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2008年3月24日 (月)

アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』

自分にとってアーサー・C・クラークといえば『幼年期の終り』なのだ。


創元版:カバー絵・真鍋博
Younen03あの超有名なSF映画の金字塔と言われる『2001年宇宙の旅』は「凄い!」という噂ばかりが先行して、田舎ではリバイバル上映もされず、ちゃんと見る事になるのはずっと後になった。
アーサー・C・クラークとの出逢いは中学3年頃に、創元文庫で『地球幼年期の終わり』を読んだのが最初だった。
中学1年で星新一に遭遇しライトなSFに目覚め、そこから小松左京・筒井康隆という解りやすい道を通って、中学3年の頃に海外SFを読み始めた。
と言っても、なんか「他のヤツらとは違う世界の本を読んでいるんだぜ」的意識があったので、背伸びしまくりで実際にはそこに書かれている内容の半分も理解しないで読んでいた。

そんな賢くない田舎の子が「地球幼年期の終わり」というアーサー・C・クラークの作品を読んで、なんだか自分の理解の範疇を超えた部分で「うむむむ」と感情をコントロール出来ない不可思議な読後感に包まれた。
それを説明出来ないもどかしさに悶々とした中学3年生だった。いや、今でも上手に説明できないんだけど。

早川版:カバー絵・中西信行
Younen01創元版を中学時代に読んで、早川版を高校時代に読んだ。
福島正実の訳は解りやすいなぁと思っていたんだけど、その中で宗教に関した部分がぼやかされていた。
創元版(P108)訳.沼沢洽治
もっと深奥な変化も起きている。完全な世俗化、非宗教の時代が来たのだ。〈上主〉たちが来る前にあった諸宗教のうち、まだ生き残っていたのは純化された仏教(おそらくすべての宗教の中でもっとも厳正な宗教がこれである)の一種だけだった。
早川版(P112)訳.福島正実
もっと複雑な性質の事柄もやはり移りかわっていた。二十一世紀は完全に非宗教な時代だった。オーバーロードの出現以前にあった種々様々な宗教のうち、現在残っているのは、あの非常に浄化された一形態ーおそらく、あらゆる宗教のうちでももっとも厳格な戒律を持ったものだろうーだけだった。

早川新装版:カバー絵・上原徹
Younen02と、思いっきりクラークの宗教観が提示されちゃっているんですが、早川版は仏教という部分はぼかしている。
クラークは仏教思想がかなり反映されている物もあるのだが、日本に生まれ育ち、あんまり宗教的な部分での意識を持っていない自分が読むのと、西洋などの心の中心に宗教が大きくある人々では、全然意味合いが違ってくる部分なんだろうなぁ。
架空の話として読む分には早川版の方が抽象的なので、物語を邪魔しない感じはするんですが…。
まだ自分が何ものでも無かった時代に、一段上にある精神状態に変容していく物語を読み、漠然と「何んとかしなくちゃな」と思ったような気もするけれど、未だに自分は幼年期の中に佇んでいる。
おそらく死ぬまで幼年期のまんまのような気もする。

創元新装版:カバー絵・不明
Younen04細かい事ですが、この作品の邦題、創元版で書くのなら『地球幼年期の終わり(訳.沼沢洽治)』、早川版で書くのなら『幼年期の終り(訳.福島正実)』となる。
実は「おわり」の漢字表記が「創元:終わり」「早川:終り」なのだ。
という事を以前からネタにしていたんですが、今回チェックした所、去年光文社から出た「古典新訳文庫」では『幼年期の終わり(訳.池田真紀子)』というタイトルになっている。それまでは『幼年期の終わり』という表記の作品は実在しなかったのに、あぁ手持ち雑学もこうやって時代と共に変わってしまうんだな。
というわけで、ネットで多く見かける『幼年期の終わり』というタイトルは光文社版の事なのだ。すいませんねえ細かくて。

古典新訳文庫版:カバー絵・不明
Younen05自分の中では読み始めた頃から、アーサー・C・クラークは現実感を持たない遠い遠い次元の人なので、まだ生きていたんだっけ?という感じでした。(90歳だとはビックリしました)
中学生だった自分に、色々な物に開眼するようなキッカケを与えてくれたけれど、スットコドッコイの私は結局開眼せずに今に至っています。アホな読者ですいませんです。
そしてご冥福をお祈りいたします。

