽に入手できるようになったCD時代以降だと思う。

ハッキリ言って、70年代後半から80年代前半、はっぴいえんどの音源を手に入れるのはかなり大変だった。小坂忠の参加した「はいからはくち」が収録されたベスト盤『CITY』とかシングルベスト盤とか、中古レコード屋を探し回ったもん。
そんなこんなで、大瀧詠一のアルバム『A LONG VACTATION』なんて吉祥寺のラオックスで予約して買ったクチなのだ。
でも「ゆでめん、あんまり興味無いッスか」と言われてしまったのだ。
だって、本当に周囲にはっぴいえんどが好きだとか(それ以前に名前すら)そんな事言う人どこにもいなかったんだもん。アルバムのタイトルの話なんてしたこと無かったんだもん。

あと、フリッパーズギターもファーストの段階から聞いていたけど「ファンは彼らの事をパーフリと言う」ってのにもショックを受けたなぁ。

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2009年5月 2日 (土)

平山三紀『ノアの箱舟』

平山三紀『ノアの箱舟』
作詞.橋本淳/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1971年10月25日/¥400
コロムビア/P-142


2009050201一般的には「ノアの方舟」と表記しますが、ここでは「ノアの箱舟」って事で。
この曲は1970年に「ビューティフル・ヨコハマ」でデビューした平山三紀が二枚目の「真夏の出来事」が大ヒットした後に出た、三枚目のシングル。
一般的には「真夏の出来事」「ビューティフル・ヨコハマ」辺りまでは有名なんですが、この曲も10万枚ほどの中ヒットしている。
いわゆるソフトロック路線で「真夏の出来事」よりはアタックは弱いけれど、ブラスも軽快な曲で、マイナー調で始まりサビでメジャーに移調して気持ちよくメロディーのテンションが上がっていく感じが「これぞ筒美京平」という感じなのだ。
平山三紀が歌っているのでその歌唱法に惑わされてしまうけれど、これはそのまま尾崎紀世彦に歌わせてもいいんじゃないかという感じのメロディ。ただ、平山三紀の少しザラついてクールな歌唱法のタメに暑苦しく聞こえないのだ。
しかし歌詞を読んでいくと不思議なことに「ノアの箱舟」をイメージさせる内容ではない。なぜこの歌詞がそんなタイトルになってしまったのか。

B面も橋本×筒美コンビの「心のとびらをノックして」なんですが、こっちもムチャカッコイイ曲。
曲中、サビに至る「♪好きよ I Love you, I Love you, I Love you, I Love you,♪」の部分が南沙織の『傷つく世代』の「♪だめね、だめね、私だめね、かわいそうに♪」の雛形という感じ(悪く言えば流用なんですが)で、グググッとメロディーのスピード感が増して来ます。
一曲の中でリズムをさほどいじらずにドラマチックに展開させるのは上手いよなぁ。
もちろん平山三紀というボーカリストのクセのある歌声は冴えていて、軽く少しハスっぱに歌う感じもマネが出来ないかっこよさで「あなた次第で変わるわ」という歌詞を「あなンた次第で変わァるわン」というニュアンスで歌う感じも、最強っす。
どっちかというとA面よりB面の方が好き。(「ドーナツ盤メモリー~平山三紀」というCDにはB面も収録されている)

別段、これと言って理由はないけどレコード棚にあったこの曲が目に付いたので本日取り上げてみました。

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2009年4月30日 (木)

ザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』

ザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』
作詞.山上路夫/作曲.佐藤勝/編曲.佐藤勝
1969年09月/¥400
日本グラモフォン/SDP-2043


2009043001昨日29日は「昭和の日」というワケの解らない祝日になっていまして、とりあえずどっかで昭和を祝ったんでしょうか?もう祝日ではなくとりあえず休み増やしちゃえって感じの日ですよね。
その前の「みどりの日」ってのもよく解らない名称だったけど、とりあえず「昭和天皇の誕生日」っす。
という事で、その昭和がタイトルに付けられた曲ってことで選んだのがこのザ・ブルーベル・シンガーズ『昭和ブルース』
いやぁ天気の良い祝日に相応しくないどんよりした曲です。
この曲は天地茂が「非常のライセンス」の主題歌として1974年にカバーしたバージョンの方が有名ですが、こっちがオリジナルバージョン。

2009043002いきなり「♪生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか♪」ですから。もうね、歌詞を読み込めば読み込むほどどんよりとしちゃいます。基本的には「何かをしなくちゃ生まれてきた意味がないんだ」と言っている歌詞なんですが、なんか結末は悲惨なモノが待っているかのような曲調で。
でも、昭和がタイトルに入った曲という事で思いついた『昭和枯れすすき』よりは前向きって事で。
このジャケットに写っているのは歌っているザ・ブルーベル・シンガーズではなく、この曲を主題歌として使った俳優座制作の映画『若者はゆく』の出演者。
左から佐藤オリエ、田中邦衛、山本圭、橋本功、松山省二の五人。
映画『若者たち』の続編として自主上映作品として1969年に作られた映画(ストーリーはここで)高度経済成長期の中でもみくちゃにされる名も無き労働者たちの苦悩を描いた作品。
なんか昨日の「昭和の日」ではなく、明日の「メーデー」に相応しい曲なのか?

