てなワケで、前日の雑記で「最近自分の中で戦国時代フェア開催中」と書いたワケですが、そんなこんなで初代戦国大名ってことで、複数の本に書いてある北条早雲の部分だけをまとめて読んでみた。
自分の本部屋には「いつか読むんじゃないか?」ということで色々なジャンルの役に立ちそうな本を「いつの日か」の為に買って保存してある。
やっとそれらが役に立つ日が来たのだ。
てなワケで、それを読みはじめたんですが、戦国時代はとにかく登場人物が多くてこんがらがってしまう事があるので、勝手にビジュアル化をして読み進めた。
昔から海外のミステリーなんかでも登場人物が多いとかってにキャラクターの顔を作り上げて読み進めていたワケで。
そんなこんなをしていたんですが、気が付くと北条早雲に関した「学習漫画」を書いていた。何も考えずに鉛筆書きしたのでほとんどアングルは同じような物で、かなり短時間でどっぉぉおと書いたので、かなり適当なんですが、とりあえず「こんな感じ」って事で発表。
素人が好き勝手出来る無責任なメディア「Blog」ならではですな。下書きだけでペン入れする気無いし(下書きは短時間だけど、ペン入れは時間かかる)。ついでにほとんどビジュアル系の資料を見ていないので、顔とか適当だし、服装や武器も適当でやんす。
2〜3ページ分ぐらいのつもりで始めたんですが、なんか乗ってきて長編になってしまった。しかも前半って感じ。

そもそも北条早雲って人は歴史の舞台に出てきたのが40歳過ぎで、それ以前のことはハッキリと記録されていない。
とりあえず最近の研究では、備中(現.岡山県の西部)に生まれて、縁故を頼って京都で申次衆(もうしつぎしゅう)になった伊勢新九郎という人物が後の早雲では無いか?とは言われている。(以下、便宜上「早雲」と書きます)
※早雲の生まれ故郷は「備中国後月郡荏原郷」という事が有力視されており、岡山県伊原市には「早雲の里 荏原駅(えばらえき)」がある。(伊原鉄道伊原線)

その人物が後の早雲だと想定して話を進めると、室町8代将軍の足利義政(よしまさ)の弟・足利義視(よしみ)に仕えていた。しかし義政の後継者・8代将軍の座をめぐって、その息子・義尚(よしひさ)と義視が争いを起こした(応仁の乱の一因)。
結局、1467(応仁1)年、義視は破れ伊勢に逃げることとなって、早雲もそれに従った。
その2年後、状況が回復したと知った義視は、焼け野原になった京都に戻る事となったが、早雲は京都に戻らなかった。

