2013年3月15日 (金)

佐野元春 ヤングブラッズ

似ている曲というお話を時々していますが、佐野元春は色々なアーティストにインスパイヤされて、色々なエッセンスを曲の中に散らし続けてきた。


佐野元春 ヤングブラッズ

それを聞いていると「あ〜ルーツはここにあるのね」的なニヤニヤ感が止まらない。
そんな感じはどのアーティストにだってあって、桑田佳祐も時々モロに出ていたり、山下達郎とか大滝詠一なんかもルーツミュージックをどのように構築し直すかという部分で自分の音楽を創り上げてきた。
それらを人は「パクリ」という時もある。
でもそれ言いだしたら音楽なんて存在しないじゃんとか思っちゃうのだ。やはり音楽を始めた動機の一つに「あんな音楽やってみたい」という部分の純粋なガキ時代が存在しているんだからしょうがない。
でも佐野元春の場合、ある時「え?それあり」と思ってしまった事がある。今でも佐野元春は好きで新譜もリリースの度に買っているアーティストなんだけど、それは……と思ったのは「ヤングブラッズ」という曲。

The Style Council「Shout To The Top」

この曲、聞いて貰うと分かるんだけどポール・ウェラーのユニット「スタイルカウンシル」の「Shout To The Top」にかなり似ている。インスパイヤと言っていいのか不明ぐらいの感じで、当時かなり物議を醸し出した。
で、何故か当時、佐野元春はスタイル・カウンシルに御執心だったのかアルバムのイメージまでソックリにしてしまった。しかもタイトルまで似せて…

佐野元春『カフェ・ボヘミア』スタイル・カウンシル『カフェ・ブリュ』
20130315
それ以前はブルース・スプリングスティーンだとかポリスだとか色々言われていたのが、ここに来ていきなりポール・ウェラーかあと思った。
当時、佐野元春の熱狂的だったファンの女の子は「Shout To The Top」を聞いて、あまりのショックにファンを辞めてしまったというのを間近で見た。そういう意味でかなり衝撃的な激似曲ということになる。
もちろん「ヤングブラッズ」にはヤングブラッズなりのカッコイイ部分もあるし、ポール・ウェラーでは出せないニュアンスも持ち合わせているとは思うけど、どうしちゃったんだ佐野ちゃん!と当時マジに思っていた。

ビートたけし・松方弘樹「I'll Be Back Again... いつかは」

そしてそこからさらにインスパイヤされたのが「元気が出るテレビ」の中でビートたけし・松方弘樹が歌った「I'll Be Back Again... いつかは」という曲。
作詞は作詞:関口敏行&伊藤輝夫(テリー伊藤)で 作曲はBABAと言う、なにやら覆面作曲家っぽい人。コノ手の企画盤のクレジットでは時々名前を隠して曲を作る人がいるけど、そのパターンかも知れない。
こっちは、テレビの企画のお遊びって感じでそんなに叩かれたり話題になったりはしなかったけど。

佐野元春「インディビジュアリスト」

佐野元春のポール・ウェラー趣味はそれだけに収まらずに、アルバム『カフェ・ボヘミア』に収録された「インディビジュアリスト」もちょいと物議を醸した。
「インディビジュアリスト」は直訳すると「個人主義者」っつー事なんですが、スタイル・カウンシルのアルバム曲に「インターナショナリスト」という正反対の「国際主義者」を意味する曲がある。
この辺りになると、確実に「ネタ」として分かり易いようにタイトルまで意味を持たせている感じがある。こっそりパクろうとするのならもっと巧妙に違う方向にニュアンスを向けると思うので。でも真意はよく分からない。

The Style Council「Internationalist」

ポール・ウェラーはかなり左な発言が多かった人らしいんだけど、佐野元春的にはそれを批判的に捕らえていたのか、それのアンサーソング的なイメージもある。
でも改めて聞き比べると「う〜〜〜〜ん」と考え込んでしまうような感じ。佐野ちゃん、どーしちゃったのさ。

米米CLUB「KOME KOME WAR」

で、実はその「Internationalist」を別の形で料理したのが米米CLUBの「KOME KOME WAR」という曲。この曲はPVもデタラメに凝っているんだけど、曲の邪魔になるぐらいに凝っているのでライブ映像で。
しかし見事なくらいにバブリーだよなあ。
ちなみにこの曲を「夜のヒットスタジオ」恒例の他の歌手が歌って紹介コーナーで、細川たかしが「コメウォーコメコメウォーコッコメウォー♪」と歌うべき箇所を「コメウォーオメコメウゥーオッコメウォー♪」と関西では大騒ぎになるような歌い方をしていました。

でも今流行っている曲に似てしまうのはインスパイヤとは言わないかもね。

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2010年5月21日 (金)

小滝詠一『冷麺で恋をして』

2010052101肉屋さんの看板で、豚が「おいしいよ!」って微笑んでいるイラストはどうかと思う。

塩ラーメンだったら美味しそうだけど、塩レーメンだと「しおれ麺」みたいで美味しくなさそうだよね。



2010052102ちなみにこれは「小滝詠一」の歌う『冷麺で恋をして』のジャケット。
大瀧御大の『A面で恋をして』の替え歌パロディ曲。音はまんまなので、同じカラオケで歌えます。


「♪肉の裏表を知り尽くした僕が、ミノに逢ったら Oh! Baby! もうお代わりさ♪」と佐野元春ばりのシャウトも聞かせている小滝詠一の正体は東MAXでやんす。

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2009年8月 8日 (土)

酒井法子『夢冒険』

酒井法子『夢冒険』
作詞.森浩美/作曲.西木栄二/編曲.中村暢之
1987年11月25日/¥700
ビクター/SV-9297


2009080801月曜日に「酒井法子の旦那が覚醒剤取締法違反で逮捕」という報道があり、そこから怒濤の展開で、失踪→悲劇の元アイドル→容疑者→出頭という野島伸司でもそんなストーリーは考えつかないだろうという結末を迎えた。
失踪した時に報道では「子供を連れて自殺なんて最悪な展開は…」と危惧していた。特にサンミュージック的には「自殺」だけは勘弁して欲しいと思っていたんじゃないかと思う。
自分が「酒井法子」というアイドルを一番最初に認識したのが、まさに自殺報道の最中だった。
1986年4月8日に所属タレントだった岡田有希子がサンミュージック本社ビルから飛び降り自殺をした。この時、岡田有希子は同事務所の大先輩・松田聖子作詞の「くちびるNetwork」が大ヒットした直後で最注目株のアイドルだった。

