2009年5月 3日 (日)

RCサクセション『ステップ!』:忌野清志郎追悼

RCサクセション『ステップ!』
作詞.忌野清志郎/作曲.椎名和夫/編曲.椎名和夫
1979年07月21日/¥600
KITTY・POLYDOR/DKQ-1063


200905031恐れていた日がついに来てしまいました。
2006年に喉頭癌になったと発表し、それ以降は入退院を繰り返していた忌野清志郎が2009年5月2日、午前0時51分に癌性リンパ管症により58年の生涯を閉じた。
去年11月頃に、間寛平が地球一周マラソンに出かける直前、応援曲を書いたという事でテレビでその映像が流れていたけれど、その時になんかむくんだようで年齢より老けたような感じがしていた。おそらくそれが生前最後の映像で、最後の曲になるんじゃないかと思う。

以前、喉頭癌で入院した時にも書いたけれど、中学生の頃、土曜日の笑福亭鶴光師匠のオールナイトニッポンの3時過ぎ、フトンの中でぼーっとした頭で聞いている時に流れてきた悲しげなピアノのイントロの曲「スローバラード」で衝撃を受けた。
と言っても、曲紹介の処はハッキリ聞いていなかったのでアーティスト名も曲名も解らないまま、市営グランドの駐車場で夜明けを迎える二人の切ない恋心を切なげに歌った声だけが心の中に残っていった。田舎の中学生には許容範囲外だった世界だったけれど、なんか切ない切ない気持ちになった。
ただ、その時はそのままで曲名を調べる術もなく、ただ胸に刻まれただけだった。
それから3年後、その時の絞り出すような声に再会する事となった。

2009050361979年の夏だったと思うけれど、月曜夜8時台、NTV「紅白歌のベストテン」に突然、まだ日本ではまったく認知されていなかったビリビリに破れたシャツやズボンで、髪の毛をツンツン立てた派手なメイクをしたバンドが登場したのだ。しかも他の歌手が司会者の堺正章とのトークをした後で歌い始めるのが常だった番組で、何の前触れもなく紹介されて演奏が始まった。
バンド名は「RCサクセション」曲名は「ステップ」
ブラスが中心のアレンジでパンキッシュな感じは薄かったが「♪これが流行りのステップ!」と歌う忌野清志郎はそれまで日本のテレビには存在しなかった異形の生物だった。ステージを右に左に歩きながら歌い、挑発的なポーズを取り絞り出すように「♪真夜中のDance, Dance, Dance, Dance♪」と歌うボーカルスタイルは新しい何かを予感させるモノだった。
ちなみにシングル「ステップ!」の演奏はスタジオミュージシャンによる物。作曲は元はちみつぱいのギター椎名和夫となっているが、後にライブ盤では作曲忌野清志郎となっている(誤記なのかは不明)

200905035RCサクセションは1970年に「宝くじは買わない」でデビューし、1972年の「ぼくの好きな先生」がヒットしている。
実はこの曲は中学時代に知っていたのだけど、その後に聞いた「スローバラード」とは全然結びついていなかったので、同じバンドの曲とは思っていなかった。
どちらかというと「さなえちゃん」を歌っていた「古井戸」とかあの辺のグループの曲だと思っていた(ってそれも微妙な話なんだけど)。
バンド化したRCサクセションはLiveアルバム『RHAPSODY』そしてその前に発売していたシングル「雨あがりの夜空に」がジワジワと売れ初め、10月にリリースしたシングル「トランジスタ・ラジオ」のヒット、12月にアルバム『PLEASE』と、名実共にライブバンドとして一気に上り詰めていくのだ。

200905034
1979年〜1980年頃はとにかく大学祭とかに出演したが、それまでの数年、所属していたホリプロとの色々があって仕事を干されていた過去を吹っ切るためにどんな環境でもライブをしていた。
この時にバックアップをしたのが旧友・泉谷しげるでステージ衣装などにもアイディアを出したらしい。
泉谷は仕事を干されて忌野清志郎がグダグダしている時にハッパを掛ける意味でキツイ言葉も言ったらしく、それに奮起した忌野清志郎が書いたのが「あきれて物もいえない」という曲。
当初は泉谷の言葉に本気で怒った忌野清志郎は「♪ビッコの山師が俺が死んだって言ったってさ♪」という歌っていたが、後に誤解が解け「♪どっかの山師が♪」と歌詞を直し『PLEASE』に収録した。

その1〜2年でRCは時代の寵児となる。
1983年の正月、NHKが若者向け番組「YOU」の中でRCのライブを放送したのだが、「気持ちE」を歌っている時、突然客の歓声が盛り上がり歌詞が聞き取れないほどになった事がある。実はその聞き取れなくなった歌詞は「女と寝ている時にも」という物で、やっぱりNHK的にはそこは放送出来ない、でもピーッ音でかき消しては興醒めという事でそんな措置に出たのだと思うけど、そんな事をしてもRCのライブを放送したいって感じに人気が高まっていたのだ。

200905032忌野清志郎を生放送に出演させるのは危険で、1981年に「夜のヒットスタジオ」に出演した時も事件を起こした。歌ったのは「トランジスタラジオ」。バックではセーラー服を着たダンサーが踊っていたのだが、いきなり両サイドで踊っているダンサーの頭を両脇にハサミ暴れる忌野清志郎。その後、カメラに向かってガムを吐き出すという暴挙に出た。その事で抗議電話500本超えで回線パンク。

1989年、同じくフジテレビが放送した「夜ヒットR&N」に覆面バンド『TIMERS』として出演した時には予定に無かった「FM東京」という曲を歌い始めた。その少し前にRCとしてリリースしようとした「カバーズ」が原発がらみで放送禁止にした事から「タイマーズのテーマ」に続いて(この曲も♪TIMERが大好きTIMERを持っている♪という危険な物、よく放送出来たなぁ)いきなり「♪FM東京腐ったラジオ、FM東京最低のラジオ、なんでもかんでも放送禁止さ♪」という歌詞を歌い始めた。

これに関して、実はフジテレビのスタッフもグルで最初からこれを歌う予定だったという噂もある。かなりシッカリと「FM東京」を歌いきって、さらに続けて「デイドリームビリーバー」「イモ」まで全10分歌っている。普通だったら放送事故扱いでCM突入とか処置があったハズなのに、しっかりカメラ割りまで行われている。
そして本来なら永年出入り禁止になりそうなのに、この番組の数日後に忌野清志郎はフジテレビの番組に出演している。とりあえず出入り禁止になったのは覆面バンド「TIMERS」のボーカル・ジェリー氏で、忌野清志郎とは別の人物という扱いだったらしい。

200905033生放送パターンでは、やはりTIMERSが1992年のBS-NHK年末カウントダウンイベントLIVEで、何故かいきなり「明星即席ラーメン」のCM曲を歌い始めた「パパと一緒に食べたいな♪」と。それを歌い終わった処で後でギターを弾いていたMOJO CLUB・三宅伸治(TIMERSでの芸名は忘れた)が「それNHKじゃマズイっすよ」と言いだし、ジェリーが「え、そうなの?どこがマズイんだろう」と首をかしげながらもう一度「♪明星即席ラ〜メン」と歌いだした処でバチッと放送が中断し、別会場で行われていたライブ映像に切り替わった。この時は政治的ではなかったのでお笑いネタとして終わっている。

で、かつてコテンパンに批判されたFM東京(TOKYO FMに改称していたけど)が2003年に放送したアースディコンサートに、和解したのか、それともやはりあれはTIMERSのジェリーという扱いだったのか不明ですが、ソロ歌手として忌野清志郎が出演していた。
生中継の番組だったのですが、そこでもいきなり予定にない曲を歌い始めた。
TIMERSの時に歌っていた「憧れの北朝鮮」という曲で、TIMERS時代の歌詞はちょっと笑える物だったのですが、その時の歌詞はとにかく凄い物だった。
「♪キム・ジョンイル、キム・イルソン♪キムと呼べばみんな仲良くなれるよ♪海辺にいたらタダで拉致して連れていってくれるよ♪」
流石に放送は途中でとぎれて番組パーソナリティが慌ててその場を取り繕って時間を繋いだらしいが、会場では忌野清志郎はこの曲を歌い終わった時に「え〜イラク戦争で最近は影が薄くなってしまった憧れの北朝鮮を歌ってみました」と語り、続けてロックアレンジの「君が代」を歌って締めたらしい。

200905037とまあ、過激な言動や行動を列挙すればキリがないけど、実際のところ忌野清志郎という人物が書く詩の世界はとてつもなく繊細で美しい。
昨日、死去したというニュースを知ってから手持ちの音源を延々と聞き続けているんですが、過激な部分よりも泣けてしまいそうなそれでも無理して大地を踏みしめている切なさが染みる。
1990年前後のバンドブームの時、イカ天とか見ていても忌野清志郎のエピゴーネンが大量生産されているのを感じた(あるいは甲本ヒロト)。が、そのスタイルやシャウトをいくらマネしても宴会芸にしかなっていないように見えてしまったのは、その裏にある切なさが無かったからかも知れない。
1983年に出版された忌野清志郎詩集『エリーゼのために』、1987年『十年ゴム消し』を改めて読み返すと、その言葉のチョイスが美しすぎて、しかも余韻を残すような終わり方の物が多い。実に文学的なのだ。
なんか、読んでいて泣きそうになってしまった。

200905038忌野清志郎に関しては余りにも書きたいことが多くて混乱しているけれど、本当に感謝しています。サンキューフォーユーなのだ。
いつか、ちゃんとした文章を書きたいと思っています。

※2006年7月14日「忌野清志郎が喉頭癌

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2009年5月 1日 (金)

岡林信康『チューリップのアップリケ』

岡林信康『チューリップのアップリケ』
作詞.岡林信康・大谷あや子/作曲.岡林信康/編曲.岡林信康
1970年/¥500
ビクター/SF-13


2009050101気持ちいい天気が続き、野山には花が咲き乱れ「あぁ春だぁ、生きてきてよかった」と思うワケです。そう言うことで春らしくチューリップをテーマにした曲を。
という事で聞き始めると「みんな貧乏が悪いんや、そやでお母ちゃん家を出て行かはった♪」と気分がどんよりとしてしまうワケです。この世界的不況の波をどう乗り越えようかと頭を抱えてしまうのだ。
フォークの神様と呼ばれた岡林信康の名曲ではあるのですが、あまりにも痛い曲です。
デビュー曲が日雇い労働者の苦痛を歌った「山谷ブルース」だった事や、高度経済成長の中、田舎から集団就職で出てきて歯車のように働かされる労働者などの問題などなど、社会の暗部を鋭く描いた曲を歌い、岡林はワーキングクラスヒーローとして祭り上げられていく。

その世間が求める「岡林信康」というイメージに最初は乗り、より過激なプロテストソングを歌うようになったが、次第にその要求に限界を感じ岡林信康は姿を隠してしまうのだ。
その後、1970年にはっぴいえんど(細野晴臣・大滝詠一・鈴木茂・松本隆)をバックに従えてロック路線を歩み出すこととなる。
って感じなんだけど、なんかボブ・ディランっすよね。フォークの神様→ロックへ転向の経緯とか。
で、ディランのバックバンド「THE BAND」に相当するのが「はっぴいえんど」なんだけど、メンバーは最初の内はあくまでも仕事の一貫として与えられたノルマを果たしたって感じだったみたいです。

