ピンクレディー「サウスポー」
ピンクレディー「サウスポー」
作詞.阿久悠/作曲.都倉俊一/編曲.都倉俊一
1978年3月25日/¥600
ビクター/SV-6372

背番号1の凄いヤツが相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で
この曲がリリースされたのは1978年のシーズンが始まる直前。前年1977年9月3日に王貞治は通算756号ホームランを打ち、ハンク・アーロンの記録を抜いて世界一になっている。そして国民栄誉賞1号を授与している。
自分は基本的にスポーツに関してはあんまり興味がない人で、贔屓にしているチームとかは無いんだけど、この時は興奮したし、王貞治という選手をリアルタイムで知っているのは自慢できるのだ。
とにかくこの曲がリリースされた時が王貞治という選手の最高潮の時期で、1980年に選手引退している。
ただ残念なのがこの曲の2番の歌詞が
背番号1の凄いヤツが笑う
お嬢ちゃん投げてみろとヤツが笑う
となっているという事。実際の王選手は闘志は人一倍あったんだろうけれど、それを表情には出さずに、ホームランを打った時でさえ「負けた人もいるんだから」と大喜びするような事が無く、常に対戦する人にも敬意を表しているので、歌詞のようなふてぶてしい態度は取らないのだ。
とりあえず「背番号1」で「フラミンゴ打法・一本足打法」というキーワードは出ているが王貞治という事は書かれていない。しかし、この詩を書くに当たって阿久悠は王貞治の自宅に直接電話をして敵役として登場させる了解を取っている。そして王貞治が阿久悠に直接逢った時「僕のことを詩に書いてくれてありがとう」と感謝したそうです。
実はこの曲、最初「サウスポー」というテーマで曲を作りレコーディングまでした時、ディレクター飯田久彦が「何かインパクトがない、勢いがない」とダメ出しをしたという。(事務所社長の相馬一比古がダメ出ししたという話もある)
実はタイトル自体はすでに1月の段階で芸能週刊誌の記事として「ピンクレディ、次のシングルタイトルは『サウスポー』だ!」と騒がれていたために別の曲を持ってくる事も出来なかった。(そんなのが大々的に記事になるほどピンクレディは爆発的に売れていたワケですが)
そして都倉俊一にもっとテンポのいい曲を書くように命じ、出来た曲にレコーディングの前日、阿久悠が新たに詩をつけ、今知られてる「サウスポー」が誕生している。
その判断が「オリコン初登場1位」「オリコン9週連続1位」という記録を達成した。
1月の週刊誌で「サウスポー」のタイトルがリークされているという事は前年末には「サウスポーのピッチャーが活躍する曲」というイメージが出来上がっていたんだと思うのですが、その前年テイタム・オニール主演で映画「がんばれベアーズ」が大ヒットしていたり、アメリカでポール・R・ロスワイラーが書いた小説「赤毛のサウスポー」が話題になっている。
これらが多大なるヒントだったのではと思うのだ。
ついでに女性サウスポーと言えば水原勇気が活躍する漫画『野球狂の詩(水島新司)』がある。
雑誌連載は1972年からですが、やはり前年1977年に木之内みどり主演で映画化され、さらに同年アニメ化もされている。
現在でも「サウスポー」は高校野球でブラスバンドがブカブカ演奏する曲としてお馴染みで、夏の大会で演奏された曲順位では2007年は23校で3位、2008年は28校で4位となっている(同時に2007年4位、2008年3位が同じ阿久悠・都倉俊一コンビの「狙いうち」ってのも凄いですが)。
ちなみに「サウスポー」を一番最初に応援歌として使ったのは群馬県の桐生高校。この時のピッチャーがサウスポーだったので使ったのですが、初めて使われた大会が1978年春の選抜大会との事。
つまり3月25日にリリースした曲を早速使うという早業なのだ。
でも野球の応援って、攻撃をしているチームが演奏するんじゃなかったけ? だとすると魔球でキリキリ舞されちゃう曲はどうか?って事です。
しかし、リリースから30年間、今でも演奏され続けているって凄い。
その理由のひとつに、今でも人々の記憶に鮮明に残っている王貞治という人物が歌われているというのも大きいんじゃないかと思ってしまうのだ。
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