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飛び降り直後の写真が写真週刊誌に掲載されるなど、ショッキングな事件だったが、その時事務所に押し寄せたマスコミがちょうど歌手デビューに向けてレッスンをしていた酒井法子にインタビューしたのを記憶している。
オドオドしながら「とても優しい先輩でした」みたいなことを語っていたと思う。その後、どっかの雑誌でピアノの前で岡田有希子と酒井法子が並んでレッスンしている写真も見た。
で、その時に岡田有希子の担当マネージャーだった溝口伸郎は担当歌手が亡くなったこともあり、酒井法子の歌手デビューから担当になるのですが、そのマネージャーも2000年に自殺をしている。
そして、サンミュージックはこの2009年7月に岡田有希子が飛び降りた本社ビルを新宿区四谷から移転している。移転した途端にこんな事件なのだ。
そんなこんなもあってサンミュージックの社長は「自殺」というのを最大に恐れていたんじゃないかと思う。

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社長にとって酒井法子というのは大事にしていた存在なんだと思う。
サンミュージックという会社は森田健作を売り出す為に作った芸能事務所で、森田健作の「太陽のような明るさ」からサンと名付けたとされている。
70年代は森田健作・都はるみ・桜田淳子・リンリンランラン・香坂みゆきなどが所属していた。
この酒井法子が歌手デビューした1987年は、看板タレントだった松田聖子が結婚して仕事をセーブし、早見優も翳りが見え、一番プッシュしていた岡田有希子が自殺をしてしまったという事から、なんとしてでも酒井法子には売れて貰わなくてはいけない!という事で、社を上げて大プッシュしなくてはいけない存在だったのだ。
が、アイドル界は「おニャン子クラブ」を中心にすでに飽和状態で生半可なキャラでは切り込めない状態になっていた。
そこで「おニャン子クラブ」に敵対するような「モモコクラブ」でデビューし、当時売出し中だったビデオデスクの方式「VHD」のソフト『YUPPIE』を発売して『世界初のVHDデビュー』という売りを作り出す。(歌手デビューよりこっちの方が先なので「VHDデビュー」となっているが、実際にはその前にドラマデビューをしている)

『のりピー音頭』市販カセット版・非売ラジオ局版
2009080807さらに特殊な言語「のりピー語」でソフト不思議ちゃん的キャラ設定で注目を浴びるようになった。
デビュー当時は「のりピー語」は使っていなかったが、ある時から「うれP!かなP!」とか言い出すようになり、それに従ってニックネームも「のりっぺ」から「のりピー」に変更される。
これは当時、酒井法子が同世代のアイドルとこのような言葉で遊んでいたのを見たサンミュージック社長が「これだ!」と、その特殊言語を大プッシュした結果らしい。つまり「のりピー語」は別段酒井法子の発明ではないのだ。
というか、この「うれP!かなP!」というのは、もともとサンプラザ中野がオールナイトニッポンなどで使っていた言葉で、それが中高生の間で流行っていたものを同世代の酒井法子たちが使っていたもの。

こぼうず隊『ちゃんちゃらおかP音頭』
2009080802実は、酒井法子がデビューするのより2年前の1985年に「こぼうず隊」という別名で『ちゃんちゃらおかP音頭』という曲をリリースしている。(他に爆風スランプの12inch『無理だ!〜決定盤〜』のカップリングにも別Ver.が収録されている。
そのこともあって「のりピー語」というのは飽和状態だったアイドル界で、特殊キャラを作り上げるために無理矢理考案された物という印象を自分は持っていた。
他に酒井法子というと「のりピーちゃん」という線だけで書いたマスコットキャラを書いていて『週刊少女コミック』に連載までしていた事がある。といっても、なんかこれも仕掛けたっぽい感じ。
この「他のアイドルと差別化をする」という戦略が凄くあざとい感じに成功して、歌も売れ、高校野球の入場行進曲なんかにも選ばれ、トップアイドルになっていくのだ。

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当時、原宿を中心にタレントショップを開くというのがブームで「え?こんな人までタレントショップ?」という感じで、すぐに飽和状態となっていったのですが、ここでも「差別化」が発揮される。
すでに原宿には『のりピーちゃんハウス』という店があったのですが、1988年7月、富士山の8合目の山小屋『太子館』に『のりピーちゃんハウス』を2ヶ月限定でオープンした。もちろん「日本一高い場所にあるタレントショップ」という肝いりで。
これが結構話題になったので、翌年1989年にもオープンして、この時ファンクラブが「のりピーと富士登山」というイベントを開催し、酒井法子も富士山頂まで登っている。この年の5月に父親が交通事故死しているので、その供養と新曲祈願を兼ねての富士登山だったらしい。
この事があって、先日の報道で「山梨県で携帯電話の電波が確認された」という時に「父親絡みではなく、他のことでも山梨県に関わりがある、それは富士山のショップだ!」とYahoo!ニュースに書かれていた。
たった1回の登山でそこを関係づけられてもねぇ。

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今回の報道で「日本のみならずアジア各国で大人気を博し」という事が言われていたけれど、実際にはアイドル人気で言えば日本で売れなくなってからアジアに大々的に進出したという印象がある。曲リストを見ると富士登山をした頃がアイドルとしての低迷が始まったころかな?
当時、芸能ニュースで「台湾で大人気」というのを見て、日本では売れなくなったので拠点をそっちに移したのかあと思っていた。たしかに戦略的に90年代に入ったばかりの頃のアジア進出はありだった。企業なんかも進出する計画を色々上げていたからねえ(有名なのはヤオハンですが、それで企業として傾いてしまったけれど)。
アイドル歌手として忘れられつつあったタイミングで「ひとつ屋根の下」「星の金貨」で女優としてブレイク。主題歌「碧いうさぎ」のヒット。

