2008年4月25日 (金)

関町物語(13)

ということで「関町物語13」です。
連続して書いていますが、実はこの13をこの日に!というのがあったので、こんな形に連続になってしまいました。
なぜ今日、4月25日なのかというというのは漫画のあとで
関町物語バックナンバー

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銀座1億円拾得事件
1980年04月25日:東京銀座の道路脇にあった風呂敷包みをトラック運転手の大貫久男さん(42)が発見。 大貫さんは当初、道に放置されているゴミだと思ってトラックの荷台に投げ込んだが、その風呂敷づつみの中身が現金1億円だということで大騒ぎになった。 その1億円の落とし主が名乗り出ないために、実は麻薬取引に絡んだ金であの場所に金を無造作に放置し、売人が現物と引き替えに持っていくという算段だったとか、企業の裏金だとか、諸説囁かれた。
当時は現金の拾得物は6ヶ月で拾い主の物になるという事で(現在は原則3ヶ月)、その期限が近づくにつれ、不審電話などが増えてきた事から、24時間警護のガードマンを雇う。警備費を半額にしてもらい契約・全警備の費用は約400万円。 そして6ヶ月が経過し全額を手にする事となった(一時所得なので3000万円が税金)。
その日、その書類にサインをするため警察に現れる大貫さんをテレビ局新聞社などが退去して待ちかまえていたのだが、大方の予想ではガードマンを引き連れた物々しい状態で…、だったが実際にはジョギングスタイルで一人でひょいと現れてサインをして帰っていった。 この時のインタビューで「幸せになるか不幸になるか、ぼくの人生が終わった時に答えが出ると思う」と語っている。
ウワサではその後、マンションを建てたかして、その家賃収入で悠々自適の生活をしていたといわれている。 ついでに、1982年に放映された「テレビに出たいやつみんな来い!!」というゴングショー形式の番組に審査員として、横井庄一さんと一緒に出ていた(が、番組は10回という超短期間で終了)。世を忍ぶ仮の大学生時代のデーモン木暮閣下も素人として出演したという伝説の番組。 あと、自主制作で演歌のレコードを出したとも言われている。
そして事件から20年後、大貫さんは2000年12月2日に趣味の釣りに来ていた伊豆の伊東で心筋梗塞で倒れ62歳で亡くなっております。 果たして幸せだったのか、不幸だったのか。

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2008年4月22日 (火)

関町物語(12)

ということで「関町物語12」です。
1月に書いて「よぉし今年は1ヶ月に1回のペースで書くぞぉ」と心に誓ったワケですが、心に誓っただけで発表をしていないので、このざまです。
関町物語バックナンバー
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竹の子族
1980年代の3月17日、原宿の歩行者天国でラジカセで音楽を流し踊る中高生の集団が朝日新聞に「面白い若者文化」として紹介された。(現象自体は1979年からあったらしい) これがマスコミが「竹の子族」を取り上げた最初で、そこからテレビなどでも取り上げるようになり、あたかも社会現象化のように後に語られるようになり、夏に向けて爆発的に増えていった。
ちなみに「竹の子族」という名前はもともと原宿・竹下通りにあるブティック『竹の子』という店で売っていた、中近東風&和風を合わせたカラフルな服を着ていた事から名付けられたワケです。 で、なぜ中高生が歩行者天国などで踊っていたかというと、1978年にジョン・トラボルタ主演の「サタデーナイトフィーバー」が日本で公開されディスコブームが巻き起こっていたワケですが、中高生はそのブームを横目で見つつディスコに行けない事から路上で踊り始めたというワケでやんす。
ラジカセでかける曲は当時ディスコで流行っていた「ジンギスカン」「アラベスク」「ヴィレッジピープル」等々。シックなどのソティスケートされたディスコ曲や、アースウィンド&ファイヤーなどのようなファンキーな曲はどうも好まれなかったようで、次第に単純な4拍打ちの曲が主流となり、それが80年代中期にディスコを席巻するユーロビートへ繋がっていくのだ。
若者が集まる場所にはマスコミも集まり、そこからスターも生まれるワケで「竹の子族出身」という肩書きで沖田浩之がデビューし、さらに清水宏次朗などもデビューしていく。最末期の竹の子族で女優・深津絵里も踊った事があるらしい。

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2008年4月16日 (水)

なぎらけんいち/悲惨な戦い

2008041601『溺れる者は藁をも掴む』という諺がある。


かつて選挙戦の街頭演説で「藁をも掴むという思いで本日は最後のお願いに参りました」と語ったとされる政治家もいるが、この言葉は「溺れかけて必死になってもがいている時は浮いている物なら藁のような頼り無い物にまですがりついてしまう」という、相手をバカにした言葉なのだ。
同じように、かつて放送されていた公開人捜し番組「テレビの力」でも、行方不明になった息子の情報を提供して欲しいと切願する母親が「藁にすがる思いで」と語っていた。

そんなこんなで「困った時の神頼み」みたいな感じで使われている言葉ですが、実はこの言葉は日本で生まれた物ではない。そして中国で生まれた言葉でもない。
西洋に昔からある「A drowing man will catch at a straw.」という物で、どうやらラテン語で書かれた物が原典らしいので、かなり古い言葉。
インド・ヒンズー語では「溺れる者には藁1本が救いに見える」となり、ベトナムやアフガニスタンでは「溺れる者は泡をもつかむ」と、藁以上に頼りない物に救いを求めています。

これが想像するだけで痛いのは、リトアニアの「溺れる者はカミソリをも掴む」という物がある。
嫌な気分になるトルコの「海に落ちた者はヘビにでもつかまる」。
さらにスペインなどでは「溺れる者は真っ赤に焼けた針を掴む」という、何故そんな処に真っ赤に焼けた針が!?という意図的な悪意を感じる言葉になっている。

日本にこの言葉が入ってきたのは比較的新しくて、もっとも古い文献とされるのは1888(明治21)年の『英和対訳泰西俚諺集』という西洋のことわざ集で、この明治時代「溺れる」という言葉は「なにか一つのことに没頭する」という意味合いの方が強かったために、いまいちピンと来ない翻訳だったみたいです。
ちなみに、日本のことわざには「切ない時はイバラにも取りすがる」という物がある。これは『青森県五戸語彙』に収録されている物なので、同じニュアンスの言葉は昔からあったみたいなのだ。

個人的にこのことわざの状況で思い起こしてしまうのが、なぎら健壱「悲惨な戦い」という曲なのだ。おそらく現在でも放送禁止曲だと思うので聞いた人も最近は少なくなってしまったのでは無いかと思いますが、ある種のまったりとしたコミックソングです。
この「悲惨な戦い」が最初にリリースされたのが1974年。当時はフォークソングというと政治的な曲という図式が終わり、徐々に内証的なみみっちい曲が主流になっていた時。そのタイミングで一見ベトナム戦争でもイメージしそうなタイトル「悲惨な戦い」という曲がリリースされた。

その内容は国技館での相撲中継の際、まわしが外れてさぁ大変、国技館は上を下への大混乱、その混乱の中、機転の利く弟子がタオルを持って駆けつけるのだが足を滑らせて・・・・「何か掴まる物はありませんか」
その結果、「藁をも掴む思いで」という話になってしまう。
この曲は、なぎら健壱初のヒット曲になり15万枚売れたが、その内容に相撲協会からクレームが入って放送禁止になっている。

なぎら最大のヒット曲は「およげ!たいやきくん」のB面「いっぽんでもにんじん」の450万枚(日本音楽史上最大のヒット曲)ですが、この曲に関しては「レコーディングの時に3万円貰っただけで印税は貰っていない」とよくネタにしているが、実は「悲惨な戦い」もこの曲をリリースして少し売れた!と言う処でレコード会社エレックが倒産していて、印税の支払いがないままになっている。(ちなみにジャケットイラストもなぎらが書いている)
そんなこんなで、70年代末、音楽の仕事が徐々に無くなっていき、なぎらは飲み屋を経営しながら「もう音楽の世界から足を洗おう」と考えていたらしい。

それが突然、1981年にアニメ「フーセンのドラ太郎」の主役声優へ「下町のガラが悪い感じがイメージだ」と声が掛かり、さらに「2年B組仙八先生」のダメな教師役としてドラマ出演もするようになり、1982年に始まった「タモリ倶楽部」でもやさぐれた面白いキャラが浸透していく。
個人的には、84年頃にブルースブラザースに対抗して「フォークマンブラザース」名義で出した「アーパーサーファーギャル」とかが好きでやんす。

話は随分ずれてしまったが、歌手を諦めかけていた時にたまたま漂ってきたアニメの声優という仕事を掴んだなぎら健壱は、今もただフラフラと芸能界を漂っているというお話でした。
って事でまとまったのか?