未だに荒れ果て敵味方も争っている京都は、盗賊なども横行しており、とても治安を回復できる場所とは考えられず、妹・北川殿が嫁いでいる駿河(現在の静岡県静岡市)に向かった。
この時、早雲は38歳。
妹の旦那は、駿河の守護大名・今川義忠(よしただ)で、今川家は足利家・吉良家に次いで将軍に付ける可能性のある由緒ある家系だった。
失業者となって都落ちしてきた早雲を雇い入れた裏には足利家の権威が地まで落ちた現状では、第3位の今川家でも可能性があるとして、京の事情に詳しい早雲の情報が欲しかったのでは?とも考えられている。
もっとも、当時は年俸制なのだが早雲だけは「月棒」だったと、記録されている事から、今川家としては短期雇用のアルバイター的な感じだったのかも知れない。
しかし状況は一変する。(早雲47歳)
1476(文明8)年当主の今川義忠が戦死をしてしまうのだ。そこで後継者を巡って争いが起こった。
早雲の妹には跡継ぎとして龍王丸(たつおうまる)という子がいたが、まだ6歳だった。
そのために「まだ幼すぎる」として義忠のイトコ・小鹿範満(おじかのりみつ)が候補として名を挙げ、今川家の中で騒動になってしまったのだ。
どちらかというと、小鹿勢のほうが優勢だったが、早雲はその時、跡継ぎ問題にからんで古賀公方や関東管領・上杉などが動き始めているのを察知した。
悪くすれば、跡継ぎ問題だけではすまずに御家取りつぶしなども十分考えられる状態だったのだ。
そこで早雲は都にいた時の経験を生かし、人脈を生かし、外交交渉にあたり、今川家の御家騒動には手出しをしないと確約を取り付けた。
そして、龍王丸が元服するまで小鹿範満が家督を代行するという事で和解させたのだ。
その件が一段落した所で、早雲は期する処があったのか再び都に戻っている。
京の都で、早雲は幕府に仕えたとも、大徳寺で修行したともされている。
1481(文明13)年、この年、京の都で一休禅師が死去している。享年88。
後に語られる「トンチ小坊主の一休さん」というのは、創作上の姿だが、後小松天皇のご落胤(らくいん:皇族などの非公式な子孫の意味)と言われ、乱世を冷ややかに見つめていた。
当時50歳になった早雲も京の都にいたというので、ふたりに接点がまったく無かったとも言い切れない。
ちなみに一休禅師の最期の言葉は「死にたくない...」という物だったという。
建前だけの世界をあざ笑った一休の死。
そして早雲も建前だけではすまない、戦国という実力の世界に進み始めるのであった。

1487(長享1)年、早雲は56歳になっていた。当時の平均寿命が(戦死を除いた統計で)50歳と言われているので、隠居をしてもおかしくない年齢になっていたのだが、そんな折りに駿河の今川家では龍王丸が元服するまでの約束で家督を代行していたハズだった小鹿範満がその地位を譲らないという御家騒動が起こっていた。
早雲は駿河へと急いだ。
ちなみに龍王丸は17歳になっており、元服した後は今川氏親(うじちか)と名乗ることになっていた。
駿河に入った早雲は、信頼できる家臣を使い、小鹿範満に関する情報収集を開始した。そして、小鹿が今の地位を降りる気が全くなく、今川家を乗っ取ろうとしていることが確認できた。
そうと判ると、早雲は早急に龍王丸派の兵を集め小鹿範満が居住していた今川館を急襲し、その首を取った。
ただ事を急ぐだけではなく、まず情報収集するという部分が後にも北条早雲の作戦となる。
この事が認められた早雲は、元服し今川氏親(うじちか)より、興国寺城(こうこくじじょう:現在の沼津)と、富士下12か郷を与えられた。
56歳で城の主となった早雲だった。
この興国寺城は駿河の東端に建っており、そのすぐ近くには伊豆、さらに箱根を超えた処には小田原を含む鎌倉という関東の要所が控えており、警護の重要地点でもあったのだ。
伊豆の韮山は、8代将軍だった足利義政の弟・足利政知(まさとも)が堀越公方としていた。最初に早雲が仕えていた足利義視は政知の異母兄だった。(と言いつつ、色々複雑で兄である義政・義視よりも年上)
てなわけで、物語的にはこの後、伊豆へ、小田原へ、さらに上杉とも争い、戦国時代のトップを走っていく事になるワケで、ある程度の処まで漫画(の下書き)は書き進んでいるんですが、思った以上に長くなってしまって「こりゃブログという物で公開するのは難しいかな」と思ったりしているわけでやんす。
それ以前に、ブログを読んでいる人にとっちゃ「そんな物、望んでいないのでジャマ」という感じかも知れないッス。
とりあえず、第1話だけを掲載って事で、「続きはいらない」とか「続きは別の処で」とか、感想がありましたらコメントに是非お願いしますです。
あと、基本的に自分は「歴史が全然理解出来ていない」と自覚しているので、あくまでも「歴史オンチが読んでも理解できる話としてメモ漫画を書いている」というスタンスでやんす。
最近のコメント