で、その後の「自称プロサーファー」との出来ちゃった婚。この辺に関しては当時から「プロ登録されていない」というのはよく語られていた話で、父親が経営している店の役員を務める、ただのチンピラだとか当時の週刊誌にも書かれていたような気がする。
他にも父親や公表されていなかった弟の話など、色々な物がこの先出てくるのかもしれないけれど、個人的にはその辺はもうどうでもいいや。
酒井法子のCDは発売中止になっていくだろうし、逆にヤフオクなんかでは高く売ろうとする人が現れるだろうし、ラジオなんかでも流せなくなっていくだろう。でも、曲には罪はないのだ。
ただ芸能人ウンヌンではなく、やっちゃイケナイ事をしてしまった人は、それなりの罪をちゃんと償って、ちゃんと更正してほしい。芸能界なんかにしがみつかないで。

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2008年9月21日 (日)

白鳥哲「ひとりだち」

白鳥哲「ひとりだち」
作詞.松本隆/作曲.吉田拓郎/編曲.あかのたちお
1975年8月/¥500
ディノスレコード/H-2


2008092101とりあえず秋の曲
TBS水曜劇場「寺内貫太郎一家2」の中で田舎から出てきた見習い少年石工テツとしてドラマデビュー、そして挿入歌「ひとりだち」を歌って歌手デビューもした白鳥哲です。
歌詞の中でもドラマの設定を臭わせるように、一人でアパート暮らしをしている部屋へ田舎に残してきた彼女から「秋の匂い」がする手紙が届いたと歌っている。さらに3番では「去年の秋は」あの子がリンゴを剥いてくれたけど今は皮も剥かずに噛みしめると、秋をイメージさせる曲となっている。
水曜劇場シリーズには中卒で田舎から出てきて住み込みをして働いている少年少女が毎回登場して、それを演じる新人が番組のマスコット的役割を果たしているのがパターンとなっていた。
有名処では浅田美代子や岸本加世子などがいるが、この白鳥哲や「時間ですよ・昭和元年」の谷口世津とかそれ以外ではほとんど見かける事無く消えている人もいる。相本久美子は使用人ではなく末娘だったし、それ以前の芸歴もあるけど近いパターンで登場した。

2008092102白鳥哲は「寺内貫太郎一家2」の後番組「花吹雪はしご一家」にも出演し、そこでも挿入歌として2枚目のシングル「赤い鼻緒とブルージーン」を歌っているが、色々調べてもその2本のドラマと2枚のシングル以外に足跡を残していないようなのだ。
そして記憶の中でも、歌手として白鳥哲が劇中で歌っている場面以外を見たことがないので、売ろうという意識があったのか? 本人も売れる気があったのか不明。本当にドラマの中にしか存在しなかった完全架空の人物のような気がしてしまう。
一応レコードに書かれてるプロフィールでは昭和36年3月1日生まれ、出身は東京都(地方出身じゃ無いのか!)、学歴は新宿区立淀橋中学3年在校中(バリバリ都心だ!)となっている。
しかし「寺内貫太郎一家2」が放送された1975年辺りになると「田舎から出てきて住み込み」という設定に無理があるような気もしていた。
と言いつつ、自分の中学校時代の同級生が高校進学せずに調理人として神奈川だかの店に住み込み修業で入ったという話もあったので、ギリギリありえる話だったのかなぁ。

ちなみに「ひとりだち」では田舎から出てきた純朴な少年がイマイチ都会の暮らしに馴染めずに「カセットテープに声吹き込んで、一人二役さびしいね♪」とかなり危ない一人遊びをしているのですが、B面では「この町に来てもう半年」、同じような寂しがり屋の女性に「ぼくの部屋においでよ」「ミルクティーでも一緒に飲むかい」と誘うような人間に成長している。
こうやって人はその環境に順応して変わっていくのだなぁ。

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2008年9月12日 (金)

清水健太郎「失恋レストラン」

清水健太郎「失恋レストラン」
作詞.作曲.編曲.つのだひろ
1976年/¥600
CBS SONY/06SH 89


2008091201自分が中学時代に欲しかったギターは「エピフォン・カジノ」か「ギブソン・ハワードロバーツ」って、どちらもセミアコでした。
もっとも、貧乏な我が家にはそんなギターを買ってくれる魔法の財布は存在せず、なんとか小遣いとかを貯めて「モーリスの名も無き一番安そうモデル」を購入した。とりあえずスーパースターになれるかも知れないと夢を抱きながら。
自分が好きだった音楽は当時から「何でもあり」だったので、ガッチガチのロックでもフォークでもない音が出したかったので「セミアコースティックギター」いわゆるセミアコに憧れたわけです。
で「エピフォン・カジノ」ってのはジョン・レノンが愛用していたギター、今でも欲しいとは思うけれど、ちゃんとした音が出せる自信が無いので手を出さずにいる。
そしてもう一つの「ギブソン・ハワードロバーツ」というのは、1976年に「失恋レストラン」でデビューした清水健太郎がジャカジャカとかき鳴らしていたギターなのだ。

2008091202自分が中学の頃に好きで見ていた平日夕方の情報番組「ぎんざNOW!」の中で、清水健太郎は素人ものまね合戦に出場した清水アキラの先輩(共に足利大学)として出演して、モノマネをする時にバックでギターを弾いていたのが最初の記憶(もっと前から出ていたのかも知れないけど)。その頃、二人とも清水だったので「W清水」とか呼ばれていたような気がする。
あくまでも清水アキラの後でギターを弾いていたダケだったと思うけど、シングルのライナーノーツには「特技:ものまね」と書いているので、何かモノマネをやっていたかも知れない。
その内、清水アキラは番組内で集まった6人のメンバーと「はんだーす」を結成し、それとは別に清水健太郎は番組でアニキ的存在になりコーナーを持つようになって、そこから歌手として「失恋レストラン」をリリースした。
そのむやみやたらと肩に力を入れてジャカジャンッとセミアコをかき鳴らす姿に田舎の中学生は憧れたワケですよ。もう、今から思うとあんな感じでちゃんと弾けるわけないとか思ってしまうのですが。

