2011年5月28日 (土)

AKB48はまちがっているのか?

去年に引き続き、AKB48がリーダーやらなにやらを決める為の「総選挙」というモノを実施する。


その選挙へ投票するのにはCDに封印されている投票用紙が必要なので、熱狂的なファンは何枚も何十枚もCDを購入して一押しのメンバー(通称:推しメン)へ大量投票するという事になっているらしい。
今回それに関して「CD5500枚×1600円=880万円」という強者が出て大騒ぎというのがネットニュースになっていた。もっとも、そこに貼られていた男の写真に書かれているアドレスなどをチェックしていくと、どうも中国のバイヤーっぽい。
そのバイヤーがふざけて「大島優子に5500票入れるために頑張ったのだ」と書いたのか、何かの意図があって撮った写真を第三者が勝手にそういう設定でネタにしたのかは不明。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1547.html

シングルCDが1枚1600円というのも「握手券」と「総選挙投票券」とDVDが入っているという事で、あとカップリング曲違いがあって、投票目当てじゃない人も複数枚買わないと全部の曲を聴けないとか、食玩やライダースナック並みの展開になっている。
このCDが売れないという御時世に2日間で145万枚初回出荷が捌けたとか、もう景気のよいお話ばっかりで。
もっとも個人的に言えば、井上ヨシマサの楽曲の中では別段良くも悪くもなく耳に残らないごく普通の曲って感じで、それに相変わらずの秋元康の詩が乗っているだけという感じ。井上ヨシマサはもっといい楽曲作れる人だろ。
そう言う意味で、この曲がミリオンを記録したというのは残念。

その売り方を「AKB商法」と言って批判する人も多いけれど、それはビジネスとしては「売れた方が勝ち」という価値観も存在すると思っているので否定はしない。
自分の音楽に関するベクトルの中にそういう売り方への考えは存在しないし、売れるのは良い曲じゃなくちゃダメ! なんて妄想は10代の頃に捨てているので、そういう形で音楽が売れるとかに腹を立てるような青臭い事は思わない。
だから「AKBみたいな売り方の曲がヒットチャートの上位に来る事で、日本の音楽がダメになる」みたいな、純粋な、でも方向性を見誤っている考え方をレビューとかに書いている人を冷静に見てしまう。

すでにAKB商法の流れは80年代に幾つもあって、たとえば少年隊とか男闘呼組とかがデビューした時に、A面は同じ曲だけどカップリングが違うのを3枚同時にリリースとかいくつも存在しているし。握手券というパターンもあったし、抽選でオリジナルグッズが当たるなんてのに踊らされた人もいると思う。その抽選グッズも月替わりという場合はコンプリートしたい人は必死だったと思う。
AKB48はシングルに44枚のポスターのどれかを付け、さらに44枚コンプリートすると特別イベントに参加出来るという、かなり無茶な事をやって問題になった事があるけれど、シングルに何パターンかある写真の1枚が同梱されていてコンプリートするために何枚も買うファンが出現なんてもは昔からアイドル系ではあった。

AKBのやり方はTHE 芸能界的な考え方では至極真っ当な方法論であって、それは「売る」という行為の中では間違っていないんじゃないかと思う。それに踊らされている人も踊らされているのを楽しんでいるんだから。自己責任でね。
ただ、ここまでデッカイ器になってしまったAKB48(他のグループも含めた)プロジェクトがどんな形で幕を閉じる方向に向かっていくのか、あるいは別の形になっていくのかは興味ある。
つんくがモーニング娘。を含めたプロジェクトを立ち上げてから14年も続けているのも「この先どうする気なの?」って、凄く興味はある。OGがドンドン増えていく現状も含めて。

てな風に、秋元康的には、こんな風に楽曲に興味無い人までがblogで分析ごっこをした段階で「やり」と思っているんだろうね。


でも、握手券も投票券も付いていないiTunesでも「everyday、カチューシャ」が1位になっているというのは、純粋にあの曲を購入している人も多いという事なんだよな。

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2009年5月 3日 (日)

RCサクセション『ステップ!』:忌野清志郎追悼

RCサクセション『ステップ!』
作詞.忌野清志郎/作曲.椎名和夫/編曲.椎名和夫
1979年07月21日/¥600
KITTY・POLYDOR/DKQ-1063


200905031恐れていた日がついに来てしまいました。
2006年に喉頭癌になったと発表し、それ以降は入退院を繰り返していた忌野清志郎が2009年5月2日、午前0時51分に癌性リンパ管症により58年の生涯を閉じた。
去年11月頃に、間寛平が地球一周マラソンに出かける直前、応援曲を書いたという事でテレビでその映像が流れていたけれど、その時になんかむくんだようで年齢より老けたような感じがしていた。おそらくそれが生前最後の映像で、最後の曲になるんじゃないかと思う。

以前、喉頭癌で入院した時にも書いたけれど、中学生の頃、土曜日の笑福亭鶴光師匠のオールナイトニッポンの3時過ぎ、フトンの中でぼーっとした頭で聞いている時に流れてきた悲しげなピアノのイントロの曲「スローバラード」で衝撃を受けた。
と言っても、曲紹介の処はハッキリ聞いていなかったのでアーティスト名も曲名も解らないまま、市営グランドの駐車場で夜明けを迎える二人の切ない恋心を切なげに歌った声だけが心の中に残っていった。田舎の中学生には許容範囲外だった世界だったけれど、なんか切ない切ない気持ちになった。
ただ、その時はそのままで曲名を調べる術もなく、ただ胸に刻まれただけだった。
それから3年後、その時の絞り出すような声に再会する事となった。

