2008年5月29日 (木)

斉藤由貴/青空のかけら

00saitoaozora斉藤由貴/青空のかけら
作詞.松本隆/作曲.亀井登志夫/編曲.武部聡志
1986年8月21日/¥700
CANYON:7A0615


なんか梅雨直前の天気に時々、気分がよい青空を見ているとこのメロディが浮かんでくる。
歌手・斉藤由貴といってラジオなどで今流れるというと、初期の「卒業」とか「夢の中へ」とかって感じですが、実はこの「青空のかけら」というシングルは、斉藤由貴にとって唯一のオリコン1位を記録した曲なのだ。
作詞は悔しいけれど、凄く爽やかで気分を高揚させてくれる詩を書く憎いあんちくしょうの松本隆。
そして作曲は亀井登志夫。
亀井登志夫は山下久美子の「バスルームから愛をこめて」や松本伊代の「抱きしめたい」「チャイニーズキッス」などこれは!という大ヒット曲がないけれど、自分的には大ヒット曲が多い作曲家なのだ。

この「青空のかけら」はその中でも特に大好きな曲。
別に言及はしていないが、スタンダードナンバー「MY BLUE HEAVEN:私の青空」のメロディラインを多分に意識して、それをポップな方向に力業で作り替えたんじゃないかと思っている。(榎本健一や高田渡のVer.が好き)

00longvaozoraこの曲は有頂天のケラが結成したバンド「Long Vacation」がアルバム『Long Vacation's Pop』の中でカバーしているんだけど、そっちもかなりポップでいい感じ。
ちなみにこの当時ケラは激しく斉藤由貴にハマっていたらしく、アルバムの中の『Long Vacation's Touch』という曲中にメンバーが自己紹介する部分で「斉藤由貴もほどほどにしたいと思います」と語っている。

実は、この時代自分も斉藤由貴にハマっていたわけですが、自分は凄くアイドル歌手にハマるベクトルが不純で「容姿は全然興味ない。その人が女優やっていてもドラマは一切みない。ライブビデオがあっても画像は全然興味ない。」という、アイドル系歌手の曲を聞くってのに「音だけでいい」という周囲には理解不能と言われる人でやんす。
そのために、斉藤由貴の全シングル全アルバムを持っているのに、ドラマをちゃんと見たことがない、映画も1本も見たことない、という不純な人なのだ。
顔が凄く好みでも声質が嫌いだったり、歌手としての艶を感じないと、興味を失ってしまうという変な指向性もある。

斉藤由貴はアイドル末期は完璧にアルバム志向の人になって、シングルカット無しのコンセプトアルバムを作るようになっていき、個人的は凄くハマったワケですが、世間的には「シングルヒットも亡くなったので歌手としてはもうダメだね」という感じになっていった(と思う)。
最終的には結婚などがあって、そっち方面の活動は終止符を打ってしまったワケです。
(この数年、ボチボチと音楽活動も再開しているみたいですが)

Tokiasaaozo去年は土岐麻子さんがこの曲をカバーしています。伸びやかな声が気持ちいいんですが、斉藤由貴の声量の無さを補って余りある声による演技を超えることが出来ていない感じがしちゃって残念でやんす。
でも発売から20年以上が経過して、こうやってカバーされるってのは名曲だった事なんだよなぁ。
ちなみに昨年放送されていたドラマ『歌姫』に出演している斉藤由貴を久々に見たんですが、富士眞奈美ポジションになっていてビックリしました。

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2008年5月19日 (月)

沢田研二/TOKIO

2008051901沢田研二/TOKIO
作詞.糸井重里/作曲.加瀬邦彦/編曲.後藤次利
1980年01月01日/¥600
Polydor/DR6385


ここの所、漫画「関町物語」を書くために、1980年前後の資料を色々読んでいるのだが、ふと思ったのが「1980年はSF的未来図で始まった」という事なのだ。
時代というのはすべて連続した時間として繋がっており、革命的な歴史的な事件が起こらない限り、常に緩やかに変化をしていく物なのだ。
よく時代論を語る時に1960年代、1970年代などという言葉で乱暴に時代を断ち切ったような言葉が使われるが、実際その時代を生きてきた人間にとっては大晦日から正月に日付が変わろうと変わるまいと、連続した営みが続き、そ〜んなに世の中は変わる物ではないのだ。
そういう意味では1980年代とはなんぞやと語る際に、明確に時代を象徴できるのは、1985年を中心にした数年という事になるかもしれない。

ロンリーウルフ:作詞.喜多條忠:作曲.大野克夫:編曲.後藤次利
2008051902しかし1980年になった瞬間、なんだかよく解らないけれど新たな時代が始まるという予兆があった。
それは明確に、影響力のある人物が「新時代の幕開け」という宣言をしたからなのだ。
その人物とは稀代の歌舞伎者、沢田研二。
沢田研二、通称ジュリーは新時代の幕開けの初日、1980年1月1日に誰も予想をしていなかった新曲『TOKIO』を発表している。(正しくは前年暮れに発売したLPからのシングルカットだが)

当時、大晦日のテレビは、紅白歌合戦が終わった直後に民放へチャンネルを廻すとどの局も同じ番組「ゆく年くる年」が放送されていた。
今ではとうてい考えられない状態だが、毎年東京キー局が持ち回りで制作した番組を、すべての民放局が同じ内容の番組を流していた。最終的には地方局を含め全国106局同時ネットというすごい番組になっていたのだ。

恋のバッドチューニング:作詞.糸井重里:作曲.加瀬邦彦:編曲.後藤次利
2008051904大晦日、年に一度の夜更かしが許される日という事もあって、子供達はテンション上がって「どのチャンネル廻しても同じだぜ!」と得意げにチャンネルをガチャガチャ廻し「むやみやたらとチャンネル廻したら壊れるだろ!」と各家庭で新年早々怒られる子供が続出したイベントだった。
この「ゆく年くる年」という番組は「日本初のCMで時報を流した」セイコー社の1社提供で放送されており、カウントダウンの時計は当然セイコーだったのだ。

ピッピッピッ、ポーン!と、セイコー社の時計が1970年代に幕を下ろし、新たなる10年間、1980年代が始まった1980年1月1日、その瞬間、テレビの闇の中から派手な電飾が点滅し、ジャッジャッジャ〜ンジャ〜♪と重いディストーションギターの音が流れだしたのだ。
「な、なんだ?」と、当時高校3年生だった自分はその画面を見て度肝を抜かれた。
そこにいたのはミリタリールックにいくつも電飾をつけ、何やらでっかいパラシュートを背中に背負って風を受けている沢田研二だったのだ。

カサブランカダンディ:作詞.阿久悠:作曲.編曲.大野克夫
2008051903さきほど終わったばかりの紅白歌合戦の中では「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かったよ♪」と昔の男は自由に格好良く生きる事が出来たのに時代遅れの男は不自由だと『カサブランカ・ダンディー』を歌っていたジュリーが、1980年の幕開けと同時に電飾の中から出現してきたのだ。

しかもそこで歌われている内容はやたらとシュールで、スーパーシティ「TOKIO」が空を飛んだり、海に浮かんだり、星になったり、という一回聞いただけでは意味が理解できないものだった。
今、改めて聞き直すとアレンジや楽器編成自体は凄くアナログでテクノ的要素は少ないんだけど、途中で使われるキーボードのフレーズやシンセドラムはまだ歌謡曲が歌謡曲だった時代には充分に刺激的だった。

編曲の後藤次利は、前作「ロンリー・ウルフ」という地味だけどムチャカッコイイ曲の編曲から「TOKIO」「恋のバッド・チューニング」「麗人」の4枚のシングルを手がけている。
ちなみに1979年末にすでに発表されていたアルバム『TOKIO』の編曲をすべて手がけており、サディスティックミカバンド以降、サディスティックなどでスタジオミュージシャンとして鍛え上げた後藤次利の力量を見せつけるような内容になっている。そしてこの年の年末、日本レコード大賞・編曲賞を「TOKIO」で受賞している。
「TOKIO」はテクノ風味の曲だが、実はベーシスト後藤次利のあまりにも格好良すぎるベーステク満載なのだ。低音を利かし気味にしてヘッドフォンで聴くことをお勧めします。