で、欲しかったギターとして「ギブソン・ハワードロバーツ」と書いていますが、実はこのデビュー時に清水健太郎が弾いていたのは日本のメーカー『グレコ』が出していたハワードロバーツモデル。
それでも充分にカッコイイと思っていたのですが、その年の紅白歌合戦に出場した時、いきなり「グレコ」ではなく本物の「ギブソン・ハワードロバーツ」を持って出てきたのだ。
ヒットして本物を手に入れたか!あぁ俺たちのアニキは遠い存在になってしまった!(別にアニキとは思ってなかったけど)と思った次第。
ちなみに、数年前テレ東の「なんでも鑑定団」に出た時に、そのギブソン・ハワードロバーツを出していた。いくらの値が付いたのかは忘れましたが。

と言うことで、「失恋レストラン」のジャケ違いですが、一般的なのは1枚目の正面を向いている写真の物で、とりあえずレアなのはソファーに腰掛けハッパをキメている写真(正しくはタバコを吸っている写真)。レアと言っても普通に中古では見かける盤です。
これに関しては、何故ジャケ違いが存在するのかは解りません。ライナーノーツもまったく同じ内容でヒント無し。
しかし、改めて聞くといい曲ですなぁ。作詞作曲はつのだひろ(この時点では☆はない)なんですが、世間的には「メリージェーン」だけの人、あとはつのだじろうの弟ってぐらいの評価かもしれませんが、この曲と南沙織の「街角のラブソング」の作曲をしたって事で自分の中では評価高いっす。

しかし、80年代に入って人気低迷→クスリに手を出し→俳優として復帰→またしても、みたいな状態を繰り返し、現時点で4回逮捕されている。ダメじゃん、と思うんだが、現在はまたしても俳優としての活動を再開する準備中だそうで、なんかダメ人間として邁進していますなぁ
そういう観点からこの曲を聴き直すと「涙忘れるカクテル」「痛みを癒すラプソディ」と歌われている部分が「それってクスリの事かい?」と聞こえてしまうのだ。
いかんいかん、こんな名曲にそんなイメージを植え付けては。

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2008年9月 8日 (月)

少年隊「仮面舞踏会」

少年隊「仮面舞踏会」
作詞.ちあき哲也/作曲.筒美京平/編曲.船山基紀
1985年/¥700
ワーナーパイオニア/L-1801


2008090801前日の『Kとブルンネン「あの場所から」』で少しふれた事ですが、中古レコードを収集している人を悩ませる問題に「ジャケット違い」という物がある。
悩ませると言いつつ、いわゆるレアものを探し当てるという事に喜びを見出していくのだから、全然悩みではないワケですが。
しかし、一般的にジャケ違いというのは諸事情があって最初に発表した物を辞めて新たにジャケットを作り直していたりするワケですが、そーじゃない物も存在する。
この少年隊のデビュー曲である「仮面舞踏会」がその代表的なジャケットなのだ。
「仮面舞踏会」は3種類のジャケ違いが存在しているが、正しくはジャケ違いではない。この後に続く他のジャケットを見ると解ると思うけど、B面に収録されている曲が違うのだ。それ故にレコード番号も「L-1801」「L-1802」「L-1803」と違っている。
これはあくまでも「違うレコード」という扱いになる。

2008090802この曲がリリースされた1985年当時、ヒット曲はTBSの「ザ・ベストテン」ついでにNTVの「トップ10」から生まれていた。ヒットしているのならあそこに出なくちゃ、ではなく、あそこに出ているからヒットしているのだ、という感じだった。
その為に、アイドルだけでなく演歌の人のシングルにも「ザ・ベストテンへリクエストハガキを出そう」と番組住所が書かれていた。さらにファンはレコードが発売されると2枚3枚と一人で買うようになっていた。聞く用、保存用ではなく、売上げをアップさせるために。
そこに鳴り物入りでデビューしてきたのが『少年隊』
ジャニーズのレコードデビュー前から顔を浸透させる作戦は、70年代にフォーリーブスのバックで踊っていた郷ひろみの時代から始まっていたが、少年隊も近藤真彦のバックで踊ることでレコードデビュー前から話題になっていた。
それをさらに大きな話題としてデビュー時に仕掛けたのが「B面が違うシングルを3枚同時にリリース」という事なのだ。
残念なことにザ・ベストテン初登場は1位ではなく、1985年12月26日に6位初登場となった。

2008090803しかし年が明けて1986年の初回放送1月9日には「仮面舞踏会」は1位を獲得しており、そのまま6週連続1位(計11週チャートイン)、そして次の曲「デカメロン伝説」は初登場1位を記録している。
当時から「それはちょっとズルいんじゃないの?」という声は多かったんだけど、その方法論はその後も色々な形で残され、現在もシングル発売では「ジャケ違い」「カップリング違い」「DVD付き」や「写真集付き」などのオマケ違い、さらには「全部で10種類のトレーディングカードが1枚入っている」という、もう何枚買ったらコンプリート出来るのか解らないって感じの商売が展開されている。
自分の場合、オリコン順位がどうこうってのは基本的に音楽を聴く時に関係して来ない人なので、この手の方法は音楽にとって幸せなのかなぁといつも思ってしまう。
少ないお小遣いを工面してレコードを必死に購入していた中学高校時代の自分は現状を見てどう思ってしまうんだろう。
で、さらにガッチガチのディープコレクターになってしまうと、少年隊の3枚のシングルの初回発売分と2回発売以降では「ピンナップが付いている・付いていない」という違うがある事まで気にしてしまうのだ。
とりあえず自分は「L-1802:B面が『春風にイイネ!』盤の初回分」だけ持っていないのだ(全然自慢にならないお話)

ちなみに各B面は
L-801:日本よいとこ摩訶不思議/作詞.作曲.野村義男/編曲.船山基紀
L-802:春風にイイネ!/作詞.宮下智/作曲.佐藤健/編曲.中村哲
L-803:ONE STEP BEYOND/作詞.S.A.WILLAMS/作曲.ALAN O'DAY/編曲.船山基紀
「日本よいとこ摩訶不思議」はヨッちゃんの作品で、後々までジャニーズJr.がコンサートなどで歌い続ける定番曲になっている。
「春風にイイネ!」の作詞をしている宮下智はその後少年隊のシングル曲を作曲を含めていくつも担当する人

