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2008年4月25日 (金)

関町物語(13)

ということで「関町物語13」です。
連続して書いていますが、実はこの13をこの日に!というのがあったので、こんな形に連続になってしまいました。
なぜ今日、4月25日なのかというというのは漫画のあとで
関町物語バックナンバー

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銀座1億円拾得事件
1980年04月25日:東京銀座の道路脇にあった風呂敷包みをトラック運転手の大貫久男さん(42)が発見。 大貫さんは当初、道に放置されているゴミだと思ってトラックの荷台に投げ込んだが、その風呂敷づつみの中身が現金1億円だということで大騒ぎになった。 その1億円の落とし主が名乗り出ないために、実は麻薬取引に絡んだ金であの場所に金を無造作に放置し、売人が現物と引き替えに持っていくという算段だったとか、企業の裏金だとか、諸説囁かれた。
当時は現金の拾得物は6ヶ月で拾い主の物になるという事で(現在は原則3ヶ月)、その期限が近づくにつれ、不審電話などが増えてきた事から、24時間警護のガードマンを雇う。警備費を半額にしてもらい契約・全警備の費用は約400万円。 そして6ヶ月が経過し全額を手にする事となった(一時所得なので3000万円が税金)。
その日、その書類にサインをするため警察に現れる大貫さんをテレビ局新聞社などが退去して待ちかまえていたのだが、大方の予想ではガードマンを引き連れた物々しい状態で…、だったが実際にはジョギングスタイルで一人でひょいと現れてサインをして帰っていった。 この時のインタビューで「幸せになるか不幸になるか、ぼくの人生が終わった時に答えが出ると思う」と語っている。
ウワサではその後、マンションを建てたかして、その家賃収入で悠々自適の生活をしていたといわれている。 ついでに、1982年に放映された「テレビに出たいやつみんな来い!!」というゴングショー形式の番組に審査員として、横井庄一さんと一緒に出ていた(が、番組は10回という超短期間で終了)。世を忍ぶ仮の大学生時代のデーモン木暮閣下も素人として出演したという伝説の番組。 あと、自主制作で演歌のレコードを出したとも言われている。
そして事件から20年後、大貫さんは2000年12月2日に趣味の釣りに来ていた伊豆の伊東で心筋梗塞で倒れ62歳で亡くなっております。 果たして幸せだったのか、不幸だったのか。

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2008年4月22日 (火)

関町物語(12)

ということで「関町物語12」です。
1月に書いて「よぉし今年は1ヶ月に1回のペースで書くぞぉ」と心に誓ったワケですが、心に誓っただけで発表をしていないので、このざまです。
関町物語バックナンバー
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竹の子族
1980年代の3月17日、原宿の歩行者天国でラジカセで音楽を流し踊る中高生の集団が朝日新聞に「面白い若者文化」として紹介された。(現象自体は1979年からあったらしい) これがマスコミが「竹の子族」を取り上げた最初で、そこからテレビなどでも取り上げるようになり、あたかも社会現象化のように後に語られるようになり、夏に向けて爆発的に増えていった。
ちなみに「竹の子族」という名前はもともと原宿・竹下通りにあるブティック『竹の子』という店で売っていた、中近東風&和風を合わせたカラフルな服を着ていた事から名付けられたワケです。 で、なぜ中高生が歩行者天国などで踊っていたかというと、1978年にジョン・トラボルタ主演の「サタデーナイトフィーバー」が日本で公開されディスコブームが巻き起こっていたワケですが、中高生はそのブームを横目で見つつディスコに行けない事から路上で踊り始めたというワケでやんす。
ラジカセでかける曲は当時ディスコで流行っていた「ジンギスカン」「アラベスク」「ヴィレッジピープル」等々。シックなどのソティスケートされたディスコ曲や、アースウィンド&ファイヤーなどのようなファンキーな曲はどうも好まれなかったようで、次第に単純な4拍打ちの曲が主流となり、それが80年代中期にディスコを席巻するユーロビートへ繋がっていくのだ。
若者が集まる場所にはマスコミも集まり、そこからスターも生まれるワケで「竹の子族出身」という肩書きで沖田浩之がデビューし、さらに清水宏次朗などもデビューしていく。最末期の竹の子族で女優・深津絵里も踊った事があるらしい。

