2009年10月27日 (火)

加藤和彦「それから先のことは…」追悼

2009102701そりゃ無いでしょ、と言うしか無い。
2009年10月17日、加藤和彦が亡くなった。62歳。
今年は5月に忌野清志郎が亡くなり、かなりショックを受けたんだけど、それ以上のショックを受けている。なんだよもう。
忌野清志郎の場合は数年前からある程度覚悟をしていた事だけど、今回の訃報は未だに自分の中で受け入れる事が出来ていない。


自殺だなんて、あのダンディで飄々としている加藤和彦には一番似合わない。
友人に宛てた手紙の中には「もう音楽でやりたい事が無くなった」みたいな事を書いていたらしいけど、昨年2008年11月には小原礼・土屋昌巳・屋敷豪太、そして元桜ッ子クラブ&セーラームーンの大山アンザ(ANZA)で結成したVITAMIN-Qでバリバリにポップで格好いい音を出していたのに。
そして今年の2月に坂崎との「和幸」の2ndアルバムを発表して、いつも以上に精力的だと思っていたのに、なんだよ、まったくもう。

2009102702自分にとって加藤和彦は色々な意味で影響を受けた人だった。
もちろん最初の出会いはフォークルの「帰ってきたヨッパライ」で、あの頃はその早回しというアイディアと天国から追い出される男の話という事で、学校帰りに同級生と無邪気に「なぁおまえ〜〜」とかマネをしていた。自分はまだ小学校低学年だった。
ヒットした年の大晦日のレコード大賞で企画賞を受賞した時、メンバーは出演せずガイコツが歌うビデオが流れたのも鮮明に覚えている。今考えれば、もうこの1968年12月31日には「1年間限定のプロ活動」が終わって解散していたんですよね。当時はそんな事も知らなかったので、テレビに出ない人達だと思っていた。

ラストのお経が「A Hard Days Night」になっているのに気づくのは中学に上がってからだったけど、同時にその細かい部分の音楽的な複雑さにも気づいた。「帰ってきたヨッパライ」も基本はCだけど実際に耳コピすると何じゃこりゃの連続。ただのコミックソングじゃ無かったのだ。
テープの回転数を変えるというのはビートルズがやっていた事もあり、その手のアナログ的に音をいじるというのはすごくビートルズ的というか、あの60年代後半という感じがする。変名バンドとして「ズートルビー」という名前を使っていた事から、ビートルズに良くも悪くも影響を受けている。
そう考えると、出だしの「オラは死ンじまっただ〜♪」と繰り返されるメロディは、ラストのお経で語っている「It's been A Hard Days Night♪」とメロディが微妙に重なって聞こえる。

2009102703公式2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」も、これもハッキリとはリアルタイム感は無いんだけどなんとなく耳に残っていた。
後に「この曲は発売中止になったイムジン河を逆から歌った物」というのを聞かされた時に、同じようなエピソードとしてビートルズの「Because」を連想した。
「Because」はジョン・レノンが作った曲だけど、ある日オノヨーコがベートーベンのピアノ曲「月光」を弾いていた時に冗談で「逆から演奏したらもっといい曲になるんじゃないか?」と楽譜をひっくりかえしたのがキッカケで、そのメロディを元に作った曲なのだ。だから「イムジン河」のエピソードを聞いた時にそれを連想した。
ところが発表年を調べると、イムジン河が1968年3月に発売予定で、急遽作った「悲しくてやりきれない」が1968年3月21日に発売となっている。それに対しビートルズの「Because」は1969年発売の「Abbey Road」が初出なのだ。うむ、2枚目のシングルですでにビートルズより先を行っていたのか。

2009102707その後、フォークルを解散してソロ活動、プロデューサー活動を始めるのですが、今改めて聞き直すと、どの曲にも加藤和彦なりのポップ感が出ていて、何度聞いてもワクワクしてしまう高揚感がある。
とりあえず今回の訃報では世間に解りやすい功績として、吉田拓郎の「結婚しようよ」泉谷しげる「春夏秋冬」の編曲&プロデュースなんてのがピックアップされていたけど、その部分も含めて、日本の音楽を根底からレベルアップさせた功績が大きいと思っている。
個人的にはアグネス・チャンの「妖精の詩」の作曲が好き。作詞の盟友・松山猛と共にあの当時のアーティストがアイドル歌謡曲を手がけるという部分の先駆だったのではないかと思う。
誰でも楽しめるポップス、しかしその裏には職人芸がしっかりとある。そこが加藤和彦って感じなのだ。

2009102709ギターを弾き始めた中学時代、すでにミカバンドは存在していたんだけど田舎の中学生でアコースティックギターを手に入れたばかりだったのと、周囲にはN.S.P的なヘナチョコフォークを聞いている人ばかりだったので、否応なくそっちの曲を聞いて、歌っていた。
中学2年の時に教育実習として女子大生がやって来て、なんかみんなで盛り上がって「休みに家に遊びに行こうぜ!」という話になった事があった。今思えば、中学生が家にやってくるなんて嫌だろうなぁ女子大生としては。

で、その教育実習先生の部屋にあったのがサディスティックミカバンドの「黒船」だった。
加藤和彦とミカが空を飛んでいるジャケット(裏には他のメンバーも)が印象的で、さらに聞かせてもらった音が衝撃的だった。ギターなんか弾き始めて「周りの未だに歌謡曲なんて聴いているヤツって幼稚だな」とリアル厨房意識を炸裂させていた自分はハンマーでガンガン殴られるような感じを受けてしまったのだ。もう歌謡曲もフォークもそんなの関係ねーじゃん!と思ってしまったのだ。
1974年の出来事だった。

2009102704まだレンタルレコードなどなかった時代で、さらにあまり裕福では無かったのでアルバムも買えず、何曲かラジオで流れたミカバンドの曲を録音して(しかもエンディングまで録音されていない)何度も何度も聞いていた。「タイムマシンにおねがい」や「サイクリングブギ」など。そう言う意味ではあんまりちゃんとしたファンでは無かったけど。
後に購入したミカバンドのアルバムの帯には『ムーグ野郎のギンガム集団、アロハのドーナツ、ロンドン帰りのサディスティック・ミカ・バンド』と書かれている。そしてライナーノーツではトノバンではなく「将軍」というニックネームで書かれている。
(ミカバンドの歴史はかつて書いたここで)
(木村カエラ参加のミカエラバンドに関してはここで)

