2012年12月14日 (金)

木之内みどり「学生通り」

Gakuseidoori「学生通り」歌:木之内みどり
作詞:松本隆/作曲:財津和夫/編曲:松任谷正隆
1976年2月25日:NAVレコード


木之内みどりは1957年6月10日生まれで現在55歳。
一時期、後藤次利の奥さんだったけど、現在は竹中直人夫人。
17歳の時、1974年5月に「めざめ」で歌手デビュー。歌手としてはかなり問題のある歌唱力をひっさげてのデビューです。
最近のアイドル、例えばAKB48辺りを指して「最近の歌手はあんな学芸会みたいなのばっかりだからダメなんだよ。それに比べて昔はアイドルでもちゃんと歌えていた」みたいな事を言う人もいるけど、そんな事は決してない。
この1974年デビューの木之内みどり、同じく1974年デビューの風吹ジュン、そして前年1973年デビューの浅田美代子、これら歌手を目の前にして同じ事言えるのか!と説教したくなるほど、かなりキビシイ歌唱力の歌手が存在していて、それなのにヒットしてテレビで歌っていた。



デビュー曲「めざめ」から始まり「あした悪魔になあれ」「ほほ染めて」「おやすみなさい」まで阿久悠が作詞をしていて、良くも悪くも歌謡曲テイストの世界観を歌っていた。
それがこの曲では松本隆が作詞をしており、世界観はガラッとフォーク路線というか生活の細かい仕草までを繊細に綴っている。『歌詞
阿久悠の世界観はザックリと太い線で描かれた明確なものなんだけど、松本隆が描くその世界は緻密なペン画のように風景や記憶を描写していく。
自分的には阿久悠のザックリ感より、松本隆の精密描写のほうに心惹かれていたのですが、この松本隆の世界観には1つ欠点があるのは当時から感じていた。
それは「時代を細かく描きすぎているので、その世界がすぐに古くなる」という物。
音楽の世界、特に歌謡曲なんてある種時代を切り取った物なんだからそれでもいいんだと思うので問題はないんだけど、下手すれば詩を書いて1年間寝かすとすでに使えなくなるみたいな怖れもある。今現在詩の中に「ワイルドだろぉ」という歌詞を入れて、1年間寝かすような物。

で、この木之内みどり「学生通り」なんですが、これを1976年リアルタイムで聞いていた自分は「ジンと染みるな」と思うのと同時に「古いよね世界が」とも思っていた。
歌詞の中で「ディランの唄を好きになってから、あなたは人が変わりましたね」と彼氏が変化していく事を歌っている。
この詩の内容は大学時代に付き合っていた彼氏の思い出を歌っている「アフターキャンパスソング」なんだけど、なぜか歌謡曲の歌詞に出てくるボブ・ディランは「学生街の喫茶店(作詞.山上路夫/作曲.すぎやまこういち)」といい思い出の象徴扱い。
どうも作詞する人の頭の中で「ディランにかぶれるのは青臭い青春の象徴」的な意図があるんじゃないかと思ってしまうのだ。

で「学生通り」の中ではさらに「転がる石のように生きると、試験サボって髪も伸ばした」と続く。リリースされた1976年はすでに学生運動などは過去の話になっていたのでそんな時代を懐かしく眩しく振り返るという主旨なんだろうと思うけど、この時点でまだ19歳の木之内みどりの世界にはその学生運動はあまり関係なかったんじゃないかとも感じてしまう。
1969年の東大紛争などで学生運動ピークの時代にまだ12歳だったワケで。
もうこの世界は木之内みどりの中から出た物ではなく、作詞をした松本隆の思い出話という感じなのかもしれない。1949年生まれなので、東大紛争の年にちょうど大学生の20歳。すでに松本隆は松本零という名前でバンド「エイプリルフール」にドラマーとして参加しており、当時の写真は肩まで髪を伸ばして「ヒッピー!」という感じなのだ。
1976年当時の学生はすでに学生運動の世代から次の世代へと総入れ替えとなって「しらけ世代」と呼ばれる、方向性を見失った学生が主流となっていた。

自分よりは上の世代だったけど、当時大学の学園祭などにいってそこでアニメサークルみたいなのがあり盛り上がっているのだけは記憶している(子供だったので、政治的なサークルに興味なく記憶にないだけだとは思うけど)。それが、後のおたく文化に繋がっているし、80年代に入っての「コンパでの一気!一気!」や女子大生の「私たちはバカじゃな〜い」とかナンパ系サークルに繋がっていくんだと思う。
そんな軽くなっていく風潮の中で、松本隆はこんな少し埃っぽい青春の記憶を詩に残している。

実はその前年の1975年に太田裕美のアルバム『心が風邪をひいた日』のほぼ全曲の作詩を松本隆がしているのだが、その中に収録された「青春のしおり」という曲がかなり「学生通り」に似通っている。



その「青春のしおり」の中で彼氏が聞いているのはディランではなく、CSN&Y。クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングなのだ。
松本隆はディランというよりCSN&Yの方が好きなんじゃないかと漠然と思ってしまう。だから最初は自分の思い出と重ね合わせて「青春のしおり」を書き、その後、より一般的に分かり易いボブ・ディランに置き換えて「学生通り」を書いたのではないかと。
その「青春のしおり」の歌詞は「♪CSN&Yなど聞き出してから、あなたは人が変わったようね、髪をのばして授業をさぼり、自由に生きてみたいと言った」って、ホントにそのまま流用していますねって感じ。
ディランに変更したので「転がる石」ってフレーズを入れてみましたという感じなのだ。
そして「青春のしおり」の歌詞は「♪みんな自分のウッドストック、緑の園を探していたの」と続いている。CSN&Yは1969年に開催されたウッドストック・フェスに参加しているが、ボブ・ディランは出演を断っている。だから歌詞を変えざるを得なかったのかもしれない。

と言っても、「青春のしおり」と「学生通り」の詩を書くヒントは1975年に大ヒットした松任谷由実の「いちご白書をもう一度」にあると踏んでいる。
実は松任谷由実は作曲家として『心が風邪をひいた日』の中に「袋小路」という曲を書いているので、松本隆との繋がりがこの時点であるのだ。その接点が前回書いた松田聖子へと昇華していく。
とにもかくにも時代を感じさせる詩はその裏に色々な物が潜んでいるけれど、それを解説しないと意味が通じなくなる可能性もあるので、リアルを追求する詩はいろいろと難しいのだ。