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2008年4月15日 (火)

上田正樹と有山淳司/俺の借金全部でなんぼや

200804151上田正樹・有山順司「俺の借金全部でなんぼや」
作詞:三上寛
作曲:上田正樹・有山淳司


大阪のシンボル的存在「くいだおれ」が今年7月8日をもって閉店する事が発表された。
くいだおれという店に入った事がない人でも、店頭で愛想を振りまく「くいだおれ人形」だけは知っていると思う。(店の前にある人形と一緒に写真を撮った人は沢山いるけれど、店にまで入った人は少ないのでは...ってそれが閉店の理由だ!)
くいだおれ人形の本名は「くいだおれ太郎」で生年月日は1949年6月8日となっている。これは「くいだおれ」開店日に合わせてある。
が、実際にはこの開店当初は店頭に人形はなく、その翌年の1月に人形が登場してる。

しかも、その時登場した人形は現在の物とは違っていて、ハチマキにハッピを着ている店員スタイルだったという。さらに片手にはホンモノのビールが入ったジョッキをお盆に載せていたという。
そして、その恰好でグルグル回って店をアピールしていたのですが、回転するたびにビールをまき散らしていたという事でリストラの憂き目に遭っている。
そこで登場したのが、現在まで活躍している「くいだおれ太郎」。初代との関係は親子という設定。となると、誕生日が創業日というのはオカシイのでは?と思ってしまうけれど、そんな細かいことは気にしない。(父親は現在、頭部だけが残されているらしい)

このくいだおれ太郎は普段は黒縁丸メガネ、紅白縞模様の洋服に、とんがり帽子というコテコテ大阪人の代表としてガンバっておりますが、折々に衣装チェンジもしている。
世界陸上の時は日本代表のTシャツを着たり、1992年に阪神が優勝争いをしていた時は、その前の時カーネルサンダースが道頓堀にダイブさせられた事もあって「わて、泳げまへんねん」と書かれたプラカードを提示しながら浮き輪と水中眼鏡を装着した。
あと、昭和天皇の大喪の礼の時、白黒のストライプの服を着て店先に立っている。

やはり阪神タイガースのファンという設定で2003年の日本シリーズには福岡ドームへダイエー(現ソフトバンク)の偵察にも出かけている。(服装はタイガースのハッピ)
さらに、野茂英雄の試合観戦にドジャーススタジアムに出かけたり、関西空港開港イベントではアンセット・オーストラリア空港&ルックJTBの招待でオーストラリア旅行もしている。
時々、出張に出かけ「くいだおれ太郎」が不在になった時、次男「くいだおれ次郎」が登場する事になっている。

長男・太郎が太鼓を叩いているのに対し、次男は基本的におめでたい時に登場するのでバンザイをする仕様となっている。(別名:バンザイ人形)
この太郎と次郎の顔つきは同じで、初登場時代に人気だった喜劇俳優「杉狂児」がモデルになっていると言われてる(創業者・山田六郎氏の顔がモデルとも言われている)

さらにこの兄弟にはイトコもいて、くいだおれの裏にあるレストラン「ウラ・くいだおれ」にいる「くいだおれ楽太郎」。世界陸上を見るために帰ってきたという洋行帰りのオシャレさんというキャラクター。
この「くいだおれ」という店は創業者の山田六郎さんが先進的な人で、街頭テレビが話題になった頃、すでに店にはテレビを設置して客寄せに大成功しているし、支店を出さずに家族で経営せよと頑ななポリシーの元に運営されていた。
その一環での店頭人形だったんだろうけれど、今回の閉店に関しては「時代に取り残されてしまった」という事なのかも知れない。

くいだおれ人形というと自分がすぐ思い出してしまうのが上田正樹と有山淳司の「俺の借金全部でなんぼや」という曲。このシングルのジャケットにくいだおれ人形が使われている。
パッと見ると、くいだおれ人形の前で記念撮影をしただけの安易な写真のように見えますが、実際はもっと安易な合成写真。この辺りも「なんかよう分からんが関西ぽいなぁ」という感じなのだ。
「俺の借金全部でなんぼや」を初めて聞いたのは中学の頃だったか? 自分の中で当時、関西人というと「ツルコでおま」の笑福亭鶴光師匠と、あのねのねが基準で、関西系の曲というとミス花子「河内のおっさんの唄」間寛平「開けチューリップ」などもあって、大阪系のブルースもコミックソングの一環で聞いていた訳ですが、改めて聞いてみると渋くていいっすね。(桑名正博のファニカンなどもありましたが)
で、ビックリしちゃうのが、この曲、歌詞の中に上田正樹のバンド「サウストゥサウス」のメンバーの名前が折り込まれていて、延々と金借りた、金貸した、少し返した、という事が歌われていて最終的には「俺の借金全部でなんぼや♪」と繰り返すだけのコテコテな物なんですが、作詞は三上寛なんですな。三上寛と言うバリバリの津軽人が作詞した関西の歌。

ちなみに歌詞の中に登場する人物は以下の通り
お好み焼き屋のゆうちゃん(藤井裕:B)
乾物屋の中西(中西康晴:Key)
アルサロのくんちょう(堤和美:G)
おかまの五郎ちゃん(正木五郎:D)
有山(有山淳司:歌&G)
10年ほど前だったか、ビールのCMで突然クレジットに「クンチョー:青い夏まで待てない」と出ていた時に「あ!アルサロのくんちょう!」とビックリしたことがありますが、それぞれが今でも地道に活動を続けているんですなぁ。
乾物屋の中西こと中西康晴さんはともさかりえのアルバムで弾いていたり、そこここで名前を拝見します。

そんなこんなで、くいだおれ人形の再就職先が検討されている昨今ですが、橋元徹大阪府知事による聖域無き構造改革が実行されようとしている大阪、いったいどこへ行こうとしているのだ? まさに大坂の借金全部でなんぼや? なのだ。

上田正樹の豆知泉

歌手になることを反対されていた上田正樹は「ちょいと風呂行って来るわ」と家族に告げてそのまま家出した。歌手になり、そこそこ名が売れた7年後、恐る恐る家に帰ると、「えらい長い風呂やったなー」と出迎えられた。

上田正樹のニックネームは「キー坊」なのは、先に兄が「マー坊」と呼ばれていたため。

「ネシアアトラスオオカブト」の学名は『Chalcosoma atlas keyboh』、ここに出てくる「keyboh:キーボー」は上田正樹のこと。学名をつけた永井信二が友人の上田正樹のニックネームを付けた。


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2008年4月 8日 (火)

聖火リレー大混乱

4月6日ロンドンを走る北京五輪聖火リレーに対し、チベット絡みの人権擁護団体による抗議活動が起こり、さらにパリでも起こり、さて今度アメリカ・サンフランシスコではどうなるんだ? と大混乱となっている。


ワイドショー的な意見では「平和の祭典でのこのような争いは避けて欲しい物ですね」みたいな物があったれけど、個人的な感想としては「中国はまだ国際的に成熟していない部分が問題なのでは?」と思ってしまうのだ。
今回のチベットの問題は、明らかにオリンピックにより世界的に注目が集まっているタイミングでの騒動だと思うけど、それ以外に中国は「台湾問題」「ウイグル自治区問題」などをずっと抱えているので、前々から「このタイミングで何かが起こるのでは?」と囁かれていて、自分は台湾の方がなにか動くんじゃないか?と思っていた。
他にも現在の中国は環境問題など、国際社会の中で問題点を大いに抱えている。

で、オリンピックに関しての「平和の祭典」という言葉は、あくまでも理想なのだ。
今回、聖火リレーが抗議活動のターゲットになっているけれど、この聖火リレーが考案された1936年のベルリン五輪がそもそも「人権無視のオリンピック」だったので、なんかこの騒ぎは運命的な物を感じてしまう。
聖火リレー自体、ナチスドイツのヒトラーが考案した物で、侵略予定の近隣諸国の情勢をチェックするためにリレーを走らせたのではないか?と言われていて、第二次世界大戦終了後のオリンピックが復活した際に「ヒトラー考案の聖火リレーを採用するのはいかがなものか?」と議論されている。

そのベルリン五輪ですが、ヒトラーがバリバリの差別論者でアーリア人優位主義に凝り固まった人だったので、ユダヤ人の五輪参加を認めないとか、黒人の活躍など認めないとか色々な逸話を残している。
とにかく自分をアピールしたかったヒトラーは各国の優勝選手をワザワザ握手までして祝福していたが、アメリカ陸上界の英雄ジェシー・オーエンスが4つの金メダルを獲得した時、黒人選手だということで無視をしている。
そしてその時、オリンピックから閉め出されたユダヤ人選手達は、ナチスの手が及ばないスペインで「バルセロナ人民オリンピック」というもう一つのオリンピックを開催しようとしていた。しかし、選手団が現地入りした直後にスペインで内戦が勃発し、この大会は中止となっている。

その1936年ベルリン五輪の次に予定されていたのが、1940年東京五輪。これは日本が「1940年は日本は皇紀二千六百年なので絶対開催したい!」ともの凄くプッシュして誘致をしたのに「五輪なんかやっている世界情勢じゃない」と開催前年に撤回してる。
オリンピックが政治的理由で混乱した大会というと、有名なのは1980年モスクワ大会(ソ連のアフガン侵攻に抗議してアメリカを中心に大量のボイコット)、さらに1984年ロサンゼルス大会(前回ボイコットされたソ連などが逆にボイコット)などが有名です。

実はモスクワの前の1976年モントリオール大会は人種差別問題に絡んでアフリカ諸国がボイコットしている。
イデオロギーが異なる大量の国がそれぞれの思惑を抱えて参加するオリンピックなので、もめ事が起こるのは致し方ないとは思う。
しかし、中国はちょっとアキレス腱が多すぎるので「まだ国際的な部分で時期尚早だったのでは?」という気がしてしまうのだ。