そしてミカバンドは1975年11月に加藤和彦とミカの離婚をもって解散。残ったメンバーが「サディスティックス」として活動を続けていた。
ちなみに1976年、浅野ゆう子が歌っていたディスコ歌謡「セクシーバスストップ」のオリジナル盤はニューヨークのファンクバンド「オリエンタルエクスプレス」のインスト物という触れ込みだったけど、実際に演奏しているのは加藤和彦が抜けた後のミカバンド(&松任谷正隆)らしい。これの仕掛け人はDr.ドラゴンというアレンジャーで、作曲はジャック・ダイアモンドという人という事になっているけど、こっちは実際には筒美京平。
この頃、自分は歌謡曲もロックもフォークもなんでも聞く人になっていて、ディスコ系の曲も大好きで聞いていたんだけど、まさか知らない所で自分が好きだった筒美京平とミカバンドが融合していたとは。その当時、それも知らずにこの曲のステップをマネしていた中学生だった。

1976年1月5日から9月28日まで加藤和彦がオールナイトニッポンの月曜1部を担当していた。
中学から高校にかけてオールナイトニッポンのヘビーリスナーだったので、この番組もかなり熱心に聞き込んだ。そして自分の中で「帰ってきたヨッパライ」そして「ミカバンド」がここで繋がった。
Wikipediaにはこのオールナイトニッポンに関しての記述がないので、書庫の奥の奥にあった『オールナイトニッポン大百科』を探し出してきてその日付を見て驚いたのが、たったの9ヶ月だったのかという事。なんかもっと聞いていたような気がしていた。(タモリが1976年10月から、北山修が変名・自切俳人でやるのは1977年1月から)

2009102705この番組をしている時に加藤和彦がレコーディングしていて、後に発売したアルバムが『それから先のことは…』という作品。それまでフォークルとミカバンドの間にソロを2枚出しているけど、ミカバンド解散後の本格ソロ始動がこのアルバムなのだ。
なんとか金をやりくりしてこのアルバムを買いました。とにかくすり減るほど聞き込んだ。というかホンキですり減った。聞き込みすぎて今でもこのアルバムに関しては冷静な判断は出来ないけど、どれも名曲だと思っている。もちろんCDで買い直してもいる。
シンガポール航空のCMソングとしても使われた「シンガプーラ」はとにかく名曲。

その後のソロ活動「ガーディニア」「パパ・ヘミングウェイ」「うたかたのオペラ」「あの頃、マリー・ローランサン」「ヴェネチア」とずっと聞き続けていった。
その中で一番好きだったのが、1983年にリリースした「あの頃、マリー・ローランサン」。
個人的に加藤和彦の最高傑作と呼べるアルバムとは? と聞かれた場合、これをあげるかも知れない。
安井かずみの言葉もゾクゾクするほどドラマティックで、現実感のないくせにリアルな世界に魂を持って行かれてしまうのだ。音もこれ以上ないほどにシンプルで研ぎ澄まされている。
1983年というと、日本の音楽はテクノの洗礼を受けてネコも杓子もシモンズやリンのドラムがドカドカ言っていた時代に、このシャープさには痺れますよ。というか世間はついてこなかったのかも知れないけど。

2009102706加藤和彦は京都市生まれで、少年期は鎌倉や逗子を経由して東京で育つという「オシャレな場所ばかり」を経験しているせいなのか、とにかく格好いい。自分にとって「オシャレな人」とはこういう人という指標でもあった。
80年代、流行の音がどんどん肉厚で非人間になって行く中で、「あの頃、マリー・ローランサン」で加藤和彦が限りなくシャープでシンプルな音を作り上げたのと同じように、加藤和彦のファッションはシンプルで格好良かった。
ミカバンドの頃はロンドン帰りのギンガム野郎だったのでちょいと派手だったけど、基準はシンプルだった。身長があってスッキリしているのが格好いいの最大の理由なんだろうけど、自分にとってのオシャレが「どれだけシンプルになれるか?」という物なのは加藤和彦の影響が大きい。

「若い時代に洗礼を受けた人の曲というのは身体から離れない」と、どっかの誰かが言っていたけど、本当にそうなのだ。おそらく、加藤和彦がいなくなったこの先もずっと、自分は影響を受け続けていくんだと思う。

おそらく、今回の訃報に際して世間では「あのフォークルの」「あのミカバンドの」という感じで語られるんだろうけれど、自分にとってはそっちも大きいけれど、それから先のソロ歌手の加藤和彦とプロデューサーとしての加藤和彦がかなり大きい。
友人に当てた手紙の中に「音楽の中にやりたい物が無くなった」という主旨の事を書いていたというけれど、理解はしたくないけど、解るような部分もある。
加藤和彦をずっと追いかけてきて解るのが「常に現役でいたい」「常に新しい事をやりたい」という部分だった。その意味での、VITAMIN-Qだったんだろうし、和幸だったんだと思う。

2009102708でも今回の訃報を聞いていて感じてしまったのが、世間が求めている加藤和彦像ってのが「フォーククルセダーズの加藤和彦」「サディスティックミカバンドの加藤和彦」だという事。
9月に嬬恋で行われた南こうせつのイベントに和幸で参加していたけど、ラストに「あの素晴らしい愛をもう一度」を会場の客と共に大合唱したという。実はこの年末も静岡で森山良子なんかが参加するイベントに加藤和彦が参加するハズだった。おそらくここでも、客の大多数があの時代の加藤和彦を聞いていた人達で、あの時代の加藤和彦を求めているんだと思う。

常に現役感で仕事をしていた人としては、この現状というのはモチベーションを保つ事は難しいのかも知れない。それは致し方ない事だったとしても。
なんだか、色々な事を考えすぎて、この追悼文を書く事が上手に出来ない。まだまだ書きたい事がある。

二人目の奥さん作詞家の安井かずみさんが亡くなった時にインタビューで加藤和彦は「かずみはとても寂しがり屋だったので、ボクより先に亡くなった事が唯一の救いです、彼女を一人きりにさせる事がなくてよかった」と語っていた。
その優しさと深い愛情に加藤和彦の強さと脆さを感じてしまう。

おそらくまだ続きを書きます。

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2009年5月13日 (水)

