« バスに乗った | トップページ | トーキョーウォーカー(浜離宮→かちどき橋編) »

2009年8月 8日 (土)

酒井法子『夢冒険』

酒井法子『夢冒険』
作詞.森浩美/作曲.西木栄二/編曲.中村暢之
1987年11月25日/¥700
ビクター/SV-9297


2009080801月曜日に「酒井法子の旦那が覚醒剤取締法違反で逮捕」という報道があり、そこから怒濤の展開で、失踪→悲劇の元アイドル→容疑者→出頭という野島伸司でもそんなストーリーは考えつかないだろうという結末を迎えた。
失踪した時に報道では「子供を連れて自殺なんて最悪な展開は…」と危惧していた。特にサンミュージック的には「自殺」だけは勘弁して欲しいと思っていたんじゃないかと思う。
自分が「酒井法子」というアイドルを一番最初に認識したのが、まさに自殺報道の最中だった。
1986年4月8日に所属タレントだった岡田有希子がサンミュージック本社ビルから飛び降り自殺をした。この時、岡田有希子は同事務所の大先輩・松田聖子作詞の「くちびるNetwork」が大ヒットした直後で最注目株のアイドルだった。

2009080803_3
飛び降り直後の写真が写真週刊誌に掲載されるなど、ショッキングな事件だったが、その時事務所に押し寄せたマスコミがちょうど歌手デビューに向けてレッスンをしていた酒井法子にインタビューしたのを記憶している。
オドオドしながら「とても優しい先輩でした」みたいなことを語っていたと思う。その後、どっかの雑誌でピアノの前で岡田有希子と酒井法子が並んでレッスンしている写真も見た。
で、その時に岡田有希子の担当マネージャーだった溝口伸郎は担当歌手が亡くなったこともあり、酒井法子の歌手デビューから担当になるのですが、そのマネージャーも2000年に自殺をしている。
そして、サンミュージックはこの2009年7月に岡田有希子が飛び降りた本社ビルを新宿区四谷から移転している。移転した途端にこんな事件なのだ。
そんなこんなもあってサンミュージックの社長は「自殺」というのを最大に恐れていたんじゃないかと思う。

2009080804
社長にとって酒井法子というのは大事にしていた存在なんだと思う。
サンミュージックという会社は森田健作を売り出す為に作った芸能事務所で、森田健作の「太陽のような明るさ」からサンと名付けたとされている。
70年代は森田健作・都はるみ・桜田淳子・リンリンランラン・香坂みゆきなどが所属していた。
この酒井法子が歌手デビューした1987年は、看板タレントだった松田聖子が結婚して仕事をセーブし、早見優も翳りが見え、一番プッシュしていた岡田有希子が自殺をしてしまったという事から、なんとしてでも酒井法子には売れて貰わなくてはいけない!という事で、社を上げて大プッシュしなくてはいけない存在だったのだ。
が、アイドル界は「おニャン子クラブ」を中心にすでに飽和状態で生半可なキャラでは切り込めない状態になっていた。
そこで「おニャン子クラブ」に敵対するような「モモコクラブ」でデビューし、当時売出し中だったビデオデスクの方式「VHD」のソフト『YUPPIE』を発売して『世界初のVHDデビュー』という売りを作り出す。(歌手デビューよりこっちの方が先なので「VHDデビュー」となっているが、実際にはその前にドラマデビューをしている)

『のりピー音頭』市販カセット版・非売ラジオ局版
2009080807さらに特殊な言語「のりピー語」でソフト不思議ちゃん的キャラ設定で注目を浴びるようになった。
デビュー当時は「のりピー語」は使っていなかったが、ある時から「うれP!かなP!」とか言い出すようになり、それに従ってニックネームも「のりっぺ」から「のりピー」に変更される。
これは当時、酒井法子が同世代のアイドルとこのような言葉で遊んでいたのを見たサンミュージック社長が「これだ!」と、その特殊言語を大プッシュした結果らしい。つまり「のりピー語」は別段酒井法子の発明ではないのだ。
というか、この「うれP!かなP!」というのは、もともとサンプラザ中野がオールナイトニッポンなどで使っていた言葉で、それが中高生の間で流行っていたものを同世代の酒井法子たちが使っていたもの。

こぼうず隊『ちゃんちゃらおかP音頭』
2009080802実は、酒井法子がデビューするのより2年前の1985年に「こぼうず隊」という別名で『ちゃんちゃらおかP音頭』という曲をリリースしている。(他に爆風スランプの12inch『無理だ!〜決定盤〜』のカップリングにも別Ver.が収録されている。
そのこともあって「のりピー語」というのは飽和状態だったアイドル界で、特殊キャラを作り上げるために無理矢理考案された物という印象を自分は持っていた。
他に酒井法子というと「のりピーちゃん」という線だけで書いたマスコットキャラを書いていて『週刊少女コミック』に連載までしていた事がある。といっても、なんかこれも仕掛けたっぽい感じ。
この「他のアイドルと差別化をする」という戦略が凄くあざとい感じに成功して、歌も売れ、高校野球の入場行進曲なんかにも選ばれ、トップアイドルになっていくのだ。