そういえば、人権というか人種差別という問題に関しては、1904年にアメリカで行われたセントルイス大会で「人類学の日」というイベントが行われている。
これは色々な人種を集めて競技させるという物で、インディアン・黒人・ピグミー・アイヌと分類された人々が(どのような経緯で集められた人なのか不明ですが)どれだけの身体能力を持っているかという、名義上は「学術的」となっているけど、実際は見せ物の「興味本位」のイベントが開催されている。
これに関しては、大会後にアメリカ国内でも「人種差別だ」「ただの見せ物だ」と問題になっている。


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2008年4月 6日 (日)

富士山99の謎と小林亜星の息子

昔から本屋で「雑学」と名が付いた本はとにかく買っていた。あるいは「雑学的」な物も、若干興味がないジャンルでも「いつか読む」「いつか役に立つかもしれない」という事で買っていた。
ただのサラリーマンで、それが何の役に立つのかわからない時から延々と。
そんでもって、パラパラと立ち読みして「ダメだ、この本はあまりにもダメだ」と思ってしまう内容でも、とりあえず買ってきた。


99そんなこんなで今日本屋で『富士山99の謎(彩図社)』を見つけ、何も考えずに購入。
作者の名前は「小林朝夫」あれ?どっかで見たことがあるような気が…。
と思って、奥付にある作者の略歴を読む。
著者略歴
小林朝夫(こばやし・あさお)
1961年2月16日、小林亜星の次男として東京都杉並区に生まれる。
トップレベルの進学教室にて、御三家志望生徒の国語指導に長年携わり、奇跡の合格率を誇ってきた。「国語の神様」の異名を持つ。
現在、国語に関する教材・著作物の制作と講演を中心に精力的に活動している。
八ヶ岳国語研究所を主宰。
著書に『本当は怖ろしい漢字』(小社刊)がある。


そうか!小林朝夫って小林亜星の息子だ! と言う所で「?」という疑問が出てくる。
自分の記憶の中では「小林朝夫は小林亜星の長男で俳優」という認識だったのだ。
東映のゴレンジャーにはじまる戦隊物5弾『太陽戦隊サンバルカン』で豹朝夫(変身後:バルパンサー)という役を演じ、さらにその父親役としてリアル父親小林亜星が出演している。
この番組が小林朝夫の俳優デビュー作なので、おそらく小林亜星の大いなるバックアップがあったんだろうなぁと思っていた。

この番組が放送された当時、もう見るような年齢じゃなかったので、小林亜星の息子が戦隊物の主役に起用され、その父親役で小林亜星も出ているという話題だけを小耳に挟んでいた。
で、Wikipdiaをチェックすると、1982年12月、役者として尊敬していた岸田森の急逝に強いショックを受けしばらく休業。その後復帰するが1986年を最後に役者として引退してしまったとの事。
その後、奥付に書かれていたように学習塾講師に転身し、実績を積み重ねているとの事。

うむ、人に歴史ありなのだ。

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2008年4月 2日 (水)

図書館記念日(の雑学)

日本最初の官立公共図書館で、現在の上野図書館と国立国会図書館の前身の『書籍館』が、東京の湯島、昌平賓講堂に1872(明治5)年04月02日に開設された。
その後『書籍館』は『帝国図書館』と名前を変え、戦後は『上野図書館』と『国立国会図書館』に分けられている。


という事で、4月2日は「図書館の日」となっている。
10年ほど前ぐらいから、時々地元の図書館に通っている。というのも、サイトを開設した直後から、文章を書いていて「あれはいったいどういう事なのだ?」と思うと、調べなくてはいけないのだ!と図書館に行くようになった。
基本的に自分は図書館をリファレンス、いわゆる古い文献などを調べるために利用しているんだけど、中には「本を買わなくても借りればいいじゃん」的に利用している人も多いみたいですが。

基本的に自分は「本を買う時には金を惜しまない」というタイプの人なので、よっぽどの高額書籍以外は何も考えずに買ってしまうので、新刊を図書館で読みたいとは思わないのだ。
本を買う趣味なんて、クルマとかゴルフとかグルメとかに比べたら全然安い趣味だと思っている。(あくまでも個人的価値基準)

気が付くと、サイトで文章を構築する事を初めてから10年、その間に「これって何かの資料になるよな」と本屋で目に付く資料になりそうな物をガンガン購入していた。
気が付いたら、自分の部屋がある種の方向に特化した図書館になっていた。そ〜んなに高価な本とか特殊な本、稀少本などはないけれど、とにかく自分が興味がある範疇で調べたい事はなんとか解決できるレベルに本が増えていた。

とりあえず自分が自由になる空間が10畳&16畳&6畳+αと広いので、そこに18個の本棚を置き、どかどかと本を所蔵してある。と言っても、先ほど書いたように高価な本はあんまりなく、基本が文庫本&新書なので、ありがちな「巨匠の本棚拝見」みたいな企画に出てくるような重厚感はなく、ひたすら「ブックオフの文庫コーナー」の趣なのだ。
それ以外にも庭にあるプレハブの物置の中には、段ボール箱に大量の本をしまい込んでいるので、自分でも本の数は把握できない所まで来ている。

でも、1つだけ自分の中で決めているのは「オタクっぽくならないように」という事なのだ。
18個の本棚がある段階で「何言ってんだ?」状態ですが、いわゆる雑然としている状態が好きとか、ゴチャゴチャした状態が安心できるとか、そーゆーのは好きではないので「機能的でシンプル」を目指しているのだ。
ただ、去年フリーの人になって気がゆるんでしまったのか、年間500冊以上本を購入してしまったので、この先その信条をキープし続けるかは不明なのだ。

で、目下の悩みは、その本のデータベース化という事。文章を書いていて「あ!これってあそこに書いてあったよな」と思った時、その本が即座に探し出せないということ。
先日もとある文章を書いている時に「…このエピソードって確かバルザックも同じような状態だったよな」と思い出したのはいいんだけど、曖昧なまま書くわけにもいかないので、かつて読んだ本を本棚から探し始めた。
記憶ってのはやはりビジュアル的な部分が重要で、頭の中でそのバルザックについて書かれた文章が「1段組の書籍の右ページ4〜5行目に書かれていた」「おそらくその本の真ん中ページより少し前」という漠然としたイメージが残っていたので、それを頼りに関係ありそうな本をパラパラとめくってみる。

コレも違う、アレも違う。と何冊も検索していく。当然、その課程で関係ない文章に心引かれてしまったりもするのだが、探し始めて10数分後「あった!」と発見した。そこに書かれていた内容はおおよそ記憶のままで、文章の位置もおおよそ記憶のままだった。
そんなこんなで「データベース化は急務なのだ」とここで書いていますが、もう10年近く前からそんな事を書いて今に至っているのであります。

図書館がらみの雑学では
図書館の返却延滞記録は1823年にシンシナティ医科大学図書館で貸し出された本が、借りた人物の曾孫によって1968年に返された、145年と言うもの。
という物がある。

この時に貸し出された本はJカリー博士著作『熱病』と言う医学書で、実は借りた本人が死去し、さらに図書館の担当が途中で代わった為にウヤムヤになっていたという事で、ずっとかりっ放しになっていたらしい。
図書館なんかの本を万引きする人も多々いるみたいで、それが「手元に置きたい」という目的なのか「転売して金にしたい」という目的なのか「ただスリルを味わいたい」という目的なのか不明ですが、調べ人としてはウヌヌヌという感じなのだ。
でも「転売」という目的だとしても、図書館の本って基本的に背にがっしり分類シールが貼ってあって、さらに本全体をビニールコーティングしてあるケースもあって、売るのは難しいだろうと思ってしまう。

が、自分が古本屋で購入した某書籍なんかは「あきらかに図書館経由」という感じのシールを剥がした後(そこだけ日焼けしていない)など証拠が残っている物もある。諸事情あるので、それが図書館万引きの末に古本屋にたどり着いたワケでないかも知れないのだが。
古本屋で分厚い年鑑ものの上巻だけを見たこともあるけど、下巻だけになった図書館も困ってしまうだろうな。

という事で、そんな困ってしまうネタとして
ベルギーのカトリック系大学の図書館は宗教問題で大学が2つに分離した時不公平にならないように、本を整理番号の偶数と奇数で分配してしまった。その為、全集などの1.3.5.7巻と2.4.6.8巻が分割され、学生は苦労した。
という物がある。こうなってしまうと「いっその事なら無かった方が良い」となってしまうかも知れない。小説なんかで、1巻を読んでも続きの2巻が無いってのは拷問に等しいのだ。

以前、古本屋でとある小説の文庫本上巻が105円だったので購入した時、かなり面白かったので下巻を探したが、数件の古本屋になく、数件の新刊書店も探し、ついにその本のハードカバー(全1巻)を発見し「うぬぬぬ2500円かぁぁぁぁ!」と悩みつつ購入した事があった。
しかもその後半が拍子抜けするぐらいに御都合主義で面白くなかったというオチもついて。
そんな感じに、飛び飛びの全集ってどうよ?