木之内みどり『あした悪魔になあれ』

木之内みどり『あした悪魔になあれ』
作詞.阿久悠/作曲.三木たかし/編曲.三木たかし
1974年09月10日/¥600
NAVレコード/NA-9


2009051301作曲家・三木たかしさん追悼という事で、編曲まで担当しているこの曲を取り上げます。
他に編曲までしている曲で思いつくのは岩崎宏美「思秋期」あべ静江「みずいろの手紙」伊藤咲子「木枯らしの二人」「乙女のワルツ」石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など。
アレンジャーとしてはストリングスを多用したドラマティックな物が印象的でした。

木之内みどりに関してはデビュー曲の「めざめ」に続いて2曲目で、この曲はブラスやギターのカッティングも耳に残るのですが、それ以上に耳に残るのは女性コーラス。出だしにサビを持ってくるというパターンなのですが「今日はっ可愛いッキミでッ」と始まる箇所にバックコーラスが木之内みどりの声をかき消すように入ってくる。
というか完全にかき消しています。やはり1曲の「めざめ」の反省からこうなったんじゃないかと思うわけです。声が細く声量がないことから、とりあえずサビだけでも盛り上がっているように聞かせるためのアイディアかと。
最初聞いた時は完全に女性コーラスだけで始まる曲かと思っていたんだけど、その女性コーラスの中に沈んだようにか細い声で木之内みどりが歌っているのを発見して、そりゃないだろと思った事もある。
1曲目「めざめ」のサビ「虐めちゃイヤイヤァ♪急いじゃイヤイヤァ♪怒っちゃイヤ、イヤイヤァン♪」も嫌いじゃないっすけどね。

2009051303三木たかし追悼番組ではやはり石川さゆり・テレサテンあたりに書いた曲が大きく取り上げられていましたが、個人的には三木たかしベスト3は、木之内みどり「あした悪魔になあれ」、キャンディーズ「哀愁のシンフォニー」、吉田真梨「もどり橋」って感じで、番外編でザ・バーズ「ふり向くな君は美しい」です。
「ふり向くな君は美しい」は高校サッカーの大会歌として1976年から使われている曲なんですが、シズオカに育った私は好むと好まざるを得ず「サッカー大国シズオカ」という事で毎日テレビでこの曲がヘビーローテーションされていた事から、このメロディを聴くと高校時代に記憶が戻ってしまうのだ。
個人的にはあざとい作曲をする筒美京平が大好きだったので、あまりにもスルッと聞けてしまう曲を作る三木たかしは昔はあまり注目していませんでした。
が、曲を作ったり、分析するようになって「!」と思ってしまった。こいつは凄いや、と。

三木たかしという作曲家の凄さは、技巧を感じさせない技巧。楽譜で見ると特殊な事をやっているのに普通に聞いた時にその特殊さを感じさせずに、スルッと耳に馴染ませてしまうという技巧。
例えば『津軽海峡・冬景色』を聞くと普通にメロディの綺麗な演歌として聞けてしまうのですが、実際の事を言えば出だしの「上野発の夜行列車降りた時から♪」は楽譜上ではすべて三連符で書かれている。つまり1小節の中に12音が均等に並んでいるのだ。それに続く「青森駅は雪の中♪」になると三連だけど4分音符と8部音符の繰り返し。
演歌として考えないとロカビリーとスィング的な曲なのだ。
それを普通にカラオケ好きなおばちゃん達にすんなりと歌わせてしまう。もっともこの三連があるために「なんか歌いこなすのが大変なんだよねぇ」となるんだけれど、それでも三連の曲なんて事を意識させない曲作りになっているのだ。
この曲がロカビリーなのはサビ「凍えそうなカモメ見つめ泣いていました♪」の部分。ここのメロディはアレンジを変えれば思いっきりロカビリーですよ。
でも三木たかしの技巧と石川さゆりの演歌魂によって細かい事は考えさせない曲に仕上がっている。
三連ではなく日本ではあまりヒット曲がない三拍子の曲も、伊藤咲子「乙女のワルツ」、わらべ「めだかの兄妹」とヒットさせているっても技巧派ならでは。

凄いことをいかにも「凄いことやっていますよ」と見せてしまうのは誰にでも出来るけど、こうサラッとやってしまう職業作家としてのスキルの高さはちょっとマネが出来ないっす。
素敵な曲をありがとうございます、感謝します。

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2008年12月 5日 (金)

岸本加世子「北風よ」

岸本加世子「北風よ」
作詞.作曲.荒木一郎/編曲.青木望
1977年07月10日/¥600
NAVレコード/N-17


2008120501以前「白鳥哲/ひとりだち」でも書いたTBS『水曜劇場』のマスコット的ポジションとして、1977年放送『ムー』の中で、東京にある足袋店「うさぎ屋」に静岡から上京して1人暮らしをしている従業員の女の子として芸能界デビューをした。
この『ムー』は水曜劇場が一番テンション高い時代の作品で、色々な仕掛けがある番組だった。
店主は伊藤四郎で子供は清水健太郎と郷ひろみと五十嵐めぐみ、従業員として樹木希林(改名直後なのでクレジットは「悠木千帆改メ樹木希林」だった)、職人は伴淳三郎と左とん平(役名がなぜか野口五郎)
続編の『ムー一族』も含め、テレビ創世記に逆行するかのように生放送の回も何度かあった。

その生放送も二元中継で行われ、郷ひろみが劇中でバイクに乗りもうひとつのスタジオへ向い夜の都心を爆走して駆けつけるという演出があった。
さらにクリエイションの曲が流れ横尾忠則が作ったオープニングが始まった次の瞬間、音や画像が乱れフィルムが燃え始め「しばらくお待ち下さい」のテロップが出た…が、そのテロップを郷ひろみが持っていて「大変お見苦しい点がございました、では生演奏でお楽しみ下さい」と言って番組が始まったりと、毎回毎回これでもか!とアイディアをぶちこんだ作品だった。
さらにドリフの「8時だよ!全員集合」みたいな地方の公会堂からの生中継の回もあった。

再放送とか、番組の完成度なんかは二の次で「面白い物」と作っていたんだろうなぁ。やはり久世光彦という人は天才だ。
もっとも、この『ムー一族』の打ち上げの時に、樹木希林が久世光彦と出演者の野口朋子の不倫・妊娠を暴露してしまい、その事がもとで久世はTBSを退社し『水曜劇場』の異常なテンションはこの作品が最後となっている。(樹木希林も旧芸名をオークションで売ったりした直後で、異常なテンションだったのかも知れない)
久世光彦はTBS退職後にテレビ制作会社カノックスを設立している。そして1994年、久世光彦が演出するドラマで樹木希林が再び仕事をしている。