掲載した表紙、最初の三冊は本棚にあった物で、創元新装版と古典新訳文庫版は手元にありません。
どうやら、古典新訳文庫版は第一章に直しが入っているらしいです。

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2008年3月21日 (金)

VOWと私

本棚を見たら、とんでもない数の「VOW本」があった。写真には無いけれど、これ以外に雑誌サイズの「メガVOW」や蛭子さん表紙の「VOW温泉」や少しサイズの小さい「VOW王国 ニッポンの誤植」もある。(VOW17は買い逃してしまった。ちょうど最も鬱だった頃に出た本なのだ)
しかし、ここまで自分がVOW者だとは思ってもいなかった。


20080323_2まだ時代はバブルを経験する前の1980年前後、東京にいた自分は今とさほど変わらないぼーっとした人間だった。
中学高校時代からとにかく本を読んでいたワケですが、いわゆるサブカル系とかいうよく解らないものも知らず(未だにどれがサブでどれがカルなのか不明)、世の中にさほど敵愾心も持たず、名誉欲も、金銭欲もなく、ただただ「絵を描きたい」という事だけを考えて日々を過ごしていた。(性欲というか、女子と仲良くなりたい欲は人並みにありました)
そんな東京で、それまで近所の本屋には無かった色々な雑誌を読み、なるほどなるほどと考えるようになっていったワケです。
もっとも、政治的な部分だとかは全然興味なく、あくまでも物を作るとかが中心だったので、まんが評論雑誌「だっくす」→「ぱふ」・「ふゅーじょんぷろだくと」とかも愛読していた。(それ以前の「漫画界」「漫波」とかは古本で)
あと、まだ書店に社員が配布していた同人誌扱いだった頃の「本の雑誌」とかも。手元にあるもっとも古い号は1979年の19号。

その中で「宝島」という雑誌は、なんだか知らないけど凄い事になっている感じで、毎号「うぬぬ」と隅から隅まで読んでいた。
「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」も色々な雑多な情報が硬軟取り揃えられていたが「宝島」はなんか「うぬぬ」という感じだったわけですよ。
温暖な気候のぼけーっとした静岡から来た少年にとっては刺激が多かった。今ではありえない話なんだけど、ネットが無い時代、情報というのは限りなく制限されて、世界はほんとうに手が届く範囲でしかなかったのだ。
そんな少年が読みふけった雑誌が「宝島」。

さらに「別冊宝島」というのが濃くて、「都市生活者にとって必要なものをユニークな視点から徹底的に追求した知的シティカタログ」と銘打たれた『全都市カタログ』から始まり『マンガ論争』とか『道具の本』とか『精神世界マップ』とか『現代思想のキーワード』とか、とにかく意味が分からない所も無理して読み込んだ。
なかでも『メディアのつくり方』で必死に勉強して、個人雑誌や同人誌なんかを作ったりもした。あと文章を書く勉強になった『みんなの文章教室』『文章スタイルブック』『レトリックの本』なども。
もしかしたら、この辺りで自分はかなり鍛えられたのかも知れない。

という事で、その雑誌『宝島』はとりあえず現在も残っているが、もうまったく違う雑誌になってしまったので興味の外にあるんだけど、当時からあったコーナーだけが独立して現在も生き残っている。
それが『VOW』なのだ。
「宝島」の前身雑誌、植草甚一さんが創刊した『Voice of Wonderland』の略称が「VOW」なのですが、植草さんの意志とはまったく違う方向にいっているトンチキな物になっていますが。
今に続く、写真などの投稿は1982年頃に当時浪人生だったカーツ(佐藤克之)がヒマにまかせて投稿を始めたのがキッカケで活性化していった。

初単行本は1987年なんですが、気が付くとほとんどを初版で購入している。最初に掲載した写真は現在トイレ図書館にあるVOW単行本。気が付いたら凄い事になっているのだなあ。
これ以外にも、色々あるんだけど最近は余りにも多くなって買わなくなってしまった。
最近、VOW常連投稿者の藤岡さんと逢った時に、この話も少し出たんですが、「Voice of Wonderlandと宝島の創刊号持っているんだぜ」と自慢されてしまった。

そんなこんなでこれから先も私はVOW者で有り続けることだろう。

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2008年3月18日 (火)