2009050102でも1970年に神田共立講堂で開催されたライブでの「私たちの望むものは」なんかを聞くと、先日逮捕されちゃった鈴木茂なんて「この時もキメてんじゃないの?」って疑ってしまうほどギター炸裂しとります。
岡林の2ndアルバム『見る前に跳べ』のバックもはっぴいえんどなのですが、岡林は基本的に作家&歌手で演奏面に関してはさほど思い入れがない事から、はっぴいえんど主導でレコーディングが行われ、後にそのレコーディングの思い出として岡林は「何か言ったら殴られるかと思った」とビビっていたそうです。

この『チューリップのアップリケ』は現在はどういう扱いなのは不明ですが、一時期は放送できない曲として指定されていたそうです。
歌詞を読むと、小学生の女の子の視線から貧乏な家庭が描かれており、実直な靴職人の父と家を出て行ってしまった母。仲違いをしていたおじいちゃんはもう死んだので戻ってきて、チューリップのアップリケのついたスカートを買って来て欲しいと願う曲。
別段、放送できない理由はどこにも見あたらないけれど、一時期は何にでもフタをしようとする風潮があったので、その一貫なのでしょう。

でも現在は、Youtubeなどにもアップされているので(法的には凄く問題あるけれど)それらも聞こうと思えば聞くことが出来る。ある意味便利でいい時代なのだ。その内容に関する判断は各自に出来るという事。
B面の「私たちの望むものは」も名曲。
自分はプロテストソングのブームがすっかり終わった1975年前後、中学生で、この曲を粋がってギターをジャカジャカ弾きながら歌っていたアナクロ少年だったのだ。同級生のフォーク野郎がN.S.Pとかをカバーして、同級生女子をうっとりさせている中を。
そりゃ女子に人気出ないってのも解るよ。早く気づけ中学生時代の俺。

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2008年12月 1日 (月)

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」
作詞.作曲.小泉まさみ/編曲.竜崎孝路
1975年12月/¥500
ワーナーパイオニア/L-1280W


20081201現在のアイドルが良くも悪くも「隣のお姉ちゃん」的な親しみやすさを武器、というか作られた部分が皆無の状態で親しまれているのに対して、70年代の「アイドル」は現実社会に存在しない架空の生物的な意味合いがあったのかも知れない。
とりあえず「隣の真理ちゃん」や「隣の美代ちゃん」はいたが、いわゆる「アイドルとはトイレにも行かない存在」と冗談めかして言われていた時代もある。

それ故に「香港からやってきた」アグネス・チャン、「沖縄からやってきた」南沙織、というのはある種ストレンジャー的な存在として有効なセールスポイントだったのかも知れない。
特にアグネスはその特徴のあるしゃべり方があったが、ウワサでは普段の打合せではごく普通に流ちょうな日本語をしゃべっていたとも言われているけど。
このストレンジャーな存在が国際化の進んだ70年代後半は段々通用しなくなり、ベトナム出身の「ルーフィンチャウ」や、フィリピン出身の兄弟グループ「クリッパー」などもデビュー時に少し話題になる程度で、それが80年代にパロディ的に究極のストレンジャーとして「宇宙からやって来た3人組アイドル・スターボー」みたいな所までエスカレートしてしまうのだ。

で、アグネスですが彼女は来日した時は本当に日本語を全然理解できておらず、歌詞を全部ローマ字にしてもらい、言葉の意味が理解できないまま、純粋に「音」として歌っていた。
それ故に単語として歌詞を流して歌うことも無かったので、あの特徴的な「オカノウエヒナゲシノハナデ♪」という発音というか、ニュアンスの歌い方になっている。
つまり、日本古来の演歌的な情緒を込めたり感情を込めたりする事もなく、余計な物を挟み込む余地のない純粋音楽が誕生したのだ。
とりあえず歌われている内容については教えられてはいたと思うが。

彼女はその後、上智大学国際学部からカナダのトロント大学へ留学するほどだったので、おそらく早い段階で日本語はマスターしたと思うが、その特殊な発声法の歌は捨てることなく、歌い続けている。
この「冬の日の帰り道」はデビューから4年目、12曲目なので「ニホンゴ、ヨクワカリマセン」の時期ではないが、ファンの期待通りに「ユウヤケ〜カエリミチ♪」とカタコト日本語的発音で歌っている。
実に芸能人としてイメージを大切にしている感じなのだ。

作詞作曲の小泉まさみはポプコン出身(の前から活動していたけど)で「小泉まさみ&こんがりトースト」として人気があった人。
で、この曲のB面には小泉まさみ作曲の「ハロー・グッドバイ」が収録されている。
そう、あの柏原芳恵が歌ってヒットした名曲です。
このアグネスVer.がオリジナルで、その後「ギンザNOW!」に出ていた讃岐裕子がカバーして、それをさらに80年代に柏原芳恵がカバーしたのだ。
ちなみに小泉まさみはアグネスでカタカナで歌う曲という前提の作曲を学んだからなのか、その後、オースマン・サンコンの演歌『アフリカの女』の作曲もしている。

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2008年9月26日 (金)

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」
作詞.SEPIA/作曲.編曲.芳野蘭丸
1988年/¥700
MOON/MOON-758


2008092601ここの所、秋の曲ではなく別のテーマで書いてきました。
松田聖子の「風立ちぬ」から始まっているのですが、小説のタイトルを引用した曲というシリーズ。
まず「風立ちぬ」は堀辰雄の小説。近年、韓国ドラマの影響なのか多くなった「難病物」を代表する作品で久我美子、山口百恵で映画化もされている。
それ以降は「最後の一葉」「赤と黒」「悲しみよこんにちは」と続いている。
この手のタイトルを引用してくるというスタイルは歌謡曲のタイトルには多く見受けられるのですが、これは元のタイトルにインパクトがあったという事と、耳慣れているという部分があると思うワケですよ。
でも、その内容は「そのタイトルになるべくしてなった」という状態であって欲しい。
でも時々、それは無いだろと感じてしまう物もある。

2008092603かの大ヒットした『世界の中心で愛を叫ぶ』なんかも、ドラマ化される前のヒットし始めた頃のアマゾン書評でも「タイトルの斬新さに思わず手に取りました」とか「こんな素敵なタイトルを思いつくなんて凄い」とか書かれていた。
実際にはハーラン・エリスンのSF『世界の中心で愛をさけんだけもの』がまずあって、それをアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が最終話タイトルで『世界の中心でアイを叫んだけもの』として引用した物。アニメや漫画などの章タイトルはこの手のパロディやオマージュが多いのですが、それを堂々と小説のタイトルにしてしまったのだ(作者ではなく担当編集者のアイディアとの事)。さすがにこれはイカンよなとは思った。

他にもタイトルを巡って揉めた物では、野島伸司が脚本を書いたドラマ「人間失格」は太宰治の遺族からクレームがついて初回放送ギリギリに「人間・失格」に変え、第2話からはサブタイトル「たとえばぼくが死んだら」も付けられた。(このタイトルに関する報道が初回放送直前に新聞に書かれたため、逆に宣伝になったので「やらせ?」と疑問視されているけど)

2008092602あと池田聡が1994年にリリースしたシングル『恋人と別れる50の方法』は、まったく同じタイトルの曲がポール・サイモンにあるために一悶着あった。小説から曲名とかはギリギリありだと思うけど、曲名から曲名はダメだろうなぁ。それが単純な単語「卒業」とか、単語と単語の組み合わせレベルだったらありだと思うけど。(太田裕美には「恋人たちの100の偽り」という曲もありますが)

そういう意味でこの一世風靡セピアの「汚れちまった悲しみに…」はどうなんですかね?
アニメ『魁!男塾』のオープニング曲として使われていたそうなんですが、中原中也が中学時代の愛読書だった自分としては「許せん!」という感じではあります。
なんせ歌詞を読んでみてもタイトルが「汚れちまった悲しみに…」である必然性が感じられない。
「汚れちまった悲しみに」というフレーズの後にもう一行、というのが何度も続くのですが「汚れちまった悲しみに、俺の青春もナンボのもんじゃい」「〜、時代がこうで悪かったのう」「〜、いつか本気で笑おうや」と、別に汚れてしまった悲しみをどうこうする詩に続かないのだ。
単純に「汚れちまった悲しみに」というフレーズが意味ではなく言葉の流れとして乗っているだけにしか思えない。もしかしたら意味が聞き取れない英語のフレーズでも差し替え可能かもしれないのだ。

このシングルのライナーノーツに一世風靡セピアの「何故俺達はパフォーマンスという言葉を使うのか?」という文章が掲載されていて、その中でこんな事を書いている。
俺達は或る時人から
かっぱらってきても俺達の武器として
時代に切り込んで生きたいのだ……。

この一世風靡セピアという集団は、やたらと男気とか集団とか結束力を前面に出していて苦手な部類ですが(非体育会系のヘナチョコ野郎です)、「俺達は闘うために手段を選ばないぜ、前人が築いてきた物も全部俺達の中で消化して武器にしていくぜ」と言いたいワケですか。
でも、中原中也をこんな無惨な形で利用するのは辞めて……、と思ってしまうのだ。
ちなみにB面は「幾時代ありまして」という曲で「幾時代ありまして/殴りあいや激論の末に」とか言う内容。これも中也の『サーカス』という詩にある「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」が元ネタ。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん、という田村信も真っ青なリズム感のあるオノマトペで有名な詩。

あくまでも、この辺の意識は個人で差があるし「麻丘めぐみとか斉藤由貴はOKで、一世風靡セピアがダメって、どう違うの?」と問われると「いや…、なんとなく」としか答えられない。難しいなぁ。

追記(さらに修正:指摘ありがとうございます)
この曲のタイトルは正しくは『汚れつちまった悲しみに』なんですね? 歌を聴くと「汚れちまった悲しみに」と歌っているんですが。
そしてオリジナルの中也の詩は『汚れつちまつた悲しみに』です。

中原中也「汚れつちまつた悲しみに」

汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに/今日も風さえ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは/たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは/小雪のかかってちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは/なにのぞむなくねがうなく
汚れつちまつた悲しみは/懈怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに/いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに/なすところもなく日は暮れる……


中原中也「サーカス」

幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして/今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて/汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が/安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯/咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

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2008年9月25日 (木)

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」
作詞.千家和也/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1972年10月/¥500
ビクター/GAM-5


2008092501『悲しみよこんにちは』と言うタイトルはよく出来たタイトルで、この短い字数の中に色々なドラマを喚起させます。淡々と悲しみを受け入れる様子が、泣き叫ぶような悲しみよりその痛みの深さを感じさせるのかも知れません。
それ故に、何度もこのタイトルは歌謡曲に流用されている。
1972年に麻丘めぐみが、1986年に斉藤由貴が、1989年には高岡早紀が同名タイトルの曲を歌っている。
ついでに1982年に川田あつ子が「秘密のオルゴール」というシングルのB面で「哀しみよ今日は」というタイトルの曲を歌っている。川田あつ子と斉藤由貴の両方の詩を書いているのは松本隆。
って事ですが、元々「悲しみよこんにちは」と言ったらフランソワーズ・サガンの小説のタイトルなのだ。
自分はサガンの小説は読んでいないけれど、映画「悲しみよこんにちは」を見ている。
で、その映画の中でシャンソン歌手ジュリエット・グレコが主題歌「悲しみよこんにちは:Bonjour Tristesse」を歌っている。つまり「悲しみよこんにちは」というタイトル曲の元祖はこれなのだ。

斉藤由貴Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092502映画「悲しみよこんにちは(1958)」の主人公セシルを演じたジーン・セバーグはショートカットのカワイ子チャンで当時20歳。1979年に40歳でちょっと謎のある亡くなり方をしている。
自分が初めてこの映画を見た時すでにこの世に居なかったのですが、セシルの自由奔放で可憐で強くて弱い姿にドキドキしました。
そのセバーグが演じたセシルから、ベリーショートの髪型を「セシルカット」と呼ぶようになりました。
その後日本では九重祐美子がセシルカットで「コメットさん」を演じ人気者になっていました。(時代的には9年ほど経過していますが、コメットさんはセシルカットですよね?)でもって、そのコメットさんの髪型を真似していたのかは不明ですが自分の通っていた幼稚園の保母さんがまさにそんな髪型で、自分の中で「コメットさん=保母さん」が繋がっていて、その後のショートカット好きに自分の中で昇華していくのだ(って、そんな自分語りは聞きたくないって?)