麗人:作詞.阿久悠:作曲.沢田研二:編曲.後藤次利
2008051905この1980年1月の段階では、すでに「イエローマジックオーケストラ」はデビューしており、ワールドツアーも成功させ、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』もオリコン最高位9位にもなっているが、まだ一般的な浸透度も少なく、歌謡界はテクノの扱いに苦慮していた時代だった。
この時代、沢田研二は常に斬新なアイディアを曲に折り込み、おそらく時代を牽引していくという自負もあったんだろうと思う。そんな中で当然テクノ的なアプローチも必然だったと思うが、1980年代の初っぱなにこれを持ってきたというのは大いなる意図を感じるのだ。

そして「シュールな歌詞」を書いていたのは新進気鋭のコピーライター糸井重里。その段階で、すでにコピーライターとしてはいくつかの受賞歴があり、矢沢永吉の「成りあがり」のライターなど大きな仕事をこなしていたが、一般的知名度を集めたのがこの作詞からだった。(もっとも糸井重里というキャラとして有名になったのは1982年から始まったNHK『YOU』の司会)

アルバム『TOKIO』
2008051906そんな形で新時代を意図的にこじ開けた曲「TOKIO」は、ザ・ベストテンでは発売から3週間経過した1月24日に8位に初登場し、その後10週に渡りランクインしつづけた。当時、久保田早紀「異邦人」→クリスタルキングの「大都会」→海援隊「贈る言葉」が爆発ヒット中で1位は獲得できなかったが、2位は5回、3位は3回、4位は2回と上位をキープしつづけた。
そんな中、歌舞伎者ジュリーはその巨大な衣装で色々な場所に出現した。ビルの屋上などで歌った事もあったが、アメリカへ渡りアリゾナのデスバレーという荒野で風に煽られながらも必死に踏ん張りながら歌った姿が今でも記憶に残っている。

その後、「おれたちひょうきん族」でたけちゃんマンの衣装としてパロディ的に使用されたり(元々、ジュリーの物まねをするために作った衣装らしい)、ばかでかいセットのような衣装は小林幸子に継承されていくのだが。
なにはともあれ、1980年の幕開けと同時に民放チャンネルを見ていた全ての家庭に、沢田研二の1980年代宣言「TOKIO」が流し込まれたのだ。
その1980年代が人々にとって幸せな未来だったのかはよく解らない。

ちなみに、民放同時放送の「ゆく年くる年」は昭和最後の年末となった(その時点では昭和最後とは思っていなかったが)1988年から89年にかけての回が最後となり、平成の最初の年末、1989年と1990年の橋渡しの年末は各局独自の番組となっている。

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2008年5月17日 (土)

泰葉/フライディ・チャイナタウン

Yasuha01泰葉/フライディ・チャイナタウン
作詞.荒木とよひさ:作曲.海老名泰葉:編曲.井上鑑
1981年9月/¥700
POLYDOR/7DX1120


いやぁどうしてあそこまで壊れた人間、空気が読めない人間になっちゃったかねぇと思ってしまうワケですよ。
昨年末、突如として巻き起こった春風亭小朝師匠との離婚会見から、今にいたるまで「放し飼いの壊れたおばさん」「空気が読めないどころの騒ぎじゃない人」としてアチコチの番組に出倒している泰葉
去年、なぜか久々に泰葉が小朝とセットでテレビに出るようになって「?」と思っていたが、いきなり離婚ですか。

Yasuha021981年9月に歌手・泰葉のデビューシングル「フライディ・チャイナタウン」がリリースされているが、その作曲も担当している。曲調としてはサビが印象的で覚えやすい良質のポップスという感じで、井上鑑のアレンジも的確な世界を築きあげている。
ただ1つ当時から引っかかっているのが、この歌詞「♪肩にぶつかるジンガイ、ウィンクを投げる」という物。
ここに出てくる「ジンガイ」は歌詞カードでは『外人』と書いてルビを振ってあるのだ。
いくらなんでもそりゃないだろうという気がして、この曲を聞く度にそこが引っかかってなんか複雑が気持ちになるのだ。「シーメでその後ヒーコー」みたいな感じ。
まだ80年代中期から始まる、とんねるずを中心とした芸能界ごっこの波は来ていないので、この段階は「ジャズマンが始めた逆さ言葉」的な遊びだったのかもしれないけど…。
このシングルのカップリング曲「モーニング・デート」も同じメンバーの曲で、上質なガールポップスを展開している。作詞の荒木とよひさは何を考えてあの詩を書いたのだろうか。

Yasuha03あのキャラクターが世間に浸透している現在では凄く言いにくいけれど、音楽家としての泰葉は好きなのだ。
ただ、泰葉はその数年前にデビューした「越美晴」とか「八神純子」と凄く被ってしまうので、音楽的な話題より世間的な売りが「林家三平の娘」という感じになってしまっていた事。そして、当時から自由奔放キャラがあったためタレント的活動が多くなってしまったという事が、ちょっと残念だった。
ついでに1985年にデビューした「種ともこ」もかなり同系統なので、音楽面では個性は生かせずおしまいって感じなのかもしれない。2枚目のシングルのカップリング曲「突然ハプニング」という曲なんか知らないで聞いたら種ともこの曲かと思ってしまう程。

Yasuha05ちなみに泰葉は「午後は○○おもいッきりテレビ」の初代司会を山本コータロー(番組では山本厚太郎)と共に1987年10月から1988年3月まで務めている。
ただ個人的に泰葉というと「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した時の印象が強い。
1984年4月23日、当時はゲストが直に電話をするシステムだったのですが、歌手しばたはつみに電話するつもりで間違って素人の家に電話してしまい「え〜しばたさんじゃないの?」と言っていたのだが、そこでタモリがギャグで「明日来てくれるかな?」と言い、その素人もノリで「いいとも!」と答え、翌日から本編テレフォンショッキングの前に数分素人テレフォンショッキングが放送された。(3人目が電話した相手が「突然そんな事言われてもダメだよ」と拒否したので、コーナーは3日で終わった)。
自分が自覚していない所でも騒ぎを起こしてしまう人なのだ。

Yasuha04しかし、去年あのタイミングで泰葉と小朝が離婚したってのが、昔から冗談として語られている話を思い出すとちょっと意味深だなぁと思ってしまうのだ。
結婚した当初から「小朝が泰葉と結婚したのは林家正蔵の跡目が欲しいからだ」とウワサされていて、こぶ平も半分冗談だろうがそのように語っていた事がある。
結果としてはその正蔵の名前はこぶ平が継いでしまったのだが、それと同時に囁かれていたのが「いやいや、小朝が狙っているのは林家三平の跡目狙いだ」という話。
その三平の名前はと言うと、去年10月31日に「いっ平が2009年春に継ぐことに決定」したのだ。
そして、その発表から1ヶ月も経たない去年11月に泰葉と小朝の離婚発表。ちょっと出来すぎているよなあ。

泰葉

Yasuha07泰葉が1982年に出したLPサイズのシングルは、片面に二本溝があり、アレンジ違いの曲がどっちが流れるか解らないという特殊レコードを出したことがある。

普通の歌手がこんなアイディア出してもカッティングが特殊すぎて却下されるだろうなあ。

もっと昔には6本の溝が併走してカッティングされている競馬実況レコードというのもあった。途中まで同じ実況で、最期のコーナーを廻った所から順位が違う実況になるので、これで擬似的競馬ゲームをするというレコード。

2本溝レコードが話題になったので、翌年はレコードの針を通常の終わり部分に落とすと徐々に外側に向かっていく(つまり溝のカッティングを逆にしてある)という特殊レコードを出した。

が、当時はオートリターンなどのプレイヤーが多く、このレコードは手動で針を落とさなくてはいけない、針の動きを機械が誤作動と感知して止まってしまうなどのクレームが大量に寄せられた。

Yasuha06大阪でやしきたかじんとラジオをやっていた事があり、その関係でこぶ平がやしきたかじんの付き人修行をした事がある。

そのラジオにエコーズがゲストに来た時、バンドメンバーの横柄な態度が気に入らなかったので、泰葉がやしきたかじんに「締めちゃえば」と言い放ち、たかじんが譜面台を投げつけ辻仁成を殴ったらしい。って、泰葉はやしきたかじんまでを動かす人だったのか?