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2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち「悲惨な戦い」

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

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2008年4月15日 (火)

上田正樹と有山淳司「俺の借金全部でなんぼや」

200804151上田正樹・有山順司「俺の借金全部でなんぼや」
作詞:三上寛
作曲:上田正樹・有山淳司


大阪のシンボル的存在「くいだおれ」が今年7月8日をもって閉店する事が発表された。
くいだおれという店に入った事がない人でも、店頭で愛想を振りまく「くいだおれ人形」だけは知っていると思う。(店の前にある人形と一緒に写真を撮った人は沢山いるけれど、店にまで入った人は少ないのでは...ってそれが閉店の理由だ!)
くいだおれ人形の本名は「くいだおれ太郎」で生年月日は1949年6月8日となっている。これは「くいだおれ」開店日に合わせてある。
が、実際にはこの開店当初は店頭に人形はなく、その翌年の1月に人形が登場してる。

しかも、その時登場した人形は現在の物とは違っていて、ハチマキにハッピを着ている店員スタイルだったという。さらに片手にはホンモノのビールが入ったジョッキをお盆に載せていたという。
そして、その恰好でグルグル回って店をアピールしていたのですが、回転するたびにビールをまき散らしていたという事でリストラの憂き目に遭っている。
そこで登場したのが、現在まで活躍している「くいだおれ太郎」。初代との関係は親子という設定。となると、誕生日が創業日というのはオカシイのでは?と思ってしまうけれど、そんな細かいことは気にしない。(父親は現在、頭部だけが残されているらしい)

このくいだおれ太郎は普段は黒縁丸メガネ、紅白縞模様の洋服に、とんがり帽子というコテコテ大阪人の代表としてガンバっておりますが、折々に衣装チェンジもしている。
世界陸上の時は日本代表のTシャツを着たり、1992年に阪神が優勝争いをしていた時は、その前の時カーネルサンダースが道頓堀にダイブさせられた事もあって「わて、泳げまへんねん」と書かれたプラカードを提示しながら浮き輪と水中眼鏡を装着した。
あと、昭和天皇の大喪の礼の時、白黒のストライプの服を着て店先に立っている。

やはり阪神タイガースのファンという設定で2003年の日本シリーズには福岡ドームへダイエー(現ソフトバンク)の偵察にも出かけている。(服装はタイガースのハッピ)
さらに、野茂英雄の試合観戦にドジャーススタジアムに出かけたり、関西空港開港イベントではアンセット・オーストラリア空港&ルックJTBの招待でオーストラリア旅行もしている。
時々、出張に出かけ「くいだおれ太郎」が不在になった時、次男「くいだおれ次郎」が登場する事になっている。

長男・太郎が太鼓を叩いているのに対し、次男は基本的におめでたい時に登場するのでバンザイをする仕様となっている。(別名:バンザイ人形)
この太郎と次郎の顔つきは同じで、初登場時代に人気だった喜劇俳優「杉狂児」がモデルになっていると言われてる(創業者・山田六郎氏の顔がモデルとも言われている)

さらにこの兄弟にはイトコもいて、くいだおれの裏にあるレストラン「ウラ・くいだおれ」にいる「くいだおれ楽太郎」。世界陸上を見るために帰ってきたという洋行帰りのオシャレさんというキャラクター。
この「くいだおれ」という店は創業者の山田六郎さんが先進的な人で、街頭テレビが話題になった頃、すでに店にはテレビを設置して客寄せに大成功しているし、支店を出さずに家族で経営せよと頑ななポリシーの元に運営されていた。
その一環での店頭人形だったんだろうけれど、今回の閉店に関しては「時代に取り残されてしまった」という事なのかも知れない。