高岡早紀Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092504_2で、麻丘めぐみの「悲しみよこんにちは」ですが、デビュー曲「芽ばえ」がヒットしたのを受け、この2ndシングルは路線として同じ曲調を踏襲している。
イントロは「芽ばえ」と同じく軽やかなストリングスで始まっているが、この編曲をした高田弘はストリングスを使ったアレンジを上手く使う人で、桜田淳子の「天使も夢みる」「わたしの青い鳥」ちあきなおみ「喝采」などが代表曲。
麻丘めぐみはデビュー曲の「芽ばえ」が大ヒットして、この曲が発売された年末もまだそのヒットの余韻が続き、そのままレコード大賞最優秀新人賞を「芽ばえ」で受賞している。そのためなのか、この「悲しみよこんにちは」は余計に印象が薄くなっている。
そして、年明け早々の1973年1月に「女の子なんだもん」という、前2曲とはタイプの違う曲をリリースしている。しいて言えば「南沙織タイプの曲で、しかも声量が無くても歌える曲」という感じなのだ。
麻丘めぐみと南沙織、共に作曲を担当しているのは筒美京平ですが、その辺の計算はあったと思うのは、「女の子なんだもん」の編曲は高田弘に代わり筒美京平が担当している。
しかも「女の子なんだもん♪」という女子力を前面に出した振り付きの曲で、「芽ばえ」「悲しみよこんにちは」で歌われていた受け身の女の子をさらにパワーアップした「積極的に受け身を相手に押しつける女の子」としてイメージを増幅させている。それが「わたしの彼は左きき」などのヒットへと続いていくことになる。

川田あつ子:B面が「哀しみよ今日は」
2008092503そう言う意味でこの「悲しみよこんにちは」は地味で、あまり記憶に残っていない曲かもしれない。
そして疑問なのが、歌詞を読んでいても「悲しみよこんにちは」というタイトルにあまり繋がらない内容だという事。逆に歌詞の最初が「ちいさな幸せつかんだら、悲しい想い出捨てましょう」と幸せに対して前向きなのだ。
いわゆるタイトル先行の企画として考えられたのかなぁ。
ちなみに、この時代の女性アイドルはストレートロングが多い。前述の南沙織、アグネス・チャン、小林麻美、奈良富士子、そして麻丘めぐみ。それと逆らうように、同時期始まったスター誕生出身歌手はショートが多いのも特徴的。森昌子、桜田淳子、山口百恵など。
特に麻丘めぐみはストレートロングにアクセントとして、サイド部分を頬辺りでカットして少し前に流している。これを当時「お姫様カット」と呼んでいたのですが、小学校の時、同級生で髪型を真似た子がいたが男子の間では評判が悪かった。お姫様カットが評判悪かったのではなく「麻丘めぐみとは全然違う」という事で。

自分は南沙織派で「芯があってちょっと気が強そう」というタイプに惹かれていたワケですが(だから自分の趣味の話はいいって)、「か弱そうで守ってあげたい」というタイプに惹かれる男子には麻丘めぐみはかなり人気があったワケです。

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2008年9月24日 (水)

岩崎良美「赤と黒」

岩崎良美「赤と黒」
作詞.なかにし礼/作曲.芳野藤丸/編曲.大谷和夫
1980年2月/¥600
キャニオン/C-168


2008092401岩崎良美のデビュー曲。
当然デビュー時から「岩崎宏美の妹」という扱いで「歌が上手いのは当たり前でしょ」みたいな感じだった。
岩崎良美のデビューから2ヶ月後の4月に松田聖子がデビューし、6月に河合奈保子、9月に三原順子がデビューしている。いわゆるアイドル的に扱われるのを嫌って、アイドル仕事を積極的にこなさなかったと言われている。
1980年という軽佻浮薄を絵に描いたような時代の始まりにはちょっと重かったせいなのか、そういう意味で他の同期デビュー組と距離が出来てしまったような気がする。

岩崎良美の曲というと世間的には1985年から始まるアニメ「タッチ」関連が有名ですが、それ以前の作品もレベルが高い名曲揃いなのだ。当時も別段ファンというワケでもなかったけれど「なぜ売れないんだ?」と思っていた。
もしかしたら、この時代を象徴する物「カラオケ」が多大に影響しているんじゃないか?とも思ったりする。それまで音楽というのは、突出した才能を持った歌手が歌うという大前提があったハズなのに、この頃からいわゆる「Next Door's Girl」となりのお姉ちゃん的な子がポンと出てきて、日常の延長として歌うという状態が多くなったような気がする。
それ故に「カラオケで歌いにくい曲は流行らない」という流れがこの当時出来てきたのかもしれない。とくに若い世代が聞く曲では。
そういう意味では岩崎良美の歌っていた曲はとにかく難しい。デビュー曲からこんな出来上がった曲かよ、てな感じでやんす。

しかし「赤と黒」という詩の内容も世間に大きくアピールしなかったのではないかと思っている。
なんせサビが「赤と黒みたいな、恋をしています、赤と黒みたいな、しのび逢いです♪」って意味解らないっす。ハッキリ言って岩崎良美辺りを聞く人の何%がスタンダールの『赤と黒』を読んでいるってんだ?
もの凄くテーマの取り方が考えすぎって気もする。
作詞のなかにし礼の趣味だと思うんだけど、2曲目「涼風」を挟んで3曲目は「あなた色のマノン」で、歌詞の中で「私はマノン、マノン・レスコー♪」とか出てくるんですが、プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』を理解している人が岩崎良美を聞いてる人の何%いると思っているんだ!
自分も恥ずかしながら『赤と黒』も『マノン・レスコー』も、基礎知識としてのあらすじぐらいしか把握してないっす。読んだこと無いッス。オペラ見たこと無いッス。

だから偉そうな事、言えないッス。

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2008年9月23日 (火)

太田裕美「最後の一葉」

太田裕美「最後の一葉」
作詞.松本隆/作曲.筒美京平/編曲.萩田光雄
1976年/¥600
CBSソニー/06SH56


2008092301太田裕美はデビュー時はピアノ弾き語りでどちらかというとニューミュージック系なイメージだったが、いまいちセールスに結びつかず、松本隆・筒美京平も煮詰まった事から、マイクを持って歌うポップスとして「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」をリリースし大ヒットとなっている。
そしてこの「最後の一葉」で、デビュー時のリベンジとして弾き語り路線の曲をリリースしてオリコン5位を獲得している。
前作「赤いハイヒール」では都会で振り回され踊らされ続けている女性が「一度履いたらもう止まらない、誰か助けて赤いハイヒール♪」と歌っている。これはアンデルセンの書いた童話「赤い靴」がモチーフとなっている。(実際の童話はとにかく悲惨な話ですが)
その文学をモチーフにした続編として登場したのが「最後の一葉(ひとは)」。

2008092302もちろん、O・ヘンリーの同名短編小説「最後の一葉」がモチーフになっているわけで、シングル盤にもちゃんと『O・ヘンリー「最後の一葉」より』と出典が書かれている。
出典はちゃんと書きましょうという事ですね、って松本隆は「木綿のハンカチーフ」の時は出典を書かなかったのですが(参照「木綿のハンカチーフ」)
聞くと解るんだけど、歌詞は本当に物語をそのまま歌っているので、最後に「あなたが描いた絵だったんです」と小説のオチまで歌っている。
と言っても、歌の歌詞は男女の恋愛に書き換えられているし、壁に絵を描いたあなたがどうなったかという小説の方のラストは描かれていない。
しかし、あの時代こんな暗い内容の歌詞がシングル盤としてありだったんだなぁというのが驚き。
曲中で主人公が自分の事を「命の糸が切れそうなんです♪」などといいつつ、延々と「別れたほうがあなたにとって倖せでしょうか♪」と綴っている。なんか救いがないのだ。

名曲だとは思うんですが、なんかこの後ろ向き感が当時は絶えきれなかった。
もし歌詞の方が原作どおりのラストを歌っていたら、もうこれは悲惨すぎます。

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2008年9月10日 (水)

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」
作詞.松宮恭子/作曲.大谷和夫/編曲.大谷和夫
1983年/¥700
RVC/RHS-93


2008091001ジャケ違い(第二弾)
それ以前の「Kとブルンネン:あの場所から」「少年隊:仮面舞踏会」に関しては、ジャケ違いではなくレコード番号が違うので「別物」という扱いです。
で、このレコードの取扱が難しい。
本物ポリスマンが出ているジャケットと、黄色いジャケットの2種類あるワケですが、何故なのかはよく解らない。
中古市場では黄色いジャケットを多く見かけるし、Google画像検索では黄色いジャケットが多いんですが、ポリスマンのも別段特別という感じではない(ヤフオクではこれに1500円という値段設定をしている人もいるんですが)。
※この件についてみきサンより貴重な情報を頂きました。その件については文末に追加しております。
しかし、ポリスマンが出ている写真。石川秀美が遠慮無しにポリスバッヂを指さして…、というか思いっきり指で触っていますが、いかがなもの何でしょうか。

2008091002個人的に、石川秀美の楽曲って良くも悪くも印象に残らないというか、余りにも普通のポップスという感じで、地味でもないけどはじけてもいない、歌も上手くもないけどヘタでもない、容姿は個人的見解なのですが普通すぎて、ある意味「優等生」的な印象しか残っていない。
この曲も、なんか全体的に「どっかで聞いた感」が最初から最後まで漂っていて、凄い普遍的な感じがしてしまうので、今聞いても音もメロディも詩も古くはないけど新しくもない。
なんかどう評価したらいんだと頭を抱えてしまう部分なのだ。
でも、どの時代にも「邪魔にならない音楽」というのは存在しているので、そういう感じなのかも知れない。
歌手活動8年の間にシングル30枚、その内13枚がベスト10入りしているので、それなりに売れていたんだけど、その中で一番売れたシングルが後々に大問題を引き起こす『もっと接近しましょ』という曲。この曲はいつかちゃんとした形で取り上げたいシングルなんですが、石川秀美の楽曲の中でも異質な曲。

ちなみにB面の「さざ波」はアイドル曲に時々ある、エロい歌詞でいたいけな青少年が妄想突入するための曲。
いきなり歌詞の出だしが「♪私初めてなんです、優しくほどいて胸のリボン」という、いわゆるダブルミーニングという比喩で意味を持たせるなんて物ではなく、そのものズバリの意味しかないだろという歌詞。
そこからはズバリ書けないので現状を「舟」に例えるという古典的な方法で「♪波が寄せるたびにとまどう」とか行為そのものを連想させるような歌詞となっている。
2番はいきなり目覚めた朝の風景を歌っていて「休憩ではなくお泊まりだったんだ」と思わせ「♪女として迎えて…」などと、昨日までとは違うのよ的な歌詞になっている。
もーいたいけな青少年はたまらんでしょうな。
でも、優等生的なイメージと、メロディが実に普通のポップスなので、なんかエロさは感じない。(って熱く語ってしまいましたが)