シンガポール独立時にも、マレーシア大学とシンガポール大学が本を分け合い、同様の事をしてとんでもない事になった。
という事例もある。それまでシンガポール大学はマレーシア大学の分校扱いで、資金をマレーシアが出していたからそうなってしまったんだけど、おそらくそれを決めた人は基本的に本を読まないようなお役所の人なんだろうなあ。

ちなみに過去に書いた図書館とか本に関する雑学

日本の作家の本で一番最初に「全集」と言う言葉が付けられたのは樋口一葉の作品(1897年に博文館刊)

昔、書籍の奥付には作者が1冊づつハンコを押した検印紙が貼られていた。これは勝手に印刷されるのを防止するために福沢諭吉が自著『西洋旅案内』に押印したのが始まり。

書店のPOSシステムの分類では、写真集は「実用書」に分類される。つまりヌードがたくさん載っている本は実用書。

井上ひさしは出身地である山形県川西町に、蔵書7万冊を寄贈して「遅筆堂文庫」という私設図書館を設立した。

しかし自分の所蔵している本は価値がない物が多いので、自分が死んだ後、図書館とかに寄付しても嫌がられるだけだろうなあ

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2008年4月 1日 (火)

宝塚少女歌劇デビュー(の雑学)

1914年04月01日に宝塚少女歌劇が宝塚温泉パラダイス劇場で第1回公演を行っている。


演目は桃太郎を歌劇にした「ドンブラコ」と言う物。今の宝塚ではありえないような演目なんですが、当時の宝塚は今のように徹底したエンターテナーとしての劇団ではなく、当時の新聞評では「学芸会に毛が生えたようなもの」という物もあった。が、この宝塚少女歌劇は本格的な演劇じゃない部分が逆に庶民に受け、高尚ぶっている舞台とは縁遠かった一般庶民が家族揃って楽しめると評判になっていた。

当時の箕面有馬電気軌道路線図
20080401map_2そもそも宝塚少女歌劇というのは、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の専務・小林一三が考案した物で、もともと鉄道を大阪梅田から有馬温泉まで繋げる予定でしたが、当時は兵庫県宝塚を終点とする路線でした。それと石橋駅から分岐し、箕面(みのお)へ続く路線もありました。
※お茶の水博士さんよりの指摘で文面を修正し、当時の箕面有馬電気軌道の路線図を作成。
その頃の宝塚も箕面も観光地でもなく住宅地でもなく、この路線を使う人はほんとうに少なかったため「じゃ、宝塚に観光地を作ろうじゃないか」と考えたのが大きな転機となったのです。

武庫川周辺の広大な土地を購入し、1911(明治44)年「宝塚新温泉」を開き、翌1912年に「宝塚パラダイス」という娯楽施設を作っています。
そして、この1912年7月30日、明治天皇崩御により大正時代になっている。
この「宝塚パラダイス」は評判になり1日の来場者が1200人ほどになっていて、同じ年1912年12月から朝日新聞で連載が始まった夏目漱石の「行人」の中でも

「じゃ明日は佐野を誘って宝塚へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰をしてくれるのが苦になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。「青空文庫:夏目漱石行人より」

などと宝塚が登場している。
ところが、この「パラダイス」にあった室内プールが人気が無く、客がほとんど来ない状態だった。
というのも「海水浴」という風習は明治時代から日本でも紹介され、夏目漱石が1905(明治38)年に書いた「吾輩は猫である」の中でも

海水浴の功能はしかく魚に取って顕著である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病即席全快と大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。「青空文庫:夏目漱石吾輩は猫であるより」

と書かれているが、まだ大量に押しかけるような状況ではなかった。さらに室内にあるプールという事で水温が異常に冷たかったという事もあったらしい。

そこで考えたのが、脱衣所があった場所をステージに改造して、プールの水槽部を客席にした劇場だった。と言っても最初から「少女歌劇団」を考えていた訳ではなく、その劇場では「婦人博覧会」「婚礼博覧会」というファッションショーのような物を企画した。

そしてそのショーの合間の間繋ぎとして考案したのが少女たちによる唱歌隊だったのだ。
1913(大正2)年7月1日に16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」は後に増員をして20人になり、名称も「宝塚少女歌劇」と変え、1914年4月1日の初公演「ドンブラコ」に至るのだ。
これが、現在まで続く宝塚歌劇団のスタート地点。
最初は、利用者がいないプールの再利用から企画されたショーの間繋ぎで誕生したのです。

このマイナスだった所からの大逆転を、1970年代にも宝塚歌劇団は経験している。
1961年頃、戦後復興から始まった高度経済成長が一段落して、政府までもがレジャーを推進し始めていた。1961年のメーデーにも「本格的レジャーよ、やってこい」というプラカードが登場するほど、勤勉もいいけどもっと余暇を楽しもう!という風潮が広がっていった。さらにTVがどの家庭にも入り込んだこの時代、映画産業の衰退が叫ばれていたのと同時に、演劇関係も客足が遠のき始めていた。

そんな風潮の中、宝塚は逆に「古い娯楽」として徐々に客足を落としていった。そんな中、俳優・長谷川一夫が演出する事となり「なにか洋物芝居の演出をやりたい」と提案から、当時少女漫画で人気があった「ベルサイユのばら」の舞台化はどうだ?という事であの超有名な舞台が始まっている。

もっともすでに熱狂的ファンの多かった漫画なので「べたべたの日本人が演じると原作のイメージを壊す」と脅迫状もあったというが、長谷川一夫は歌舞伎の演出「型」の導入や、洋物芝居として八頭身に見える衣装デザインなど、それまでの宝塚演出を作り替えていく。
戦いのシーンはそれまでは横向きに敵と対峙していた物を、主役が客席に向かって演技させ、照明で表情を変化させ、さらに顔の動かし方まで型として指導し(二階から一階に目線をおろし、いの26番の席を見つめろ)少女漫画にあった瞳の星を意識させたり、すべて観客本位での演出を手がけた。

長谷川一夫は照明について徹底的に研究した人物で、所属映画会社の移籍に伴ったもめ事で顔を切られてしまった過去があり、顔に傷がある。その傷が舞台上で目立たないようにする演出として照明を研究していた。実は、長谷川一夫と宝塚歌劇団の繋がりはこの事件も関係している。
役者として致命的な顔に傷を負った長谷川一夫を支援して、映画復帰作「藤十郎の恋」を準備してくれたのが宝塚の社長という事で、多大な恩義を感じていたのだ。(長谷川一夫という名前はその移籍後からで、それ以前は林長二郎/東宝という映画会社は東京宝塚の略)

その原作の人気と、長谷川一夫の大胆な演出とで大ヒット上演となり記録的動員を集め(初年度15万人)、当時のトップスター鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨の名前も有名になり、現在に続くような安定したブームとなっていく事になった。
舞台という娯楽の衰退期に、長谷川一夫という舞台を知り尽くした演出家と、大人気漫画原作で乗り切った宝塚なのだ。
って、最近のテレビドラマの原作ってのも、衰退期ゆえの事なのかなぁ


宝塚の雑学
宝塚歌劇団の定年は60歳。ただし「結婚したら退団しなければならない」という規則もあるので実際にはそれ以前にやめてしまうケースがほとんど。
手塚治虫の『リボンの騎士』ヒロインのサファイアのモデルは宝塚歌劇団の当時のトップスター淡島千景。
『リボンの騎士』はもともと兵庫県出身の手塚治虫が宝塚を意識して書いた作品で作中にミュージカル的なシーンも多く出てくる。
宝塚歌劇団では「鼻の頭を指で強く押して凹んだら非処女」という噂がささやかれている。
宝塚歌劇団の「寿つかさ」の実家は六本木にある寿司屋。芸名はそこから「寿(ことぶき)司(つかさ)」として付けられた。そのため、劇団内でのニックネームは「すっしぃ」。
ついでに
ミーハーという言葉は昭和初期に作られた言葉で、当時の女性に多かった「みよちゃん・はなちゃん」から来ているから、と言われるが別の説もある。
当時の若い女性が飛びつく物で「蜜豆」と「林長二郎(後の長谷川一夫)」から来ているという説もある。
ついでに他の説も
聞きかじりの英語で「ボクの彼女」というつもりで「Me her」と語るもの知らずの若者を、指す言葉。
芸能雑誌の「明星」「平凡」ばかり読んでいる軽薄なやつ、という意味で、明星のM、平凡のHからミーハーと呼ばれるようになった。

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2008年3月24日 (月)

アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』

自分にとってアーサー・C・クラークといえば『幼年期の終り』なのだ。


創元版:カバー絵・真鍋博
Younen03あの超有名なSF映画の金字塔と言われる『2001年宇宙の旅』は「凄い!」という噂ばかりが先行して、田舎ではリバイバル上映もされず、ちゃんと見る事になるのはずっと後になった。
アーサー・C・クラークとの出逢いは中学3年頃に、創元文庫で『地球幼年期の終わり』を読んだのが最初だった。
中学1年で星新一に遭遇しライトなSFに目覚め、そこから小松左京・筒井康隆という解りやすい道を通って、中学3年の頃に海外SFを読み始めた。
と言っても、なんか「他のヤツらとは違う世界の本を読んでいるんだぜ」的意識があったので、背伸びしまくりで実際にはそこに書かれている内容の半分も理解しないで読んでいた。

そんな賢くない田舎の子が「地球幼年期の終わり」というアーサー・C・クラークの作品を読んで、なんだか自分の理解の範疇を超えた部分で「うむむむ」と感情をコントロール出来ない不可思議な読後感に包まれた。
それを説明出来ないもどかしさに悶々とした中学3年生だった。いや、今でも上手に説明できないんだけど。