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以前の「知泉的音楽夜話」で触れたジャケ違いレコードは、『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』と『佐野元春:アンジェリーナ』
どちらも正式なアナウンスはないので、なぜジャケット違いが存在するのかは不明なのですが、まことしやかに語られている事情はある。
まず『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』に関しては、デビューした直後の小泉今日子は同期の松本伊代・中森明菜・早見優・石川秀美・堀ちえみなどにチョイと引き離された地味な存在だった。
というかレコード会社もそんなに力を入れていなかったのか、デビュー曲自体が70年代に売れなかった歌手の売れなかったシングルのカバーだった。
そして「素敵なラブリーボーイ」も林寛子が歌っていた曲のカバー。最初は地味な水着ジャケで発売したがインパクトがないので、ビキニでバストアップまでが映っている物に差し替えた、と言うウワサが当時ささやかれていた。
実際にはよく解らないけど。

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続いて『佐野元春:アンジェリーナ』
これは最初に青いジャケットで発売されたが、曲や佐野元春の売り出したいイメージに合っていないという事で、即座に回収され、アルバム「Back to the Street」と同じ時に撮影した、横浜『赤い靴』の前の別カットに差し替えた、と言われている。別の話では、発売前のサンプル盤だったとも言われているけど、値段も全部入っているのでどうなんだろ。(盤にもサンプルという文字無いし)
というワケで、色々な事情でジャケ違いというのが存在するみたいなので、その辺の事もいくつか書いて行けたらと思っている。
基本的に自分が認める「ジャケ違い」というのは、レコード番号が同じなのに違うジャケットという物なので、少年隊の「仮面舞踏会」みたいな物や、かつてリリースした物がCMやドラマなんかに使われ話題になったので再リリースした、みたいな物は含めていない。
あくまでも「こっそりとお色直し」って事なのだ。
地味にズブズブとコレクター道に踏み込んでいきますぜ。

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2008年9月 3日 (水)

ずうとるび「透明人間」

ずうとるび「透明人間」
作詞.作曲/山田隆夫
1974年/¥500
エレックレコード.愛レーベル/AIS-3


デビュー曲「透明人間」作詞作曲.山田隆夫
200809031秋の曲....ではなく、9月はまだ秋という感じではなく、適当な曲を、普通の話題がない時に書いて行こうと思います。
ラジオのほうでもこれといってアイドルの話をしたワケでも無いのに、パーソナリティのテツさんにはすっかり「女性アイドルオタク」だと思われているみたいなので、なるべくそっち方面じゃない曲を。
確かに女性アイドルにも詳しいかもしれませんが、それ以外も知ってますがな。

ついでにもう一人のパーソナリティテッちゃんには「アニメやゲームなんかをガンガンやっている人」とも思われていました。ハッキリ言って自分はアニメは普通の人より疎いです。宮崎アニメもディズニーアニメもちゃんと見ておりません。ゲームに関してはほぼ5年近くやったことありません。最新の機械を触って「最近の映像は凄ぇな」と思った程度。
何かオタク的というキーワードで周囲の人に誤解されまくっております。

B面「春です」作詞作曲.山田隆夫
200809032という事で、9月の適当に選んだシングル1枚目は、かの「ずうとるび」のデビュー曲『透明人間』です。
現在「笑点」で座布団運びをしている山田隆夫がリーダーとして活動していたグループなんですが、想像も付かないほどアイドル的人気があり、ずうとるび司会のコント番組(学校そば屋テレビ局)があったり、四人が主役のTVドラマ(ばあちゃんの星)、主演映画(ずうとるび 前進!前進!大前進!!)もありました。
そして音楽面でも、デビュー曲から山田くんの作詞作曲。ちょっと意外かもしれませんが。

「みかん色の恋」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809033もともと子役として活動していた4人が、「笑点」の企画でチビッコ大喜利という物に参加していたのがキッカケでこのグループを結成する事になったのですが(チビッコ大喜利には他にも女の子などもいたと思った)、とりあえず番組的には「座布団を10枚集めたら、何か望みを叶えてあげる」という事で、山田くんが「じゃレコード出したい!」と言いだした事でデビューに至った、となっている。
が、それはあくまでも番組演出上の話で、チビッコ大喜利が回を重ねるごとに人気が出てきたので「4人でレコードデビュー」というのが決まっていたらしい。
それも山形で公開放送をした時に行きの電車の中で4人がふざけて大合唱をしていたのを見て、司会者・三波伸介が「お前らみたいな下手な歌でデビューしたら逆に売れるかもな」と言いだした事から話が膨らんでいったという。

「恋があぶない」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809034このデビュー曲「透明人間」のクレジット部分を見て「!」と思ったオールドフォークファンの方もいるかと思いますが、フォーク系専門会社「エレックレコード」からずうとるびはデビューしています。
あの時代、まだフォークと歌謡曲は相反する部分がまだあったので「なぜ?」と思ってしまうのですが、実は歌手になる話が盛り上がった山形での公開録画がキッカケになっているのです。
その帰りの電車の中で偶然乗り合わせたフォーク歌手泉谷しげるを発見してしまったのです。そして子役あがりで恐れを知らない山田隆夫が「今度僕たちデビューする事になったので、もしかしたら一緒のステージで歌う事もあるかも知れないのでヨロシク!」と挨拶をしたという。
いきなりの挨拶に流石の泉谷しげるも度肝を抜かれたが「おぉ君の出てるドラマもよく見てるし、笑点も面白れぇな」と話が弾み、実際にはまだレコード会社も決まっていないという事から「じゃ、エレックでどうだ」と話が進んでいったらしい。

「太陽の季節」作詞.岡田冨美子/作曲.穂口雄右
200809035山田隆夫が芸能界入りしたキッカケが「チビッコのど自慢」だったので音楽がらみで、作詞作曲ももともとやっていた為にリーダーとなり、デビュー曲も自作となった。(デビューの時点で楽器を弾けたのは山田だけだった)
ドラマの方は1971年NHKの破天荒な時代劇「天下御免」に子役レギュラー(15歳)として登場し、1974年のNHK少年ドラマシリーズ「夕ばえ作戦(光瀬龍原作)」では堂々の主役を演じている。

