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2010年9月10日 (金)

たった200年前の事なのに解らない。

江戸時代の生活を色々と調べている。
しかし、文献を読めば読むほど研究者によって言っている事が違っているのが、難しいけれど面白い。


凄く分かり易い部分では時間に関してでも、当時は1日を12等分して干支を当てはめているけれど、真夜中の「子の刻」という物が12時に始まるとしている人と、12時を中心にした午後11時から午前1時としている人と別れている。
たとえば12時に始まるとすると「子の刻」は午前0〜2時で、次の「丑の刻」は午前2〜4時までという事になる。「丑の刻」はよくわら人形に五寸釘を打ったりする「丑の刻参り」で今でも使う言葉(使わないか)で、その中でも幽霊話で出てくる「丑三つ時」ってのがあります。
江戸時代は1日を12等分した「刻」をさらに4等分して「一つ時」から「四つ時」まで、つまり30分間隔で時間を表現していたワケです。だから午前0時スタートの刻で考えると「丑三つ時」は3時から3時30分という事になります。

が、広辞苑で『丑三つ時』を引いてみると
うし-みつ【丑三つ】(1)丑の時を四刻に分ちその第三に当る時。およそ今の午前二時から二時半。
と書いてある。つまり「子の刻」は午後11時から始まるとしている。さらに『時』という項目には
とき【時】(2)昼夜の区分。現今は真夜中(午前零時)から真昼(午後零時)までを午前、真昼から真夜中までを午後とし、その各々を12等分(または午前・午後を通して12等分)する。昔は12辰刻が広く行われた。これは夜半を九つ、一刻を終わるごとに八つ、七つ、六つ、五つ、四つとし、正午を再び九つとして四つに至る区分である。また、時刻を方位に結びつけ、一日を十二支に配して12等分し(夜半前後一刻を子の刻とする。午前零時から午前2時までを子の刻とする説もある)、一刻の前半・後半を初刻と正刻に分け、さらに四分などする区分もあった。この区分は、後に一刻を上・中・下に三分するようになった。また民間では、日出・日没を基準に定めて、明六つ、暮六つとし、昼間・夜間をそれぞれ六等分して四季に応じて適当な分割による時刻を定めた。時刻。刻限。
と書かれている。

う〜んと思ってしまうのは、文献によって時間の表示が午後11時始まりなのか、午後12時始まりなのかで統一されていないのだ。例えば「大工仕事などは申の刻には終わった」と書かれているのが3時なのか4時なのかではかなり印象が違うという事。
その辺は文献を読み込む時に考え考えいかなくちゃいけないのだ。
「刻」は午前12時を中心に前後1時間ずつなのですが、もうひとつ「九つ」「八つ」という12等分の時間区分の扱いも面倒くさい。
広辞苑では午前12時に始まって12等分されていたとしているので、そう考えるとちょっと複雑になる。つまり午後12時に「九つ」という時間が始まるんですが、その時間帯は「刻」で行くと「子三つ・子四つ・丑一つ・丑二つ」が「九つ」となる。なんじゃそりゃ?

東京民謡「お江戸日本橋」という曲があるんですが、その歌詞の始まりは「♪お江戸日本橋 七つ立ち♪」となっています。この7つ立ちというのは先ほどの数え方だと午前4時という事になる。東海道を旅する人は日本橋を4時に出発するという事になっている。
当時は当然外灯もなかった時代なので、そんな真っ暗闇で旅立つのか?と思いますが「お江戸日本橋」の中ではちゃんとそれに触れた箇所も出てくる。
「♪高輪夜あけて 提灯けす♪」という事で、日本橋から提灯を手に持って歩き始め、高輪についた頃に夜が明けて提灯を消すという事らしい。東海道を旅するのも大変なのだ。
と考えていると、もう一つ疑問が出てくる。

201009101旅のスタート時点の日本橋なんですが、安藤(歌川)広重の絵にも書かれているので分かるように日本橋には大きな木戸がある。実はこの扉というのは夜の9〜10時頃に締められて、明け方の6時頃に開けられるという事が書かれている文献がある。
これによって江戸の治安が守られ、逆に逃げ出す人も取り締まることが出来たという事なのだ。
が、明け方の6時頃に木戸を開けるとなると「お江戸日本橋 七つ立ち」というのが無理なのではないか? という事なのだ。
これをさらに調べていくと、実はこの木戸の脇に小さな扉があって夜間はここを使ったと書かれている物があったり、木戸には扉など無かったと書いている物があったり、さらには実は木戸は閉めなかったと書いている物まである。
とりあえず「寅の刻、七つ」に木戸が開くと書かれている物がある。「寅の刻」は広辞苑式だと午前3時から5時。「七つ」は午前4時という事になるので、やっぱり午前4時に木戸が開くって事でいいのかなあ?

さらに、江戸時代お伊勢参りが大ブームでもっとも盛り上がった1830(天保元年)の伊勢参りの参拝者は一日15万人に膨れあがった事もあって、江戸からも毎日1万人規模の参拝者が訪れたとか某文献には書かれている。
かのディズニーランドがもっとも混雑した時期で一日7万人の来園者だとされているので、どんだけだよって感じ。
この人数はどこで誰が調べた数字か不明ですが1万人も江戸から毎日人が流出したなんて事ありえるのかなぁ
江戸から京都まで東海道を男性がだいたい11泊、女性が16泊程度で旅をしたとされているので、伊勢までの往復は20泊前後と考えると、毎日1万×20日江戸を離れていると計算して20万人が常に江戸を離れている計算になってしまいます。
江戸時代末期には江戸と区分された都市部に100万人も住んでいて、それは当時の地球上でもっとも栄えた都市という事が色々書かれているんですが、常に20万人も出払っているのありかな? う〜む。

201009102でもって「お江戸日本橋」の歌詞にある「♪初のぼり行列そろえて♪」と言う部分。「初のぼり」というのは当時は京都が上だったので「初めて京方面へ旅立つ」という意味なんですが「行列そろえて」というのは、明け方日本橋の木戸が開くのを伊勢参りの人たちが大量に待ちかまえていて、時間が来て開いたと同時にドドッと歩き出す様子らしいです。なんか江戸時代の東海道の旅というイメージが変わっていく。
すべての江戸出発の旅人が日本橋を利用したワケじゃないけれど、東京マラソンの参加者が3万人という事を考えると、毎日日本橋では午前4時にとんでもないイベントが開催されていたような感じなのかなぁ

よく解らない部分が多いので、面倒くさいけれど面白いって事かな。

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コメント

ちょこっと疑問に思ったんですが、お伊勢参りは何月頃が旬だったんでしょうかね。
当時の時刻はサマータイムが導入されていて夏冬の時間帯がばらばらだったらしい事は知人から教わりましたが、冬にお伊勢さんじゃ行き倒れも心配になりませんかねぇ。
夏中心のイベントだとすると、行列を作ってって事と安全性なんかについても納得いく部分もでてきますが、ツアーを組んで総出で楽しんだって事は間違いないでしょうね。

投稿: ギモンちゃん | 2010年9月11日 (土) 17時18分

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