早川版:カバー絵・中西信行
Younen01創元版を中学時代に読んで、早川版を高校時代に読んだ。
福島正実の訳は解りやすいなぁと思っていたんだけど、その中で宗教に関した部分がぼやかされていた。
創元版(P108)訳.沼沢洽治
もっと深奥な変化も起きている。完全な世俗化、非宗教の時代が来たのだ。〈上主〉たちが来る前にあった諸宗教のうち、まだ生き残っていたのは純化された仏教(おそらくすべての宗教の中でもっとも厳正な宗教がこれである)の一種だけだった。
早川版(P112)訳.福島正実
もっと複雑な性質の事柄もやはり移りかわっていた。二十一世紀は完全に非宗教な時代だった。オーバーロードの出現以前にあった種々様々な宗教のうち、現在残っているのは、あの非常に浄化された一形態ーおそらく、あらゆる宗教のうちでももっとも厳格な戒律を持ったものだろうーだけだった。

早川新装版:カバー絵・上原徹
Younen02と、思いっきりクラークの宗教観が提示されちゃっているんですが、早川版は仏教という部分はぼかしている。
クラークは仏教思想がかなり反映されている物もあるのだが、日本に生まれ育ち、あんまり宗教的な部分での意識を持っていない自分が読むのと、西洋などの心の中心に宗教が大きくある人々では、全然意味合いが違ってくる部分なんだろうなぁ。
架空の話として読む分には早川版の方が抽象的なので、物語を邪魔しない感じはするんですが…。
まだ自分が何ものでも無かった時代に、一段上にある精神状態に変容していく物語を読み、漠然と「何んとかしなくちゃな」と思ったような気もするけれど、未だに自分は幼年期の中に佇んでいる。
おそらく死ぬまで幼年期のまんまのような気もする。

創元新装版:カバー絵・不明
Younen04細かい事ですが、この作品の邦題、創元版で書くのなら『地球幼年期の終わり(訳.沼沢洽治)』、早川版で書くのなら『幼年期の終り(訳.福島正実)』となる。
実は「おわり」の漢字表記が「創元:終わり」「早川:終り」なのだ。
という事を以前からネタにしていたんですが、今回チェックした所、去年光文社から出た「古典新訳文庫」では『幼年期の終わり(訳.池田真紀子)』というタイトルになっている。それまでは『幼年期の終わり』という表記の作品は実在しなかったのに、あぁ手持ち雑学もこうやって時代と共に変わってしまうんだな。
というわけで、ネットで多く見かける『幼年期の終わり』というタイトルは光文社版の事なのだ。すいませんねえ細かくて。

古典新訳文庫版:カバー絵・不明
Younen05自分の中では読み始めた頃から、アーサー・C・クラークは現実感を持たない遠い遠い次元の人なので、まだ生きていたんだっけ?という感じでした。(90歳だとはビックリしました)
中学生だった自分に、色々な物に開眼するようなキッカケを与えてくれたけれど、スットコドッコイの私は結局開眼せずに今に至っています。アホな読者ですいませんです。
そしてご冥福をお祈りいたします。

掲載した表紙、最初の三冊は本棚にあった物で、創元新装版と古典新訳文庫版は手元にありません。
どうやら、古典新訳文庫版は第一章に直しが入っているらしいです。

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2008年3月21日 (金)

VOWと私

本棚を見たら、とんでもない数の「VOW本」があった。写真には無いけれど、これ以外に雑誌サイズの「メガVOW」や蛭子さん表紙の「VOW温泉」や少しサイズの小さい「VOW王国 ニッポンの誤植」もある。(VOW17は買い逃してしまった。ちょうど最も鬱だった頃に出た本なのだ)
しかし、ここまで自分がVOW者だとは思ってもいなかった。


20080323_2まだ時代はバブルを経験する前の1980年前後、東京にいた自分は今とさほど変わらないぼーっとした人間だった。
中学高校時代からとにかく本を読んでいたワケですが、いわゆるサブカル系とかいうよく解らないものも知らず(未だにどれがサブでどれがカルなのか不明)、世の中にさほど敵愾心も持たず、名誉欲も、金銭欲もなく、ただただ「絵を描きたい」という事だけを考えて日々を過ごしていた。(性欲というか、女子と仲良くなりたい欲は人並みにありました)
そんな東京で、それまで近所の本屋には無かった色々な雑誌を読み、なるほどなるほどと考えるようになっていったワケです。
もっとも、政治的な部分だとかは全然興味なく、あくまでも物を作るとかが中心だったので、まんが評論雑誌「だっくす」→「ぱふ」・「ふゅーじょんぷろだくと」とかも愛読していた。(それ以前の「漫画界」「漫波」とかは古本で)
あと、まだ書店に社員が配布していた同人誌扱いだった頃の「本の雑誌」とかも。手元にあるもっとも古い号は1979年の19号。

その中で「宝島」という雑誌は、なんだか知らないけど凄い事になっている感じで、毎号「うぬぬ」と隅から隅まで読んでいた。
「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」も色々な雑多な情報が硬軟取り揃えられていたが「宝島」はなんか「うぬぬ」という感じだったわけですよ。
温暖な気候のぼけーっとした静岡から来た少年にとっては刺激が多かった。今ではありえない話なんだけど、ネットが無い時代、情報というのは限りなく制限されて、世界はほんとうに手が届く範囲でしかなかったのだ。
そんな少年が読みふけった雑誌が「宝島」。

さらに「別冊宝島」というのが濃くて、「都市生活者にとって必要なものをユニークな視点から徹底的に追求した知的シティカタログ」と銘打たれた『全都市カタログ』から始まり『マンガ論争』とか『道具の本』とか『精神世界マップ』とか『現代思想のキーワード』とか、とにかく意味が分からない所も無理して読み込んだ。
なかでも『メディアのつくり方』で必死に勉強して、個人雑誌や同人誌なんかを作ったりもした。あと文章を書く勉強になった『みんなの文章教室』『文章スタイルブック』『レトリックの本』なども。
もしかしたら、この辺りで自分はかなり鍛えられたのかも知れない。

という事で、その雑誌『宝島』はとりあえず現在も残っているが、もうまったく違う雑誌になってしまったので興味の外にあるんだけど、当時からあったコーナーだけが独立して現在も生き残っている。
それが『VOW』なのだ。
「宝島」の前身雑誌、植草甚一さんが創刊した『Voice of Wonderland』の略称が「VOW」なのですが、植草さんの意志とはまったく違う方向にいっているトンチキな物になっていますが。
今に続く、写真などの投稿は1982年頃に当時浪人生だったカーツ(佐藤克之)がヒマにまかせて投稿を始めたのがキッカケで活性化していった。

初単行本は1987年なんですが、気が付くとほとんどを初版で購入している。最初に掲載した写真は現在トイレ図書館にあるVOW単行本。気が付いたら凄い事になっているのだなあ。
これ以外にも、色々あるんだけど最近は余りにも多くなって買わなくなってしまった。
最近、VOW常連投稿者の藤岡さんと逢った時に、この話も少し出たんですが、「Voice of Wonderlandと宝島の創刊号持っているんだぜ」と自慢されてしまった。

そんなこんなでこれから先も私はVOW者で有り続けることだろう。

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2008年3月18日 (火)

とりあえず「若いヤツは馬鹿」

KYに代表されるアルファベットで略する言葉をネタにした『KY式日本語』という本が大修館より出ている。


という事で、それがTVなどで紹介され、判で押したように司会者やコメンテーターが「最近の若者はちゃんとした日本語を知らずに…」と批判的なことを口にしてコーナーが終了するというのがパターン。まったく最近のコメンテーターは…、という感じなのだ。

そこで紹介される言葉の代表が
KY=空気読めない
PK=パンツ食い込む
辺りで、特に「PK」辺りに関しては「そんな普遍性のない言葉まで略する必要があるのか?」とコメントが入るんだけど、これらはあくまでも「いかに携帯電話の入力を短縮するか?」という事からはじまり、それが徐々に遊びに変わっていったと言う物で、そこには普遍性は関係ないと思う。

しかも「PK」あたりは、どこかでコレが誕生して「受ける〜それってマジ使う場所なくない?」的に話題になり、この短縮された言葉が紹介される時にネタ的に面白いので毎回取り上げられていったという感じだと思う。あくまでも紹介する雑誌やTVは「面白い物」を中心に取り上げるので。

で「最近の若い者は」というのは、もう聞き飽きた言葉でいまさらって感じ、だって約10年前にコギャル語が出てきた時に同じような感じだったでしょ。
「MK5=マジでキレる5秒前」なんてのは、広末涼子の1997年4月のデビュー曲『MajiでKoiする5秒前』でパロディというか引用されている(この曲が出た時、すでに「今更MK5?」という意見が多かった)。
あと「チョベリバ=超ベリーバッド」なんかもSMAPが1996年11月18日にシングル「SHAKE」の中で歌っている(この時も今更感が強かった)
今更、若者言葉がどーこーと批判的な話題にするのは「よっぽど話題が無いんだろうな」としか思えないのだ。

若者言葉といえば、自分が10代だった時分にも同じような若者間でしか解らない言葉を嬉々としてつかって、上の世代から「最近の若者は」とか言われていた。
現在テレビやマスコミの中心にいる40〜50代の人々も自分が中高生や大学生だった時代に同じような「若者言葉で遊ぶ文化」という物があったのを忘れちゃったんでしょうかね?
手元に『ビックリハウス版・国語事典:大語海』1982年5月3日第四刷という物があるんですが、これは今の「KY」に通じるような「自分たちだけで通じる言葉を作っちゃおう」という趣旨で雑誌『ビックリハウス』に投稿された物を集めた物。
アルファベット語でここから出た物で一般的になった物では「VSOP」→ベリー・スペシャル・ワン・パターンというのがありました。
当時誕生した言葉では「バックレる」とか「エビぞる」とか。