とりあえず「若いヤツは馬鹿」

KYに代表されるアルファベットで略する言葉をネタにした『KY式日本語』という本が大修館より出ている。


という事で、それがTVなどで紹介され、判で押したように司会者やコメンテーターが「最近の若者はちゃんとした日本語を知らずに…」と批判的なことを口にしてコーナーが終了するというのがパターン。まったく最近のコメンテーターは…、という感じなのだ。

そこで紹介される言葉の代表が
KY=空気読めない
PK=パンツ食い込む
辺りで、特に「PK」辺りに関しては「そんな普遍性のない言葉まで略する必要があるのか?」とコメントが入るんだけど、これらはあくまでも「いかに携帯電話の入力を短縮するか?」という事からはじまり、それが徐々に遊びに変わっていったと言う物で、そこには普遍性は関係ないと思う。

しかも「PK」あたりは、どこかでコレが誕生して「受ける〜それってマジ使う場所なくない?」的に話題になり、この短縮された言葉が紹介される時にネタ的に面白いので毎回取り上げられていったという感じだと思う。あくまでも紹介する雑誌やTVは「面白い物」を中心に取り上げるので。

で「最近の若い者は」というのは、もう聞き飽きた言葉でいまさらって感じ、だって約10年前にコギャル語が出てきた時に同じような感じだったでしょ。
「MK5=マジでキレる5秒前」なんてのは、広末涼子の1997年4月のデビュー曲『MajiでKoiする5秒前』でパロディというか引用されている(この曲が出た時、すでに「今更MK5?」という意見が多かった)。
あと「チョベリバ=超ベリーバッド」なんかもSMAPが1996年11月18日にシングル「SHAKE」の中で歌っている(この時も今更感が強かった)
今更、若者言葉がどーこーと批判的な話題にするのは「よっぽど話題が無いんだろうな」としか思えないのだ。

若者言葉といえば、自分が10代だった時分にも同じような若者間でしか解らない言葉を嬉々としてつかって、上の世代から「最近の若者は」とか言われていた。
現在テレビやマスコミの中心にいる40〜50代の人々も自分が中高生や大学生だった時代に同じような「若者言葉で遊ぶ文化」という物があったのを忘れちゃったんでしょうかね?
手元に『ビックリハウス版・国語事典:大語海』1982年5月3日第四刷という物があるんですが、これは今の「KY」に通じるような「自分たちだけで通じる言葉を作っちゃおう」という趣旨で雑誌『ビックリハウス』に投稿された物を集めた物。
アルファベット語でここから出た物で一般的になった物では「VSOP」→ベリー・スペシャル・ワン・パターンというのがありました。
当時誕生した言葉では「バックレる」とか「エビぞる」とか。

とか言っても、それより前の世代も同じようにアルファベット言葉を開発していて、旧海軍で誕生したと言われる「MMK=もてて、もてて、困っちゃう」なんてのもあるので、別段現在の若者を批判する部分はないんじゃないかと。
昭和30年代にも造語はいっぱいあるんですが、たとえば「MYカップル」なんてのもありました。
これは、カバー曲「ヘイポーラ」がヒットした梓みちよ&田辺靖雄のデュオが、その後も活動するために「やはりグループ名を付けたほうがよい」ということで、『ザ・ヒットパレード』の中でデュオ名を募集してつけた名前が「MYカップル」。M(みちよ)&Y(靖雄)で「MY」ってことです。
そんなこんなでイニシャルトークは昔から多かったのだ。

テレビの中で「若いヤツらは馬鹿」と言っているのは正解なのだ。そこで若者を馬鹿にしている連中だって、若い時は馬鹿だったんだから、問題無し。
ところで、そのワイドショー的ネタで紹介される『KY式日本語』という本、どんな人が買うんでしょうか?
10年前も「コギャル言葉事典」みたいなのが何冊も出ていましたが、今回の「KY」もこの先いくつかの出版社が出す予定があるみたいで(4月の出版ラインナップにある)すが、現時点で「いまさら」なんじゃないっすかね?