テレ東「おはすた」の初代アシスタント(1984〜85年)だったが、ゲストとして当時デビューしたばかりの斉藤由貴が出演した時、いきなり「オッパイ大きいねえ」と胸をわしづかみにした事がある。

空気が読めない自由人・・・・歌手としては好きだが・・・・・

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2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち/悲惨な戦い

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

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2008年4月15日 (火)

上田正樹と有山淳司/俺の借金全部でなんぼや

200804151上田正樹・有山順司「俺の借金全部でなんぼや」
作詞:三上寛
作曲:上田正樹・有山淳司


大阪のシンボル的存在「くいだおれ」が今年7月8日をもって閉店する事が発表された。
くいだおれという店に入った事がない人でも、店頭で愛想を振りまく「くいだおれ人形」だけは知っていると思う。(店の前にある人形と一緒に写真を撮った人は沢山いるけれど、店にまで入った人は少ないのでは...ってそれが閉店の理由だ!)
くいだおれ人形の本名は「くいだおれ太郎」で生年月日は1949年6月8日となっている。これは「くいだおれ」開店日に合わせてある。
が、実際にはこの開店当初は店頭に人形はなく、その翌年の1月に人形が登場してる。

しかも、その時登場した人形は現在の物とは違っていて、ハチマキにハッピを着ている店員スタイルだったという。さらに片手にはホンモノのビールが入ったジョッキをお盆に載せていたという。
そして、その恰好でグルグル回って店をアピールしていたのですが、回転するたびにビールをまき散らしていたという事でリストラの憂き目に遭っている。
そこで登場したのが、現在まで活躍している「くいだおれ太郎」。初代との関係は親子という設定。となると、誕生日が創業日というのはオカシイのでは?と思ってしまうけれど、そんな細かいことは気にしない。(父親は現在、頭部だけが残されているらしい)

このくいだおれ太郎は普段は黒縁丸メガネ、紅白縞模様の洋服に、とんがり帽子というコテコテ大阪人の代表としてガンバっておりますが、折々に衣装チェンジもしている。
世界陸上の時は日本代表のTシャツを着たり、1992年に阪神が優勝争いをしていた時は、その前の時カーネルサンダースが道頓堀にダイブさせられた事もあって「わて、泳げまへんねん」と書かれたプラカードを提示しながら浮き輪と水中眼鏡を装着した。
あと、昭和天皇の大喪の礼の時、白黒のストライプの服を着て店先に立っている。

やはり阪神タイガースのファンという設定で2003年の日本シリーズには福岡ドームへダイエー(現ソフトバンク)の偵察にも出かけている。(服装はタイガースのハッピ)
さらに、野茂英雄の試合観戦にドジャーススタジアムに出かけたり、関西空港開港イベントではアンセット・オーストラリア空港&ルックJTBの招待でオーストラリア旅行もしている。
時々、出張に出かけ「くいだおれ太郎」が不在になった時、次男「くいだおれ次郎」が登場する事になっている。

長男・太郎が太鼓を叩いているのに対し、次男は基本的におめでたい時に登場するのでバンザイをする仕様となっている。(別名:バンザイ人形)
この太郎と次郎の顔つきは同じで、初登場時代に人気だった喜劇俳優「杉狂児」がモデルになっていると言われてる(創業者・山田六郎氏の顔がモデルとも言われている)

さらにこの兄弟にはイトコもいて、くいだおれの裏にあるレストラン「ウラ・くいだおれ」にいる「くいだおれ楽太郎」。世界陸上を見るために帰ってきたという洋行帰りのオシャレさんというキャラクター。
この「くいだおれ」という店は創業者の山田六郎さんが先進的な人で、街頭テレビが話題になった頃、すでに店にはテレビを設置して客寄せに大成功しているし、支店を出さずに家族で経営せよと頑ななポリシーの元に運営されていた。
その一環での店頭人形だったんだろうけれど、今回の閉店に関しては「時代に取り残されてしまった」という事なのかも知れない。

くいだおれ人形というと自分がすぐ思い出してしまうのが上田正樹と有山淳司の「俺の借金全部でなんぼや」という曲。このシングルのジャケットにくいだおれ人形が使われている。
パッと見ると、くいだおれ人形の前で記念撮影をしただけの安易な写真のように見えますが、実際はもっと安易な合成写真。この辺りも「なんかよう分からんが関西ぽいなぁ」という感じなのだ。
「俺の借金全部でなんぼや」を初めて聞いたのは中学の頃だったか? 自分の中で当時、関西人というと「ツルコでおま」の笑福亭鶴光師匠と、あのねのねが基準で、関西系の曲というとミス花子「河内のおっさんの唄」間寛平「開けチューリップ」などもあって、大阪系のブルースもコミックソングの一環で聞いていた訳ですが、改めて聞いてみると渋くていいっすね。(桑名正博のファニカンなどもありましたが)
で、ビックリしちゃうのが、この曲、歌詞の中に上田正樹のバンド「サウストゥサウス」のメンバーの名前が折り込まれていて、延々と金借りた、金貸した、少し返した、という事が歌われていて最終的には「俺の借金全部でなんぼや♪」と繰り返すだけのコテコテな物なんですが、作詞は三上寛なんですな。三上寛と言うバリバリの津軽人が作詞した関西の歌。

ちなみに歌詞の中に登場する人物は以下の通り
お好み焼き屋のゆうちゃん(藤井裕:B)
乾物屋の中西(中西康晴:Key)
アルサロのくんちょう(堤和美:G)
おかまの五郎ちゃん(正木五郎:D)
有山(有山淳司:歌&G)
10年ほど前だったか、ビールのCMで突然クレジットに「クンチョー:青い夏まで待てない」と出ていた時に「あ!アルサロのくんちょう!」とビックリしたことがありますが、それぞれが今でも地道に活動を続けているんですなぁ。
乾物屋の中西こと中西康晴さんはともさかりえのアルバムで弾いていたり、そこここで名前を拝見します。

そんなこんなで、くいだおれ人形の再就職先が検討されている昨今ですが、橋元徹大阪府知事による聖域無き構造改革が実行されようとしている大阪、いったいどこへ行こうとしているのだ? まさに大坂の借金全部でなんぼや? なのだ。

上田正樹の豆知泉

歌手になることを反対されていた上田正樹は「ちょいと風呂行って来るわ」と家族に告げてそのまま家出した。歌手になり、そこそこ名が売れた7年後、恐る恐る家に帰ると、「えらい長い風呂やったなー」と出迎えられた。

上田正樹のニックネームは「キー坊」なのは、先に兄が「マー坊」と呼ばれていたため。

「ネシアアトラスオオカブト」の学名は『Chalcosoma atlas keyboh』、ここに出てくる「keyboh:キーボー」は上田正樹のこと。学名をつけた永井信二が友人の上田正樹のニックネームを付けた。


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2008年3月 8日 (土)

木綿のハンカチーフ/太田裕美

2008030801木綿のハンカチーフ/太田裕美
作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄.
CBSソニー:SOLB-352
1975年12月21日/¥500


卒業シーズンということで「卒業」とタイトルに付けられた曲でもよかったんですが、とりあえずこの曲を。
といっても歌詞の中には卒業を臭わす言葉は1つも入っていない。ただ何かの事情で都会に旅立つ男と、田舎に残る女の会話が綴られている。
歌っていた太田裕美はアイドル的容姿は兼ね備えていたが、どことなく都会的ではないイメージもあって(個人的偏見&褒め言葉ですよ)この曲に出てくる女性にオーバーラップする部分もあったのか、大ヒット曲となる。

2005030803と言っても、1975年12月21日にリリースされたこの曲は、4日後の12月25日リリース「およげ!たいやきくん」の驚異的なヒット(初登場から11週オリコン1位)によって、ついに1位を獲得出来ずに終わっている。それでも85万枚を売上げ、その後の地位を獲得している。