2009043003しかし、この曲を今の若い人々が聞くと「演歌じゃん」と思ってしまうのかもしれないけれど、この時代は演歌的な物がジャンルとしてカッチリとしていなかったので、どの世代も普通にこういう曲を聞いていたのだ。
って、自分にとっては全然リアルタイムではないんだけど。
このザ・ブルーベル・シンガーズって、基本的にカレッジフォークのグループで元々は明治学院大学の軽音サークルが出発点で、岩崎稔・福家暢夫・関本裕司・笹島良一・林健一・井野信義という六人がオリジナルメンバーらしい。
B面の「杉の木の下で」は可もなく不可もなしの爽やかなカレッジフォーク。海が恋しちゃったり、青い海原群れ飛ぶカモメな感じの曲。それの作詞作曲が岩崎稔となっている事から、本来はこっちがやりたかった曲で、「昭和ブルース」のようなどんよりした感じの曲はお仕事として押しつけられたんだろうなぁ。

2009043004他にはヒットと呼べる曲はなく、末期に3人組になって、なぜか「月光仮面の歌」をカバーしている。
実はモップスが歌ったカバー曲「月光仮面の歌」が話題になった影響で、その後シャープファイブや寺内タケシとブルージーンズもカバーしている。その流れでのリリースなのかもしれないけれど。
そんなこんなで、この曲を聞きながら、先日まで放送されていたドラマ『銭ゲバ』のエンディング曲「さよなら」を思い出してしまった。あれが後々現在の大不況時代を思い起こさせる『平成ブルース』になるのかなぁ。

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2009年4月 2日 (木)

君のひとみは10000ボルト/堀内孝雄

2009040201君のひとみは10000ボルト/堀内孝雄
作詞.谷村新司/作曲.堀内孝雄/編曲.石川鷹彦
東芝EMI/ETP-10455
1978年8月5日/¥600


なんや最近ワケの解らん曲がテレビから流れておる、あの「君のひとみは10000ボルト」って曲なんや?人間の目ン玉から電気が出とるんかい、責任者出てこい!
と人生幸朗師匠が怒りまくっておりました。堀内孝雄のソロデビュー、1978年のヒット曲です。
このジャケットを見ても解るようにアーティスト名は『堀内孝雄[アリス]』で、まだアリスというグループがバリバリに活動中の作品。

すでにソロアルバムを2枚出していた段階の初ソロシングルなんですが、全編に流れるジャンジャカジャンカジャというギターといい、やけにエッジを感じない丸いドラム音といい、そのまんまアリスの曲って感じ。アレンジャーがアリスも担当している石川鷹彦なのでしょうがないかぁ、と思うんだけど、ソロで出す必要もあったのかなぁとも思う。作詞も谷村新司が書いているし。サビのコーラスが女性なのでそこはアリスと違うんだけどねぇ。

2009040204この2年後にサントリービールのCM曲としてリリースした「南回帰線」という曲も、滝ともはるとのデュエットで、これも「アリスでやったらいいんじゃないの?」という印象を持った記憶がある。
ちなみにB面の「故郷には帰りたくない」という曲は、その後の演歌歌手になる伏線みたいな曲。

もともとこの曲は資生堂のCM曲として企画され、その打合せの段階ですでにタイトル・サビ部分の『君のひとみは10000ボルト』という物が決まっていて、それに沿って作詞がされたという経緯がある。
その『君のひとみは10000ボルト』という言葉を考案したのはコピーライター土屋耕一氏だったのですが、その土屋氏が3月27日に死去したという事もあり、ふとこの曲を思い出してしまったワケです。

2009040202他にも土屋氏が考案し、それがCM曲になった物では竹内まりや「戻っておいで、私の時間(伊勢丹)」「不思議なピーチパイ(資生堂)」、ナイヤガラ・トライアングル「A面で恋をして(資生堂)」、ダウンタウンブギバンド「サクセス(資生堂)」などがある。
ペドロ&カプリシャスが歌った資生堂のCM曲「青いはばたき」では作詞までしている。ちなみにこのレコードは販促のみの非売品でB面の「コロン・オア・ティ」という曲も土屋耕一氏の作詞。
そしてB面には2本の溝が刻まれていて、1本は立木リサが歌っているVer.、もう1本には愛川欽也が歌っているVer.が収録されている。どちらが掛かるかは時の運でそれによって吉凶を占うというお遊びレコードになっているのですが、愛川欽也Ver.が掛かると「凶」だそうで、ってキンキンが可哀想でやんす。