でもって、この手の本は「このイニシャルはどんな意味?」というのが中心で、それだけじゃ一冊本を仕上げるのが大変なので、使用法を解説したり、言葉としての分析したりしているんだと思う。
でもやはり「意味が解れば」それで終わりだよなぁ。もちろんネットを検索すればそんなサイト山のようにあるんでしょうか、実は『KY式日本語』はアマゾンの「なか見!検索」というサービスで一部のページを閲覧できることになっている。
で、それを見てみると、表紙→内容解説→目次→第1章扉→五ページほど解説、となっていて、あとは索引をすべて、A〜Zを見ることが出来る。
問題なのはその索引なんですが「AA(甘酢あんかけ)」というワケ解らないものから始まって「ZZ(ずらずれてる)」まで8ページ分読める。
つまり、この本に掲載されているアルファベットの略語と意味は全部ここで読めちゃうのだ。それでいいの?

…って、結局この本はネットを検索出来ない世代が買う本なので問題無しなのか?

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2008年3月15日 (土)

今は幸せなのか

自分が子供の頃、見たい映像があっても「テレビで放送される」か「映画館でかかるか」を待つしか方法はなかった。そしてそれがテレビで放送される時は、もう目を皿のようにして齧りついて、一瞬さえも逃さないように見た。脳内HDフル回転で記憶したのだ。
しかし逆に頭に血が上り、ほとんど記憶していないような状態にもなった。


ぎんざNOW!で小池聡行が紹介していた
2008031801自分の場合はそれは音楽系に集中していて、70年代まだMTVなんかが無かった時代、「今日WINGSの新曲のビデオを流します」なんて言葉に激しく反応していた。
当然、ビデオなんて無かったために一期一会状態で「今日これを逃したら一生見ることが出来ないかも知れない」という感じだっただ。
それが今や、YouTubeでいくらでも見放題。その時のプロモーションビデオどころの騒ぎではなく、イギリスの音楽番組に出演した際のビデオまで見ることが出来る。なんてこったなのだ。
あの「ラジオスターの悲劇」を歌っていたバグルスなんてレコーディングだけのバンドかと思っていたら、向こうの音楽番組に出て歌っているんだもんなぁ。

2008031802YouTubeについては賛否あって、自分の中でも矛盾する部分で「物を作る側としては反対」でも「有り難く貴重な映像を観賞させて貰っている」という形で、何とも言えないのだ。
映像ライブラリーという側面では、いままで本でしか見る事が出来なかった物を見ることが出来るという利点も確かにある(違法状態でアップされているんですが)
ポップな内容だけじゃなく日露戦争なんかに関する映像ですら即座に当時のニュース映像を見る事が出来る。(NHK特集などの映像がアップされている)
こちとらが20年に渡って「いつか役に立つかもしれない」と無闇に録画し続けてきた資料が手元にあるが、YouTubeの場合は検索で即座に出てくるから便利なのだ。困った事に。

2008031803自分が中学高校生だった頃、前にも書いたようにボブ・ディランを聞き始めていて、1976年にバックバンドをしていたTHE BANDが解散をしている。その解散時に行ったライブが「The Last Waltz(1978)」として映画になったというのを聞いて高校生だった自分は「見たい!」と思ったのだが、片田舎の地元ではその映画は上映されず、11PMで今野雄二が紹介する映像を「これかぁぁ!」と感激しながら見ていた。おそらく放送されたのは1分程度だったと思うが。
それが今や、YouTubeにポンッと「The Last Waltz」と入れれば、全編連続ではないがほとんどの曲を見ることが出来る。Bob Dylanが歌い、Ringがドラムを叩き、Ron Woodがギターを弾く「I Shall Be Released」なんかが家に居ながら即座に視聴可能なのだ。

あぁいい時代になったなぁ
と思うんだけど、自分の場合は「見たくても見ることが出来なかった」という前提が存在しているから思い入れが深くなっているため「最高の調味料は空腹」みたいな状態になっているんだろうなぁ。
今の高校生あたりが本で「へえそんなライブがあったんだ」と知り、パソコンでポンッと数秒後にその映像を見る。その内容の善し悪しって事じゃなく情報に対しての向かい合い方がもう全然違うんだろうなぁ(オッサンの愚痴ですか)どっちが幸せなのかは解らないけど。

2008031804で、困ったことに、今そっち方面の人はその事例についてまとめられた文献を読んで状況を俯瞰的に把握する所から入ってくる。
以前書いたけれど(Blog以前)BookOffでポリスの「シンクロニシティ」のCDを買った時に、そこに「ポリスのラストアルバム」と書いてあって「!」と思った事があった。
ポリスは当時聞き込んだバンドの1つなんだけど、このアルバムが出た当時はバンドが最高潮だったのでずっと続く物だと思って聞いていた。が、その後解散宣言をしてスティングがソロ活動を始めているが、2年後に復活してシングル出したりと、なんだか煮え切らない状態でいた。結局その後、アルバムを作らなかったので「シンクロニシティ」がラストアルバムとなってしまった。
が、自分の中では未だにラストアルバムという印象は無い。