とか言っても、それより前の世代も同じようにアルファベット言葉を開発していて、旧海軍で誕生したと言われる「MMK=もてて、もてて、困っちゃう」なんてのもあるので、別段現在の若者を批判する部分はないんじゃないかと。
昭和30年代にも造語はいっぱいあるんですが、たとえば「MYカップル」なんてのもありました。
これは、カバー曲「ヘイポーラ」がヒットした梓みちよ&田辺靖雄のデュオが、その後も活動するために「やはりグループ名を付けたほうがよい」ということで、『ザ・ヒットパレード』の中でデュオ名を募集してつけた名前が「MYカップル」。M(みちよ)&Y(靖雄)で「MY」ってことです。
そんなこんなでイニシャルトークは昔から多かったのだ。

テレビの中で「若いヤツらは馬鹿」と言っているのは正解なのだ。そこで若者を馬鹿にしている連中だって、若い時は馬鹿だったんだから、問題無し。
ところで、そのワイドショー的ネタで紹介される『KY式日本語』という本、どんな人が買うんでしょうか?
10年前も「コギャル言葉事典」みたいなのが何冊も出ていましたが、今回の「KY」もこの先いくつかの出版社が出す予定があるみたいで(4月の出版ラインナップにある)すが、現時点で「いまさら」なんじゃないっすかね?

でもって、この手の本は「このイニシャルはどんな意味?」というのが中心で、それだけじゃ一冊本を仕上げるのが大変なので、使用法を解説したり、言葉としての分析したりしているんだと思う。
でもやはり「意味が解れば」それで終わりだよなぁ。もちろんネットを検索すればそんなサイト山のようにあるんでしょうか、実は『KY式日本語』はアマゾンの「なか見!検索」というサービスで一部のページを閲覧できることになっている。
で、それを見てみると、表紙→内容解説→目次→第1章扉→五ページほど解説、となっていて、あとは索引をすべて、A〜Zを見ることが出来る。
問題なのはその索引なんですが「AA(甘酢あんかけ)」というワケ解らないものから始まって「ZZ(ずらずれてる)」まで8ページ分読める。
つまり、この本に掲載されているアルファベットの略語と意味は全部ここで読めちゃうのだ。それでいいの?

…って、結局この本はネットを検索出来ない世代が買う本なので問題無しなのか?

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2008年3月15日 (土)

今は幸せなのか

自分が子供の頃、見たい映像があっても「テレビで放送される」か「映画館でかかるか」を待つしか方法はなかった。そしてそれがテレビで放送される時は、もう目を皿のようにして齧りついて、一瞬さえも逃さないように見た。脳内HDフル回転で記憶したのだ。
しかし逆に頭に血が上り、ほとんど記憶していないような状態にもなった。


ぎんざNOW!で小池聡行が紹介していた
2008031801自分の場合はそれは音楽系に集中していて、70年代まだMTVなんかが無かった時代、「今日WINGSの新曲のビデオを流します」なんて言葉に激しく反応していた。
当然、ビデオなんて無かったために一期一会状態で「今日これを逃したら一生見ることが出来ないかも知れない」という感じだっただ。
それが今や、YouTubeでいくらでも見放題。その時のプロモーションビデオどころの騒ぎではなく、イギリスの音楽番組に出演した際のビデオまで見ることが出来る。なんてこったなのだ。
あの「ラジオスターの悲劇」を歌っていたバグルスなんてレコーディングだけのバンドかと思っていたら、向こうの音楽番組に出て歌っているんだもんなぁ。

2008031802YouTubeについては賛否あって、自分の中でも矛盾する部分で「物を作る側としては反対」でも「有り難く貴重な映像を観賞させて貰っている」という形で、何とも言えないのだ。
映像ライブラリーという側面では、いままで本でしか見る事が出来なかった物を見ることが出来るという利点も確かにある(違法状態でアップされているんですが)
ポップな内容だけじゃなく日露戦争なんかに関する映像ですら即座に当時のニュース映像を見る事が出来る。(NHK特集などの映像がアップされている)
こちとらが20年に渡って「いつか役に立つかもしれない」と無闇に録画し続けてきた資料が手元にあるが、YouTubeの場合は検索で即座に出てくるから便利なのだ。困った事に。

2008031803自分が中学高校生だった頃、前にも書いたようにボブ・ディランを聞き始めていて、1976年にバックバンドをしていたTHE BANDが解散をしている。その解散時に行ったライブが「The Last Waltz(1978)」として映画になったというのを聞いて高校生だった自分は「見たい!」と思ったのだが、片田舎の地元ではその映画は上映されず、11PMで今野雄二が紹介する映像を「これかぁぁ!」と感激しながら見ていた。おそらく放送されたのは1分程度だったと思うが。
それが今や、YouTubeにポンッと「The Last Waltz」と入れれば、全編連続ではないがほとんどの曲を見ることが出来る。Bob Dylanが歌い、Ringがドラムを叩き、Ron Woodがギターを弾く「I Shall Be Released」なんかが家に居ながら即座に視聴可能なのだ。

あぁいい時代になったなぁ
と思うんだけど、自分の場合は「見たくても見ることが出来なかった」という前提が存在しているから思い入れが深くなっているため「最高の調味料は空腹」みたいな状態になっているんだろうなぁ。
今の高校生あたりが本で「へえそんなライブがあったんだ」と知り、パソコンでポンッと数秒後にその映像を見る。その内容の善し悪しって事じゃなく情報に対しての向かい合い方がもう全然違うんだろうなぁ(オッサンの愚痴ですか)どっちが幸せなのかは解らないけど。

2008031804で、困ったことに、今そっち方面の人はその事例についてまとめられた文献を読んで状況を俯瞰的に把握する所から入ってくる。
以前書いたけれど(Blog以前)BookOffでポリスの「シンクロニシティ」のCDを買った時に、そこに「ポリスのラストアルバム」と書いてあって「!」と思った事があった。
ポリスは当時聞き込んだバンドの1つなんだけど、このアルバムが出た当時はバンドが最高潮だったのでずっと続く物だと思って聞いていた。が、その後解散宣言をしてスティングがソロ活動を始めているが、2年後に復活してシングル出したりと、なんだか煮え切らない状態でいた。結局その後、アルバムを作らなかったので「シンクロニシティ」がラストアルバムとなってしまった。
が、自分の中では未だにラストアルバムという印象は無い。

でも、後から聞いた人にとっては「ポリス」というバンドはアルバムを5枚出して解散したバンドで、ラストアルバムは「シンクロニシティ」なのだ。
リアルタイムでどっぷりな人より、あとから情報が整理された状態で入って来た人の方が知識として正しい物を持っている。だから自分もつい記憶で「これってこうだったんだよね」とあの時代の事を書いてしまいがちだけど、ちゃんと調べて書かないといけないと思う今日この頃。
でも、Wikipedia辺りにも思いこみで書かれている文章山盛りではあるので、調べていく内に頭を抱えてしまう物も多々ある。

そんな事を思いながらニールヤングのHelplessを聞いてるのであった。(最近、聞く音楽が懐古モードになりつつある)happy02

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2008年3月 8日 (土)

木綿のハンカチーフ/太田裕美

2008030801木綿のハンカチーフ/太田裕美
作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄.
CBSソニー:SOLB-352
1975年12月21日/¥500


卒業シーズンということで「卒業」とタイトルに付けられた曲でもよかったんですが、とりあえずこの曲を。
といっても歌詞の中には卒業を臭わす言葉は1つも入っていない。ただ何かの事情で都会に旅立つ男と、田舎に残る女の会話が綴られている。
歌っていた太田裕美はアイドル的容姿は兼ね備えていたが、どことなく都会的ではないイメージもあって(個人的偏見&褒め言葉ですよ)この曲に出てくる女性にオーバーラップする部分もあったのか、大ヒット曲となる。

2005030803と言っても、1975年12月21日にリリースされたこの曲は、4日後の12月25日リリース「およげ!たいやきくん」の驚異的なヒット(初登場から11週オリコン1位)によって、ついに1位を獲得出来ずに終わっている。それでも85万枚を売上げ、その後の地位を獲得している。

この曲は作詞家の松本隆がまず詩を書き上げ、作曲の筒美京平に渡した、いわゆる「詩先」といわれる物だったのですが、この詩を受け取った筒美京平は「こんなダラダラした詩に曲は付けられない、なんとかしてくれ」と松本隆に詩を変えるように連絡を取ったという。
しかし松本隆は「おそらく曲を付けるのは難しいということで電話があるんじゃないか」と確信していたので、その日は連絡できない場所へ雲隠れをしていたらしい。
そして、とりあえずの〆切の時、なんとか曲が出来ていあたとかつて松本隆が語っていた。

2005030804まず12月5日リリースの3rdアルバム『心が風邪をひいた日』に収録され、12月21日にシングルカットされている。
アルバムVerとシングルVerの違いは、アルバムの方にはイントロにある特徴的なジャカジャカジャカ〜と上昇するバイオリンのトレモロが無く、他の部分でもストリングスがうっすら入る程度になっている。
あと演奏途中ではいるフルート系のシンセの音もアルバムVerには入っていない。
シングルを聞き慣れているとアルバムVerはスッキリしすぎていてギターのカッティングがキツク感じるかもしれない。