2009040203CM以外では明治製菓の「おれ、ゴリラ。おれ、社長の代理。おれ、景品」というのがあった。もちろん自分は子供すぎてそのコピーの秀逸さには気付かず、景品のゴリラが欲しくてしょうがなかったワケですが。
土屋耕一氏は1930年生まれという事なので『君のひとみは10000ボルト』を書いた1978年には48歳。前述の曲タイトルになった物もほぼ同時期の作品なので、凄く勢いがあったんだなぁと感じるのと同時に、その曲が流行っていた頃自分は学生で、曲を書く作業を必死になってやっていたので、知らぬ間に影響を受けていたんだなぁと思うワケであります。英語に逃げずに、当たり前の単語でインパクトを出すってのは本当に難しい。
土屋耕一氏のご冥福をお祈りすると同時に、数々の素晴らしい言葉に感謝致します。

ちなみに、10000ボルトって大袈裟な!と思いがちなんですが、静電気が3千〜1万ボルトで、真冬にありがちなバチッと音がして「うわっぁ!」と叫んで手が痺れるレベルの静電気なので、「死にはしない」って感じの衝撃っすかね。落雷で10億ボルト。
2005年、オーストラリアでウールのシャツに合成ナイロンのジャケットを着た男性が大量の静電気を帯電させ、ビルに入った途端に爆発音と共にカーペットを焦がし、それでも放電しきらずに、逃げ込んだ車のプラスティック製品を溶かしたという事件が発生している。その後も放電し続けるジャケットを計測した所、4万ボルトの静電気を帯電していたらしい。
とりあえず10000ボルトでも心臓が弱くないかぎり大丈夫ではないかと、危険なのは電圧ではなく電流っすよね。

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2008年11月10日 (月)

フランク永井「WOMAN」

フランク永井「WOMAN」
作詞.山下達郎/作曲.山下達郎/編曲.山下達郎・乾 裕樹
1982年/¥700
ビクター/SV-7222


200811100110月27日にフランク永井が亡くなったというニュースを聞いて、不謹慎ながらまだご健在だったのか!と思ってしまった。
1985年に愛人問題のもつれから自殺を図った事により言語関係に障害を抱えるようになり一線を退いて23年。昭和の終わりからずっと療養生活だったそうで。
自殺未遂からの20数余年は色々あったみたいですが、その後はどうなっているかは不明だった。
牧伸二を数年前、久々に見た時に「♪フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低脳の魅力♪」と歌っているのを聞いて「未だにそれかい!」と思ったんですが、確かに「フランク永井=低音の魅力」は代名詞だったよなぁ。

この山下達郎が1982年にプロデュースした「WOMAN」は、凄く軽快で気持ちいい曲。
この曲がリリースされたのと同じ年、山下達郎は近藤真彦に「ハイティーンブギ」なども提供しており(ついでに竹内まりあと結婚)、自分で歌う以外に他人をプロデュースするという方向を考えていたのかも知れない。
でも山下達郎とフランク永井は全然違うフィールドの人という印象だった。

2008111002どちらかというとフランク永井=ムード歌謡のイメージばかりで「有楽町で逢いましょう」を始めとしてしっとりと歌い上げる曲がすぐ思い出されるんですが、実はフランク永井の音楽はジャズから始まったという事で、ポップスも得意としている。
代表曲「君恋し」もちゃんと聞くとロカビリーぽい味付けがされているのだ。この曲のオリジナルは昭和4年に二村定一が歌ったモノで、フランク永井Ver.ではバックのピアノがちゃんとロカビリー系三連を刻んでいるし、ベースがスタッカート気味で凄く気持ちいい。ちゃんと聞くとムード歌謡なんて小さなジャンルで収まってはいないのだ。
しかしフランク永井の歌は低音の魅力もありながら凄く軽い。この重さで軽いってのは才能なんだろうなぁ。
そういう意味でちょっとミスマッチのようでもあるけど、山下達郎とフランク永井の繋がりは無理がないのかも知れない。

2008111003でも、贅沢な事を言えば「WOMANという曲は、なんかイマイチお互いの魅力を出し切っていない」という感じ。
山下達郎の高揚感のあるポップス趣味と、フランク永井の低いけれど軽快な歌声が完全に融合していない。互いに探り探りやっているような気がしてしまうのだ。
まだ1982年当時、山下達郎は大御所にまで上り詰めていない新進気鋭のアーティストだったので、超大御所歌手フランク永井を徹底的に作り直す事は出来なかったって事なんじゃないかなぁ。(ジャケットデザインは遊び倒していますが)

ちなみに「ムード歌謡」というジャンル、未だに当時から引き続いて活動中のグループはいますが、世間的には終わったジャンルのような扱いなんでしょう。しかし実際には形を変えて生き残っている。
それがビジュアル系と呼ばれているバンドの曲。
とりあえず連中にとってはスローバラードのつもりなんだろうけど、明らかにロックテイストが希薄で、演奏でドラムを倍速で加えたり、ディストーションでギュゥィンと入っても、そこにコーラスでも入れば一瞬にして夜のネオン街のムードになってしまう曲が異常に多いのだ。
とりあえずメイクをしているので「ビジュアル系」とか言われているけれど、80年代末から90年代初頭は『耽美派』と呼ばれていた。が、それらを支持する人々が「耽美」という言葉を読めないし意味も理解出来ないので「ビジュアル系」という名前に変わっていったもの。
あと、70年代末、高校時代に友達が「演歌とかムード歌謡ってダサイよな」とか言いつつ、当時流行っていたヤマトの主題歌「真っ赤なスカーフ」を歌っていたのを「それがまさにムード歌謡なんだが」と指摘した事もある。なんだかんだ言ってみんなムード歌謡好きなんだよ。
自分は嫌いだけど。