でも、後から聞いた人にとっては「ポリス」というバンドはアルバムを5枚出して解散したバンドで、ラストアルバムは「シンクロニシティ」なのだ。
リアルタイムでどっぷりな人より、あとから情報が整理された状態で入って来た人の方が知識として正しい物を持っている。だから自分もつい記憶で「これってこうだったんだよね」とあの時代の事を書いてしまいがちだけど、ちゃんと調べて書かないといけないと思う今日この頃。
でも、Wikipedia辺りにも思いこみで書かれている文章山盛りではあるので、調べていく内に頭を抱えてしまう物も多々ある。

そんな事を思いながらニールヤングのHelplessを聞いてるのであった。(最近、聞く音楽が懐古モードになりつつある)happy02

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2008年3月 8日 (土)

太田裕美「木綿のハンカチーフ」

2008030801木綿のハンカチーフ/太田裕美
作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄.
CBSソニー:SOLB-352
1975年12月21日/¥500


卒業シーズンということで「卒業」とタイトルに付けられた曲でもよかったんですが、とりあえずこの曲を。
といっても歌詞の中には卒業を臭わす言葉は1つも入っていない。ただ何かの事情で都会に旅立つ男と、田舎に残る女の会話が綴られている。
歌っていた太田裕美はアイドル的容姿は兼ね備えていたが、どことなく都会的ではないイメージもあって(個人的偏見&褒め言葉ですよ)この曲に出てくる女性にオーバーラップする部分もあったのか、大ヒット曲となる。

2005030803と言っても、1975年12月21日にリリースされたこの曲は、4日後の12月25日リリース「およげ!たいやきくん」の驚異的なヒット(初登場から11週オリコン1位)によって、ついに1位を獲得出来ずに終わっている。それでも85万枚を売上げ、その後の地位を獲得している。

この曲は作詞家の松本隆がまず詩を書き上げ、作曲の筒美京平に渡した、いわゆる「詩先」といわれる物だったのですが、この詩を受け取った筒美京平は「こんなダラダラした詩に曲は付けられない、なんとかしてくれ」と松本隆に詩を変えるように連絡を取ったという。
しかし松本隆は「おそらく曲を付けるのは難しいということで電話があるんじゃないか」と確信していたので、その日は連絡できない場所へ雲隠れをしていたらしい。
そして、とりあえずの〆切の時、なんとか曲が出来ていあたとかつて松本隆が語っていた。

2005030804まず12月5日リリースの3rdアルバム『心が風邪をひいた日』に収録され、12月21日にシングルカットされている。
アルバムVerとシングルVerの違いは、アルバムの方にはイントロにある特徴的なジャカジャカジャカ〜と上昇するバイオリンのトレモロが無く、他の部分でもストリングスがうっすら入る程度になっている。
あと演奏途中ではいるフルート系のシンセの音もアルバムVerには入っていない。
シングルを聞き慣れているとアルバムVerはスッキリしすぎていてギターのカッティングがキツク感じるかもしれない。
あと歌詞のほうでもシングルは「恋人よ 今も素顔で、口紅もつけないままか♪」で、アルバムは「恋人よ 君は素顔で、口紅もつけないままか♪」となっている。アルバムの方が最初の歌詞で、シングルのは直したという感じです。

2005030805その歌詞はまず男性の手紙から始まり、後半は女性がそれに答える形で手紙を書くという構成で、サビの部分に明確なリフもない、詩だけ読むとどこにサビを持っていったらいいのか解らない詩になっている。
しかもそれが4番まで続き、4番の最後の最後にテーマである「ねえ涙拭く木綿のハンカチーフください」という言葉が登場する仕組みになっている。
そのため、当時の歌番組では2番無しで歌う事も多かった。