くいだおれ人形というと自分がすぐ思い出してしまうのが上田正樹と有山淳司の「俺の借金全部でなんぼや」という曲。このシングルのジャケットにくいだおれ人形が使われている。
パッと見ると、くいだおれ人形の前で記念撮影をしただけの安易な写真のように見えますが、実際はもっと安易な合成写真。この辺りも「なんかよう分からんが関西ぽいなぁ」という感じなのだ。
「俺の借金全部でなんぼや」を初めて聞いたのは中学の頃だったか? 自分の中で当時、関西人というと「ツルコでおま」の笑福亭鶴光師匠と、あのねのねが基準で、関西系の曲というとミス花子「河内のおっさんの唄」間寛平「開けチューリップ」などもあって、大阪系のブルースもコミックソングの一環で聞いていた訳ですが、改めて聞いてみると渋くていいっすね。(桑名正博のファニカンなどもありましたが)
で、ビックリしちゃうのが、この曲、歌詞の中に上田正樹のバンド「サウストゥサウス」のメンバーの名前が折り込まれていて、延々と金借りた、金貸した、少し返した、という事が歌われていて最終的には「俺の借金全部でなんぼや♪」と繰り返すだけのコテコテな物なんですが、作詞は三上寛なんですな。三上寛と言うバリバリの津軽人が作詞した関西の歌。

ちなみに歌詞の中に登場する人物は以下の通り
お好み焼き屋のゆうちゃん(藤井裕:B)
乾物屋の中西(中西康晴:Key)
アルサロのくんちょう(堤和美:G)
おかまの五郎ちゃん(正木五郎:D)
有山(有山淳司:歌&G)
10年ほど前だったか、ビールのCMで突然クレジットに「クンチョー:青い夏まで待てない」と出ていた時に「あ!アルサロのくんちょう!」とビックリしたことがありますが、それぞれが今でも地道に活動を続けているんですなぁ。
乾物屋の中西こと中西康晴さんはともさかりえのアルバムで弾いていたり、そこここで名前を拝見します。

そんなこんなで、くいだおれ人形の再就職先が検討されている昨今ですが、橋元徹大阪府知事による聖域無き構造改革が実行されようとしている大阪、いったいどこへ行こうとしているのだ? まさに大坂の借金全部でなんぼや? なのだ。

上田正樹の豆知泉

歌手になることを反対されていた上田正樹は「ちょいと風呂行って来るわ」と家族に告げてそのまま家出した。歌手になり、そこそこ名が売れた7年後、恐る恐る家に帰ると、「えらい長い風呂やったなー」と出迎えられた。

上田正樹のニックネームは「キー坊」なのは、先に兄が「マー坊」と呼ばれていたため。

「ネシアアトラスオオカブト」の学名は『Chalcosoma atlas keyboh』、ここに出てくる「keyboh:キーボー」は上田正樹のこと。学名をつけた永井信二が友人の上田正樹のニックネームを付けた。


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2008年4月 8日 (火)

聖火リレー大混乱

4月6日ロンドンを走る北京五輪聖火リレーに対し、チベット絡みの人権擁護団体による抗議活動が起こり、さらにパリでも起こり、さて今度アメリカ・サンフランシスコではどうなるんだ? と大混乱となっている。


ワイドショー的な意見では「平和の祭典でのこのような争いは避けて欲しい物ですね」みたいな物があったれけど、個人的な感想としては「中国はまだ国際的に成熟していない部分が問題なのでは?」と思ってしまうのだ。
今回のチベットの問題は、明らかにオリンピックにより世界的に注目が集まっているタイミングでの騒動だと思うけど、それ以外に中国は「台湾問題」「ウイグル自治区問題」などをずっと抱えているので、前々から「このタイミングで何かが起こるのでは?」と囁かれていて、自分は台湾の方がなにか動くんじゃないか?と思っていた。
他にも現在の中国は環境問題など、国際社会の中で問題点を大いに抱えている。