2009050361979年の夏だったと思うけれど、月曜夜8時台、NTV「紅白歌のベストテン」に突然、まだ日本ではまったく認知されていなかったビリビリに破れたシャツやズボンで、髪の毛をツンツン立てた派手なメイクをしたバンドが登場したのだ。しかも他の歌手が司会者の堺正章とのトークをした後で歌い始めるのが常だった番組で、何の前触れもなく紹介されて演奏が始まった。
バンド名は「RCサクセション」曲名は「ステップ」
ブラスが中心のアレンジでパンキッシュな感じは薄かったが「♪これが流行りのステップ!」と歌う忌野清志郎はそれまで日本のテレビには存在しなかった異形の生物だった。ステージを右に左に歩きながら歌い、挑発的なポーズを取り絞り出すように「♪真夜中のDance, Dance, Dance, Dance♪」と歌うボーカルスタイルは新しい何かを予感させるモノだった。
ちなみにシングル「ステップ!」の演奏はスタジオミュージシャンによる物。作曲は元はちみつぱいのギター椎名和夫となっているが、後にライブ盤では作曲忌野清志郎となっている(誤記なのかは不明)

200905035RCサクセションは1970年に「宝くじは買わない」でデビューし、1972年の「ぼくの好きな先生」がヒットしている。
実はこの曲は中学時代に知っていたのだけど、その後に聞いた「スローバラード」とは全然結びついていなかったので、同じバンドの曲とは思っていなかった。
どちらかというと「さなえちゃん」を歌っていた「古井戸」とかあの辺のグループの曲だと思っていた(ってそれも微妙な話なんだけど)。
バンド化したRCサクセションはLiveアルバム『RHAPSODY』そしてその前に発売していたシングル「雨あがりの夜空に」がジワジワと売れ初め、10月にリリースしたシングル「トランジスタ・ラジオ」のヒット、12月にアルバム『PLEASE』と、名実共にライブバンドとして一気に上り詰めていくのだ。

200905034
1979年〜1980年頃はとにかく大学祭とかに出演したが、それまでの数年、所属していたホリプロとの色々があって仕事を干されていた過去を吹っ切るためにどんな環境でもライブをしていた。
この時にバックアップをしたのが旧友・泉谷しげるでステージ衣装などにもアイディアを出したらしい。
泉谷は仕事を干されて忌野清志郎がグダグダしている時にハッパを掛ける意味でキツイ言葉も言ったらしく、それに奮起した忌野清志郎が書いたのが「あきれて物もいえない」という曲。
当初は泉谷の言葉に本気で怒った忌野清志郎は「♪ビッコの山師が俺が死んだって言ったってさ♪」という歌っていたが、後に誤解が解け「♪どっかの山師が♪」と歌詞を直し『PLEASE』に収録した。

その1〜2年でRCは時代の寵児となる。
1983年の正月、NHKが若者向け番組「YOU」の中でRCのライブを放送したのだが、「気持ちE」を歌っている時、突然客の歓声が盛り上がり歌詞が聞き取れないほどになった事がある。実はその聞き取れなくなった歌詞は「女と寝ている時にも」という物で、やっぱりNHK的にはそこは放送出来ない、でもピーッ音でかき消しては興醒めという事でそんな措置に出たのだと思うけど、そんな事をしてもRCのライブを放送したいって感じに人気が高まっていたのだ。

200905032忌野清志郎を生放送に出演させるのは危険で、1981年に「夜のヒットスタジオ」に出演した時も事件を起こした。歌ったのは「トランジスタラジオ」。バックではセーラー服を着たダンサーが踊っていたのだが、いきなり両サイドで踊っているダンサーの頭を両脇にハサミ暴れる忌野清志郎。その後、カメラに向かってガムを吐き出すという暴挙に出た。その事で抗議電話500本超えで回線パンク。

1989年、同じくフジテレビが放送した「夜ヒットR&N」に覆面バンド『TIMERS』として出演した時には予定に無かった「FM東京」という曲を歌い始めた。その少し前にRCとしてリリースしようとした「カバーズ」が原発がらみで放送禁止にした事から「タイマーズのテーマ」に続いて(この曲も♪TIMERが大好きTIMERを持っている♪という危険な物、よく放送出来たなぁ)いきなり「♪FM東京腐ったラジオ、FM東京最低のラジオ、なんでもかんでも放送禁止さ♪」という歌詞を歌い始めた。

これに関して、実はフジテレビのスタッフもグルで最初からこれを歌う予定だったという噂もある。かなりシッカリと「FM東京」を歌いきって、さらに続けて「デイドリームビリーバー」「イモ」まで全10分歌っている。普通だったら放送事故扱いでCM突入とか処置があったハズなのに、しっかりカメラ割りまで行われている。
そして本来なら永年出入り禁止になりそうなのに、この番組の数日後に忌野清志郎はフジテレビの番組に出演している。とりあえず出入り禁止になったのは覆面バンド「TIMERS」のボーカル・ジェリー氏で、忌野清志郎とは別の人物という扱いだったらしい。

200905033生放送パターンでは、やはりTIMERSが1992年のBS-NHK年末カウントダウンイベントLIVEで、何故かいきなり「明星即席ラーメン」のCM曲を歌い始めた「パパと一緒に食べたいな♪」と。それを歌い終わった処で後でギターを弾いていたMOJO CLUB・三宅伸治(TIMERSでの芸名は忘れた)が「それNHKじゃマズイっすよ」と言いだし、ジェリーが「え、そうなの?どこがマズイんだろう」と首をかしげながらもう一度「♪明星即席ラ〜メン」と歌いだした処でバチッと放送が中断し、別会場で行われていたライブ映像に切り替わった。この時は政治的ではなかったのでお笑いネタとして終わっている。

