2009年8月 8日 (土)

酒井法子『夢冒険』

酒井法子『夢冒険』
作詞.森浩美/作曲.西木栄二/編曲.中村暢之
1987年11月25日/¥700
ビクター/SV-9297


2009080801月曜日に「酒井法子の旦那が覚醒剤取締法違反で逮捕」という報道があり、そこから怒濤の展開で、失踪→悲劇の元アイドル→容疑者→出頭という野島伸司でもそんなストーリーは考えつかないだろうという結末を迎えた。
失踪した時に報道では「子供を連れて自殺なんて最悪な展開は…」と危惧していた。特にサンミュージック的には「自殺」だけは勘弁して欲しいと思っていたんじゃないかと思う。
自分が「酒井法子」というアイドルを一番最初に認識したのが、まさに自殺報道の最中だった。
1986年4月8日に所属タレントだった岡田有希子がサンミュージック本社ビルから飛び降り自殺をした。この時、岡田有希子は同事務所の大先輩・松田聖子作詞の「くちびるNetwork」が大ヒットした直後で最注目株のアイドルだった。

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飛び降り直後の写真が写真週刊誌に掲載されるなど、ショッキングな事件だったが、その時事務所に押し寄せたマスコミがちょうど歌手デビューに向けてレッスンをしていた酒井法子にインタビューしたのを記憶している。
オドオドしながら「とても優しい先輩でした」みたいなことを語っていたと思う。その後、どっかの雑誌でピアノの前で岡田有希子と酒井法子が並んでレッスンしている写真も見た。
で、その時に岡田有希子の担当マネージャーだった溝口伸郎は担当歌手が亡くなったこともあり、酒井法子の歌手デビューから担当になるのですが、そのマネージャーも2000年に自殺をしている。
そして、サンミュージックはこの2009年7月に岡田有希子が飛び降りた本社ビルを新宿区四谷から移転している。移転した途端にこんな事件なのだ。
そんなこんなもあってサンミュージックの社長は「自殺」というのを最大に恐れていたんじゃないかと思う。

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社長にとって酒井法子というのは大事にしていた存在なんだと思う。
サンミュージックという会社は森田健作を売り出す為に作った芸能事務所で、森田健作の「太陽のような明るさ」からサンと名付けたとされている。
70年代は森田健作・都はるみ・桜田淳子・リンリンランラン・香坂みゆきなどが所属していた。
この酒井法子が歌手デビューした1987年は、看板タレントだった松田聖子が結婚して仕事をセーブし、早見優も翳りが見え、一番プッシュしていた岡田有希子が自殺をしてしまったという事から、なんとしてでも酒井法子には売れて貰わなくてはいけない!という事で、社を上げて大プッシュしなくてはいけない存在だったのだ。
が、アイドル界は「おニャン子クラブ」を中心にすでに飽和状態で生半可なキャラでは切り込めない状態になっていた。
そこで「おニャン子クラブ」に敵対するような「モモコクラブ」でデビューし、当時売出し中だったビデオデスクの方式「VHD」のソフト『YUPPIE』を発売して『世界初のVHDデビュー』という売りを作り出す。(歌手デビューよりこっちの方が先なので「VHDデビュー」となっているが、実際にはその前にドラマデビューをしている)

『のりピー音頭』市販カセット版・非売ラジオ局版
2009080807さらに特殊な言語「のりピー語」でソフト不思議ちゃん的キャラ設定で注目を浴びるようになった。
デビュー当時は「のりピー語」は使っていなかったが、ある時から「うれP!かなP!」とか言い出すようになり、それに従ってニックネームも「のりっぺ」から「のりピー」に変更される。
これは当時、酒井法子が同世代のアイドルとこのような言葉で遊んでいたのを見たサンミュージック社長が「これだ!」と、その特殊言語を大プッシュした結果らしい。つまり「のりピー語」は別段酒井法子の発明ではないのだ。
というか、この「うれP!かなP!」というのは、もともとサンプラザ中野がオールナイトニッポンなどで使っていた言葉で、それが中高生の間で流行っていたものを同世代の酒井法子たちが使っていたもの。

こぼうず隊『ちゃんちゃらおかP音頭』
2009080802実は、酒井法子がデビューするのより2年前の1985年に「こぼうず隊」という別名で『ちゃんちゃらおかP音頭』という曲をリリースしている。(他に爆風スランプの12inch『無理だ!〜決定盤〜』のカップリングにも別Ver.が収録されている。
そのこともあって「のりピー語」というのは飽和状態だったアイドル界で、特殊キャラを作り上げるために無理矢理考案された物という印象を自分は持っていた。
他に酒井法子というと「のりピーちゃん」という線だけで書いたマスコットキャラを書いていて『週刊少女コミック』に連載までしていた事がある。といっても、なんかこれも仕掛けたっぽい感じ。
この「他のアイドルと差別化をする」という戦略が凄くあざとい感じに成功して、歌も売れ、高校野球の入場行進曲なんかにも選ばれ、トップアイドルになっていくのだ。

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当時、原宿を中心にタレントショップを開くというのがブームで「え?こんな人までタレントショップ?」という感じで、すぐに飽和状態となっていったのですが、ここでも「差別化」が発揮される。
すでに原宿には『のりピーちゃんハウス』という店があったのですが、1988年7月、富士山の8合目の山小屋『太子館』に『のりピーちゃんハウス』を2ヶ月限定でオープンした。もちろん「日本一高い場所にあるタレントショップ」という肝いりで。
これが結構話題になったので、翌年1989年にもオープンして、この時ファンクラブが「のりピーと富士登山」というイベントを開催し、酒井法子も富士山頂まで登っている。この年の5月に父親が交通事故死しているので、その供養と新曲祈願を兼ねての富士登山だったらしい。
この事があって、先日の報道で「山梨県で携帯電話の電波が確認された」という時に「父親絡みではなく、他のことでも山梨県に関わりがある、それは富士山のショップだ!」とYahoo!ニュースに書かれていた。
たった1回の登山でそこを関係づけられてもねぇ。

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今回の報道で「日本のみならずアジア各国で大人気を博し」という事が言われていたけれど、実際にはアイドル人気で言えば日本で売れなくなってからアジアに大々的に進出したという印象がある。曲リストを見ると富士登山をした頃がアイドルとしての低迷が始まったころかな?
当時、芸能ニュースで「台湾で大人気」というのを見て、日本では売れなくなったので拠点をそっちに移したのかあと思っていた。たしかに戦略的に90年代に入ったばかりの頃のアジア進出はありだった。企業なんかも進出する計画を色々上げていたからねえ(有名なのはヤオハンですが、それで企業として傾いてしまったけれど)。
アイドル歌手として忘れられつつあったタイミングで「ひとつ屋根の下」「星の金貨」で女優としてブレイク。主題歌「碧いうさぎ」のヒット。

で、その後の「自称プロサーファー」との出来ちゃった婚。この辺に関しては当時から「プロ登録されていない」というのはよく語られていた話で、父親が経営している店の役員を務める、ただのチンピラだとか当時の週刊誌にも書かれていたような気がする。
他にも父親や公表されていなかった弟の話など、色々な物がこの先出てくるのかもしれないけれど、個人的にはその辺はもうどうでもいいや。
酒井法子のCDは発売中止になっていくだろうし、逆にヤフオクなんかでは高く売ろうとする人が現れるだろうし、ラジオなんかでも流せなくなっていくだろう。でも、曲には罪はないのだ。
ただ芸能人ウンヌンではなく、やっちゃイケナイ事をしてしまった人は、それなりの罪をちゃんと償って、ちゃんと更正してほしい。芸能界なんかにしがみつかないで。

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2008年9月21日 (日)

白鳥哲「ひとりだち」

白鳥哲「ひとりだち」
作詞.松本隆/作曲.吉田拓郎/編曲.あかのたちお
1975年8月/¥500
ディノスレコード/H-2


2008092101とりあえず秋の曲
TBS水曜劇場「寺内貫太郎一家2」の中で田舎から出てきた見習い少年石工テツとしてドラマデビュー、そして挿入歌「ひとりだち」を歌って歌手デビューもした白鳥哲です。
歌詞の中でもドラマの設定を臭わせるように、一人でアパート暮らしをしている部屋へ田舎に残してきた彼女から「秋の匂い」がする手紙が届いたと歌っている。さらに3番では「去年の秋は」あの子がリンゴを剥いてくれたけど今は皮も剥かずに噛みしめると、秋をイメージさせる曲となっている。
水曜劇場シリーズには中卒で田舎から出てきて住み込みをして働いている少年少女が毎回登場して、それを演じる新人が番組のマスコット的役割を果たしているのがパターンとなっていた。
有名処では浅田美代子や岸本加世子などがいるが、この白鳥哲や「時間ですよ・昭和元年」の谷口世津とかそれ以外ではほとんど見かける事無く消えている人もいる。相本久美子は使用人ではなく末娘だったし、それ以前の芸歴もあるけど近いパターンで登場した。

2008092102白鳥哲は「寺内貫太郎一家2」の後番組「花吹雪はしご一家」にも出演し、そこでも挿入歌として2枚目のシングル「赤い鼻緒とブルージーン」を歌っているが、色々調べてもその2本のドラマと2枚のシングル以外に足跡を残していないようなのだ。
そして記憶の中でも、歌手として白鳥哲が劇中で歌っている場面以外を見たことがないので、売ろうという意識があったのか? 本人も売れる気があったのか不明。本当にドラマの中にしか存在しなかった完全架空の人物のような気がしてしまう。
一応レコードに書かれてるプロフィールでは昭和36年3月1日生まれ、出身は東京都(地方出身じゃ無いのか!)、学歴は新宿区立淀橋中学3年在校中(バリバリ都心だ!)となっている。
しかし「寺内貫太郎一家2」が放送された1975年辺りになると「田舎から出てきて住み込み」という設定に無理があるような気もしていた。
と言いつつ、自分の中学校時代の同級生が高校進学せずに調理人として神奈川だかの店に住み込み修業で入ったという話もあったので、ギリギリありえる話だったのかなぁ。

ちなみに「ひとりだち」では田舎から出てきた純朴な少年がイマイチ都会の暮らしに馴染めずに「カセットテープに声吹き込んで、一人二役さびしいね♪」とかなり危ない一人遊びをしているのですが、B面では「この町に来てもう半年」、同じような寂しがり屋の女性に「ぼくの部屋においでよ」「ミルクティーでも一緒に飲むかい」と誘うような人間に成長している。
こうやって人はその環境に順応して変わっていくのだなぁ。

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2008年9月12日 (金)

清水健太郎「失恋レストラン」

清水健太郎「失恋レストラン」
作詞.作曲.編曲.つのだひろ
1976年/¥600
CBS SONY/06SH 89


2008091201自分が中学時代に欲しかったギターは「エピフォン・カジノ」か「ギブソン・ハワードロバーツ」って、どちらもセミアコでした。
もっとも、貧乏な我が家にはそんなギターを買ってくれる魔法の財布は存在せず、なんとか小遣いとかを貯めて「モーリスの名も無き一番安そうモデル」を購入した。とりあえずスーパースターになれるかも知れないと夢を抱きながら。
自分が好きだった音楽は当時から「何でもあり」だったので、ガッチガチのロックでもフォークでもない音が出したかったので「セミアコースティックギター」いわゆるセミアコに憧れたわけです。
で「エピフォン・カジノ」ってのはジョン・レノンが愛用していたギター、今でも欲しいとは思うけれど、ちゃんとした音が出せる自信が無いので手を出さずにいる。
そしてもう一つの「ギブソン・ハワードロバーツ」というのは、1976年に「失恋レストラン」でデビューした清水健太郎がジャカジャカとかき鳴らしていたギターなのだ。

2008091202自分が中学の頃に好きで見ていた平日夕方の情報番組「ぎんざNOW!」の中で、清水健太郎は素人ものまね合戦に出場した清水アキラの先輩(共に足利大学)として出演して、モノマネをする時にバックでギターを弾いていたのが最初の記憶(もっと前から出ていたのかも知れないけど)。その頃、二人とも清水だったので「W清水」とか呼ばれていたような気がする。
あくまでも清水アキラの後でギターを弾いていたダケだったと思うけど、シングルのライナーノーツには「特技:ものまね」と書いているので、何かモノマネをやっていたかも知れない。
その内、清水アキラは番組内で集まった6人のメンバーと「はんだーす」を結成し、それとは別に清水健太郎は番組でアニキ的存在になりコーナーを持つようになって、そこから歌手として「失恋レストラン」をリリースした。
そのむやみやたらと肩に力を入れてジャカジャンッとセミアコをかき鳴らす姿に田舎の中学生は憧れたワケですよ。もう、今から思うとあんな感じでちゃんと弾けるわけないとか思ってしまうのですが。