で、この「学生通り」の二番の歌詞には何気に凄い事が書かれている。
「♪あなたの下宿訪ねていって、カレーライスつくりましたね、これじゃお嫁にいけないよって、あなたの笑顔にくらしかった」
なかなかカレーを不味く作るのは難しい。昔から言われているのは「カレーにワカメは似合わない」という事なんだけど、まさかそんなチャレンジはしなかったと思う。
ジャガイモ・ニンジンを切らないで丸のまま入れたとか、豚肉・牛肉・鶏肉ではなくイノシシ肉とかイルカ肉とかカンガルー肉とか難易度の高い肉を使ってしまったとか、明治時代のカレーレシピのように「カレーの香辛料が手に入らない時は味噌で代用」を実践してみたとか。
そんな事を考えながら36年も前の曲を聴き直してみる。

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2010年8月14日 (土)

キャンディーズ『危い土曜日』

キャンディーズ『危い土曜日』
作詞:安井かずみ/作曲:森田公一/編曲:竜崎孝路
1974年4月21日/CBSソニー


20100814なんだろう、この出だしのスタッカート気味のブラスの無駄な重圧感と高揚感。
この曲の一番凄い事は、ミキシングがデタラメという事に尽きるんじゃないかな?
かなり黒い感じの音作りをしていて、当時の歌謡曲としては珍しいぐらいにビート感を全面に押し出しているんだけれど、やけに目立つハイハットの音とか、それをさらに押しのけて歌が始まると同時に大きな音で登場するコンガ。

キャンディーズの曲は自分的にキモになるのはドラムなんじゃないかと思っている。この曲や「内気なあいつ」「その気にさせないで」「年下の男の子」のドラムが別のアレンジだったらあんな名曲にはなりません。(内気なあいつのアレンジはビートルズの「レディマドンナ」が元ネタっぽいっす)
一時期はヘッドフォンを聞いて、高音を強調した状態でハイハットばかり聞いていた時もあります。
でもって、ドラムがキモだというのはスタッフも理解していたみたいで、解散ツアーの中で凄いことが実現しております。
その時、ドラムを担当したのは、事もあろうかスティーブ・ガッドであります。なぜ?(後楽園のFAINALではなく、ツアーの中で数回だけらしいのですが、ハッキリ解りません)

作詞の安井かずみは昔「みナみカズみ」というペンネームだったのですがこの頃から安井かずみに変えている(この曲からという噂もある)。
この曲の詩は結局「女子があの日が来る事をドキドキ待っている」という、かなりエロい内容なので「♪二人きりになったどうしたらいいかしら」って「解っているクセに」という状態。
一番で「♪どこにゆくのふたりは/きつく肩を抱いたまま♪」、二番では「♪どこにゆくのふたりは/帰る道と反対に♪」って、怪しい灯りが点っている方向に向かって進んでいるんだろうなぁ
そりゃ演奏もエキサイトしちゃいますよ。

解散から10年ぐらい後に、勝手にキャンディーズのボーカルを元ネタにリアレンジしてディスコ調にした「CANDIES POP POSSE」というアルバムでもこの曲が演奏されているんですが、ビートを強調してディスコ調にしたハズなのに、オリジナルの方が圧倒的にビートが利いていて暑黒い
そんでもって、この曲に関して言えば当時コンサートで全キャン連とかが激しく踊る振りも存在していて、この数年アキバとかで話題になったオタ芸としての踊りの元祖とも言われているらしい。

そして「それは無いんじゃないかな?」と思ってしまうのが、タイトル表記。「あぶない」は普通『危ない』なんですが、この曲の場合はジャケットを見るかぎり『危い』なんすよ。その後に流行る「ナウい」とかの系列語で「アブい」って事なんですか?

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2010年2月13日 (土)

国生さゆり『バレンタイン・キッス』

2010021301国生さゆり『バレンタイン・キッス』
作詞:秋元康/作曲:瀬井広明
1986年02月01日/¥700
CBS SONY/07SH 1736


明日は特別スペシャルデイ♪ ということでこの曲は「バレンタインデーの前日を歌った曲」ですぜ。
先日は受験生をターゲットにしたお菓子業界のさもしい戦略を書いたけれど、それが過ぎるとバレンタイン絡みのさもしい戦略が始まる。
一般的に日本式のバレンタインは1958年の伊勢丹にバレンタインチョコが登場したのが最初とか言われていますが(メリーチョコレート製)、この時はセール中に売れたバレンタインチョコは50円の板チョコ3枚と20円のメッセージカード1枚だけでした。さらに翌年ハート型のチョコを販売し始めている。
それ以外の話として、モロゾフが1936年2月に日本で発行された英字の雑誌に「バレンタインチョコレート」の広告を出したのが最初とされていますが、もっとも古いとされているだけで、これは定着するキッカケにはなっていません。
実は伊勢丹でバレンタインチョコを始めたメリーチョコレートの社長・原堅太郎氏はもともとモロゾフでチョコレートを作っていた職人という繋がりがあります。

戦後、1949(昭和24)年に渋谷で高級チョコなどを製造販売をする「有限会社USチョコレート研究所」を作ったのですが、翌年倒産し一家心中直前まで追い込まれます。その後1952(昭和27)年にメリーチョコレートカムパニーを設立しています。
このバレンタインデーのチョコレートはモロゾフで修行していた社長のアイディアではなく、当時23歳で大学卒業を直前に控えていた次男の原邦生氏がパリ留学をしている先輩から聞いた「バレンタインデーにはチョコレートや花にカードを添えて交換する」という物から考え出したそうです。

実は、1936年のモロゾフよりもっと前に1868年にイギリス・キャドバリー社がバレンタインに絡んでチョコボックスを販売したという話もあるので、起源はよく判っていない。でもキャドバリーにしてもモロゾフにしても、メリーチョコレートにしても「女性から男性」とは言っていない。
いったいいつの間に「バレンタインデーは女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白する日」という話になってしまったんだ?」

201002130470年代初期に発行されたいたTSURU COMICのスヌーピーが出てくる「TSURU PEANUTS BOOKS」でもチャーリー・ブラウンが「バレンタインを待っている」という話が出てきたような気がするけど、小学生だった自分はそれが何の事なのか判らなかった。手元にある数冊をパラパラと見てもその手の話は発見できなかったが、1990年から角川が出したシリーズでは2月になると毎年のようにバレンタインネタが出てくる。
1巻では1987年2月の話が掲載されていて、毎日郵便受けの処でチャーリー・ブラウンが「配達されるバレンタインを1通残らず見とどける…」と座り込み、翌日は郵便受けの中に潜り込んで待ち続けている。
3巻では1988年2月の話で、ライナスが後ろの席に座るエキセントリックな子リディアと会話をしているが「君が住所を教えてくれないんだから」とライナスがバレンタインを送る事が出来ないとヒスを起こしている。最終的には郵送ではなく手渡しでハートの絵がついたカード(ノートの切れ端にも見える)を渡している。
5巻では1989年2月の話で、チャーリーが片想いをしている赤毛の女の子にバレンタイン・キャンディをプレゼントしたいけれど勇気が出せずに諦める話が書かれている。

2010021305
ここではプレゼントするつもりで持っているハート型の容器に入っているのは「VALENTINE CANDY」と語っているんだけど、それをスヌーピーが物欲しげに見つめていると「君にあげてもいいんだけど、チョコレート(CHOCOLATE)は犬にはよくないんだ」と語っている。英語圏内ではキャンディというのは飴という意味だけじゃなくチョコレート菓子も含まれていて、キットカットとかスニッカーズみたいな物はキャンディバーと呼ぶ。
これから見ていると、やはり今でもバレンタインに女性から男性というのは日本だけのアイディアで、チョコはなんとなく結びついているという感じなんですかね?