2008111004ちなみにフランク永井の代表曲「有楽町で逢いましょう」は、関西系だったそごうデパートが東京進出の際にメディア戦略として、大映で映画『有楽町で逢いましょう』を制作した時に、その主題歌として創られた曲。
しかも最初は、当時・西鉄ライオンズにいた豊田泰光が歌う企画だったモノが、色々あってフランク永井になった。
推測でしかないけど、そごうデパートが讀賣会館のテナントだったので西鉄の選手はダメって事だったのかな?
筒井康隆が『笑犬樓』シリーズ(〜よりの眺望だったか、〜の逆襲だったか)で歌詞の「濡れてこぬかと気にかかる」が「濡れて小糠と気にかかる」に聞こえると書いていたけれど、どうやらあそこの歌詞はもともと「小糠雨」との掛詞になっているらしいです。

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2008年9月28日 (日)

ピンクレディー「サウスポー」

ピンクレディー「サウスポー」
作詞.阿久悠/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1978年3月25日/¥600
ビクター/SV-6372


2008092801『王貞治 引退宣言記念』ということで歌詞の中に出てくる強打者が王さんをイメージしているピンクレディー「サウスポー」を。
背番号1の凄いヤツが相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で

この曲がリリースされたのは1978年のシーズンが始まる直前。前年1977年9月3日に王貞治は通算756号ホームランを打ち、ハンク・アーロンの記録を抜いて世界一になっている。そして国民栄誉賞1号を授与している。
自分は基本的にスポーツに関してはあんまり興味がない人で、贔屓にしているチームとかは無いんだけど、この時は興奮したし、王貞治という選手をリアルタイムで知っているのは自慢できるのだ。
とにかくこの曲がリリースされた時が王貞治という選手の最高潮の時期で、1980年に選手引退している。

ただ残念なのがこの曲の2番の歌詞が
背番号1の凄いヤツが笑う
お嬢ちゃん投げてみろとヤツが笑う

となっているという事。実際の王選手は闘志は人一倍あったんだろうけれど、それを表情には出さずに、ホームランを打った時でさえ「負けた人もいるんだから」と大喜びするような事が無く、常に対戦する人にも敬意を表しているので、歌詞のようなふてぶてしい態度は取らないのだ。
とりあえず「背番号1」で「フラミンゴ打法・一本足打法」というキーワードは出ているが王貞治という事は書かれていない。しかし、この詩を書くに当たって阿久悠は王貞治の自宅に直接電話をして敵役として登場させる了解を取っている。そして王貞治が阿久悠に直接逢った時「僕のことを詩に書いてくれてありがとう」と感謝したそうです。

実はこの曲、最初「サウスポー」というテーマで曲を作りレコーディングまでした時、ディレクター飯田久彦が「何かインパクトがない、勢いがない」とダメ出しをしたという。(事務所社長の相馬一比古がダメ出ししたという話もある)
実はタイトル自体はすでに1月の段階で芸能週刊誌の記事として「ピンクレディ、次のシングルタイトルは『サウスポー』だ!」と騒がれていたために別の曲を持ってくる事も出来なかった。(そんなのが大々的に記事になるほどピンクレディは爆発的に売れていたワケですが)
そして都倉俊一にもっとテンポのいい曲を書くように命じ、出来た曲にレコーディングの前日、阿久悠が新たに詩をつけ、今知られてる「サウスポー」が誕生している。
その判断が「オリコン初登場1位」「オリコン9週連続1位」という記録を達成した。

1月の週刊誌で「サウスポー」のタイトルがリークされているという事は前年末には「サウスポーのピッチャーが活躍する曲」というイメージが出来上がっていたんだと思うのですが、その前年テイタム・オニール主演で映画「がんばれベアーズ」が大ヒットしていたり、アメリカでポール・R・ロスワイラーが書いた小説「赤毛のサウスポー」が話題になっている。
これらが多大なるヒントだったのではと思うのだ。
ついでに女性サウスポーと言えば水原勇気が活躍する漫画『野球狂の詩(水島新司)』がある。
雑誌連載は1972年からですが、やはり前年1977年に木之内みどり主演で映画化され、さらに同年アニメ化もされている。

現在でも「サウスポー」は高校野球でブラスバンドがブカブカ演奏する曲としてお馴染みで、夏の大会で演奏された曲順位では2007年は23校で3位、2008年は28校で4位となっている(同時に2007年4位、2008年3位が同じ阿久悠・都倉俊一コンビの「狙いうち」ってのも凄いですが)。
ちなみに「サウスポー」を一番最初に応援歌として使ったのは群馬県の桐生高校。この時のピッチャーがサウスポーだったので使ったのですが、初めて使われた大会が1978年春の選抜大会との事。
つまり3月25日にリリースした曲を早速使うという早業なのだ。
でも野球の応援って、攻撃をしているチームが演奏するんじゃなかったけ? だとすると魔球でキリキリ舞されちゃう曲はどうか?って事です。
しかし、リリースから30年間、今でも演奏され続けているって凄い。