で、欲しかったギターとして「ギブソン・ハワードロバーツ」と書いていますが、実はこのデビュー時に清水健太郎が弾いていたのは日本のメーカー『グレコ』が出していたハワードロバーツモデル。
それでも充分にカッコイイと思っていたのですが、その年の紅白歌合戦に出場した時、いきなり「グレコ」ではなく本物の「ギブソン・ハワードロバーツ」を持って出てきたのだ。
ヒットして本物を手に入れたか!あぁ俺たちのアニキは遠い存在になってしまった!(別にアニキとは思ってなかったけど)と思った次第。
ちなみに、数年前テレ東の「なんでも鑑定団」に出た時に、そのギブソン・ハワードロバーツを出していた。いくらの値が付いたのかは忘れましたが。

と言うことで、「失恋レストラン」のジャケ違いですが、一般的なのは1枚目の正面を向いている写真の物で、とりあえずレアなのはソファーに腰掛けハッパをキメている写真(正しくはタバコを吸っている写真)。レアと言っても普通に中古では見かける盤です。
これに関しては、何故ジャケ違いが存在するのかは解りません。ライナーノーツもまったく同じ内容でヒント無し。
しかし、改めて聞くといい曲ですなぁ。作詞作曲はつのだひろ(この時点では☆はない)なんですが、世間的には「メリージェーン」だけの人、あとはつのだじろうの弟ってぐらいの評価かもしれませんが、この曲と南沙織の「街角のラブソング」の作曲をしたって事で自分の中では評価高いっす。

しかし、80年代に入って人気低迷→クスリに手を出し→俳優として復帰→またしても、みたいな状態を繰り返し、現時点で4回逮捕されている。ダメじゃん、と思うんだが、現在はまたしても俳優としての活動を再開する準備中だそうで、なんかダメ人間として邁進していますなぁ
そういう観点からこの曲を聴き直すと「涙忘れるカクテル」「痛みを癒すラプソディ」と歌われている部分が「それってクスリの事かい?」と聞こえてしまうのだ。
いかんいかん、こんな名曲にそんなイメージを植え付けては。

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2008年9月 8日 (月)

少年隊「仮面舞踏会」

少年隊「仮面舞踏会」
作詞.ちあき哲也/作曲.筒美京平/編曲.船山基紀
1985年/¥700
ワーナーパイオニア/L-1801


2008090801前日の『Kとブルンネン「あの場所から」』で少しふれた事ですが、中古レコードを収集している人を悩ませる問題に「ジャケット違い」という物がある。
悩ませると言いつつ、いわゆるレアものを探し当てるという事に喜びを見出していくのだから、全然悩みではないワケですが。
しかし、一般的にジャケ違いというのは諸事情があって最初に発表した物を辞めて新たにジャケットを作り直していたりするワケですが、そーじゃない物も存在する。
この少年隊のデビュー曲である「仮面舞踏会」がその代表的なジャケットなのだ。
「仮面舞踏会」は3種類のジャケ違いが存在しているが、正しくはジャケ違いではない。この後に続く他のジャケットを見ると解ると思うけど、B面に収録されている曲が違うのだ。それ故にレコード番号も「L-1801」「L-1802」「L-1803」と違っている。
これはあくまでも「違うレコード」という扱いになる。

2008090802この曲がリリースされた1985年当時、ヒット曲はTBSの「ザ・ベストテン」ついでにNTVの「トップ10」から生まれていた。ヒットしているのならあそこに出なくちゃ、ではなく、あそこに出ているからヒットしているのだ、という感じだった。
その為に、アイドルだけでなく演歌の人のシングルにも「ザ・ベストテンへリクエストハガキを出そう」と番組住所が書かれていた。さらにファンはレコードが発売されると2枚3枚と一人で買うようになっていた。聞く用、保存用ではなく、売上げをアップさせるために。
そこに鳴り物入りでデビューしてきたのが『少年隊』
ジャニーズのレコードデビュー前から顔を浸透させる作戦は、70年代にフォーリーブスのバックで踊っていた郷ひろみの時代から始まっていたが、少年隊も近藤真彦のバックで踊ることでレコードデビュー前から話題になっていた。
それをさらに大きな話題としてデビュー時に仕掛けたのが「B面が違うシングルを3枚同時にリリース」という事なのだ。
残念なことにザ・ベストテン初登場は1位ではなく、1985年12月26日に6位初登場となった。

2008090803しかし年が明けて1986年の初回放送1月9日には「仮面舞踏会」は1位を獲得しており、そのまま6週連続1位(計11週チャートイン)、そして次の曲「デカメロン伝説」は初登場1位を記録している。
当時から「それはちょっとズルいんじゃないの?」という声は多かったんだけど、その方法論はその後も色々な形で残され、現在もシングル発売では「ジャケ違い」「カップリング違い」「DVD付き」や「写真集付き」などのオマケ違い、さらには「全部で10種類のトレーディングカードが1枚入っている」という、もう何枚買ったらコンプリート出来るのか解らないって感じの商売が展開されている。
自分の場合、オリコン順位がどうこうってのは基本的に音楽を聴く時に関係して来ない人なので、この手の方法は音楽にとって幸せなのかなぁといつも思ってしまう。
少ないお小遣いを工面してレコードを必死に購入していた中学高校時代の自分は現状を見てどう思ってしまうんだろう。
で、さらにガッチガチのディープコレクターになってしまうと、少年隊の3枚のシングルの初回発売分と2回発売以降では「ピンナップが付いている・付いていない」という違うがある事まで気にしてしまうのだ。
とりあえず自分は「L-1802:B面が『春風にイイネ!』盤の初回分」だけ持っていないのだ(全然自慢にならないお話)

ちなみに各B面は
L-801:日本よいとこ摩訶不思議/作詞.作曲.野村義男/編曲.船山基紀
L-802:春風にイイネ!/作詞.宮下智/作曲.佐藤健/編曲.中村哲
L-803:ONE STEP BEYOND/作詞.S.A.WILLAMS/作曲.ALAN O'DAY/編曲.船山基紀
「日本よいとこ摩訶不思議」はヨッちゃんの作品で、後々までジャニーズJr.がコンサートなどで歌い続ける定番曲になっている。
「春風にイイネ!」の作詞をしている宮下智はその後少年隊のシングル曲を作曲を含めていくつも担当する人

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以前の「知泉的音楽夜話」で触れたジャケ違いレコードは、『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』と『佐野元春:アンジェリーナ』
どちらも正式なアナウンスはないので、なぜジャケット違いが存在するのかは不明なのですが、まことしやかに語られている事情はある。
まず『小泉今日子:素敵なラブリーボーイ』に関しては、デビューした直後の小泉今日子は同期の松本伊代・中森明菜・早見優・石川秀美・堀ちえみなどにチョイと引き離された地味な存在だった。
というかレコード会社もそんなに力を入れていなかったのか、デビュー曲自体が70年代に売れなかった歌手の売れなかったシングルのカバーだった。
そして「素敵なラブリーボーイ」も林寛子が歌っていた曲のカバー。最初は地味な水着ジャケで発売したがインパクトがないので、ビキニでバストアップまでが映っている物に差し替えた、と言うウワサが当時ささやかれていた。
実際にはよく解らないけど。

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続いて『佐野元春:アンジェリーナ』
これは最初に青いジャケットで発売されたが、曲や佐野元春の売り出したいイメージに合っていないという事で、即座に回収され、アルバム「Back to the Street」と同じ時に撮影した、横浜『赤い靴』の前の別カットに差し替えた、と言われている。別の話では、発売前のサンプル盤だったとも言われているけど、値段も全部入っているのでどうなんだろ。(盤にもサンプルという文字無いし)
というワケで、色々な事情でジャケ違いというのが存在するみたいなので、その辺の事もいくつか書いて行けたらと思っている。
基本的に自分が認める「ジャケ違い」というのは、レコード番号が同じなのに違うジャケットという物なので、少年隊の「仮面舞踏会」みたいな物や、かつてリリースした物がCMやドラマなんかに使われ話題になったので再リリースした、みたいな物は含めていない。
あくまでも「こっそりとお色直し」って事なのだ。
地味にズブズブとコレクター道に踏み込んでいきますぜ。

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2008年9月 3日 (水)

ずうとるび「透明人間」

ずうとるび「透明人間」
作詞.作曲/山田隆夫
1974年/¥500
エレックレコード.愛レーベル/AIS-3


デビュー曲「透明人間」作詞作曲.山田隆夫
200809031秋の曲....ではなく、9月はまだ秋という感じではなく、適当な曲を、普通の話題がない時に書いて行こうと思います。
ラジオのほうでもこれといってアイドルの話をしたワケでも無いのに、パーソナリティのテツさんにはすっかり「女性アイドルオタク」だと思われているみたいなので、なるべくそっち方面じゃない曲を。
確かに女性アイドルにも詳しいかもしれませんが、それ以外も知ってますがな。

ついでにもう一人のパーソナリティテッちゃんには「アニメやゲームなんかをガンガンやっている人」とも思われていました。ハッキリ言って自分はアニメは普通の人より疎いです。宮崎アニメもディズニーアニメもちゃんと見ておりません。ゲームに関してはほぼ5年近くやったことありません。最新の機械を触って「最近の映像は凄ぇな」と思った程度。
何かオタク的というキーワードで周囲の人に誤解されまくっております。

B面「春です」作詞作曲.山田隆夫
200809032という事で、9月の適当に選んだシングル1枚目は、かの「ずうとるび」のデビュー曲『透明人間』です。
現在「笑点」で座布団運びをしている山田隆夫がリーダーとして活動していたグループなんですが、想像も付かないほどアイドル的人気があり、ずうとるび司会のコント番組(学校そば屋テレビ局)があったり、四人が主役のTVドラマ(ばあちゃんの星)、主演映画(ずうとるび 前進!前進!大前進!!)もありました。
そして音楽面でも、デビュー曲から山田くんの作詞作曲。ちょっと意外かもしれませんが。

「みかん色の恋」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809033もともと子役として活動していた4人が、「笑点」の企画でチビッコ大喜利という物に参加していたのがキッカケでこのグループを結成する事になったのですが(チビッコ大喜利には他にも女の子などもいたと思った)、とりあえず番組的には「座布団を10枚集めたら、何か望みを叶えてあげる」という事で、山田くんが「じゃレコード出したい!」と言いだした事でデビューに至った、となっている。
が、それはあくまでも番組演出上の話で、チビッコ大喜利が回を重ねるごとに人気が出てきたので「4人でレコードデビュー」というのが決まっていたらしい。
それも山形で公開放送をした時に行きの電車の中で4人がふざけて大合唱をしていたのを見て、司会者・三波伸介が「お前らみたいな下手な歌でデビューしたら逆に売れるかもな」と言いだした事から話が膨らんでいったという。

「恋があぶない」作詞.岡田冨美子/作曲.佐瀬寿一
200809034このデビュー曲「透明人間」のクレジット部分を見て「!」と思ったオールドフォークファンの方もいるかと思いますが、フォーク系専門会社「エレックレコード」からずうとるびはデビューしています。
あの時代、まだフォークと歌謡曲は相反する部分がまだあったので「なぜ?」と思ってしまうのですが、実は歌手になる話が盛り上がった山形での公開録画がキッカケになっているのです。
その帰りの電車の中で偶然乗り合わせたフォーク歌手泉谷しげるを発見してしまったのです。そして子役あがりで恐れを知らない山田隆夫が「今度僕たちデビューする事になったので、もしかしたら一緒のステージで歌う事もあるかも知れないのでヨロシク!」と挨拶をしたという。
いきなりの挨拶に流石の泉谷しげるも度肝を抜かれたが「おぉ君の出てるドラマもよく見てるし、笑点も面白れぇな」と話が弾み、実際にはまだレコード会社も決まっていないという事から「じゃ、エレックでどうだ」と話が進んでいったらしい。

「太陽の季節」作詞.岡田冨美子/作曲.穂口雄右
200809035山田隆夫が芸能界入りしたキッカケが「チビッコのど自慢」だったので音楽がらみで、作詞作曲ももともとやっていた為にリーダーとなり、デビュー曲も自作となった。(デビューの時点で楽器を弾けたのは山田だけだった)
ドラマの方は1971年NHKの破天荒な時代劇「天下御免」に子役レギュラー(15歳)として登場し、1974年のNHK少年ドラマシリーズ「夕ばえ作戦(光瀬龍原作)」では堂々の主役を演じている。

ギター担当の江藤博利はフジの特撮「宇宙猿人対スペクトルマン」などに出ていた。
(Wikipediaでは「スペクトルマン」と書いてあるけれど、この番組は途中で2回番組名が変わっており、江藤博利が出たのは「宇宙猿人対スペクトルマン」の時。「宇宙猿人ゴリ」1971年1月2日〜5月15日:20回/「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」5月22日〜9月25日:19回/「スペクトルマン」10月2日〜1972年3月25日:24回)
江藤博利はバブル期は渋谷のカラオケスナックを経営し、現在新小岩のダーツバーを経営しており、この数年はWOWOWのドラマ出演や舞台出演などで俳優業に復帰している。