で、かつてコテンパンに批判されたFM東京(TOKYO FMに改称していたけど)が2003年に放送したアースディコンサートに、和解したのか、それともやはりあれはTIMERSのジェリーという扱いだったのか不明ですが、ソロ歌手として忌野清志郎が出演していた。
生中継の番組だったのですが、そこでもいきなり予定にない曲を歌い始めた。
TIMERSの時に歌っていた「憧れの北朝鮮」という曲で、TIMERS時代の歌詞はちょっと笑える物だったのですが、その時の歌詞はとにかく凄い物だった。
「♪キム・ジョンイル、キム・イルソン♪キムと呼べばみんな仲良くなれるよ♪海辺にいたらタダで拉致して連れていってくれるよ♪」
流石に放送は途中でとぎれて番組パーソナリティが慌ててその場を取り繕って時間を繋いだらしいが、会場では忌野清志郎はこの曲を歌い終わった時に「え〜イラク戦争で最近は影が薄くなってしまった憧れの北朝鮮を歌ってみました」と語り、続けてロックアレンジの「君が代」を歌って締めたらしい。

200905037とまあ、過激な言動や行動を列挙すればキリがないけど、実際のところ忌野清志郎という人物が書く詩の世界はとてつもなく繊細で美しい。
昨日、死去したというニュースを知ってから手持ちの音源を延々と聞き続けているんですが、過激な部分よりも泣けてしまいそうなそれでも無理して大地を踏みしめている切なさが染みる。
1990年前後のバンドブームの時、イカ天とか見ていても忌野清志郎のエピゴーネンが大量生産されているのを感じた(あるいは甲本ヒロト)。が、そのスタイルやシャウトをいくらマネしても宴会芸にしかなっていないように見えてしまったのは、その裏にある切なさが無かったからかも知れない。
1983年に出版された忌野清志郎詩集『エリーゼのために』、1987年『十年ゴム消し』を改めて読み返すと、その言葉のチョイスが美しすぎて、しかも余韻を残すような終わり方の物が多い。実に文学的なのだ。
なんか、読んでいて泣きそうになってしまった。

200905038忌野清志郎に関しては余りにも書きたいことが多くて混乱しているけれど、本当に感謝しています。サンキューフォーユーなのだ。
いつか、ちゃんとした文章を書きたいと思っています。

※2006年7月14日「忌野清志郎が喉頭癌

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2009年5月 1日 (金)

岡林信康『チューリップのアップリケ』

岡林信康『チューリップのアップリケ』
作詞.岡林信康・大谷あや子/作曲.岡林信康/編曲.岡林信康
1970年/¥500
ビクター/SF-13


2009050101気持ちいい天気が続き、野山には花が咲き乱れ「あぁ春だぁ、生きてきてよかった」と思うワケです。そう言うことで春らしくチューリップをテーマにした曲を。
という事で聞き始めると「みんな貧乏が悪いんや、そやでお母ちゃん家を出て行かはった♪」と気分がどんよりとしてしまうワケです。この世界的不況の波をどう乗り越えようかと頭を抱えてしまうのだ。
フォークの神様と呼ばれた岡林信康の名曲ではあるのですが、あまりにも痛い曲です。
デビュー曲が日雇い労働者の苦痛を歌った「山谷ブルース」だった事や、高度経済成長の中、田舎から集団就職で出てきて歯車のように働かされる労働者などの問題などなど、社会の暗部を鋭く描いた曲を歌い、岡林はワーキングクラスヒーローとして祭り上げられていく。

その世間が求める「岡林信康」というイメージに最初は乗り、より過激なプロテストソングを歌うようになったが、次第にその要求に限界を感じ岡林信康は姿を隠してしまうのだ。
その後、1970年にはっぴいえんど(細野晴臣・大滝詠一・鈴木茂・松本隆)をバックに従えてロック路線を歩み出すこととなる。
って感じなんだけど、なんかボブ・ディランっすよね。フォークの神様→ロックへ転向の経緯とか。
で、ディランのバックバンド「THE BAND」に相当するのが「はっぴいえんど」なんだけど、メンバーは最初の内はあくまでも仕事の一貫として与えられたノルマを果たしたって感じだったみたいです。

2009050102でも1970年に神田共立講堂で開催されたライブでの「私たちの望むものは」なんかを聞くと、先日逮捕されちゃった鈴木茂なんて「この時もキメてんじゃないの?」って疑ってしまうほどギター炸裂しとります。
岡林の2ndアルバム『見る前に跳べ』のバックもはっぴいえんどなのですが、岡林は基本的に作家&歌手で演奏面に関してはさほど思い入れがない事から、はっぴいえんど主導でレコーディングが行われ、後にそのレコーディングの思い出として岡林は「何か言ったら殴られるかと思った」とビビっていたそうです。

この『チューリップのアップリケ』は現在はどういう扱いなのは不明ですが、一時期は放送できない曲として指定されていたそうです。
歌詞を読むと、小学生の女の子の視線から貧乏な家庭が描かれており、実直な靴職人の父と家を出て行ってしまった母。仲違いをしていたおじいちゃんはもう死んだので戻ってきて、チューリップのアップリケのついたスカートを買って来て欲しいと願う曲。
別段、放送できない理由はどこにも見あたらないけれど、一時期は何にでもフタをしようとする風潮があったので、その一貫なのでしょう。