実はこの歌詞はボブ…ディランの「スペイン革のブーツ/Boots Of Spanish Leather」という曲がモチーフになっている。モチーフといえば聞こえがいいが、松本隆は結構この「洋楽の歌詞を翻訳して日本風味を振りかける」という作業をしている。
同じ太田裕美ではアルバム曲に「ひぐらし」という物があって、内容はふたりでバス旅行に出かけるという物なんだけど、これはサイモン&ガーファンクル「アメリカ」と設定が同じ。「アメリカ」の中で「アイツの顔、指名手配のギャングに似ていないか」という部分は「ひぐらし」では「♪三億円に似てないかって」となっている。あの時代なら「三億円犯人のモンタージュ写真に似てないか」という意味と解るけど、今聞き直すと「三億円に似てる」って何のことやら。

2005030802そんなワケで、元詩となったディランの「スペイン革のブーツ」はディラン最愛の女性スーズ・ロトロがイタリアに旅立つ時に浮かんだ物(実際には別離ではなく旅行だったみたいですが)。スーズは2ndアルバム『Freewheeling'』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性。
ディランの曲は主人公(男)が船に乗って旅立つ所から始まる。
Oh, I'm sailin' away my own true love,(愛しい人よ、僕は船で旅に出るよ)
これが「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向う列車で」に相当するワケです。
ディランの方はその後
Is there something I can send you from across the sea,(海の向こうに着いたあと、送って欲しい物はあるかい?)
と残した女性に対してリクエストをしている。
同じように松本隆は「はなやいだ街で 君への贈りもの、探す 探すつもりだ」と書いている。

2005030806そこで主人公が突然女性側に移り
No, there's nothin' you can send me, my own true love,(いいえ 何もいらないの 私の愛しい人)
そして「いいえ あなた私は、欲しいものはないのよ」となっている。

その後もディランの歌詞を追っていくとどこかで聞いたフレーズが満載で…。
Oh, but if I had the stars from the darkest night(闇夜に輝やく星たちでも)
And the diamonds from the deepest ocean,(深海から見つけたダイヤでも)
I'd forsake them all for your sweet kiss, (あなたの甘いキスには勝てないわ)
そして最後に
And yes, there's something you can send back to me Spanish boots of Spanish leather. 
(そうだ、君が何か送ってくれると言うのなら、スペイン革のスペインブーツを)
と締めて曲は終わる。
木綿のハンカチなら気軽に送ること出来るけど、スペイン革のブーツは結構難易度が高い贈り物だと思う。

ちょうど「木綿のハンカチーフ」が流行った直後ぐらいに、ボブ・ディランの初来日という物があって、名作アルバム『欲望/Desire』が発売されたりで、中学生だった自分はひたすらディランを聞いていた時期があった。
その関係で「スペイン革のブーツ」の存在も知り、なんじゃこりゃ!そっくりやないけ!と怒りまくった瞬間もありました。

と言いつつ、太田裕美も好きだしという、ファンとしては難しい問題を抱えている曲なのだ。松本隆め!
でも、この曲が名曲なのは紛れようのない事実なのだ。

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2008年3月 3日 (月)

円谷幸吉の選択肢

ちょうど40年前、円谷幸吉という長距離ランナーが自らの命を絶った。


20080303011964年の東京オリンピックの最終日、国立競技場にてゴール200m前でイギリスのヒートリーに追い抜かれながらも銅メダルをつかみ取った円谷だが、「次は金」という国揚げての期待に押しつぶされた。(銀のヒートリーとは僅か3秒差)
1968年、メキシコ五輪を半年後に控えた1月8日。埼玉県朝霞市の自衛隊体育学校宿舎の自室で、右首の動脈にカミソリをあてた。その時円谷は首から東京オリンピックで獲得した銅メダルを下げていたという。

円谷には長年付き合い婚約までした女性がいたのだが「オリンピックに集中するように」という自衛隊上官の強い反対で結婚どころか交際まで禁止された。その結果、相手女性はそれまでプレゼントされた想い出の品をすべて円谷家玄関に置き、別の男性のもとへと嫁いでいった。
その件で円谷と苦楽を共にしてきたコーチが上官に抗議したが、逆にコーチは理不尽な転勤を言い渡され円谷の元を離れていくこととなったという。
円谷には金を取るという選択肢しか残されていなかった。

その時に書き残した遺書はあまりにも淡々としており、川端康成も「美しくて、まことで、かなしいひびき」のある文章として哀悼の意を表している。
川端は同年ノーベル文学賞を受賞しているが、1970に師弟関係にある三島由紀夫の自決を経、1972年に自らガス自殺をしている。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