「初恋の絵日記」作詞.岡田冨美子/作曲.加瀬邦彦/紅白出場
200809036今村良樹は左利きという事で「ビートルズのベース・ポールマッカートニー」に合わせてベース担当となっている。俳優としては1971年に谷岡ヤスジのマンガが原作の「谷岡ヤスジのメッタメタ ガキ道講座」でオラ山ガキ夫の仲間の一人としてデビューしている。
漫画が得意という事で雑誌「デュオ」に読み切りを掲載した事があるが、山田ミネコ「ハルマゲドン」や竹宮恵子+光瀬龍「アンドロメダ・ストーリーズ」などが連載されてる雑誌に一緒に掲載されるのにはかなり厳しいレベルの絵だった事を記憶している。
引退後は放送作家となったが漫画好きを活かして「お笑いマンガ道場」の構成作家なども務め、文化放送でアニメ・声優系の番組を手がけ、日本アニメ・オタク文化を裏側で支える人物になっている。

ドラムの新井康弘は基本的に根っからの俳優で、現在も俳優を続け、昼ドラマ『大好き!五つ子』の父親役など、木訥なよい人役を得意としている。
弟の新井つねひろも俳優で「3年B組金八先生」の第1シリーズに出演していた(10年ほど前まではドラマに出ていたんですが最近は不明)

「恋の夜行列車」作詞.山田隆夫&岡田冨美子/作曲.山田隆夫
200809037そんな感じで山田隆夫の作詞作曲でデビューしたんですが、思ったほど売れなかった。
実際、一聴して「こりゃ売れないな」と思ったのですが。
その後も何曲か山田くんの曲がシングルになっているんですが売れず、結局ヒットしたのはプロの作曲家が作った曲。その辺はタレントとミュージシャンの区別を付けているのか、自作曲は楽器演奏、作ってもらった曲はダンスをするとなっていた。
でもアルバムでは山田くん作曲の曲が多く、さらにシングルB面も山田くんの曲が多い。しかしアルバムなどを聴くと、山田くんの曲とプロ作家が作った曲の温度差が激しくて、思わず曲を飛ばして聞きたくなってしまう程。
でも徐々に聴ける曲を作れるようになったみたいで、個人的には山田くん作曲の「恋の夜行列車」は好きな曲。

「ペチャパイブギ」作詞作曲.山田隆夫
200809038←このシングルは「ダウンタウンブギウギバンド」が流行っていた最中に、明らかに便乗で出した曲。で、話題にはなったが売れなかった。(編曲はつのだ☆ひろ)
ちなみに「ずうとるび」というグループ名はよく「ビートルズ」をひっくり返した名前」と言われるがひっくり返すと「ずーるとび」。ずうとるびは最初と最後の音をひっくり返した名前。
そして、カタカナで書くと「フォーククルセダーズ」が「水虫の唄」をリリースした時に使った変名。
ちなみに「THE BEATLES」の関連グッズを管理していた会社はアルファベットで逆から読んだ「SELTAEB(セルテーブ)」

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2008年8月25日 (月)

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」

シャワー「あっ!という間にビーチ・ラブ」
作詞.森雪之丞/作曲.鮎川誠/編曲.大村憲司
1982年00月/¥700
ビクター音楽産業/SV-7217


200808251夏シングル第8弾
ということで1982年に資生堂の「シャワーコロン」のCM用に結成された、良くも悪くも全然音楽的ではないグループ『シャワー』。
って「知らんがな」という感じかも知れませんが、ジャケットの前列左側にいるのが村上里佳子(リカコ)です。あと、たしか前列一番右側が秋山絵梨子で現在は陣内孝則の奥さん。他にもモデルをやったりしばらく活動していた人もいるみたいですが、現在はリカコだけっすかね?

1980年11月に田辺エージェンシーが企画したオーディションで集められた7人組で、まだおニャン子もモーニング娘。も無かった時代、7人組って段階でもう「企画物」って感じだったわけですが、それでもシングル2枚、アルバムも1枚出して、自然消滅したという事なのだ。
とりあえず「夜のヒットスタジオ」にはデビュー曲「Do up・愛(Love)・ing」で出演した事があるらしい。

200808252で、このシングル「あっ!という間にビーチ・ラブ」なんですが、作曲がかのシーナ&ロケット鮎川誠っす。で、どんな曲かというと、良くも悪くもガールズポップスで、しいて言えば「Go-Go's」とかの、毒にも薬にもならない脳天気な曲。チアガールズ的って感じですかね。
でも音なんかを冷静に聞いていると、なんかラモーンズやパブロックに近いニュアンスを感じないワケでもないですが、やはりとりあえず作ってみました的。
でも、その心が入っていない感じが凄く楽しい。ポップな曲って最終的には「いいじゃん、楽しければ」という部分に至ると思っているので、この曲は好きです。聞いていると頭悪くなりそうな感じが。イントロは「フットルース」が元ネタかな?
ちょっと引っかかるのが1分38秒辺り&2分30秒辺りに突然出てくる「ウゥッフン」というお色気フレーズ。これってモロにキャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」の中に出てくるフレーズと同じだよなぁ、というか最初サンプリングかと思ってしまった。

Lip'sデビュー曲「愛の魔力」
200808253しかし「資生堂シャワーコロン」のCM用に集められたグループって事で、出演できる番組が絞られていただろうなぁって感じがする。
この手のCM企画でデビューしたグループは色々あって、すぐ思い出せるのが、1990年にUCC缶コーヒーのオーディションでデビューした「Lip's」。現在は女優として「温泉へ行こう!」シリーズの主役を張っている加藤貴子がいたけど、このグループもCM以外ではほとんど見かける事が無く、深夜系の出演が多かったかな。

お菓子に入っていたCD(No.07-08抜け)
200808254もっと悲劇なのは今から7年ぐらい前にデビューした「チュエル's」というグループ。
ブルボン&ソニーが行った 「21世紀ガールズユニット結成キャンペーン」からのグループなんですが、まず「シングルCD入り」というお菓子が発売された。
それは、1箱に2名の女の子がそれぞれ歌っているCDが1枚入っていて、5枚分を購入すると、計10人の女の子の歌を聴くことが出来る。
それの中から好きな子に応募して……、選出された3人を正式にアイドルデビューさせる、という企画だったのです。
(←のCDは総て中古店の10円コーナーで購入、この中からビッグになった人がいれば高値になったのにね)
そして応募上位3人は「チュエル's」と名付けられデビューし、ブルボン新製品のCM曲を歌った。
実はそのブルボンの新商品の名前が「チュエル」、つまりグループ名がそのまま商品名だったワケです。
応募ハガキには「ユニット名」に関しての応募欄も書かれているんですが、最初からグループ名は決まっていたんでしょうね。

CDに入っていた応募ハガキ
200808255これがどういう意味を持っているかというと、ブルボン以外のお菓子メーカーがスポンサーに入っている番組には出演できない。曲を流すことが出来ない。という事。
そりゃ、グループ名自体がCMになっているんだから。
結局、自分はそのグループを見ることなく、曲を聞くこともない今に至っている。
まだ、そのデビュー時のサイトが残っていますが『チュエル's』、1曲だけで終わってしまったのかなぁ。(メンバーの一人は後にZONEの補充メンバーになっているけど、そっちもすぐ解散している)

そんなこんなで、ある意味企画物アイドルというのはいたいけな少女達が企業の思惑に振り回されるだけの存在なのだ。
そういう場所から生き残ったシャワーの村上里佳子やLip'sの加藤貴子って凄いんだな。

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2008年5月29日 (木)

斉藤由貴「青空のかけら」

00saitoaozora斉藤由貴/青空のかけら
作詞.松本隆/作曲.亀井登志夫/編曲.武部聡志
1986年8月21日/¥700
CANYON:7A0615


なんか梅雨直前の天気に時々、気分がよい青空を見ているとこのメロディが浮かんでくる。
歌手・斉藤由貴といってラジオなどで今流れるというと、初期の「卒業」とか「夢の中へ」とかって感じですが、実はこの「青空のかけら」というシングルは、斉藤由貴にとって唯一のオリコン1位を記録した曲なのだ。
作詞は悔しいけれど、凄く爽やかで気分を高揚させてくれる詩を書く憎いあんちくしょうの松本隆。
そして作曲は亀井登志夫。
亀井登志夫は山下久美子の「バスルームから愛をこめて」や松本伊代の「抱きしめたい」「チャイニーズキッス」などこれは!という大ヒット曲がないけれど、自分的には大ヒット曲が多い作曲家なのだ。

この「青空のかけら」はその中でも特に大好きな曲。
別に言及はしていないが、スタンダードナンバー「MY BLUE HEAVEN:私の青空」のメロディラインを多分に意識して、それをポップな方向に力業で作り替えたんじゃないかと思っている。(榎本健一や高田渡のVer.が好き)

00longvaozoraこの曲は有頂天のケラが結成したバンド「Long Vacation」がアルバム『Long Vacation's Pop』の中でカバーしているんだけど、そっちもかなりポップでいい感じ。
ちなみにこの当時ケラは激しく斉藤由貴にハマっていたらしく、アルバムの中の『Long Vacation's Touch』という曲中にメンバーが自己紹介する部分で「斉藤由貴もほどほどにしたいと思います」と語っている。

実は、この時代自分も斉藤由貴にハマっていたわけですが、自分は凄くアイドル歌手にハマるベクトルが不純で「容姿は全然興味ない。その人が女優やっていてもドラマは一切みない。ライブビデオがあっても画像は全然興味ない。」という、アイドル系歌手の曲を聞くってのに「音だけでいい」という周囲には理解不能と言われる人でやんす。
そのために、斉藤由貴の全シングル全アルバムを持っているのに、ドラマをちゃんと見たことがない、映画も1本も見たことない、という不純な人なのだ。
顔が凄く好みでも声質が嫌いだったり、歌手としての艶を感じないと、興味を失ってしまうという変な指向性もある。

斉藤由貴はアイドル末期は完璧にアルバム志向の人になって、シングルカット無しのコンセプトアルバムを作るようになっていき、個人的は凄くハマったワケですが、世間的には「シングルヒットも亡くなったので歌手としてはもうダメだね」という感じになっていった(と思う)。
最終的には結婚などがあって、そっち方面の活動は終止符を打ってしまったワケです。
(この数年、ボチボチと音楽活動も再開しているみたいですが)

Tokiasaaozo去年は土岐麻子さんがこの曲をカバーしています。伸びやかな声が気持ちいいんですが、斉藤由貴の声量の無さを補って余りある声による演技を超えることが出来ていない感じがしちゃって残念でやんす。
でも発売から20年以上が経過して、こうやってカバーされるってのは名曲だった事なんだよなぁ。
ちなみに昨年放送されていたドラマ『歌姫』に出演している斉藤由貴を久々に見たんですが、富士眞奈美ポジションになっていてビックリしました。

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2008年5月19日 (月)

沢田研二「TOKIO」

2008051901沢田研二/TOKIO
作詞.糸井重里/作曲.加瀬邦彦/編曲.後藤次利
1980年01月01日/¥600
Polydor/DR6385


ここの所、漫画「関町物語」を書くために、1980年前後の資料を色々読んでいるのだが、ふと思ったのが「1980年はSF的未来図で始まった」という事なのだ。
時代というのはすべて連続した時間として繋がっており、革命的な歴史的な事件が起こらない限り、常に緩やかに変化をしていく物なのだ。
よく時代論を語る時に1960年代、1970年代などという言葉で乱暴に時代を断ち切ったような言葉が使われるが、実際その時代を生きてきた人間にとっては大晦日から正月に日付が変わろうと変わるまいと、連続した営みが続き、そ〜んなに世の中は変わる物ではないのだ。
そういう意味では1980年代とはなんぞやと語る際に、明確に時代を象徴できるのは、1985年を中心にした数年という事になるかもしれない。

ロンリーウルフ:作詞.喜多條忠:作曲.大野克夫:編曲.後藤次利
2008051902しかし1980年になった瞬間、なんだかよく解らないけれど新たな時代が始まるという予兆があった。
それは明確に、影響力のある人物が「新時代の幕開け」という宣言をしたからなのだ。
その人物とは稀代の歌舞伎者、沢田研二。
沢田研二、通称ジュリーは新時代の幕開けの初日、1980年1月1日に誰も予想をしていなかった新曲『TOKIO』を発表している。(正しくは前年暮れに発売したLPからのシングルカットだが)

当時、大晦日のテレビは、紅白歌合戦が終わった直後に民放へチャンネルを廻すとどの局も同じ番組「ゆく年くる年」が放送されていた。
今ではとうてい考えられない状態だが、毎年東京キー局が持ち回りで制作した番組を、すべての民放局が同じ内容の番組を流していた。最終的には地方局を含め全国106局同時ネットというすごい番組になっていたのだ。