でも現在は、Youtubeなどにもアップされているので(法的には凄く問題あるけれど)それらも聞こうと思えば聞くことが出来る。ある意味便利でいい時代なのだ。その内容に関する判断は各自に出来るという事。
B面の「私たちの望むものは」も名曲。
自分はプロテストソングのブームがすっかり終わった1975年前後、中学生で、この曲を粋がってギターをジャカジャカ弾きながら歌っていたアナクロ少年だったのだ。同級生のフォーク野郎がN.S.Pとかをカバーして、同級生女子をうっとりさせている中を。
そりゃ女子に人気出ないってのも解るよ。早く気づけ中学生時代の俺。

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2008年12月 1日 (月)

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」

アグネス・チャン「冬の日の帰り道」
作詞.作曲.小泉まさみ/編曲.竜崎孝路
1975年12月/¥500
ワーナーパイオニア/L-1280W


20081201現在のアイドルが良くも悪くも「隣のお姉ちゃん」的な親しみやすさを武器、というか作られた部分が皆無の状態で親しまれているのに対して、70年代の「アイドル」は現実社会に存在しない架空の生物的な意味合いがあったのかも知れない。
とりあえず「隣の真理ちゃん」や「隣の美代ちゃん」はいたが、いわゆる「アイドルとはトイレにも行かない存在」と冗談めかして言われていた時代もある。

それ故に「香港からやってきた」アグネス・チャン、「沖縄からやってきた」南沙織、というのはある種ストレンジャー的な存在として有効なセールスポイントだったのかも知れない。
特にアグネスはその特徴のあるしゃべり方があったが、ウワサでは普段の打合せではごく普通に流ちょうな日本語をしゃべっていたとも言われているけど。
このストレンジャーな存在が国際化の進んだ70年代後半は段々通用しなくなり、ベトナム出身の「ルーフィンチャウ」や、フィリピン出身の兄弟グループ「クリッパー」などもデビュー時に少し話題になる程度で、それが80年代にパロディ的に究極のストレンジャーとして「宇宙からやって来た3人組アイドル・スターボー」みたいな所までエスカレートしてしまうのだ。

で、アグネスですが彼女は来日した時は本当に日本語を全然理解できておらず、歌詞を全部ローマ字にしてもらい、言葉の意味が理解できないまま、純粋に「音」として歌っていた。
それ故に単語として歌詞を流して歌うことも無かったので、あの特徴的な「オカノウエヒナゲシノハナデ♪」という発音というか、ニュアンスの歌い方になっている。
つまり、日本古来の演歌的な情緒を込めたり感情を込めたりする事もなく、余計な物を挟み込む余地のない純粋音楽が誕生したのだ。
とりあえず歌われている内容については教えられてはいたと思うが。

彼女はその後、上智大学国際学部からカナダのトロント大学へ留学するほどだったので、おそらく早い段階で日本語はマスターしたと思うが、その特殊な発声法の歌は捨てることなく、歌い続けている。
この「冬の日の帰り道」はデビューから4年目、12曲目なので「ニホンゴ、ヨクワカリマセン」の時期ではないが、ファンの期待通りに「ユウヤケ〜カエリミチ♪」とカタコト日本語的発音で歌っている。
実に芸能人としてイメージを大切にしている感じなのだ。

作詞作曲の小泉まさみはポプコン出身(の前から活動していたけど)で「小泉まさみ&こんがりトースト」として人気があった人。
で、この曲のB面には小泉まさみ作曲の「ハロー・グッドバイ」が収録されている。
そう、あの柏原芳恵が歌ってヒットした名曲です。
このアグネスVer.がオリジナルで、その後「ギンザNOW!」に出ていた讃岐裕子がカバーして、それをさらに80年代に柏原芳恵がカバーしたのだ。
ちなみに小泉まさみはアグネスでカタカナで歌う曲という前提の作曲を学んだからなのか、その後、オースマン・サンコンの演歌『アフリカの女』の作曲もしている。

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2008年9月26日 (金)

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」

一世風靡SEPIA「汚れつちまった悲しみに…」
作詞.SEPIA/作曲.編曲.芳野蘭丸
1988年/¥700
MOON/MOON-758


2008092601ここの所、秋の曲ではなく別のテーマで書いてきました。
松田聖子の「風立ちぬ」から始まっているのですが、小説のタイトルを引用した曲というシリーズ。
まず「風立ちぬ」は堀辰雄の小説。近年、韓国ドラマの影響なのか多くなった「難病物」を代表する作品で久我美子、山口百恵で映画化もされている。
それ以降は「最後の一葉」「赤と黒」「悲しみよこんにちは」と続いている。
この手のタイトルを引用してくるというスタイルは歌謡曲のタイトルには多く見受けられるのですが、これは元のタイトルにインパクトがあったという事と、耳慣れているという部分があると思うワケですよ。
でも、その内容は「そのタイトルになるべくしてなった」という状態であって欲しい。
でも時々、それは無いだろと感じてしまう物もある。

2008092603かの大ヒットした『世界の中心で愛を叫ぶ』なんかも、ドラマ化される前のヒットし始めた頃のアマゾン書評でも「タイトルの斬新さに思わず手に取りました」とか「こんな素敵なタイトルを思いつくなんて凄い」とか書かれていた。
実際にはハーラン・エリスンのSF『世界の中心で愛をさけんだけもの』がまずあって、それをアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が最終話タイトルで『世界の中心でアイを叫んだけもの』として引用した物。アニメや漫画などの章タイトルはこの手のパロディやオマージュが多いのですが、それを堂々と小説のタイトルにしてしまったのだ(作者ではなく担当編集者のアイディアとの事)。さすがにこれはイカンよなとは思った。