石川秀美本人は90年に元シブがき隊の薬丸裕英と結婚して、(CMに夫婦で出たりはあったが)芸能界を引退している。この二人は、かなり前からウワサはあったので、その辺も優等生的な恋愛が続いていたのかも知れない。
出来ちゃった結婚だったけれど、それは事務所サイドが交際に反対していた為の作戦だったとも言われている。その長男「SHO」くんも映画「炬燵猫」の主演として芸能界デビューとなった。って2年ぐらい前にそのニュースを聞いて、それ以降その映画の話題聞いた事ないんですが、もう公開されたんですよね?
なにはともあれ、現在は堀ちえみに対抗するような5人の母親として頑張っているそうで、旦那もシブがき隊の頃とはなんか全然違う方向に行っているような気もするけど、3人の中で一番売れているみたいなので、家内安全って事でめでたしめでたしなのだ。

と、文章をアップした直後、コメント欄でみきサンより情報をいただきました。
「ミスター・ポリスマン」のジャケットについては、石川秀美が「歌のトップテン」に出た時に、この歌が予想外に売れたのでレコード会社からご褒美として新しくジャケット写真を撮り直してもらった(ポリスマンが写ってるほうが取り直したほうです)、と本人が司会のマチャアキに言ってました。
当時リアルタイムで見てたのですが石川秀美のファンでもないのになぜかいまだにその時のことを憶えてました。

なるほど、つまりそこそこヒットした後で、ポリスマンが写っているジャケットが新たに作られたワケですか。
それ故に、それを購入した人は、ヒットに後乗りした人か、コアな「ジャケ違いも買う」ファンという感じだったワケで、多くは出回っていないという感じなんでしょうね。
お陰で、この翌日分の「中森明菜:1/2の神話」のジャケ違いにも関係性が出てきました。
貴重な情報ありがとうございました。

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2008年9月 4日 (木)

オフコース「眠れぬ夜」

オフコース「眠れぬ夜」
作詞.作曲.小田和正/編曲.オフコース
1975年12月20日/¥600
東芝EMI/ETP-10301


2008090412人組だった初期オフコースの曲の中ではミディアムテンポで軽快な曲。
もともと、それまでの曲のようにスローなバラード調で謳っていた物をディレクター判断で現在聞かれる物へとアレンジし直したという。これに付いては小田和正は不満タラタラだったらしいが、結果としてオフコース初のヒット曲となった。
自分はこの曲を中学の頃にラジオで聞いて「よい曲だなぁ」と思ってカセットに録音した物をずっと聞いていた。
その当時はジャケット写真にあるような二人組だったので、ずっとそう思っていたのですが、気が付いた時にはバンド形式になっていたのでビックリした。
確かに、この曲ですら「フォークデュオ」の曲ではないので、バンド形式になるのは必然だったのかもしれないけど。

今、改めてこのレコードを聴くと「キーボードの音色、それでいいの?」と不安になってしまうほどフニャフニャな音だし(キーボードにプリセットで入っていそうな音色)、ギターの音やリバーブも今の感覚で言ったら「ミキシングしっかりしろ!」って印象なんだけど、当時は格好良かった(と思っていたような気がする)。

アルバム『ワインの匂い』
200809042歌詞の方は、80年前後にタモリが軟弱の代名詞として掲げていたような世界が展開されている。
出だしは「別れた女性が懺悔してこれまでの事は忘れて」と言い寄ってきても「♪僕は君のところへ、二度とは帰らない」と否定する所から始まっている。
おぉ軟弱代表のワリには(勝手に代表にしてますが)言う時はキッパリと言うねぇ、と聞いていると
「♪愛のない毎日は自由な毎日」
などと、「俺は彼女と別れた後、自由を謳歌してるぜ」とちょいと強がり入っているか?という歌詞が出てくる。
ところが、その次にいきなり
「♪それでも今君があの扉を開けて、入ってきたら僕にはわからない」
と今までの強がりがいきなり感情をぐらついかせているのだ。
なんだったんだここまでの詩は!と、聞いていると、初志貫徹出来ない詩の内容は、眠れない夜に「♪愛がよみがえる」と締めているのだ。
えっっっと……、つまり「別れた女性がよりを戻しに来たら、僕は許してしまうかもね」という事を悶々と思って「眠れぬ夜」を過ごしているって事なのかぁぁぁ!
つーか、その戻ってくるという部分も現実じゃなくて延々と妄想じゃないのか! なんてこった。

この曲は、1980年に西城秀樹がシングル曲としてカバーしている。西条秀樹とオフコースってイマイチ繋がらないけど、ちょっと低迷感があった西城秀樹はこの曲で盛り返したという記憶がある。
ちなみにジャケット撮影は、シングルと同時発売のアルバム「ワインの匂い」共に新宿外苑。

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2008年8月18日 (月)

石川セリ「八月の濡れた砂」

石川セリ「八月の濡れた砂」
作詞.吉岡オサム/作曲.むつひろし/編曲.秋葉洋
1972年03月/¥500
キャニオンレコード/A-93


200808181近年は「夏!」というとサザンだったりチューブだったり、それ以外でもなんだか暑苦しい曲が多くなってしまったけれど、なんで暑い夏をさらに蒸し暑くするような曲ばっかりなのだ!!!
と、憤慨して自分個人だけがフガフガと熱くなっている。
という事で、8月と言えばこの曲。

この曲は日活映画「八月の濡れた砂」の主題歌として1972年にリリースされた石川セリのデビュー曲(映画は1971年8月公開)。日活と言っても、この作品は会社が傾いてロマンポルノに移行する直前の作品。
当時の日本映画はヌーベルバーグとかアメリカンニューシネマだとかの影響を受けた、退廃的な若者達を主題にした物が多く、たとえば夏が舞台になっていても、大騒ぎした後のなんかけだるくやるせない感情が漂う、どちらかと言えば暗い作品が多かった。
この作品は藤田敏八が監督をした作品で、70年まで続いた学園紛争後の虚無感の中で「しらけ世代」と言われた若者達の暴走を描いた作品。

200808182自分はリアルタイムではなく、70年代初頭の虚無感とは180℃転換していた脳天気な80年代中期にレンタルビデオで初めて見た世代なので、ある意味「あの時代の空気」を感じ取るための歴史物という感じで接した。
「しらけ世代」という言葉は1970年代初期に生まれた言葉だったが、実際の事を言うと明るいが価値基準になり「根暗」が排除されて総躁状態だった1980年代初期「暗く考えていても何も始まらないじゃん、だったら踊ればええじゃないか」と闇雲に明るさを演出していた時代の方が本質的にしらけていたんだろうなぁと思う。

2008081803この映画の時代は「学園紛争で努力したけど、結局何も変わらなかったぜ」的なムードだったのかも知れないけれど、その状況に放り出された若者たちは何かを求めて暗中模索していたのだと思う。その課程で表面的にしらけていたんじゃないかと。
80年代にはニヒルを気取って「そんな熱くなっても無意味」という感じがよくあった。
そう言う意味で、70年代の夏の歌「八月の濡れた砂」はやりきれない感情をクールダウンさせる曲なのかも知れない。
そして80年代以降は、悩む姿は格好悪いので「とりあえず夏だから騒ごうぜ!」とばかりにテンションを強制的にあげるような曲が多くなったのではと(と言いつつ、70年代にも熱い夏ソングは多いっすけどね)。

このシングルのインナーに歌手・石川セリのプロフィールがある。
本  名:石川セイディ(Seidy)
生年月日:昭和27年12月27日(19才)
出  身:神奈川県相武台
学  歴:玉川大学英米文学部中退
好きな人・映画:
  バーブラ・ストライサンド、渥美清、「Funny Girl」「男はつらいよ」
わたしの宣伝文句:
  ☆Sexy(Sexy) Seidy(本名)、わかんない子、Funny Girl(おかしな子)
  ☆よく笑い、いつも鼻歌をうたっているのに寂しがり屋……。
うーむ、石川セリは自分が一番苦手な「不思議ちゃん」だったのか。

A面「八月の濡れた砂」は70年代を代表する秀逸でしっとりした曲ですが、B面の「小さな日曜日」はもうちょっとポップな曲で、ベースがいかにもあの時代っぽい音で、こっちはこっちでなんか心地良い。

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2008年4月15日 (火)

上田正樹と有山淳司「俺の借金全部でなんぼや」

200804151上田正樹・有山順司「俺の借金全部でなんぼや」
作詞:三上寛
作曲:上田正樹・有山淳司


大阪のシンボル的存在「くいだおれ」が今年7月8日をもって閉店する事が発表された。
くいだおれという店に入った事がない人でも、店頭で愛想を振りまく「くいだおれ人形」だけは知っていると思う。(店の前にある人形と一緒に写真を撮った人は沢山いるけれど、店にまで入った人は少ないのでは...ってそれが閉店の理由だ!)
くいだおれ人形の本名は「くいだおれ太郎」で生年月日は1949年6月8日となっている。これは「くいだおれ」開店日に合わせてある。
が、実際にはこの開店当初は店頭に人形はなく、その翌年の1月に人形が登場してる。

しかも、その時登場した人形は現在の物とは違っていて、ハチマキにハッピを着ている店員スタイルだったという。さらに片手にはホンモノのビールが入ったジョッキをお盆に載せていたという。
そして、その恰好でグルグル回って店をアピールしていたのですが、回転するたびにビールをまき散らしていたという事でリストラの憂き目に遭っている。
そこで登場したのが、現在まで活躍している「くいだおれ太郎」。初代との関係は親子という設定。となると、誕生日が創業日というのはオカシイのでは?と思ってしまうけれど、そんな細かいことは気にしない。(父親は現在、頭部だけが残されているらしい)

このくいだおれ太郎は普段は黒縁丸メガネ、紅白縞模様の洋服に、とんがり帽子というコテコテ大阪人の代表としてガンバっておりますが、折々に衣装チェンジもしている。
世界陸上の時は日本代表のTシャツを着たり、1992年に阪神が優勝争いをしていた時は、その前の時カーネルサンダースが道頓堀にダイブさせられた事もあって「わて、泳げまへんねん」と書かれたプラカードを提示しながら浮き輪と水中眼鏡を装着した。
あと、昭和天皇の大喪の礼の時、白黒のストライプの服を着て店先に立っている。

やはり阪神タイガースのファンという設定で2003年の日本シリーズには福岡ドームへダイエー(現ソフトバンク)の偵察にも出かけている。(服装はタイガースのハッピ)
さらに、野茂英雄の試合観戦にドジャーススタジアムに出かけたり、関西空港開港イベントではアンセット・オーストラリア空港&ルックJTBの招待でオーストラリア旅行もしている。
時々、出張に出かけ「くいだおれ太郎」が不在になった時、次男「くいだおれ次郎」が登場する事になっている。

長男・太郎が太鼓を叩いているのに対し、次男は基本的におめでたい時に登場するのでバンザイをする仕様となっている。(別名:バンザイ人形)
この太郎と次郎の顔つきは同じで、初登場時代に人気だった喜劇俳優「杉狂児」がモデルになっていると言われてる(創業者・山田六郎氏の顔がモデルとも言われている)