恋のバッドチューニング:作詞.糸井重里:作曲.加瀬邦彦:編曲.後藤次利
2008051904大晦日、年に一度の夜更かしが許される日という事もあって、子供達はテンション上がって「どのチャンネル廻しても同じだぜ!」と得意げにチャンネルをガチャガチャ廻し「むやみやたらとチャンネル廻したら壊れるだろ!」と各家庭で新年早々怒られる子供が続出したイベントだった。
この「ゆく年くる年」という番組は「日本初のCMで時報を流した」セイコー社の1社提供で放送されており、カウントダウンの時計は当然セイコーだったのだ。

ピッピッピッ、ポーン!と、セイコー社の時計が1970年代に幕を下ろし、新たなる10年間、1980年代が始まった1980年1月1日、その瞬間、テレビの闇の中から派手な電飾が点滅し、ジャッジャッジャ〜ンジャ〜♪と重いディストーションギターの音が流れだしたのだ。
「な、なんだ?」と、当時高校3年生だった自分はその画面を見て度肝を抜かれた。
そこにいたのはミリタリールックにいくつも電飾をつけ、何やらでっかいパラシュートを背中に背負って風を受けている沢田研二だったのだ。

カサブランカダンディ:作詞.阿久悠:作曲.編曲.大野克夫
2008051903さきほど終わったばかりの紅白歌合戦の中では「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かったよ♪」と昔の男は自由に格好良く生きる事が出来たのに時代遅れの男は不自由だと『カサブランカ・ダンディー』を歌っていたジュリーが、1980年の幕開けと同時に電飾の中から出現してきたのだ。

しかもそこで歌われている内容はやたらとシュールで、スーパーシティ「TOKIO」が空を飛んだり、海に浮かんだり、星になったり、という一回聞いただけでは意味が理解できないものだった。
今、改めて聞き直すとアレンジや楽器編成自体は凄くアナログでテクノ的要素は少ないんだけど、途中で使われるキーボードのフレーズやシンセドラムはまだ歌謡曲が歌謡曲だった時代には充分に刺激的だった。

編曲の後藤次利は、前作「ロンリー・ウルフ」という地味だけどムチャカッコイイ曲の編曲から「TOKIO」「恋のバッド・チューニング」「麗人」の4枚のシングルを手がけている。
ちなみに1979年末にすでに発表されていたアルバム『TOKIO』の編曲をすべて手がけており、サディスティックミカバンド以降、サディスティックなどでスタジオミュージシャンとして鍛え上げた後藤次利の力量を見せつけるような内容になっている。そしてこの年の年末、日本レコード大賞・編曲賞を「TOKIO」で受賞している。
「TOKIO」はテクノ風味の曲だが、実はベーシスト後藤次利のあまりにも格好良すぎるベーステク満載なのだ。低音を利かし気味にしてヘッドフォンで聴くことをお勧めします。

麗人:作詞.阿久悠:作曲.沢田研二:編曲.後藤次利
2008051905この1980年1月の段階では、すでに「イエローマジックオーケストラ」はデビューしており、ワールドツアーも成功させ、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』もオリコン最高位9位にもなっているが、まだ一般的な浸透度も少なく、歌謡界はテクノの扱いに苦慮していた時代だった。
この時代、沢田研二は常に斬新なアイディアを曲に折り込み、おそらく時代を牽引していくという自負もあったんだろうと思う。そんな中で当然テクノ的なアプローチも必然だったと思うが、1980年代の初っぱなにこれを持ってきたというのは大いなる意図を感じるのだ。

そして「シュールな歌詞」を書いていたのは新進気鋭のコピーライター糸井重里。その段階で、すでにコピーライターとしてはいくつかの受賞歴があり、矢沢永吉の「成りあがり」のライターなど大きな仕事をこなしていたが、一般的知名度を集めたのがこの作詞からだった。(もっとも糸井重里というキャラとして有名になったのは1982年から始まったNHK『YOU』の司会)

アルバム『TOKIO』
2008051906そんな形で新時代を意図的にこじ開けた曲「TOKIO」は、ザ・ベストテンでは発売から3週間経過した1月24日に8位に初登場し、その後10週に渡りランクインしつづけた。当時、久保田早紀「異邦人」→クリスタルキングの「大都会」→海援隊「贈る言葉」が爆発ヒット中で1位は獲得できなかったが、2位は5回、3位は3回、4位は2回と上位をキープしつづけた。
そんな中、歌舞伎者ジュリーはその巨大な衣装で色々な場所に出現した。ビルの屋上などで歌った事もあったが、アメリカへ渡りアリゾナのデスバレーという荒野で風に煽られながらも必死に踏ん張りながら歌った姿が今でも記憶に残っている。

その後、「おれたちひょうきん族」でたけちゃんマンの衣装としてパロディ的に使用されたり(元々、ジュリーの物まねをするために作った衣装らしい)、ばかでかいセットのような衣装は小林幸子に継承されていくのだが。
なにはともあれ、1980年の幕開けと同時に民放チャンネルを見ていた全ての家庭に、沢田研二の1980年代宣言「TOKIO」が流し込まれたのだ。
その1980年代が人々にとって幸せな未来だったのかはよく解らない。

ちなみに、民放同時放送の「ゆく年くる年」は昭和最後の年末となった(その時点では昭和最後とは思っていなかったが)1988年から89年にかけての回が最後となり、平成の最初の年末、1989年と1990年の橋渡しの年末は各局独自の番組となっている。

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2007年4月16日 (月)

佐野元春「アンジェリーナ」

00sano001佐野元春/アンジェリーナ
1980年3月21日/Epic Sony
60-5H-31/¥600


ここの所、「関町物語」なんて物を自己満足連載しているワケですが、その舞台になっている1980年ってのは自分にとって激しく変化があった年で、良くも悪くも心にズッシリと残っている年なのだ。
その1980年3月21日に佐野元春がシングル「アンジェリーナ」でデビューしている。
たぶん、その3月21日前後に自分は静岡を離れ、初めての一人暮らしを東京でスタートさせている。

00sano008その当時毎週購入していた雑誌に「FMレコパル」という雑誌があった。今みたいに「あの番組はいつやっている?」とインターネットで調べる事も出来なかった時代、多くのラジオキッズはこの手の雑誌を購入してラジオ番組をチェックしていたのだ。
まだ学生が個人でテレビを持っているような時代でもなかったので、ラジオが学生にとっては友達だったのだ。
そんな東京での一人暮らしを始めた時にFMレコパルの「今週の新人」というコーナーで『佐野元春』というアーティストの紹介記事を読んだ。

なんか「ポップなリズムに乗せ都会的な風景を切り取った新世代のロッカー」みたいな字面を読んでいるだけでは「なんじゃそりゃ」みたいな紹介をされていたような気がするんだけど、自分はそのアーティストに大注目してしまったのだ。
その理由は「誕生日、オレと同じジャン」という激しくアホらしい単純な物だったんだけど、その後ラジオで「アンジェリーナ」を聞いて「!!!」となってしまったワケです。

00sano002デビュー曲「アンジェリーナ」のジャケットは2種類ある。
一般的に有名なのは横浜「赤い靴」の店頭でポーズをとっているアルバム「Back To The Street」と同じ時に撮影したもの。
もう1枚はあまり知られていない青っぽい写真のもの。
こっちのジャケットは「幻のジャケット」と一部マニアに言われている。というのも、最初これで発売したけれど、この写真が曲のイメージに合わないという事で極短期間で回収され有名な方に差し替えられたらしい。
というワケで、マニアなら垂涎の一品でやんす。と言いつつ、これは中古店で1枚100円で購入したもの。

00sano003佐野元春はドーナツ盤と呼ばれるシングルレコードに思い入れがあるアーティストでアルバムからのシングルカットが多い。つまり一般的にはアルバムを先に買ったファンはシングルをワザワザ買わないというパターンが多かったハズ。
そのために、アルバム「VISITORS」からシングルカットされた4枚のシングルもあまり持っている人は多くないと思うのだ。同時期に12inchのLong Verも出ていたので、そっちを購入しちゃうパターンも多かったと思う。
さらにカセットテープで発売したポエトリーリーディング「エレクトリックガーデン」からのシングルカット「リアルな現実 本気の現実」なんてのも珍しいんじゃないかと。
で、去年「知泉的音楽夜話」でも書いた「1989年、ソニーがアナログシングル発売を終了する記念に出した「警告どおり計画どおり」に続いていくのだ。(その後に「約束の橋」がアナログで出ているけど)

00sano0042枚目のシングル「ガラスのジェネレーション」を10月21日に発売、1981年4月からFM-TOKYOで「サウンドストリート」が始まった。
その第1週目2週目はライブで、第1週目のライブを録音した物が今でも手元にある。
(Wikipediaでは1980年から始まったと書いてあるんだけど「先月誕生日があって25歳になったんだけど」と語っている事から1981年4月期から始まったハズ/カセットレーベルに放送日付とか書いてあったハズだけど、レベール紛失してハッキリした日付不明)

「え〜詩を作る時にどういう風に作るのか聞かれるんだけど…自分でもよく解っていません」など言っている。佐野元春はよく「自分で話をふっておいて、ウヤムヤに終わる話」をしていた。
「先日ライブでみんなが誕生日を祝ってくれたんだ。でもそんな事今言ってもしょうがないので、次の曲を」
それから20年近く経って「HEY HEY HEY」に出た時、その一人完結っぷりはサラに激しくなっていて、ダウンタウン松本が「ほんま、佐野さん勘弁してくださいよ」と、ツッコミもボケも成立しない話ッぷりに参っていた。

00sano005今聴くと佐野元春の曲は「当たり前の日本語ロック」と聞こえるんだけど、ハッキリ言って70年代までの日本語ロックとは言葉の選択肢やメロディに対してのハマリ方が違っていた。
自分は高校時代から作詞作曲をしてきたんだけど「オレは間違っていた」と痛感してしまったのだ。
「日本語ロック」なんて言葉、今これを読んでいるほとんどの人が「なにそれ?」と思ってしまうんだろうけど、70年代はまさにそれが議論までされている。

00sano006「新譜ジャーナル」だったか、当時の音楽雑誌で、内田裕也(フラワートラヴェリングバンド)と大滝詠一(はっぴいえんど)が対談して「内田:日本語はロックに乗らない」「大滝:それは偏見だ」「内田:オレは英語で歌う」「大滝:日本語の文学的な面でロックを展開させる」「内田:日本語で歌うお前の音楽はロックじゃない」的な事で激しく議論しているのだ。
80年代に至るまでも多くのアーティストが道を造ったとは思うけど、ある意味、佐野元春という人物によって「違和感の無い日本語によるロック」が完成したんじゃないと思ったりする。
それゆえ、その後大滝詠一が自分のプロジェクトに誘い込んだんじゃないかと。

ちょうど時代的には、RCサクセションがロック化し、シーナ&ロケッツ、ロッカーズ、A.R.B、モッズ、ルースターズなどのめんたいロック、アナーキーやスターリンなどの日本語パンクが一斉に出てきた頃で、80年代に入った瞬間に日本の音楽は激しく変化していたのだ。
もっとも、一般的なレベルでロックが浸透するのは80年代中期のボウイ(自分的には歌謡曲ロックだと思っている)、そして90年代のバンドブーム(ロックもお子様向けになってしまったなぁと感じたけど)まで待たなくてはいけないんだけど。

00sano007この当時、佐野元春はテレビ神奈川の「ファイティング80」に出ていたんだけど、自分が最初にテレビで動く佐野元春を見たのは、たぶん1982年に放送された「ビートルズ特集番組」で(ジョンレノンが1980年末に殺された以降、しばらくの間、特集番組が多くあった)「各界の人々に好きなビートルズの曲を聞く」という物で、他の人々が想い出やらを延々とタラタラと喋っている中、いきなり画面に登場して「I'm the walrtus」と一言だけ言って消えた。たぶんコレが最初。まだ「ナイアガラトライアングル( A面で恋をして)」以前で、知名度もほとんど無かった事の話なのだ。

しかし、久々に聞き返した1981年サウンドストリートのライブテープ。音が非常に悪くなっていてショック。元々音も悪かったんだけど、CDに焼き直して永久保存なのだ。

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2007年3月15日 (木)

鈴木ヒロミツ(モップス)追悼

0000hiromitu01俳優の鈴木ヒロミツ氏が亡くなった。
まだ60才ということで早すぎるなあと言う感じです。
鈴木ヒロミツ:1946年6月21日・東京都文京区生まれ


世間的には俳優・鈴木ヒロミツという事で認知されているかも知れませんが、自分的にはモービル石油のCMに出ている人→時間ですよ夜明けの刑事→その主題歌を歌っている、という流れで高校の頃に「モップス」というGSをやっていたという事を知ったことで、リアルタイムでモップスを聞いていたわけじゃないんですが、「鈴木ヒロミツ=モップスのボーカリストで凄い人」という認識になった。