この曲は作詞家の松本隆がまず詩を書き上げ、作曲の筒美京平に渡した、いわゆる「詩先」といわれる物だったのですが、この詩を受け取った筒美京平は「こんなダラダラした詩に曲は付けられない、なんとかしてくれ」と松本隆に詩を変えるように連絡を取ったという。
しかし松本隆は「おそらく曲を付けるのは難しいということで電話があるんじゃないか」と確信していたので、その日は連絡できない場所へ雲隠れをしていたらしい。
そして、とりあえずの〆切の時、なんとか曲が出来ていあたとかつて松本隆が語っていた。

2005030804まず12月5日リリースの3rdアルバム『心が風邪をひいた日』に収録され、12月21日にシングルカットされている。
アルバムVerとシングルVerの違いは、アルバムの方にはイントロにある特徴的なジャカジャカジャカ〜と上昇するバイオリンのトレモロが無く、他の部分でもストリングスがうっすら入る程度になっている。
あと演奏途中ではいるフルート系のシンセの音もアルバムVerには入っていない。
シングルを聞き慣れているとアルバムVerはスッキリしすぎていてギターのカッティングがキツク感じるかもしれない。

2005030805その歌詞はまず男性の手紙から始まり、後半は女性がそれに答える形で手紙を書くという構成で、サビの部分に明確なリフもない、詩だけ読むとどこにサビを持っていったらいいのか解らない詩になっている。
しかもそれが4番まで続き、4番の最後の最後にテーマである「ねえ涙拭く木綿のハンカチーフください」という言葉が登場する仕組みになっている。
そのため、当時の歌番組では2番無しで歌う事も多かった。

実はこの歌詞はボブ…ディランの「スペイン革のブーツ/Boots Of Spanish Leather」という曲がモチーフになっている。モチーフといえば聞こえがいいが、松本隆は結構この「洋楽の歌詞を翻訳して日本風味を振りかける」という作業をしている。
同じ太田裕美ではアルバム曲に「ひぐらし」という物があって、内容はふたりでバス旅行に出かけるという物なんだけど、これはサイモン&ガーファンクル「アメリカ」と設定が同じ。「アメリカ」の中で「アイツの顔、指名手配のギャングに似ていないか」という部分は「ひぐらし」では「♪三億円に似てないかって」となっている。あの時代なら「三億円犯人のモンタージュ写真に似てないか」という意味と解るけど、今聞き直すと「三億円に似てる」って何のことやら。

2005030802そんなワケで、元詩となったディランの「スペイン革のブーツ」はディラン最愛の女性スーズ・ロトロがイタリアに旅立つ時に浮かんだ物(実際には別離ではなく旅行だったみたいですが)。スーズは2ndアルバム『Freewheeling'』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性。
ディランの曲は主人公(男)が船に乗って旅立つ所から始まる。
Oh, I'm sailin' away my own true love,(愛しい人よ、僕は船で旅に出るよ)
これが「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向う列車で」に相当するワケです。
ディランの方はその後
Is there something I can send you from across the sea,(海の向こうに着いたあと、送って欲しい物はあるかい?)
と残した女性に対してリクエストをしている。
同じように松本隆は「はなやいだ街で 君への贈りもの、探す 探すつもりだ」と書いている。

2005030806そこで主人公が突然女性側に移り
No, there's nothin' you can send me, my own true love,(いいえ 何もいらないの 私の愛しい人)
そして「いいえ あなた私は、欲しいものはないのよ」となっている。

その後もディランの歌詞を追っていくとどこかで聞いたフレーズが満載で…。
Oh, but if I had the stars from the darkest night(闇夜に輝やく星たちでも)
And the diamonds from the deepest ocean,(深海から見つけたダイヤでも)
I'd forsake them all for your sweet kiss, (あなたの甘いキスには勝てないわ)
そして最後に
And yes, there's something you can send back to me Spanish boots of Spanish leather. 
(そうだ、君が何か送ってくれると言うのなら、スペイン革のスペインブーツを)
と締めて曲は終わる。
木綿のハンカチなら気軽に送ること出来るけど、スペイン革のブーツは結構難易度が高い贈り物だと思う。

ちょうど「木綿のハンカチーフ」が流行った直後ぐらいに、ボブ・ディランの初来日という物があって、名作アルバム『欲望/Desire』が発売されたりで、中学生だった自分はひたすらディランを聞いていた時期があった。
その関係で「スペイン革のブーツ」の存在も知り、なんじゃこりゃ!そっくりやないけ!と怒りまくった瞬間もありました。

と言いつつ、太田裕美も好きだしという、ファンとしては難しい問題を抱えている曲なのだ。松本隆め!
でも、この曲が名曲なのは紛れようのない事実なのだ。

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2008年2月24日 (日)

小野満・ダン池田、二人のビッグバンドマスター死去

ダン池田氏(72)が昨年末、2007年12月25日に亡くなっていた事が報道された。
そういえば今年は新年早々、2008年1月2日に小野満氏(78)の訃報もあった。


ダン池田:今だ反省なし
2008022402この二人は自分の世代だと、物心付いた時からテレビの中で演奏をしていたビッグバンドの指揮者で、70年代の紅白歌合戦の演奏でも紅組「ダン池田とニューブリード」、白組「小野満とスィングビーバーズ」として記憶にある。
この二人が10日と開けずに亡くなったというのは、リアルタイムに音を聞いていた世代としては、あの時代もすでに歴史の話になっていくんだなぁという感じがしちゃうのだ。

ダン池田の方は他にも「夜のヒットスタジオ」、小野満の方はNHK系の音楽番組でスィングビーバーズ&NHK管弦楽団などで見かけていた。
ダン池田の方はビッグバンドのみだったので、音は派手だったので昔ながらの歌謡曲の演奏は良かったのだがちょっと繊細さに欠けていた。しかし小野満の方はスィングビーバーズに加えてNHK管弦楽団が一緒にやる事が多かったので、ちょいと繊細な感じで好きだった。

小野満:資料が少なくて似てるか不明
2008022401小野満は先日もブログで書いた三木鶏郎のバンド出身で、1953年にジョージ川口、中村八大、松本英彦でビッグフォーを結成している。ビッグフォーは音源をちょっと聞いた事がある程度で、リアルタイムじゃないけれど戦後日本のジャズブームを築いた1人という事で認識している。スィングビーバーズは1960年に結成したビッグバンド。

あと「美空ひばりの初恋の人」って事でも騒がれた事もあるんだけど、1989年に美空ひばりが亡くなった際に思い出話を語り「世間が許してくれなかったんですよ」と告白している。
そして美空ひばりの死後、理由は明かさないが音楽活動をほとんど辞め、それまで付き合いがあったビッグバンドやジャズ仲間とは一切交友まで断っていたとされている。
美空ひばりのCDで「Jazz And Standard Complete Collection 1955-1966」というコンピレーション物があるんですが、このアルバムを聴くと美空ひばりの才能の深さに改めて感服しちゃうワケです。
個人的には演歌っぽい曲を歌う美空ひばりが好きじゃないので、この時点で小野満と上手くいって「ジャズシンガー美空ひばり」という路線を邁進してくれていれば、どんな素晴らしい曲を作っていったか……と勝手に思ってしまうのだ。

ダン池田に関しては、自分が音楽にどっぷりハマり始めた1970年代にフジテレビの音楽がらみの番組には必ずといっていい程登場して、「夜のヒットスタジオ」「オールスター家族対抗歌合戦」さらに大磯ロングビーチでの「オールスター水泳大会」などでやたらと見かけるようになったけれど音楽的な印象はさほど残っていない。
楽器演奏の印象もないので「いったいこの人は音楽的な部分はどうだったんだろう?」という感じでもあるんだけど、ダン池田が表舞台から消えるキッカケになった暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』の印象しか残っていないや。

1990年代に「あの人は今!」という事で埼玉あたりでカラオケスナックを経営して、近所のおじちゃんおばちゃんを集めてカラオケ教室をやっているのが放送されていた。
本当にこの人に関しては「音楽家として何が出来た人なんだろ?」というのが当時も今も疑問としてついて回っている。