さらにこの兄弟にはイトコもいて、くいだおれの裏にあるレストラン「ウラ・くいだおれ」にいる「くいだおれ楽太郎」。世界陸上を見るために帰ってきたという洋行帰りのオシャレさんというキャラクター。
この「くいだおれ」という店は創業者の山田六郎さんが先進的な人で、街頭テレビが話題になった頃、すでに店にはテレビを設置して客寄せに大成功しているし、支店を出さずに家族で経営せよと頑ななポリシーの元に運営されていた。
その一環での店頭人形だったんだろうけれど、今回の閉店に関しては「時代に取り残されてしまった」という事なのかも知れない。

くいだおれ人形というと自分がすぐ思い出してしまうのが上田正樹と有山淳司の「俺の借金全部でなんぼや」という曲。このシングルのジャケットにくいだおれ人形が使われている。
パッと見ると、くいだおれ人形の前で記念撮影をしただけの安易な写真のように見えますが、実際はもっと安易な合成写真。この辺りも「なんかよう分からんが関西ぽいなぁ」という感じなのだ。
「俺の借金全部でなんぼや」を初めて聞いたのは中学の頃だったか? 自分の中で当時、関西人というと「ツルコでおま」の笑福亭鶴光師匠と、あのねのねが基準で、関西系の曲というとミス花子「河内のおっさんの唄」間寛平「開けチューリップ」などもあって、大阪系のブルースもコミックソングの一環で聞いていた訳ですが、改めて聞いてみると渋くていいっすね。(桑名正博のファニカンなどもありましたが)
で、ビックリしちゃうのが、この曲、歌詞の中に上田正樹のバンド「サウストゥサウス」のメンバーの名前が折り込まれていて、延々と金借りた、金貸した、少し返した、という事が歌われていて最終的には「俺の借金全部でなんぼや♪」と繰り返すだけのコテコテな物なんですが、作詞は三上寛なんですな。三上寛と言うバリバリの津軽人が作詞した関西の歌。

ちなみに歌詞の中に登場する人物は以下の通り
お好み焼き屋のゆうちゃん(藤井裕:B)
乾物屋の中西(中西康晴:Key)
アルサロのくんちょう(堤和美:G)
おかまの五郎ちゃん(正木五郎:D)
有山(有山淳司:歌&G)
10年ほど前だったか、ビールのCMで突然クレジットに「クンチョー:青い夏まで待てない」と出ていた時に「あ!アルサロのくんちょう!」とビックリしたことがありますが、それぞれが今でも地道に活動を続けているんですなぁ。
乾物屋の中西こと中西康晴さんはともさかりえのアルバムで弾いていたり、そこここで名前を拝見します。

そんなこんなで、くいだおれ人形の再就職先が検討されている昨今ですが、橋元徹大阪府知事による聖域無き構造改革が実行されようとしている大阪、いったいどこへ行こうとしているのだ? まさに大坂の借金全部でなんぼや? なのだ。

上田正樹の豆知泉

歌手になることを反対されていた上田正樹は「ちょいと風呂行って来るわ」と家族に告げてそのまま家出した。歌手になり、そこそこ名が売れた7年後、恐る恐る家に帰ると、「えらい長い風呂やったなー」と出迎えられた。

上田正樹のニックネームは「キー坊」なのは、先に兄が「マー坊」と呼ばれていたため。

「ネシアアトラスオオカブト」の学名は『Chalcosoma atlas keyboh』、ここに出てくる「keyboh:キーボー」は上田正樹のこと。学名をつけた永井信二が友人の上田正樹のニックネームを付けた。


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2008年3月 8日 (土)

太田裕美「木綿のハンカチーフ」

2008030801木綿のハンカチーフ/太田裕美
作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄.
CBSソニー:SOLB-352
1975年12月21日/¥500


卒業シーズンということで「卒業」とタイトルに付けられた曲でもよかったんですが、とりあえずこの曲を。
といっても歌詞の中には卒業を臭わす言葉は1つも入っていない。ただ何かの事情で都会に旅立つ男と、田舎に残る女の会話が綴られている。
歌っていた太田裕美はアイドル的容姿は兼ね備えていたが、どことなく都会的ではないイメージもあって(個人的偏見&褒め言葉ですよ)この曲に出てくる女性にオーバーラップする部分もあったのか、大ヒット曲となる。

2005030803と言っても、1975年12月21日にリリースされたこの曲は、4日後の12月25日リリース「およげ!たいやきくん」の驚異的なヒット(初登場から11週オリコン1位)によって、ついに1位を獲得出来ずに終わっている。それでも85万枚を売上げ、その後の地位を獲得している。

この曲は作詞家の松本隆がまず詩を書き上げ、作曲の筒美京平に渡した、いわゆる「詩先」といわれる物だったのですが、この詩を受け取った筒美京平は「こんなダラダラした詩に曲は付けられない、なんとかしてくれ」と松本隆に詩を変えるように連絡を取ったという。
しかし松本隆は「おそらく曲を付けるのは難しいということで電話があるんじゃないか」と確信していたので、その日は連絡できない場所へ雲隠れをしていたらしい。
そして、とりあえずの〆切の時、なんとか曲が出来ていあたとかつて松本隆が語っていた。

2005030804まず12月5日リリースの3rdアルバム『心が風邪をひいた日』に収録され、12月21日にシングルカットされている。
アルバムVerとシングルVerの違いは、アルバムの方にはイントロにある特徴的なジャカジャカジャカ〜と上昇するバイオリンのトレモロが無く、他の部分でもストリングスがうっすら入る程度になっている。
あと演奏途中ではいるフルート系のシンセの音もアルバムVerには入っていない。
シングルを聞き慣れているとアルバムVerはスッキリしすぎていてギターのカッティングがキツク感じるかもしれない。

2005030805その歌詞はまず男性の手紙から始まり、後半は女性がそれに答える形で手紙を書くという構成で、サビの部分に明確なリフもない、詩だけ読むとどこにサビを持っていったらいいのか解らない詩になっている。
しかもそれが4番まで続き、4番の最後の最後にテーマである「ねえ涙拭く木綿のハンカチーフください」という言葉が登場する仕組みになっている。
そのため、当時の歌番組では2番無しで歌う事も多かった。

実はこの歌詞はボブ…ディランの「スペイン革のブーツ/Boots Of Spanish Leather」という曲がモチーフになっている。モチーフといえば聞こえがいいが、松本隆は結構この「洋楽の歌詞を翻訳して日本風味を振りかける」という作業をしている。
同じ太田裕美ではアルバム曲に「ひぐらし」という物があって、内容はふたりでバス旅行に出かけるという物なんだけど、これはサイモン&ガーファンクル「アメリカ」と設定が同じ。「アメリカ」の中で「アイツの顔、指名手配のギャングに似ていないか」という部分は「ひぐらし」では「♪三億円に似てないかって」となっている。あの時代なら「三億円犯人のモンタージュ写真に似てないか」という意味と解るけど、今聞き直すと「三億円に似てる」って何のことやら。

2005030802そんなワケで、元詩となったディランの「スペイン革のブーツ」はディラン最愛の女性スーズ・ロトロがイタリアに旅立つ時に浮かんだ物(実際には別離ではなく旅行だったみたいですが)。スーズは2ndアルバム『Freewheeling'』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性。
ディランの曲は主人公(男)が船に乗って旅立つ所から始まる。
Oh, I'm sailin' away my own true love,(愛しい人よ、僕は船で旅に出るよ)
これが「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向う列車で」に相当するワケです。
ディランの方はその後
Is there something I can send you from across the sea,(海の向こうに着いたあと、送って欲しい物はあるかい?)
と残した女性に対してリクエストをしている。
同じように松本隆は「はなやいだ街で 君への贈りもの、探す 探すつもりだ」と書いている。

2005030806そこで主人公が突然女性側に移り
No, there's nothin' you can send me, my own true love,(いいえ 何もいらないの 私の愛しい人)
そして「いいえ あなた私は、欲しいものはないのよ」となっている。

その後もディランの歌詞を追っていくとどこかで聞いたフレーズが満載で…。
Oh, but if I had the stars from the darkest night(闇夜に輝やく星たちでも)
And the diamonds from the deepest ocean,(深海から見つけたダイヤでも)
I'd forsake them all for your sweet kiss, (あなたの甘いキスには勝てないわ)
そして最後に
And yes, there's something you can send back to me Spanish boots of Spanish leather. 
(そうだ、君が何か送ってくれると言うのなら、スペイン革のスペインブーツを)
と締めて曲は終わる。
木綿のハンカチなら気軽に送ること出来るけど、スペイン革のブーツは結構難易度が高い贈り物だと思う。

ちょうど「木綿のハンカチーフ」が流行った直後ぐらいに、ボブ・ディランの初来日という物があって、名作アルバム『欲望/Desire』が発売されたりで、中学生だった自分はひたすらディランを聞いていた時期があった。
その関係で「スペイン革のブーツ」の存在も知り、なんじゃこりゃ!そっくりやないけ!と怒りまくった瞬間もありました。

と言いつつ、太田裕美も好きだしという、ファンとしては難しい問題を抱えている曲なのだ。松本隆め!
でも、この曲が名曲なのは紛れようのない事実なのだ。

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2008年1月20日 (日)

宇沙美ゆかり「風のプリマドンナ」Vマドンナ大作戦

20080120a「えっと、あれ何だっけ?」と、そんなに特殊な事でもないのに思い出せない事がある。
昔好きだった曲のタイトルとか、忘れようがないハズなのに思い出せない。
そんな時はなんかずーっと頭の中にそれが引っかかって、嫌な感じで生活する事になる。
好きだった物自体を忘れてしまうほど忘れっぽくなってしまっているのに、その「忘れて思い出せない」という事が忘れられずに、数日間グジグジと思い出せない事を頭の中で反芻する。


で、さっき普通に文章を入力していた時に、昨年末に「あ・・・あのアイドルなんて言ったっけ?」と思い出せずにグジグジしていた名前を思い出した。
何かキッカケというワケでもない。それに関連した物を読んでいたとか書いていたというワケでもない。なぜかいきなりポツンと思い出したのだ。

20080120bその思い出せなかったアイドルは「宇沙美ゆかり」。
ほぉら、誰も反応できないレベルに知られていないアイドルでしょ。世間一般では「忘れた」以前に「知らなかった」という感じかもしれない。
で、困った事に今度は「その宇沙美ゆかりの名前を思い出すキッカケになったのは何の話題だったんだ?」という事を思い出せないのだ。
う〜ぬ。

という事で連想ゲームをして「たぶんこんな事だよな」と記憶を引きずり出した。
たぶん西部劇「荒野の七人」の原作は黒澤明の「七人の侍」という話から、日本でも「七人の侍」をモチーフにした映画があるよ、という事で80年代のアイドル映画「Vマドンナ大戦争」の話題が出て、えっと主役だったのは… という感じだったんじゃないかと。
その宇沙美ゆかりという今ではすっかり忘れ去られたアイドルが主役を張った映画。
内容は不良の吹きだまりとなっている高校で、生徒会長に雇われた7人の女子高生が番長連合と闘うという話。安易と言えば安易。

20080120c実はこの映画、1985年の作品でして、ほぼ同時期に斉藤由貴版「スケバン刑事」(1985年04月11日〜1985年10月31日)が放送されているんですが、スケバン刑事の主役第一候補が宇沙美ゆかりだったという話もある。
その主役選考をしている時、ほぼ同時期に「Vマドンナ大作戦」の企画も上がっていて、事務所的にはどうなるか解らないTVドラマより映画を選んだらしい。
当時は角川映画の全盛期で、薬師丸ひろ子を始めとした原田知世・渡辺典子で角川三姉妹が歌でもヒットを飛ばしていて「映画からアイドルが出る」という流れもあり、TVサイズのアイドルよりスケール感があるという感じだったのかも知れない。
でも明らかに選択ミスだったのだ。