0000hiromitu02モップスはジャンルとしてGSに含まれているけれど、GSではなくその後の時代のロックバンドって感じで(デビューが1968年、解散が1974年)、ファーストアルバムではプロ作家の作品を歌っていたけれど、積極的にサイケデリックサウンドを取り上げたり、後に編曲家として凄い仕事をする星勝がギターとして参加していたので、斬新でやりたい事が明確な音造りが今聞いても通用すると思う。
GSの中では突出した演奏力として評価されているのはミッキー吉野がいたゴールデンカップスがあるけれど、モップスも同等の評価をされてもいいと思うほど、黒くスィングしているバンドなのだ。
ちなみに、鈴木ヒロミツが刑事役として良い味を出していた「夜明けの刑事」で音楽を担当したのは、モップスの星勝。

0000hiromitu03ラストスタジオ録音盤になった「モップスと16人の仲間」というアルバムでは、作家として交流のあったミュージシャンが曲を提供していて、そのメンツが凄い。
吉田拓郎つのだひろ加藤和彦、岩沢幸矢(ブレッド&バター)、忌野清志郎(ペンネーム肝沢幅一で参加)、小室等、及川恒平(六文銭)、杉田二郎、遠藤賢司、泉谷しげる井上陽水、伊藤アキラ(作詞家.この木何の木〜他にもヒット曲多数)、かまやつひろし、等々

0000hiromitu05このアルバムから吉田拓郎の「たどり着いたらいつも雨降り」がシングルカットされヒットとなる。
もちろん鈴木ヒロミツのボーカルは円熟味を増しているし、星勝のアレンジは無駄が無く黒くスィングしている(モップスの曲で鈴木ヒロミツではない高いストレートな声は星勝)
ここ数年は、ちょろっと俳優をやっているのを見かける程度だったんですが(自分的には富豪刑事が最後かな?)、その迫力のある歌声は永遠に自分の中では消えません。


モップスの豆知泉

モップスのデビュー曲「朝まで待てない(1968)」の作詞は阿久悠。実はこの曲は阿久悠が作詞家になって初めてA面になった記念の曲。

モップスというグループ名は鈴木ヒロミツは後に「長髪でモップを逆さまにしたように見えていたから」と言っていたが、それは照れ隠しで、デビュー時は「日本の音楽業界をモップで掃除し革命を起こす」というふれこみだった。

モップスのメンバーではギターに井上陽水のアレンジなどで有名な「星勝」もいる。他には三幸太郎(G)、村上薫(B)、スズキ幹治(D.鈴木ヒロミツの弟)

モップスのセカンドシングル「ベラよ急げ」はイタリア発売のオムニバスに収録された時タイトルが「Haiku:俳句」となっていた。歌詞の「早く早く」が「俳句俳句」と聞こえたため。

0000hiromitu04モップスが知名度を上げた曲に「月光仮面」がある。今渦中にいる川内康範が作詞したテレビ主題歌のカバー曲だが、ライブの最中あまりにも客の乗りが悪かったので、アドリブで月光仮面の曲をおちゃらけて演奏した所大受けになったので、アルバム収録→シングルカットしたもの(しかし歌詞の内容とかムチャクチャに変更しているのでよく川内康範がOKしたものだ、と例の報道を見るたびに思う)

しかし「月光仮面」のため、コミックバンド的な扱いになってしまい、さらに悩んでしまう事となる。

当時のGSは長髪で汚らしいと大人達には思われていたが、今見ると全然汚くないが、モップスはまさにヒッピーを体現した見た目が汚らしいグループだった。そんなモップスにも女性追っかけファンがいたが、その中に中学生時代のユーミンがいた。

鈴木ヒロミツの俳優デビューは「時間ですよ2(TBS)」、当時は本名表記の鈴木博三。ドラマに出たのは同じGS出身の堺正章に誘われたので。(1971年7月21日〜1972年3月15日)

名前表記はその次に出演した、坂口良子主演の「アイちゃんが行く!(フジ)1972年9月1日〜1973年3月30日」では「鈴木ひろみつ」となっていて、3作目の「時間ですよ3(TBS)1973年2月14日〜1973年9月5日」で「鈴木ヒロミツ」となっている。

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2006年11月15日 (水)

佐良直美「二十一世紀音頭」

000021seiki佐良直美/二十一世紀音頭
作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく
1970年/¥500
ビクターレコード/MV-578-S


この寒い時期に盆踊り用の曲の話題でしつれいします。(前回、前々回がかなりマイナーだったので、どメジャーな曲をやろうと思ったのですが)

三波春夫「世界の国からこんにちは」一番有名なVer.
000sekai01実は、30年以上に及ぶ「これ何だ?」が解明されたので、この曲を。
って、そんな大袈裟な話じゃないんだけど、ずっとずっと前の雑記にも書いた「子供の頃、地域の盆踊りで毎年毎年使われていた曲が耳に残って...」という話題。

小学校時代に盆踊りの曲として「♪これから〜31年経ったら、この世は21世紀ぃぃ♪この世はどうなっているかしら?」という歌詞の音頭ものがあったのです・
子供心になんか「凄く完成度の高い音頭」と感じていて、その歌詞はほとんど暗記していて、バックの演奏のフレーズも記憶しているほどでした。

坂本九「世界の国からこんにちは」紅白で歌われたVer.
000sekai02歌詞の内容から察する処、多分1970年に作られた曲らしいんですが、そのタイトルも歌手名も判らない状態で、友人に話しても「そんな曲知らない」とのことで自分にとって幻のヒット曲になっておりました。(多分自分が踊っていたのは、1970年にリリースされてから数年後)
たぶん、高校時代にもそんな話題を周囲に対してして「知らない」と言われていたので、もう四半世紀に渡る疑問だったのです。(高校時代にその盆踊りを主催した青年部の建家に入る機会があって、レコードないかと探したが発見できず)

吉永小百合「世界の国からこんにちは」万博タイムカプセルVer.
000sekai03で、それが「インターネットって便利だなぁ」を実感する状態であるのですが、先日ふと「そういえば!」とその記憶している歌詞を入力して検索してみると、瞬時に「佐良直美/二十一世紀音頭」だという事が判明したのであります。

そうか、佐良直美だったのか。作詞:山上路夫/作曲:いずみ・たく、という作った人々も大御所なので、この完成度は納得なのだ。

倍賞美津子「世界の国からこんにちは」
000sekai04時代としては1970年は、大阪で万国博覧会が開催されていて、未来がまだ眩しく明るい物であって、文明の進歩が人類にとって望むべき未来だった。
学生運動なども一段落していたハズだし、高度経済成長もピークを迎えていた事から、この先に控えているのはまったく曇りのない幸せあふれる世界だったハズなのだ。

山本リンダ「世界の国からこんにちは」
000sekai05歌詞の中で「♪火星や金星、遠くの星に旅行に出かけているかしら」とも歌っているのですが、1970年の前年1969年にアポロ11号で初の月面着陸をしたという事もあって、宇宙開発は当然進んでいて、21世紀を迎える頃には宇宙ステーションが出来ていて、その中で多くの人が地球上と変わらない生活をしているというのが「当然来るべき未来」として描かれていたのだと思う。
その辺は残念だったし、地球上もそんなに素晴らしい未来を迎えてはいなかった。

西郷輝彦「世界の国からこんにちは」
000sekai061960年代中期に始まったベトナム戦争は1973年に終結したが、それから30年経っても人類は戦争をし続けている。馬鹿な国が核兵器をさらに生産して軍事的脅威で自国を守ろうと躍起になっている。
子供の頃の自分は、すなおに未来図を描きながらこの曲を聴きながら盆踊りで踊っていましたが、この世はあんまし良くない方に転がっていますよ。

きっと「未来に夢がもてない時代」というのが、色々な部分にさらなる歪みを作っていくんだろうなぁ
しゃんらららしゃんらら〜21世紀の夜明けは近い♪

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2006年11月 2日 (木)

沢田研二「時の過ぎゆくままに」

Sawa009_3沢田研二/時の過ぎゆくままに
作詞.阿久悠/作曲.編曲.大野克夫
ポリドール/DR 1965
1975年08月21日/¥500



1967年にグループサウンズ(GS)のタイガースでデビューした沢田研二
ジュリーという愛称と共にGSを代表するアイドルになっていたが、そのGS人気も1970年代に入るといきなり下火になって1970年12月07日にタイガース解散(ソロアルバムはその前年の1969年12月01日にリリースしている)。

00sawa001その後、1971年にテンプターズの萩原健一(Vo.ショーケン)・大口広司(D)、スパイダースの井上尭之(G)・大野克夫(KEY)・タイガースの岸部おさみ(B.岸部修三→現在の岸部一徳)というメンツで、新時代のバンド「PYG」を結成。しかし、その後、大きなヒットもなく1972年に自然消滅をしている。

Sawa002PYGの活動と並行してシングル「君をのせて」でソロ歌手として活動も始め、2枚目の「許されない愛(1972/03/11)」が大ヒットし、レコード大賞の歌唱賞などを受賞し、ソロ歌手としての活動がメインになっていく。
そして表題の「時の過ぎゆくままに」は1975年8月に発売された曲だが、この時代はアイドル的な要素も強く、前年1974年に放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」の中で悠木千帆(現.樹木希林)が壁のポスターに向かって「ジュ....ジュリ〜〜〜〜」と叫んでいた事に象徴されるような時代だったのだ。

Sawa003しかし、そのアイドルとして絶頂期の1975年7月に沢田研二はザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚している。その結婚後第1弾シングルがこの「時の過ぎゆくままに」だった。
さらに、それまで沢田研二はドラマのゲストや単発ドラマなどの出演があったが、初の連続ドラマ主役として話題になった「悪魔のようなあいつ」というドラマの主題歌でもあった。
その話題性も十分あったとは思うけれど、この曲は盟友・大野克夫の珠玉の名曲で、出だしのギターフレーズから哀愁路線どっぷりで、さらにジュリーのボーカルがGS時代より格段に色気をましてしっとりと抑え気味に歌うという物。大野克夫が沢田研二という稀代のボーカリストの声質をいかに生かせるかという研究の末に作られた曲という雰囲気なのだ。

Sawa004この曲は90万枚を超える大ヒットとなって、結婚なんて物は人気には全然影響ないじゃんという状態ではあったのだ。
が、好事魔が多いということで、1976年に新幹線の中で暴言を吐かれ、それで暴行事件を起こし、しばらく謹慎となったワケです。
もっとも、復帰後は「アイドル沢田研二」ではなく「エンターテナー沢田研二」として1980年代までどんどんエスカレートして突っ走っていく事になるわけでやんす。

Sawa005とにかくこの曲は名曲中の名曲だと思っております。
ちなみに演奏は「井上堯之バンド」で、PYGの井上堯之・大野克夫・岸部修三(岸部一徳)が参加している。今は俳優だけのイメージの岸部一徳は、この「悪魔のようなあいつ」に俳優としても出演していますが、70年代までは同時にベーシストとしても活動していたのであります。

Sawa006で、ドラマ「悪魔のようなあいつ」という作品は、1968年12月10日に東京府中市で起こった「東芝府中工場のボーナス強奪事件」いわゆる「3億円事件」を題材にした物で、1975年6月6日〜9月26日に放送された。
主題歌はヒットしたんですが、実は視聴率的には思ったほどいかなかったらしく、本当は年末まで放送して、窃盗事件の時効7年の1975年12月10日前後にクライマックスを持ってくる予定だったらしいが、その前に打ち切りになったという。

Sawa007そしてこのドラマの脚本を書いていたのが映画監督としても有名な長谷川和彦。ここでジュリーの演技に惚れ込んで、原爆を安アパートの中で作り上げ政府を脅迫する男を描いた「太陽を盗んだ男(1979)」の主役に起用することになる。
東海村の原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、自宅で原爆を作ったけれど、目的が見あたらない犯人が「とりあえず今見ているナイター中継を最期まで放送しろ」と政府を脅迫したり「ローリングストーンズを来日させろ」と要求したりという、これも名作でやんす。

三億円事件の豆知泉

Sawa0083億円事件。結局は7年かかっても犯人が見つからず時効となったのだが、それに費やした捜査費用はおよそ3億3,000万円。

1968年に起こった「三億円事件」で盗まれた正確な金額は294,371,510円。あの犯人は562万8490円分のぬれぎぬを着せられたことになる。

奪われた金額を語呂合わせで読むと「にくしみのない強盗」

給料を銀行振り込み型にした第1号は1941年の大蔵省。貯蓄額倍増計画の一環としてだったが民間会社はほとんど実施しなかった。振り込み型が一般的になるのは1968年に三億円事件で給料輸送車が狙われたのがキッカケ。