で、この劇中曲を歌う岸本加世子ですが、期待を裏切らないタドタドしっぷりで、か細い歌声で1音1音を探り探り歌っている感じが「これだよ、これ、水曜劇場の劇中歌はこれじゃなくちゃ」という感じなのだ。
この『ムー一族』以降、一時期は週刊プレイボーイで毎回のようにセクシーグラビア展開をして、見るたびに化粧が濃くなっていったので心配していたのですが、今でも大御所女優として残っているのはこの時には想像も付かなかったなぁ

2008120502ちなみに「北風よ」という曲は地味に名曲なんですが、何故か武田久美子が1983年にリリースした「噂になってもいい」という歌手デビューシングルのB面でカバーされている。武田久美子も岸本加世子に負けないくらいにたどたどボーカルを展開しております。
岸本Ver.では歌詞に『私は今16と伝えてほしいの♪』とあるんですが、これをリリースした時の武田久美子はまだ14歳だったので『私は今幸せと伝えてほしいの♪』と変えられている。
その武田久美子も清純派デビューから週刊プレイボーイに出るたびに化粧が濃くなり衣装が小さくなっていたワケですが、こっちは遂にそれに歯止めが掛からずに貝殻ビキニを経由して、魔性の女になってしまいました。

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2008年12月 3日 (水)

紙ふうせん「冬が来る前に」

紙ふうせん「冬が来る前に」
作詞.後藤悦治郎/作曲.浦野直/編曲.梅垣達志
1977年/¥600
CBS SONY/06SH 231


2008120301もうすっかり冬がやって来ていますが、紙ふうせんの名曲「冬が来る前に」です。
元々「赤い鳥」というバンド形式のフォークグループが1974年に音楽性の違いから解散し、ギターの山本俊彦とベースの大川茂&ボーカルの山本潤子が都会的なポップスを歌うコーラスグループ「ハイファイセット」になり、ギターの後藤悦治郎とピアノの平山泰代がこの「紙ふうせん」を結成した。
「赤い鳥」が1974年1月に解散した後、2月に二人は結婚し、後藤悦治郎と後藤泰代による夫婦デュオ「紙ふうせん」としてデビューしている。
その音楽性は「ハイファイセット」の都会的な感じとは違って、純粋に「フォーク」という物を模索するスタイルだった。
ちなみに「紙ふうせん」というグループ名は「赤い鳥」時代の曲『紙風船』から取られている。

この「冬が来る前に」という曲、1977年リリースの曲なのでその手の本などでは「1977年のヒット曲」として掲載されることもあるけれど、実際にヒットしたのは1年経過した1978年3月頃。
1978年3月9日のザ・ベストテンに8位に初登場しているが、それ以上順位は上がらず1週のみのランクインとなっている。が、記憶では結構長く20位までに留まっていたと思う。

この1978年の「冬が来る前に」のヒットでメジャーな存在になった二人ですが、9月のある時ひょんな事から後藤悦治郎の名前がクローズアップされた事があった。というのも1978年9月にアイドル木之内みどりが妻子あるミュージシャンの元へ逃避行したという事件が起こりまして、その相手が後藤次利だったんですが(当時の奥さんは元シモンズ玉井タエ)、何を間違ったのか数社が後藤悦治郎と勘違いしたというお粗末な事件。すぐ、勘違いだと判明したので大騒ぎにはならなかったのですが。
ちなみに、1974年に結婚しているんですが、このシングルに書かれているプロフィールでは奥さんは結婚前の平山姓で書かれている。そして事務所は宝塚市にある。

2008120302音楽的な事を言うとアレンジがちょっと変わっていて、イントロは静かに始まるのですが、曲直前でいきなりディストーションが効いたギターの揺れるリズムに切り替わるのがかなり特徴的。メロディ自体はすごく穏やかなんですが、アレンジはかなりビートが利いている。さらに完奏部のアレンジもかなり凝っている。
編曲をした梅垣達志はヤマハ系出身で、実はこの曲がリリースされた1977年はCharの名曲「気絶するほど悩ましい」の作曲もしている。80年代には岩崎良美の佳作「恋ほど素敵なショーはない」という曲も作っている。


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2008年9月 7日 (日)

Kとブルンネン「あの場所から」

Kとブルンネン「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.筒美京平
1970年/¥400
CBS SONY/SONA 86156


2008090711969年にデビューした『Kとブルンネン』アメリカ人女性と日本人男性のデュオで、1968年にデビューして売れていた「ヒデとロザンナ」の二番煎じと言われていたみたいですが、確かに音を聞くとそれを否定出来ない感じです。
デビューシングル「何故二人はここに」によるとプロフィールは
ブルンネン:1951年6月20日・アメリカコネチカット州生まれで三鷹市在住のアメリカンハイスクール3年在住の19歳。
K:本名は鈴木豊明、昭和22年11月3日・千葉県川口市生まれで明治大学商学部在学中の23歳。
となっている、誕生日がアメリカ人を西暦で、日本人を元号で書いてある細かい部分もあるんですが、なぜ鈴木豊明が「K」なのかを知りたい所でもあります。
「あの場所から」という曲、筒美京平が作曲だけでなく編曲もしているのですが、まだ70年代中期から始まるアイドル的なキラキラしたポップス感ではなく、しっとりと和風を感じるアレンジになる。ベンチャーズ歌謡をもっとシャープにしたような感じで、初期小柳ルミ子っぽいとでも言うのか。
ブルンネンが少し英語なまりの日本語で歌い出し、Kが交互に歌い、サビでハモっていく。しっとりとしたメロディだけれど、思わず途中で「アモーレー、アモーレーミォー!」と叫んでしまいそうなイメージもある。
やはり「ヒデとロザンナ」を多分に意識した楽曲なんだろうなぁ
と、その曲がそれから3年後、デュエット曲ではなく女性ソロ曲となって生まれ変わるのです。

朝倉理恵「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1973年2月/¥500
CBS SONY/SOLB 2