円谷幸吉を取り巻く環境は想像も出来ない過酷な物だと思うが、遺書ではその事に一切触れていない。追いつめた人への恨みや、去っていった人への言葉もなく、感謝の気持ちと謝罪と、ささやかな「両親と一緒に暮らしたかった」という願いだけが綴られている。
コクヨの便せんに万年筆で書かれた遺書は2通あり、1つが上記の家族に宛てた物。もう一つは体育学校関係者へ宛てた物ですが、そちらにも謝罪しか書かれていないそうです。

どんなに凄い選手でも、限界という物は避けられず、いつか引退しなくてはいけない物なのだ。周囲がどんな事を言っても本人がそれを一番自覚しているんだろう。
円谷幸吉はわずか27歳で自らの限界を感じ、それに応えられないプレッシャーの中、メキシコ五輪の選考を直前に控えての決断をした。
自ら死を選ぶことには全然共感できないけれど、色々な事を考えてしまう。

2008030302ということを、北京五輪マラソンの選考大会となる9日名古屋大会い挑む高橋尚子の「あきらめなければ夢はかなう。そのメッセージを見ている人に伝えたい」というインタビューを見て思い出してしまった。
チャレンジし続ける事は素晴らしいと思う。
その反面、単純に「凄かった時代だけを記憶に残しておきたい」という相反する、無責任な感想も持ってしまうのだ。
努力しても現実はついてこない事の方が多い。夢が叶うほうが少ない。その現実を見つめる勇気も必要なのだ。

遺書に書かれている「三日とろろ」というのは円谷の出身地、福島県須賀川にある正月3日にとろろを食べる風習。

「円谷」という苗字は須賀川市には多く、特撮の神様・円谷英二も福島県須賀川市出身。

「円谷」という苗字の読みは「つぶらや」と「つむらや」の二種類あり、円谷幸吉・円谷英二ともに正しい読みは「つむらや」

「つぶらや」と読まれる事が多いために、円谷幸吉は陸連への登録は「つぶらや」にしており、オリンピックの電光掲示板でも「TSUBURAYA」になっていた。


(3月10日追記)
高橋尚子のチャレンジは検討空しく、になってしまった。
昨今の「努力すれば夢は叶う」は宗教のような甘い言葉として使われすぎて、人々を追い込む呪文のようになっているのが、ちょっと怖いと思う今日この頃なのだ。

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2008年3月 2日 (日)

ご当地ソング「沼津ひものの歌」

地元、沼津の沼津魚仲買商共同組合が全面協賛で作られたご当地ソング「沼津ひものの歌」。
なんかフツーにポップな感じで(ちょいと80年代っぽい古さもいい味)、1回聞いただけで口ずさんでしまいます。
あ、なたの為にアジのひものを〜♪


実際に面倒くさい事を言えば、「御当地ソング」の「御当地」というのは、よそ者がその土地の事を指して言う尊敬語なので、地元歌手が歌うのは間違いなんですけどね。
本当に面倒くさいヤツだな、俺。
この曲に関しては、大いに配布してくださいとの事なので、ここに載っけても大丈夫。

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2008年3月 1日 (土)

石の上にも10年。

1998年3月1日
今からちょうど10年前、インターネット上に自分が降り立ちました。


世間ではまだ「インターネット? 何それ?」という疑問符で語られ、一部の人には「無修正の画像見放題なんでしょ?」とエロ系偏見的興味本位だけで語られているような時代。
そして接続方法はまだ「電話回線」で、11時から始まるテレホタイムに繋ぐために帰宅後すぐ寝て、夜中1時2時に起きて出勤までの時間に必死にサイトを構築する日々を送っていた。
そんなサイト「知泉」が遂に10周年を迎えました。
と言いつつ、現在サイト本体の方は「知泉Wiki」や「知誕Wiki」に移行して、誕生日データ以外はほとんど放置状態(管理はしてますが)になっていて、メイン活動はブログになっています。

自分がサイトを始めた理由は、色々複雑な事情もあったんですが、1番の理由は「精神的に煮詰まっていた」というのが大きかったのかもしれない。
1998年当時はバブル崩壊後のどうしようもない空気が世の中に満ちあふれていて、下っ端サラリーマンは「いつ辞めてもいいよ」的なヘビーな仕事を与えられ、日々疲弊しながら闘っていたのです(今も世の中の状況は変わらないか)。
そんな中、どんどん自分の中で「いかん、いかん」という思いが膨れあがり、その結果として「もぉ何でもいいから発信するのだ!」という事でサイトが始まってしまったのです。
自分の意志もあったのですが、どうしようもない思いに突き動かされたという感じでしょうか。