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2006年10月24日 (火)

サディスティック・ミカ・バンド「NARKISSOS:ナルキッソス」

サディスティック・ミカ・バンドのニューアルバム「NARKISSOS:ナルキッソス」が発表された。


000micaba今年の春先に「木村カエラがボーカルで復活!」とブログでもネタにして、そこでミカバンドの歴史なども書いたワケですが、さらに歴史に1ページが加わりました。
キリン・ラガーのCMでは春から代表曲「タイムマシーンにお願い」が流れていたんですが、そこでの加藤和彦の声で「時代は変わる、ラガーは変わるな」とキャッチコピーを言うのも「あぁぁぁぁぁ」と自分的には毎回ゾクゾク来ていたワケっす。

加藤和彦がCMでこんなふうのキャッチコピーを言うのは、1970年代初期のモービル石油のCM。藤竜也と鈴木ヒロミツがエンストした車を手で押している物で、マイク真木が歌う「♪の〜んびり行こうよ俺たちは」のメロディーの最後に「車はガソリンで走るものです」とあの独特の口調で語るもので、これが少年期に刷り込まれているので、今でも加藤和彦の声を聞いているだけで幸せな気分になるでやんす。

加藤和彦とCMというと、1970年の富士ゼロックスのCMで加藤和彦が手に「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持ち、ただただ街を歩いている物があった。音楽も加藤和彦がこちらもただ「ビューティフル、ビューティフル」と繰り返すだけの物で、何のCMか全然判らない状態で延々と続き、ラストに「モーレツからビューティフルへ、XEROX」という文字が出る。というだけのものがあった。
ハッキリ言って、まだ小学生の低学年の時に見たCMなので印象には残っているけれど、一体何のCMなのかは不明だった。(というか、この文章を書くためにネット検索して初めて富士ゼロックスだと知った)
当時、加藤和彦は「フォーククルセダーズ」と「ミカバンド」の間の時代で、世間ではヒッピームーブメントやフラワーチルドレンなんて言葉の中心にいたハズです。

で、今回の木村カエラ版ミカバンドのアルバムなんですが、一言でいって「時代を超えちゃってますな」という感じ。初代ミカバンド自体が時代なんかとは関係ない場所にいたんですが、まさにそのミカバンドの「新作」という感じでもあるし、「前作の続き」って感じでもある。
新曲は加藤和彦作曲が3曲、小原礼作曲が3曲、高橋幸宏作曲が2曲、高中正義作曲が2曲で、それぞれの持ち味がバリバリに前面に出ていて、クレジットを見なくても誰が作曲したか判ってしまうんですが、それでも「ミカバンド」という音になっている。
CMでも使われ、先行発売(ネットのみ?)されていた「タイムマシーンにお願い」の音造りを聞くと今の時代っぽいミキシングを感じるけれど、その骨になる部分は70年代と変わっていないような気がする。

高橋幸宏の軽くて重いドラム。ややツッコミ気味だけど、ロールを多用するけれど、なんでこんなに自己主張がなくて存在感があるんだろうか、と、改めてその特殊性に感心する。
高中正義のクールで押しつけがましくないテクニック満載のギターフレーズ。
小原礼のドッシリと屋台骨を支えるベース。その裏でこっそりと縦横無尽に音を走らせて色を加えている。
加藤和彦はソロで弾くと味があるギターを抑えめにしてサイドに徹していますが、作曲とボーカルはどこに行っても加藤和彦。さすがトノバンなのだ。(トノバン=加藤和彦の70年代の愛称で、イギリスの60年代ヒッピームーブメントの代表歌手ドノヴァンが好きだった事からのネーミング)

で、木村カエラのボーカルがソロの時より格段に良い。メインボーカルとして歌っている時ではなく、高橋幸宏がメインで歌っている時に絡むコーラス的な歌い方とか、抑える歌い方も良い。
桐島カレン版のミカバンドは、良くも悪くも「桐島カレンという素材でミカバンドを作ってみました」という感じだったのに比べ、今回のミカバンドは完成度が高いと思うのだ。

売れる売れないを別にして自分的には2006年の名盤となりました。
ちなみにバンド名は「サディスティックミカバンド」ですが、ジャケットには「Sadistic Mikaela Band」となっている。(初代がMIka、二代目はMIca、三代目はMIikaelaですか)
※7曲目「Tumbleweed」の2分25秒の所で一瞬、音が震える状態になるんですが、最初iTunesに取り込んだ物を聞いたのでそのせいかと思ったんですが、CDもそんな感じ。これって意図的なアレンジなんですかね?

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2006年9月17日 (日)

西城秀樹「ジャガー」

0西城秀樹/ジャガー
作詞.阿久悠/作編曲.三木たかし
1976年/¥600
RCA/RVS-1011


なんつーか青春ってヤツは取り返しが付かないほど周囲が見えないパワーで前のめりでぐいぐい行っちゃうのだ。
人間には二種類あって、それを後で「恥ずかしい」と思ってあまり語りたがらないタイプと、それを「武勇伝」として自慢げに話をするタイプがある。
前者というのは、客観性を持っているので問題はないのだが、後者はとにかく自分の熱さをむさ苦しいとか思わず、年々「これでいいのだ」とその熱さをさらに増幅させていっちゃうのだ。そこまで生きてきた自分のスタイルが間違いとは思っていないので、若い時以上に熱くなっちゃうのだ。

そんなこんなで歌謡界には「青春物」というジャンルがある。歌謡曲自体が若い世代をターゲットにしているので、全部青春物ではないか?と思われがちだが、自分的には「伝えたい思いが歌からこぼれちゃっている曲」を青春物と定義している。
そのこぼれちゃっている部分は「語り」だと思う。ここで青春独特の青臭さが表面化する。
例えば近藤真彦の「さよならなんて言えないよ、バカヤロー!」という絶叫型が典型的だけれど、他には加山雄三の「幸せだなぁ僕は君といる時が一番幸せなんだよ」と言う語りなども青春の蒼さプンプン。
女性でもあべ静江なんかが「お元気ですか、そして今でも愛していると言ってくれますか?」なども青臭い感じがします(古い例えを中心にお送り致しております)。

そんな中で青臭いとか青春とか絶叫とかを通り越して、ワケ判らなくなっちゃっているのが西城秀樹の「ジャガー」という曲。
西城秀樹の「白い教会」という曲の中にあるセリフでも「涙なんか、涙なんかいるもんか!ばかやろぉぉぉ!」という近藤真彦の原型が歌われている。とにかく70年代の西城秀樹は熱かった。

とりあえず「ジャガー」というタイトルの曲なので、ジャケットにもそれらしいシルエットが描かれています。で歌詞の中にコーラスで何度も「ジャガー」という言葉が出てくるんですが、歌詞をいくら読み返してもそれが動物のジャガーに繋がりそうな部分がない。なぜジャガーなのかが一切説明されていないのだ。
延々と「オレは愛に命をかけるぜ!」という事が歌われている。阿久悠という作詞家はただ者ではないという感じがプンプンするのだが、やはりそこには西城秀樹という熱さを誘引する媒体が存在しているのだ。

で、一番と二番の間に長い語りがあるんですが、そこがとにかく熱い。
「君が死んだら 俺は死ぬ、でも 俺が死んでも君は死ぬな!
  君ひとりでも愛は生きる、俺ひとりでは愛は死ぬ!」

もう何を言っているのか自分でも判っていないんじゃないかという感じの迷走具合。
最初の一行はいいんですが、二行目に至っては「俺が死んだとしても君は俺との愛を育み続けろ!」と言っておきながら「でも君が死んだら俺は君との愛を続ける事は出来ない」と、死んじゃったら別の女を好きになっちゃうよ的な感じの事を平然と言っちゃっているのだ。君が死んでも俺も愛を守り続けろよとか思うのだが、なんつーか自分勝手に熱くなっちゃっていないか?状態。

さらに熱いお言葉は続く。
「しゃべるな!何も言うな!!目を見ろ 何が見えたか?
  炎が見えたか!? 君を愛する炎が見えたか!!」

もうね、相手に何も考える余裕を与えないで、質問→すぐ答えを自分から導き出して相手に強要するという、田原総一朗並の矢継ぎ早さ加減。
そこで小泉政権が終わり、安倍政権がどう変化すると思う?え?安倍は小泉と違う?そう思う思わない?そうじゃないの?え?もちろん安倍は違うとは言えないよね?えどうなの?あここで一旦コマーシャル。と。
もうオウム真理教のマインドコントロール時並に、相手に何も考える余裕を与えずにその教義を頭に流し込んでいるのと同様の手口なのだ。

ヒデキは勝手に「炎が見えたか?」と結論を出した直後に、勝手に舞い上がってこんな事を言い出す。
「さあ来い 飛んで来い、抱いてやる! 抱いてやるー!」
もうテンション上がりまくって結論は「ただ抱きたい」だけじゃないかという感じがしちゃう、とにかく熱い男なのだ。

ちなみに70年代後半、いきなりヒデキは爽やか路線を打ち出してきて「聖少女」とか歌い初め「僕の音楽ジャンルはロックでもポップスでもないポップンロールなんですよ」と恥ずかしい事を言い出すような男に成り下がってしまいました。
いつまでも血管が切れるギリギリの男でいて欲しかったのだ。

西城秀樹の豆知泉

西城秀樹はザベストテンで「好きな本は?」と黒柳徹子に聞かれて、迷わず「SMです」と答えた。(後に「あれはSFと言おうとしていたけど、歌直前だったので慌てていて」と釈明)

辺見えみりは4歳の時に親が離婚して母・辺見マリに引き取られているが「父親も芸能人で...」ぐらいしか教えられていなかったので、小学校低学年頃まで「自分の父親は西城秀樹」と思いこんでいた。(正解は西郷輝彦

河合奈保子は「西城秀樹の妹コンテスト」で選ばれてデビューしたという経緯を持つ。というのは有名だが、実は「秀樹の妹・弟コンテスト」で男性の応募も可だった。その時応募した男の一人が後の松尾伴内
第2回は「妹コンテスト」と女性限定になり、こっちの優勝は石川秀美

ヒデキというと「ハウスバーモンドカレー」のCMが有名だが、それ以前のCMタレントは俳優の原田大二郎

実はヒデキは甘いカレーが大の苦手で、CM撮影の時は子供に混じってカレーを食べるシーンで、ヒデキだけは特注の辛口を食べていた。

ヒデキの結婚式の引き出物に入ってた「ハウスバーモントカレー」は超極甘味。

ちなみにリンゴとハチミツの入ったカレー「バーモンドカレー」はなぜ「バーモンド」なのかと言うと、これの発売当時、アメリカ.バーモンド州の研究者が「リンゴとハチミツを摂取すると体によい」という「バーモンド療法」を提案していた事からのネーミング。

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2006年8月26日 (土)

榊原郁恵「夏のお嬢さん」

0000_13榊原郁恵/夏のお嬢さん
作詞.笠間ジュン/作曲.佐々木勉
コロムビア/PK-118
1978年07月01日/600


夏も後半って事で、いまさら夏の曲を。
榊原郁恵は「ポッチャリ系」という単語を拡大解釈したアイドルとして、1976年に「第1回ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」で優勝してデビュー。
このホリプロの趣味というのがイマイチ自分には合っていないらしく、歴代優勝者を見るとシャッキリ洗練されたのとは対局にあるような、モッサリとイモっぽい印象がずっとしている。(自分的は渡辺プロ派なのかもしれない)
アイドルにしても女優にしても、デビュー時には垢抜けて無くても、いつしか洗練されて...という道を歩むハズなんですが、どうもホリプロはそれを拒んでいるような感じがしてならないわけです。

1st「私の先生」
000001_3それはまさに初代キャラバン優勝者・榊原郁恵にも当てはまる。
当時はまだ「巨乳」なんて言葉は無く「ボインちゃん」て感じでしたが、夏恒例の大磯ロングビーチで開催される水泳大会(司会はおりも政夫)では、なにもそこまでというビキニを着て出演し、オッパイ星人の方々を喜ばせておりました。色気のないキャラとそれのギャップが良かったのかもしれませんが、自分的にはボインちゃんはあんまり興味なかったので「あれはグラマーじゃなくデ×なんじゃないの?」と思っていたワケです。

2nd「バス通学」
0000_14屈託無く明るいキャラとして人気はあり、曲もそこそこ売れていたと思われがきなんですが、実際のオリコンなどの資料では「夏のお嬢さん」がもっとも売れた曲で最高位11位。つまり、あの時代を生きた人なら「榊原郁恵って売れていたよね」という印象があるんですが、オリコン10位以内に入った曲がない。
もっとも11位どまりだった「夏のお嬢さん」は20.1万枚を売り上げている。今20万枚なんていったら大ヒット曲の部類で、1位を記録した曲でも10万枚を越えない曲は山ほどある。