1980年代、YMOの成功以降、シンセサイザーの発達で歌謡曲の音がかなり変化していった。
夜のヒットスタジオを見ていても自前のバックバンドをもっている歌手などは音的に問題なかったけれど(アイドルもバンドを従えるのがブームだった)、ダン池田とニューブリードが演奏する場合、ちょっとアレンジも古めに感じる事が多くなっていった。
たとえば榊原郁恵のテクノ歌謡「ROBBOT」をビッグバンドが演奏した時に「それはテクノ歌謡じゃない!」と憤慨した事もある。この曲は筒美京平がテクノを意識したメロディを作り、それに合わせて船山基紀がアナログテクノな編曲をした、YMOが絡んでいない職業作家によるテクノ歌謡の名作なのだ。

1985年に夜のヒットスタジオが月曜の1時間番組から、水曜日の2時間番組に変わった時に、ニューブリードのマスターからダン池田が降りて、三原綱木(元ブルーコメッツ→つなき&みどりを経て)に変わった。その時に、大々的にバンド変成が変わり、シンセ系キーボードも大々的にフューチャーされたと記憶している。
そう言う意味では、アナログ時代の古いタイプの音楽家で、時代の変化について行けなかったのかなぁと思ってしまう(Wikipediaなどでは体調不良&金銭面を理由に降板したような事が書かれているが)

暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』をつい先日、死去したとは知らずに「何かの参考資料になるかな?」として古本で購入したけれど、パラパラ読むと暴露というより時代について行けなくなったオジサンが「最近の若い奴は」と愚痴っている部分が変に目立っているだけの本だった。
ある意味、無責任な戯れ言をまき散らすブログを書籍化しただけのような内容で、読後感は「この人、良くも悪くも自分が基準だと思っているんだろうなぁ」という感じだった。

ネット検索すると、ダン池田の死去が公表される2月21日直前まで暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』は500円ぐらいが相場だったのが、22日ネットで最高値30万円を付けたらしい。
現在もヤフオクには4000円台で大量に出て、しかも入札も入ってます。最も高いのは2万2000円で入札22人。
自分は今年1月に1と2をBookoffで各105円で購入したんですが...。そんなに高い値段だして読む価値ないぞ。
ちなみに、この暴露本を出した「はまの出版」は凄いジャストなタイミングで今年1月25日に自己破産申告をして倒産している(ここにも出版不況が!)。

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2008年2月 3日 (日)

マイケル・ジャクソン「スリラー」

先日、偶然見た「スマステーション」で80年代の洋楽特集をしていたんだけど、そこでカールスモーキー石井が当時の音楽の解説をしていたんだけど「何も解説になってないじゃん」と思ってしまった。
もっと面白いネタはあるだろう!!!!と、当時バリバリに音楽の人だった私は思ってしまったワケでやんす。


最終的にマイケル・ジャクソンの「スリラー」が80年代を代表する洋楽と言うことで終わった。
確かに売上げと、時代のキーワード「MTV」という事では、この曲が1位ってのは当然なんだろうなぁ。
この「スリラー」とにかくミュージックビデオが大ヒットした。
しかしビデオクリップは、曲が始まる前の映画館のシーン、帰り道のシーンまでが長く、そしてやっと曲が始まるのだ。
全部流すと14分とか結構長かったんだけど、当時の深夜番組では「今日はマイケルのスリラーを全部流しますよ!」とかオープニングから煽っていたように、全部かける!というのが番組の目玉になったりしてました。
レコードショップでもこのビデオを店頭で1日中流していて、多くの人が立ち止まって食い入るように見てました。

で、そのクリップを作ったのが映画監督ジョン・ランディス、特殊メイクがリック・ベイカー。
このミュージックビデオは「マイケル・ジャクソン」という天才的アーティストがいたから出来たワケですが、それ以前に監督のジョン・ランディスは「ブルース・ブラザース」という全編ミュージックビデオみたいな映画を作っているので面白くなるのは当たり前の話なのだ。
と言いつつ、マイケルがジョン・ランディスにビデオクリップ制作を依頼したのは「ブルースブラザース」を見たからではなく「狼男アメリカン(1982)」という映画を見たから。
その関係もあって「スリラー」の特殊メイクは「狼男アメリカン」で特殊メイクを担当しアカデミー賞を受賞したリック・ベイカーが担当している。(他にもムチャ凄い作品を担当してますが)
この作品が80年代のMTVを中心としたミュージックビデオのブームを作り上げたと言っても過言ないのですが、その始まりが頂点で、結局そこを超えるビデオは無かった。

当時「俺たちひょうきん族」の中でウガンダ・トラがマイケルをパロディにしてスリラーを踊っており、最後にオバケの総元締めとして西川のりおのオバQが登場するという物があったが、他には竹中直人が出した「レスラー」という曲もありました。(もちろんビデオクリップも実にほほえましい感じで制作されました)

で、当時ビデオクリップのパロディといえば、アル・ヤンコビック("Weird Al" Yankovic)という人がいて、「スリラー」は作らなかったが、マイケルの「ビートイット」のパロディ「イートイット」というヤツがありました。
元曲の「Beat It」は意味的には「逃げろ!」とか「失せろ!」とかの意味(直訳すると叩けみたいな感じですが、熟語的には「とっとと失せろ」みたいな命令的な言葉になる)ですが、アルの方は「Eat It」喰え!という事で、ビデオをそっくりなパロディ作品として仕上げている。

この時、マイケルはそのソックリ具合に拍手喝采だったワケですが、続編としてマイケルの「Bad」のパロディ作品で「Fat」を作った時、前作「Eat It」で食い続けた結果「Fat(デブ)」になったマイケルを演じたために激怒したと言われている。
で、その「Fat」を見た時に「これってマイケルのパロディというより、ウガンダのマイケルのパロディじゃん」と思ったワケでありますな。

その後もアル・ヤンコビックは大量のパロディソングとビデオクリップを制作しているワケですが、残念な事には日本では「そう言えば80年代初頭にそんな人いたねぇ」状態。
でも本国アメリカでは2006年にアルバムがビルボード10位を記録しているし、シングルも10位以内に入っているほどの大人気を維持し続けている。
しかも真似されるアーティストは大歓迎らしい。

でも今はYouTubeがあるので、それらを見ることが出来るのでしやわせなのでやんす。
(ってマイケルの話じゃなくなってしまったのだ)
ただ、字幕がないので本当の面白さは理解仕切れないけど、画像だけでも楽しいっす。
「UHF」とにかく色々なビデオクリップや映画のパロディ満載。Talking HeadsやZZ Topなんて懐かしい所もやっているけれど、個人的にはチラっと出てくる武闘派のガンジーが壷でした。
「UHF Rampo」ビデオクリップではなく映画ランボーのパロディ、くだらなさすぎ。
ザ・プレジデンツ・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカの「Lump」を「Gump」にしてフォレストガンプにしているのも良いッス。
「Saga Begins」ではスターウォーズのパロディ。
マドンナの「Like A Virgin」→「Like A Surgeon(外科医のように)」
ジェームス・ブラウンの「Living In America」→「Living With A Hernia(ヘルニアで暮らそう)」
とか… きりがない。

この文章を書き始めたついでに、アル・ヤンコビックのクリップを見始めて、延々と時間が経ってしまった。
※「Yankovic」で検索、「UHF」の場合は「Yankovic UHF」などで検索。

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2008年1月20日 (日)

風のプリマドンナ(Vマドンナ大作戦)/宇沙美ゆかり

20080120a「えっと、あれ何だっけ?」と、そんなに特殊な事でもないのに思い出せない事がある。
昔好きだった曲のタイトルとか、忘れようがないハズなのに思い出せない。
そんな時はなんかずーっと頭の中にそれが引っかかって、嫌な感じで生活する事になる。
好きだった物自体を忘れてしまうほど忘れっぽくなってしまっているのに、その「忘れて思い出せない」という事が忘れられずに、数日間グジグジと思い出せない事を頭の中で反芻する。


で、さっき普通に文章を入力していた時に、昨年末に「あ・・・あのアイドルなんて言ったっけ?」と思い出せずにグジグジしていた名前を思い出した。
何かキッカケというワケでもない。それに関連した物を読んでいたとか書いていたというワケでもない。なぜかいきなりポツンと思い出したのだ。