その理由のひとつに、今でも人々の記憶に鮮明に残っている王貞治という人物が歌われているというのも大きいんじゃないかと思ってしまうのだ。

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2008年9月17日 (水)

フィンガー5「恋のダイヤル6700」

フィンガー5「恋のダイヤル6700」
作詞.阿久悠/作曲.井上忠夫/編曲.井上忠夫
1973年12月5日/¥500
フォノグラム/FS-1776


2008091701ジャケ違い(第11弾)
別に深い思惑もなく「ジャケットの図柄が違うレコード」というテーマで書き始めたのですが、困った事になってしまいました。
実は、ここに来て「ちゃんと音楽の話を書くために所有レコードを整理しないといけない」と思い立ち、箱にしまい込んでいた物などを一気に広げて、歌手を50音別に整理し始めています。
その中で「ジャケ違い」を意識して見ていると、思った以上に多くが発見されてしまいます。
自分でもいくつか元ネタとして知っていたのですが「あぁこれも」「これもだったか」と、ジャケ違いを切り無く続けていると、数ヶ月に渡る大事業になってしまう事が判明。という事で、ひとまず今回でジャケ違いシリーズは休止。
そしてまたしてもフィンガー5なんですが、このジャケ違いは「難易度Dクラス」です。とりあえず2箇所の違いがありますが見つける事は出来ますか?(色の濃さは印刷ロットの差なので関係無いッス)

2008091702答えの前にこの曲について。
「恋のダイヤル6700」は「個人授業」に続くフィリップスでの2曲目で、共にミリオンセラーになっている。
今や懐かしいジリリリリリンという電話の音から始まり、ハロ〜ダーリンという妙子(当時、小5)のセリフで始まるこの曲は、都倉俊一の「個人授業」がジャクソン5などのモータウンサウンドを多分に意識したのに比べ、井上忠夫が古いスタイルのロックンロールを現代風解釈でポップスに仕上げてる。
当時の月刊明星に『フィンガー5物語』が掲載されたのを読んだことがあるけれど(他の学年誌などにもそれぞれ別物が掲載されていたらしい)、この当時の芸能界は基本的に子供向けのポップスというのはほとんどなく、アイドルポップスも内容は大人向けで、このフィンガー5のように学園生活を歌う物は皆無だった事から阿久悠が仕組んだとされている。

しかし、子供をターゲットに子供が歌うグループは基本的に賞味期限が短くなってしまうのは致し方がない事。ハイトーンボイスが特徴だったアキラもいつしか声変わりという儀式を迎える年齢になり、次第に無理が出てくるようになる。
以前、見た番組では女性ホルモンを注射することで声変わりを抑えるかを悩んだ、という物をやっていた。
しかしアキラが声変わりをするのよりも早く、浮気な子供達は自分の成長と共にフィンガー5を過去のものとしつつあった。「個人授業」のヒットから2年後、1975年11月に「音楽の勉強」という名目で全員が休養&渡米しているが、すでにその頃は周囲ではほとんど話題になっていなかったと思う。
個人的にはその渡米直前に出した「帰ってくるよ」というシングルは、フィラデルフィアソウルっぽい感じで好きなんですが、知っている人は少ないだろうなぁ。

で、ジャケ違いなんですが、まず違うのは左側の黄色い部分にある「フィンガー5」という赤い文字の下、1枚目は(唄)ですが、2枚目は(片面)になっている。
もう一箇所はタイトル『恋のダイヤル6700』という文字が全体的に2枚目の方が下がっている(黄色い「恋のダイヤル」が約6mm、赤い「6700」が約3mm下がっている)。左にあるレコード番号は同じ位置なので比べると解りやすい。

2008091703この違いに関しても推測の粋を出ないのですが、おそらく1枚目が初期盤でタイトル位置が上すぎてデザイン的に格好悪い、というのが理由じゃないかなぁ。ちょっと断ち位置に近すぎる。
普通の人は気にしない部分かもしれないけれど、編集などをやっていた身としては非常に気になる。

で、実はこのジャケットにはもう1箇所違いがあって、裏面でB面を歌っているのが1枚目では「フィンガー5」というクレジットなのに対し、2枚目では何故か「フィンガー5の三男 玉元正男」となっている。確かに正男のソロ曲なのですが、なぜわざわざソロ扱いにしたんでしょうかね?
レコード盤の方までには気が回っていないのか、名義はフィンガー5になっていますが。
てなワケで、ジャケ違い第11弾でした。(ネタは山のようにあるので、時々やるかも知れません)

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2008年9月 9日 (火)

フィンガー5「個人授業」

フィンガー5「個人授業」
作詞.阿久悠/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1973年/¥500
フィリップスレコード/FS-1757