3rd「わがまま金曜日」
0000_15キャッチコピー「一億円のシンデレラ」というのは、キャラバンとかに掛かった費用が関係しているワケですが、デビュー曲は1977年元日「私の先生」でオリコン最高位55位2.8万枚。1977年04月01日「バス通学」、1977年07月01日「わがまま金曜日」、そして1977年10月01日「アル・バシーノ+アラン・ドロン<あなた」というギミック詩を書かせたら随一の森雪之丞が手がけた曲が話題性もあり22位、11.5万枚のヒット。

4th「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」
0000_16新人賞を経て、1978年01月01日「いとしのロビン・フッドさま」18位・15.3万枚→1978年04月01日「めざめのカーニバル」16位・12.4万枚、そして1978年07月01日「夏のお嬢さん」となった。
この年はバラエティ番組「UFOセブン大冒険」→「マジカル7大冒険」、ドラマ「ナッキーはつむじ風」とホリプロ一押しだったので売れてくれなくちゃ困る状態だったワケですが。

5th「いとしのロビンフッドさま」
0000_17しかし、この「夏のお嬢さん」という曲、当時田舎の何も知らないような自分ですら「これってスージークアトロの『The Wild One』そのまんまな曲じゃん」と思ってしまうほどの何のギミックもないような引用曲でした。
そのうち、ソックリ曲に関して色々書こうと思いますが、子供心にそれに気づいてしまったわけで、自分にとってソックリ探しのルーツの曲です。

6th「めざめのカーニバル」
0000_18ホリプロの稼ぎ頭・山口百恵が引退した後、彼女の「赤いシリーズ」を引き継ぐかのようなドラマ『青い絶唱』の主演もしたんですがシリーズ化はならずに終わってます。(同じキャラバン出身の能瀬慶子の「赤い嵐」も不発で終わってますが)。

徐々に活動の場をドラマ方面へ移していったワケですが、とりあえず1987年に渡辺徹と結婚する直前までシングルを発売していた。

8th「Do It Bang Bang」
0000doitもっとも1980年の「ROBOT」辺りがギリギリ一般的に知られている曲かなぁという感じ。
紅白歌合戦には1978年に「夏のお嬢さん」で初出場して、それ以降1982年まで連続出場していますが、5枚シングル出したけどイマイチだった1982年はなぜか「なごり雪」を歌っております。
(この年、持ち歌じゃない曲を歌ってもいいというルールが出来たためなんですが、榊原郁恵の「なごり雪」以上に「桜田淳子の歌うセーラー服と機関銃」というワケの解らなさが話題になった)

17th「ROBOT」
0000robotアイドルとしてデビューしたけど、イマイチ売れず歌を唄わなくなり、それでもまだTVに出続けているのを見るにつけ「ホリプロって財力あるなぁ」と思うワケでやんす。
ま、ホリプロの大御所・和田アキ子の「曲の売れ無さっぷり」には遥か及びませんが。

ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン
1976年:榊原郁恵
1977年:西村まゆ子
1978年:能瀬慶子
1979年:比企理恵
1980年:林紀恵   地方予選落選で松本伊代
1981年:堀ちえみ
1982年:大沢逸美
1983年:田中久美
1984年:井森美幸
1985年:山瀬まみ
1986年:伊藤美紀
1987年:坂井順子
1988年:山口裕子
1989年:田中陽子
1990年:戸田菜穂  地方予選落選で古谷仁美(hitomi)
1991年:北地大良(男性限定大会)
1992年:菊池あゆみ・馬渕英里何
1993年:木下奈緒子
1994年:上原さくら 地方予選落選で椎名林檎
1995年:佐藤仁美 (特別賞.新山千春)
1996年:深田恭子 (特別賞.酒井彩名)
1997年:古川小百合
1998年:平山あや
1999年:西端さおり
2000年:藤本綾
2001年:浜口順子
2002年:石原さとみ
2003年:大竹佑季
2004年:佐藤千亜妃
2005年:緑友利恵
あと、堀ちえみが優勝の1981年大会には星井七瀬(3代目なっちゃん)の母親が出場していたとの事。
しかし、この中の数人が「素行不良」で事務所をクビになった(公式発表はありませんが)ってのは凄いことだよなぁ

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2006年8月10日 (木)

酒井ゆきえ「ママとあそぼう!!ピンポンパン」

Sakaiyukie01酒井ゆきえ/あたふたバンバン他
作詞.山元譲久/作曲.小林亜星
コロムビア/1976年9月/¥700


最近はアナウンサーのタレント化が激しくて、ほとんどアナウンサーとしての仕事をしていないで、バラエティ番組でしか見かけないという人もいますが、もしかしたら酒井ゆきえさんはそれの元祖って事なんですかね?
とりあえず1975年に山脇学園短大英文科を20歳で卒業していて、その年の4月に新卒入社でフジテレビに入社している。肩書きはアナウンサーって事なんですが、その年から「ママとあそぼう!!ピンポンパン」の3代目おねえさんとしてキャリアをスタートさせている。

Sakaiyukie02このピンポンパンは初代おねえさん渡辺尚子さん(1966〜1971年)もフジテレビアナウンサー(旦那はTBSアナ料治直矢で、フジ退職後はTBSのお天気キャスターになった)、2代目の石毛恭子さんも、4代目大野香菜さんも、5代目井上佳子も全員フジテレビのアナウンサーという事になっている。

酒井さんはピンポンパンを1975年から1979年までつとめていたのですが、入社1年目からおねえさんを担当し、番組降板した1979年にフジテレビも退社しているので、アナウンサーという肩書きだけど「契約タレント」という扱いだったのかもしれません。(なんせ、おねえさんデビューが入社してすぐの4月7日)

トッポジージョとの共演
04_2自分的には酒井さんがピンポンパンをやっていた時代はすでにその手の番組を見る年齢は卒業していたのでほとんど記憶がないのですが、80年代に入って単行本化された大友克洋の漫画の中で描かれていたり、逆に降板後にフリーになって色々な番組に出るようになって認識をした。

ピンポンパンのレコードってのはかなりの数出ているんですが、どうも2代目の石毛恭子さんのものは頻繁に見かけるのですが、酒井さんの物はあまり見かけません。
おねえさん的にはあんまり歌が...って事なんですかね?(酒井さん時代のレコードは小学生グループ「ビッグマンモス」が歌っている曲が多い)

01_4ちなみに「ピンポンパン体操」が大ヒットしたのは1972年の事で歌っていたのは石毛恭子さん。フジテレビの番組から生まれた曲なのですが、童謡として異例の大ヒットとなったのでTBSのレコード大賞童謡賞を受賞している。(作詞.阿久悠/作曲.小林亜星)

2代目おねえさん:石毛恭子さん
2_9もっともこの曲は純粋に番組で子供達が楽しんで大ヒットしたと言うワケではなく、当時なぜかキャバレーなどの風俗店で使用されて夜の街でも大ヒットしたらしい。
ちなみに「ピンポンパン体操」はドリフターズもカバー曲を出している。(「ドリフの真っ赤な封筒」というシングルB面曲)

初代おねえさん:渡辺尚子さん
Photo_18とりあえず2代目おねえさんが石毛さんと書いていますが、実際の事を言えば渡辺直子さんの時の番組タイトルは「みんなであそぼう!ピンポンパン(1966〜1971年)」、渡辺直子さんのレコジャにも「みんなであそぼう!ピンポンパン」となっています。で、石毛さんの時からが「ママとあそぼう」です。

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2006年8月 3日 (木)

島倉千代子「東京だよおっ母さん」

季節柄というか、昭和天皇の発言録の関係というか、この期にこの曲を。


01_31957(昭和32)年に発売されたこの「東京だよおっ母さん」と言う曲は、島倉千代子の代表曲といってもいい曲ですが、実は紅白歌合戦では1度も歌われていない。
その歌われていない理由が、歌詞の中にあると囁かれている。

一番の歌詞は有名で、田舎から出てきた母親を皇居へ連れて行き「ここが二重橋、記念の写真を撮りましょうね」と歌っている。
二番の歌詞では「やさしかった兄さんが」桜の下で待っているという歌詞。ここで言う桜の下というのは靖国神社を暗喩している。歌詞の中には直接「靖国神社」という固有名詞は出てこないが、母親を連れて「あれが九段坂」と歌っている。
三番の歌詞は、単純に浅草の観音様へいき「長生きしてください」とお祈りする。

02_3実は2番の歌詞が「戦争で死んだ兄に逢いに靖国神社へ参拝しにいく」という内容が、NHK的にはよろしくないとの見解らしい。
島倉千代子は現在までに紅白歌合戦には34回ほど出場しており、他のヒット曲は何度も何度も歌われているのですが、この曲だけは1度も歌った事がない。その理由は「靖国がらみ」らしいんですが、それがNHK側からの通達によってなのか、島倉千代子側からだったのかは不明。

紅白歌合戦という年の瀬の本当に押し詰まった所で「戦争を臭わせるような曲を歌うんじゃねえ」とか言うことなのかもしれないけれど、そんな事を言ったら双葉百合子が戦地から引き揚げてくる船に息子が乗っているんじゃないかとかすかな望みを託し続ける「岸壁の母」なんてのはちゃんと歌われてましたから、やはり「戦争」って事じゃなく「靖国神社」って事が大きく関係しているんじゃないかと思うわけです

03_4P.S.
島倉千代子の代表曲『東京だよおっ母さん』は、美空ひばりの『波止場だよお父つぁん』と言う曲を聴いた島倉が感動して、『波止場…』を作曲した船村徹に「同じような曲を作ってください」と頼み込んで出来た曲。
※美空ひばりの『波止場…』は目の見えなくなった船乗りの父を波止場に連れて行くという内容だが、その中に現在では差別用語と思われる歌詞があるので、放送で聞くことは出来ない。

P.S.2
かつて島倉千代子が借金で困っている時にマネージメントを買って出て借金苦から救い出したと細木数子さんは発言しているんですが、何故か島倉千代子デビュー40周年記念パーティには呼ばれず。
さらに島倉千代子が「お金に困った時に私を助けてくれたのは....歌だけです」と発言。

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2006年5月 4日 (木)

斉藤哲夫「いまのキミはピカピカに光って」

Photo_3
斉藤哲夫/いまのキミはピカピカに光って
作詞.糸居重里:作曲.編曲.鈴木慶一
キャニオンレコード/F-266
1980年06月/定価600円


ジャケットにもドンッと宮崎美子が出ていますが、彼女が世間に注目されるキッカケとなったミノルタX-7のCM曲でさびのフレーズ「♪いまのキミはピカピカに光って〜」という部分はとにかく毎日何度もTVで流れていた。
今、CM曲っていうのは,まず最初にミュージシャンが作った曲があって、それの中からCMに合いそうなのを選んで使うという状態なんですが、この当時はまだ「CMに使う曲=ヒット狙いの新曲」という状態ではありませんでした。

斉藤哲夫1st「君は英雄なんかじゃない」1972年
0001それ故、この曲も完全にCMだけのための楽曲としてコピーライターの糸居重里がCMで流れる部分だけを考え、それにムーンライダースの鈴木慶一がメロディを付けて、斉藤哲夫が歌ったというだけの状態だったらしいです。
が、あまりのCMの評判に「いっちょシングル盤として発売すっか」と他の部分の詩と曲を作ってリリースした物です。
だから、なんかメロディの流れがぎこちないような感じもしてしまう。
ま、鈴木慶一って人は元々曲のコラージュ的要素が大きいので、そうじゃない曲でも「おいおい、そのメロディの展開は不自然だろ」ってのを平気でやっちゃう人なのでしょうがないかとも思ってしまいますが。

斉藤哲夫2nd「バイバイグッドバイサラバイ」1973年
0002この段階で糸居重里はコピーライターとして、パルコの「おいしい生活」とかもやっていたし、湯村輝彦とのコラボ「情熱のペンギンごはん」も著していたけれど、まだまだ一般的な知名度はそんなでも無かった時代。(NHK「YOU」の司会はまだ?)この曲の詩は改めて読み直してみると凄いっす。
そのまま歌詞を全掲載するのは著作権的にマズイので要約すると「....キミはピカピカだね」という事しか歌っていない。もうね、影も哀愁も人生の機微とか青春の焦燥感とかそ〜んなの一切無いもんねという吹っ切れぶり。もう何度聞いてみても何も残らない歌詞。
いや、実際歌詞を書くって作業の中でここまで「何も無い」ものを作るのは至難の業。なんか物語性とか入れたくなったり、自分と恋愛対象の距離感とか、なんか情報的な部分を入れたくなってしまうワケですが、それが一切無い。やはり、この時代の糸居重里は天才ですわ。