200809072朝倉理恵という方がソロで、誠実に「THE 70年代初期の清純派」という感じで歌い切っています。この朝倉理恵さんは資料が少ないのですが、元々本名の桜井妙子という名前で女優活動などをしていて、かのアニメ「アパッチ野球軍」では村長の娘でヒロイン花子を担当していたこともある。そして桜井妙子名義ではアニメ「ふしぎなメルモ」の挿入歌『幸せをはこぶメルモ』を歌っている。
歌手デビューに際して朝倉理恵という芸名にしたらしいのですが、その後の活動はイマイチ不明。
朝倉理恵Ver.「あの場所から」の編曲は高田弘となっているのですが、基本的には筒美京平Ver.を手直しした感じで、音色はソフトになりストリングスの高音が目立っている。男女デュオだったVer.と比べて、薄味になっている。少しテンポも抑えめでメロディの良さが前面に出ているようで、こっちでは「アモーレー」と叫ぶ感じではない。
でもこの曲はスマッシュヒットしたらしく、その後も時々ラジオなどで流れていた。
それから9年後にこの曲は再び、生まれ変わっています。
(追記)その後の調べで、朝倉理恵さんは後にCBSソニーのスタッフになって裏方の仕事をしつつ、アニメ歌手として「りすのバナー」などを歌っていたそうです。

柏原よしえ「あの場所から」
作詞.山上路夫/作曲.筒美京平/編曲.大村雅朗
1982年8月/¥700
フィリップス/7PL-88

200809073柏原よしえがカバーしているのですが、実際の事をいうと1980年、同期デビューの松田聖子・河合奈保子・岩崎良美あたりと比べて大きく引き離され、さらに1982年組と言われる小泉今日子・中森明菜・松本伊代・早見優などの新人が出ている時代「この古い楽曲でのカバーはないだろ」という印象だったのですが、逆に地味だったために目立ったのか19万枚のヒットとなり、「あの場所から」史上もっとも売れたVer.になりました。
編曲は大村雅朗で、ストリングスが豪華になり音色もシャープな感じになっている。そして何より70年代と80年代が違っているのは、ベースとドラムというリズム楽器のミキシングが大きくなっているという点。
柏原よしえの何か舌が短いんじゃないか?という歌唱法は初代「KとブルンネンVer.」を思い起こさせ、さらに清純派を装った感じが「朝倉理恵Ver.」をも踏襲していている。
実は同期から大きく出遅れてしまった柏原よしえは1981年「ハローグッバイ」というカバー曲でスマッシュヒットを放っていた事から、この曲のカバーの企画もあったんじゃないかと思っている。
ということで、それまで「隠れた名曲」だったこの曲がやっと日の目を見たという事で、めでたしめでたしなのだ。

200809074という所で、中古レコードマニア的には「Kとブルンネン」Ver.を見つけた時に注意する点がある。
「おぉこんな盤が!」と思わず手にとってしまうワケですが、このジャケットと最初に掲載したジャケットには根本的な違いがある。
いわゆるジャケ違いって事になるのかもしれないんですが、CBS SONYのマークの所にあるレコード番号。それとこのジャケットには左下に値段がない。よく見ると、レコード番号の所と左下部分、写真を修正した後が解る。
実はこのジャケットは柏原よしえVer.がヒットした後で再発された物なので、要注意なのだ(ってあんまり買いたいと思う人は少ないと思うけど)
ちなみにKとブルンネンはB面「雲の上の城」などもじんわりと良い曲です。ただ難点を言うとしたら、どう聞いてもヒデとロザンナにしか聞こえないって事ですが。

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2008年8月30日 (土)

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」

見城美枝子「さよならの夏/誰もいない海」
作詞.Whitlaker/作曲.Webster/訳詞.見城美枝子/編曲.田辺信一
1975年/¥600
ユニオンレコード/UC-7


200808301夏シングル第12弾
現在は朝のワイドショーのコメンテーターで顔を見かける見城美枝子(愛称ケンケン)のセクシーなジャケットが印象的な曲でやんす。
見城さんって、こんな写真でシングルを出すようなセクシー担当の人だったけ?と思いつつ、でもアイドル的な人気もあったような気がするのでそれなりに需要があったのかも知れないなぁと、この時の年齢を計算してみると1946年生まれなので……30歳?
う〜む、なぜこの写真をジャケットに使用したのか謎が深まるばかりなのだ。

このシングルは当時TBS系で放送されていた朝の情報番組「おはよう720-キャラバンII-」のテーマ曲として使われた物。タイトルが示すように朝7時20分からの番組で(後に7時からになり番組名もおはよう700に変更)、このコーナーのテーマ曲としては大ヒットした田中星児の「ビューティフル・サンデー」が有名。
見城美枝子は本職の歌手ではないって事で、実に真面目な聖歌隊的な歌い方で「上手いけどおもしろみがない」という感じ。

200808302B面はトワ・エ・モアが1970年にヒットさせた「誰もいない海」で、何故かポルトガル語で1番と3番を、一緒に司会をしていた五木田武信と共に歌っている。
という事で、この「誰もいない海」の話です。
一般的にはトワ・エ・モアの代表曲となっているのですが、リリースした1970年は「空よ」のヒットもあったので紅白では歌われていない。翌年はサッポロオリンピックのイメージソング「虹と雪のバラード」が歌われたので、この名曲が紅白では歌われたことはない。
そして意外かも知れませんが、同時期に競作として越路吹雪も「誰もいない海」を歌っている。

実はこの曲が発表されたのはそれより3年ほど前、テレビ朝日のワイドショー『木島則夫モーニングショー』の挿入歌として発表され、ミュージカル歌手・ジェリー伊藤が歌ったものが元祖です。
もっとも、この時代はまだ「発表=レコード発売」ではなかったので、しばらくしてからシャンソン歌手の大木康子が歌った物が初のレコードとして1968年09月05日にリリースされています。
実はこの「誰もいない海」は、それまで海外の曲ばかりを発表していたCBSソニーが、国内制作新譜として最初に出したオリジナル曲の第1弾という歴史的なモノです。しかし、この「誰もいない海」は「野火子」と言う曲のB面としてのリリースでした。
それから2年後に、トワ・エ・モアと越路吹雪の競作で一気にメジャーな曲になったのです。