自分の記憶でいうと、中学時代ぐらいまではたしかにバレンタインデーなんて風習は存在していたけれど、そんなに誰も彼もという感じではなく「4組の高田修が3組の鈴木里子からチョコ貰ったらしいぜ」という事がザワザワとウワサされて、ちょっとおませな女の子が意を決して!みたいなレベルだったような気がする。もともと付き合っている二人は別として。
70年代後半、自分が高校の頃はそこそこ一般的になっていた様な気がする。自分は当時ギターなんてのを弾いてジャカジャカやっていたので、勘違いした女子からチョコを貰った経験もあるけど、あんまり今みたいにお祭り状態ではなかったハズ(田舎の高校だから一般的な話では無いっす)。
義理チョコなんてのも80年代に入っての話で、1986年に国生さゆりが「バレンタインキッス」を歌った頃はおそらく今みたいにバレンタイン商戦もあったし、義理チョコも存在していたと思う。

バレンタインという単語は「My Funny Valentine」という曲に登場するけれど、これは1937年に発表されたミュージカルの曲にも使われているスタンダードナンバー。そのタイトルの「Valentine」は「愛しい人」と訳される。
1937年と言えば、その前年の1936年にモロゾフが日本向けの英字雑誌で「For You VALENTINE Make A Present of Morozoff's FANCY BOX CHOCOLATE」と書いているので、何か関係あるのかなぁとは思う。
ちょっとすぐに文献を取り出せないのですが、この「VALENTINE」というのは元々フランスにあった古典的な恋愛喜劇に登場する男性の名前で、その関連から「愛しい人」を指してバレンタインというようになったという話を読んだ事がある。
そして、この広告を出したモロゾフさんは元々ロシアの宮廷料理人で、1920年代に神戸にやってきてチョコレート菓子店を出したのですが、その息子さんの名前もバレンタインだったそうです。
なんか、色々な情報が交錯してハッキリとこれがこうで!と説明できないのがもどかしい話ではあります。

2010021302そんなこんなで今やバレンタイン業界(そんな業界あるのか不明ですが)も飽和状態で、さらなる販路を拡げようと「今や女性が男性にバレンタインチョコを贈るのは古い!これからは男性から女性へ逆チョコだ!」という商品も登場している。
とりあえず通常商品の『小枝』のデザインを逆版にして逆チョコという事になっている。ここまでやるんだったら「これ逆チョコです。」とか「デザインの一部を反転させています」なんて断り書きをパッケージにそのまま入れるんじゃなく、シールとかで表示して、購入者がそのシールを剥がせば何も説明なく全部反転したパッケージになるぐらいに完璧にした方がいいのになぁ、なんか中途半端。
しかし逆チョコということで「逆チョコとは!? 日頃の感謝の気持ちを添えて、男性から女性に贈るチョコレートのことです」って恋愛がらみじゃないのか!

それ以前に女性から男性って話も勝手に捏造された風習ですから。
そもそも最初は「女性から告白するなんて恥ずかしくて出来ない、でもバレンタインだけは女性から告白するのも許されているのです」みたいな事が70年代の「少女コミック」や「別冊マーガレット」なんかに書かれていたワケで、それを逆にするってどういう事よ。

2010021303この風習を廃止しよう!という非モテ男子の声が毎年あがるワケですが、女子の間でも「義理チョコが大変」とか「なんかやらなくちゃイケナイ気になって面倒」という声もあがっている。
自分的にも、どーでもいいイベントなんですが、ただ一つ迷惑なのがこの時期、買い物にいくとやたらとチョコが目に付くので食べたくなってしまうのですが、このタイミングで男が購入するのはなんか淋しいよなぁと自意識過剰スイッチが入って購入を断念してしまうという事なのです。

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2009年10月27日 (火)

加藤和彦「それから先のことは…」追悼

2009102701そりゃ無いでしょ、と言うしか無い。
2009年10月17日、加藤和彦が亡くなった。62歳。
今年は5月に忌野清志郎が亡くなり、かなりショックを受けたんだけど、それ以上のショックを受けている。なんだよもう。
忌野清志郎の場合は数年前からある程度覚悟をしていた事だけど、今回の訃報は未だに自分の中で受け入れる事が出来ていない。


自殺だなんて、あのダンディで飄々としている加藤和彦には一番似合わない。
友人に宛てた手紙の中には「もう音楽でやりたい事が無くなった」みたいな事を書いていたらしいけど、昨年2008年11月には小原礼・土屋昌巳・屋敷豪太、そして元桜ッ子クラブ&セーラームーンの大山アンザ(ANZA)で結成したVITAMIN-Qでバリバリにポップで格好いい音を出していたのに。
そして今年の2月に坂崎との「和幸」の2ndアルバムを発表して、いつも以上に精力的だと思っていたのに、なんだよ、まったくもう。

2009102702自分にとって加藤和彦は色々な意味で影響を受けた人だった。
もちろん最初の出会いはフォークルの「帰ってきたヨッパライ」で、あの頃はその早回しというアイディアと天国から追い出される男の話という事で、学校帰りに同級生と無邪気に「なぁおまえ〜〜」とかマネをしていた。自分はまだ小学校低学年だった。
ヒットした年の大晦日のレコード大賞で企画賞を受賞した時、メンバーは出演せずガイコツが歌うビデオが流れたのも鮮明に覚えている。今考えれば、もうこの1968年12月31日には「1年間限定のプロ活動」が終わって解散していたんですよね。当時はそんな事も知らなかったので、テレビに出ない人達だと思っていた。

ラストのお経が「A Hard Days Night」になっているのに気づくのは中学に上がってからだったけど、同時にその細かい部分の音楽的な複雑さにも気づいた。「帰ってきたヨッパライ」も基本はCだけど実際に耳コピすると何じゃこりゃの連続。ただのコミックソングじゃ無かったのだ。
テープの回転数を変えるというのはビートルズがやっていた事もあり、その手のアナログ的に音をいじるというのはすごくビートルズ的というか、あの60年代後半という感じがする。変名バンドとして「ズートルビー」という名前を使っていた事から、ビートルズに良くも悪くも影響を受けている。
そう考えると、出だしの「オラは死ンじまっただ〜♪」と繰り返されるメロディは、ラストのお経で語っている「It's been A Hard Days Night♪」とメロディが微妙に重なって聞こえる。