20080120bその思い出せなかったアイドルは「宇沙美ゆかり」。
ほぉら、誰も反応できないレベルに知られていないアイドルでしょ。世間一般では「忘れた」以前に「知らなかった」という感じかもしれない。
で、困った事に今度は「その宇沙美ゆかりの名前を思い出すキッカケになったのは何の話題だったんだ?」という事を思い出せないのだ。
う〜ぬ。

という事で連想ゲームをして「たぶんこんな事だよな」と記憶を引きずり出した。
たぶん西部劇「荒野の七人」の原作は黒澤明の「七人の侍」という話から、日本でも「七人の侍」をモチーフにした映画があるよ、という事で80年代のアイドル映画「Vマドンナ大戦争」の話題が出て、えっと主役だったのは… という感じだったんじゃないかと。
その宇沙美ゆかりという今ではすっかり忘れ去られたアイドルが主役を張った映画。
内容は不良の吹きだまりとなっている高校で、生徒会長に雇われた7人の女子高生が番長連合と闘うという話。安易と言えば安易。

20080120c実はこの映画、1985年の作品でして、ほぼ同時期に斉藤由貴版「スケバン刑事」(1985年04月11日〜1985年10月31日)が放送されているんですが、スケバン刑事の主役第一候補が宇沙美ゆかりだったという話もある。
その主役選考をしている時、ほぼ同時期に「Vマドンナ大作戦」の企画も上がっていて、事務所的にはどうなるか解らないTVドラマより映画を選んだらしい。
当時は角川映画の全盛期で、薬師丸ひろ子を始めとした原田知世・渡辺典子で角川三姉妹が歌でもヒットを飛ばしていて「映画からアイドルが出る」という流れもあり、TVサイズのアイドルよりスケール感があるという感じだったのかも知れない。
でも明らかに選択ミスだったのだ。

20080120dそして、何よりこの映画が素晴らしいのがラストが夢オチだという事。ふっと目が覚めるとそれまでの話は全部夢だった…。そして気が付くと、その夢の中でリーダーだった女子高生(これが宇沙美ゆかり)が転校してくる。という、古いタイプの同人誌漫画にありそうな話。
そしてこの映画の脚本は第9回城戸賞入選作品で野沢尚が書いているというのも素晴らしい。(夢オチというのは映画化の時に付け加えられた物という噂もある)

宇沙美ゆかりは、映画ではあだち充原作の「みゆき」で三田寛子と共演して妹のほうのみゆきを演じ(監督はなんと井筒和幸)、月曜ドラマランドで柳沢きみお原作の「あ、MYみかん」の主役などもしていたし、歌も普通レベルに上手だった(逆に言うとクセがない)し、デビュー曲「蒼い多感期」はカネボウのCM曲だったりと、事務所も結構プッシュしていたハズなのにあまり売れずに芸能界を引退。

20080120e沖縄に帰って、お姉さんたちと喫茶店を経営していたとか、その後「ぶすっこくらぶ」というキャバクラを経営していたとか、なかなか実業家的に展開していたそうです(バブルでキャバクラは潰れたらしいですが)。いまは普通に主婦でもやっているんですかね。

というワケで、宇沙美ゆかりの事をぼーっと思い出している内に、今日本来書こうと思っていた事が何なのか忘れてしまったのだ。

宇沙美ゆかり Single
1984年03月21日:蒼い多感期
1984年06月21日:SHOCK!
1984年09月05日:ツライ・キライ・クライMAX
1984年11月21日:アルカリ少年-boy-
1985年06月05日:風のプリマドンナ
1985年10月05日:恋はDancing

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2008年1月10日 (木)

ナショナルがパナソニックに

松下電器産業が社名を「パナソニック」に変更するというニュースが飛び込んできた。


といいつつ、もうパナソニックというブランド名に慣れてしまっているので「ところでパナソニックって本当の社名って何だっけ?」と言われても、思い出せない時もある。
「えっとね、ナショナル…じゃないよな」となってしまう可能性もあるんだけど、その松下電器のもうひとつのブランド「ナショナル」は消滅して、社名もブランド名も「パナソニック」に統一されてしまう。

う〜むと思ってしまうのは、自著『知泉1』で書いた、ナショナルとパナソニックに関しての雑学がもう過去の物になってしまうという事なのだ。
『知泉1』が文庫本化される事はおそらく無いけれど、この5年の間に時代は色々変化して使えなくなってしまった雑学が増えてしまった。あ〜ぁ。

社名変更の事をニュースでやっていたんだけど「という事はこの曲も消えてしまうんですよね」と言って、おなじみの『明るいナショナル♪』が流れた。
その時にコメンテーターが口々に「懐かしいねぇ」などと言うのだ。
おいおい、未だにTBS月曜19時からの「水戸黄門」の時間帯では現役で毎週流れているって(ナショナル劇場は1960年に松本清張シリーズを放送し、ちゃんとしたレギュラーでは1964年の「七人の孫」あたりから現在に至るまで続いてる凄いスポンサー枠なのだ/放送時間移動はあったけど)。

20080110aでも確かに「明るいナショナル♪」は自分が物心付いた時から流れているCMなので消えてしまうのは寂しい。かといって無理にパナソニックという歌詞を入れても厳しい。
なんせこの曲はCM界の立役者、三木鶏郎の作詞作曲なのだ。これをヘタにいじっちゃダメでしょ。

三木鶏郎は戦後、米軍キャンプで演奏していたという、日本の戦後芸能界の定番パターンでキャリアをスタートさせている。その時にバンド名を聞かれてアドリブで「ミッキーマウス&ヒズ・オーケストラ」と答えたが「お前は人間だろ?ミッキーマウスは変じゃないか?」と米軍兵からツッコミは入ったために、音楽用の「トリル・TRILLER」から「ミッキートリル」と言い換えたという。
その後、戦後焼け跡の日本を歌った「南の風が消えちゃった」を作って、1946年にNHKラジオの『歌の新聞』に出演した。その時に名前を漢字表記で「三木鶏郎」と変え「みきとりお」と読ませた。が、「みきとりろう」と読まれてしまったので、そのまま通してしまったというのが名前の始まり。

20080110b今回の「明るいナショナル」も戦後のCM大ヒット曲だけど、1951年に日本初の民放放送局が誕生した時に、コニカが三木鶏郎に日本初のコマーシャルソングを依頼して『僕はアマチュアカメラマン』という曲が誕生している。(歌.灰田勝彦)
この曲が凄いのはカメラメーカーのCMなのに歌詞は「あらピンボケだ、あらピンボケだ、みんなピンボケだ♪」という、今だったらメーカーが絶対許可しないような物。ある意味、おおらかな時代だったんだろうなぁ。

三木鶏郎といえば、以前雑学として書いた「鉄人28号」のテーマ曲の作詞作曲も三木鶏郎。
こっちは歌詞の中にあった「いいも悪いもリモコン次第 鉄人鉄人どこへ行く♪」という部分が、スポンサーのクレーム「主人公が悪になってしまうという歌詞は好ましくない」ということで、放送される歌詞は2番の「敵に渡すな大事なリモコン 鉄人鉄人早く行け♪」になった。

三木鶏郎の周辺からは色々な才人が誕生しているけど、音楽にあまり関係ない人も出ているってのは「どんなヤツも来い!」って事なんすかね。苗字をそのまま貰った人には桃屋のCMでお馴染みの三木のり平なんて人もいます。
意外な人物には一時期バンドの楽器持ちをしていた人物で、落語家の林家三平もいる。
息子の林家こぶ平(現.正蔵)が「他の世界も経験しろ」と言われて演出家の喰始の所に居候し、WAHAHA本舗の設立に立ち会ったなんて話と同じ流れなんでしょうかね?