ちなみになぜ「誰もいない海」を、ちょっとイメージが合わない越路吹雪が歌っていたのかというと、作曲した内藤法美が越路吹雪の夫、という関係でした。
という事で、1967年頃にテレ朝系のワイドショー用に作られた曲が、1975年にTBS系ワイドショーで使われていたのです。

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2008年8月29日 (金)

研ナオコ「夏をあきらめて」

研ナオコ「夏をあきらめて」
作詞.作曲.桑田佳祐/編曲.若草恵
1982年09月/¥700
キャニオン/7A0211


200808291夏シングル第11弾
夏ももう最後だ、思いっきり遊び倒そう!と思っていたみなさんごめんなさい。という感じにこの1週間、異常なほどに涼しくなってしまい「夏の終わり」というより「初秋」という感じなのだ。
ということで研ナオコの1982年のヒット曲「夏をあきらめて」です。
何も仕掛けもしていないけれど、ジャケット写真でこれだけインパクトを出せる人もそうはいない。
歌詞の中では雨雲が近づく風景が歌われていて、海に出ることが出来ない恋人のとまどいが歌われている。

研ナオコの腰の辺りまで切れ込んだ水着は見たくはないけれど、この曲がリリースされた1982年の夏は歌詞の通りに例年にないほどの冷夏で(それ以外にも大型台風がいくつもあった)、まさにあきらめなくてはいけないような夏だった。
この夏、自分は音楽を一人淡々と作り続けていた。当時購入したばかりのWデッキを駆使してギターの音を重ね、多重録音をする事に日々熱中していた。
本来は「ポプコンなどのコンテストに送るため」という目的があって始めたハズの多重録音による曲作りが、いつの間にか送ってウケる曲という枠組みから大きく逸脱した「自分の趣味」だけの音作りにハマっていったのだ。

これは自分の悪い病気らしく、音楽自体も最初は「好きだった女の子にカッチョいい所を見せたい」という浅ましい下心から始まったハズなのだが、気が付いた時は「とにかくギター弾いて曲作って」という事だけが総てになっていた。本気で好きだった女の子とは上手くいかなかったけれど、あの時代「ギター弾いているだけでなんかもてた」という事で、自分みたいな奴でも「先輩手紙読んで下さい」なんつー女子も言い寄ってきた事があったのだ。が、もうその時の自分は「女子と付き合うの面倒なのでいいっす、もーギター弾いてる方がいいっす」と勿体ないオバケを出現させてしまうような事をしてしまった。
と、話はプチ自慢話になっているワケですが、そんなワケで自分の1982年夏はとにかく多重録音をしていた、という記憶しかない。

しかし録音の際、防音設備もない我が家の周辺には鬱蒼と茂った森があって、そこから大音量のセミの声がジージーワッシャワッシャミンミンと聞こえてくる。当然その声もマイクが拾ってしまうのだ。
とりあえず、デモテープとして作っていたのでノイズが入るのも構わないと思っていたのですが、3重、4重と音を重ねていくにつれ、大音量のセミの声×2倍、3倍と増幅され、ヘッドフォンで聴いているとクラクラするような音になっていった。
ウワンウワンと大音量で泣き続けるセミの声の中、私のギターがジャカジャカ鳴るという、かなりアバンギャルドなテープが出来上がってしまった。

今でもその時のテープは手元にあるが、1982年、今から26年も前の、何世代か解らない前のセミの大合唱があの涼しかった夏を思い起こさせるのだ。
この時に作った多くの曲の中から1曲チョイスして多重録音しなおした物が、その後、YAMAHAが主催していたポピュラーコンテスト、通称「ポプコン」の東海大会にノミネートされ、大舞台に立つこととなるのだが、それはまだまだ先の話なのだ。

200808292てなワケで、自分の思い出なんかを語っていますが、「夏をあきらめて」は桑田佳祐の作詞作曲で、元々はサザンオールスターズが1982年7月に発売した「NUDE MAN」に収録されている曲。研ナオコのVer.はそこからのカバーで9月に発売されている。
もちろんサザンファンにとってはこの曲はサザンの物なんだろうけれど、研ナオコは独特のとぎれとぎれ唱法で歌い、雨に祟られた夏が終わっていく様子をじんわりと心に染み込ませていく。どっちかというと、桑田佳祐が歌うものより研ナオコの方が好きかもしれない。
70年代から80年代にかけて研ナオコは中島みゆきの曲を歌ってヒットを飛ばしていたけれど、この桑田佳祐の曲もよく似合う。

夏の終わりに聞くと、じんわりと夏の疲労が体の表面に出てくるような曲です。

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2007年7月14日 (土)

香坂みゆき「気分をかえて」

Kosaka001香坂みゆき「気分をかえて」
作詞.作曲:山崎ハコ/編曲.大村雅朗
1981年/¥700
polydor/7DX1103


香坂みゆき:1963年2月7日生まれ
今でも時々テレビで姿を見る事があるし、とりあえず清水圭の奥さんという肩書きもある。でもハッキリ言って香坂みゆきに関しては、その存在意義がデビュー当時から今にいたるまでよく解らない。


1977年「愛の芽ばえ」
197701ainomebaeとりあえず同世代の話題の中では「そー言えば、欽ちゃんのドンといってみようのアシスタントで欽ちゃんの横に座っていたよね」という印象は出てくる。でも「番組で何をした?」という疑問符で終わってしまう。
また「ニュアンスしましょっていう資生堂のキャンペーンソング歌っていたよね」という話題も出る時がある。でも「それ以外の曲って覚えている?」という疑問符で終わってしまう。
でもなぜか30年以上に渡って頻繁ではないにしろ香坂みゆきをテレビで見続けているのだ。(実際には3歳の時にモデルデビューしているらしい)


1977年「初恋宣言」
197702hatukoisenngenラジオで「視聴者がネタを書いてくる」というスタイルの番組を本格的に始めたのは、実は萩本欽一で、1972年4月にニッポン放送で「欽ちゃんのドンといってみよう」という番組がスタートしている。
60年代末からコント55号で大ヒットしていた萩本欽一がその活動に限界を感じていて、次の活路として見出したのがラジオだった。あの時代ラジオというのはテレビに人気を奪われていて、すでに「ラジオの時代は終わった」と囁かれていたのだ。