20080120dそして、何よりこの映画が素晴らしいのがラストが夢オチだという事。ふっと目が覚めるとそれまでの話は全部夢だった…。そして気が付くと、その夢の中でリーダーだった女子高生(これが宇沙美ゆかり)が転校してくる。という、古いタイプの同人誌漫画にありそうな話。
そしてこの映画の脚本は第9回城戸賞入選作品で野沢尚が書いているというのも素晴らしい。(夢オチというのは映画化の時に付け加えられた物という噂もある)

宇沙美ゆかりは、映画ではあだち充原作の「みゆき」で三田寛子と共演して妹のほうのみゆきを演じ(監督はなんと井筒和幸)、月曜ドラマランドで柳沢きみお原作の「あ、MYみかん」の主役などもしていたし、歌も普通レベルに上手だった(逆に言うとクセがない)し、デビュー曲「蒼い多感期」はカネボウのCM曲だったりと、事務所も結構プッシュしていたハズなのにあまり売れずに芸能界を引退。

20080120e沖縄に帰って、お姉さんたちと喫茶店を経営していたとか、その後「ぶすっこくらぶ」というキャバクラを経営していたとか、なかなか実業家的に展開していたそうです(バブルでキャバクラは潰れたらしいですが)。いまは普通に主婦でもやっているんですかね。

というワケで、宇沙美ゆかりの事をぼーっと思い出している内に、今日本来書こうと思っていた事が何なのか忘れてしまったのだ。

宇沙美ゆかり Single
1984年03月21日:蒼い多感期
1984年06月21日:SHOCK!
1984年09月05日:ツライ・キライ・クライMAX
1984年11月21日:アルカリ少年-boy-
1985年06月05日:風のプリマドンナ
1985年10月05日:恋はDancing

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2007年5月24日 (木)

相本久美子「初夏景色」

000aimo01相本久美子/初夏景色
作詞.阿久悠/作曲.森田公一/編曲.馬飼野俊一
1976年3月21日/¥500
CBSソニー/SOLB-396
ジャケ撮影.篠山紀信


かなり天気が夏めいて来たので、初夏っぽい曲。
この曲はTBSで放送されていた水曜劇場「花吹雪はしご一家」の劇中歌として使われていた曲。
このドラマに相本久美子は次女役として出演していたんですが、ドラマが始まった時は「近藤久美子」という芸名で、色々あって途中から本名の「相本久美子」に変わっている。

000aimo02詳しい話は解らないのですが、このドラマに出る直前までスペースプロという事務所に所属して近藤久美子名義で3枚のシングル盤を出していたワケですが、雑誌の仕事で西城秀樹と共演した事から、芸映プロダクションに移籍する事となっている。
そのお陰で、この水曜劇場「花吹雪はしご一家」に西城秀樹の妹役で出演というビッグチャンスをつかむことになるのだけど、その辺の移籍が絡んで改名したのではないか?という感じなのだ。

よくありがちな話で、一番有名な所では加勢大周事件なんて物がありましたが、芸名を考えたのは事務所なので移籍した後はその名前は使わせない!とか言うパターン。(加勢大周の時は前事務所が登録商標したとか、裁判ざたになっていましたが)
浅香唯なんかも休業後に別の事務所で復帰する際にもめたり(スケバン刑事3は浅香唯名義で出演していたが、再放送時のテレビ欄には何故か本名・川崎亜紀だったり、しばらくYUI名義で歌手活動をしていた)、近年では鈴木あみ(復帰後は鈴木亜美)、松本恵(復帰後は松本莉緒)なんてのもありました。

000aimo03このドラマ「花吹雪はしご一家」に出てくる兄弟がむちゃな設定で、長男・左とん平(当時39)、長女・ビーバー(29)、次男・西城秀樹(22)、次女・相本久美子(18)という感じでした。
(ビーバーは70年代初期に活躍したモコ・ビーバー・オリーブという三人組アイドルの一人。モコは後に高橋基子としてタレント活動、オリーブは後にシリア・ポールという名で歌手デビュー)
1976年当時、若者文化の発信地として吉祥寺が注目されていた事からそこが舞台になっている。その新しく生まれ変わりはじめた街にある昔気質のとび職一家の物語で未亡人の森光子(当時56)が4人の子供を育てながら、店を切り盛りするお話。(左とん平を17歳で生んで、相本久美子を38歳で生んだ計算)

水曜劇場は当時、かなり視聴率がよかった時間帯のドラマで「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」などなどの名作ドラマが生み出されている。
そこでマスコット的役割の次女役、しかも劇中歌を歌うというのは、もの凄い抜擢だったワケです。
もっとも、このドラマが1976年3月以降の活動というと、ドラマ終了直後の4月から「TVジョッキー(NTV)」のアシスタントを1981年まで務めたってのぐらいしか明確に覚えていないワケですが。
あ、あと笑福亭鶴光師匠の「あぁいぃもっとぉ久美子ぉ」もリビドーの深い部分にインプットされております。

一般的に「秀樹の妹」というと河合奈保子(初代)、石川秀美(二代目)として扱われていますが、オーディションとは関係なく秀樹の妹分の初代はこの相本久美子です。
ちなみに河合奈保子がデビューするキッカケになったコンテストの名前は「秀樹の弟・妹・募集!新人歌手全国オーディション」で男の応募もOKで、その応募者の中には松尾伴内(後にたけし軍団)もいたそうです。

ちょっと卑怯なネタとしては若槻千夏も「ヒデキの妹オーディション」で2001年にデビューしている。
といっても西城秀樹ではなく鈴木任紀(すずきひでき:芸名ウド鈴木.キャイ〜ン)の妹分オーディションでTV初出演を果たしている。

って、毎回、表題のレコードについて殆ど書いていない事に気づくのであった。

水曜劇場の雑学

ドラマで主題歌以外に劇中歌が流れる元祖は、1971年に放送された「時間ですよ2」。

実はこの劇中歌が生まれるキッカケは1970年放送の「こけこっこー!」。このドラマに出演していた、かまやつひろし(当時まだスパイダースは解散していない)がギターを抱えながら会話をする芝居の最中、アドリブで自作曲を口ずさんだこと。

番組放送後に視聴者から「さっき歌った曲のタイトルは?」と問い合わせが相次いだのを見て、演出家の久世光彦が次作「時間ですよ2」の劇中、出演者が屋根の上でいきなり歌い出すという無理なシチュエーションを作り上げた。

そして堺正章「街の灯り」天地真理「水色の恋」浅田美代子「赤い風船」などのヒット曲が生まれた。

今回の相本久美子「初夏景色」が劇中歌になった「花吹雪はしご一家」には、とび職の新人として出演していた白鳥哲が歌う「赤い鼻緒とブルージーン」という曲もあった。

そしてこの番組の音楽を担当していたのは上田正樹とサウス・トゥ・サウス。

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2007年1月 8日 (月)

浅野ゆう子「とびだせ初恋」

Photo_26浅野ゆう子/とびだせ初恋
作詞.有馬三恵子/作.編曲.川口真
1974年/¥500
RCA/JRT-1355


浅野ゆう子
誕生日:1960(昭和35)年07月09日(46)
出身地:兵庫県神戸市東灘区 
血液型:AB型 
本 名:赤沢裕子  
学 歴:堀越学園高校(1979卒)

浅野ゆう子と言うといまや大御所女優って感じですが、実際には1972年にアイドル歌手デビューして、70年代後期はディスコブームに乗った和製ソウル的な曲を歌う人になり、80年代初期はセクシーグラビア系の人だった。実に時代に合わせて苦労してきた人なのだ。
デビューした12歳の頃からスタイルが良かったワケですが、それもそのハズ、デビュー当時はモデル事務所オスカーに所属しておりました。

Photo_27ハッキリ言って、80年代初頭のセクシー系のグラビア連発、出るたびに着衣が少なくなっていった時代は「あぁ元アイドルがついにここまで落ちちゃったのね」という、芸能界の生き地獄的な印象を勝手に持ってしまうほど、毎回ギリギリなグラビア展開をしておりました。
が、1980年代中期から2時間ドラマなどに出始め、女優として今に続いている。

アイドル歌手としては大成しなかったという印象で、ヒット曲と聞かれても数曲をなんとかうっすら覚えているレベルなので、トレンディドラマ以降で浅野ゆう子を認識した人にとっては「へぇ歌手もやっていたんだ」という感じかも知れない。
ちなみに「彼(1975)」という曲に関しては「彼という男の子と出会っていなかったら、私いけない子になっていたはず」という内容でミディアムスローな曲なんですが、なんか異常に麻丘めぐみの「芽ばえ(1972)」とそっくりな曲で「これはどうなんすかね?」という状態なのだ。

Photo_28女優・浅野ゆう子は歌手デビュー当時にNHKで「てんぷく笑劇場」というコメディに出演したのが最初ですが、ちゃんとしたドラマでは1974年の「太陽にほえろ!(NTV)」が最初。
かなり有名な刑事ドラマですが、全体的に男臭い番組の中にマスコットガールとして刑事部屋にお茶くみ係がいるという「なんじゃそりゃ?」という設定があった。
浅野ゆう子は二代目マスコットガール「永山久子:愛称チャコ」として登場し、普段はお茶くみなどをしてドラマに華を添えていた。
が、この時の年齢が14才。視聴者から「刑事部屋で14歳の女の子が働いているって設定はデタラメすぎないか?」という指摘が多く、結局12話出ただけで番組から姿を消した(1974.10.18〜1975.01.10/第118話〜第130話)

Photo_29アイドル歌手としてもイマイチ、女優としてもパッとしなかった彼女は堀越学園を卒業した辺りから徐々に男性週刊誌なんかでセクシー系のグラビア仕事が増えていく。もともと年齢より大人びた感じで、スタイルがよかったので、そっちに行っちゃうのは仕方ない事なのかもしれないっすけど。

女優としては24歳1985年頃から徐々に2時間ドラマの仕事が増えていって、86年87年は10本以上に出演し、1988年に元祖トレンディドラマと言われる「君の瞳をタイホする!(フジ)」に主演し、さらに「抱きしめたい!(フジ)」で浅野温子と共演してW浅野と呼ばれ大ブレイクして、今に繋がっていくことになるのだ。
ちなみに、その大ブレイクした年は連ドラを含めて20本のドラマに出演している。

浅野ゆう子を見るたびに「人に歴史あり」とか「色々挫折しても、続けていくといつか道は開けるのかもしれない」などと考えてしまうのだ。
成人の日なので「なんとか続けていれば、なんとかなる場合もあるので、適当に頑張れ」というエールを送ってみたりする。


浅野ゆう子の豆知泉
浅野ゆう子の2時間ドラマシリーズに久本雅美と共演する「ツインズな探偵(フジ)」がある。正反対な二人が実は双子で...という設定だが、実はこの二人の生年月日が同じ1960年07月09日だった事から生まれた企画。

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2006年9月 3日 (日)