2009102703公式2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」も、これもハッキリとはリアルタイム感は無いんだけどなんとなく耳に残っていた。
後に「この曲は発売中止になったイムジン河を逆から歌った物」というのを聞かされた時に、同じようなエピソードとしてビートルズの「Because」を連想した。
「Because」はジョン・レノンが作った曲だけど、ある日オノヨーコがベートーベンのピアノ曲「月光」を弾いていた時に冗談で「逆から演奏したらもっといい曲になるんじゃないか?」と楽譜をひっくりかえしたのがキッカケで、そのメロディを元に作った曲なのだ。だから「イムジン河」のエピソードを聞いた時にそれを連想した。
ところが発表年を調べると、イムジン河が1968年3月に発売予定で、急遽作った「悲しくてやりきれない」が1968年3月21日に発売となっている。それに対しビートルズの「Because」は1969年発売の「Abbey Road」が初出なのだ。うむ、2枚目のシングルですでにビートルズより先を行っていたのか。

2009102707その後、フォークルを解散してソロ活動、プロデューサー活動を始めるのですが、今改めて聞き直すと、どの曲にも加藤和彦なりのポップ感が出ていて、何度聞いてもワクワクしてしまう高揚感がある。
とりあえず今回の訃報では世間に解りやすい功績として、吉田拓郎の「結婚しようよ」泉谷しげる「春夏秋冬」の編曲&プロデュースなんてのがピックアップされていたけど、その部分も含めて、日本の音楽を根底からレベルアップさせた功績が大きいと思っている。
個人的にはアグネス・チャンの「妖精の詩」の作曲が好き。作詞の盟友・松山猛と共にあの当時のアーティストがアイドル歌謡曲を手がけるという部分の先駆だったのではないかと思う。
誰でも楽しめるポップス、しかしその裏には職人芸がしっかりとある。そこが加藤和彦って感じなのだ。

2009102709ギターを弾き始めた中学時代、すでにミカバンドは存在していたんだけど田舎の中学生でアコースティックギターを手に入れたばかりだったのと、周囲にはN.S.P的なヘナチョコフォークを聞いている人ばかりだったので、否応なくそっちの曲を聞いて、歌っていた。
中学2年の時に教育実習として女子大生がやって来て、なんかみんなで盛り上がって「休みに家に遊びに行こうぜ!」という話になった事があった。今思えば、中学生が家にやってくるなんて嫌だろうなぁ女子大生としては。

で、その教育実習先生の部屋にあったのがサディスティックミカバンドの「黒船」だった。
加藤和彦とミカが空を飛んでいるジャケット(裏には他のメンバーも)が印象的で、さらに聞かせてもらった音が衝撃的だった。ギターなんか弾き始めて「周りの未だに歌謡曲なんて聴いているヤツって幼稚だな」とリアル厨房意識を炸裂させていた自分はハンマーでガンガン殴られるような感じを受けてしまったのだ。もう歌謡曲もフォークもそんなの関係ねーじゃん!と思ってしまったのだ。
1974年の出来事だった。

2009102704まだレンタルレコードなどなかった時代で、さらにあまり裕福では無かったのでアルバムも買えず、何曲かラジオで流れたミカバンドの曲を録音して(しかもエンディングまで録音されていない)何度も何度も聞いていた。「タイムマシンにおねがい」や「サイクリングブギ」など。そう言う意味ではあんまりちゃんとしたファンでは無かったけど。
後に購入したミカバンドのアルバムの帯には『ムーグ野郎のギンガム集団、アロハのドーナツ、ロンドン帰りのサディスティック・ミカ・バンド』と書かれている。そしてライナーノーツではトノバンではなく「将軍」というニックネームで書かれている。
(ミカバンドの歴史はかつて書いたここで)
(木村カエラ参加のミカエラバンドに関してはここで)

そしてミカバンドは1975年11月に加藤和彦とミカの離婚をもって解散。残ったメンバーが「サディスティックス」として活動を続けていた。
ちなみに1976年、浅野ゆう子が歌っていたディスコ歌謡「セクシーバスストップ」のオリジナル盤はニューヨークのファンクバンド「オリエンタルエクスプレス」のインスト物という触れ込みだったけど、実際に演奏しているのは加藤和彦が抜けた後のミカバンド(&松任谷正隆)らしい。これの仕掛け人はDr.ドラゴンというアレンジャーで、作曲はジャック・ダイアモンドという人という事になっているけど、こっちは実際には筒美京平。
この頃、自分は歌謡曲もロックもフォークもなんでも聞く人になっていて、ディスコ系の曲も大好きで聞いていたんだけど、まさか知らない所で自分が好きだった筒美京平とミカバンドが融合していたとは。その当時、それも知らずにこの曲のステップをマネしていた中学生だった。

1976年1月5日から9月28日まで加藤和彦がオールナイトニッポンの月曜1部を担当していた。
中学から高校にかけてオールナイトニッポンのヘビーリスナーだったので、この番組もかなり熱心に聞き込んだ。そして自分の中で「帰ってきたヨッパライ」そして「ミカバンド」がここで繋がった。
Wikipediaにはこのオールナイトニッポンに関しての記述がないので、書庫の奥の奥にあった『オールナイトニッポン大百科』を探し出してきてその日付を見て驚いたのが、たったの9ヶ月だったのかという事。なんかもっと聞いていたような気がしていた。(タモリが1976年10月から、北山修が変名・自切俳人でやるのは1977年1月から)

2009102705この番組をしている時に加藤和彦がレコーディングしていて、後に発売したアルバムが『それから先のことは…』という作品。それまでフォークルとミカバンドの間にソロを2枚出しているけど、ミカバンド解散後の本格ソロ始動がこのアルバムなのだ。
なんとか金をやりくりしてこのアルバムを買いました。とにかくすり減るほど聞き込んだ。というかホンキですり減った。聞き込みすぎて今でもこのアルバムに関しては冷静な判断は出来ないけど、どれも名曲だと思っている。もちろんCDで買い直してもいる。
シンガポール航空のCMソングとしても使われた「シンガプーラ」はとにかく名曲。

