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2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち「悲惨な戦い」

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

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コメント

 花の応援団で薬痴寺先輩を演じたのは、その後でしたっけ。因みに若秩父の機転の利いた弟子は「朝潮」でしたね。
http://www.stickam.jp/audio/175569473

投稿: SHIN | 2008年4月17日 (木) 14時46分

悲惨な戦いが73年、嗚呼花の応援団(役者やの〜)が76年らしいです。
私にとってなぎら氏と言えば「葛飾でバッタを見た」ですね。ガキの頃、ほのぼのと聞いていましたが「将来デパートなんかに住みたくないなぁ」なんてボケッと考えていました。

どおくまんの花の応援団と言えば、実兄が某大学応援団で、先輩命令で蝉をやらされた経験談を投稿したところ第二巻に採用されていました。
当時東京の下宿にサインと景品が飾られていたのを思い出しました。

投稿: ばら太郎 | 2008年4月17日 (木) 15時35分

記事中でリストニアとあるのはエストニアとリトアニアが混ざった誤入力だと思いますが、どっちでしょう。

ロシア語の諺を調べてみたら、溺れたときにつかむ対象は藁でした。つまらなくて残念。

投稿: ノポル | 2008年4月18日 (金) 11時59分

>ばら太郎さん

>嗚呼花の応援団(役者やの〜)が76年らしいです。
 ということは、1981年の「フーセンドラ太郎」以前にも細々と、「面白いキャラ」は売れていたのですね(というか、マンガのキャラに顔がそっくりだったからか ← なぎら氏がモデル?)。「蝉」のエピソードは覚えています。

投稿: SHIN | 2008年4月18日 (金) 12時34分

>SHINさん
自分もなぎら氏は映画『嗚呼花の応援団』の頃に「なんか面白い人」と既に知っていたので、著書『日本フォーク私的大全』の中で70年代末に引退を考えていたという話を読んで、意外な感じがしました。
おそらく自分はタモリ人脈の中で知っていたと思うのですが、世間的にはそんなにキャラクターは認知されていなかったのかなぁと。(11PMとか深夜番組には出ていたような気がするんですが)

機転の利いた弟子はシングルでは「朝潮」でしたが、1995年に出たベスト盤『中毒』の中では「オニシキ」になっていました。

>ばら太郎さん
自分も最初に記憶しているのが「葛飾にバッタを見た」と「四月十日の詩(デン助劇団に捧げる唄)」でした。
ちょい調べてみた処、1977年にもATG映画『北村透谷 わが冬の歌』という作品に出ていて、川上音次郎役をやっているみたいです。
http://www.youtube.com/watch?v=iI5A_ZBMcVw

>ノポルさん
リトアニアの間違いでした。ホントに物知らずな男だと思われてしまいますので、こっそり本文は修正しました。
あと「泡をもつかむ」はアルメニア辺りでも言うみたいです。

投稿: 杉村 | 2008年4月18日 (金) 14時06分

>ホントに物知らずな男だと思われてしまいますので

 ネット検索すると、結構「リストニア」ってひっかかりますよね。あるじゃん、と思って本文を読んでみたら、「杉原千畝」なんて名前が出てきて、あらあらあらって感じでした。

投稿: SHIN | 2008年4月18日 (金) 14時39分

現在も過去も、「放送禁止歌」というものはありません。かつては、「要注意歌謡曲」というものがありましたが、現在では、その制度もなくなっています。詳しくは、森達也著「放送禁止歌」(解放出版社)をご参照のこと。

投稿: | 2008年4月22日 (火) 23時29分

楽しく読ませて頂きました。

仙八先生では教師ではなく、食堂のオヤジ役だったようですね。

投稿: | 2016年2月28日 (日) 20時32分

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