1977年「青春舗道」
197703seisyunihodそんなラジオに対し「テレビより身近に感じるメディア」という方向性を見つけ、お題を与えリスナーから葉書を募集するという方法論を編み出した。
それに中学生から大学生までが飛びつき、毎週のようにネタ葉書を書いてくるようになり、「ハガキ職人」という人種を生み出した。(ハガキ職人という言葉自体はビートたけしのオールナイトニッポン発祥とされる)


1978年「まわれ恋の風車」
197801mawarekoiTV版「欽ドン」で「よい子悪い子普通の子」をやった時に「あれって谷村新司がラジオでやっていた「天才秀才バカ」のマネだぜ」という声もあったが、実際にはラジオ版欽ドンの影響を受け始まった番組が谷村新司の番組だった。
笑福亭鶴光の番組でもヒット曲の一部をオチに流すコーナーがあったが、あれも欽ドンの「レコード大作戦」というコーナーの真似だった(ディレクターが同じだったとも言われる)


1979年「愛なき子」
197901ainakiラジオ版は1979年3月まで続いたが、そのラジオ版を発展させた形で1975年4月からテレビ版「欽ちゃんのドンとやってみよう」が始まっている。
この時、ラジオでも女性アシスタントがいたという事から、テレビ版アシスタントとして香坂みゆきが起用された。まだ13歳だったわけですが、ハッキリ言ってこの番組で香坂みゆきが何か喋ったとか印象が全然無い。
最初の頃は「かわいいなぁ」と思っていたワケですが、途中から子供ながらに彼女の存在意義はいったい何なのだ?と疑問視するようになった。
そして気が付いた時には画面から姿を消していた。というか気が付かないうちに姿を消していた。


1981年「気分をかえて」別ジャケVer.
198101kibunで、まいどの事ですが表題曲にやっと触れますが、この曲を聞くと「なにもここまであからさまなアレンジをしなくても...」という感じで、イントロ当てクイズにこの曲が出てきたら即座にボタンを押して「ブロンディのCall Me!」と叫んでもおかしくない状態になっております。
でも実際の事を言うと、オリジナルの山崎ハコVer.を聞くと全然違う曲なのでどーしてこーなっちゃったんだろうか? と思ってしまう


1982年「レイラ」
198202reilaつまり、これは編曲の大村雅朗のテクなんだろうなぁ って、あまりにもひねりがないアレンジなんですが、なにか会議上で「ロックっぽいアレンジでいこうよ」「じゃ女性のロックって事でブロンディなんかいいんじゃない」「じゃそれでヨロ」みたいなノリだったのかも知れない。


1983年「東京が好き」
198302tokyoあの時代は結構あからさまに「イントロを洋楽のヒット曲から引っ張って来ました」というのが多かった。今はどうか分からないけれど、アレンジに関しては著作権がなく盗作にならない」みたいな見解を聞いた事がある。
香坂みゆきのボーカルも、アレンジに合わせるために頑張ってロックっぽく歌っているんですが、どうにもこうにもミスマッチで痛々しい。


1984年「サヨナラの鐘」
198401sayonaraついでにジャケットが水着写真なんですが、なんというか「この構図でこの表情でこの逆光線の写真でOKなのか?」と心配してしまう写真が使用されている。とりあえず「協力:コンチネンタル航空」となっているので、海外で撮影しているワケですが。
ついでにこの「気分をかえて」には別ジャケットが存在しているんですが、そっちもどうなんですかね?状態。


1984年「ニュアンスしましょ」資生堂CM曲
198402nyuaしかし芸能界って、売れた人が生き残るってワケじゃないのが難しいなあと香坂みゆきがテレビに今でも出ているのを見て考え込んだりするワケです。

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2007年5月11日 (金)

甲斐バンド「ビューティフル・エネルギー」

Kaibandbeautifule甲斐バンド/ビューティフル・エネルギー
作詞:甲斐よしひろ/作曲:松藤英男
1980年3月/¥600
東芝EMI/ETP-10700


甲斐バンドのシングルの中ではちょい珍しく、ジャケット写真のメインが甲斐よしひろではなく、ドラムの松藤英男となっている。
というのも、このシングルのボーカルは松藤英男。だから、甲斐バンド的には珍しい曲なのだ(解散直前はメンバーがそれぞれ1枚ずつ曲を担当した、実質上のソロアルバムみたいなものはあったんですが)
甲斐よしひろのざらついたウエット感はなく、爽やかな感じがある曲です。

この曲がチャートに入ってきたのは、ちょうど今みたいな5月頃で、まさに爽やかな風の中で聞いていたという印象が残っています。
「関町物語」という1980年を舞台にしている漫画を今書いている最中ですが、その年の5月頃、土曜日に毎週ヒットチャートの曲を紹介するラジオ番組でこの曲を聞いていました。

が、聞いていくとそのメロディの軽やかさと、松藤氏のボーカルにダマされてしまいますが、かなりエロい曲でやんす。
作詞は甲斐よしひろなんですが、まず1番の歌詞は「シルクの髪を指でさぐり」始める所から始まる。
そして曲が進むにつれて「うなじ」「ほほ」と進み「ルージュに近づいていく」とゆっくりと核心に触れていく。

000momojiriで、2番の歌詞になると「急がないで」と言いつつ「胸」に到達するワケですが、その後の歌詞が突然肉体を直接表現する言葉ではなく「やわらかい夏のような草原」を確かめ、ついに「やさしい雨が僕らを濡らす」と、完璧に「アレの事を言いたいんだろ?どうだ甲斐?」という状態に進んでいくのだ。
この曲から5年以上後、1980年代中期にチェッカーズが歌っていた「NaNa」という曲では「感じて濡れてくれ」とか「脱ぎ捨ててやろうぜ」という歌詞がエロいって事でNHKで放送禁止になったという事件がありましたが、そういう意味でこの曲は実に巧妙に言葉を隠しているのだ。
さすが年季の入ったエロい人なのだ。甲斐よしひろ。さすが桃尻娘なのだ。

0000agunesrそう観点から「ビューティフル・エネルギー」を聞き直すと、「オーロラを昇っていくよ」という歌詞もあっち方面なんだろうなって感じなのだ。
で、サビ部分は「しなやかな獣たち」「金色の汗を流そうぜ」、2番以降の繰り返しでは「声をあげよう」「爪を立てよう」となっているが、その歌詞の前の「獣」という単語で微妙にエロ風味が隠されているのだ。