2008090901ジャケ違い盤です。
1枚目は見開きジャケットで裏面にフィンガー5の写真があります。おそらくこちらが初期盤で、2枚目はジャケットが1枚の紙になった為、裏面の写真を表にもってきたという感じです。
しかし、なぜ水島新司なんですかね?
このシングルが出たのは1973年で、前年より「ドカベン」が始まっていて(まだ柔道マンガの頃?)、1973年から「あぶさん」が始まった頃なので、とりあえず人気があったんだろうけれど、なぜフィンガー5に水島新司なんだろうか。
見開きジャケットの内側には、水島新司がこの兄弟の誕生からデビューに至るまでのストーリーを10コマ漫画にしている。
もっとも、最初は「ベイビーブラザース」という名前でデビューしたとかの話は無く、フィリップスからデビューする前に「フィンガー5」名義で(キングレコードかな?)「キディキディラブ」というシングルを出しているという話は一切なしで、長いレッスンを経てついにこのシングル「個人授業」でデビュー!という話になっている。
ちなみにこのシングルの時点でメインボーカルのアキラはトレードマークの眼鏡をかけていない。

2008090902で、このシングルなんですが、出だしがシュワシュワシュワという感じにベースに思いっきりフェイザー(フェイズシフター)を掛けていて、その音色だけで気分が高揚してくる。
子供の頃、このレコードを聴いた時に何か異質な感じを受け、それがずっと引っかかっていたんですが、後にそれが判明した。
このシングル、録音技術が異常に高いんですよ。今聞いても凄いんですが、この時代の歌謡曲としては異例のドラムが完全にステレオ録音になっている。
1973年と言ったら、歌謡曲は「わたしの彼は左きき:麻丘めぐみ」「色づく街:南沙織」辺りがポップな曲なんですが、ドラムはおそらくモノラル録音。特に「わたしの彼は左きき」なんて出だしがドラムソロでドッドスドドドッと始まっているのに、完璧にモノラル。でも当時はこれが当たり前だったんですよ。
ところが「個人授業」ではドラムのタムがスタッタムタッと右から左に流れる。ちょっとリズムがモタっている感もあるけど、なんでこんな録音がこの時代に出来ているのだ?と思ってしまう。

さらに重厚なブラス(当然、生ホーン)もステレオで左右に広がりフィンガー5の後側からうわぁぁんと被さってくる。もちろんフィンガー5のコーラスも「何故に?」と思うぐらいにステレオ感を感じる。
数年前に出た「Finger5 Golden★Best」というCDでは、オリジナルカラオケも収録されていて音だけに集中して聞くことが出来る。
その演奏と録音技術、そしてミキシング技術はいったい何?という感じで、ほとんどオーパーツを発見した冒険家のような心持ちで何度もカラオケだけを聞き直してしまうのであります。

が、「Finger5 Golden★Best」には他にも「恋のダイヤル6700」と「学園天国」のカラオケも収録されているんですが、こっちはドラムはモノラル録音。「恋のダイヤル6700」は他の楽器はそれなりのステレオ感なんですが、「学園天国」に至ってはステレオで聞く必然性まったく無い録音になっている。完奏部分ではドラムソロもあるのに、普通にリバーブが掛かっているだけで「個人授業」の様な高揚感のあるフェイザーなんてどこにも無い。(逆に「恋のアメリカンフットボール」のドラムには掛けすぎていて、腰がないフシャッフシャッという音になっている)
うーむ、この「個人授業」だけが何もかも異常にレベル高いってのは何なんだろう。
そして、それに応えるようにアキラのボーカルもテンション高く、完奏部分でのシャウトが当時12歳だったとは思えないほど完成されている。

2008090903この曲は阿久悠・都倉俊一コンビなんですが、この二人は山本リンダ→フィンガー5→ピンクレディという流れで日本中にディスコ歌謡を浸透させていくのですが、実は「個人授業」には元ネタがあって、山本リンダの「狂わせたいの」のB面「もっといいことないの」という曲が、あきらかに同じメロディ、同じコード進行で作られている。ベースなんかも少し大人しめだけどそのまんま。
B面と言えば「個人授業」のB面「恋の研究」は長男・玉元一夫の作曲で、こっちもムチャクチャ良い曲。
ジャクソン5の影響受けすぎって感じではあるんですが、単純にアキラのボーカルを活かすにはどうしたら良いかという事を前提に作られた曲で、出だしのフッフゥンヒッゥ〜♪というフリーキーなボーカルにやられちゃいます。録音はA面と同じように高水準で、今聞いても全然古くない。

このブログでは、普通に音楽を聴いている人に楽しんでもらいたいので音楽技術的な話はあんまし書かないつもりなんですが、この曲に関しては興奮してしまいます。いかんいかん。
今回これを書くために聞き直した時も、10回以上リピートしてしまった。
自分はこの曲を小学校の時に聞き、その後の70年代ソウルブームも経験しているんだけど、この曲以上に音も歌もカッコイイ曲は無いんじゃないか、と今でも思っているのだ。

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2008年8月28日 (木)