その後のソロ活動「ガーディニア」「パパ・ヘミングウェイ」「うたかたのオペラ」「あの頃、マリー・ローランサン」「ヴェネチア」とずっと聞き続けていった。
その中で一番好きだったのが、1983年にリリースした「あの頃、マリー・ローランサン」。
個人的に加藤和彦の最高傑作と呼べるアルバムとは? と聞かれた場合、これをあげるかも知れない。
安井かずみの言葉もゾクゾクするほどドラマティックで、現実感のないくせにリアルな世界に魂を持って行かれてしまうのだ。音もこれ以上ないほどにシンプルで研ぎ澄まされている。
1983年というと、日本の音楽はテクノの洗礼を受けてネコも杓子もシモンズやリンのドラムがドカドカ言っていた時代に、このシャープさには痺れますよ。というか世間はついてこなかったのかも知れないけど。

2009102706加藤和彦は京都市生まれで、少年期は鎌倉や逗子を経由して東京で育つという「オシャレな場所ばかり」を経験しているせいなのか、とにかく格好いい。自分にとって「オシャレな人」とはこういう人という指標でもあった。
80年代、流行の音がどんどん肉厚で非人間になって行く中で、「あの頃、マリー・ローランサン」で加藤和彦が限りなくシャープでシンプルな音を作り上げたのと同じように、加藤和彦のファッションはシンプルで格好良かった。
ミカバンドの頃はロンドン帰りのギンガム野郎だったのでちょいと派手だったけど、基準はシンプルだった。身長があってスッキリしているのが格好いいの最大の理由なんだろうけど、自分にとってのオシャレが「どれだけシンプルになれるか?」という物なのは加藤和彦の影響が大きい。

「若い時代に洗礼を受けた人の曲というのは身体から離れない」と、どっかの誰かが言っていたけど、本当にそうなのだ。おそらく、加藤和彦がいなくなったこの先もずっと、自分は影響を受け続けていくんだと思う。

おそらく、今回の訃報に際して世間では「あのフォークルの」「あのミカバンドの」という感じで語られるんだろうけれど、自分にとってはそっちも大きいけれど、それから先のソロ歌手の加藤和彦とプロデューサーとしての加藤和彦がかなり大きい。
友人に当てた手紙の中に「音楽の中にやりたい物が無くなった」という主旨の事を書いていたというけれど、理解はしたくないけど、解るような部分もある。
加藤和彦をずっと追いかけてきて解るのが「常に現役でいたい」「常に新しい事をやりたい」という部分だった。その意味での、VITAMIN-Qだったんだろうし、和幸だったんだと思う。

2009102708でも今回の訃報を聞いていて感じてしまったのが、世間が求めている加藤和彦像ってのが「フォーククルセダーズの加藤和彦」「サディスティックミカバンドの加藤和彦」だという事。
9月に嬬恋で行われた南こうせつのイベントに和幸で参加していたけど、ラストに「あの素晴らしい愛をもう一度」を会場の客と共に大合唱したという。実はこの年末も静岡で森山良子なんかが参加するイベントに加藤和彦が参加するハズだった。おそらくここでも、客の大多数があの時代の加藤和彦を聞いていた人達で、あの時代の加藤和彦を求めているんだと思う。

常に現役感で仕事をしていた人としては、この現状というのはモチベーションを保つ事は難しいのかも知れない。それは致し方ない事だったとしても。
なんだか、色々な事を考えすぎて、この追悼文を書く事が上手に出来ない。まだまだ書きたい事がある。

二人目の奥さん作詞家の安井かずみさんが亡くなった時にインタビューで加藤和彦は「かずみはとても寂しがり屋だったので、ボクより先に亡くなった事が唯一の救いです、彼女を一人きりにさせる事がなくてよかった」と語っていた。
その優しさと深い愛情に加藤和彦の強さと脆さを感じてしまう。

おそらくまだ続きを書きます。

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2009年5月13日 (水)

木之内みどり『あした悪魔になあれ』

木之内みどり『あした悪魔になあれ』
作詞.阿久悠/作曲.三木たかし/編曲.三木たかし
1974年09月10日/¥600
NAVレコード/NA-9


2009051301作曲家・三木たかしさん追悼という事で、編曲まで担当しているこの曲を取り上げます。
他に編曲までしている曲で思いつくのは岩崎宏美「思秋期」あべ静江「みずいろの手紙」伊藤咲子「木枯らしの二人」「乙女のワルツ」石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など。
アレンジャーとしてはストリングスを多用したドラマティックな物が印象的でした。

木之内みどりに関してはデビュー曲の「めざめ」に続いて2曲目で、この曲はブラスやギターのカッティングも耳に残るのですが、それ以上に耳に残るのは女性コーラス。出だしにサビを持ってくるというパターンなのですが「今日はっ可愛いッキミでッ」と始まる箇所にバックコーラスが木之内みどりの声をかき消すように入ってくる。
というか完全にかき消しています。やはり1曲の「めざめ」の反省からこうなったんじゃないかと思うわけです。声が細く声量がないことから、とりあえずサビだけでも盛り上がっているように聞かせるためのアイディアかと。
最初聞いた時は完全に女性コーラスだけで始まる曲かと思っていたんだけど、その女性コーラスの中に沈んだようにか細い声で木之内みどりが歌っているのを発見して、そりゃないだろと思った事もある。
1曲目「めざめ」のサビ「虐めちゃイヤイヤァ♪急いじゃイヤイヤァ♪怒っちゃイヤ、イヤイヤァン♪」も嫌いじゃないっすけどね。

2009051303三木たかし追悼番組ではやはり石川さゆり・テレサテンあたりに書いた曲が大きく取り上げられていましたが、個人的には三木たかしベスト3は、木之内みどり「あした悪魔になあれ」、キャンディーズ「哀愁のシンフォニー」、吉田真梨「もどり橋」って感じで、番外編でザ・バーズ「ふり向くな君は美しい」です。
「ふり向くな君は美しい」は高校サッカーの大会歌として1976年から使われている曲なんですが、シズオカに育った私は好むと好まざるを得ず「サッカー大国シズオカ」という事で毎日テレビでこの曲がヘビーローテーションされていた事から、このメロディを聴くと高校時代に記憶が戻ってしまうのだ。
個人的にはあざとい作曲をする筒美京平が大好きだったので、あまりにもスルッと聞けてしまう曲を作る三木たかしは昔はあまり注目していませんでした。
が、曲を作ったり、分析するようになって「!」と思ってしまった。こいつは凄いや、と。