他にもタイトルを巡って揉めた物では、野島伸司が脚本を書いたドラマ「人間失格」は太宰治の遺族からクレームがついて初回放送ギリギリに「人間・失格」に変え、第2話からはサブタイトル「たとえばぼくが死んだら」も付けられた。(このタイトルに関する報道が初回放送直前に新聞に書かれたため、逆に宣伝になったので「やらせ?」と疑問視されているけど)

2008092602あと池田聡が1994年にリリースしたシングル『恋人と別れる50の方法』は、まったく同じタイトルの曲がポール・サイモンにあるために一悶着あった。小説から曲名とかはギリギリありだと思うけど、曲名から曲名はダメだろうなぁ。それが単純な単語「卒業」とか、単語と単語の組み合わせレベルだったらありだと思うけど。(太田裕美には「恋人たちの100の偽り」という曲もありますが)

そういう意味でこの一世風靡セピアの「汚れちまった悲しみに…」はどうなんですかね?
アニメ『魁!男塾』のオープニング曲として使われていたそうなんですが、中原中也が中学時代の愛読書だった自分としては「許せん!」という感じではあります。
なんせ歌詞を読んでみてもタイトルが「汚れちまった悲しみに…」である必然性が感じられない。
「汚れちまった悲しみに」というフレーズの後にもう一行、というのが何度も続くのですが「汚れちまった悲しみに、俺の青春もナンボのもんじゃい」「〜、時代がこうで悪かったのう」「〜、いつか本気で笑おうや」と、別に汚れてしまった悲しみをどうこうする詩に続かないのだ。
単純に「汚れちまった悲しみに」というフレーズが意味ではなく言葉の流れとして乗っているだけにしか思えない。もしかしたら意味が聞き取れない英語のフレーズでも差し替え可能かもしれないのだ。

このシングルのライナーノーツに一世風靡セピアの「何故俺達はパフォーマンスという言葉を使うのか?」という文章が掲載されていて、その中でこんな事を書いている。
俺達は或る時人から
かっぱらってきても俺達の武器として
時代に切り込んで生きたいのだ……。

この一世風靡セピアという集団は、やたらと男気とか集団とか結束力を前面に出していて苦手な部類ですが(非体育会系のヘナチョコ野郎です)、「俺達は闘うために手段を選ばないぜ、前人が築いてきた物も全部俺達の中で消化して武器にしていくぜ」と言いたいワケですか。
でも、中原中也をこんな無惨な形で利用するのは辞めて……、と思ってしまうのだ。
ちなみにB面は「幾時代ありまして」という曲で「幾時代ありまして/殴りあいや激論の末に」とか言う内容。これも中也の『サーカス』という詩にある「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」が元ネタ。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん、という田村信も真っ青なリズム感のあるオノマトペで有名な詩。

あくまでも、この辺の意識は個人で差があるし「麻丘めぐみとか斉藤由貴はOKで、一世風靡セピアがダメって、どう違うの?」と問われると「いや…、なんとなく」としか答えられない。難しいなぁ。

追記(さらに修正:指摘ありがとうございます)
この曲のタイトルは正しくは『汚れつちまった悲しみに』なんですね? 歌を聴くと「汚れちまった悲しみに」と歌っているんですが。
そしてオリジナルの中也の詩は『汚れつちまつた悲しみに』です。

中原中也「汚れつちまつた悲しみに」

汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに/今日も風さえ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは/たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは/小雪のかかってちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは/なにのぞむなくねがうなく
汚れつちまつた悲しみは/懈怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに/いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに/なすところもなく日は暮れる……


中原中也「サーカス」

幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして/今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて/汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が/安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯/咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

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2008年9月25日 (木)

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」

麻丘めぐみ「悲しみよこんにちは」
作詞.千家和也/作曲.筒美京平/編曲.高田弘
1972年10月/¥500
ビクター/GAM-5


2008092501『悲しみよこんにちは』と言うタイトルはよく出来たタイトルで、この短い字数の中に色々なドラマを喚起させます。淡々と悲しみを受け入れる様子が、泣き叫ぶような悲しみよりその痛みの深さを感じさせるのかも知れません。
それ故に、何度もこのタイトルは歌謡曲に流用されている。
1972年に麻丘めぐみが、1986年に斉藤由貴が、1989年には高岡早紀が同名タイトルの曲を歌っている。
ついでに1982年に川田あつ子が「秘密のオルゴール」というシングルのB面で「哀しみよ今日は」というタイトルの曲を歌っている。川田あつ子と斉藤由貴の両方の詩を書いているのは松本隆。
って事ですが、元々「悲しみよこんにちは」と言ったらフランソワーズ・サガンの小説のタイトルなのだ。
自分はサガンの小説は読んでいないけれど、映画「悲しみよこんにちは」を見ている。
で、その映画の中でシャンソン歌手ジュリエット・グレコが主題歌「悲しみよこんにちは:Bonjour Tristesse」を歌っている。つまり「悲しみよこんにちは」というタイトル曲の元祖はこれなのだ。

斉藤由貴Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092502映画「悲しみよこんにちは(1958)」の主人公セシルを演じたジーン・セバーグはショートカットのカワイ子チャンで当時20歳。1979年に40歳でちょっと謎のある亡くなり方をしている。
自分が初めてこの映画を見た時すでにこの世に居なかったのですが、セシルの自由奔放で可憐で強くて弱い姿にドキドキしました。
そのセバーグが演じたセシルから、ベリーショートの髪型を「セシルカット」と呼ぶようになりました。
その後日本では九重祐美子がセシルカットで「コメットさん」を演じ人気者になっていました。(時代的には9年ほど経過していますが、コメットさんはセシルカットですよね?)でもって、そのコメットさんの髪型を真似していたのかは不明ですが自分の通っていた幼稚園の保母さんがまさにそんな髪型で、自分の中で「コメットさん=保母さん」が繋がっていて、その後のショートカット好きに自分の中で昇華していくのだ(って、そんな自分語りは聞きたくないって?)

