2008年12月20日 (土)

猫「雪」

猫「雪」
作詞.作曲/吉田拓郎
1972年/¥400
CBSソニー/SOLA 39-0D


2008122001タイトルを見て、これがグループ名と曲名だと思った人は少ないんじゃないかと。
「猫」というグループが歌う「雪」という曲です。
この「猫」というグループは1970年代初頭に吉田拓郎のバックバンドをしていて、メンバーは「海も失恋すんのかなあ/涙をいっぱいためるのかなあ/だけどあふれだしたら困っちゃうな/だってオレ 泳げないんだもん」というセリフで売れた「海は恋してる」を歌っていた「ザ・リガニーズ」の内山修&常富喜雄、そして「ジ・アマリーズ」の田中清の3人。って共にグループ名は「ザ」をつかったお遊びで付けられているのか。(ザリガニ&字余り)
どうやらグループ名を付ける時に、ビートルズを始めとして動物や虫など生き物系が多いということで、最終的に「猫」という物に決まったらしい。

1971〜1972年の1年半ほど吉田拓郎のバックバンドを勤めているが、その次の吉田拓郎のバックバンドが浜田省吾がドラムを叩いていた「愛奴」。そういう意味で、拓郎がバックバンドを引き連れ、徐々にロック寄りになっていく手前のグループなのだ。
そういう関係でこの「雪」という曲は吉田拓郎の作詞作曲で、ややフォークロックぽい仕上がりになっている。

凄くいい曲なんですが、曲はバリバリ拓郎節で「拓郎のカバー」という感じで、同じ拓郎作詞作曲のモップス「たどり着いたらいつも雨降り」みたいな、オリジナリティはあまり感じないのが残念。いや、ボーカルの田口さんの声は好きで、解散後に出したソロも好きなんですが、なんか拓郎色が濃すぎで。
で、演奏の方はというと、やはりバックバンドなので良い感じ。ギターの音色とかハモンドオルガンとか気持ちいい。と思っていたのが、調べてみるとイントロのニュオ〜ンという感じの印象的なギターフレーズはゴールデンカップスのエディ潘が弾いていて、オルガンは松任谷正隆が弾いている。
う〜ん。

この曲の歌詞についてはかつて『もとまろ「サルビアの花」』でストーカーソングだと書いています。

猫は今年の3月に久々の再結成をして「猫5」というアルバムを出している。
というのも、実は1991年にメインボーカルを勤めていた田口清さんが自転車で坂道を降りている時に、つまずいた際、一緒に乗せていた子供をかばうために無理な体勢で倒れた時、頭を強打して亡くなっているのです(享年42)。
そして2004年に十三回忌法要があり、メンバーが集まった事がきっかけとなって再結成に至ったという。
自分はその再結成アルバム発売の時にはじめて田口さんが亡くなっている事を知りショックを受けたわけです。なんせこの「猫」はリアルタイムでは聴いてなく、田口さんがやっていたオールナイトニッポン(曜日は忘れたけれど二部です)の放送でだったので、自分の中では「猫=田口清」となっていたので。

そんなこんなで、寒い冬、風にエリを立てて居る時に、ふと思い出して口ずさんでしまう曲でやんす。

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2008年12月 4日 (木)

野口五郎「針葉樹」

野口五郎「針葉樹」
作詞.麻生香太郎/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1976年9月10日/¥600
ポリドールレコード/DR-6040


2008120401新御三家と呼ばれていた野口五郎は郷ひろみ・西城秀樹に比べ実に地味な存在でした。
郷ひろみがカワイらしい人気を独り占めにしてステージングもショービズな展開をして、西城秀樹が男っぽい人気を独り占めにしてステージングをハードなロックテイスト展開をしている中、野口五郎はなんか頼りなげでいつも困った表情をしていたような印象だった。

デビュー曲はバリバリの演歌『博多みれん』で3人より歌は上手いというふれこみだったんだけど、なんかいつもオドオドしているような弱さを感じていた。良い言葉で言えば「ナイーブ」っぽかったんだけど。
それがいつの間にか「音楽志向」ということで自宅にスタジオを作りギターコレクションが凄くて、リー・リトナーとセッションをして、ロスで自らプロデュースしたアルバムを作って…、とどんどんマニアックな方向に野口五郎は進んでいった。
とりあえずギタリストとしては『真夏の夜の夢』でヒット曲を出すんだけど、今はその時の仕草をマネしたコロッケの芸でしか思い出せなくなっている。