ピンクレディー「波乗りパイレーツ」

ピンクレディー「波乗りパイレーツ」
作詞.阿久悠/作曲.編曲.都倉俊一
1979年07月05日/¥600
ビクター音楽産業/SV-6590


200808281夏シングル第10弾。
ピンクレディーというとオリコン1位、どの曲も100万枚突破、という実績が伝説として語り継がれている。
デビュー曲「ペッパー警部」は最初は色物的な扱いで初回プレス8000枚。当時「ウワサのチャンネル」は今月の歌としてエンディングにちょっとオカシイ曲を毎回チョイスしていた。「うわさの小唄」とか「愛の狩人」とか。その中の1曲として1976年9月頃に番組に1ヶ月通して出演した事がある。
エンディングでこの曲を歌い、例の踊りを始めるのだが、曲の途中から二人の周囲に和田アキ子を始めあのねのね・せんだみつお・湯原昌幸・デストロイヤー・マギーミネンコなどが集合して、その振りを真似して踊っていた。本当に色物という扱いだったような気がする。

実は当時、自分は「スター誕生」を見ていなかったので、ピンクレディがその番組出身という事も知らずに、ミニスカートであの特徴的な足をがに股に開いて踊る姿を見て、子供心に「大変だなぁこの二人も」と思っていた。
それが、暫くしてこの曲が爆発的に売れ(新世代の「若いおまわりさん(1956年:曾根史郎)」と称した司会者もいたけど)、最終的には105万枚売れた。
そこから怒濤の快進撃が始まり、出す曲出す曲オリコン1位、100万枚突破となった。
自分の記憶の中では2曲目の「S.O.S」がリリースされた当時、すでにクラスの女子が放課後、一生懸命振り付けを練習していたので、かなり早く中学生などには浸透していた。

B面は「ハローミスターモンキー」のカバー
200808284が、栄枯盛衰。いつしかその人気にも翳りが訪れる。1979年発売のジパングでそれまでデビュー曲以来続いていたオリコン1位記録がとぎれる。といっても実際にはそこそこ売れていたハズだが、それまでの凄さがあった為に「もう人気も低迷」というニュアンスで語られるようになる。(売上げも初めて100万枚を切った)
その次が初の阿久悠×都倉俊一ではないヴィレッジピープルの「In The Navy」のカバー「ピンク・タイフーン」。おそらく、このカバー曲でさらに失速感を増した所でこの『波乗りパイレーツ』の発売となった。
当時、自分はピンクレディー派ではなく、どちらかというとキャンディーズ派だったので、この曲に関しては「サーフィン物はすでに「渚のシンドバッド」でやってるジャン」と冷ややかな目で見ていた。

A面B面共に「波乗りパイレーツ」で、A面は「日本吹込盤」で通常Ver.なのですが、B面が「U.S.A吹込盤」となっている。今では1枚のマキシシングルにアレンジ違いの曲が収録されるのは多く見かけますが、この時代は珍しい。しかもそのメンバーがムチャ凄い。
〈U.S.A.吹込みメンバー〉
☆コーラス
・マイク・ラブ(Mike Love)
・ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)
・カール・ウィルソン(Carl Wilson)
・ブルース・ジョンストン(Bruce Johnston)
・ポール・フィエルソ(Paul Fauraso)
つまり、ビーチボーイズなんですよ。
こんな凄いことなのに、契約の関係なのかジャケットにもライナーノーツにも一言も「ビーチボーイズ」という文字が出てこない。

レコーディングはビーチボーイズの通常レコードと同じように、演奏を普通に録音した後、マイク・ラヴがサンタバーバラの自宅にあるスタジオでメンバーのコーラスを録音。それに合わせてピンクレディがアメリカに渡りボーカルを吹き込んだということで、ピンクレディの二人はビーチボーイズのメンバーには会っていないという。
おそらくビーチボーイズもお仕事の1つとして与えられた曲を演奏&コーラスを入れて、あとはもう忘れていると思う。
それでも「ピンクレディがビーチボーイズを従えて録音した」という事で当時の音楽雑誌などには書かれていたと思う。

「Kiss in the Dark」日本発売盤
200808282何かの記事で読んだものでは、当初はそのU.S.A盤でシングル発売する予定だったのが、出来上がってきた物を聞いた所、なにかテンポがスローで勢いがない。そこで帰国後すぐ都倉俊一が編曲した物で録音し直した。という事だった。(これは後から考えられた話だとも聞いたことがある)
確かに、かなりテンポが違っていてB面はサーフィンというよりスキップみたいな感じなのだ。
秒数だけでもA面3分44秒、B面4分29秒と、B面の方がノンビリしている。
でも、曲後半からビーチボーイズの全力投球のコーラスが展開するんですが、これがとにもかくにも豪華。
しかし日本版のコーラスも捨てがたい部分が多く、ビーチボーイズが「♪う〜う〜ぃぅ〜」ばかりなのに対し、さびの所で「♪パ、パ、パ、パイレーツだよパイレーツ」などという「なんじゃそりゃ」という部分がある意味、味になっています。