そのスタート時から雑学は1つの柱でしたが、メインは「お笑い系サイト」という事で、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞書』を思いっきりネタ的な方向に絞り込んだお笑い辞書『現代用語の基礎的じゃない知識』という物をやっておりました(略称「現基ない:げんきない」)。
実はそのお笑い辞書はそれ以前、パソコン通信時代に友人の主催する場所でダラダラと続けていた物を再編集した物がベースになっています。
それ故に、一番最初にメルマガとして発行していたのは「雑学」ではなくそっち方面でした。毎週水曜日発行で毎号10個の新項目を発表するという形で続けていたんですが、1年ほど無事に発行した後、色々あってソッチの方は尻つぼみに終わってしまいました。
でもって同時期に発行していた雑学メルマガ「知泉」が面白くて、そっち中心になり、今に至っているワケです。

サイトとかメルマガを読んでいる人には「無料のメルマガなのに色々調べたりしていてヒマなんですね」みたいな事を書かれた事もあるんですが、実情は全然違っていました。
とにかくヘビーな会社員で、休日出勤当たり前、日々ボロボロになりつつ、「でも会社の往復だけだとダメになる」とサイト&メルマガのために日曜日は図書館通いをしていました。
日々の生活の中でも本をじっくり読む時間を絞りだせず、わずかに出来る時間ということでトイレ、風呂も必ず本持参。それでも禁断症状が出た時は、通勤の自動車の中、赤信号のわずかな時間でも(信号が変わるのを意識しながら)本を読んだり、とにかくメルマガで書く雑学ネタを構築しようとする日々でした。読んでいる時間もあまりないけど毎週大量の雑誌も買っていた。
それがちょうど10年間。
結局、2年程前から仕事の重さと自分の精神とのバランスがおかしくなって、体調不良や鬱状態になり入退院、休職を経て、切羽詰まったあげく「フリーな人になるのだ!」と後先考えられずに今の状態になってしまったのです。
サイトを始めた時のどうしようもない突き動かされ方と変わっていないのだ。

10年前にサイトを始めた時に、こんな事になるとは思っていなかったけど、それでもその間に自分の念願だった「本を出す」ということを3回も経験しているので、よしよしって事なのかもしれない。
インターネットの世界で10年続いているってのは、歴史あるサイトの部類に入るのかもしれないけれど、まだまだ勉強し続けていかなくてはいけないのだ。
今後もよろしくお願いします。

10年前の雑学

10年前、まだインターネットは一般的ではなかったが(雑誌、新聞では話題としてよく取り上げられていたけど)1996年の段階ですでに桃屋のCMでは、平賀源内に扮したアニメの三木のり平がパソコンをいじりつつ五目寿司を食べながら「これはイイタネっと」とインターネット絡みの駄洒落を言っている。

1998年1月6日:コペンハーゲンの人魚像の首が切断される事件が発生してるが、犯人は第一発見者のカメラマンだった。その人魚像には足がある。あれは人魚から人間へ変わる瞬間を表現した像なので。

1998年2月3日:朝日新聞の家庭欄で「何でもマヨネーズをつけて食べる人が増えている、これを『マヨラー』と呼ぶ」と紹介されているのが、マヨラーという言葉が活字になった元祖。

1998年5月6日:自由に自動車のナンバーが選べる制度が発足しているが、それよりずっと昔、高島忠夫と寿美花代が新婚時代にマーク2のCMをしていた事から、会社からの寄贈された自動車のナンバープレートは「す・3874」という、語呂合わせナンバー「す・みはなよ」になっていた。

さまぁ〜ずはかつて「バカルディ」と名乗っていたのは有名な話だが、実は1998年7月「ヤリリン・クリリン」と言う別名義で金融業プロミスのCM曲「ヤリー BE GOOD!」をリリースしている。

という事ですが、10年サイトを続けてきて判明したことは「人間の基本的な部分は成長できないんだなぁ」という事。これから先の10年も姑息に当たり障りのない処世術を発揮して頑張ります。

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