嫌いではないけど常に「中途半端感」が漂っている。そう言う意味では三井ゆりとの結婚もそうだし、その後の子供の話を嬉々として語る野口五郎も、常にブレていないという事かも知れない。常に3人組の3番手というポジション。

で、この「針葉樹」という曲ですが、当時はポップスとして聞いていたハズなんですが、改めて聞くと演歌ですなぁ。演歌と言っても筒美京平が編曲までやっているのでストリングスのキラキラ具合はよく考えられていて、サビのブレス直後に細かいビブラートを聞かせたバイオリンがサッと入ってくる所なんか「筒美京平ここにあり」という感じなのだ。最近の演歌は本当に70年代でアイディアが出尽くした感があって売れないのもしょうがない。
最近の演歌は結局、歌手の企画でしか売れないような状態なんだけど、別に伝統芸能として保護対象にするつもりではないのなら、もっと音楽的にアイディアを盛り込んだ方がいいんじゃないかなぁとこの曲を聞いて思ったりするのだ。

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2008年9月20日 (土)

中山千夏「あなたの心に」

中山千夏「あなたの心に」
作詞.中山千夏/作曲.都倉俊一/編曲.大柿隆
1969年9月/¥370
ビクターレコード/SV-1056


2008092001別段、秋は関係ない曲です。
でも、空気がサラサラして風が気持ちよくなってくると、ついつい風通しがよい曲を聞きたくなってくる。という事で、ふと口ずさんでしまったのが「あなたの心に」。
自分的にはあまりリアルタイムではないのですが、中学時代に手にした歌本に掲載されていたこの曲は好きでよく歌っていた。
中山千夏の声は物心付いた時にはすでにテレビから流れていて、「ひょっこりひょうたん島」のハカセの声としてもっとも深い記憶に刷り込まれているせいなのか、この曲を聞くとメロディの優しさと同時に声だけで幸せな気分になってしまう。
この曲は何人もカバーしていますが、どの曲もなんか違う。中山千夏の「♪私ひィッとりで〜吹かれッてみたいなぁ♪」のフレーズで聞くことが出来る微妙に笑っているような声質を超える事は出来ないと思うのだ。

「ひょっこりひょうたん島」は1964年から1969年まで1224回も放送されたけれど、現存しているテープはたったの8本。同じように名作と言われているのにDVD化も出来ない中山千夏主演ドラマに「お荷物小荷物」という作品がある。
1970年の作品で、志村喬が演じる軍国主義に凝り固まったじいさんが中心となった男尊女卑あたりまえの家庭に沖縄からやってきたお手伝いさん中山千夏が巻き起こすドタバタ喜劇で、当時のヌーベルバーグ映画ジャン・リュック・ゴダール「彼女について知っている2、3の事柄」などに影響を受けて『脱ドラマ』を目指していたそうです。
自分はまだ小学生だったので、なんか記憶の片隅で「なんじゃこりゃ」ぐらいの印象しか無かったんだけど、ドラマの最中に突然出演者がカメラに向かって独り言を言ったり、ストーリーもその場限りのような部分もあった(ような気がする)。
「お荷物小荷物」は主人公が沖縄に帰った所で話は終わる。しかし翌週も主人公が居なくなったままドラマは続いていて、そこに中山千夏が今度は北海道から来たアイヌの娘として登場し、続編「アイヌ編」として続く。(この辺は記憶に無いのでその後読んだ資料から)