三木たかしという作曲家の凄さは、技巧を感じさせない技巧。楽譜で見ると特殊な事をやっているのに普通に聞いた時にその特殊さを感じさせずに、スルッと耳に馴染ませてしまうという技巧。
例えば『津軽海峡・冬景色』を聞くと普通にメロディの綺麗な演歌として聞けてしまうのですが、実際の事を言えば出だしの「上野発の夜行列車降りた時から♪」は楽譜上ではすべて三連符で書かれている。つまり1小節の中に12音が均等に並んでいるのだ。それに続く「青森駅は雪の中♪」になると三連だけど4分音符と8部音符の繰り返し。
演歌として考えないとロカビリーとスィング的な曲なのだ。
それを普通にカラオケ好きなおばちゃん達にすんなりと歌わせてしまう。もっともこの三連があるために「なんか歌いこなすのが大変なんだよねぇ」となるんだけれど、それでも三連の曲なんて事を意識させない曲作りになっているのだ。
この曲がロカビリーなのはサビ「凍えそうなカモメ見つめ泣いていました♪」の部分。ここのメロディはアレンジを変えれば思いっきりロカビリーですよ。
でも三木たかしの技巧と石川さゆりの演歌魂によって細かい事は考えさせない曲に仕上がっている。
三連ではなく日本ではあまりヒット曲がない三拍子の曲も、伊藤咲子「乙女のワルツ」、わらべ「めだかの兄妹」とヒットさせているっても技巧派ならでは。

凄いことをいかにも「凄いことやっていますよ」と見せてしまうのは誰にでも出来るけど、こうサラッとやってしまう職業作家としてのスキルの高さはちょっとマネが出来ないっす。
素敵な曲をありがとうございます、感謝します。

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2008年12月 5日 (金)

岸本加世子「北風よ」

岸本加世子「北風よ」
作詞.作曲.荒木一郎/編曲.青木望
1977年07月10日/¥600
NAVレコード/N-17


2008120501以前「白鳥哲/ひとりだち」でも書いたTBS『水曜劇場』のマスコット的ポジションとして、1977年放送『ムー』の中で、東京にある足袋店「うさぎ屋」に静岡から上京して1人暮らしをしている従業員の女の子として芸能界デビューをした。
この『ムー』は水曜劇場が一番テンション高い時代の作品で、色々な仕掛けがある番組だった。
店主は伊藤四郎で子供は清水健太郎と郷ひろみと五十嵐めぐみ、従業員として樹木希林(改名直後なのでクレジットは「悠木千帆改メ樹木希林」だった)、職人は伴淳三郎と左とん平(役名がなぜか野口五郎)
続編の『ムー一族』も含め、テレビ創世記に逆行するかのように生放送の回も何度かあった。

その生放送も二元中継で行われ、郷ひろみが劇中でバイクに乗りもうひとつのスタジオへ向い夜の都心を爆走して駆けつけるという演出があった。
さらにクリエイションの曲が流れ横尾忠則が作ったオープニングが始まった次の瞬間、音や画像が乱れフィルムが燃え始め「しばらくお待ち下さい」のテロップが出た…が、そのテロップを郷ひろみが持っていて「大変お見苦しい点がございました、では生演奏でお楽しみ下さい」と言って番組が始まったりと、毎回毎回これでもか!とアイディアをぶちこんだ作品だった。
さらにドリフの「8時だよ!全員集合」みたいな地方の公会堂からの生中継の回もあった。

再放送とか、番組の完成度なんかは二の次で「面白い物」と作っていたんだろうなぁ。やはり久世光彦という人は天才だ。
もっとも、この『ムー一族』の打ち上げの時に、樹木希林が久世光彦と出演者の野口朋子の不倫・妊娠を暴露してしまい、その事がもとで久世はTBSを退社し『水曜劇場』の異常なテンションはこの作品が最後となっている。(樹木希林も旧芸名をオークションで売ったりした直後で、異常なテンションだったのかも知れない)
久世光彦はTBS退職後にテレビ制作会社カノックスを設立している。そして1994年、久世光彦が演出するドラマで樹木希林が再び仕事をしている。

で、この劇中曲を歌う岸本加世子ですが、期待を裏切らないタドタドしっぷりで、か細い歌声で1音1音を探り探り歌っている感じが「これだよ、これ、水曜劇場の劇中歌はこれじゃなくちゃ」という感じなのだ。
この『ムー一族』以降、一時期は週刊プレイボーイで毎回のようにセクシーグラビア展開をして、見るたびに化粧が濃くなっていったので心配していたのですが、今でも大御所女優として残っているのはこの時には想像も付かなかったなぁ

2008120502ちなみに「北風よ」という曲は地味に名曲なんですが、何故か武田久美子が1983年にリリースした「噂になってもいい」という歌手デビューシングルのB面でカバーされている。武田久美子も岸本加世子に負けないくらいにたどたどボーカルを展開しております。
岸本Ver.では歌詞に『私は今16と伝えてほしいの♪』とあるんですが、これをリリースした時の武田久美子はまだ14歳だったので『私は今幸せと伝えてほしいの♪』と変えられている。
その武田久美子も清純派デビューから週刊プレイボーイに出るたびに化粧が濃くなり衣装が小さくなっていたワケですが、こっちは遂にそれに歯止めが掛からずに貝殻ビキニを経由して、魔性の女になってしまいました。

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2008年12月 3日 (水)

紙ふうせん「冬が来る前に」

紙ふうせん「冬が来る前に」
作詞.後藤悦治郎/作曲.浦野直/編曲.梅垣達志
1977年/¥600
CBS SONY/06SH 231


2008120301もうすっかり冬がやって来ていますが、紙ふうせんの名曲「冬が来る前に」です。
元々「赤い鳥」というバンド形式のフォークグループが1974年に音楽性の違いから解散し、ギターの山本俊彦とベースの大川茂&ボーカルの山本潤子が都会的なポップスを歌うコーラスグループ「ハイファイセット」になり、ギターの後藤悦治郎とピアノの平山泰代がこの「紙ふうせん」を結成した。
「赤い鳥」が1974年1月に解散した後、2月に二人は結婚し、後藤悦治郎と後藤泰代による夫婦デュオ「紙ふうせん」としてデビューしている。
その音楽性は「ハイファイセット」の都会的な感じとは違って、純粋に「フォーク」という物を模索するスタイルだった。
ちなみに「紙ふうせん」というグループ名は「赤い鳥」時代の曲『紙風船』から取られている。

この「冬が来る前に」という曲、1977年リリースの曲なのでその手の本などでは「1977年のヒット曲」として掲載されることもあるけれど、実際にヒットしたのは1年経過した1978年3月頃。
1978年3月9日のザ・ベストテンに8位に初登場しているが、それ以上順位は上がらず1週のみのランクインとなっている。が、記憶では結構長く20位までに留まっていたと思う。

この1978年の「冬が来る前に」のヒットでメジャーな存在になった二人ですが、9月のある時ひょんな事から後藤悦治郎の名前がクローズアップされた事があった。というのも1978年9月にアイドル木之内みどりが妻子あるミュージシャンの元へ逃避行したという事件が起こりまして、その相手が後藤次利だったんですが(当時の奥さんは元シモンズ玉井タエ)、何を間違ったのか数社が後藤悦治郎と勘違いしたというお粗末な事件。すぐ、勘違いだと判明したので大騒ぎにはならなかったのですが。
ちなみに、1974年に結婚しているんですが、このシングルに書かれているプロフィールでは奥さんは結婚前の平山姓で書かれている。そして事務所は宝塚市にある。