で、オリンピックに関しての「平和の祭典」という言葉は、あくまでも理想なのだ。
今回、聖火リレーが抗議活動のターゲットになっているけれど、この聖火リレーが考案された1936年のベルリン五輪がそもそも「人権無視のオリンピック」だったので、なんかこの騒ぎは運命的な物を感じてしまう。
聖火リレー自体、ナチスドイツのヒトラーが考案した物で、侵略予定の近隣諸国の情勢をチェックするためにリレーを走らせたのではないか?と言われていて、第二次世界大戦終了後のオリンピックが復活した際に「ヒトラー考案の聖火リレーを採用するのはいかがなものか?」と議論されている。

そのベルリン五輪ですが、ヒトラーがバリバリの差別論者でアーリア人優位主義に凝り固まった人だったので、ユダヤ人の五輪参加を認めないとか、黒人の活躍など認めないとか色々な逸話を残している。
とにかく自分をアピールしたかったヒトラーは各国の優勝選手をワザワザ握手までして祝福していたが、アメリカ陸上界の英雄ジェシー・オーエンスが4つの金メダルを獲得した時、黒人選手だということで無視をしている。
そしてその時、オリンピックから閉め出されたユダヤ人選手達は、ナチスの手が及ばないスペインで「バルセロナ人民オリンピック」というもう一つのオリンピックを開催しようとしていた。しかし、選手団が現地入りした直後にスペインで内戦が勃発し、この大会は中止となっている。

その1936年ベルリン五輪の次に予定されていたのが、1940年東京五輪。これは日本が「1940年は日本は皇紀二千六百年なので絶対開催したい!」ともの凄くプッシュして誘致をしたのに「五輪なんかやっている世界情勢じゃない」と開催前年に撤回してる。
オリンピックが政治的理由で混乱した大会というと、有名なのは1980年モスクワ大会(ソ連のアフガン侵攻に抗議してアメリカを中心に大量のボイコット)、さらに1984年ロサンゼルス大会(前回ボイコットされたソ連などが逆にボイコット)などが有名です。

実はモスクワの前の1976年モントリオール大会は人種差別問題に絡んでアフリカ諸国がボイコットしている。
イデオロギーが異なる大量の国がそれぞれの思惑を抱えて参加するオリンピックなので、もめ事が起こるのは致し方ないとは思う。
しかし、中国はちょっとアキレス腱が多すぎるので「まだ国際的な部分で時期尚早だったのでは?」という気がしてしまうのだ。

そういえば、人権というか人種差別という問題に関しては、1904年にアメリカで行われたセントルイス大会で「人類学の日」というイベントが行われている。
これは色々な人種を集めて競技させるという物で、インディアン・黒人・ピグミー・アイヌと分類された人々が(どのような経緯で集められた人なのか不明ですが)どれだけの身体能力を持っているかという、名義上は「学術的」となっているけど、実際は見せ物の「興味本位」のイベントが開催されている。
これに関しては、大会後にアメリカ国内でも「人種差別だ」「ただの見せ物だ」と問題になっている。


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2008年4月 6日 (日)

富士山99の謎と小林亜星の息子

昔から本屋で「雑学」と名が付いた本はとにかく買っていた。あるいは「雑学的」な物も、若干興味がないジャンルでも「いつか読む」「いつか役に立つかもしれない」という事で買っていた。
ただのサラリーマンで、それが何の役に立つのかわからない時から延々と。
そんでもって、パラパラと立ち読みして「ダメだ、この本はあまりにもダメだ」と思ってしまう内容でも、とりあえず買ってきた。


99そんなこんなで今日本屋で『富士山99の謎(彩図社)』を見つけ、何も考えずに購入。
作者の名前は「小林朝夫」あれ?どっかで見たことがあるような気が…。
と思って、奥付にある作者の略歴を読む。
著者略歴
小林朝夫(こばやし・あさお)
1961年2月16日、小林亜星の次男として東京都杉並区に生まれる。
トップレベルの進学教室にて、御三家志望生徒の国語指導に長年携わり、奇跡の合格率を誇ってきた。「国語の神様」の異名を持つ。
現在、国語に関する教材・著作物の制作と講演を中心に精力的に活動している。
八ヶ岳国語研究所を主宰。
著書に『本当は怖ろしい漢字』(小社刊)がある。


