アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』
自分にとってアーサー・C・クラークといえば『幼年期の終り』なのだ。
創元版:カバー絵・真鍋博
あの超有名なSF映画の金字塔と言われる『2001年宇宙の旅』は「凄い!」という噂ばかりが先行して、田舎ではリバイバル上映もされず、ちゃんと見る事になるのはずっと後になった。アーサー・C・クラークとの出逢いは中学3年頃に、創元文庫で『地球幼年期の終わり』を読んだのが最初だった。
中学1年で星新一に遭遇しライトなSFに目覚め、そこから小松左京・筒井康隆という解りやすい道を通って、中学3年の頃に海外SFを読み始めた。
と言っても、なんか「他のヤツらとは違う世界の本を読んでいるんだぜ」的意識があったので、背伸びしまくりで実際にはそこに書かれている内容の半分も理解しないで読んでいた。
そんな賢くない田舎の子が「地球幼年期の終わり」というアーサー・C・クラークの作品を読んで、なんだか自分の理解の範疇を超えた部分で「うむむむ」と感情をコントロール出来ない不可思議な読後感に包まれた。
それを説明出来ないもどかしさに悶々とした中学3年生だった。いや、今でも上手に説明できないんだけど。
早川版:カバー絵・中西信行
創元版を中学時代に読んで、早川版を高校時代に読んだ。福島正実の訳は解りやすいなぁと思っていたんだけど、その中で宗教に関した部分がぼやかされていた。
創元版(P108)訳.沼沢洽治
もっと深奥な変化も起きている。完全な世俗化、非宗教の時代が来たのだ。〈上主〉たちが来る前にあった諸宗教のうち、まだ生き残っていたのは純化された仏教(おそらくすべての宗教の中でもっとも厳正な宗教がこれである)の一種だけだった。
早川版(P112)訳.福島正実
もっと複雑な性質の事柄もやはり移りかわっていた。二十一世紀は完全に非宗教な時代だった。オーバーロードの出現以前にあった種々様々な宗教のうち、現在残っているのは、あの非常に浄化された一形態ーおそらく、あらゆる宗教のうちでももっとも厳格な戒律を持ったものだろうーだけだった。
早川新装版:カバー絵・上原徹
と、思いっきりクラークの宗教観が提示されちゃっているんですが、早川版は仏教という部分はぼかしている。クラークは仏教思想がかなり反映されている物もあるのだが、日本に生まれ育ち、あんまり宗教的な部分での意識を持っていない自分が読むのと、西洋などの心の中心に宗教が大きくある人々では、全然意味合いが違ってくる部分なんだろうなぁ。
架空の話として読む分には早川版の方が抽象的なので、物語を邪魔しない感じはするんですが…。
まだ自分が何ものでも無かった時代に、一段上にある精神状態に変容していく物語を読み、漠然と「何んとかしなくちゃな」と思ったような気もするけれど、未だに自分は幼年期の中に佇んでいる。
おそらく死ぬまで幼年期のまんまのような気もする。
創元新装版:カバー絵・不明
細かい事ですが、この作品の邦題、創元版で書くのなら『地球幼年期の終わり(訳.沼沢洽治)』、早川版で書くのなら『幼年期の終り(訳.福島正実)』となる。実は「おわり」の漢字表記が「創元:終わり」「早川:終り」なのだ。
という事を以前からネタにしていたんですが、今回チェックした所、去年光文社から出た「古典新訳文庫」では『幼年期の終わり(訳.池田真紀子)』というタイトルになっている。それまでは『幼年期の終わり』という表記の作品は実在しなかったのに、あぁ手持ち雑学もこうやって時代と共に変わってしまうんだな。
というわけで、ネットで多く見かける『幼年期の終わり』というタイトルは光文社版の事なのだ。すいませんねえ細かくて。
古典新訳文庫版:カバー絵・不明
自分の中では読み始めた頃から、アーサー・C・クラークは現実感を持たない遠い遠い次元の人なので、まだ生きていたんだっけ?という感じでした。(90歳だとはビックリしました)中学生だった自分に、色々な物に開眼するようなキッカケを与えてくれたけれど、スットコドッコイの私は結局開眼せずに今に至っています。アホな読者ですいませんです。
そしてご冥福をお祈りいたします。
掲載した表紙、最初の三冊は本棚にあった物で、創元新装版と古典新訳文庫版は手元にありません。
どうやら、古典新訳文庫版は第一章に直しが入っているらしいです。














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