でもって、三木鶏郎の凄い所は常に斬新な物を求めて新しい音楽をずっと模索していた所。
CM曲にも色々斬新なメロディラインやリズムを持ち込んでいるんだけど、最晩年ともいえる73才の時、1987年にコンピューターという物で編曲が出来ると聞いて、それでアレンジを初めているという事。
自分も1984年頃からYAMAHAのMSXを使って出来たばかりのMIDI規格で編曲をしていたんだけど、三木鶏郎は本格的にアメリカからMacとシーケンスソフトを取り寄せて、英語マニュアルを読みながら打ち込み編曲をしていたという。
その時に作った曲データが残されているんだけど、中には明らかにテクノを意識した曲もある。凄い73才なのだ。
さらに、戦前の学生時代に書いた「クラリネット五重奏曲」の続きを第2楽章として新たに作曲編曲した物もある。

自分的には最大限に尊敬する音楽家の1人なので、三木鶏郎の「明るいナショナル」が過去の物になってしまうことに一縷の寂しさを覚えてしまう。

って、松下電器が社名変更するのは別に興味無いけど...というお話でした。

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2007年12月30日 (日)

イカ天復活祭2007

やっぱりレコード大賞は大晦日じゃないと盛り上がらないよなぁと思ったりするワケであります。


2007123001大晦日、とりあえず夕方までにやるべき事は全部やり終えて、あるいは夕方大掃除のやり残しをガタガタしながら、台所ではおせちの準備が最終段階に入っている中、あぁ今年もいよいよ終わりだ、とテレビを付けると「輝け!レコード大賞」なんてのが始まっていて、それをぼーっと見始め、それが終わったらチャンネルをNHKに変えて紅白歌合戦を見始める。
そんでもって冒頭に歌手一同が客席を通ってステージに勢揃いする際に「やっぱりレコード大賞を取ったあの歌手はまだNHKホールに間に合ってないんだ」などと言いながら過ごす。ってのが王道なのだ。

実際には紅白歌合戦が長時間になった事で開始時間が早まり、大幅に時間が被るって事で、レコード大賞が30日になったのだが、やはり盛り上がらない。
ま、今年の大賞が「コブクロ・蕾」ってのは妥当な線かなぁ。若い層にもある程度の年齢層にも受け入れられた曲だし。

2007123002と言うことで、自分的にはその番組の次にやった「イカ天復活祭2007」という番組の方が大期待だったわけであります。
この番組、昭和が平成になって1ヶ月後の1989年2月11月に始まった番組で「番組のタイトルに『平成』という言葉が付けられた初のレギュラー番組」という雑学にもなっている。
イカ天の正式タイトルは『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』なのだ。
しかし、平成も来年は20年って事で、そんなに昔の話になってしまったのだなぁとしみじみとしちゃったりもするワケでやんす。

FLYNIG KIDS「続いてゆくのかな」
2007123003でもって、現時点では略称「イカ天」ですが、番組当初は三宅裕司が「イカバン天」と語っており、番組特製のイカの形をしたハンテンまで作られた事がある。が、いつしか「イカ天」が正式略称になっていた。
実は自分はこの番組の前番組だった「土曜深夜族」という複数のミュージシャンが出演し、即席バンドを作って色々な曲を演奏する音楽バラエティ番組が好きで毎週録画していたので、いきなり終了しちゃった時に「なんでだよ!ばーろー!」と毒づいたワケですが、新しく始まった「アマチュアバンド合戦」に第1回目から釘付けになっちゃたのです。当然、第1回目からほとんど録画してある。(2年目の途中から仕事が忙しくなってしまい、テープ未整理になったり、当然自宅に帰れると思っていたのに徹夜仕事になって録画できない回が数回あるけど)

GEN「La-La-La」
2007123013初回はどうやってバンドを集めたのか不明ですが、その第1回目放送で演奏途中で赤ランプを付けられたパンクバンドの女性ボーカルがいきなり「ふざけんな!」と生放送中にパンツを脱ぐ(カメラには写らなかった)というハプニングもあったり凄い出だしになった。
(これは今回の番組中に話題として取り上げていた)
もっともその後「第1回目放送でそんなハプニングが起こったことで雑誌にも取り上げられたって、なんかできすぎじゃない?」という噂が流れた事もある。

BEGIN「Beginning」
2007123014当初は「この番組で5週勝ち抜いたらご褒美としてCDを作ってあげる」という事になっていたんだけど、番組が始まった初期に出たバンドが勝ち抜かずともレコード会社に目を付けられてどんどんとプロデビューしていき、その5週勝ち抜きの話もなくなっていった。
その変わり、9月頃に「イカ天レーベル」というインディーズレベールが作られ、原宿の「イカ天マーケット」での販売&通販が始まった。しかしあまりの人気にのちにローソンでも販売するようになったのだ。

ONE NIGHT STANDS「NANPA BOY RHAPSODY」IKA-TEN
2007123011とりあえず自分はその年の秋、東京に行った時にワザワザ原宿へ立ち寄ってCDを購入した過去があるのだ。
普段ならチャラチャラした原宿なんて行きたくないんだけど。
しかも、その時ガール3ピースバンド「NEWS」(ジャニーズのグループじゃないっすよ)がたまたまショップに立ち寄ったのに遭遇して「うひゃー!」と思ってしまった。
あまりにドキドキして、サインをねだることも写真を撮る事も出来なかった。でもムチャかっこ良かったなぁ・・・しみじみ。

スイマーズ「君とスイマーズ」
2007123012番組中に時代として「天安門事件が起こった」というニュース映像が挟み込まれたけれど、天安門事件は1989年6月4日の早朝というか真夜中に起こっているんですが、実はイカ天生放送中にこのニュースが飛び込んできており番組を中断した。

結局、今回の番組は「復活祭」と名付けられているけど、過去のビデオをみて想い出に浸る会だったんですな。


セメントミキサーズ「笑う身体」
2007123016番組放送中の2年の間に、番組スタッフが2回薬関係で逮捕だかされたという記憶がある。スタッフといっても、外部のアマチュアバンドとの仲介をするような人だと思うけど。
あの時、そのニュースを聞いて「今時、ロック=大麻って時代じゃねえだろ」とか思った記憶がある。なんつっても、ロック=不健全の象徴だったミック・ジャガーが毎日早朝ランニングしていたり、ロックミュージシャンにベジタリアンが増えていった時代なのだ。

福田眞澄&SUPER MILK(IKA-TEN)
2007123008あと番組初期の審査員に元一風堂の土屋昌巳がいた。すみれセプテンバーラブでやんす。
で、ある時番組に「この番組の出演者やチャンプになるのには裏での密約があるんじゃないか」というハガキが来た時に初回からレギュラー審査員だった土屋昌巳はマジに目にうっすら涙を浮かべながら「この番組は審査員も真剣に音楽を作り上げるために取り組んでいるんです、そんな裏取引なんてありません。もしそんな物があるのならこの番組の審査員なんて引き受けません」と力強く言い切っていた。
が、その数週後、土屋昌巳の姿は番組から消え、それ以降1度も出演しなくなった・・・・。
この後は、脈略無く思い出した小ネタの羅列

マサ子さん「つちのこ男爵」IKA-TEN
2007123009番組内で赤い衝撃「remote:リモート」を扱っており池田貴族が亡くなった事にも触れて、その後もビデオが流れ、それを見ている今回の出演者がしんみりとした表情をしていましたが、その後に流れた女性バンド「マサ子さん」では大笑いしただけだった。
実は「マサ子さん」のサイドでキーボードを弾きながら歌っていた子も亡くなっている。メインで「変な日だな〜♪」と歌っていたボーカルまゆたんはその後、ソロで「トイレの花子さん」の曲とか「ポンキッキーズ」などの曲を歌っておりました。

人間椅子「人間失格」IKA-TEN
2007123007青い乳首でハイになりましょう!と歌っていた色物バンド「ブラボー」
番組の途中で行われるジャンケン大会でズルをして商品を受け取った事が後で問題になったりしていましたが、番組1周年の武道館に登場した時はボーカル以外はメンバー全部入れ替わっていて、そのメンバーでプロデビューしたりしている。
ある意味、イカ天の色物路線を始めたバンドではあるんだけど、なんか芸能志向が強くてその後なんかバンド解散してタレント活動をしているのを見たことあったけど、なんか痛かった。
現在はダンスインストラクターをしているとの事。

JITTERIN' JINN「Hi-King」
2007123015途中から明らかにアマチュアバンドというより「すでに事務所に所属している」というバンドも登場するようになってくる。
夏頃からイカ天出演バンドを集めたイベントが各地で開催されるようになるんだけど、1回ブッキングミスでまだイカ天に出演していないバンドがイベントにフライング出演してしまった事もある。それは後にプロになった「ジッタリンジン」。出演してからかなり早い段階でプロになっている。