そうか!小林朝夫って小林亜星の息子だ! と言う所で「?」という疑問が出てくる。
自分の記憶の中では「小林朝夫は小林亜星の長男で俳優」という認識だったのだ。
東映のゴレンジャーにはじまる戦隊物5弾『太陽戦隊サンバルカン』で豹朝夫(変身後:バルパンサー)という役を演じ、さらにその父親役としてリアル父親小林亜星が出演している。
この番組が小林朝夫の俳優デビュー作なので、おそらく小林亜星の大いなるバックアップがあったんだろうなぁと思っていた。

この番組が放送された当時、もう見るような年齢じゃなかったので、小林亜星の息子が戦隊物の主役に起用され、その父親役で小林亜星も出ているという話題だけを小耳に挟んでいた。
で、Wikipdiaをチェックすると、1982年12月、役者として尊敬していた岸田森の急逝に強いショックを受けしばらく休業。その後復帰するが1986年を最後に役者として引退してしまったとの事。
その後、奥付に書かれていたように学習塾講師に転身し、実績を積み重ねているとの事。

うむ、人に歴史ありなのだ。

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2008年4月 2日 (水)

図書館記念日(の雑学)

日本最初の官立公共図書館で、現在の上野図書館と国立国会図書館の前身の『書籍館』が、東京の湯島、昌平賓講堂に1872(明治5)年04月02日に開設された。
その後『書籍館』は『帝国図書館』と名前を変え、戦後は『上野図書館』と『国立国会図書館』に分けられている。


という事で、4月2日は「図書館の日」となっている。
10年ほど前ぐらいから、時々地元の図書館に通っている。というのも、サイトを開設した直後から、文章を書いていて「あれはいったいどういう事なのだ?」と思うと、調べなくてはいけないのだ!と図書館に行くようになった。
基本的に自分は図書館をリファレンス、いわゆる古い文献などを調べるために利用しているんだけど、中には「本を買わなくても借りればいいじゃん」的に利用している人も多いみたいですが。

基本的に自分は「本を買う時には金を惜しまない」というタイプの人なので、よっぽどの高額書籍以外は何も考えずに買ってしまうので、新刊を図書館で読みたいとは思わないのだ。
本を買う趣味なんて、クルマとかゴルフとかグルメとかに比べたら全然安い趣味だと思っている。(あくまでも個人的価値基準)

気が付くと、サイトで文章を構築する事を初めてから10年、その間に「これって何かの資料になるよな」と本屋で目に付く資料になりそうな物をガンガン購入していた。
気が付いたら、自分の部屋がある種の方向に特化した図書館になっていた。そ〜んなに高価な本とか特殊な本、稀少本などはないけれど、とにかく自分が興味がある範疇で調べたい事はなんとか解決できるレベルに本が増えていた。

とりあえず自分が自由になる空間が10畳&16畳&6畳+αと広いので、そこに18個の本棚を置き、どかどかと本を所蔵してある。と言っても、先ほど書いたように高価な本はあんまりなく、基本が文庫本&新書なので、ありがちな「巨匠の本棚拝見」みたいな企画に出てくるような重厚感はなく、ひたすら「ブックオフの文庫コーナー」の趣なのだ。
それ以外にも庭にあるプレハブの物置の中には、段ボール箱に大量の本をしまい込んでいるので、自分でも本の数は把握できない所まで来ている。

でも、1つだけ自分の中で決めているのは「オタクっぽくならないように」という事なのだ。
18個の本棚がある段階で「何言ってんだ?」状態ですが、いわゆる雑然としている状態が好きとか、ゴチャゴチャした状態が安心できるとか、そーゆーのは好きではないので「機能的でシンプル」を目指しているのだ。
ただ、去年フリーの人になって気がゆるんでしまったのか、年間500冊以上本を購入してしまったので、この先その信条をキープし続けるかは不明なのだ。