2008120302音楽的な事を言うとアレンジがちょっと変わっていて、イントロは静かに始まるのですが、曲直前でいきなりディストーションが効いたギターの揺れるリズムに切り替わるのがかなり特徴的。メロディ自体はすごく穏やかなんですが、アレンジはかなりビートが利いている。さらに完奏部のアレンジもかなり凝っている。
編曲をした梅垣達志はヤマハ系出身で、実はこの曲がリリースされた1977年はCharの名曲「気絶するほど悩ましい」の作曲もしている。80年代には岩崎良美の佳作「恋ほど素敵なショーはない」という曲も作っている。


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2008年9月 7日 (日)

Kとブルンネン「あの場所から」

Kとブルンネン「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1970年/¥400
CBS SONY/SONA 86156


2008090711969年にデビューした『Kとブルンネン』アメリカ人女性と日本人男性のデュオで、1968年にデビューして売れていた「ヒデとロザンナ」の二番煎じと言われていたみたいですが、確かに音を聞くとそれを否定出来ない感じです。
デビューシングル「何故二人はここに」によるとプロフィールは
ブルンネン:1951年6月20日・アメリカコネチカット州生まれで三鷹市在住のアメリカンハイスクール3年在住の19歳。
K:本名は鈴木豊明、昭和22年11月3日・千葉県川口市生まれで明治大学商学部在学中の23歳。
となっている、誕生日がアメリカ人を西暦で、日本人を元号で書いてある細かい部分もあるんですが、なぜ鈴木豊明が「K」なのかを知りたい所でもあります。
「あの場所から」という曲、筒美京平が作曲だけでなく編曲もしているのですが、まだ70年代中期から始まるアイドル的なキラキラしたポップス感ではなく、しっとりと和風を感じるアレンジになる。ベンチャーズ歌謡をもっとシャープにしたような感じで、初期小柳ルミ子っぽいとでも言うのか。
ブルンネンが少し英語なまりの日本語で歌い出し、Kが交互に歌い、サビでハモっていく。しっとりとしたメロディだけれど、思わず途中で「アモーレー、アモーレーミォー!」と叫んでしまいそうなイメージもある。
やはり「ヒデとロザンナ」を多分に意識した楽曲なんだろうなぁ
と、その曲がそれから3年後、デュエット曲ではなく女性ソロ曲となって生まれ変わるのです。

朝倉理恵「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1973年2月/¥500
CBS SONY/SOLB 2

200809072朝倉理恵という方がソロで、誠実に「THE 70年代初期の清純派」という感じで歌い切っています。この朝倉理恵さんは資料が少ないのですが、元々本名の桜井妙子という名前で女優活動などをしていて、かのアニメ「アパッチ野球軍」では村長の娘でヒロイン花子を担当していたこともある。そして桜井妙子名義ではアニメ「ふしぎなメルモ」の挿入歌『幸せをはこぶメルモ』を歌っている。
歌手デビューに際して朝倉理恵という芸名にしたらしいのですが、その後の活動はイマイチ不明。
朝倉理恵Ver.「あの場所から」の編曲は高田弘となっているのですが、基本的には筒美京平Ver.を手直しした感じで、音色はソフトになりストリングスの高音が目立っている。男女デュオだったVer.と比べて、薄味になっている。少しテンポも抑えめでメロディの良さが前面に出ているようで、こっちでは「アモーレー」と叫ぶ感じではない。
でもこの曲はスマッシュヒットしたらしく、その後も時々ラジオなどで流れていた。
それから9年後にこの曲は再び、生まれ変わっています。
(追記)その後の調べで、朝倉理恵さんは後にCBSソニーのスタッフになって裏方の仕事をしつつ、アニメ歌手として「りすのバナー」などを歌っていたそうです。

柏原よしえ「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.大村雅朗
1982年8月/¥700
フィリップス/7PL-88

200809073柏原よしえがカバーしているのですが、実際の事をいうと1980年、同期デビューの松田聖子・河合奈保子・岩崎良美あたりと比べて大きく引き離され、さらに1982年組と言われる小泉今日子・中森明菜・松本伊代・早見優などの新人が出ている時代「この古い楽曲でのカバーはないだろ」という印象だったのですが、逆に地味だったために目立ったのか19万枚のヒットとなり、「あの場所から」史上もっとも売れたVer.になりました。
編曲は大村雅朗で、ストリングスが豪華になり音色もシャープな感じになっている。そして何より70年代と80年代が違っているのは、ベースとドラムというリズム楽器のミキシングが大きくなっているという点。
柏原よしえの何か舌が短いんじゃないか?という歌唱法は初代「KとブルンネンVer.」を思い起こさせ、さらに清純派を装った感じが「朝倉理恵Ver.」をも踏襲していている。
実は同期から大きく出遅れてしまった柏原よしえは1981年「ハローグッバイ」というカバー曲でスマッシュヒットを放っていた事から、この曲のカバーの企画もあったんじゃないかと思っている。
ということで、それまで「隠れた名曲」だったこの曲がやっと日の目を見たという事で、めでたしめでたしなのだ。

200809074という所で、中古レコードマニア的には「Kとブルンネン」Ver.を見つけた時に注意する点がある。
「おぉこんな盤が!」と思わず手にとってしまうワケですが、このジャケットと最初に掲載したジャケットには根本的な違いがある。
いわゆるジャケ違いって事になるのかもしれないんですが、CBS SONYのマークの所にあるレコード番号。それとこのジャケットには左下に値段がない。よく見ると、レコード番号の所と左下部分、写真を修正した後が解る。
実はこのジャケットは柏原よしえVer.がヒットした後で再発された物なので、要注意なのだ(ってあんまり買いたいと思う人は少ないと思うけど)
ちなみにKとブルンネンはB面「雲の上の城」などもじんわりと良い曲です。ただ難点を言うとしたら、どう聞いてもヒデとロザンナにしか聞こえないって事ですが。

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2008年8月30日 (土)

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」
作詞.Whitlaker/作曲.Webster/訳詞.見城美枝子/編曲.田辺信一
1975年/¥600
ユニオンレコード/UC-7


200808301夏シングル第12弾
現在は朝のワイドショーのコメンテーターで顔を見かける見城美枝子(愛称ケンケン)のセクシーなジャケットが印象的な曲でやんす。
見城さんって、こんな写真でシングルを出すようなセクシー担当の人だったけ?と思いつつ、でもアイドル的な人気もあったような気がするのでそれなりに需要があったのかも知れないなぁと、この時の年齢を計算してみると1946年生まれなので……30歳?
う〜む、なぜこの写真をジャケットに使用したのか謎が深まるばかりなのだ。