ギター担当の江藤博利はフジの特撮「宇宙猿人対スペクトルマン」などに出ていた。
(Wikipediaでは「スペクトルマン」と書いてあるけれど、この番組は途中で2回番組名が変わっており、江藤博利が出たのは「宇宙猿人対スペクトルマン」の時。「宇宙猿人ゴリ」1971年1月2日〜5月15日:20回/「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」5月22日〜9月25日:19回/「スペクトルマン」10月2日〜1972年3月25日:24回)
江藤博利はバブル期は渋谷のカラオケスナックを経営し、現在新小岩のダーツバーを経営しており、この数年はWOWOWのドラマ出演や舞台出演などで俳優業に復帰している。

「初恋の絵日記」作詞.岡田冨美子/作曲.加瀬邦彦/紅白出場
200809036今村良樹は左利きという事で「ビートルズのベース・ポールマッカートニー」に合わせてベース担当となっている。俳優としては1971年に谷岡ヤスジのマンガが原作の「谷岡ヤスジのメッタメタ ガキ道講座」でオラ山ガキ夫の仲間の一人としてデビューしている。
漫画が得意という事で雑誌「デュオ」に読み切りを掲載した事があるが、山田ミネコ「ハルマゲドン」や竹宮恵子+光瀬龍「アンドロメダ・ストーリーズ」などが連載されてる雑誌に一緒に掲載されるのにはかなり厳しいレベルの絵だった事を記憶している。
引退後は放送作家となったが漫画好きを活かして「お笑いマンガ道場」の構成作家なども務め、文化放送でアニメ・声優系の番組を手がけ、日本アニメ・オタク文化を裏側で支える人物になっている。

ドラムの新井康弘は基本的に根っからの俳優で、現在も俳優を続け、昼ドラマ『大好き!五つ子』の父親役など、木訥なよい人役を得意としている。
弟の新井つねひろも俳優で「3年B組金八先生」の第1シリーズに出演していた(10年ほど前まではドラマに出ていたんですが最近は不明)

「恋の夜行列車」作詞.山田隆夫&岡田冨美子/作曲.山田隆夫
200809037そんな感じで山田隆夫の作詞作曲でデビューしたんですが、思ったほど売れなかった。
実際、一聴して「こりゃ売れないな」と思ったのですが。
その後も何曲か山田くんの曲がシングルになっているんですが売れず、結局ヒットしたのはプロの作曲家が作った曲。その辺はタレントとミュージシャンの区別を付けているのか、自作曲は楽器演奏、作ってもらった曲はダンスをするとなっていた。
でもアルバムでは山田くん作曲の曲が多く、さらにシングルB面も山田くんの曲が多い。しかしアルバムなどを聴くと、山田くんの曲とプロ作家が作った曲の温度差が激しくて、思わず曲を飛ばして聞きたくなってしまう程。
でも徐々に聴ける曲を作れるようになったみたいで、個人的には山田くん作曲の「恋の夜行列車」は好きな曲。

「ペチャパイブギ」作詞作曲.山田隆夫
200809038←このシングルは「ダウンタウンブギウギバンド」が流行っていた最中に、明らかに便乗で出した曲。で、話題にはなったが売れなかった。(編曲はつのだ☆ひろ)
ちなみに「ずうとるび」というグループ名はよく「ビートルズ」をひっくり返した名前」と言われるがひっくり返すと「ずーるとび」。ずうとるびは最初と最後の音をひっくり返した名前。
そして、カタカナで書くと「フォーククルセダーズ」が「水虫の唄」をリリースした時に使った変名。
ちなみに「THE BEATLES」の関連グッズを管理していた会社はアルファベットで逆から読んだ「SELTAEB(セルテーブ)」

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2008年8月25日 (月)

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」
作詞.森雪之丞/作曲.鮎川誠/編曲.大村憲司
1982年00月/¥700
ビクター音楽産業/SV-7217


200808251夏シングル第8弾
ということで1982年に資生堂の「シャワーコロン」のCM用に結成された、良くも悪くも全然音楽的ではないグループ『シャワー』。
って「知らんがな」という感じかも知れませんが、ジャケットの前列左側にいるのが村上里佳子(リカコ)です。あと、たしか前列一番右側が秋山絵梨子で現在は陣内孝則の奥さん。他にもモデルをやったりしばらく活動していた人もいるみたいですが、現在はリカコだけっすかね?

1980年11月に田辺エージェンシーが企画したオーディションで集められた7人組で、まだおニャン子もモーニング娘。も無かった時代、7人組って段階でもう「企画物」って感じだったわけですが、それでもシングル2枚、アルバムも1枚出して、自然消滅したという事なのだ。
とりあえず「夜のヒットスタジオ」にはデビュー曲「Do up・愛(Love)・ing」で出演した事があるらしい。

200808252で、このシングル「あっ!という間にビーチ・ラブ」なんですが、作曲がかのシーナ&ロケット鮎川誠っす。で、どんな曲かというと、良くも悪くもガールズポップスで、しいて言えば「Go-Go's」とかの、毒にも薬にもならない脳天気な曲。チアガールズ的って感じですかね。
でも音なんかを冷静に聞いていると、なんかラモーンズやパブロックに近いニュアンスを感じないワケでもないですが、やはりとりあえず作ってみました的。
でも、その心が入っていない感じが凄く楽しい。ポップな曲って最終的には「いいじゃん、楽しければ」という部分に至ると思っているので、この曲は好きです。聞いていると頭悪くなりそうな感じが。イントロは「フットルース」が元ネタかな?
ちょっと引っかかるのが1分38秒辺り&2分30秒辺りに突然出てくる「ウゥッフン」というお色気フレーズ。これってモロにキャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」の中に出てくるフレーズと同じだよなぁ、というか最初サンプリングかと思ってしまった。

Lip'sデビュー曲「愛の魔力」
200808253しかし「資生堂シャワーコロン」のCM用に集められたグループって事で、出演できる番組が絞られていただろうなぁって感じがする。
この手のCM企画でデビューしたグループは色々あって、すぐ思い出せるのが、1990年にUCC缶コーヒーのオーディションでデビューした「Lip's」。現在は女優として「温泉へ行こう!」シリーズの主役を張っている加藤貴子がいたけど、このグループもCM以外ではほとんど見かける事が無く、深夜系の出演が多かったかな。