で、目下の悩みは、その本のデータベース化という事。文章を書いていて「あ!これってあそこに書いてあったよな」と思った時、その本が即座に探し出せないということ。
先日もとある文章を書いている時に「…このエピソードって確かバルザックも同じような状態だったよな」と思い出したのはいいんだけど、曖昧なまま書くわけにもいかないので、かつて読んだ本を本棚から探し始めた。
記憶ってのはやはりビジュアル的な部分が重要で、頭の中でそのバルザックについて書かれた文章が「1段組の書籍の右ページ4〜5行目に書かれていた」「おそらくその本の真ん中ページより少し前」という漠然としたイメージが残っていたので、それを頼りに関係ありそうな本をパラパラとめくってみる。

コレも違う、アレも違う。と何冊も検索していく。当然、その課程で関係ない文章に心引かれてしまったりもするのだが、探し始めて10数分後「あった!」と発見した。そこに書かれていた内容はおおよそ記憶のままで、文章の位置もおおよそ記憶のままだった。
そんなこんなで「データベース化は急務なのだ」とここで書いていますが、もう10年近く前からそんな事を書いて今に至っているのであります。

図書館がらみの雑学では
図書館の返却延滞記録は1823年にシンシナティ医科大学図書館で貸し出された本が、借りた人物の曾孫によって1968年に返された、145年と言うもの。
という物がある。

この時に貸し出された本はJカリー博士著作『熱病』と言う医学書で、実は借りた本人が死去し、さらに図書館の担当が途中で代わった為にウヤムヤになっていたという事で、ずっとかりっ放しになっていたらしい。
図書館なんかの本を万引きする人も多々いるみたいで、それが「手元に置きたい」という目的なのか「転売して金にしたい」という目的なのか「ただスリルを味わいたい」という目的なのか不明ですが、調べ人としてはウヌヌヌという感じなのだ。
でも「転売」という目的だとしても、図書館の本って基本的に背にがっしり分類シールが貼ってあって、さらに本全体をビニールコーティングしてあるケースもあって、売るのは難しいだろうと思ってしまう。

が、自分が古本屋で購入した某書籍なんかは「あきらかに図書館経由」という感じのシールを剥がした後(そこだけ日焼けしていない)など証拠が残っている物もある。諸事情あるので、それが図書館万引きの末に古本屋にたどり着いたワケでないかも知れないのだが。
古本屋で分厚い年鑑ものの上巻だけを見たこともあるけど、下巻だけになった図書館も困ってしまうだろうな。

という事で、そんな困ってしまうネタとして
ベルギーのカトリック系大学の図書館は宗教問題で大学が2つに分離した時不公平にならないように、本を整理番号の偶数と奇数で分配してしまった。その為、全集などの1.3.5.7巻と2.4.6.8巻が分割され、学生は苦労した。
という物がある。こうなってしまうと「いっその事なら無かった方が良い」となってしまうかも知れない。小説なんかで、1巻を読んでも続きの2巻が無いってのは拷問に等しいのだ。

以前、古本屋でとある小説の文庫本上巻が105円だったので購入した時、かなり面白かったので下巻を探したが、数件の古本屋になく、数件の新刊書店も探し、ついにその本のハードカバー(全1巻)を発見し「うぬぬぬ2500円かぁぁぁぁ!」と悩みつつ購入した事があった。
しかもその後半が拍子抜けするぐらいに御都合主義で面白くなかったというオチもついて。
そんな感じに、飛び飛びの全集ってどうよ?