高岡早紀Ver.「悲しみよこんにちは」
2008092504_2で、麻丘めぐみの「悲しみよこんにちは」ですが、デビュー曲「芽ばえ」がヒットしたのを受け、この2ndシングルは路線として同じ曲調を踏襲している。
イントロは「芽ばえ」と同じく軽やかなストリングスで始まっているが、この編曲をした高田弘はストリングスを使ったアレンジを上手く使う人で、桜田淳子の「天使も夢みる」「わたしの青い鳥」ちあきなおみ「喝采」などが代表曲。
麻丘めぐみはデビュー曲の「芽ばえ」が大ヒットして、この曲が発売された年末もまだそのヒットの余韻が続き、そのままレコード大賞最優秀新人賞を「芽ばえ」で受賞している。そのためなのか、この「悲しみよこんにちは」は余計に印象が薄くなっている。
そして、年明け早々の1973年1月に「女の子なんだもん」という、前2曲とはタイプの違う曲をリリースしている。しいて言えば「南沙織タイプの曲で、しかも声量が無くても歌える曲」という感じなのだ。
麻丘めぐみと南沙織、共に作曲を担当しているのは筒美京平ですが、その辺の計算はあったと思うのは、「女の子なんだもん」の編曲は高田弘に代わり筒美京平が担当している。
しかも「女の子なんだもん♪」という女子力を前面に出した振り付きの曲で、「芽ばえ」「悲しみよこんにちは」で歌われていた受け身の女の子をさらにパワーアップした「積極的に受け身を相手に押しつける女の子」としてイメージを増幅させている。それが「わたしの彼は左きき」などのヒットへと続いていくことになる。

川田あつ子:B面が「哀しみよ今日は」
2008092503そう言う意味でこの「悲しみよこんにちは」は地味で、あまり記憶に残っていない曲かもしれない。
そして疑問なのが、歌詞を読んでいても「悲しみよこんにちは」というタイトルにあまり繋がらない内容だという事。逆に歌詞の最初が「ちいさな幸せつかんだら、悲しい想い出捨てましょう」と幸せに対して前向きなのだ。
いわゆるタイトル先行の企画として考えられたのかなぁ。
ちなみに、この時代の女性アイドルはストレートロングが多い。前述の南沙織、アグネス・チャン、小林麻美、奈良富士子、そして麻丘めぐみ。それと逆らうように、同時期始まったスター誕生出身歌手はショートが多いのも特徴的。森昌子、桜田淳子、山口百恵など。
特に麻丘めぐみはストレートロングにアクセントとして、サイド部分を頬辺りでカットして少し前に流している。これを当時「お姫様カット」と呼んでいたのですが、小学校の時、同級生で髪型を真似た子がいたが男子の間では評判が悪かった。お姫様カットが評判悪かったのではなく「麻丘めぐみとは全然違う」という事で。

自分は南沙織派で「芯があってちょっと気が強そう」というタイプに惹かれていたワケですが(だから自分の趣味の話はいいって)、「か弱そうで守ってあげたい」というタイプに惹かれる男子には麻丘めぐみはかなり人気があったワケです。

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2008年9月24日 (水)

岩崎良美「赤と黒」

岩崎良美「赤と黒」
作詞.なかにし礼/作曲.芳野藤丸/編曲.大谷和夫
1980年2月/¥600
キャニオン/C-168


2008092401岩崎良美のデビュー曲。
当然デビュー時から「岩崎宏美の妹」という扱いで「歌が上手いのは当たり前でしょ」みたいな感じだった。
岩崎良美のデビューから2ヶ月後の4月に松田聖子がデビューし、6月に河合奈保子、9月に三原順子がデビューしている。いわゆるアイドル的に扱われるのを嫌って、アイドル仕事を積極的にこなさなかったと言われている。
1980年という軽佻浮薄を絵に描いたような時代の始まりにはちょっと重かったせいなのか、そういう意味で他の同期デビュー組と距離が出来てしまったような気がする。

岩崎良美の曲というと世間的には1985年から始まるアニメ「タッチ」関連が有名ですが、それ以前の作品もレベルが高い名曲揃いなのだ。当時も別段ファンというワケでもなかったけれど「なぜ売れないんだ?」と思っていた。
もしかしたら、この時代を象徴する物「カラオケ」が多大に影響しているんじゃないか?とも思ったりする。それまで音楽というのは、突出した才能を持った歌手が歌うという大前提があったハズなのに、この頃からいわゆる「Next Door's Girl」となりのお姉ちゃん的な子がポンと出てきて、日常の延長として歌うという状態が多くなったような気がする。
それ故に「カラオケで歌いにくい曲は流行らない」という流れがこの当時出来てきたのかもしれない。とくに若い世代が聞く曲では。
そういう意味では岩崎良美の歌っていた曲はとにかく難しい。デビュー曲からこんな出来上がった曲かよ、てな感じでやんす。