このシングルは当時TBS系で放送されていた朝の情報番組「おはよう720-キャラバンII-」のテーマ曲として使われた物。タイトルが示すように朝7時20分からの番組で(後に7時からになり番組名もおはよう700に変更)、このコーナーのテーマ曲としては大ヒットした田中星児の「ビューティフル・サンデー」が有名。
見城美枝子は本職の歌手ではないって事で、実に真面目な聖歌隊的な歌い方で「上手いけどおもしろみがない」という感じ。

200808302B面はトワ・エ・モアが1970年にヒットさせた「誰もいない海」で、何故かポルトガル語で1番と3番を、一緒に司会をしていた五木田武信と共に歌っている。
という事で、この「誰もいない海」の話です。
一般的にはトワ・エ・モアの代表曲となっているのですが、リリースした1970年は「空よ」のヒットもあったので紅白では歌われていない。翌年はサッポロオリンピックのイメージソング「虹と雪のバラード」が歌われたので、この名曲が紅白では歌われたことはない。
そして意外かも知れませんが、同時期に競作として越路吹雪も「誰もいない海」を歌っている。

実はこの曲が発表されたのはそれより3年ほど前、テレビ朝日のワイドショー『木島則夫モーニングショー』の挿入歌として発表され、ミュージカル歌手・ジェリー伊藤が歌ったものが元祖です。
もっとも、この時代はまだ「発表=レコード発売」ではなかったので、しばらくしてからシャンソン歌手の大木康子が歌った物が初のレコードとして1968年09月05日にリリースされています。
実はこの「誰もいない海」は、それまで海外の曲ばかりを発表していたCBSソニーが、国内制作新譜として最初に出したオリジナル曲の第1弾という歴史的なモノです。しかし、この「誰もいない海」は「野火子」と言う曲のB面としてのリリースでした。
それから2年後に、トワ・エ・モアと越路吹雪の競作で一気にメジャーな曲になったのです。

ちなみになぜ「誰もいない海」を、ちょっとイメージが合わない越路吹雪が歌っていたのかというと、作曲した内藤法美が越路吹雪の夫、という関係でした。
という事で、1967年頃にテレ朝系のワイドショー用に作られた曲が、1975年にTBS系ワイドショーで使われていたのです。

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2008年8月29日 (金)

研ナオコ「夏をあきらめて」

研ナオコ「夏をあきらめて」
作詞.作曲.桑田佳祐/編曲.若草恵
1982年09月/¥700
キャニオン/7A0211


200808291夏シングル第11弾
夏ももう最後だ、思いっきり遊び倒そう!と思っていたみなさんごめんなさい。という感じにこの1週間、異常なほどに涼しくなってしまい「夏の終わり」というより「初秋」という感じなのだ。
ということで研ナオコの1982年のヒット曲「夏をあきらめて」です。
何も仕掛けもしていないけれど、ジャケット写真でこれだけインパクトを出せる人もそうはいない。
歌詞の中では雨雲が近づく風景が歌われていて、海に出ることが出来ない恋人のとまどいが歌われている。

研ナオコの腰の辺りまで切れ込んだ水着は見たくはないけれど、この曲がリリースされた1982年の夏は歌詞の通りに例年にないほどの冷夏で(それ以外にも大型台風がいくつもあった)、まさにあきらめなくてはいけないような夏だった。
この夏、自分は音楽を一人淡々と作り続けていた。当時購入したばかりのWデッキを駆使してギターの音を重ね、多重録音をする事に日々熱中していた。
本来は「ポプコンなどのコンテストに送るため」という目的があって始めたハズの多重録音による曲作りが、いつの間にか送ってウケる曲という枠組みから大きく逸脱した「自分の趣味」だけの音作りにハマっていったのだ。

これは自分の悪い病気らしく、音楽自体も最初は「好きだった女の子にカッチョいい所を見せたい」という浅ましい下心から始まったハズなのだが、気が付いた時は「とにかくギター弾いて曲作って」という事だけが総てになっていた。本気で好きだった女の子とは上手くいかなかったけれど、あの時代「ギター弾いているだけでなんかもてた」という事で、自分みたいな奴でも「先輩手紙読んで下さい」なんつー女子も言い寄ってきた事があったのだ。が、もうその時の自分は「女子と付き合うの面倒なのでいいっす、もーギター弾いてる方がいいっす」と勿体ないオバケを出現させてしまうような事をしてしまった。
と、話はプチ自慢話になっているワケですが、そんなワケで自分の1982年夏はとにかく多重録音をしていた、という記憶しかない。

しかし録音の際、防音設備もない我が家の周辺には鬱蒼と茂った森があって、そこから大音量のセミの声がジージーワッシャワッシャミンミンと聞こえてくる。当然その声もマイクが拾ってしまうのだ。
とりあえず、デモテープとして作っていたのでノイズが入るのも構わないと思っていたのですが、3重、4重と音を重ねていくにつれ、大音量のセミの声×2倍、3倍と増幅され、ヘッドフォンで聴いているとクラクラするような音になっていった。
ウワンウワンと大音量で泣き続けるセミの声の中、私のギターがジャカジャカ鳴るという、かなりアバンギャルドなテープが出来上がってしまった。

今でもその時のテープは手元にあるが、1982年、今から26年も前の、何世代か解らない前のセミの大合唱があの涼しかった夏を思い起こさせるのだ。
この時に作った多くの曲の中から1曲チョイスして多重録音しなおした物が、その後、YAMAHAが主催していたポピュラーコンテスト、通称「ポプコン」の東海大会にノミネートされ、大舞台に立つこととなるのだが、それはまだまだ先の話なのだ。

200808292てなワケで、自分の思い出なんかを語っていますが、「夏をあきらめて」は桑田佳祐の作詞作曲で、元々はサザンオールスターズが1982年7月に発売した「NUDE MAN」に収録されている曲。研ナオコのVer.はそこからのカバーで9月に発売されている。
もちろんサザンファンにとってはこの曲はサザンの物なんだろうけれど、研ナオコは独特のとぎれとぎれ唱法で歌い、雨に祟られた夏が終わっていく様子をじんわりと心に染み込ませていく。どっちかというと、桑田佳祐が歌うものより研ナオコの方が好きかもしれない。
70年代から80年代にかけて研ナオコは中島みゆきの曲を歌ってヒットを飛ばしていたけれど、この桑田佳祐の曲もよく似合う。

夏の終わりに聞くと、じんわりと夏の疲労が体の表面に出てくるような曲です。

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