シンガポール独立時にも、マレーシア大学とシンガポール大学が本を分け合い、同様の事をしてとんでもない事になった。
という事例もある。それまでシンガポール大学はマレーシア大学の分校扱いで、資金をマレーシアが出していたからそうなってしまったんだけど、おそらくそれを決めた人は基本的に本を読まないようなお役所の人なんだろうなあ。

ちなみに過去に書いた図書館とか本に関する雑学

日本の作家の本で一番最初に「全集」と言う言葉が付けられたのは樋口一葉の作品(1897年に博文館刊)

昔、書籍の奥付には作者が1冊づつハンコを押した検印紙が貼られていた。これは勝手に印刷されるのを防止するために福沢諭吉が自著『西洋旅案内』に押印したのが始まり。

書店のPOSシステムの分類では、写真集は「実用書」に分類される。つまりヌードがたくさん載っている本は実用書。

井上ひさしは出身地である山形県川西町に、蔵書7万冊を寄贈して「遅筆堂文庫」という私設図書館を設立した。

しかし自分の所蔵している本は価値がない物が多いので、自分が死んだ後、図書館とかに寄付しても嫌がられるだけだろうなあ

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2008年4月 1日 (火)

宝塚少女歌劇デビュー(の雑学)

1914年04月01日に宝塚少女歌劇が宝塚温泉パラダイス劇場で第1回公演を行っている。


演目は桃太郎を歌劇にした「ドンブラコ」と言う物。今の宝塚ではありえないような演目なんですが、当時の宝塚は今のように徹底したエンターテナーとしての劇団ではなく、当時の新聞評では「学芸会に毛が生えたようなもの」という物もあった。が、この宝塚少女歌劇は本格的な演劇じゃない部分が逆に庶民に受け、高尚ぶっている舞台とは縁遠かった一般庶民が家族揃って楽しめると評判になっていた。

当時の箕面有馬電気軌道路線図
20080401map_2そもそも宝塚少女歌劇というのは、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の専務・小林一三が考案した物で、もともと鉄道を大阪梅田から有馬温泉まで繋げる予定でしたが、当時は兵庫県宝塚を終点とする路線でした。それと石橋駅から分岐し、箕面(みのお)へ続く路線もありました。
※お茶の水博士さんよりの指摘で文面を修正し、当時の箕面有馬電気軌道の路線図を作成。
その頃の宝塚も箕面も観光地でもなく住宅地でもなく、この路線を使う人はほんとうに少なかったため「じゃ、宝塚に観光地を作ろうじゃないか」と考えたのが大きな転機となったのです。

武庫川周辺の広大な土地を購入し、1911(明治44)年「宝塚新温泉」を開き、翌1912年に「宝塚パラダイス」という娯楽施設を作っています。
そして、この1912年7月30日、明治天皇崩御により大正時代になっている。
この「宝塚パラダイス」は評判になり1日の来場者が1200人ほどになっていて、同じ年1912年12月から朝日新聞で連載が始まった夏目漱石の「行人」の中でも

「じゃ明日は佐野を誘って宝塚へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰をしてくれるのが苦になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。「青空文庫:夏目漱石行人より」

などと宝塚が登場している。
ところが、この「パラダイス」にあった室内プールが人気が無く、客がほとんど来ない状態だった。
というのも娯楽として泳ぐという風習はまだなく、「海水浴」という風習は明治時代から日本でも紹介されたばかりだったのだ。
夏目漱石が1905(明治38)年に書いた「吾輩は猫である」の中でも

海水浴の功能はしかく魚に取って顕著である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病即席全快と大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。「青空文庫:夏目漱石吾輩は猫であるより」

と書かれているが、まだ大量に押しかけるような状況ではなかった。さらに室内にあるプールという事で水温が異常に冷たかったという事もあったらしい。

そこで考えたのが、脱衣所があった場所をステージに改造して、プールの水槽部を客席にした劇場だった。と言っても最初から「少女歌劇団」を考えていた訳ではなく、その劇場では「婦人博覧会」「婚礼博覧会」というファッションショーのような物を企画した。

そしてそのショーの合間の間繋ぎとして考案したのが少女たちによる唱歌隊だったのだ。
1913(大正2)年7月1日に16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」は後に増員をして20人になり、名称も「宝塚少女歌劇」と変え、1914年4月1日の初公演「ドンブラコ」に至るのだ。
これが、現在まで続く宝塚歌劇団のスタート地点。
最初は、利用者がいないプールの再利用から企画されたショーの間繋ぎで誕生したのです。