お菓子に入っていたCD(No.07-08抜け)
200808254もっと悲劇なのは今から7年ぐらい前にデビューした「チュエル's」というグループ。
ブルボン&ソニーが行った 「21世紀ガールズユニット結成キャンペーン」からのグループなんですが、まず「シングルCD入り」というお菓子が発売された。
それは、1箱に2名の女の子がそれぞれ歌っているCDが1枚入っていて、5枚分を購入すると、計10人の女の子の歌を聴くことが出来る。
それの中から好きな子に応募して……、選出された3人を正式にアイドルデビューさせる、という企画だったのです。
(←のCDは総て中古店の10円コーナーで購入、この中からビッグになった人がいれば高値になったのにね)
そして応募上位3人は「チュエル's」と名付けられデビューし、ブルボン新製品のCM曲を歌った。
実はそのブルボンの新商品の名前が「チュエル」、つまりグループ名がそのまま商品名だったワケです。
応募ハガキには「ユニット名」に関しての応募欄も書かれているんですが、最初からグループ名は決まっていたんでしょうね。

CDに入っていた応募ハガキ
200808255これがどういう意味を持っているかというと、ブルボン以外のお菓子メーカーがスポンサーに入っている番組には出演できない。曲を流すことが出来ない。という事。
そりゃ、グループ名自体がCMになっているんだから。
結局、自分はそのグループを見ることなく、曲を聞くこともない今に至っている。
まだ、そのデビュー時のサイトが残っていますが『チュエル's』、1曲だけで終わってしまったのかなぁ。(メンバーの一人は後にZONEの補充メンバーになっているけど、そっちもすぐ解散している)

そんなこんなで、ある意味企画物アイドルというのはいたいけな少女達が企業の思惑に振り回されるだけの存在なのだ。
そういう場所から生き残ったシャワーの村上里佳子やLip'sの加藤貴子って凄いんだな。

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2008年5月29日 (木)

斉藤由貴「青空のかけら」

00saitoaozora斉藤由貴/青空のかけら
作詞.松本隆/作曲.亀井登志夫/編曲.武部聡志
1986年8月21日/¥700
CANYON:7A0615


なんか梅雨直前の天気に時々、気分がよい青空を見ているとこのメロディが浮かんでくる。
歌手・斉藤由貴といってラジオなどで今流れるというと、初期の「卒業」とか「夢の中へ」とかって感じですが、実はこの「青空のかけら」というシングルは、斉藤由貴にとって唯一のオリコン1位を記録した曲なのだ。
作詞は悔しいけれど、凄く爽やかで気分を高揚させてくれる詩を書く憎いあんちくしょうの松本隆。
そして作曲は亀井登志夫。
亀井登志夫は山下久美子の「バスルームから愛をこめて」や松本伊代の「抱きしめたい」「チャイニーズキッス」などこれは!という大ヒット曲がないけれど、自分的には大ヒット曲が多い作曲家なのだ。

この「青空のかけら」はその中でも特に大好きな曲。
別に言及はしていないが、スタンダードナンバー「MY BLUE HEAVEN:私の青空」のメロディラインを多分に意識して、それをポップな方向に力業で作り替えたんじゃないかと思っている。(榎本健一や高田渡のVer.が好き)

00longvaozoraこの曲は有頂天のケラが結成したバンド「Long Vacation」がアルバム『Long Vacation's Pop』の中でカバーしているんだけど、そっちもかなりポップでいい感じ。
ちなみにこの当時ケラは激しく斉藤由貴にハマっていたらしく、アルバムの中の『Long Vacation's Touch』という曲中にメンバーが自己紹介する部分で「斉藤由貴もほどほどにしたいと思います」と語っている。

実は、この時代自分も斉藤由貴にハマっていたわけですが、自分は凄くアイドル歌手にハマるベクトルが不純で「容姿は全然興味ない。その人が女優やっていてもドラマは一切みない。ライブビデオがあっても画像は全然興味ない。」という、アイドル系歌手の曲を聞くってのに「音だけでいい」という周囲には理解不能と言われる人でやんす。
そのために、斉藤由貴の全シングル全アルバムを持っているのに、ドラマをちゃんと見たことがない、映画も1本も見たことない、という不純な人なのだ。
顔が凄く好みでも声質が嫌いだったり、歌手としての艶を感じないと、興味を失ってしまうという変な指向性もある。

斉藤由貴はアイドル末期は完璧にアルバム志向の人になって、シングルカット無しのコンセプトアルバムを作るようになっていき、個人的は凄くハマったワケですが、世間的には「シングルヒットも亡くなったので歌手としてはもうダメだね」という感じになっていった(と思う)。
最終的には結婚などがあって、そっち方面の活動は終止符を打ってしまったワケです。
(この数年、ボチボチと音楽活動も再開しているみたいですが)

Tokiasaaozo去年は土岐麻子さんがこの曲をカバーしています。伸びやかな声が気持ちいいんですが、斉藤由貴の声量の無さを補って余りある声による演技を超えることが出来ていない感じがしちゃって残念でやんす。
でも発売から20年以上が経過して、こうやってカバーされるってのは名曲だった事なんだよなぁ。
ちなみに昨年放送されていたドラマ『歌姫』に出演している斉藤由貴を久々に見たんですが、富士眞奈美ポジションになっていてビックリしました。

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2008年5月19日 (月)

沢田研二「TOKIO」

2008051901沢田研二/TOKIO
作詞.糸井重里/作曲.加瀬邦彦/編曲.後藤次利
1980年01月01日/¥600
Polydor/DR6385


ここの所、漫画「関町物語」を書くために、1980年前後の資料を色々読んでいるのだが、ふと思ったのが「1980年はSF的未来図で始まった」という事なのだ。
時代というのはすべて連続した時間として繋がっており、革命的な歴史的な事件が起こらない限り、常に緩やかに変化をしていく物なのだ。
よく時代論を語る時に1960年代、1970年代などという言葉で乱暴に時代を断ち切ったような言葉が使われるが、実際その時代を生きてきた人間にとっては大晦日から正月に日付が変わろうと変わるまいと、連続した営みが続き、そ〜んなに世の中は変わる物ではないのだ。
そういう意味では1980年代とはなんぞやと語る際に、明確に時代を象徴できるのは、1985年を中心にした数年という事になるかもしれない。