2005030805その歌詞はまず男性の手紙から始まり、後半は女性がそれに答える形で手紙を書くという構成で、サビの部分に明確なリフもない、詩だけ読むとどこにサビを持っていったらいいのか解らない詩になっている。
しかもそれが4番まで続き、4番の最後の最後にテーマである「ねえ涙拭く木綿のハンカチーフください」という言葉が登場する仕組みになっている。
そのため、当時の歌番組では2番無しで歌う事も多かった。

実はこの歌詞はボブ…ディランの「スペイン革のブーツ/Boots Of Spanish Leather」という曲がモチーフになっている。モチーフといえば聞こえがいいが、松本隆は結構この「洋楽の歌詞を翻訳して日本風味を振りかける」という作業をしている。
同じ太田裕美ではアルバム曲に「ひぐらし」という物があって、内容はふたりでバス旅行に出かけるという物なんだけど、これはサイモン&ガーファンクル「アメリカ」と設定が同じ。「アメリカ」の中で「アイツの顔、指名手配のギャングに似ていないか」という部分は「ひぐらし」では「♪三億円に似てないかって」となっている。あの時代なら「三億円犯人のモンタージュ写真に似てないか」という意味と解るけど、今聞き直すと「三億円に似てる」って何のことやら。

2005030802そんなワケで、元詩となったディランの「スペイン革のブーツ」はディラン最愛の女性スーズ・ロトロがイタリアに旅立つ時に浮かんだ物(実際には別離ではなく旅行だったみたいですが)。スーズは2ndアルバム『Freewheeling'』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性。
ディランの曲は主人公(男)が船に乗って旅立つ所から始まる。
Oh, I'm sailin' away my own true love,(愛しい人よ、僕は船で旅に出るよ)
これが「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向う列車で」に相当するワケです。
ディランの方はその後
Is there something I can send you from across the sea,(海の向こうに着いたあと、送って欲しい物はあるかい?)
と残した女性に対してリクエストをしている。
同じように松本隆は「はなやいだ街で 君への贈りもの、探す 探すつもりだ」と書いている。

2005030806そこで主人公が突然女性側に移り
No, there's nothin' you can send me, my own true love,(いいえ 何もいらないの 私の愛しい人)
そして「いいえ あなた私は、欲しいものはないのよ」となっている。

その後もディランの歌詞を追っていくとどこかで聞いたフレーズが満載で…。
Oh, but if I had the stars from the darkest night(暗闇に輝やく星たちでも)
And the diamonds from the deepest ocean,(深海から見つけたダイヤでも)
I'd forsake them all for your sweet kiss, (あなたのキスには勝てないわ)
そして最後に
And yes, there's something you can send back to me Spanish boots of Spanish leather. 
(そうだ、君が何か送ってくれると言うのなら、スペイン革のスペインブーツを)
と締めて曲は終わる。
木綿のハンカチなら気軽に送ること出来るけど、スペイン革のブーツは結構難易度が高い贈り物だと思うけど。

ちょうど「木綿のハンカチーフ」が流行った直後ぐらいに、ボブ・ディランの初来日という物があって、名作アルバム『欲望/Desire』が発売されたりで、中学生だった自分はひたすらディランを聞いていた時期があった。
その関係で「スペイン革のブーツ」の存在も知り、なんじゃこりゃ!そっくりやないけ!と怒りまくった瞬間もありました。

と言いつつ、太田裕美も好きだしという、ファンとしては難しい問題を抱えている曲なのだ。松本隆め!
でも、この曲が名曲なのは紛れようのない事実なのだ。

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2008年3月 3日 (月)

円谷幸吉の選択肢

ちょうど40年前、円谷幸吉という長距離ランナーが自らの命を絶った。


20080303011964年の東京オリンピックの最終日、国立競技場にてゴール200m前でイギリスのヒートリーに追い抜かれながらも銅メダルをつかみ取った円谷だが、「次は金」という国揚げての期待に押しつぶされた。(銀のヒートリーとは僅か3秒差)
1968年、メキシコ五輪を半年後に控えた1月8日。埼玉県朝霞市の自衛隊体育学校宿舎の自室で、右首の動脈にカミソリをあてた。その時円谷は首から東京オリンピックで獲得した銅メダルを下げていたという。

円谷には長年付き合い婚約までした女性がいたのだが「オリンピックに集中するように」という自衛隊上官の強い反対で結婚どころか交際まで禁止された。その結果、相手女性はそれまでプレゼントされた想い出の品をすべて円谷家玄関に置き、別の男性のもとへと嫁いでいった。
その件で円谷と苦楽を共にしてきたコーチが上官に抗議したが、逆にコーチは理不尽な転勤を言い渡され円谷の元を離れていくこととなったという。
円谷には金を取るという選択肢しか残されていなかった。

その時に書き残した遺書はあまりにも淡々としており、川端康成も「美しくて、まことで、かなしいひびき」のある文章として哀悼の意を表している。
川端は同年ノーベル文学賞を受賞しているが、1970に師弟関係にある三島由紀夫の自決を経、1972年に自らガス自殺をしている。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

円谷幸吉を取り巻く環境は想像も出来ない過酷な物だと思うが、遺書ではその事に一切触れていない。追いつめた人への恨みや、去っていった人への言葉もなく、感謝の気持ちと謝罪と、ささやかな「両親と一緒に暮らしたかった」という願いだけが綴られている。
コクヨの便せんに万年筆で書かれた遺書は2通あり、1つが上記の家族に宛てた物。もう一つは体育学校関係者へ宛てた物ですが、そちらにも謝罪しか書かれていないそうです。

どんなに凄い選手でも、限界という物は避けられず、いつか引退しなくてはいけない物なのだ。周囲がどんな事を言っても本人がそれを一番自覚しているんだろう。
円谷幸吉はわずか27歳で自らの限界を感じ、それに応えられないプレッシャーの中、メキシコ五輪の選考を直前に控えての決断をした。
自ら死を選ぶことには全然共感できないけれど、色々な事を考えてしまう。

2008030302ということを、北京五輪マラソンの選考大会となる9日名古屋大会い挑む高橋尚子の「あきらめなければ夢はかなう。そのメッセージを見ている人に伝えたい」というインタビューを見て思い出してしまった。
チャレンジし続ける事は素晴らしいと思う。
その反面、単純に「凄かった時代だけを記憶に残しておきたい」という相反する、無責任な感想も持ってしまうのだ。
努力しても現実はついてこない事の方が多い。夢が叶うほうが少ない。その現実を見つめる勇気も必要なのだ。

遺書に書かれている「三日とろろ」というのは円谷の出身地、福島県須賀川にある正月3日にとろろを食べる風習。

「円谷」という苗字は須賀川市には多く、特撮の神様・円谷英二も福島県須賀川市出身。

「円谷」という苗字の読みは「つぶらや」と「つむらや」の二種類あり、円谷幸吉・円谷英二ともに正しい読みは「つむらや」

「つぶらや」と読まれる事が多いために、円谷幸吉は陸連への登録は「つぶらや」にしており、オリンピックの電光掲示板でも「TSUBURAYA」になっていた。


(3月10日追記)
高橋尚子のチャレンジは検討空しく、になってしまった。
昨今の「努力すれば夢は叶う」は宗教のような甘い言葉として使われすぎて、人々を追い込む呪文のようになっているのが、ちょっと怖いと思う今日この頃なのだ。

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2008年3月 2日 (日)

ご当地ソング「沼津ひものの歌」

地元、沼津の沼津魚仲買商共同組合が全面協賛で作られたご当地ソング「沼津ひものの歌」。
なんかフツーにポップな感じで(ちょいと80年代っぽい古さもいい味)、1回聞いただけで口ずさんでしまいます。
あ、なたの為にアジのひものを〜♪


実際に面倒くさい事を言えば、「御当地ソング」の「御当地」というのは、よそ者がその土地の事を指して言う尊敬語なので、地元歌手が歌うのは間違いなんですけどね。
本当に面倒くさいヤツだな、俺。
この曲に関しては、大いに配布してくださいとの事なので、ここに載っけても大丈夫。

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2008年3月 1日 (土)

石の上にも10年。

1998年3月1日
今からちょうど10年前、インターネット上に自分が降り立ちました。


世間ではまだ「インターネット? 何それ?」という疑問符で語られ、一部の人には「無修正の画像見放題なんでしょ?」とエロ系偏見的興味本位だけで語られているような時代。
そして接続方法はまだ「電話回線」で、11時から始まるテレホタイムに繋ぐために帰宅後すぐ寝て、夜中1時2時に起きて出勤までの時間に必死にサイトを構築する日々を送っていた。
そんなサイト「知泉」が遂に10周年を迎えました。
と言いつつ、現在サイト本体の方は「知泉Wiki」や「知誕Wiki」に移行して、誕生日データ以外はほとんど放置状態(管理はしてますが)になっていて、メイン活動はブログになっています。