このマイナスだった所からの大逆転を、1970年代にも宝塚歌劇団は経験している。
1961年頃、戦後復興から始まった高度経済成長が一段落して、政府までもがレジャーを推進し始めていた。1961年のメーデーにも「本格的レジャーよ、やってこい」というプラカードが登場するほど、勤勉もいいけどもっと余暇を楽しもう!という風潮が広がっていった。さらにTVがどの家庭にも入り込んだこの時代、映画産業の衰退が叫ばれていたのと同時に、演劇関係も客足が遠のき始めていた。

そんな風潮の中、宝塚は逆に「古い娯楽」として徐々に客足を落としていった。そんな中、俳優・長谷川一夫が演出する事となり「なにか洋物芝居の演出をやりたい」と提案から、当時少女漫画で人気があった「ベルサイユのばら」の舞台化はどうだ?という事であの超有名な舞台が始まっている。

もっともすでに熱狂的ファンの多かった漫画なので「べたべたの日本人が演じると原作のイメージを壊す」と脅迫状もあったというが、長谷川一夫は歌舞伎の演出「型」の導入や、洋物芝居として八頭身に見える衣装デザインなど、それまでの宝塚演出を作り替えていく。
戦いのシーンはそれまでは横向きに敵と対峙していた物を、主役が客席に向かって演技させ、照明で表情を変化させ、さらに顔の動かし方まで型として指導し(二階から一階に目線をおろし、いの26番の席を見つめろ)少女漫画にあった瞳の星を意識させたり、すべて観客本位での演出を手がけた。

長谷川一夫は照明について徹底的に研究した人物で、所属映画会社の移籍に伴ったもめ事で顔を切られてしまった過去があり、顔に傷がある。その傷が舞台上で目立たないようにする演出として照明を研究していた。実は、長谷川一夫と宝塚歌劇団の繋がりはこの事件も関係している。
役者として致命的な顔に傷を負った長谷川一夫を支援して、映画復帰作「藤十郎の恋」を準備してくれたのが宝塚の社長という事で、多大な恩義を感じていたのだ。(長谷川一夫という名前はその移籍後からで、それ以前は林長二郎/東宝という映画会社は東京宝塚の略)

その原作の人気と、長谷川一夫の大胆な演出とで大ヒット上演となり記録的動員を集め(初年度15万人)、当時のトップスター鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨の名前も有名になり、現在に続くような安定したブームとなっていく事になった。
舞台という娯楽の衰退期に、長谷川一夫という舞台を知り尽くした演出家と、大人気漫画原作で乗り切った宝塚なのだ。
って、最近のテレビドラマの原作ってのも、衰退期ゆえの事なのかなぁ


宝塚の雑学
宝塚歌劇団の定年は60歳。ただし「結婚したら退団しなければならない」という規則もあるので実際にはそれ以前にやめてしまうケースがほとんど。
手塚治虫の『リボンの騎士』ヒロインのサファイアのモデルは宝塚歌劇団の当時のトップスター淡島千景。
『リボンの騎士』はもともと兵庫県出身の手塚治虫が宝塚を意識して書いた作品で作中にミュージカル的なシーンも多く出てくる。
宝塚歌劇団では「鼻の頭を指で強く押して凹んだら非処女」という噂がささやかれている。
宝塚歌劇団の「寿つかさ」の実家は六本木にある寿司屋。芸名はそこから「寿(ことぶき)司(つかさ)」として付けられた。そのため、劇団内でのニックネームは「すっしぃ」。
ついでに
ミーハーという言葉は昭和初期に作られた言葉で、当時の女性に多かった「みよちゃん・はなちゃん」から来ているから、と言われるが別の説もある。
当時の若い女性が飛びつく物で「蜜豆」と「林長二郎(後の長谷川一夫)」から来ているという説もある。
ついでに他の説も
聞きかじりの英語で「ボクの彼女」というつもりで「Me her」と語るもの知らずの若者を、指す言葉。
芸能雑誌の「明星」「平凡」ばかり読んでいる軽薄なやつ、という意味で、明星のM、平凡のHからミーハーと呼ばれるようになった。

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