脚本は佐々木守なので左翼的な部分も多分にあり、実際の事件「よど号乗っ取り」などもドラマの中で話題として出てくる。
このドラマの中で中山千夏が演じた主人公が沖縄出身だったり、アイヌ出身だったりするのは、アイヌ民族解放や琉球独立運動にも佐々木守が多大なる関心を寄せていたからで、アイヌ編では中山千夏の部屋には『北方領土返還』などの張り紙があったらしい。
その事もあったのか(当時のドラマは残っていない物が多いですが)現存しているテープはアイヌ編の最終回だけ。
中山千夏はこのドラマの打ち上げで「もうドラマには出ない」宣言をして、その後はタレント的活動をしながらエッセイ執筆や言論活動を始め、ウーマンリブ・反差別・反戦などの市民運動に傾倒していく。もしかしたら、このドラマが影響しているのかも知れない(このドラマの音楽担当・佐藤允彦と結婚→離婚もしている)。

政治的な事はよく解らないし、女優としての活動もよく知らないけど、自分にとって中山千夏は「あなたの心に」とアニメ「ドロロンえん魔くん」の主題歌を歌っていた人なのだ。あとアニメ「じゃりン子チエ」のチエちゃんもあるか。
しかし歌詞を読み返すと、恥ずかしくなるほど素直でまっすぐな内容。自分のひねくれた部分が恥ずかしくなってしまうのだ。
色々面倒臭い事は世の中に多いけれど、もっと素直でいいじゃないか、前向きに希望を語ってもいいじゃないか、と思ってしまう。

ちなみに編曲の大柿隆は初期かぐや姫で編曲なんかもやっているけど、一番有名な編曲は「ゲゲゲの鬼太郎」の一番最初のVer.、熊倉一雄が歌っている主題歌の編曲をやっている。

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2008年9月13日 (土)

中井あきら「旅人の詩/星降る街角」

中井あきら「旅人の詩/星降る街角」
作詞.ちあき哲也/採補曲彩木雅夫/編曲.早川博二
発表年不明/¥400〜500
ポリドールレコード/DR 1659


2008091306ジャケ違い(第7弾)マイナーすぎるネタでごめん。
このレコードはおそらく「旅人の詩」としてリリースした後、本来B面だった「星降る街角」が受けたのでひっくりがえして新装開店リリースした物。だと思われる。
と思われるというのは、ちゃんとその様に書かれているワケではないが、ライナーノーツがあきらかに「旅人の詩」がA面という扱いで書かれているのと、「星降る街角」の盤は値段の所に「¥500」とシールが貼ってあり値上げをしてる。
中井あきらという人物はよく知らないのですが、1998年に日外アソシエーツが出した『芸能人物事典 明治大正昭和』にはこの様に書いてある。
中井あきら 歌手 プロダクション経営【没】昭和59(1984)年2月19日【出】山口県下関市 本名=中井昭【学】下関西高卒【歴】工場勤務中事故で片手を失い、長崎に移って歌手を目指した。昭和43年「高橋勝とコロラティーノ」のメンバーとして全国ヒットした「思案橋ブルース」をはじめ「思案橋の人」「南国の夜」「星降る街角」など主として長崎もの演歌がヒットした。

2008091307「星降る街角」は敏いとうとハッピー&ブルーが1977年に歌って100万枚ヒットした曲で、今でも「うぉんちゅっ!」の掛け声と共にカラオケでは歌い継がれている。
この時、ハッピー&ブルーでボーカルを取っていたのは森本英世で、かつては新田洋という名前でアニメ「タイガーマスク」の主題歌を歌っていた人。
どうやら調べていくと「星降る街角」のオリジナルは中井あきらが参加していた当時の「高橋勝とコロラティーノ」だったそうですが、その時はヒットしなかったみたいです。
シングルの値段が400〜500円という過渡期だったという事から1971〜73年頃にリリースしたみたいですが、やはりこの時もヒットしなかった。でも当初のA面だった「旅人の詩」はなんかやたらと暗いのに途中からいきなり盛り上がったりする変な曲で、こっちをA面にするのにはちょい無理があります。

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2008年9月11日 (木)

中森明菜「1/2の神話」

中森明菜「1/2の神話」
作詞.売野雅勇/作曲.大沢誉志幸/編曲.萩田光雄
1983年/¥700
ワーナーパイオニア/L-1660


200809111ジャケ違い(第3弾)
この正面を向いている写真がレア物ジャケットで、一般的に見かける物が下にある斜め方向を向いている物。
この2種類が出来た経過はよく解らないけれど、おそらくレア物は初版のみって事じゃないかと思う。
時々ある、最初に出した物がなんかイメージに合わないので2版目から写真を変えてみましたという物。
だから、一般的に出回っているのが下の斜め方向を向いている物。