自分がサイトを始めた理由は、色々複雑な事情もあったんですが、1番の理由は「精神的に煮詰まっていた」というのが大きかったのかもしれない。
1998年当時はバブル崩壊後のどうしようもない空気が世の中に満ちあふれていて、下っ端サラリーマンは「いつ辞めてもいいよ」的なヘビーな仕事を与えられ、日々疲弊しながら闘っていたのです(今も世の中の状況は変わらないか)。
そんな中、どんどん自分の中で「いかん、いかん」という思いが膨れあがり、その結果として「もぉ何でもいいから発信するのだ!」という事でサイトが始まってしまったのです。
自分の意志もあったのですが、どうしようもない思いに突き動かされたという感じでしょうか。

そのスタート時から雑学は1つの柱でしたが、メインは「お笑い系サイト」という事で、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞書』を思いっきりネタ的な方向に絞り込んだお笑い辞書『現代用語の基礎的じゃない知識』という物をやっておりました(略称「現基ない:げんきない」)。
実はそのお笑い辞書はそれ以前、パソコン通信時代に友人の主催する場所でダラダラと続けていた物を再編集した物がベースになっています。
それ故に、一番最初にメルマガとして発行していたのは「雑学」ではなくそっち方面でした。毎週水曜日発行で毎号10個の新項目を発表するという形で続けていたんですが、1年ほど無事に発行した後、色々あってソッチの方は尻つぼみに終わってしまいました。
でもって同時期に発行していた雑学メルマガ「知泉」が面白くて、そっち中心になり、今に至っているワケです。

サイトとかメルマガを読んでいる人には「無料のメルマガなのに色々調べたりしていてヒマなんですね」みたいな事を書かれた事もあるんですが、実情は全然違っていました。
とにかくヘビーな会社員で、休日出勤当たり前、日々ボロボロになりつつ、「でも会社の往復だけだとダメになる」とサイト&メルマガのために日曜日は図書館通いをしていました。
日々の生活の中でも本をじっくり読む時間を絞りだせず、わずかに出来る時間ということでトイレ、風呂も必ず本持参。それでも禁断症状が出た時は、通勤の自動車の中、赤信号のわずかな時間でも(信号が変わるのを意識しながら)本を読んだり、とにかくメルマガで書く雑学ネタを構築しようとする日々でした。読んでいる時間もあまりないけど毎週大量の雑誌も買っていた。
それがちょうど10年間。
結局、2年程前から仕事の重さと自分の精神とのバランスがおかしくなって、体調不良や鬱状態になり入退院、休職を経て、切羽詰まったあげく「フリーな人になるのだ!」と後先考えられずに今の状態になってしまったのです。
サイトを始めた時のどうしようもない突き動かされ方と変わっていないのだ。

10年前にサイトを始めた時に、こんな事になるとは思っていなかったけど、それでもその間に自分の念願だった「本を出す」ということを3回も経験しているので、よしよしって事なのかもしれない。
インターネットの世界で10年続いているってのは、歴史あるサイトの部類に入るのかもしれないけれど、まだまだ勉強し続けていかなくてはいけないのだ。
今後もよろしくお願いします。

10年前の雑学

10年前、まだインターネットは一般的ではなかったが(雑誌、新聞では話題としてよく取り上げられていたけど)1996年の段階ですでに桃屋のCMでは、平賀源内に扮したアニメの三木のり平がパソコンをいじりつつ五目寿司を食べながら「これはイイタネっと」とインターネット絡みの駄洒落を言っている。

1998年1月6日:コペンハーゲンの人魚像の首が切断される事件が発生してるが、犯人は第一発見者のカメラマンだった。その人魚像には足がある。あれは人魚から人間へ変わる瞬間を表現した像なので。

1998年2月3日:朝日新聞の家庭欄で「何でもマヨネーズをつけて食べる人が増えている、これを『マヨラー』と呼ぶ」と紹介されているのが、マヨラーという言葉が活字になった元祖。

1998年5月6日:自由に自動車のナンバーが選べる制度が発足しているが、それよりずっと昔、高島忠夫と寿美花代が新婚時代にマーク2のCMをしていた事から、会社からの寄贈された自動車のナンバープレートは「す・3874」という、語呂合わせナンバー「す・みはなよ」になっていた。

さまぁ〜ずはかつて「バカルディ」と名乗っていたのは有名な話だが、実は1998年7月「ヤリリン・クリリン」と言う別名義で金融業プロミスのCM曲「ヤリー BE GOOD!」をリリースしている。

という事ですが、10年サイトを続けてきて判明したことは「人間の基本的な部分は成長できないんだなぁ」という事。これから先の10年も姑息に当たり障りのない処世術を発揮して頑張ります。

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2008年2月29日 (金)

占い禁止

公共の電波を使って「あなた、アタシの言うこと聞かないと死ぬわよ」と恐喝・恫喝を繰り返す婆さんの番組がこの3月で2本終わるらしい。


嫌いなので番組を見ていないため、最近はどんな状態になっていたかは全然知らないのですが、よかったよかった。
その婆さんって、たかが占い師なのになぜあそこまで偉そうなのか不明だけど、もしかしたら他人の未来が見えて、それに対して進言することで自由に操れる事から、自分が万物の神だと勘違いしているのかなぁ。
もっとも「占い師」のハズなのに、ある時から「あなたの後には白いヘビが見える」などと霊能力者になっていたので、何をやりたいのかよく解らない人でもあるのだ。

以前、チラっと見た時には何故か複数の若い着物のお姉ちゃん達を集めて、和風の作法とかをレクチャーしていた。その婆さんは嫌いだが若いお姉ちゃんに引きつけられしばらく見てしまったワケですが。
そこであまりにも礼儀作法を知らない女子達に暴言を吐きながら「違うの!こうするの!」とヒステリックにドタドタとやっていた。
それを見た瞬間に「この人は占いという根拠の無い物を振りかざすだけじゃなく、基本的な礼儀作法も知らないのに礼儀作法について語るのか」と呆れてチャンネルを変えてしまった。
なんせ、彼女は並べてある座布団の上を平気でドタドタ踏み散らして歩いていたんですぜ。礼儀作法以前のやっちゃいけない事だよ、それは。

ブームになる直前はレギュラーではなく、単発で何度もスペシャル番組が作られていた。
今から4年ほど前でしょうか、その2時間スペシャル番組があって、当時「うんちく王」として売出し中だったくりーむしちゅーが出演していた。
自分はとある理由でくりーむしちゅー上田晋也に注目していたので、その婆さんではなく上田興味で番組を見た。
そこで婆さんに「あなたたちグループ名を『グリーン&ピンク』変えないとすぐに解散するよ」とか言われてましたが、海砂利水魚からくりーむしちゅーに改名したお陰で売れ始めたのでそれは拒否。

そこで当時くりーむ上田は出る番組出る番組、とにかく蘊蓄を求められていたので「占い」に関した雑学を披露した。
☆ルネッサンス期の教会はオカルトや占いを罪悪視していた。しかし実はローマ法王の戴冠式はこっそりと占星術で日取りを決めました!
と、言った所でいきなり婆さんが「占いを罪悪視した歴史なんて世界中探してもどこにもありません、あなた間違った事を平気で言って恥ずかしくないの?もっと勉強してきなさい!」と怒鳴りはじめたのだ。
そこで上田は「すっすいません」と平身低頭謝ってその場を切り抜けた。

でも実際に、歴史の中で占いなどが罪悪視され禁止されたってのは幾つもある。
ベトナムでは現在、原則として占いをはじめ、超能力、UFO、幽霊等、いわゆる非科学的な物は禁止されている。もっとも、実際には抑止力は働かず、人々は伝統的に占いなどを信じているらしいけど。
中国共産党は占いはギリギリセーフなのかもしれないけど、オカルトを始めとしてオバケなどの非現実的な事を信じる事を禁止している。そのため、中国人でも若い世代はキョンシーなどを知らないと言われている。
あくまでも「らしい」という人づての話ですが。

実は、日本でも「占い禁止」とされた時代があって、1938年生まれのその婆さんもリアルタイムで知っている戦時中に「占い禁止」は出ている。
1941年5月31日、内務省検閲課が出したおふれの中には「迷信暦発売禁止」という物がある。
いわゆる古くから慣習として伝わっている大安・仏滅・友引など六曜が書かれている「日の縁起」や、一白水星・二黒土星などの九星が書かれているカレンダーは発売しちゃいかん。そんな人々を惑わすような事が書かれているカレンダーはいかん!となったワケです。
これ以降は、神宮神部署が発行する「神宮暦」を標準としたカレンダーがすべての基準となって、運勢だとか相性だとかは一切許可せず!となってしまったワケです。
これは終戦の1945年8月まで続いているので、婆さんが7歳の時まで「日本で占いが禁止されていた」のだ。

何はともあれ、アノ手の番組が終わることでめでたいのだ。
(オカルトとか非科学的な物は別に否定しません。あくまでも娯楽、エンターテインメントとして楽しめるから。それに対して占いとかスピリチュアルとかを真剣にやっちゃう事に関しては怖いなぁと思っている)

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2008年2月28日 (木)

誤字ら 誤字ら 誤字ら が来るぞ♪

短期間に同様のネタで書きたいとは思わないけれど、あまりに目に余るので…。


相変わらずスパムメールが大量にやってくるんですが、今日来た物は開く前に「ダメだこりゃ」と思ってしまう物だった。
まず発信者名の所からメッセージになっていて、その名は「自身があります!」
さらに件名が「必ず!!保障します!」
この短い間に「!」を4つ使うっ