この歌詞は、スタッフの結婚式がハワイで行われた時に考えついた物で、ここに出てくる女性はその時に偶然逢うことが出来たアグネス・ラムをイメージしているとの事。

000morisitaap.s.
甲斐よしひろの奥さんは元女優の竹田かほりなんですが、この結婚には吉田拓郎森下愛子が関係している。
実は吉田拓郎が森下愛子を狙っていて「今、近場で飲んでいるんだけど飲みに来ない?」と拓郎が森下愛子に電話をした時に、「一対一では困ります」と断りを入れた。
実は、その前に拓郎はラジオにゲストとして森下愛子を指名して共演して、そこで電話番号をムリヤリ聞き出していた。森下は「かつて浅田美代子がその方法でお持ち帰りされた」という事を聞いていたので危険と感じていたという。
が、拓郎は「一人じゃないよ、今、甲斐よしひろも一緒だから安心だって」と言い出したという。
そして森下愛子は親友の竹田かおりを誘って飲みにいったのだが、結果として拓郎は森下愛子と、甲斐よしひろは竹田かほりと結婚に至ってしまったのだ。

000isinoついでに言うと、吉田拓郎の「ラジオにゲストに指名して知り合いになる」というパターンを、拓郎信者だった長渕剛石野真子で実行に移している。

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2006年11月 5日 (日)

キララとウララ「センチ・メタル・ボーイ」

000kiraura01キララとウララ/センチ・メタル・ボーイ
作詞.売野雅勇/作曲.編曲.井上大輔
1984年08月01日/¥700
ビクター/SV-7408


というわけで、70年代のピンクレディフォロワーついでに、1984年にデビューした「80年代のピンクレディ」などと言われていた歌って踊れるデュオ「キララとウララ」です。(またマイナーでごめんなさい)
ピンクレディ時代には出来なかった、インカム(マイク付きヘッドフォン)をつけてより自由に歌い踊る二人組です。

1985年03月05日:2nd Single「多感期のフラミンゴ」
000kiraura02といっても、ほとんど売れなかったので現在、話のネタとして出てくる場合は「キララとウララという二人組のキララ(大谷香奈子:1stシングルのジャケ写右)って小室哲哉の元妻なんだぜ」という程度だと思いますが。
実は「80年代のピンクレディ」って部分には色々深い意味があって、この1984年にピンクレディが再結成しているんですが、元々ビクター専属だったピンクレディが解散後に事務所的なトラブルがあって(確かミーが事務所に役員として残り借金を背負うハメになったとか、そのためにヌード写真集を出したとか、なんか大人の事情)その再結成の際にはビクターではなくVAPからの再デビューとなっている。(言ってもシングル「不思議LOVE」1枚だけ)

1985年09月21日:3rd Single「ラブ・アドベンチャー」
000kiraura03そのタイミングでビクターから「キララとウララ」がピンクレディのようなダンス&歌でデビューってのは「色々あったのかも知れない」と勝手に勘ぐってしまうのだ。
明らかにビジュアル先行で、ダンスを見せるグループのハズなんですが、自分は歌番組で見たのは1回だけ(他に歌う天気予報でPV、2曲目はCM曲で本人達出演)という状態なので、事務所はチカラ入れてなかったのか?とか思ってしまうワケですが。

1985年12月05日:4th Single「パックンたまご!〜空からたまごが降ってきた」
000kiraura04で、そのデビュー曲「センチメタルボーイ」ですが、実は8月に冥王星が惑星からハズされたという話題の時(さよなら冥王星:2006.8.24記)に取り上げようと思ったんですが、色々冥王星に関する文章を書いているうちに長くなってしまいパスしてしまいました。
実はこの曲の冒頭に「♪水金地火木土天海冥」というフレーズが何度も繰り返されるのだ。つまり今となっちゃ「最期の冥って何?」状態であるのですが、さらにこの曲が歌われていた1984年当時は冥王星は海王星の内側を廻っていたので(1979年1月22日から1999年3月15日まで)、その当時でさえ歌詞が間違っていたワケで....。(それとも未来志向のグループだったので1999年以降にも歌えるような配慮。って事はないか)
曲の方は井上大輔が頑張って井上大輔っぽくないテクノ系アレンジをしています。

1986年04月21日:5th Single「ブインブインブイン」
000kiraura052曲目は飲料「Kilala」の本人出演のCM曲でベストテンのスポンサーとして流れていたが、スポットライトにも出演せず、オリコンの100位以内にも入らず。

4曲目はテレ朝の子供番組「パックンたまご!」のテーマソングなんですが本人達の出演なし。この番組はシティーボーイズ(大竹まこときたろう・斉木しげる)&中村ゆうじが出演し、深夜番組「グッドモーニング」の流れをそのまま朝に持ってきたような物(さすがにオナッターズの出演はなし)で、宇宙人のゆう君(中村ゆうじ)とテレ朝アナウンサー川瀬真由美が宇宙船で旅をしてお馬鹿な事件に遭遇する前半と子供をスタジオに呼んで体操などをする後半の二部構成(間にコントがあったような気もする)。しかし子供を率いてお遊戯をするお兄さんが大竹まことってのは今思うと凄い番組で、確か言うことを聞かない子供を激しく怒鳴りつけていたりしました。

解散後:天野歩美「愛しちゃったのよ」1992年
000kiraura065曲目「ブインブインブイン」がラストシングルでこれはアニメビデオ「るーみっくわーるど ザ・超女」のテーマ曲。2年間の間に色々な事があったんでしょうか、最初の可愛いアイドル風の二人組が同じ人とは思えないほどケバいお姉ちゃんになっております。(4曲目は子供番組の曲の為なのかデビュー当時の写真を使っています)
時代的にもバブル上昇中で眉毛が太く、化粧が濃くなり、誰も彼も肩パットが入った服を着ていた悪趣味な時代だったのでしょうがないとは思いますが。

解散はキララが小室哲哉と結婚したからなのか、仕事がなく自然消滅かは不明ですが、キララは小室哲哉と離婚後、ライターなどをして、その後犬の雑貨店「デザインエフ」経営。(HPhttp://www.designf.co.jp/
残ったウララは1990年に天野歩美として再デビューし1992年頃までにシングル3枚アルバム2枚ほど出していますが、結局その後の消息は不明。

ちなみに「90年代のピンクレディ」として事務所公認で1996年に「ピンクレディX」という二人組がデビューしたということもあります。

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