ロンリーウルフ:作詞.喜多條忠:作曲.大野克夫:編曲.後藤次利
2008051902しかし1980年になった瞬間、なんだかよく解らないけれど新たな時代が始まるという予兆があった。
それは明確に、影響力のある人物が「新時代の幕開け」という宣言をしたからなのだ。
その人物とは稀代の歌舞伎者、沢田研二。
沢田研二、通称ジュリーは新時代の幕開けの初日、1980年1月1日に誰も予想をしていなかった新曲『TOKIO』を発表している。(正しくは前年暮れに発売したLPからのシングルカットだが)

当時、大晦日のテレビは、紅白歌合戦が終わった直後に民放へチャンネルを廻すとどの局も同じ番組「ゆく年くる年」が放送されていた。
今ではとうてい考えられない状態だが、毎年東京キー局が持ち回りで制作した番組を、すべての民放局が同じ内容の番組を流していた。最終的には地方局を含め全国106局同時ネットというすごい番組になっていたのだ。

恋のバッドチューニング:作詞.糸井重里:作曲.加瀬邦彦:編曲.後藤次利
2008051904大晦日、年に一度の夜更かしが許される日という事もあって、子供達はテンション上がって「どのチャンネル廻しても同じだぜ!」と得意げにチャンネルをガチャガチャ廻し「むやみやたらとチャンネル廻したら壊れるだろ!」と各家庭で新年早々怒られる子供が続出したイベントだった。
この「ゆく年くる年」という番組は「日本初のCMで時報を流した」セイコー社の1社提供で放送されており、カウントダウンの時計は当然セイコーだったのだ。

ピッピッピッ、ポーン!と、セイコー社の時計が1970年代に幕を下ろし、新たなる10年間、1980年代が始まった1980年1月1日、その瞬間、テレビの闇の中から派手な電飾が点滅し、ジャッジャッジャ〜ンジャ〜♪と重いディストーションギターの音が流れだしたのだ。
「な、なんだ?」と、当時高校3年生だった自分はその画面を見て度肝を抜かれた。
そこにいたのはミリタリールックにいくつも電飾をつけ、何やらでっかいパラシュートを背中に背負って風を受けている沢田研二だったのだ。

カサブランカダンディ:作詞.阿久悠:作曲.編曲.大野克夫
2008051903さきほど終わったばかりの紅白歌合戦の中では「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かったよ♪」と昔の男は自由に格好良く生きる事が出来たのに時代遅れの男は不自由だと『カサブランカ・ダンディー』を歌っていたジュリーが、1980年の幕開けと同時に電飾の中から出現してきたのだ。

しかもそこで歌われている内容はやたらとシュールで、スーパーシティ「TOKIO」が空を飛んだり、海に浮かんだり、星になったり、という一回聞いただけでは意味が理解できないものだった。
今、改めて聞き直すとアレンジや楽器編成自体は凄くアナログでテクノ的要素は少ないんだけど、途中で使われるキーボードのフレーズやシンセドラムはまだ歌謡曲が歌謡曲だった時代には充分に刺激的だった。

編曲の後藤次利は、前作「ロンリー・ウルフ」という地味だけどムチャカッコイイ曲の編曲から「TOKIO」「恋のバッド・チューニング」「麗人」の4枚のシングルを手がけている。
ちなみに1979年末にすでに発表されていたアルバム『TOKIO』の編曲をすべて手がけており、サディスティックミカバンド以降、サディスティックなどでスタジオミュージシャンとして鍛え上げた後藤次利の力量を見せつけるような内容になっている。そしてこの年の年末、日本レコード大賞・編曲賞を「TOKIO」で受賞している。
「TOKIO」はテクノ風味の曲だが、実はベーシスト後藤次利のあまりにも格好良すぎるベーステク満載なのだ。低音を利かし気味にしてヘッドフォンで聴くことをお勧めします。

麗人:作詞.阿久悠:作曲.沢田研二:編曲.後藤次利
2008051905この1980年1月の段階では、すでに「イエローマジックオーケストラ」はデビューしており、ワールドツアーも成功させ、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』もオリコン最高位9位にもなっているが、まだ一般的な浸透度も少なく、歌謡界はテクノの扱いに苦慮していた時代だった。
この時代、沢田研二は常に斬新なアイディアを曲に折り込み、おそらく時代を牽引していくという自負もあったんだろうと思う。そんな中で当然テクノ的なアプローチも必然だったと思うが、1980年代の初っぱなにこれを持ってきたというのは大いなる意図を感じるのだ。

そして「シュールな歌詞」を書いていたのは新進気鋭のコピーライター糸井重里。その段階で、すでにコピーライターとしてはいくつかの受賞歴があり、矢沢永吉の「成りあがり」のライターなど大きな仕事をこなしていたが、一般的知名度を集めたのがこの作詞からだった。(もっとも糸井重里というキャラとして有名になったのは1982年から始まったNHK『YOU』の司会)

アルバム『TOKIO』
2008051906そんな形で新時代を意図的にこじ開けた曲「TOKIO」は、ザ・ベストテンでは発売から3週間経過した1月24日に8位に初登場し、その後10週に渡りランクインしつづけた。当時、久保田早紀「異邦人」→クリスタルキングの「大都会」→海援隊「贈る言葉」が爆発ヒット中で1位は獲得できなかったが、2位は5回、3位は3回、4位は2回と上位をキープしつづけた。
そんな中、歌舞伎者ジュリーはその巨大な衣装で色々な場所に出現した。ビルの屋上などで歌った事もあったが、アメリカへ渡りアリゾナのデスバレーという荒野で風に煽られながらも必死に踏ん張りながら歌った姿が今でも記憶に残っている。

その後、「おれたちひょうきん族」でたけちゃんマンの衣装としてパロディ的に使用されたり(元々、ジュリーの物まねをするために作った衣装らしい)、ばかでかいセットのような衣装は小林幸子に継承されていくのだが。
なにはともあれ、1980年の幕開けと同時に民放チャンネルを見ていた全ての家庭に、沢田研二の1980年代宣言「TOKIO」が流し込まれたのだ。
その1980年代が人々にとって幸せな未来だったのかはよく解らない。

ちなみに、民放同時放送の「ゆく年くる年」は昭和最後の年末となった(その時点では昭和最後とは思っていなかったが)1988年から89年にかけての回が最後となり、平成の最初の年末、1989年と1990年の橋渡しの年末は各局独自の番組となっている。

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