突撃ダンスホール「メリーゴーランド」
2007123010自分が個人的に好きだった初期のバンドは「オレンジ太陽's」「突撃ダンスホール」「宮尾すすむと日本の社長」辺りだった。
しかし、番組で歌った曲がムチャクチャ良すぎて、それ以外の曲をCDで聞いた時にイマイチと感じてしまった。
やはりプロとして通用するのはコンスタントに名曲を作れる人なんだろうなぁと痛感したのだ。
この中で、その後もしばらく活動していたバンドは「突撃ダンスホール」だけだったと思う。

宮尾すすむと日本の社長(IKA-TEN)
2007123004今回の番組では途中でビギンとカブキロックスの氏神一番がゲストとして出てきたけど、ビギンはこの数年、凄く大活躍をしていてボーカル比嘉栄昇なんかは、真夜中のトーク番組「いいはなシーサー」なんかやる所までになっている。
イカ天から今に至るまで変わらない活動をしているって事では、実はカブキロックスもまだ解散せず活動中なのだ。
ついでに氏神一番は日光江戸村でショーのプロデュースを行っている。

たま「さよなら人類」「夕暮れ時のさびしさに」
2007123022「たま」をひさびさに見たんだけど、メンバーの中で一番目立つおかっぱの知久寿焼がバンドを引っ張っていたような気がしたんだけど、キーボードの柳原幼一郎がたまというバンドの色を作っていたんだなぁと改めて思ってしまったのだ。
代表曲「さよなら人類」の作曲も柳原だったけど、「さよなら人生」と同じくCMで使われた「オゾンのダンス」も柳原だったし、しかも5週、すべて柳原は違う楽器だった。1週目「らんちう」でアコーディオン、「さよなら人類」エレピ、「オゾンのダンス」アコギ、「ロシヤのパン」オルガン、「待ち合わせ」よく解らない楽器とチャルメラ、曲の色を決めているのだ。あの頃は単純に面白がっていたので気が付かなかったのだ。
ついでにおかっぱの知久はアノ当時妖怪みたいだという扱いだったんだけど、顔だけ見ると次長課長の井上みたいに結構カッコイイのだ。

マルコシアスバンプ「IN KAZMIDITY」
2007123020イカ天は約2年間放送したけれど、1年目の後半にビギン、たま、マルコシアスバンプあたりが出た辺りで大盛上がりになり、年始に武道館で行ったライブが頂点だったような気がする。
その1年目で大量の出身バンドが出たり、2年目はキングで勝ち抜いている途中で「メジャーデビューが決まってしまったので、キングを辞退する」というバンドも出るようになってきて、もーグチャグチャのバンドバブルが吹き荒れていたわけです。
今考えていると、少しでも早くデビューさせた方が得策だって事で、何週も待っている余裕ないって事だったのかな。

サイバーニュウニュウ「秘密のバス」
20071230052年目に出てくるバンドも、実際は凄くいいバンドも多かったんですがバンドブームが異常に盛り上がってしまい、イカ天の目的がアマチュアバンドの登竜門ではなくなっていた。
すでにプロデビューが決まっているバンドが売名目的で出演したり、テンションが下がってしまったのだ。
そのためなのか、代表するバンドというと「LITTLE CREATURES」「THE BLANKEY JET CITY」「PANIC IN THE ZU:」てな感じでしか紹介されずに足早に終わってしまった。

LITTLE CREATURES「VISITA」
2007123017「LITTLE CREATURES」もライトなジャズテイストバンドで好きだったんだけど、当時高校生だった3人が卒業と同時に留学とかでバンドが解散してバンドブームの最中はほとんど活動しなかった(ミニアルバムを数枚出してますが)
でも今でも思いだしたように活動しているみたいでやんす。
「THE BLANKEY JET CITY」は数年前までバリバリに活動していたんだけど、やるべき事はすべてやり尽くしてしまった感もあり、結局解散してしまった。
残念。

有機生命体「マリリンとウミガメスープ」
2007123006番組中で実はこんな人が!
という事で「FORT BRAGG」のボーカルが後にソロデビューした小野正利だったとか、「砂場」のボーカルが後にモダチョキでデビューする濱田マリだとか紹介していた。
他にも何人か細かく仕事をしている人もいて、一時期タレント活動していたもりばやしみほの「ハイポジ&ハボハマニア」とかもありますな。
でも、最終回の少し前に「GLAY」が出演して赤ランプ付けられたって話はダメなんですかね?

KUSUKUSU「世界が一番幸せな日」
2007123018函館からやってきたバンド「GLAY」は5人組で、メンバーはボーカルTERU&ギターTAKURO 以外は知らない人で(たぶん…)、曲は激しくショボく、途中で赤ランプ付けられていました(この回に出演した10バンドで赤が付いたのは2バンドのみ)。
もっともWikipediaのGLAYの項目を見ると「すでに東京で活動していて事務所の肝いりで番組に出演」と書いてあるんだけど、なんか函館から来たという話で、演奏前の三宅裕司との会話の中でTAKUROは工場勤めをしながらバンド活動をしていて、その工場で募集した標語で優秀賞を取ったなんて話題をしている。
うむ、人に歴史ありなんだろうけど、その時の映像は出してくれるな!って事なんだろうなぁ

THE WEED(IKA-TEN)
2007123019でも2年目はグズグズになってしまったイカ天だったけど、あのフォーマットは充分面白いと思うので、20年時代が経ったイカ天をレギュラー番組として(もちろん深夜枠)やって欲しいと思うのだ。
20年も経っているので、当然「パパがかつてイカ天に出た」なんて2世も登場するんじゃないかと。
もしイカ天が復活するのなら、また作詞作曲しちゃおうかななどと思ったりする年の瀬なのだ。
なんて適当な事を言ったりするのだ。

2007123021
長文になってしまった。

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2007年12月24日 (月)

「ホワイト・クリスマス」の謎

クリスマス時期になると否が応でもシャンシャンシャンという鈴の音と共にクリスマスソングってやつを耳から流し込まれる。
テレビを付けても、ラジオを付けても、街中を歩いていても、俺は仏教徒だぞ!と叫んでみてもクリスマスソングを流し込まれてしまう。
うっせぇ!と思いつつ、気が付いたらそのメロディに合わせて「さんたくろーうずかみんほー♪」などとくちずさんでいる自分がいるワケですが。


2007122401てなワケで、10年前の雑学で「世界で一番売れたシングル盤は、ビング・クロスビーが歌う「ホワイト・クリスマス」です」というのがあった。
1942年に発売されてから、毎年クリスマスシーズンになると売れるので50年かけて売上げを累積して凄い事になったのだ。

てな物があったんですが、その記録は1997年にイギリスでダイアナ妃が亡くなった際、その告別式でエルトン・ジョンが歌った「キャンドル・イン・ザ・ウインド」がヒステリー状態かと思えるような世界を巻き込んだ熱狂的なブームの中で売れ、たった1ヶ月で世界一売れたシングル盤となってしまい、ビングクロスビーが頑張った50年って何ンだったの?て感じだった。
とりあえず2001年版のギネスブックなんかにも「1997年10月20日の時点で22カ国でNo.1になり、3300万枚売れて最高の売上げシングルとなった」みたいな事が書かれている。

2007122407が、ネットを見ると「世界最高の売上げシングルはビング・クロスビー「ホワイトクリスマス」である」という記述をあちこちで見る事が出来る。
あぁこれは古い記録なんだな、と思ってみるのだが、そこには売上げ枚数「5000万枚」などと書かれている。うぬ、この10年でビング・クロスビーは2000万枚以上売上げを上乗せしたか?とも考えたんだけどそれもないよなぁ
おそらく、これはシングルって事じゃなく、色々なクリスマスソングのコンピレーションアルバムなんかに収録された数を含めた数字じゃないかと思うのだ。(あくまでも推測)なんせ、自分にとってビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」って曲はシングル盤ではなくアルバム収録された物しか見たことがないから。

2007122402という事で、この曲に関しての雑学は
☆「ホワイト・クリスマス」の作者アーヴィング・バーリンは真珠湾攻撃で身内が亡くなったため同曲は彼の遺言で日本語に訳す事が禁止されている。
という物がある。