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2006年6月18日 (日)

パパごめんね

今朝、朝食の時に母親が「お父さんの夢を見た」と話題にしてきた。


実は自分の父親は1歳の時に亡くなっているので、自分的には数枚の写真でしか顔は知らないし、記憶という物は一切ない。
母親も、そんな乳飲み子を抱えた状態で未亡人になったという事から、すでに亡くなってしまった旦那の事を振り返る余裕もなく必死に今まで頑張って来たために「今回はじめて夢に見た」と言っていた。

ま、世間一般的には「1歳の時に...」とかの話題が出ると(普段は自分からそんな話はしませんが)、周囲がすごく同情的な表情になって「苦労したでしょう」とかの対応になってしまう。
それが子供の頃から凄く嫌だった。
こっちは、ハナっから家庭に父親が存在しない事が当たり前で成長して、いわゆる世間的にいわれる一般的な幸せな家庭「両親がいて」みたいな図式は頭の中にはなかったので、「父親がいなくて寂しい」という感覚は一切持ち合わせていないのだ。逆に「可哀想」と同情されている瞬間が「俺可哀想と思われている」という負の部分が相手に見えてブルーな気分になった。

逆に、同じような境遇の人でことあるごとに「父親が子供の頃に」というのを武器として持ち出す人も見た事があり、それはそれで嫌だなぁと感じた事もある。なんか、いきなりそれを持ち出しちゃ誰も反論できないじゃん的なジョーカーのような感じ。
すでに党首は辞めてしまったけど、去年の岡田代表が辞任した後の民主党党首選挙、前原氏が演説で「父親が中学の時に亡くなり、母親が苦労して...」と語っているのをテレビで数回見た時に「そこでその話題は政治的な問題と関係ないじゃん」と、一気にアンチな気分になってしまった。
そんなワケで下手な同情すんな!なのだ。

もっとも、段々年齢を重ね、友人の父親などが死去したって話をあちこちで聞くような年齢になってきた現状では「父親がいない」というのはもうさほど意味はないキーワードなんすけど。

そんな事言いつつ、精神的な奥底では父親が幼少期に亡くなったというのも引っかかっているのかもしれない。
俳優の中井貴一が「俺の父親は35歳で亡くなっているので、子供の頃から俺もそのぐらいで死ぬんだと漠然と思っていた」という話をしていた。
実は自分もそれに近い感じの事を誰にも言う事もなくずっと思っていた。

そんなこんなで「なんで今頃いきなりなんだろうね」という話題になりつつ朝食が終わった。
その後、休日ということで杉山バラ園に遊びに出かけたのだが、そこで「今日は父の日だったか!」という事が判明。とりあえず自分にとって最初からあんまり興味のない日なので「父の日」という単語が頭になかったのだ。

もしかして「今日、父の日なんだよぉ、俺のことたまには思い出してくれよぉ」と父親が夢の中に出てきたのではないか?と考えたりもする。
もっとも、息子は数枚の写真でしか顔を知らないので、夢の中に出てきても「なんかどっかで見たことがある人」と思われスルーされる可能性もあるので、母親の処に出現したのではないか?

う〜む、そういえば小学校の頃なんか、図画工作の授業なんかで「お父さんの顔を描く」なんかの課題が出た時も、しょうがなく母親の弟(つまりオジサン)の顔を描いた事があったり、自分的に父の日をちゃんとやった事ないよなぁ、仏壇に線香あげるのも盆暮れだけだしなぁと、帰りにちょいとお供え物を買って帰ったりしたのでやんす。

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