2009080805_2
当時、原宿を中心にタレントショップを開くというのがブームで「え?こんな人までタレントショップ?」という感じで、すぐに飽和状態となっていったのですが、ここでも「差別化」が発揮される。
すでに原宿には『のりピーちゃんハウス』という店があったのですが、1988年7月、富士山の8合目の山小屋『太子館』に『のりピーちゃんハウス』を2ヶ月限定でオープンした。もちろん「日本一高い場所にあるタレントショップ」という肝いりで。
これが結構話題になったので、翌年1989年にもオープンして、この時ファンクラブが「のりピーと富士登山」というイベントを開催し、酒井法子も富士山頂まで登っている。この年の5月に父親が交通事故死しているので、その供養と新曲祈願を兼ねての富士登山だったらしい。
この事があって、先日の報道で「山梨県で携帯電話の電波が確認された」という時に「父親絡みではなく、他のことでも山梨県に関わりがある、それは富士山のショップだ!」とYahoo!ニュースに書かれていた。
たった1回の登山でそこを関係づけられてもねぇ。

2009080806
今回の報道で「日本のみならずアジア各国で大人気を博し」という事が言われていたけれど、実際にはアイドル人気で言えば日本で売れなくなってからアジアに大々的に進出したという印象がある。曲リストを見ると富士登山をした頃がアイドルとしての低迷が始まったころかな?
当時、芸能ニュースで「台湾で大人気」というのを見て、日本では売れなくなったので拠点をそっちに移したのかあと思っていた。たしかに戦略的に90年代に入ったばかりの頃のアジア進出はありだった。企業なんかも進出する計画を色々上げていたからねえ(有名なのはヤオハンですが、それで企業として傾いてしまったけれど)。
アイドル歌手として忘れられつつあったタイミングで「ひとつ屋根の下」「星の金貨」で女優としてブレイク。主題歌「碧いうさぎ」のヒット。

で、その後の「自称プロサーファー」との出来ちゃった婚。この辺に関しては当時から「プロ登録されていない」というのはよく語られていた話で、父親が経営している店の役員を務める、ただのチンピラだとか当時の週刊誌にも書かれていたような気がする。
他にも父親や公表されていなかった弟の話など、色々な物がこの先出てくるのかもしれないけれど、個人的にはその辺はもうどうでもいいや。
酒井法子のCDは発売中止になっていくだろうし、逆にヤフオクなんかでは高く売ろうとする人が現れるだろうし、ラジオなんかでも流せなくなっていくだろう。でも、曲には罪はないのだ。
ただ芸能人ウンヌンではなく、やっちゃイケナイ事をしてしまった人は、それなりの罪をちゃんと償って、ちゃんと更正してほしい。芸能界なんかにしがみつかないで。

|

« バスに乗った | トップページ | トーキョーウォーカー(浜離宮→かちどき橋編) »

コメント

ちょっと気の毒な気もする。
歌手として売れず、演技の才能があるわけでもなく。でも事務所と自分のために、
とにかく頑張らないといけない状況が10代から続く。
40前になっても「のりピー」と呼ばれ、「酒井法子」のイメージを外れた行動は
CM契約上も許されない。
普通の家庭に入って過去の人になることさえできなかった。
そう考えると周囲の人の心配も分かるような気がする。

投稿: おおつぼ | 2009年8月11日 (火) 09時12分

80年代前半の最大のアイドルが松田聖子だとしたら、後半の最大のアイドルが酒井法子だった。
デビュー曲からコンスタントにそこそこ売れていたし、ベストテンの常連だったが、ピークは3年くらいだったね。
その後しばらく低迷が続いて、‘ひとつ屋根の下’というドラマで復活。

投稿: けさな | 2009年8月12日 (水) 14時21分

デビューした頃はかわいかったなぁ。
Aさん宅で見たオリジナルビデオを思い出すよ。

酒井法子が未来を救うため(だったかな?)
エレクトロンチューブ(真空管)を探す話だったと思う。
悪役のニセサカイノリコ(二役)もかわいくてね。

その後、近隣諸国でも評判の美人に成長したのは
知っていたけど。

あれから22年かぁ。

投稿: おおつぼ | 2009年8月19日 (水) 19時42分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« バスに乗った | トップページ | トーキョーウォーカー(浜離宮→かちどき橋編) »