おかわりシスターズ「恋をアンコール」

0002_2おかわりシスターズ/恋をアンコール
作詞.峰岸未来/作曲.編曲.佐藤準
フォーライフ/7K-137
1984年2月/¥700


大学生の学力低下が叫ばれて久しいわけですが、その象徴的な物が1983年4月にフジテレビの土曜深夜枠で始まった「オールナイトフジ」という、女子大生を多数集めてワイワイやっていた番組。
最初は東京ローカルだったので局地的な人気だったとは思うんですが、いわゆる「NEXT DOORS GIRL」隣の女の子的な親しみやすさで人気が出て、その中から人気の高かった3人が「おかわりシスターズ」として『恋をアンコール』でレコードデビューを果たした。
ジャケット左から
※松尾羽純:1973年06月01日生まれ(杉野女子短大)
※山崎美貴:1974年10月28日生まれ(東海大学)
※深谷智子:1973年07月21日生まれ(日本女子大学)

0001_1同時にフジ的には「美味しい素材を見つけた」と思ったのか、その年のフジテレビ「軽チャーっぽい」のキャンペンガールとして採用した。
この番組での女子大生は、70年代にあった「女子大生=賢い近寄りがたい才女」のイメージから大きく逸脱して、アホな事ばかりやったり、一般常識クイズに全然答えられなかったりして、最終的にキャッチコピーが「私たちはバカじゃない」という、トホホな物になっていった。(同名の本も出ている)

このオールナイターズ=女子大生というテレビ的に美味しい鉱脈(安い出演料&それぞれが新鮮なキャラ)を発見したフジと番組の構成をしていた秋元康は、さらにその中で「オールナイトフジ高校生大会」を企画し、それが夕方の帯番組「夕やけニャンニャン(おニャン子クラブ)」へ連なっていく。
実際の事を言えば、女子大生より新鮮な女子高生中心の夕やけニャンニャンが始まった1985年以降はこの番組の勢いは急速に失われていくワケですが。

0003_1で、この「おかわりシスターズ」が歌っていた楽曲ですが、素人女子大生が歌っていた曲なので安易な物と思われがちなんですが、楽曲としては実に良くできたリゾートポップス。ボーカル力のなさは目をつぶるとしても、あの時代を見事に切り取っている曲だと思うわけで、逆に「素人だからこそのリアル」がそこにあったんだと思うし、それ故に人気があったんじゃないかと。

オールナイトフジが人気を得てから新メンバーとして入ってきた女子大生は、あきらかに芸能志向が強く「なんとか芸能界に」という嫌なハングリーさが前面に出ていて(あるいは事務所臭さ)、おもしろみも失われていったような気がします。

4枚目の「虹色のカノン」は、女子大を卒業する事でオールナイトフジも卒業するという事でラストシングルとなっている。(同時に解散記念アルバム「L.A.S.T」もリリース)
この番組以外の活動としては月曜ドラマランドで漫画「アイドルを探せ!」の実写版に主演していたりします。

00_18松尾羽純・深谷智子は卒業後は普通に就職をしたが、山崎美貴だけがその後芸能界に残り女優を続けた。(現在も活動している山崎美貴のサイト

良くも悪くも、バブル前ののんきな時代の大学生という印象で、陳腐な表現ですが「等身大」という言葉が似合うグループだったんだなぁと今になって思ったりするわけでやんす。

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2006年9月 2日 (土)

アラジン「完全無欠のロックンローラー」

0001アラジン/完全無欠のロックンローラー
作詞作曲.高原茂仁
1981年11月/¥700
キャニオン/7A0135


一発屋といったら、まずこの人。派手なパフォーマンスで出現し、それなりに話題になりヒットした「完全無欠のロックンローラー」。そして二曲目の「ロックンローラー大放送」という曲で玉砕して、それ以降はほとんど知られていない。
と言いつつ、島田紳助と交友があったお陰で、鈴鹿の8耐で毎回トークショーなどを行ったり、島谷ひとみのデビュー曲の作曲をしたりと、現在でも時々チラッ程度に名前を聞く。
本職は、富山県の高雄電設という電気工事会社の社長との事。

このデビュー曲は、ヤマハの「ポプコン(ポピュラーコンテスト)」でグランプリを獲得し、その流れで「第12回世界歌謡祭」でグランプリを獲得している。
ポプコンはアマチュアミュージシャンの登竜門として70年代は有名で、「中島みゆき」「チャゲ&飛鳥」「長渕剛」「ツイスト」「八神純子」「あみん」「クリスタルキング」「辛島美登里」などなど、多くのアーティストを輩出している。
もっとも、70年代から裏で悪い噂が流れているコンテストで「最初からグランプリが決まっている」などと言われ続けていた。

現に、上田正樹が出場した際はグランプリを獲得した直後に辞退したり、佐野元春が出場した時も最終選考のステージでプログラムとは違う曲を演奏して、ステージを降りている。
自分もかつて関わった事があるんですが、そこでも出場する前に「○◎○さんが優勝するらしいよ」と知り合いだったスタッフに予選会の際に聞かされ、実際にその通りになった。

さらに、この大会でグランプリを取ったアーティストは、レコードデビューの資格と同時に、世界歌謡祭の出場資格を得る。
「世界歌謡祭」とか言ってるんですが、これにも裏が色々あるらしく、こんなふざけた「完全無欠のロックンローラー」なんて曲が、そこでもグランプリを取っている。

0002_1で、この曲がヒットした後、2曲目の「ロックンローラー大放送」という、前曲の続編とも言えるようなコンセプトのシングルをリリースしている。
が、この曲は見事に売れなかった。というのも、テレビでほとんど歌う事が出来ず、ラジオで掛ける事も難しい曲だったのだ。
ロックンローラー大放送」は判明している限りでは「夜のヒットスタジオ」で1度歌われたきり、TVで歌われていない。

というのも、この曲はロックンローラーがDJをやっている放送局で、リクエストに応えるという設定になっている。その中で「♪たまには演歌もかけてよ」「それは出来ない相談だぜ、ロックンロールの曲だけだぜ!」と歌われている。
夜のヒットスタジオという番組は色々なジャンルの歌手が出演している番組だったんだけど、その時、演歌界の大御所も出演していて「演歌はダメとは何だ!」と怒り、その後、どの局でも掛ける事ができなくなったと言われている。
そりゃ、一発屋に成らざるを得ないワケで。

同じような例ではシブがき隊の「演歌なんて歌えない(1987)」という曲も物議を醸したらしい(放送できなかったかは不明)

P.S.
「榊原郁恵/夏のお嬢さん」の時のコメント欄で「NHKあなたのメロディから出た曲の権利は全部NHKが...」というのは、著作権ではなく出版権の事だと思われます。
たとえば「およげ!たいやき君」は作詞.高田ひろお/作曲.佐瀬寿一ですが、ポンキッキから出た曲なので(c)フジテレビということで、フジテレビが出版権を所有しています。
これは著作権を持っている人と言えども、無許可でどこぞに詩を掲載したり、メロディを使う事が出来ないって契約。コンサートで自分の曲を歌う時も、出版権を持っている所に許可を得ないとダメってモノ。
普通は、レコード会社が持っていたり、所属事務所が持っていたりするモノで、レコード会社を移籍した後、しばらくはライブで過去の曲を歌えなかったり、ベスト盤を出す時に移籍前のモノを入れる事が出来なかったりします。

自分がポプコンの地方大会に出場した際、ヤマハ側から契約書を書かされたんですが、それの内容は「コンテストが終わるまで出版権はヤマハが所有するので、その間はコンサートなどでも勝手に契約した曲を歌うなよ」というモノでした。
(あっちのコメント欄に書こうと思ったんですが、ちょい長い文章になってしまうので、こちらで書きました)

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2006年8月31日 (木)

太田裕美「九月の雨」

000_18太田裕美/九月の雨
作詞.松本隆/作曲.編曲.筒美京平
1977年/¥600
CBSソニー/06SH-205


明日から9月ということで(とか書いてますが、更新するのは週末になるんですが)、太田裕美の「九月の雨」。
太田裕美に関しては個人的には「あまりにも歌謡曲界における評価が低すぎるのではないか?」と思っているので、小出しに色々書いていこうと思います。
前に、松田聖子に関して「時代とリンクした」みたいな事を書いたんですが、実際には松田聖子の楽曲が登場する裏には太田裕美の功績があるんじゃないかと。

太田裕美「木綿のハンカチーフ」
000_20彼女はデビュー時から、ピアノ弾き語りだったり、自作詞曲を作っていたり、TVにも出ていたけれど年間100本以上のコンサートを行っていたり、さらに「学園祭の女王」的な事を言われた元祖だったり、歌謡曲とニューミュージック的な物の中間で活動を続けていた。
以前「一発屋」を特集した雑誌の中に「木綿のハンカチーフを歌っていた太田裕美」という文章を見て、マジに生まれて初めての投書をしたろかい、われッ!と思った事もあったほどです。

ポールモーリア「オリーブの首飾り」
000_21と、テンションを勝手に上げてますが、その太田裕美の「九月の雨」をこうして取り上げたワケですが、自分は「太田裕美の曲の中で一番苦手」な曲であります。
というのも、この曲は作曲者の筒美京平が意図的に「ポールモーリア」を引用しているという部分。自分がポールモーリア的なイージーリスニングが苦手というのが一番大きな理由なんですが、メロディは「シバの女王」、アレンジ的には「オリーブの首飾り」をモチーフにしているようで、それまでのウエストコーストを意識した太田裕美=筒美京平サウンドの中では異質な感じがするわけです。

庄野真代「飛んでイスタンブール」
000_19この曲は筒美京平の狙い通りにヒットしたわけですが、その後の太田裕美の楽曲の中にはポールモーリアの影響はあまり無い。この曲が収録されたアルバム「こけてぃっしゅ」は名盤なんですが、この曲だけがどうしても浮いている印象がする。
確かに、ボーカリストとしての太田裕美は歌詞の中にある切ない恋愛をやや無理したファルセットで切々と歌っていて、単独で聴くと名曲だとは思うんですが。

ジュディ・オング「魅せられて」
0000_22筒美京平は「ポールモーリア的」をこの曲でモノにして、その翌年(1978年)岩崎宏美「さよならの挽歌」、庄野真代「飛んでイスタンブール」、そして1979年の大ヒット曲、ジュディ・オング「魅せられて」へと展開させて結実させていくのだ。

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2006年5月27日 (土)

あのねのね「もうゲームはしないよ」

Photo_6あのねのね/もうゲームはしないよ
作詞/作曲:三浦久
1976年:ルチア音楽工業株式会社
¥600


歌手名表記は「あのねのね」ではなく「亜乃根野寝」って、なんか偏差値の高くない珍走団なみですが、この曲以外では「人間は何て悲しいんだろう」という曲でも使っています。
BOOK OFFの社長に清水國明の姉が就任した時にも書いたんですが、自分はかつてあのねのねフリークでした。1980年頃「ネコニャンニャンニャン」とか「パンツ〜丸みえ」とか歌い始めて、なんか違う方へ行ってしまったなぁと醒めてしまったんですが。

Photo_7彼らは、本来ワーナーパイオニア所属なんですが、このシングルだけ自主製作盤で製作・発売が「ルチア音楽工業株式会社」となっています。
当時、自分が住んでいた処では見かけることなく、川崎の親戚の家に遊びにいった時に川崎方面のレコード店で発見し購入した物。
このルチア音楽工業株式会社はどうやら京都にある自主製作レーベル「京都レコード」関連の会社らしいのですが、なぜこの盤だけが自主製作で出たのかは不明。
ルチア盤ではLPも1枚出ているみたいなのですがそっちは未入手。
(京都レコードは京都西京極にあった会社で、東芝EMIから発売する時は平安京レコードと名乗っていたり、色々メジャーよりの活動をしていたみたいです)