しかし「赤と黒」という詩の内容も世間に大きくアピールしなかったのではないかと思っている。
なんせサビが「赤と黒みたいな、恋をしています、赤と黒みたいな、しのび逢いです♪」って意味解らないっす。ハッキリ言って岩崎良美辺りを聞く人の何%がスタンダールの『赤と黒』を読んでいるってんだ?
もの凄くテーマの取り方が考えすぎって気もする。
作詞のなかにし礼の趣味だと思うんだけど、2曲目「涼風」を挟んで3曲目は「あなた色のマノン」で、歌詞の中で「私はマノン、マノン・レスコー♪」とか出てくるんですが、プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』を理解している人が岩崎良美を聞いてる人の何%いると思っているんだ!
自分も恥ずかしながら『赤と黒』も『マノン・レスコー』も、基礎知識としてのあらすじぐらいしか把握してないっす。読んだこと無いッス。オペラ見たこと無いッス。

だから偉そうな事、言えないッス。

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2008年9月23日 (火)

太田裕美「最後の一葉」

太田裕美「最後の一葉」
作詞.松本隆/作曲.筒美京平/編曲.萩田光雄
1976年/¥600
CBSソニー/06SH56


2008092301太田裕美はデビュー時はピアノ弾き語りでどちらかというとニューミュージック系なイメージだったが、いまいちセールスに結びつかず、松本隆・筒美京平も煮詰まった事から、マイクを持って歌うポップスとして「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」をリリースし大ヒットとなっている。
そしてこの「最後の一葉」で、デビュー時のリベンジとして弾き語り路線の曲をリリースしてオリコン5位を獲得している。
前作「赤いハイヒール」では都会で振り回され踊らされ続けている女性が「一度履いたらもう止まらない、誰か助けて赤いハイヒール♪」と歌っている。これはアンデルセンの書いた童話「赤い靴」がモチーフとなっている。(実際の童話はとにかく悲惨な話ですが)
その文学をモチーフにした続編として登場したのが「最後の一葉(ひとは)」。

2008092302もちろん、O・ヘンリーの同名短編小説「最後の一葉」がモチーフになっているわけで、シングル盤にもちゃんと『O・ヘンリー「最後の一葉」より』と出典が書かれている。
出典はちゃんと書きましょうという事ですね、って松本隆は「木綿のハンカチーフ」の時は出典を書かなかったのですが(参照「木綿のハンカチーフ」)
聞くと解るんだけど、歌詞は本当に物語をそのまま歌っているので、最後に「あなたが描いた絵だったんです」と小説のオチまで歌っている。
と言っても、歌の歌詞は男女の恋愛に書き換えられているし、壁に絵を描いたあなたがどうなったかという小説の方のラストは描かれていない。
しかし、あの時代こんな暗い内容の歌詞がシングル盤としてありだったんだなぁというのが驚き。
曲中で主人公が自分の事を「命の糸が切れそうなんです♪」などといいつつ、延々と「別れたほうがあなたにとって倖せでしょうか♪」と綴っている。なんか救いがないのだ。

名曲だとは思うんですが、なんかこの後ろ向き感が当時は絶えきれなかった。
もし歌詞の方が原作どおりのラストを歌っていたら、もうこれは悲惨すぎます。

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2008年9月10日 (水)

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」

石川秀美「Hey!ミスター・ポリスマン」
作詞.松宮恭子/作曲.大谷和夫/編曲.大谷和夫
1983年/¥700
RVC/RHS-93


2008091001ジャケ違い(第二弾)
それ以前の「Kとブルンネン:あの場所から」「少年隊:仮面舞踏会」に関しては、ジャケ違いではなくレコード番号が違うので「別物」という扱いです。
で、このレコードの取扱が難しい。
本物ポリスマンが出ているジャケットと、黄色いジャケットの2種類あるワケですが、何故なのかはよく解らない。
中古市場では黄色いジャケットを多く見かけるし、Google画像検索では黄色いジャケットが多いんですが、ポリスマンのも別段特別という感じではない(ヤフオクではこれに1500円という値段設定をしている人もいるんですが)。
※この件についてみきサンより貴重な情報を頂きました。その件については文末に追加しております。
しかし、ポリスマンが出ている写真。石川秀美が遠慮無しにポリスバッヂを指さして…、というか思いっきり指で触っていますが、いかがなもの何でしょうか。

2008091002個人的に、石川秀美の楽曲って良くも悪くも印象に残らないというか、余りにも普通のポップスという感じで、地味でもないけどはじけてもいない、歌も上手くもないけどヘタでもない、容姿は個人的見解なのですが普通すぎて、ある意味「優等生」的な印象しか残っていない。
この曲も、なんか全体的に「どっかで聞いた感」が最初から最後まで漂っていて、凄い普遍的な感じがしてしまうので、今聞いても音もメロディも詩も古くはないけど新しくもない。
なんかどう評価したらいんだと頭を抱えてしまう部分なのだ。
でも、どの時代にも「邪魔にならない音楽」というのは存在しているので、そういう感じなのかも知れない。
歌手活動8年の間にシングル30枚、その内13枚がベスト10入りしているので、それなりに売れていたんだけど、その中で一番売れたシングルが後々に大問題を引き起こす『もっと接近しましょ』という曲。この曲はいつかちゃんとした形で取り上げたいシングルなんですが、石川秀美の楽曲の中でも異質な曲。