だと、さっきまで思っていました。
が、このジャケットをスキャンするために袋から取り出して、そこで重大な事に気付いてしまったのです。
このジャケットの左側は7cmほどの折り返し部分が付いていて、そこにファンクラブのお知らせなどがあるので、そこに違いはないか…とチェックしたのですが、別段違いはない。
と、歌詞カードの方を見た時に「あれ?」と思ってしまったのです。
いわゆる一般的に出回っているナナメ向きジャケットの裏面には、アルバムの広告があり《サードアルバム3月下旬発売予定》となっているのですが、レア物の正面向きジャケットの裏面は「サードアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉3月23日発売』と日付まで切ってあるのです。
てぇ事は、レア物の方が後に出た版という事なのではないか?日付が確定した後に出したって事は。

200809112そこから考えていくと「そりゃそうかな」と思う部分が出てくる。
この「1/2の神話」は大ヒットした「少女A」、さらにヒットした「セカンド・ラブ」の後に出たシングルなので初回からどーんと売れていたハズ。というか、初回分が一番売れたと思うので、もし初回版がレアジャケットだったらもっと出回っているハズなのだ。
そして、一気に売れた分が終わった後で、こっそりとジャケットを差し替え(しかも同じ時に撮影した別カットなので気付かないといえば気付かない)という事なので、そっちはさほど売れずに出回らなかったという事なのかも知れない。(前日の「石川秀美:Hey!ミスター・ポリスマン」と同様に)
しかし、わざわざ写真を差し替えた理由は?

上が通常版の裏面広告、下がレア版の裏面広告
200809113この「1/2の神話」は「スローモーション」でデビューしたがなんとなくキャラが明確じゃなかった中森明菜が、2枚のシングル「少女A」がヒットして『ツッぱっているけど実は純な女の子』という路線を明確にした後、「スローモーション」を挟んでリリースした曲。
歌詞は「少女A」の続編的な世界観を歌っていて、やはり「突っぱねてオトナのフリをしている自分と、純粋なままの自分」を「1/2」と歌っている。ティーンエイジ歌謡では昔からありがちな世界感ではありますが、「少女A」「1/2の神話」共に詩を書いているのは売野雅勇。
作曲は大沢誉志幸で、この年ソロ歌手デビューを果たしていて、沢田研二「おまえにチェックイン」「晴れのちBLUE BOY」などの楽曲提供も含めかなり注目されていた中での「1/2の神話」提供だった。翌年は自身のシングル「その気×××」「そして僕は途方に暮れる」もヒットしている。

ティーンエイジ歌謡での「純粋ゆえにオトナは解ってくれない」という世界観は古くから歌われ続けているが、1980年に「横浜銀蝿」が市民権を得て校内暴力が社会問題として表面化してきたタイミング。さらに中森明菜が仕事の場で自分の意見をズバズバ言ってスタッフと対立したというウワサも重なり、その詩の世界観がリアルな形で支持されていくようになっていく。
もっとも冷静に考えれば、なぜスタッフとの対立が当たり前のようにマスコミに流されたのか?という部分。しかもその内容が、ただのワガママという形ではなく、デビュー時に「森明日菜」という芸名を付けられそうになった時に反対したとか、曲の振り付けについて意見した、写真撮影で衣装などに意見した、という好意的に見れば「より良い仕事をしたいために意見した」という類の話ばかりだったので「イメージ戦略の一環?」とも勘ぐってしまうのだ。
実際に、もっとワガママだったと後々判明したようなアイドルに関しては売れている最中、それらのウワサは表面化しなかったり、もっと酷い素行不良アイドルに関してはウワサが表面化する前にいきなり解雇され、解雇後に理由がリークされたりしている。
中森明菜のワガママは中高生ぐらいのファンには「しっかり自分を持ってツッぱっている」という感じに映っていたハズ。

何はともあれ、キャラ設定が明確になった中森明菜はこの先ヒットを飛ばし続ける事になるのだ。

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2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち「悲惨な戦い」

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

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