「およげ!たいやきくん」1975年
00_12歌っている斉藤哲夫ですが、やはり一般的にはそんなに有名だったワケではないと思うんですが、知る人ぞ知るURCからあがた森魚プロデュースでデビューして「若き哲学者」などと称され、「されど私の人生」などの曲が知られていた。だからこの曲は斉藤哲夫というアーティストの中ではあくまでもアルバイト的だったんじゃないかと思う。B面にはちゃんと自作詞曲の「シングソング心のままを」という曲が収録されている。
最近は生田敬太郎と組んでアルバムを出しているらしい。(生田敬太郎は「およげ!たいやきくん」のオリジナル歌手)

この曲なんかはどうしても宮崎美子のイメージが強いのでジャケットがこうなっちゃうのはしょうがないんだけど、他に似たケースでは中崎英也の「胸騒ぎ」という曲のジャケット写真は斉藤由貴が出ていた。
これは斉藤由貴が歌手デビュー直前に出演していたCM「青春という名のラーメン/胸騒ぎチャーシュー」というカップ麺のCM曲。
たしか間違えて買ってしまう人が続出という話題が当時あった。(所有しているハズですが、見つからず)

Photo_4ちょっと微妙なのではひょうたん三銃士の歌う「SENSATIONAL HIROKO」という薬師丸ひろ子応援歌。ちょうど「セーラー服と機関銃」に柳沢慎吾・光石研・岡竜也で同級生の三人組として出演していた関係で、この曲をリリースしたみたいです。
この曲にどのぐらいの需要があったのか不明ですが、柳沢慎吾氏はともかく、今や渋い役者として脇に出ている光石研氏(みついし-けん:ジャケットの左側の眼鏡かけた人)の恥ずかしい過去っす。現在の光石研氏
岡竜也氏はセーラー服と機関銃が映画デビューで、1985年頃が最後の映画出演らしいので引退したのかも知れません。

00_13豆知泉

フジテレビ・ポンキッキで流れていた時に生田敬太郎が歌っていたのだが、レコード化の直前に某レコード会社(たしかテイチク)と歌手契約を結んでしまい、フジのポニーキャニオンからリリース出来なくなった事により、子門真人が歌い直し、TV版もそれに合わせ差し替えられた。

もっとも子門真人はいくつも別名を持っていて、その別名ごとに色々なレコード会社と契約を結んでいた。子門真人はキャニオン、藤浩一はコロムビア、ついでにキングでは谷あきら。

「およげ!たいやきくん」は日本音楽史上最高の450万枚以上売れたシングルだが、B面になぎら健壱の「いっぽんでもニンジン」があり、こっち目当てで買った子も多かったと言われている。


しかし、レコードネタを書き始めて「レコード棚を検索しやすいようになんとかしなくては」という課題にぶつかっている。

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2006年4月25日 (火)

佐野元春「警告どおり計画どおり」

A作詞.作曲.編曲.佐野元春
EPIC SONY/M's Factoryレーベル
10・5H-3046(アナログ盤)
10・8H-3046(CDシングル)
1988年8月18日
定価1000円


佐野元春の曲の中ではイマイチ知名度がない曲で、アルバムにも未収録の曲(20周年記念BEST「GRASS」にはRe-Mix Ver.が収録)。
この曲を発売した1988年というのは日本音楽界にとって大きな変化のあった年で、実はその記録の盤でもあります。
この年、レコードとCDの売り上げが入れ替わってしまい、各レコード会社がレコードに見切りを付けた年。佐野元春の所属していたSONYも例外ではなく、この年を最後にアナログレコードは打ち切ると発表をした。
そのため佐野元春はおそらく最後になるであろう自分のシングルレコードを採算度外視でピクチャーレーベルとして発表した(限定だったと思う)。

ピクチャーレコードB面
B佐野元春という人はいわゆる「ドーナッツ盤」と言われるシングルレコードに色々な思い入れを持っている人で、それらに関しては自分が製作していたラジオ番組などでも色々語っていた。それ故に「最後のドーナッツ盤」という深い思い入れが込められた曲だと思う。
演奏は通常のバンド「ハートランド」ではなく「REDS」というバンドが中心になり、ギターにバービーボーイズのいまみちともたか(いまさ)、キーボードに西本明が参加している。

といっても、曲の内容は実にシビアな「原子力発電所」に関しての未来への提言となっている。これまで原発事故が起こったウインズケール・スリーマイルズアイランド・チェルノブイリという地名がサビで繰り返し歌われる。

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この曲リリースの二年前、1986年にチェルノブイリで人類史上最悪の原発事故が起こっている。そのチェルノブイリに関しては、ブルーハーツがこの曲の1ヶ月前の1988年7月1日にその名もズバリ「チェルノブイリ」という曲をリリースしている。ブルーハーツはこの曲をリリースするにあたってレコード会社と揉めて、自主製作という形でリリース。

RcさらにRCサクセションがアルバム「カバーズ」に原発を歌った「Love Me Tender」「サマータイムブルース」を収録したと言うことで東芝EMIからリリース出来ないと揉めたのも同じ時期。

そう考えると佐野元春は攻撃的ではないスタンスで原発を歌ったためにレコード会社の反発も無かったんだと思う。その辺のさじ加減が広告代理店出身ロッカーらしいのだ。

チェルノブイリの事故は1986年4月26日、つまり今からちょうど20年前という事になるんだけれど、その現場は未だに事故以来廃墟となっており誰も住んでいない。現在も地底深くまで放射能がしみこんでいると言われている。そして今やっと、それら原発を中心にした施設の放射能が外部へ漏れるのを防ぐための作業が始まっているというのだ。
そんな今、日本では新しい原発が13基計画されている。もちろん、電気は必要不可欠で、現状を言えば原発に頼らざるを得ない部分もあるんだろうけど、難しい二律背反な課題っすね。

ブルーハーツは「チェルノブイリには行きたくねえ」「あの娘とキスをしたいだけ」と歌い、佐野元春は「たよりなげなジャーナリズム」「やがて滅びるまで何もせず、ただおとなしく見つめているだけさ」と歌っている。
この20年で人類は何を教訓にして来たんだろうか。

佐野元春のオフィシャルサイトに掲載された「警告どおり計画どおり」の歌詞
http://www.moto.co.jp/works/score/Singles.html#Keikoku

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2006年2月 9日 (木)

サディスティック・ミカ・バンド

サディスティックミカバンドが木村カエラをボーカルに迎えて再結成!
って話が先週流れて、とりあえず2月25日からキリンラガーのCMで「タイムマシーンにお願い」のカバー曲が流れるとの事。
ミカバンドはボーカルを入れ替えて何度も再結成されてますが、日本ではこの手のボーカル代わって成功した例ってのは、他にオメガトライブぐらいですかね?
ミカバンドは1972〜75年が初代ボーカルのミカ、1985年のイベントでのユーミン、1988年の桐島かれんと続き、今回の木村カエラで18年ぶりの復活なのだ。


初代ボーカルは当時加藤和彦の奥さんだったミカ(現.福井ミカ)。
サディスティック・ミカ・バンドというグループ名はジョン・レノンが奥さんのオノ・ヨーコをフューチャリングして結成したバンド「プラスティック・オノ・バンド」のもじりなのが、ちょっと微妙な感じではありますが。

アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』
001もともとはスペースサーカスで活動していたドラマー「角田ひろ(現.つのだ☆ひろ)」と加藤和彦が1971年に結成したグループが母体となっていて、そこに「高中正義(G)」「小原礼(B)」が参加してバンドとして完成した。
と言いつつ、シングル「サイクリングブギ(1972)」でレコードデビュー時はドラムは「高橋幸宏」に交代していた。
この時、当時ではまだ珍しかったアーティストがレコード会社の中で独自レーベルを持つという事を加藤和彦が行い「ドーナッツレーベル」が設立されている。

アルバム『黒船』
0021973年に1stアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』を発表。この時「今井裕(KEY)」が参加、その後一瞬だけど高中が抜けて「永井充夫(G)」時代もあり。
加藤和彦というと、その前がはしだのりひこ北山修と組んだ「フォーククルセダーズ」の人で、最大のヒット曲が「帰ってきたよっぱらい」で、世間的にはフォークの人だったんだと思うけれど、ここでは一曲目からド派手なロックが展開されている。
当時、T-REXなどのグラムロックが流行っていた事もあるんでしょうが、それをさらに突き抜けた日本人的解釈のロックになっているのだ。

1974年に名作アルバム『黒船』発表。
とにかく名作。
まず、ピンクフロイドなんかで有名だったクリス・トーマス側から「ミカバンドのプロデュースをしたい」という申し出があり制作された。
外人の視線が入った事や、最初から海外マーケットで発売するという予定だった事から、ド派手なロックだけれどエキゾチックなムードを醸し出してる。

アルバム『HOT!MENU』
003hotmenu1975年小原礼が脱退し「後藤次利(B)」が参加。
アルバム『HOT!MENU』発表。
自分的にはロックというのは、歌舞伎者の音楽だと思っているので「格好いい」ってだけのロックは物足りない。どっかに突き抜けて、笑いまで内包した音楽がロックだと思っている。
そう言う意味で、このアルバムに収録されている「マダマダ産婆」「ファンキーMAHJANG」辺りは凄く好き。
高橋幸宏作詞のファンキーMAHJANGの歌詞にある「♪パイ良いカキヌマ」てのは70年代テレビ東京の深夜によく流れていた絵が動かない麻雀牌メーカーのCMから来ている歌詞です。

アルバム『ライブ・イン・ロンドン』
003ロキシーミュージックのオープニングアクト(解りやすく言えば前座)としてイギリスで演奏旅行。日本のバンドがついに海外進出!と話題になった。
もっともイギリスで話題になったのは後藤次利のベースと、ミカのエキゾチックな容姿だけで、それ以外は「日本らしさがない」「洋楽のコピー」と評判はさほどだったらしい。
1975年のイギリスツアーの音源は後に、スタッフが記録用にカセットテープ録音したモノをCD化。

小原礼が抜け、後藤次利に決定する間、細野晴臣やジャック松村もサポートに入った事もある。
今ではベースのテクとして当たり前になっているチョッパーは小原が覚えたものを、後藤がライブで実践したのが日本では初だと言われている。(もっと前にフュージョン系ではあったとも)
このチョッパーに関しては、本来スラップベースという奏法で、この名前になったのは「ドリフターズのベース、いかりや長介が最初に弾いたから長介からチョッパーになった」という説も存在する。そしてスラップベースではなくチョッパーと言い出したのは近田晴夫との事。

で、この年の11月、加藤和彦がミカと離婚をし、その結果バンドは自動的に解散となった。
加藤和彦はソロ活動に入り、残されたメンバー高中正義・高橋幸宏・今井裕・後藤次利は『サディスティックス』というバンドを結成。

時代は経て1985年、国立競技場で行われた国際青年年の記念音楽イベント「All Together Now」(多数のミュージシャンが参加した)の目玉企画として加藤和彦・高中正義・高橋幸宏・後藤次利に、ボーカルへ松任谷由実、キーボードに坂本龍一が加わり『サディスティック・ユーミン・バンド』として1日限りの再結成。
この時点で加藤和彦以外のメンバーも、高中正義は「虹伝説」でギタリストとして頂点に立ち、高橋幸宏はYMOで大成功し世界的に有名になり、後藤次利はおニャン子クラブをはじめとした歌謡曲作曲家としてヒットを連発していた時代。
一般的にバンドが解散すると、ボーカルぐらいしか残らないケースが多いのだが、このミカバンドは解散後、それぞれのメンバーが有名になっていたという希有なバンドだったのだ。
このイベントでは、他にも大滝詠一・細野晴臣・松本隆・鈴木茂の「はっぴいえんど」も復活参加していた。ちなみに作詞家として有名になっていた松本隆は、ドラムを叩くのが10年ぶりという状態で、当時担当していたバンドCCBのドラムに叩き方のレクチャーを受けた。

アルバム『天晴』
0041988年、加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏にモデルの桐島かれんがボーカルに参加して復活。
バンド名はミカが参加していないが「サディスティック・ミカ・バンド」。
もっともかつてのミカバンドの英語表記「MIKA」が、「MICA」になっているという細かい変更はあった。
この復活はひょんな事からで、元々桐島かれんのレコードを作ろうという企画があって、それで作曲やミュージシャンのメンツが「これってサディスティックミカバンドじゃん」という感じだったので「いっその事、ミカバンドでやってみる?」という転がり方をして再結成に至ったらしい。

アルバム『晴天』
005シングル「Boys and girls」はマツダ・ファミリアのCMソングとして大ヒットし、アルバム『天晴:あっぱれ』もリリース。最初からアルバム一枚の企画として結成されたために、その後シングル一枚、そしてライブアルバム『晴天:せいてん』を出し解散。

そして今回、加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏+ボーカル木村カエラで復活なのだ。
アルバムまでいくのか、シングルだけで終わるのかはまだ発表されていないけれど、とにかく嬉しい。

あまりの嬉しさにただ歴史を書き連ねてしまった。

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