ちなみにB面の「さざ波」はアイドル曲に時々ある、エロい歌詞でいたいけな青少年が妄想突入するための曲。
いきなり歌詞の出だしが「♪私初めてなんです、優しくほどいて胸のリボン」という、いわゆるダブルミーニングという比喩で意味を持たせるなんて物ではなく、そのものズバリの意味しかないだろという歌詞。
そこからはズバリ書けないので現状を「舟」に例えるという古典的な方法で「♪波が寄せるたびにとまどう」とか行為そのものを連想させるような歌詞となっている。
2番はいきなり目覚めた朝の風景を歌っていて「休憩ではなくお泊まりだったんだ」と思わせ「♪女として迎えて…」などと、昨日までとは違うのよ的な歌詞になっている。
もーいたいけな青少年はたまらんでしょうな。
でも、優等生的なイメージと、メロディが実に普通のポップスなので、なんかエロさは感じない。(って熱く語ってしまいましたが)

石川秀美本人は90年に元シブがき隊の薬丸裕英と結婚して、(CMに夫婦で出たりはあったが)芸能界を引退している。この二人は、かなり前からウワサはあったので、その辺も優等生的な恋愛が続いていたのかも知れない。
出来ちゃった結婚だったけれど、それは事務所サイドが交際に反対していた為の作戦だったとも言われている。その長男「SHO」くんも映画「炬燵猫」の主演として芸能界デビューとなった。って2年ぐらい前にそのニュースを聞いて、それ以降その映画の話題聞いた事ないんですが、もう公開されたんですよね?
なにはともあれ、現在は堀ちえみに対抗するような5人の母親として頑張っているそうで、旦那もシブがき隊の頃とはなんか全然違う方向に行っているような気もするけど、3人の中で一番売れているみたいなので、家内安全って事でめでたしめでたしなのだ。

と、文章をアップした直後、コメント欄でみきサンより情報をいただきました。
「ミスター・ポリスマン」のジャケットについては、石川秀美が「歌のトップテン」に出た時に、この歌が予想外に売れたのでレコード会社からご褒美として新しくジャケット写真を撮り直してもらった(ポリスマンが写ってるほうが取り直したほうです)、と本人が司会のマチャアキに言ってました。
当時リアルタイムで見てたのですが石川秀美のファンでもないのになぜかいまだにその時のことを憶えてました。

なるほど、つまりそこそこヒットした後で、ポリスマンが写っているジャケットが新たに作られたワケですか。
それ故に、それを購入した人は、ヒットに後乗りした人か、コアな「ジャケ違いも買う」ファンという感じだったワケで、多くは出回っていないという感じなんでしょうね。
お陰で、この翌日分の「中森明菜:1/2の神話」のジャケ違いにも関係性が出てきました。
貴重な情報ありがとうございました。

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2008年9月 4日 (木)

オフコース「眠れぬ夜」

オフコース「眠れぬ夜」
作詞.作曲.小田和正/編曲.オフコース
1975年12月20日/¥600
東芝EMI/ETP-10301


2008090412人組だった初期オフコースの曲の中ではミディアムテンポで軽快な曲。
もともと、それまでの曲のようにスローなバラード調で謳っていた物をディレクター判断で現在聞かれる物へとアレンジし直したという。これに付いては小田和正は不満タラタラだったらしいが、結果としてオフコース初のヒット曲となった。
自分はこの曲を中学の頃にラジオで聞いて「よい曲だなぁ」と思ってカセットに録音した物をずっと聞いていた。
その当時はジャケット写真にあるような二人組だったので、ずっとそう思っていたのですが、気が付いた時にはバンド形式になっていたのでビックリした。
確かに、この曲ですら「フォークデュオ」の曲ではないので、バンド形式になるのは必然だったのかもしれないけど。

今、改めてこのレコードを聴くと「キーボードの音色、それでいいの?」と不安になってしまうほどフニャフニャな音だし(キーボードにプリセットで入っていそうな音色)、ギターの音やリバーブも今の感覚で言ったら「ミキシングしっかりしろ!」って印象なんだけど、当時は格好良かった(と思っていたような気がする)。

アルバム『ワインの匂い』
200809042歌詞の方は、80年前後にタモリが軟弱の代名詞として掲げていたような世界が展開されている。
出だしは「別れた女性が懺悔してこれまでの事は忘れて」と言い寄ってきても「♪僕は君のところへ、二度とは帰らない」と否定する所から始まっている。
おぉ軟弱代表のワリには(勝手に代表にしてますが)言う時はキッパリと言うねぇ、と聞いていると
「♪愛のない毎日は自由な毎日」
などと、「俺は彼女と別れた後、自由を謳歌してるぜ」とちょいと強がり入っているか?という歌詞が出てくる。
ところが、その次にいきなり
「♪それでも今君があの扉を開けて、入ってきたら僕にはわからない」
と今までの強がりがいきなり感情をぐらついかせているのだ。
なんだったんだここまでの詩は!と、聞いていると、初志貫徹出来ない詩の内容は、眠れない夜に「♪愛がよみがえる」と締めているのだ。
えっっっと……、つまり「別れた女性がよりを戻しに来たら、僕は許してしまうかもね」という事を悶々と思って「眠れぬ夜」を過ごしているって事なのかぁぁぁ!
つーか、その戻ってくるという部分も現実じゃなくて延々と妄想じゃないのか! なんてこった。

この曲は、1980年に西城秀樹がシングル曲としてカバーしている。西条秀樹とオフコースってイマイチ繋がらないけど、ちょっと低迷感があった西城秀樹はこの曲で盛り返したという記憶がある。
ちなみにジャケット撮影は、シングルと同時発売のアルバム「ワインの匂い」共に新宿外苑。

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