「Kiss in the Dark」U.S.A.発売盤
200808283実はこの曲でビーチボーイズと仕事をした(接触は無かったが)、アメリカで録音したというのは、その後の展開に関係していたのかも知れない。
この2ヶ月前に出したシングルが洋楽カバーで「ピンク・タイフーン」。
そして、「波乗りパイレーツ」の2ヶ月後に、全米デビューをシングル「KISS IN THE DARK」で果たしている。
このアメリカ寄りの仕事はその布石だったのかもしれない。
しかし、その全米進出の思惑とは反比例して日本での人気急落は加速度的に早まってしまったのですが。

でも、この時ピンクレディは「KISS IN THE DARK」でビルボードの37位にランクインしている。当時、自分は友人と「日本では1位を取っていたけどさ、アメリカじゃ全然ダメだね。頑張ってせいぜい37位だってさ」とちょいとバカにしていた。
しかし、ビルボードの日本人記録は1位を獲得した坂本九「スキヤキ:上を向いて歩こう」は例外として、実は現時点ではピンクレディがもっとも上位にランキングされた歌手なのだ。
1980年:YMO「コンピューターゲーム」60位
1981年:横倉ユタカ「ラブ・ライト」81位
1990年:松田聖子&ダニーウォールバーグ「ザ・ライト・コンビネーション」54位
がそれ以外の日本人アーティスト記録。

実際にこの曲はアメリカ進出準備もあったので、あまりテレビで歌われる事も無く、その影響でヒットした印象もあまり無いが、改めて聞いてみるとかなり良い曲ですな。

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2008年8月22日 (金)

堀ちえみ「真夏の少女」

堀ちえみ「真夏の少女」
作詞.中里綴/作詞.編曲.鈴木茂
2008年06月/¥700
キャニオン/7A0185


200808221夏シングル5弾。
「夏を歌っている歌手」とイメージすると、一般的にはサザンやTUBE、アイドル歌手ではハワイ出身の早見優とか色々いると思いますが、実は堀ちえみという人も夏を代表する歌手です。
というのもアイドル時代に22枚のシングルを出しているのですが、その内、タイトルに「夏」という文字が入っているのが5枚。「真夏の少女」「夏色のダイアリー」「青い夏のエピローグ」「ジャックナイフの夏」「夏咲き娘」。それ以外にもデビュー曲が「潮風の少女」だったり、「稲妻パラダイス」とか、夏祭りをイメージした異色な「Wa・ショイ!」とか、なんかやたらと夏よりの曲が多い。

200808222実は自分は堀ちえみという歌手にあんまり興味がない。タイトルを見て「お、堀ちえみを扱っているじゃん」とやってきたファンの方には申し訳ないんですが。
なんかキャラも華がなく、常に垢抜けない感じがしちゃって、フォフティーズ風のドレスとかで歌っている時もなんか貸衣装で着飾っている田舎の子的な痛々しさを感じていた。
歌もなんか平均点で突出した部分もなく、声質もコレと言った部分が無く、ついでにダンスも上手とは言えず、とりあえず振り付けの順番通りに体を動かしていますという感じで、そして歌もコレと言った感じがなく…。
いかん、書けば書くほどダメ出しばかりの文章になってしまう。

200808223個人的なイメージでは「平凡で地味な女の子」という印象だったので、あんまり夏がどうした、海がどうした、というリゾートポップスではなく、学園生活とか日常に密着した曲を歌ったほうがいいんじゃないかと思っていた。当時はアイドル全盛時代でキラキラと突出したあり得ないイメージへと飛躍する人が多かったので、その逆路線の方がよかったのでは?と。
もっとも、彼女の代表作は歌ではなく、ドジでノロマな亀と言われていた「スチュワーデス物語」というドラマだった。このドラマは表面上は熱血お仕事系ドラマだったが、70年代の熱血を80年代に入ってナナメ裏から見て、熱く展開する物語や登場人物の言動を「そんなのありえねえ」と笑う図式になったドラマだった。

200808224困難の状況が常に「ありえねえ」で、それを熱血で乗り越える姿も「ありえねえ」という、すべてをギャグ的に見る時代だったのだ。
その中で、垢抜けない堀ちえみは、これ以上無いほどに垢抜けずすることなすこと鈍くさい主人公を演じ、大ヒットとなった。
なんか個人的にあまり興味が無かった部分もあるんだけど、常に「どういう方向に行きたいんだろう」というのが見えないまま、途中後藤次利とのスキャンダルを挟み、20歳の時に結婚引退をした。
なんか「鈍くさいイメージ」「垢抜けないイメージ」が最後までしていたので「あんた芸能界で揉まれるより平凡な主婦になった方が良いよ」と思っていた。

200808225と思ったら、出産直後に「堀ちえみのあこがれママ日記 妊娠・出産・子育て」という本を出して、結構したたかだなぁと思っている内に3人目の子供を出産し、気が付けば「堀ちえみの子供大好き!愛いっぱい 3人の子育てママ日記」とか「堀ちえみと3人の小さな山男」という3人の子供を育てる話を書いた本を出し、さらに子供の親権をめぐって揉めたかと思っていたら、再婚して2人も子供をつくり、現在5人の親としてテレビにも出続けている。

1982年に垢抜けない純朴さをそのままにデビューした時は、こんなにたくましく芸能界で生き続けるとは誰も想像してなかっただろうなぁ

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