あのねのね「雪が降っています」1974.11
Photo_8あのねのねというとコミックソングという認識を世間ではされていますが、この曲は真面目な唄で、作詞・作曲も三浦久となっている。
三浦久とは現在も地道に活動している京都出身のフォーク歌手(現在の本職は女子短大の教授らしい)で、あのねのねのデビュー当時のレコード製作をしていた「京都レコード」の関係者らしい。(京都レコード製作・ワーナー販売)
このシングルのB面は清水国明作詞、原田伸郎作曲のまじめな曲。

あのねのねプラス1「青春旅情」1975.7
Photo_9実はあのねのねの70年代後半にはまじめなシングル曲が多い。どうも、そっち方面へ活動をシフトしようと考えていたみたいなんですが、その戦略は空振りに終わり、それら真面目な曲はほとんど世間的な認知はなく、結局現在でもあのねのねは「コミックソング」という括りだけでしか語られない。
それ故に、その路線がダメだと思った直後に例の「ねこニャンニャンニャン」とかになってしまったんだと思うんですが、あそこまでコミックを意識してしまうと子供向けになってしまうワケで、やはりコミックソングを持続して作り続けるのは難しいだろうなと痛感する。

あのねのね「人間は何て悲しいんだろう」1976.8
Photo_10確かに、マジメ路線に変更する直前の1975年頃、ネタ切れみたいな発言もしており、TV番組「うわさのチャンネル」では歌詞募集をして、送られてきたコミックソング歌詞に曲を付けて歌うコーナーなんかもありました。

真面目な路線に変更したシングル「雪が降っています」は作詞・作曲あのねのねとなっているんですが、その後に出したシングル「青春旅情」は元バックバンドだった河島英五の作詞作曲で、アーティスト名も「あのねのねプラス1(河島英五)」と、なんだかよく判らない物になっている。

あのねのね「さよならは白い雪文字」1976.11
Photo_11さらに「人間は何て悲しいんだろう」「さよならは白い雪文字」の二曲はナッシュビル録音で作詞松本隆、作曲加藤和彦、編曲瀬尾一三という凄いメンツなのだ。
現在発売中の「ベスト撰集 」というベスト盤ではなんとか「雪が降っています」と「青春旅情」を聞くことが出来ますが、それ以外は幻の曲という感じです。

コミックソングを専門にしている歌手というのは古今東西、沢山存在していますが、その多くが最初の頃の勢いを持続出来なくなり、後半は無理矢理企画を持ち上げて、無理矢理曲を仕上げたというやっつけ仕事的になり、端で見ていてイタタ状態になってしまう場合が多々あります。

あのねのねの場合、唄だけじゃなくキャラもあったので、80年代末期頃まで「ヤンヤン歌うスタジオ」があったり、「ものまね紅白」とかの司会もあったり、70年代末は「出没!!おもしろMAP」という現在多いタレント複数名が各地に出かけ面白おかしくレポートする旅番組の元祖的な番組をやっていたり、タレント活動があったので、イタタ状態もそんなキツクはなかったけど。

ちなみに「出没!!おもしろMAP」という番組の1コーナーとして、あのねのねのレポートの途中いきなりムキムキマンが出現して「エンゼル体操」を踊るコーナーはかなり有名になった。
で、このエンゼル体操は凄い。
Photo_12「ムキムキマンのエンゼル体操」(1978年)
作詞:景山民夫、作・編曲:小坂忠
歌:かたせ梨乃&カツヤクキン
口上:清水国明&クーコ
衣装デザイン:小森和子
振付:山上たつひこ 

かたせ梨乃ってあの時点でそれなりの大御所のような気がしていたんだけど、まだ20歳でデビューしたてだったんですね。今回ちょっと調べてビックリしてしまった。

作曲の小坂忠は当時トラ・ミュージックという事務所を運営していて、その事務所に佐藤奈々子という歌手が所属しておりました。で、その佐藤奈々子の作曲などを担当していたのがデビュー前の佐野元春(当時の本職は広告代理店の社員?1978年だと22歳なのでその辺りか)。その関係から「ちょっと佐野くん手伝ってよ」という事で、エンゼル体操のイントロから始まるムキッムキッビニョニョ〜ンという腰砕けなキーボードを演奏しているのは佐野元春。(この曲の作曲、実は佐野元春という噂もある)
兎にも角にも凄いメンツの曲。

さらに「出没!!おもしろMAP」のオープニング曲はインスト物で、超絶テクのギターが繰り広げられていたんだけど、たぶん今まで一度もレコードにもCDにもなっていない。
で、その曲を演奏していたのがチャー。

話はあのねのねから逸れてしまったけれど、とにかくそんなこんなであのねのねが好きだったという話でやんす。

ついでに、BOOK OFFの時の豆知泉で書いていた「あのねのねの弟子出身ブラザーコーン」というのがありましたが、実はコーンと佐野元春は中学の時の同級生。

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2006年4月21日 (金)

泉谷しげる「春のからっ風」

0000002_1とりあえず春の曲
なんか最近は孫が出来ちゃったという事で、泉谷も丸くなったなぁという感じもする。と言っても、すでに泉谷しげるも、もうすぐ58歳(1948年5月11日生まれ)、そりゃ丸くもなるだろうさって感じなのだ。


世間的には泉谷しげるって人物は荒っぽく粗暴な発言とかが前面に出ているけど、その楽曲を聴く限りでは「不器用で純朴な詩人」という感じがしてしまう。いわゆるバラードでも甘くない、胸にヒリヒリするような曲が多く、この「春のからっ風」もそんな1曲。
世間が色めく春に、冬を抱えたまま宛てもなく季節の中に立ちつくす自分を慈しみながら、それでも何かを求めて不器用なまま生きていく。
上手く気持ちを伝える言葉を見つけ出せず、解ってくれない周囲を恨み始める自分がいる。
能弁である事が正義で、何も考えない事が楽だと思い切れない、馬鹿みたいな正直さをもてあましている。
なんか、泉谷という人物の本音の部分はこうなんだろうなぁと思ってしまうのだ。

その不器用さを隠すために泉谷は「偽悪者」というキャラを作り上げている。
それは俳優として活動を始める以前からあって、本当は生まれも育ちも東京生まれなのだが、デビュー時に「それじゃ人の共感を受けにくいでしょ」というエレックレコードの方針から「青森出身」として売り出した。当時は三上寛(みかみかん)や寺山修司のような東北出身者の情念的な物がアングラのブームにあったため。
もっとも「青森出身」というのはアマチュア時代にライブハウス「青い森」に出演していたので「青い森出身」という意味では嘘ではないのだが。

演技者としての泉谷の凄さは「視聴者の期待通りにキッチリ悪人を演じてしまう」って部分かもしれない。その裏の人の良さが最近はにじみ出てしまうけれど。
それでも去年秋にかの細木数子に向かって「適当なこと言いやがるとボッコボコにするからな」的に凄み、それに細木数子が怒ってしまい占いが出来ずにお蔵入りしたって事件もあったから、未だに泉谷しげるは泉谷しげるって感じなのかも知れない。(スタジオの女子高生に凄んだという噂もある)

0000001_2いかに演技者かというと、実は泉谷しげるは「酒が飲めない」のだ。その上であの酔っぱらいとしか思えない発言の数々。
やはり、役者だねえ。

ちなみに「春のからっ風」のB面は「おー脳!!」という曲で、こっちは放送禁止曲。なんせ♪脳に来た 脳に来たと歌っていますが、梅毒に関する歌。そりゃマズっすよ。(色々深い意味の詩なんですが)

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2006年4月16日 (日)

麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」

00000_18【わたしの彼は左きき/ひとりの私】
作詩:千家和也/作曲:筒美京平
1973年07月05日発売
ビクターレコード SV-1147・定価500円


現在、ローソンのCMで麻丘めぐみ篠原涼子の母親役として登場している。1955年生まれなので現在50歳、篠原涼子が32歳なので18歳の時の子供って事になる。ちょっと微妙な配役なのだ。
篠原涼子は1973年に生まれているのですが、その1973年に麻丘めぐみが歌っていたのが「わたしの彼は左きき」

この当時まだ「左きき」という存在は偏見に満ちた形で語られていて、実は「左ききの地位向上」という大きな目的があって作られた曲だと言われている。
確かに、自分が子供の頃は左利きを無理矢理、右利きに矯正したとかという話はよく聞かれた。もっとも、その後の研究では無理に矯正すると知能に影響が出るとか、極度の方向音痴になるなどと言われている。

その研究をした「左利きの第一人者」と言われるのが精神科医の箱崎総一氏なんですが、「わたしの彼は左きき」をリリースする直前に麻丘めぐみのマネージャーが箱崎氏の元を訪ねて、色々なレクチャーを受けていたという。
マネージャーは「曲名に左利きという言葉が入っているので反感を持つ人もいるかも知れない」と考えていたらしい。当時はそこまで左利きはマイノリティ的扱いを受けていたらしい。
そこで箱崎氏は左利きがそんな悪い物でもないとか利点などを色々語ったという。マネージャーは「この曲を出すことによって歌手の麻丘めぐみも色々左利きに関して質問をされると思うので、ここで教えて貰った事をしっかり叩き込ませて、万全の布陣で挑みます」と言い残し帰っていったらしい。

その後、この曲のヒットで「左利き格好いいジャン」みたいな流れも出た。
もっとも野球なんかではこの時点で左利きは王貞治が存在していて「左利きは有利だ」という道があったし、すでに解散していたけど「ビートルズ」のポール・マッカートニーが左利きでベースを弾いているのは格好いいとされていた。(そのために、かの「ずうとるび」の今村は左利きだったのでベースになった)
ちなみに、同じく左利きを歌ったヒット曲ピンクレディの「サウスポー」は5年後の1978年リリース。

ちなみに麻丘めぐみの「わたしの彼は左きき」の中で「♪私は右利きすれちがい」と歌っているけれど、右利きと左利きのカップルって並んでいるときはお互いの利き腕を繋ぐ事できるし、向かい合っている時もお互いの利き腕が同じ側にあるので、すれ違わないと思うんだけどなぁ
歌詞の中に「♪やさしく小指をつなぐのも」ってのは、お互い利き腕の小指を繋げるので問題は逆にないっすよね。

あと「♪横目で時計を見る時も」って歌詞があるけど、普通右利きは左手に時計するから、左利きは右手にする(んですよね?)から、当然歌詞の中で時計を見る時は右って事っすよね。(歌詞に腕時計とは書いてないので柱時計を見る時の事なんすかね?)
同じく「♪誰かに電話をする時も」ってのも普通は利き腕でメモを取るので受話器は利き腕じゃないほうっすよね。なんか「左手を使っている!」って歌詞ではないような気がする。

この歌詞の中には左ききという事で色々なシチュエーションが出てくるんですが「投げキッス」「こちらにおいでと呼ぶ時」「をぬぐう」「小指をつなぐ」「別れに片手を振る」「時計を見る」「背中にいたずらする」「コーヒー飲む」「手紙を書く」「電話をする」
この中で確実に左利きで左を使っていそうなシチュエーションは「手紙」ぐらいっすかね?
などと、32年ほど前の曲にいまさらツッコミを入れている私なのであります。

今まで「ブログ」って事でニュース的な事をメインにしちゃっていましたが、もー俺の好き勝手やっているブログなので好き勝手やるぜ!という事で、こんな【知泉的音楽夜話】みたいな文章も書いちゃうのだ。つーか、ブログ以前の雑記はこんな感じの無節操だったんですけどね。

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